を語る論考である。
代わりに、関野は構造物としての建築物(建造物)を朝鮮半島から研究し始めることに なった。すなわち、三国時代のものとして比較的多く残っている石塔や石灯などに研究の 的を移したのである。(表
7)における「石塔と石灯」に関する論考が 9
編、さらに「建築 一般」に関する論考6
編もその大半が石塔や石灯の解説を含んでいるため、朝鮮半島にお ける建築物研究は石の建造物を中心に展開されていたのである。関野は石塔や石灯などの石造物も建築的遺物であると判断して研究を進めており、また 彼は王陵や古墳なども建築的遺蹟だとして理解していた。こうして古墳研究と「建築分野」
の論考を合わせてみると、全体の発表論考の中で半数以上を占めることになる。関野貞は、
日本でのように木造古建築を中心にした研究を進めはしなかったものの、結果的に建築学 的観点に基づいた朝鮮の遺蹟遺物研究を進めていたのである。
「工芸」と「絵画」、「彫刻」に分類できる論考は、それぞれ
15
編、12 編、11 編が発表 された。仏教の渡来で日本の古建築物が誕生したという認識に基づき、関野は朝鮮におけ る木造建築の調査も寺院建築の調査から開始した。朝鮮の寺院には建築物だけでなく数多 くの寺伝の美術品が残っており、その方面へも自然に研究が進んだのである。「工芸」論考 に属する鐘や「彫刻」論考の中の仏像及び碑がそれである。また跡地調査過程で古瓦を発 見し、瓦の研究にも進むことになり、古墳発掘調査では各種の工芸的遺物と壁画が発見さ れ、古代の工芸品や壁画に関する研究にも足を踏み入れることになった。最初古代朝鮮の木造建築物を念頭に入れ、調査を進めていた関野だが、調査の過程で多 様な朝鮮遺蹟・遺物に出くわし、そこからまた研究領域も広がるようになったのである。
それには、今日の美術分野で語られるものもあり、また考古学分野で調査されるものもあ った。だが、それらの論考では基本的に「建築学的」見地からみた遺蹟や遺物が多数を占 めており、関野の「朝鮮美術論」は、とくにテーマにおいて、美術全般の分野をバランス よく取り扱うのではなく、大変偏った、不均衡な研究であったといえる。最後に、(四)そ の他の論についてみることとしよう(表
8)。
(表 8)その他の論考
タイトル 刊行事項
55 1923年から、「朝鮮最古の木造建築」(『朝鮮』第103号、第104号、1923年11月、12月)として「無量寿殿」が注 目されるようになった。
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1 「朝鮮建築調査略報告pp.1-3、第一朝鮮遺蹟 一覧(地方別)pp.31-56、第二朝鮮重要遺蹟一 覧(時代別)pp.57-73」
『朝鮮芸術の研究』韓国度支部建築所、1910年8月。
2 「朝鮮の古建築物・朝鮮建築の変遷(大阪新 報)・朝鮮の古代及び現時の建築物(国民新 聞)・韓国の建築物(日本新聞)・建築と風俗(東 京日々新聞)」
『建築雑誌』24(285)、1910年9月。
3 「建築と風俗」 『絵画叢誌』281、1910年9月。
4 「朝鮮と美術教育」 『美術新報』9ノ12、1910年10/1。(談) 5 「朝鮮平壌付近古蹟調査」 『東京人類学雑誌』26(295)、1910年10月。
6 「朝鮮遺蹟調査略報告」(上)(下) 『考古学雑誌』第1巻第5号、第7号、1911年1月、3月。
7 「南朝鮮に於ける古美術」 『朝鮮』第35号、1911年1月。
8 「南朝鮮旅行□」 『朝鮮』22ノ2、1911年2月。
9 「南鮮旅行談(要旨)」 『考古学雑誌』1-7、 1911年2月
10 「朝鮮遺蹟調査略報告」(1)・(2) 『歴史地理』第17巻第2号、第6号、1911年2月、6月。
11 「朝鮮遺蹟調査(略報告pp.1-3、副申pp.4-
6、第一朝鮮遺蹟一覧(地方別)pp.7-42、第二 朝鮮重要遺蹟一覧(時代別)pp.43-58」
『朝鮮芸術の研究』(続編)、1911年7月。
12 「朝鮮遺蹟一覧」 『東洋時報』155、156、東洋協会、1911年8月。
13 「第一朝鮮遺蹟一覧(地方別)pp.3‐11、第二朝 鮮重要遺蹟一覧(時代別)pp.12-18、明治44年 撮影朝鮮古蹟写真目録pp.19-31」
『大正三年九月 朝鮮古蹟調査略報告』朝鮮総督府、1914年9 月。
14 「古蹟調査略報告pp.55‐56、第一朝鮮古蹟調 査表(地方別)pp.57‐87、第二朝鮮重要遺蹟一 覧(時代別)pp.88‐100、大正元年撮影朝鮮遺蹟 写真目録pp.101‐138」
『大正元年古蹟調査略報告』朝鮮総督府、1913年。
15 「朝鮮の美術」 『研精美術』71、美術研精会事務所、1913年3月。
16 『朝鮮古蹟図譜(楽浪郡及帯方郡時代・高句麗 時代(甲)」』第1冊
朝鮮総督府、1915年3月。(「朝鮮古蹟図譜解説1」付き)
17 『朝鮮古蹟図譜(高句麗時代(乙)」』第2冊 朝鮮総督府、1915年3月。(「朝鮮古蹟図譜解説2」付き) 18 『朝鮮古蹟図譜(馬韓時代・百済時代・任那時
代・沃沮時代・濊時代・古新羅時代)』第3冊
朝鮮総督府、1916年3月。(「朝鮮古蹟図譜解説3」付き)
19 『朝鮮古蹟図譜(統一新羅時代1)』第4冊 朝鮮総督府、1916年3月。(「朝鮮古蹟図譜解説4」付き) 20 関野貞調査撮影『平安南道大同郡地方古蹟写真
集』
京城、1916年。(図80枚)
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21 関野貞調査撮影『平安南道竜岡郡古蹟写真集』 京城、1916年。(図80枚)
22 『朝鮮古蹟図譜(統一新羅時代2)』第5冊 朝鮮総督府、1917年3月。(「朝鮮古蹟図譜解説5」付き) 23 「朝鮮の名山と史蹟」 『史蹟名勝天然記念物』2ノ3~6、史蹟名勝天然記念物保存協
会部、1918年3~6月。
24 『朝鮮古蹟図譜(高麗時代1)』第6冊 朝鮮総督府、1918年3月。(解説書なし)
25 平壌付近に於ける楽浪時代の墳墓 一」 『古蹟調査特別報告』第1冊、朝鮮総督府、1919年3月。
26 『朝鮮古蹟図譜(高麗時代2)』第7冊 朝鮮総督府、1920年3月。(解説書なし) 27 「塼より見たる百済とシナ南朝特に梁との文
化関係」
『宝雲』10、1920年8月。
28 「楽浪郡時代ノ遺蹟(図版上・下)」 『古蹟調査特別報告』第4冊、朝鮮総督府、1925年3月。(2 冊、図版のみ)
29 「建築に関係ある虎」 『国民美術』第2巻第13号、1926年1月。
30 「楽浪郡時代ノ遺蹟(本文)」 『古蹟調査特別報告』第4冊、朝鮮総督府、1927年3月。
31 『朝鮮古蹟図譜(高麗時代3-陶磁器)』第8冊 朝鮮総督府、1928年3月。(解説書なし) 32 「平壌楽浪遺物陳列博物館に就て」 『朝鮮と建築』7ノ11、1928年11月。
32 『朝鮮古蹟図譜(高麗時代4-漆工・金工)』第9 冊
朝鮮総督府、1929年3月。(解説書なし)
33 『朝鮮古蹟図譜(朝鮮時代1宮殿建築)』第10 冊
朝鮮総督府、1930年3月。(解説書なし)
34 「高句麗時代の遺蹟(図版)(上)(下)」 『古蹟調査特別報告』第5冊、1929年3月、1930年1月。(図 版のみ)
35 「梁と百済と日本との芸術交渉」 『朝鮮と建築』10ノ1、1931年1月。講演 36 「Ancient Remains And Relics in Korea:
Efforts toward research and Preservation」
太平洋問題調査会、1931年10月。(第4回太平洋会議叢書、
Japan council of the institute of pacific relations.) 37 『朝鮮古蹟図譜(朝鮮時代 2(城郭/壇及廟祠/
学校及文廟/客舎/史庫/書院及先儒住宅/王 陵)」』第11冊
朝鮮総督府、1931年3月。(解説書なし)
38 『朝鮮古蹟図譜(朝鮮時代3(仏寺建築其1・補 加;高麗時代仏寺建築)』第12冊
朝鮮総督府、1932年3月。(解説書なし)
39 「Ancient Remains And Relics in Korea:
Efforts toward research and Preservation/ by tadashi sekino」
第4回太平洋会議叢書、1932年10月。(Tokyo Japan council of the institute of pacific relations 1932.)
40 『朝鮮古蹟図譜(朝鮮時代4(仏寺建築其2・塔 婆/墓塔/橋梁)」』第13冊
朝鮮総督府、1933年3月。(解説書なし)
41 「朝鮮宝物古墳名勝、天然記念物保存令発布に 『朝鮮仏教』93、94、朝鮮仏教社、1933年10月・11月。
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就て」
42 『朝鮮古蹟図譜(朝鮮時代5(絵画)』第14冊 朝鮮総督府、1934年3月。(解説書なし) 43 「塼より見たる百済と支那南北朝特に梁との
文化関係」
『宝雲』第10冊、1934年8月。
44 『朝鮮古蹟図譜(朝鮮時代 6(陶磁器)』第 15 冊
朝鮮総督府、1935年6月。(解説書なし)
上記の(表8)その他の論考の中では、その大半が調査の経緯などを記した報告書及び写 真集の類で占められている。朝鮮における関野の調査は、併合前には東京帝国大学、併合 後は朝鮮総督府の依頼を受けて実現されたものであった。とくに併合後の調査研究は、朝 鮮総督府の資金と行政援助なしでは成り立たないものであった。そのため、関野は嘱託の 業務を忠実にに遂行しながら、調査過程で得られた資料と報告書を丁寧にまとめて、朝鮮 総督府に提出したのである。この報告書や資料は、朝鮮総督府の手により順次編纂・出版 されることになるが、上記(表
8)の中でも『古蹟調査報告書』や『古蹟調査略報告』
、『朝鮮 古蹟図譜』などの類がそれである。とくに、
1915
年3
月から1935
年6
月にかけて出版された『朝鮮古蹟図譜』(全 15
冊)は、当時の学界、世間ともに画期的な書物として称賛された業績であるが、今日においても多 くの研究者に重宝される貴重な資料となっている。これは、当時調査をしながら撮影した 遺蹟と遺物の図版を、古代から近世に至るまで時代別に区分した、いわば写真帳である。
当時としては、先端技術であった写真術を利用し、朝鮮古代の遺蹟と遺物を一目でわかる ように豪華な写真集として出版することにより、世間の注目を集めたのである。関野貞は、
この『朝鮮古蹟図譜』の刊行により、フランス学士院からの賞を授与されており、当時の 西洋世界からもその学術的な価値が認められたようである。今日においてもこの写真帳は、
行方の分からない遺蹟遺物や、その後の修理の過程で原状から大きく歪曲されたものなど を調べる資料であり、近代における遺蹟と遺物の発見当時の様子をそのまま残した最も古 い史料として、大変貴重な価値があるものである。ちなみに、『朝鮮古蹟図譜』に掲載され た朝鮮遺跡・遺物の写真は、関野貞一人の作業で得られたものではないため、この業績を すべて関野に帰すのは無理があると思われる。しかし朝鮮古蹟調査開始の指揮者として、
その後の調査においても中心人物として参加し続けた関野の右に出る人物がないことも認 めざるを得ない。
111
上記(表
8)のなかで、上述した報告書及び写真集のほかには、新聞に掲載された探検談及
び視察談、そして中国との関係を示す論考などが若干含まれているが、これらに関する内 容に関しては、次節で再び言及することにする。
3.
関野貞の研究方法論と「朝鮮美術史」の特徴それでは関野貞は、どのような研究方法論をもって研究を進め、またそこからどのよう な朝鮮美術或いは朝鮮美術史の特徴を導き出したのか。彼の論考を読んでいるうちに浮か び上がったいくつかの点について検証してみる。
まず、関野の「朝鮮美術史」研究は、「日本・東洋美術史」研究の一部として位置づけら れていたことから始めよう。関野は、歴史上における朝鮮美術そのものに対する研究とい うより、常に中国と日本との関係性を念頭に置きながら研究を進めていた。結論から先に 言えば、関野は、朝鮮美術を朝鮮の「特殊的」なものとして理解せず、中国と日本との間 における架橋の役割をしたとする、東洋の「普遍的」なものとして把握しようとしたので ある。
関野の朝鮮美術関連の文を紐解いてみると、至るところで中国と日本との関係性につい て言及していることが確認できる。最初の単著『韓国建築調査報告書』(東京帝国大学工科 大学、1904 年)のなかでは、各歴史時代の遺蹟・遺物を説明しながらも、結論に至っては、
必ず日本と中国との関係を説明する章を設けている。これが
1932
年の段階に至ると、(図1)のように日中韓だけでなく、ギリシャとインドも含む古代からの美術的関係を示す遠大
な図面として表現されることになるのである。(図1)関野の朝鮮美術構想(関野『朝鮮芸術の研究』岩波書店、1941年より転載)