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98 1904年から始まったこうした通史的な考察の背景には、朝鮮美術に関して、それまで体

系的で近代的な美術史書が存在していなかったことと、関野の学問的好奇心が美術史の体 系構築に傾いていたことなどが挙げられる。上の通史的な論考が出された刊行年度が示す ように、関野は「朝鮮美術史」の体系構築に

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余年の歳月をかけて考え続けていたのであ る。今日、私たちが目にする関野の「朝鮮美術史」は、特定の時点で完成されたのではな く、彼の朝鮮美術の調査・研究が進んでいく中で、少しずつ補完・修正しながら完成され ていったのである。

通史的論考の内容は、時期ごとに少しずつ補完・修正しながら、完成されて行くのだが、

同じ時期に書かれた論考はほぼ同様の内容となっており、その全作品を縦軸に比較しなが ら読み込まないと、彼による「朝鮮美術史」の成立過程とその特徴を正確に読み取ること は難しくなっている。関野の描く朝鮮美術史がどのような変容過程を経ながら形成されて いったのか、その細部にわたる過程を論じるのは後日の課題として残しておくが、彼の長 い朝鮮美術研究人生の中で、彼がどれぐらい朝鮮美術史の体系構築に、持続的な関心を注 いできたのかを確認することができた。

通史的論考の題目を時期別に眺めていると、1910 年頃まで「韓国芸術」とその「変遷」

過程に着目したものが多く、1910 年以降には「朝鮮文化の遺蹟」という題目が目立つよう になる。朝鮮調査に乗り出した初期の段階では、日本における建築史研究と同じように、

ひとまず朝鮮半島の芸術に対する歴史的考察、とくに時代区分に研究の中心が置かれてい たのである。1910 年頃からは朝鮮総督府の古蹟調査事業が開始されることになり、論考の タイトルは各地に何があるのかを探す調査目的に合わせるかのようなものになっている。

そして、1920年代以降、関野は長年にわたる調査結果を基にして、「朝鮮美術史」というタ イトルを使い始め、朝鮮美術に対する歴史体系の構築を完成させるに至ったのである。

関野が構築した通史的な「朝鮮美術史」の中においては、朝鮮半島の歴史時代区分が設 定され、各時代に属する遺物や遺跡を紹介しながら、各時代の特徴を導いている。関野の 朝鮮美術史における時代区分は長年にかけて徐々に確定されるようになるのだが、最終的 に五つに分けられるという結論に達している。関野が設定した朝鮮半島における歴史時代 区分は、㈠楽浪時代、㈡三国時代、㈢新羅統一時代、㈣高麗時代、㈤朝鮮時代となってい る。それぞれの時代をタイトルに入れて、当該時代の美術について語ったのが、二番目の、

「特定の歴史時代を中心にした論考」である。その編数は

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編に上っており、全体の作品

99

の中で約

17%を占めている(表4)。

(表 4)特定の歴史時代を中心にした論考

タイトル 刊行事項

1 「韓国慶州附近新羅朝遺跡に関する関野貞氏の 談話」

『人類学雑誌』18-199、190210月。

2 「新羅時代の遺物1~7」 『美術新報』24、5、6、8、12、16、18、19035/3~11/20。

3 「新羅時代の遺物(上)」 『考古界』32、7、19037月、pp.49-59、11月。

4 「新羅時代の遺物」 『史学雑誌』203(14-2)、190312月。(講演要旨) 5 「韓国慶州に於ける新羅時代の遺蹟」 『東洋協会調査部学術報告』東洋協会第1冊、19097月。

6 「韓国に於ける新羅以前の遺蹟」 『史学雑誌』第21編第2号、19102月。(講演抄録)

7 「高麗時代の遺物」 『朝鮮』第25号、19103月。(記者筆記)。

8 「新羅彫刻建築之部」 『東洋芸術資料』第7集、日本美術社、191012月。

9 「伽倻時代の遺蹟」 『考古学雑誌』17、19113月。

10 「慶州に於ける新羅時代の遺蹟」 『朝鮮』第46号、191112月。(未完;慶州講演) 11 「平壌附近における高句麗以前の遺蹟」 『史学雑誌』』第23編第1号、19121月。(講演要旨)

12 「平壌付近高句麗以前の遺跡」 『朝鮮及満州』第48号、19121月。史学会講演大要 13 「新羅高句麗時代に於ける仏教的遺蹟」 『密教』31、密教研究会、19134月。

14 「台覧の朝鮮三国時代の芸術的遺物」 『史学雑誌』第24編第8号、19138月。(標本説明要旨)

15 「朝鮮に於ける楽浪帯方時代の遺蹟」 『人類学雑誌』第29巻第10号(通巻330号)、東京人類学会、

191410月。(講演筆記)

16 「百済の遺蹟」 『考古学雑誌』63、191511月。

17 「楽浪時代の遺蹟」 『朝鮮彙報』朝鮮総督府、19171月。

18 「扶余の遺蹟に就て」 『朝鮮及満州』163、19211月。

19 「楽浪帯方両郡の遺蹟と遺物」 『考古学講座』11、国史講習会、19258月。

→19364月、合本『支那朝鮮考古学』に収録、(『考古学 講座』雄山閣)

20 「楽浪郡の遺蹟」 『歴史教育』第2巻第7号、歴史教育研究会、192710月。

21 「新羅統一時代の芸術」 『世界美術全集』第7巻、平凡社編、1927年。

22 「朝鮮三国時代後期」 『世界美術全集』第6巻、平凡社編、1928年。

23 「朝鮮時代初期の芸術」 『世界美術全集』第18巻、平凡社編、1928年。

24 「朝鮮時代‐宣祖及光海君朝‐」 『世界美術全集』第19巻、平凡社編、1928年。

25 「朝鮮時代後期」 『世界美術全集』第21巻、平凡社編、1929年。

26 「楽浪郡時代の芸術」 『世界美術全集』第4巻、平凡社編、1930年。

27 「高句麗時代の芸術」 『世界美術全集』第4巻、平凡社編、1930年。

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28 「朝鮮三国時代前期の芸術」 『世界美術全集』第5巻、平凡社編、1930年。

29 「満州に於ける漢及び高句麗時代の文化的遺跡 他」

『東方学報』6、19362月。(講演要旨)

このような、特定の歴史時代を中心にした論考では、単一の遺蹟や遺物に限定せずに、そ の時代を特定できる遺蹟と遺物全体を視野に入れて語っている。このような論考では、時々 彼の関心がどの時代に向かっていたのか、ことにどの時代に調査の重点を置いていたのか がわかる。

関野貞は朝鮮半島の歴史区分を、最終的に楽浪時代から出発させているが、1900 年代ま での論考においては新羅を中心とする三国時代から始めていた。三国時代の前の時代に「三 韓時代」があることを認識しながらも、遺物の少ないことなどを理由に美術史の時代区分 としては設定しなかった。そのため、1910 年の日韓併合の時までは、遺蹟や遺物の確認が できた新羅時代に、関野は主な関心を注いだのである。

上の論考の中で、三韓時代にあたる論考は、「韓国に於ける新羅以前の遺蹟」

(1910

2

月) と「伽倻時代の遺蹟」(1911 年

3

月)の二編のみである。当該期の遺蹟・遺物が残っていな いことを理由に挙げたにもかかわらず、日韓併合の前後には、研究対象としても視野に入 れていたのである。それは、この三韓時代には日本の古い歴史書に登場する朝鮮半島との 関係、例えば、当時日本の歴史界で頻繁に論じられていた「神功皇后の朝鮮征伐説」や「任 那日本府説」などを、実際の遺蹟・遺物面から証明できる可能性が含まれていたからであ る。だが、関野貞による、この時代の探求はこの

2

編のみで、しかもその内容も研究課題 を残したまま終わってしまった。上記の総

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編のうち、テーマとして設定した各時代を分 類してみると、以下のような結果が出た(表5)。

(表 5)時代別の論考数

新羅時代 以前

三国時代

(伽 耶 時 代 と 扶 余 (百済)時代を含む

新羅時代 (統 一 新 羅 時 代 を 含む)

楽浪時代 (帯方を含む)

高句麗時代 高麗時代 朝鮮時代

1 6 9 9 3 1 3

15 12

三国時代に関する論考が

6

編、新羅時代に関する論考が

9

編、合わせて

15

編が発表され、

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