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― 植民地期「朝鮮文化財」研究の成立と言説空間の形成 ―

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(1)

博士学位論文(東京外国語大学)

Doctoral Thesis (Tokyo University of Foreign Studies)

氏 名 全 東園

学位の種類 博士(学術)

学位記番号 博甲第 229 号

学位授与の日付 2017 年 7 月 26 日

学位授与大学 東京外国語大学

博士学位論文題目 「韓国文化財」形成過程に関する史的考察

-植民地期「朝鮮文化財」研究の成立と言説空間の形成-

Name Jun DongWon

Name of Degree Doctor of Philosophy(Humanities) Degree Number Ko-no. 229

Date July 26, 2017

Grantor Tokyo University of Foreign Studies, JAPAN Title of Doctoral

Thesis

A Historical Study on the Formation Process of 'Korean Cultural Property' : Establishment of Research and Formation of the Discourse on the Colonial Period "Korean Cultural Property"

(2)

「韓国文化財」形成過程に関する史的考察

― 植民地期「朝鮮文化財」研究の成立と言説空間の形成 ―

全 東園

(ジョン

ドンウォン)

(3)

「韓国文化財」形成過程に関する史的考察

― 植民地期「朝鮮文化財」研究の成立と言説空間の形成 ―

(目次)

序論

(1)「韓国文化財史」の構築のために―課題の設定 1

(2) 先行研究の整理と課題の表示 6

1

章:近代日本「学知」の朝鮮侵出 11

1 東京帝国大学の海外学術調査と朝鮮半島 11

1.東京大学の設立と学術調査の開始(1877-1880) 11

2.東京大学の統一行政と学術調査の定着(1881-1885) 19

3.帝国大学時代における海外学術調査(1886-1896) 27

4.東京帝国大学初期の海外学術調査と「大韓帝国」(1897-1904) 33

5.韓国統監府設置後の変化(1905-1910) 42

2 八木奘三郎の「大韓帝国」調査 ―「朝鮮文化財」調査の開始 - 52

1.調査の背景 52

2.調査の内容 63

3.八木奘三郎の「韓国の美術」論(1900-1905) 69

1) 八木奘三郎の朝鮮認識 69

2) 八木奘三郎の「韓国の美術」 72

2

章:関野貞の「朝鮮文化財史」研究 78

1 関野貞の学問 的背景 78

1.帝国大学までの来歴 78

(4)

2.奈良時代の研究 84

3.東京帝国大学助教授への転勤 88

4.関野貞の「韓国」調査とその背景 89

2 関野貞による「朝鮮美術(史)」研究の内容 92

‐活字化された書物の分析を通して- 1.朝鮮調査の来歴 92

2.「 朝鮮美術(史)」研究の内容 94

3 . 関野貞の研究 方法論と「朝鮮美術史」の特徴 111

4. 関野貞の朝鮮(史)認識 121

1)「朝鮮史」の受容 122

2)「朝鮮美術史」における「時代区分」について 124

3 )「独立国」叙述について 133

4)その他の「朝鮮史観」 135

5. 建造物を頂点とする美術ジャンルのヒエラルキー(評価と指定) 139

3

章:植民地期朝鮮における「朝鮮文化財」言説空間

149

1 併合前、「朝鮮文化財」言説領域 149

1.「高麗磁器」をめぐる動き―李王家博物館の蒐集 150

2.東京帝国大学の「朝鮮文化財」調査 154

2 併合後、朝鮮総督府の行政空間における「朝鮮文化財」 157

1.寺院管理 157

2.森林課の調査と蒐集 161

3.「遺失物法」-警務局と各道長官 165

4.学務局の教科書編纂事業と史料調査 168

5.内務部の古蹟調査事業 171

4

章:植民地期朝鮮「博物館」という言説空間

185

(5)

1 植民地期朝鮮における博物館の記録-「李王家博物館」という言説空間 185

1.設立背景に関して相反する三つの記録 185

2.「李王家博物館」の組織と運営について 196

1)「李王家博物館」の職員 197

2)「李王家博物館」職員の言説 202

2 節「朝鮮文化財」言説空間の拡大-朝鮮総督府博物館の誕生 212

1.朝鮮物産共進会 213

1)開設背景 213

2)朝鮮物産共進会の概要 214

3)朝鮮物産共進会の成果について 216

2.朝鮮物産共進会における「朝鮮文化財」の蒐集 219

1)経緯 219

2)朝鮮物産共進会における「美術館」 220

3)「美術館」展示のための蒐集 221

4)その他の「朝鮮文化財」 224

3 朝鮮総督府博物館の経営主体と所蔵品に関する考察 227

1.朝鮮総督府博物館の経営主体に関して 227

1)管轄部署の変遷と博物館職員 227

2)博物館協議員とその活動 239

2.朝鮮総督府博物館の所蔵品について 250

結論 258

※参考文献 262

※付録 272

(6)

1

「韓国文化財」形成過程に関する史的考察

― 植民地期「朝鮮文化財」研究の成立と言説空間の形成 ―

序論

1)

「韓国文化財史」の構築のために-課題の設定

1962

1

10

日、韓国において「文化財保護法(全文

73

条)」が制定、公布された。こ れにより、韓国では初めて「文化財」という語彙が定義され、その概念が一般に普及する ようになった。この「文化財保護法」の起草が完了したのは、それより少し早い

1958

3

1、日本との国交正常化に向けた日韓会談(第

4

次)の最中のことであった。

1945

8

15

日、韓国は日本の植民地支配から解放された。その後、日本と韓国の国交 は断絶されたまま時間が流れた。敗戦国となった日本は、1951年

9

8

日のサンフランシ スコ講和条約により、国際社会への復帰を果たした。そして、同年同月の

25

日、「連合国 軍総司令部外交局長シーボルト(William J. Sebalt)は日本政府に対して、主として在日韓 国・朝鮮人の法的地位について韓国政府と協議するよう指示した」2。国交正常化に向けた 日韓会談の始まりである。

1952

2

15

日に始まった日韓会談は、1965年

6

22

日に「日本国と大韓民国との間 の基本関係にある条約」と四つの協定の調印にいたるまで続けられた。四協定とは、一般 に「請求権及び経済協力協定」、「漁業協定」、「在日韓国人と法的地位及び待遇に関する協 定」、「文化財及び文化協力に関する協定」の四つを指す3。この四つの協定を結ぶため、日 韓両国はそれぞれの専門委員会を設置することにした。そのうち、協定の締結に向けた専 門委員会の設置が最も遅かったのは「文化財及び文化協力に関する協定(以下、文化財協定 と表記)」であった。植民地期に日本人によって持ち去られた韓国「文化財」の返還交渉の ため、「文化財小委員会」が設置され、会議が始まったのは、第

4

次日韓会談のときの

1958

6

4

日のことであった4

韓国において、「文化財」という語が「正式に」使われるようになったのは、このときか らである。1957年

12

31

日、第

4

次日韓会談の直前に開かれた予備交渉の『会議録』に

1 「20人以内保存委を設置『文化財保護法』成案」『東亜日報』1958327日付。

2 高崎宗司『検証日韓会談』岩波新書、1996年、p.23。

3 それぞれの正式協定名称は、「財産権及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する大韓民国との間の協定」

「日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定」、「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国 と大韓民国との間の協定」、「文化財及び文化協定に関する日本国と大韓民国との間の協定」である。

4 (韓国側公開文書)「第4次日韓会談文化財小委員会会議録及び文化財返還交渉」1958年。

(7)

2

は、「国宝・美術品の返還」という項目がたてられてはいたが、「文化財」という語はまだ 使われていなかった。翌年の本会議で「文化財小委員会」という正式名の委員会が設置さ れたことを受け、「国宝・美術品の返還」項目も「被奪文化財」という項目に変わっている。

英文の『会談録』には「cultural properties」と表記されているが、それが韓国側の文書 では「文化財」と訳されていたのである。これは、日本側の訳語をそのまま「転用」した ものと思われる。

日本では、それより先の

1950

8

月に「文化財保護法」が制定され、「文化財」という 語はすでに一般社会に普及していた。また、「文化財」という語とともに、「文化財」の保 護に関する法律も、日韓会談の文化財小委員会会議に臨む韓国側の委員に伝わっていたは ずである。1958年

3

月に成案されたとする上記の韓国での「文化財保護法」の制定には、

日韓会談に関わった委員たちが保存委員として参加しているからである。

こうして韓国でも、日本と同様「文化財」という単語が一般に使われるようになったの である。しかし、上述の経緯から分かるように、「文化財」そのものの歴史と概念には、日 韓両国の間に大きな隔たりが存在する。日本の「文化財保護法」は法隆寺金堂壁画の火災 を機に、既存の「国宝」や「宝物」、「重要美術品」などの保存及び保護の策を講じるため 作られたが、韓国における「文化財保護法」は「被奪」、つまり植民地期に「略奪」された

「国宝・美術品」を取り戻すための日韓会談を機に、作られたのである。すなわち、両国 で使われる「文化財」という概念の持つ意味は、似て非なるものなのである。

「文化財」という語は日本で作られた造語であるが、日本では戦前からの経緯があった。

「文化財」という語そのものは大正期に訳語として登場した模様である5。また一方では、

明治期から使われていた「古物」と「宝物」の概念に、近代の「国家」と「美術」の概念 が結合し「国宝」となる経緯もあったという6。戦後、その「国宝」概念が、法隆寺の火災 を機に、戦前から存在していた「文化財」概念へ統合されたというわけである。だが、日 本の「文化財保護法」は占領国軍総司令部(GHQ)のもとで成立したため、「文化財」の概 念から戦前の「国宝」に含まれている「国家」イデオロギーは極力排除され、文化財は国 家ではなく国民のものとして示されるようになったという7。佐藤道信(2002)もいうように、

そもそも「文化財」には個別性や固有性という前提がすりこまれているものだが8、戦後日 本の「文化財」概念からは公式に「国家」イデオロギーが消されることとなったのである。

5 鈴木良「文化財の誕生」『歴史評論』第555号、1996年。

6 佐藤道信「『文化財』の理念的背景 何を守り、なおすのか」『美術フォーラム』vol.206、20026月、pp.47-50。

7 同上、佐藤「『文化財』の理念的背景 何を守り、なおすのか」、p.48。

8 同上、佐藤「『文化財』の理念的背景 何を守り、なおすのか」、p.48。

(8)

3

一方、韓国の場合、「文化財保護法」制定以前、つまり、植民地期に日本人によって持ち 去られた「国宝・美術品」を取り戻すための返還交渉の場を発端として「文化財」という 語が頻繁に使われるようになっていった。韓国で使われる「文化財」の概念には、日本と は正反対に「略奪された我国家 」の、必ず「取り戻さなければならない我国家 のもの」

としての猛烈な「国家」イデオロギーが付着してしまったのである。

その後、韓国「文化財」に関する研究レベルにおいても、『日帝期文化財被害資料』(黄寿 永、『考古美術資料』第

22

輯、1973年)や『日帝の韓国文化財破壊と略奪』(李亀列『韓国 独立運動史研究』11、1997 年)などの代表的な論考が示すように、「日帝」により「略奪さ れた」、「盗掘された」、「元の場所からはなされた」などといった「韓国文化財」の「悲運」

の歴史が多く書かれるようになった。韓国における「文化財史」研究においては、植民地 期に略奪された「我が国家の文化財」被害状況を描き出すことと、そのシステムを作り上 げた日本帝国主義/植民地主義を批判的に考察することの、二大課題の解明に問題意識が集 中されることになったのである。こうした研究の蓄積により、「韓国文化財」には常に日本 植民地時代の残影が付きまとうことになり、そこにさらなる強力な国家イデオロギーが育 まれることとなったのである。

それでは、韓国における「文化財」以前の文化財をめぐる状況はどのようなものだったの であろうか。本稿の課題設定はここから出発する。管見の限り、韓国において「文化財」

を冠する通史的な研究書は存在しない。上記の「悲運」の韓国文化財を含む個々の文化財 そのものに関する歴史研究はあるが、日本のように「文化財」に関する多様な歴史研究9に は、まだ昇華されていないのである。遠大な課題設定ではあるが、韓国で「文化財」とい う語が使用される前の「文化財」に関する歴史を概観しようとすることから、本研究は始 まったのである。

日本と同様、韓国においても、「文化財」たりうる「モノ」は昔から存在していた。その

「モノ」に「歴史的」価値が与えられ、また「芸術的」価値が与えられたのは、近代に入 ってからのことである。韓国の近代は西洋列強の侵出から始まり、日本の植民地下におい て進んできた。「悲運」にも、朝鮮半島に存在する「モノ」に「歴史的」・「芸術的」価値を 与えたのは、韓国人ではなく、植民地期朝鮮を調査した日本人たちであった。

遡って、日本の近代においては、日本の「モノ」に対する「歴史的」・「芸術的」価値を 与える作業が進められていた。西欧近代の学知の導入により、既存の「モノ」に近代のま なざしを投影させ、「古器旧物」を生み出し、「美術」を生み出し、さらには「宝物」と「重

9 例えば、『文化財保護法五十年史』(文化庁、2001年)を含め、各地域の文化財史など。

(9)

4

要美術品」と「国宝」をも生み出したのである。

また、日本の近代においては、「文化財」をめぐる保存策が講じられ、政府レベルでの制 度的装置が作られ、それらに関連する各種機関や団体が作られた。多くの研究者が現れ、

数多くの「文化財」が次々とその個別領域を固めていった。江戸時代以来の古物、すなわ ち、趣味の対象だった陶磁器や絵画などにはじまり、近代の考古学的遺物から彫刻、建築、

遺蹟、古墳にいたるまで、「文化財」の領域は拡大されつつあったのである。近代日本の「文 化財」領域では、「芸術」作品や発見物、建築物などの「モノ」に対しても、各種の法律や 教育や団体などの「制度」に対しても、そして、それらを調査し、研究し、評価する「人 物」に対しても、みなそれぞれの専門領域が形成され、またそれぞれの歴史研究が進めら れてきた。

植民地朝鮮においても、上記のような「文化財」領域は存在した。しかし、韓国の「文 化財史」研究が進められていない今日において、それらの全てを本稿で取り扱うことは到 底不可能なことである。そこで、本稿における研究目的を挙げると、まず一つ目は植民地 期を貫いて作り上げられた多種多様の「朝鮮文化財」の形成過程を時期別に分け検討し、

そこから付着された「朝鮮文化財」の価値、つまり「歴史的」・「芸術的」価値をめぐる動 向を明らかにしようとすることである。要するに、本稿で論じようする問題は、個々の「文 化財」に関してというよりも、戦後に強力なナショナリズムが付きまとうこととなる「韓 国文化財」がどのように形成され、また、どのような価値概念が付されていたかというこ とにある。

そのため、朝鮮半島に近代の概念を持つ「文化財」が形成され始める時期から、1945 年 の時期までの通史的アプローチを取り、時期ごとに「朝鮮文化財」に関する多様な動きや 言説などを対象に検討する。ある特定の時点やある特定の人物による、特定の「朝鮮文化 財」だけではなく、韓国近代の初期から

1945

年までの「朝鮮文化財」につけられた「評価」

の全体像の考察を通じて、戦後の「韓国文化財」についているナショナリズムの歴史的特 徴を浮かび上がらせようとつとめた。

戦後(解放後)から猛烈な国家イデオロギーを発信する「韓国文化財」の史的考察を、戦 前の植民地期から一貫する視点に立ち試みる論考は、管見の限りない。植民地期の「朝鮮 文化財」に関する研究領域としては、主に「朝鮮総督府博物館」と朝鮮総督府の「古蹟調 査事業」を取り扱う論考が中心となっており、それも大部分は帝国主義/植民地主義の批判 や「文化財」の略奪に収斂されている。植民地期の「朝鮮文化財」関連分野は植民支配者 たる「日本人」に独占されていたため、朝鮮史(韓国史)からみて限界があるのも確かであ

(10)

5

る。韓国において、植民地期「文化財」の歴史は人「不在」の「モノ」や「制度」を中心 に描くしかないからである。そこに「韓国文化財史」が持つ植民地的特徴が潜んでいるの である。

上記の価値「評価」の形成と関連して、全植民地期を通しての「韓国文化財史」を完成 するためには、植民地期の朝鮮において、「朝鮮文化財」を調査し、蒐集し、研究し、評価 した人々を研究対象とする必要がある。そこに、本稿の目指す二つ目の研究目的が浮かび 上がるのである。それは植民地期の「朝鮮文化財」の調査及び研究活動を通じて、その概 念を作り、その価値評価をくだした「日本人」の存在を明らかにすることである。この場 合、単に日本人の名前を列挙するばかりでなく、彼らの「朝鮮文化財」研究が持つ伏線に も考察の領域を広げなければならない。

日本近代の「文化財史」を語るときにも、数多くの関連人物が登場する。例えば、「博物 館」を語るときには町田久成や九鬼隆一などが、美術史を語るときにはフェノロサや岡倉 覚三などが、考古学を語るときにはエドワードモースや濱田耕作などが、建築史の場合に は伊藤忠太や関野貞などが、それぞれの日本近代の「文化財」形成期に、それぞれの分野 における歴史的経緯の中で活躍した人物として、位置づけられているのである。「文化財」

そのものを、例えば、彫刻、絵画、陶磁器などの工芸品などに細分化していくと、各領域 ごとに大勢の人々が関連人物として浮上してくるのである。

しかしながら、植民地期朝鮮においては、各「文化財」関連分野で活躍した「人物像」

は出てこない。上述したように、植民地期朝鮮の「文化財」と関係する人物は、「すべて」

日本人なのである。「韓国文化財史」に登場する日本人たちは、畢竟、「日本帝国」を代表 する者として、「帝国主義者/植民主義者」の代表として、個性が埋没されたままの「日本 人」として描かれている。そこには彼らの専門性も個人としての研究背景も存在しない。

彼らが行った行為は、すべて「日本(帝国)」が行った行為として収斂していくのである。

植民地期の「朝鮮文化財」をめぐる歴史的現状を把握し、歴史的研究を豊かにするために は、こうした多数の日本人を「日本(帝国)」の代表者としてのみ取り扱うのではなく、一 人一人の個人としての「人物像」を浮上させ、彼らが行った「朝鮮文化財」をめぐる行為 の実相を明らかにする必要があるのである。

この研究目的を達成するためには、朝鮮史(韓国史)の分野だけでなく、日本史の分野に まで視野を広げなければならない。植民地朝鮮で「朝鮮文化財」と関連して活躍した日本 人の多くは、日本の「文化財」をめぐる状況の延長線上において、朝鮮文化財の研究を推 し進め、評価する作業をしていた。つまり、彼らは日本社会に広まった「文化財」概念を

(11)

6

用い、またその研究方法、さらにそのまなざしを通して、「朝鮮文化財」と関わっていたの である。かつて、李成市は、日本の歴史学者黒板勝美と朝鮮古蹟調査事業との関連性に注 目した有益な論考を発表した10。これは、黒板の日本における活動と連動させた植民地朝鮮 の「文化財史」に関する研究だといえる。注目すべきは、この研究によって、「日本近代史」

との連動なしには、植民地朝鮮の「文化財史」の円熟は困難であることが示されたことで ある。「朝鮮文化財」に関わったほとんどが日本人である以上、「朝鮮文化財史」研究は朝 鮮史(韓国史)を超え、日本史との連携のうえで考察されなければならないのである。本稿 においては、「朝鮮文化財」とかかわる主要人物(日本人)について、可能な限り一人一人の 人物像を浮き彫りにしたうえで、その研究を取り巻く日本の「歴史的」状況も考察対象に 入れることにする。

最後に、本稿で使う表記について附しておく。今日の「文化財」には、「有形文化財」「無 形文化財」「埋蔵文化財」「民俗文化財」「史跡名勝天然記念物」などの分野から成っている 包括的な概念である。しかし、植民地期においては、「文化財」という語は存在せず、主に

「美術品」と「古蹟及び遺物」という語がつかわれていた。主に今日の「有形文化財」に 該当するものである。当時使われている用語やそれ自体の概念に関しては、日本のそれと の比較を通じて検討する必要があるが、今日の意味において「文化財」の範疇に入る「美 術品」、「古建築」、「古蹟」、「遺物」などの全ての語について、本稿では「文化財」として 扱うことにする。また、植民地期の「文化財」を指す場合は、今日の「韓国文化財」との 区分をするため、「朝鮮文化財」という語を使うことにする。

さらに、当時「美術史」というタイトルで書かれている著作物も、まだ「美術」という概 念が包括的に使われていた時期であるため、今日の「文化財史」に該当するものである。

今日の「美術史」といえば、主に絵画や彫刻などを中心に、その作品や作家にまで取り扱 う場合が多いが、当時の「美術史」という著作には、古墳とそこから出土するものを扱う 考古学史や、古建築物を扱う建築史などに関する記述も相当含まれているのである。その ため、植民地期朝鮮における「美術史」なる書物を引用する場合でも、本稿では「文化財 史」の著作として扱うことにする。

2)先行研究の整理と課題の表示

本稿で掲げた「朝鮮文化財史」の全体像が流れる通史的研究はまだない。だが、それぞれ

10 李成市「コロニアリズムと近代歴史学‐植民地統治下の朝鮮史編修と古蹟調査を中心に」『植民地主義と歴史学‐そ のまなざしが残したもの』刀水書房、2004年。

(12)

7

の分野別・個別的なテーマに関連する先行研究は存在する。以下では、それらの先行研究 を整理しながら、本稿の目指す研究の方向性を確かめる。

植民地期「朝鮮文化財史」と関連する先行研究は、大別して三つに分けることができる。

第一に、「略奪された/盗掘された文化財」に関する事例研究が挙げられる。植民地期の「文 化財」に関して、いち早く開始された分野であり、現在までもずっと研究が進められ、相 当の研究の蓄積が積み重なっている分野である。代表的な研究者としては、黄寿永と李弘 稙、李亀列が挙げられる。黄寿永は、日韓会談における文化財小委員会の韓国側の委員と

して参加し、いち早く植民地期の文化財の被害状況に目を向けた人である。彼は植民地期 の関連資料を一々検討しながら『日帝期文化財被害資料』

(考古美術資料第 22

集、

1973

年) なる膨大な資料集を完成させた。この資料集は、この分野の研究を目指す研究者にとって

「一次資料」としての役割を果たしている。黄寿永と同じく日韓会談の委員として参加し た李弘稙は「在日韓国文化財備忘録―最近半世紀間において―」(『史学研究』18集、韓国 史学会、

1964

年)という論文を発表し、日本人によって持ち出された韓国文化財の日本内所 蔵先を探し、そこに所蔵されている韓国文化財を記した。また李亀烈は『韓国文化財秘話』

(ドルベゲ、1973

年)を通じて、朝鮮半島における日本人の「朝鮮文化財」略奪と盗掘の逸

話を蒐集し、紹介した11。李弘稙と李亀烈の研究は、この種の研究の原型を為し、日本内に 存在する韓国文化財を追いかける研究と、文化財を持ち去る日本人の「野蛮な」行為を批 判する研究の模範となった。

第二に、朝鮮総督府の古蹟調査事業に関する批判的研究がある。古蹟調査と関連する研 究は、植民地期「文化財史」関係の研究の中で最も広い範囲で研究が進められている分野 でもあり、日本と韓国の研究者がそれぞれの研究領域を開拓してきた分野でもある。

まず、代表的なものとしては、西川宏の「日本帝国主義下における朝鮮考古学の形成」『朝

(

鮮史研究会論文集』第

7

号、

1970

6

月)を挙げることができる。西川は朝鮮総督府の古蹟 調査事業に参加した学者たちの活動に注目し、彼らの調査活動は「官学アカデミーの侵出」

であると規定した。戦後も継続する「露骨な帝国主義史観」を徹底的に批判しながら、日 本の「官学学者」が朝鮮総督府の古蹟調査事業と密着し、日本帝国の植民地政策に大いに 貢献したと指摘した。その後、西川の論考は、とくに韓国の研究者たちを刺激し、古蹟調

11 本書は日本語版にも訳されている(李亀烈著、南永昌訳『失われた朝鮮文化―日本侵略下の韓国文化財秘話』新泉社、

1993年)。

(13)

8

査事業だけではなく、植民地期の「朝鮮文化財史」全般に関する研究にも帝国主義/植民主 義の批判のフレイムを提供した。同じ脈絡で、崔錫栄(1997)は古蹟調査を日帝の同化政策 との関連付けて論じ、イスンザ(2007)は植民地期の

1

次資料の整理を通じて、古蹟調査事 業全般にわたる「植民地性」を再確認した12

日本の研究者のものとしては、朝鮮半島における「考古学調査」そのものに関する「客 観的」実態と、古蹟調査に参加した「日本人学者」個人の研究成果を明らかにしようとす る論考が出ている。京都木曜クラブが出す研究雑誌『考古学史研究』は、第

6

号(1996)か ら第

10

号(2003)まで、朝鮮古蹟調査事業の特集号を組んで、日本人考古学者による朝鮮調 査の「客観的」実態解明を行っている13。朝鮮古蹟調査事業に参加した学者の中では、とく に関野貞に関する研究が目立つ。東京大学の建築学と考古学の研究者が協力し合い、上記 の京都木曜クラブの会員が加わって完成した『関野貞アジア踏査』

(藤井惠介・早乙女雅博・

角田真弓ほか編、東京大学出版会、2005年)は、関野が活躍した日本・中国・韓国のフィー ルドごとの研究業績を集大成して完成させた。とくに朝鮮古蹟調査事業との関係では関野 貞が韓国からもたらした豊富な原資料をもとに、実証的な研究がなされている。

第三には、植民地期朝鮮の博物館に関する研究成果を挙げることができる。植民地期博 物館については、1990 年代後半から徐々に研究の底辺が拡大されているが、まだ研究の蓄 積が浅い分野でもある。注目すべき論考としては、全京秀「韓国博物館史における表象の 政治人類学-植民地主義、民族主義、そして展望としてのグローバリズム―」(『国立民族 学博物館研究報告』24‐2、国立民族学博物館、1998 年)、宋起炯「昌慶宮博物館または李 王家博物館の年代記」(『歴史教育』72、1999 年)、睦秀炫「日帝下李王家博物館の植民地 的性格」(『美術史研究』227、韓国美術史研究会、2000年)、李成市「朝鮮王朝の象徴空間 と博物館」(宮嶋博史編『植民地近代の視座:朝鮮と日本』岩波書店、2004 年)が挙げられ る。ことに全は「植民地時代には民族を支配するために、独立以降は民族とその政府にと って、古くからの由来や文化的価値、そして政治的正統性を提示することで、博物館は少

12 崔錫栄「日帝支配期の古蹟調査と植民政策」『日帝の同化イデオロギー創出』西京文化社、1997。イスンザ『日帝強 占期古蹟調査研究』景仁文化社、2009年。

13 その主な論考は以下のとおりである。高正龍「八木奘三郎の韓国調査」『考古学史研究』第6号、京都木曜クラブ、

1996年。食野公子「朝鮮半島への考古学的関心:考古学会機関紙上にみる」『考古学史研究』第7号、1997年。内田好 昭「『韓国建築調査報告』を読む」『考古学史研究』第8号、1998年。内田好昭「日本統治下の朝鮮半島における考古学 的発掘調査」『考古学史研究』第9号、2001年。山本雅和「文化表徴としての古墳―建築学者関野貞の古墳調査」(同第 9号)。伊藤純「李王家博物館開設前後の状況と初期の活動」(同第9号)。高橋潔「関野貞を中心として朝鮮古蹟調査行 程」(同第9号)。内田好昭「朝鮮古蹟調査と撮影された発掘用具」『考古学史研究』第10号、2003年。広瀬繁明「初期 の朝鮮建築・古蹟調査とその後の文化財保護」(同第10号)。高橋潔「朝鮮古蹟調査における小場恒吉」(同第10号)、

「有光氏インタービュー:私と朝鮮古蹟調査研究」(同第10号)。

(14)

9

なくとも植民地主義的利益と民族主義的利益のために尽くしてきたのである」と述べ、韓 国博物館の歴史的経験が持っている矛盾を明らかにした。また、李は植民地期朝鮮の博物 館が朝鮮王室の空間(宮廷)に建てられたことをうけ、「朝鮮に先立ち、日本においても徳川 旧体制の聖なる空間に、博物館と動植物園が設立されていたのであり、それが統監府設置 以来、朝鮮の地にも反復されていたことになる。とすれば、いまいちど近代日本の施策の 一環として、朝鮮における博物館設置の歴史的な意味が問われなくてはなるまい」と、日 本との関係性の中で植民地博物館の持つ意味を論じた。

その他の研究には、制度史的側面から考察した呉世卓「植民地朝鮮に対する日帝の文化 財政策―その制度的側面を中心にして―」(椎名慎太郎訳『考古学研究』45-1、1998 年

6

月)や、朝鮮の文化財を研究した日本「官学者」に対する研究が全く進んでないことを指摘 し、さらに彼らの「史観」などについても十分検討の余地があると提起した趙善美14の研究 も注目に値する。

以上に挙げた先行研究を踏まえて、本論においては、既存の研究が踏み入れなかった部 分を中心に、以下の課題への接近方法を以て進みたい。第一に、近代「学知」の進出過程 の解明である。「文化財」という近代の専門的「学知」なしでの研究が困難な分野において、

どのように日本人学者が朝鮮に入り、調査することができたのだろうか。まず本論におい ては、この点を考慮し、「朝鮮文化財」調査の黎明期に登場する先駆的な二人、考古学者八 木奘三郎と建築学者関野貞が朝鮮半島の調査に乗り出す経緯について考察する。この二人 が、同じく東京帝国大学からの調査命令を受けて朝鮮へと渡ったところに注目し、当時、

日本の最高学府であった東京帝国大学において、どのような朝鮮調査が行われていたのか、

その中で、八木と関野の調査がどのような歴史的意味を持つのか、近代の「学知」移動の 点に注目しながら考察する。

第二に、八木奘三郎と関野貞の朝鮮研究に関する問題である。八木と関野の「朝鮮文化 財」調査について、その調査経路や調査対象物に関する研究はなされているが、彼らが刊 行した論文を分析した研究はない。彼らの調査した「朝鮮文化財」はどのような特徴を持 っており、また、彼らが描いた朝鮮文化財史にはどのような特色と史観が含まれているの だろうか。その後の植民地期を通じて作られる、文化財評価基準といわゆる「植民地史観」

とはどのような差異があるのだろうか、などといった問題を考察する。

14 趙善美「日帝治下日本官学者の韓国美術史学研究について」『美術史学』3、19893月。

(15)

10

第三に、既存の研究においては、「朝鮮文化財」の発掘及び調査には朝鮮人は参加できず、

そのすべてが朝鮮総督府の管理下で行われていたことが明らかにされている。では、朝鮮 総督府内部の行政組織において、実際にはどのようなシステムが構築されていたのか。ま た、どのような職員たちが文化財行政に参加していたのか。朝鮮総督府が、朝鮮文化財関 連事業にどれほどの力を入れ、また何のための文化財行政だったのかを検証する。

また、植民地期に作られた博物館も、日本のように「館長」などを置く独立組織ではな く、朝鮮総督府の行政機関の中に位置づけられ、管理されていた。では、博物館担当の職 員はどのような人々だったのだろうか。当時の『職員録』などを利用して、博物館運営に かかわった人物について考証し、また彼らの博物館事務に関する事項をも検証する。さら に、博物館に所蔵されている「文化財」を分類し、所蔵品からみる博物館の特徴を浮き彫 りにする。個別的な先行研究の穴を埋めながら、可能な限り、植民地期の「朝鮮文化財」

史の形成過程を描き出したい。その歴史を動かしている「人」に注目し、そこに深くかか わった「日本人」と彼らの活動の具体相を明らかにする。そのうえで、最終的に、朝鮮総 督府の「文化財」に関する行政の解明を通して歴史的に評価し得る判断材料を提示したい。

(16)

11

第 1 章: 近代日本「学知」の朝鮮侵出

1

節 東京帝国大学の海外学術調査と朝鮮半島

1.東京大学の設立と学術調査の開始(1877-1880)

韓国近代の「文化財史」を語るとき、とくにその草創期において必ず言及しておかなけ ればならない人物が二人いる。日本人の八木奘三郎と関野貞である。

日本近代の「文化財史」における、アメリカ人のエドワード・エス・モース

(Edward S.

Morse)とアーネスト・エフ・フェノロサ(Ernest F. Fenollosa)を思い出せば良いだろう。

1877

年に来日したモースは、大森貝塚の発見や古墳の発掘調査などを行い、日本に近代学 問としての「考古学」を植え付けた人物であり、翌年の

1878

年、モースより

1

年遅れて来 日したフェノロサは「日本美術」に興味を持ち、岡倉天心に影響を与え、ともに「日本美 術」研究の先駆者となった人物である。この二人は西洋近代の学問たる「動物学」と「哲 学」という、それぞれ違った分野における教育のため、東京大学に雇われたが、ともに日 本の「文化財史」に名を刻むことになったのである。日本での近代学問の開幕を告げる時 期であった。

それから凡そ

20

年の後、東京大学において西欧の学問的洗礼を受けた八木奘三郎と関野 貞は、朝鮮半島の調査に乗り出すことになった。朝鮮の「考古学」と「美術」研究のため であった。こうして、モースとフェノロサと同様、八木と関野も韓国の「文化財史」に先 駆者として記録されることになった。近代学問の出発という面において、両者は共通する が、その調査過程や研究の性格においては大いに異なる。八木と関野の「朝鮮研究」その ものに対しては次節から詳しく検討することにし、ここでは、まず彼らが、どのように朝 鮮半島の文化財調査に乗り出すことになったのかという背景から考察することにする。

朝鮮の「文化財」調査のため、八木奘三郎は東京帝国大学理科大学「人類学教室」から、

関野貞は東京帝国大学工科大学「建築学科」から、それぞれ派遣された。前者が

1900

年で あり、後者が

1902

年のときである。日露戦争を前にしていた時期でもあり、日本「帝国」

の朝鮮侵出が露骨に表れる時期であった。そのため、既存の研究においては、八木と関野 の朝鮮派遣の背景に関して、ひたすら日本(明治政府)の「武力的な」朝鮮侵略過程と結び ついて論じられるケースが多かった。だが、日本の朝鮮侵出は「武力的」な手段にだけ頼 ったわけではない。近代東アジアにおける帝国主義の「批判的」論考を完成するためにも、

(17)

12

様々な方向から日本の朝鮮侵出過程を明らかにする必要があるのである。

そこで、本稿においては、八木と関野を派遣した「東京大学」に焦点を当て、彼らの持 つ近代「学知」がどのように朝鮮半島へと侵出していったのかを検証することを目的にす る。八木と関野の朝鮮調査を、東京大学による近代「学知」の侵出と位置づけることで、

韓国の「文化財史」における時代の真相に、もう少し迫ることを期待する。本稿では、「東 京大学」の設立過程と設立目的を確認した上で、モースなどから始まる学術調査の流れが、

日本国内に止まらず、外国にまで進出していく過程を概観する。そのうち、朝鮮半島には どれほどの学術調査が実施されたのかを確認し、八木と関野の「朝鮮文化財」調査が持つ 歴史的意義を考えることにする。

ここで扱う主な資料としては、東京大学の設立から帝国大学の時代までは『東京大学年 報』を利用し、東京帝国大学時代からは公文書館に所蔵されている『公文書』を取り扱っ た。また、本稿においては東京帝国大学による朝鮮半島の学術調査を追うことが主な目的 であるため、日本国内や他の海外の学術調査に関しては概観するにとどめた。

明治新政府の文部省が幕末以来の洋学教育機関であった東京開城学校と東京医学校を統 合して「東京大学」としたのは

1877

4

12

日のことである。東京大学は元東京開成学 校から設置された法学部・理学部・文学部と、元東京医学校からの医学部と合わせて四学 部の学部制をとっていた。ところが、この時期の東京大学は、後ほど言われるように、日 本を代表する官立大学からも統一された体制を備えた総合大学からも程遠い存在であった。

二つの洋学教育機関を合併したものの、東京大学は依然として二つの組織で成り立って いた。東京大学になってからも、法・理・文学部の三学部と医学部には別々の綜理(学長) が任命され、また校舎も違う場所に置かれていたのである。三学部は東京開成学校の時の 神田一ツ橋の校舎を使っており、医学部は前年(1876)本郷に移ったばかりである。ちなみ に、法・理・文学部の三学部綜理には加藤弘之が、医学部綜理には池田謙斎が当たってい た。

また、文部省が二つの洋学校を統合し東京大学を設立した頃には、のちに東京大学と合 併される司法省の法学校(1885年合併)、工部省の工部大学校(1886年合併)、農商務省の駒 場農学校(1890 年合併)が別々に存続していた。まだ東京大学は国を代表する最高教育機関 であるどころか、他の官庁の大学校よりも知名度の低い文部省の大学に過ぎなかったとい えるのである。明治前期、近代的諸制度が容易に変わる時代に東京大学も生まれ、また諸

(18)

13

制度の試行錯誤の繰り返しの中で少しずつ国を代表する総合官立大学として成長していく ことになるのである。このように、東京大学の設立の際には、「一つの総合大学として積極 的な理念のもとに創設する、という志向はほとんど窺うことはできない」1とされているよ うに、その設立意図や目的、そして方向性すら明確に持たないままスタートしたのである。

東京大学が制度や理念を明確に示せなかった時期は、日本社会が西欧文物の輸入に積極 的だった明治前期と重なる。東京大学も西洋の近代的な学問を受け入れることに積極的で あった。たとえば、開成学校と医学校の目的は西洋の学問を学ぶところにあり、そのため、

西欧の優れた学者を招いて日本の学生に教授させることが重要視されていたのである。そ の認識は東京大学になってからも引き継がれ、設立当時の教授陣をみると相変わらず多く の外国人教授が占めていた(表

1)。

(表

1)明治十一年東京大学所属の教授(名)

2

法学部 理学部 文学部 医学部

外国人教授 2 12 2 11 27

日本人教授 1 3 1 6 11

3 15 3 17 38

上記の(表

1)をみれば、法学部、文学部、医学部において外国人教授は日本人教授の 2

倍 になっており、理学部の場合は

4

倍にまでのぼっていることがわかる。1877年の東京大学 設立当時においては、幕末・明治初期にかけ欧米へ留学に出かけた「日本人」が戻り、大 学の教授に就く者も増えてはいるが、依然として大学の教育は、外国人お雇い教授らにゆ だねられていたのである3。だが、幕末から続いていた近代教育の場は、外国人の手から日 本人の手へと着実に移りつつあった。

この時期から、東京大学の記録物には「学術調査」という項目が見えてくる。学術調査 の主体は、主に上記の外国人及び日本人の教授らに任せていたが、ときには助教、准教授、

教場助手などといった肩書の人々にも、学術調査の命令が下されている。

1 東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』通史一、1984年、p415。

2 「明治十一年文部省所轄学校雇外国人」『文部省第五年報』1冊(1965年復刻版)、『東京大学法理文学第六年報』、『東 京大学医学部第五年報』より作成。法理文学部は8月末現在、医学部は11月末現在の数字である。

3 ちなみに、法・理・文学部の日本人教授は、法学部の井上良一、文学部の外山正一、理学部の菊地大鹿、矢田部良吉、

今井厳の5人である。

(19)

14

ところが、上述したように、この時期の東京大学は二つの組織に分かれて成り立ってい た。そのため、東京大学の記録物たる「年報」も、『東京大学医学部年報』と『東京大学法 理文学部年報』が別々に出されている。医学部から出された『東京大学医学部年報』には、

学術調査に関する項目が見当たらない。学問そのものの性格とも関係があると思われるが、

ともかく、ここからは学術調査の項目がみえる法・理・文学部の「年報」から、東京大学 における学術調査の様子をうかがうことにする。

東京大学設立の翌年の

1878

年に出された『東京大学法理文学部第六年報』の中には、「内 外教授学術研究ノ為メ巡行ノ件」という小題目の記事があり、この記事の冒頭には「本学 年中教授及生徒ヲ各地方ニ派遣シ実地ノ研修ヲ為サシムルモノ数回」4と記されている。学 術調査は、東京大学の設立直後から実施されていたことがわかる。1978 年段階における学 術調査の主体は「内外教授」であり、その内容は「学術研究ノ爲」に「各地方ニ派遣」す ることになっている。「実施ノ研修」を目的にした生徒の派遣も行われることになった。

ところが、この学術調査の内容は、早くも翌年の

1879

年から変化がみられる。『東京大 学法理文学部第七年報』には、前年の「内外教授 学術研究ノ為メ巡行ノ件」と題された項 目が、「学術実地 研究ノ為メ内外教員 及生徒ヲ各地方ヘ派遣ノ件」へと変わっているのであ る。つまり、学術調査の参加者が「内外教授」から「内外教員」へと教員全体に広まり、

その目的も「学術研究」から「学術実地研究」へと変わっていたのである。

当初は「内外教授」のみの「学術研究ノ爲」に施された学術調査が、「内外教員」へと拡 大されたことには、学術調査の施行主体が一部の「教授」から「東京大学」へと変わった ことを意味する。それまで教授ら自らの意向に基づいた発意により、教授らの「学術研究 ノ爲」に施行された学術調査が、機関たる「東京大学」の意図に基づく調査ができるよう に、制度的な変化が起きたのである。そして、『年報』には、学術調査の内容においても「本 学年中内外教員及生徒ヲ各地方ニ派遣シ動物、植物学見本ノ採集並ニ実地ノ研究ヲ為サシ ムルコト数回」5と、前年より具体的な調査内容が記されるようになった。

このように、東京大学設立の

2

年目にして、学術調査の主役が個人としての「教授」か ら機関としての「東京大学」へと変わったことと、その調査内容が具体的に「動物、植物 学見本の採集」に絞られた背景には、前年、理学部の動物学科の教授に赴任したモースの

4 『東京大学法理文学部第六年報』自明治十年九月同明治十一年八月(『東京大学年報』第一巻、東京大学出版会、1993 年、p85)。

5 『東京大学法理文学部第七年報』自明治十一年九月同明治十一二年八月(『東京大学年報』第一巻、東京大学出版会、

1993年、p115)。

(20)

15

活躍と深い関係がある。「腕足類の研究の為」来日したモースが、1877年

6

19

日、横浜 から東京へ向かう車窓から縄文時代の大森貝塚を発見した話はよく知られている。

モースが実際の実地調査に乗り出したのは約

3

か月後、つまり東京大学の理学部動物学 教授に就任後の

9

16

日のことである。この日、動物学助手松村任三(のち東京帝国大学 理学部教授)と生徒

2

名を連れて現地の調査に取り掛かったモースは、「我々は手で掘って、

ころがり出した碎岩を檢査し、そして珍奇な形の陶器を澤山と、細工した骨片を三個と、

不思議な焼いた粘土の小牌一枚とを採集」6したと、その調査の様子を記録した。この日は 小さい箱を二つだけ携帯して行われた一種の予備調査であり、本格的な発掘調査は

10

9

日から

1

ヶ月間の時間が費やされることになる。その時の様子を、東京大学の『年報』は 次のように伝えている。

「十年十一月ヲ以テ是ヨリ先キ教授モールス氏カ武蔵國荏原郡大井村ニ於テ発見スル 所ノ介墟ニ生物学生徒ヲ遣シ該内ニ埋没セル古土器ヲ発掘セシム既ニシテ該器ノ完形、

碎片、數百ヲ得タリ之レカ為其介墟ノ地主ニ金五拾圓ヲ償フ蓋シモールス氏ノ説ニ據レ ハ該器ハ日本有史前ニ生存セシ土人ノ製造ニ係ルト云フ(但一説ニアイノノ製造ナルヘ シト云フ)實ニ希世ノ古物ニシテ最モ本邦ノ史學ニ關係アル者ト為スヘシ仍テ同十二月 文部省該器數種ヲ天覧ニ供ス」7

モースの発見は「實ニ希世ノ古物ニシテ最モ本邦ノ史學ニ關係アル者ト為ス」べきこと として位置づけられ、同年

12

月には明治天皇にまで観覧させるほど、世間の注目を集めた のである。モースが大森貝塚から収集した古器の中で「文彩」や「体質」のいいものは文 部省所轄の教育博物館へ移され、また「天覧に供」するために八つの箱に古器物を収め、

文部省から太政官及び宮内省へ回した8ことは、当時の新聞にも大きく報道された。

また、モースは、「此種々の品のうち同種の物は外国の古物と取り替えたら互ひに昔の事 が知れて宜からう」9といい、実際アメリカの博物館や学校の関係者とのコンタクトを試み ていた10

6 イー エス モース著、石川欣一訳『日本 その日その日』(上)、科学知識普及会、1929年、p348。

7 「介墟發見ノ件」『東京大学法理文学部第六年報』pp26-28(『東京大学年報』第一巻、東京大学出版会、1993年、p86)

8 『読売新聞』18771215日付、同年1216日付。

9 『読売新聞』(前掲)、18771216日付。

10 「動物学教授エドワルド、エス、モールス氏申報」『東京大学法理文学部第六年報』pp64-77(『東京大学年報』第一

(21)

16

こうしてモースによる学術調査は、日本国内だけでなく、海外にまで知られるようにな り、ますます東京大学及び東京大学を所轄する文部省側からも実地による学術調査に大き な期待が寄せられる契機となったのである。モースの発見から学術調査の有効性を確認し た東京大学は、

1877

11

月から学術調査を制度化し、翌年

6

月からは文部省への承認を経 てその費用に関する旅費規則を定めるに至ったのである11

1878

年、すなわちモース発見の 翌年に、学術調査の内容が「動物、植物学見本の採集」と明確にされ、その実施主体が東 京大学の名義に移ったのは、このような背景があったからである。

無論、その後の東京大学の学術調査がひたすら動物・植物学を中心に実施されたわけで はない。モースの発見の後、現地における学術調査が定着化の道を進むにつれ、その学術 調査の分野と調査範囲も少しずつ広がることになる。以下は、こうした時期に東京大学が 行った学術調査に関する事項を表にしたものである。

(表 2)東京大学初期の学術調査

12(1877年

9

月~1880年

8

月)

日付 所属 調査者(職責) 調査地域 備考 1877

1114

理学部 ナウマン(教授) 美濃、尾張、近江、

越前、飛弾

マ マ

実地ノ学術ヲ親授 金石、化石ノ見本ヲ採集 1226 理学部 矢田部良吉(教授) 相州、江ノ島 実地の教授

動、植物の見本を採集 1878

416

理学部 ナウマン(教授) 武蔵、上野、甲斐 地質学の教導の為

助教授和田維四郎と生徒2名随行

710 理学部

ママ

ットウ(教授) 摂津、但馬

たじま

、伊予、

肥前

鉱山の巡検

実地の教導:生徒3名随行 717 理学部 和田維四郎(助教) 武蔵、上野、信濃 地質の実験

722 理学部 ナウマン(教授) 武蔵。相摸、甲斐、

信濃

地質の調査

実地の教導:生徒4名随行 1218 理学部 三田善太郎(准助教) 京坂の間 鉄道建築工事の実験

此等地方有名の諸橋を測量:生徒6名随行 1221 理学部 矢田部良吉(教授) 紀州 植物見本を採集

巻、東京大学出版会、1993年、pp95-98)。

11 「内外教授学術研究の為メ巡行ノ件」『東京大学法理文学部第六年報』pp24-26(同上、『東京大学年報』第一巻、pp85

-86)。

12 『東京大学法理文学部第六年報』自明治109月同明治118月、pp79-110、 『東京大学法理文学部第七年報』

自明治119月同明治128月、pp111-138、 『東京大学法理文学部第八年報』自明治129月同明治138月、

pp139-173(『東京大学年報』第一巻、東京大学出版会、1993年)。但し、実地指導のために教授が学生と同行したこと

と学生だけの派遣は除く。

(22)

17

植物取調助手松村任三及生徒1名を付し 1879

57

理学部 モールス(教授) 山城、大和、摂津、

近江、若狭、肥前、

肥後、大隅、薩摩等

列品室の陳列並に海外各国の博物館と 交換に要する古代の土器貝殻類を発見採 集せしめん為め:教場助手補種田織三随行 713 理学部 渡辺渡(准助教) 佐渡鉱山 実地に研究

生徒4名随行 87 理学部 矢田部良吉(教授) 岩代国会津 植物を採集

松村任三及生徒1名を随行 1225 理学部 種 田 織 三(教 場 助 手

補)

常陸国信太郡 太古の陶器発掘の為 生物学生徒2名随行 1880

128

理学部 チャップリン(教授) 下総国松戸 堤防築造方法研究の為 生徒5名を随行 322 理学部 加 藤 敬 介(教 場 助 手

補)

大分県 金石標本を蒐集

326 理学部 矢田部良吉(教授) 相州江ノ島 植物標品を採集

植物取調助手松村任三・画工木村静山随行 82 理学部 爪生泰(准助教) 下野及岩代国 試金学用品蒐集の為

(表

2)のように、東京大学の『年報』に記録されている学術調査は、1877

11

14

の理学部教授ナウマン(Edmund Naumann)の「金石と化石の見本採集」から始まっている。

モースによる大森貝塚の学術調査は、最初モース自身の好奇心から出発したものであるが、

上述したように、その後の成り行きは「学術調査」の有効性が世間に知られるようになり、

やがて東京大学及び文部省も「派遣」という形式で、学術調査を支援するようになったの である。また、1878 年後半から調査者の範囲が教授から、准助教、教場助手補などの教職 員にまで学術調査が行われるようになったことも上述したとおりである。

当時、東京大学の学術調査は唯一理学部だけで行われていたことも上記の(表

2)で明らか

であった。教授の在職数においても理学部は、法学部

3

名、文学部

3

名に対して

15

名とな っており(表

1)、東京大学の中でも医学部に次ぐ規模を持っている。それは東京大学の中で

も、理学部が近代的な西欧学問の洗礼を著しく受けている証として読み取ることもできる。

明治前期における欧米新文物との遭遇が、日本社会に大きな衝撃と影響を与えたことは周 知のとおりである。学問の世界においても、昔から存在していた文学、法学、医学といっ た分野に比べて、理学部に属していた化学、工学、地質採鉱学、生物学、動物学などの分

(23)

18

野は、当時欧米で生成しつつある近代的学問として、もっとも斬新な学問として日本の知 識人に受け入れられたと思われるのである。ともかく、明治前期は学問領域の細分化が進 んでない時期でもあり、西欧の新学問が理学部に過度に集中させられていたことが、学術 調査が理学部だけに実施されるようになった一つの原因でもあった。

理学部の中でも「金石学・地質学」、「動物学・植物学」、「採鉱学・冶金学」の分野がと くに目立っている。上の(表

2)から分かるように、「金石及び地質学」ではナウマン、チ

ャップリン、和田維四郎などによる学術調査が活発に展開されており、「動物及び植物学」

ではモースと矢田部良吉が、「採鉱及び冶金学」では子ママットウと渡辺渡が学術調査の中心を なしていることを示している。近代西洋の新学問の伝授のために来日したお雇い教授たち により、東京大学における学術調査が開拓されるようになったといえるのである。

最後に、上記の(表

2)をもとに、学術調査の学問分野と、主な調査者及び調査地域を洗い

出すと以下のような結果が出る。

(表

3)学問分野と調査者と調査地域

金石学・地質学 ナウマン 美濃・飛弾

マ マ

、尾張、近江、越前、武蔵、上野、甲斐、相摸、信濃 チャップリン 下総国松戸

和田維四郎 武蔵、上野、信濃

動物学・植物学

モース 相州、山城、大和、摂津、近江、若狭、肥前、肥後、大隅、薩摩等 矢田部良吉 相州、江ノ島、紀州 、岩代国会津

採鉱学・冶金学

ママ

ットウ 摂津、但馬、伊予、肥前 渡辺渡 佐渡鉱山

「金石及び地質学」においては、現在の 岐阜、愛知、滋賀、福井、東京、埼玉、群馬、

山梨、神奈川、長野、千葉で学術調査を行っており、おもに中部地方を中心にしている。

また、「動物及び植物学」では、 神奈川、京都、奈良、大阪、兵庫、滋賀、福井、佐賀、

長崎、熊本、鹿児島、和歌山、三重、福島で調査が行なわれており、中部地方に加えて、

近畿地方と九州地方までが調査範囲となっていた。そして、「採鉱及び冶金学」では、兵庫、

愛知、佐賀、長崎、新潟が調査地域として挙げられており、ここでも中部・近畿・九州地

(24)

19

方の範囲を超えていない。その他、常陸(茨城)、下野(栃木)、大分県なども調査の対象と なっている。この時期の東京大学による学術調査はお雇い外国人教授に主導されたうえで、

その調査地域はおもに日本の中部地方、近畿地方、九州地方を中心にした範囲で展開され ていったのである。

上述したように、東京大学の設立とともに、東京大学による学術調査も開始されていたの であるが、近代学問の受容を急いでいた東京大学は、その設立意図や目的すら明確に示さ ないまま出発したため、学術調査においてもその目的は明確にされておらず、自ら招聘し た外国人教授に先鞭を取られる形になったのである。外国人教授は自分の専門或いは関心 のある分野の調査を日本で行うことになるのだが、モースの例のように、それは最初から 世間の大きな注目を集めることになり、東京大学と文部省にしても、学術調査の効果を十 分感じる契機になったのである。

こうして東京大学における学術調査は大学の事業として定着し始めるようになったもの の、まだ、学術調査の主体は外国人教授に任せられている状態で、厳密に言えば、東京大 学自らの意思による学術調査は行われていなかったといえる。そして、その主な調査地域 は日本の中部地方、近畿地方、九州地方に限られており、まだ、日本全国への拡散、つま り北海道と沖縄はおろか、東北地方までも調査対象にはなっていなかったのである。学術 調査のため、海外へ教員を派遣する動きも、全然起きていなかった時期である。

2.

東京大学の統一行政と学術調査の定着(1881-1885)

二つの組織で運営されていた東京大学が、綜理

1

名の下で統一的な行政を整えるのは、

1881

6

15

日の東京大学職制改正以降のことである。このとき、初代総理13として就任 したのは加藤弘之で、医学部の綜理だった池田謙斎は総理心得となっている。

この時期の大きな特徴として挙げられるのは、教授、助教授、教諭などの身分が、従来

「雇又は嘱託」の位置から「国家の官吏」へと変更されたことである。当時の官吏任命形 式で、「教授は勅任又は奏任、助教授は奏任又は判任、教諭は奏任又は判任、助教諭は判任」

14と完全なる国家公務員の身分へと「昇格」したのである。つまり、この時期から東京大学 の教員たちは、国家公務員としての自覚が芽生えることとなり、同時に東京大学も教員に

13 明治14年の職制改正により、職名が綜理から総理へ変わっている。

14 東京帝国大学『東京帝国大学五十年史』上、1932年、pp505-515。

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