前言
本稿は、清初の尤
尤 ある。 『擬明史楽府』訳注の連載第一回目で
、永平府推官に任ぜられたが、その三(一六五二)る。同九年 、彼も慎交社の一員として名を連ねてい順治七年(一六五〇) 』(以下『年譜』と略す)したが、自訂の『悔庵年譜によれば、 (2) 争って伝誦した。当時、江南を中心として各地に文社が復活 なかったが、詩文・戯曲に才を揮い、一篇なるごとに人々は に詳しい。順治三年の副貢生。挙業は振わ一巻(一六四六) (1) 『述祖詩』人である尤袤を遠祖とする。その家世については、 庵・艮斎、晩年は西堂老人。江蘇長洲の人。南宋四大家の一 (一六一八―一七〇四)号のち展成、は同人、字、は悔 た。この間、の繋年順に列挙すれば、』『年譜宋 (3) 文事の清遊に耽っ以後二十餘年間にわたって官に就かず、り、 で降格させられたため、辞職して帰年後、旗丁を鞭打った廉 かど
彭孫 ・施閏章・
・王士禎・王士禄・冒襄・陳維
唱和や巻』五集京于『の作は、歌った詩応酬文人たちとの、 (6) 錚々たる人材が一堂に会したが、彼の在京中の暮らしぶりを には、における李白に擬えて羨んだという。康熙の博学鴻詞 (5) 寵遇を得た。玄宗世間はその厚遇を、と呼ばれ、「老名士」 れ、翰林院検討となって『明史』編纂に参与し、康熙帝から 、六二歳の最高齢で博学鴻詞に挙げら康熙一八年(一六七九) 全てこの間に作られたものである。その雑劇・伝奇また、も、 (4) と称された。「真才子」順治帝からの詩文は宮中にも伝わり、 懐・周亮工・呉綺などの文人たちと交わりを結んでいる。彼 ・黄周星・李漁・余
尤
『擬明史楽府』訳注(一)
福 本 雅 一 監修 ・尤
研究 会訳注
に収められている。三年後、長子の珍 (7)が進士となったのを機に、辞職して故郷に帰り、山水に遊び詩文に耽った。康熙四二年(一七〇三)、帝南巡の際、翰林侍講を授けられたが、その翌年、八七歳で没した。その詩文は『西堂全集』・『西堂餘集』・『鶴栖堂稿』に、戯曲は『西堂曲腋』に収められている。伝は『清史稿』巻四八四・文苑一、『清史列伝』巻七一・文苑二。また、潘耒(一六四六―一七〇八)に「尤侍講艮斎伝」(『遂初堂文集』巻一八)、朱彜尊(一六二九―一七〇九)に「翰林院侍講尤先生墓誌銘」(『曝書亭集』巻七六)がある。なお、『西堂餘集』に自訂年譜『悔庵年譜』二巻を收める。以上が尤
(彭孫彭羨門 ている。各詩には長子の尤珍による注が附されており、他に 取材した断代的詠史の連作。全百首が概ね年代順に配列され を縫って作られた旨、記されている。内容は、明代の歴史に (一六八一)『明史』編纂の合間の自序があり、に康熙二〇年 頭巻には、『擬明史楽府』(康熙二〇年序刊本・東洋文庫蔵) 記そう。 の略伝であるが、次に『擬明史樂府』の概要を
・陳其年三四―一七一一)(陳維 一六三一―一七〇〇)・王阮亭(王士禎一六
(施閏章一六一八―八三)・毛大可(毛奇齡一六二三―一七一 ・施愚山一六二五―八二) の眉批が見える。王士禎を除けば、いづれも尤六)
末には施閏章・彭孫 に康熙一八年の博学鴻詞に挙げられた人物である。また、巻 ととも 維 』に収めている。『四家詠史楽府『四家詠史楽府』は他に、楊 (8) 浙江山陰の宋沢元がこれを校刊し、『明史楽府』一巻として の跋文を載せる。さらに光緒年間には、
尤の制作は、『擬明史楽府』前述した通り、 いた。 た眉批は見られない。本稿の底本は、この宋沢元校刊本を用 に書かれた宋沢元の識語が附され、康熙二〇年序刊本にあっ 一巻を収める。所収の『明史楽府』には、光緒一一年の晩春 『唐宋小楽府』楽府』二巻、洪亮吉『両晋南北史楽府』二巻・ 『鉄崖詠史』『西涯李東陽一巻、『鉄崖小楽府』八巻・
尤[ に記されている。に作られた旨、自序暇『明史』編纂の餘り、 )9( 因み詞』を作ったという。枝に『詞』も全百首であ外国竹枝 備の「に鑑戒う可き者」をとって『擬明史楽府』と『外国竹 に三百餘」とあり、そす五巻を纂志文藝、篇共外国伝、伝、 『年譜』康熙二一年予条には、「三載史局にて、列朝諸臣の したか、のどの部分を担当整理諸資料に基づいてしておこう。 編纂に参与したことが契機となっている。『明史』彼が次に、 明史』『が 資料]に引いた諸伝にも、この『年譜』の記載以上の
尤
『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤
研究会) 237
ことは書かれていないが、近年影印された『二十四史訂補』第十五冊 (
には、尤 10)
半ばは烏有と為りしに縁は帰り、頭白汗青の昔人る、 よ 総裁屡しば易りて、前の五十人なる者或いは歿し或い しば 帰りて九載にして、此の書尚お未だ告成せず、蓋し予 かに此に止まる、今病仮を以て帰る、故に述ぶる所は僅 わず 纂すること未だ半ばに及ばずして、予亦た前の如し、 則ち其の姓氏を錯綜して鬮派す、を一編と為せば、禎) ・崇・天暦)を分ちて一編と為し、泰(天啓)(崇(泰昌) ・万・隆た嘉又えんとし、に業を卒(万(隆慶)(嘉靖) お わず、故に伝うる所の者、寥々として数人なる而已、将 のみ の心に慕好する所の者有りと雖も、敢えて俎を越えて問 名卿鉅儒派す、諸君子と酌定して鬮総裁紀・列伝は、 きゆう 凡そ本の時事也、・正則ち纂する所は弘(弘治)(正徳) は則ち私かに自ら増くの如し、予が班は第五なれば、に至る、編次も亦た之 ひかそ するを得ん、又た纂修は但だ本伝をすのみ、其の総論著る者り正徳洪武自分ちて五班と為し、選に与五十人、 よあずか 詔して博学鴻儒を徴し、覧ちて、史成るの日を俟必ず多からん、を康熙十八年、参考焉明史を纂修せしむ、る者 みまこれ う。を存す、原稿は主者に呈すと雖も、点竄塗抹を計れば、 忍びず、姑く其の文の稍以下に全文を引用しよに書かれた彼の識語がある。六九一)や雅馴なる者を択び、刪して之 やしばら 食を縻国伝』せば、捐棄するにに竭して、力を茲康熙三〇年やし膏油を耗前者の巻頭には、が収められている。(一 へらつくここつい (明史)事属詞は古人の万に一も及ばずと雖も、四五年の間、禄『と外の手になる『明史擬稿』 比たま篋衍を検して之を閲す、偶歎有る所以也、閑居 たま
た。本書により、尤っあで い文人にはよくあること強心が負るのは、自ねにゆだ評価の の手がこのように、総裁官加えられる前の原稿を存し、後世 ある。章でい文興味深する証言を具体的状況『明史』編纂の 例らず、在にの有り、志文藝是 せよ、に知るもの我を罪之わん而聴我已、を後に外国伝・ したがのみ る也、非ざうに云と独断敢えてす、
とができよう。注 ( が担当した諸伝の一端を窺うこ れておくことにする。まず、尤触に単簡いて、 学最後に、『擬明史楽府』の文史的位置と後世の評価につ 多くまれている。含 王守仁名人も著のどな楊慎・・思九王・海・康辺貢禎卿・徐 ・寛・祝允明・唐寅・文徴明・楊循吉桑悦・李夢陽・何景明・ に全てを列呉・沈周には中したが、その挙 11)
の自序を引 中國詩文論叢第二十一集
用しよう。昔李西涯(李東陽)二十一史を以て古楽府百篇を擬す、大抵比事属辞楽府と名づくと雖も、其の実は古 いにしえの歌詩の遺也、……予乏 とぼしきを承 うけ、明史を纂修す、討論の暇、間に其の遺事の鑑戒に備う可き者を採りて、断ちて韻語と為し、亦た楽府百首を擬す、未だ敢えて窃 ひそかに西涯に比せずと雖も、庶幾 こいねがわくは詠史の一体を存せん、其の中是非を別白し、哀楽を揮写し、吾が意の在る所を寄するに過ぎず、而して声と調とは固 もとより恤 うれえざる所、覧 みる者幸 ねがわくは焉 これを譏る無かれ、ここに記されている通り、百首連作の詠史楽府には夙に先例があった。前掲『四家詠史楽府』にも収められている李東陽の『西涯楽府』(『擬古楽府』)である。李東陽の詠史は春秋末から明初に至る通史的詠史であったが、尤
また、沈徳潜『国朝詩別裁集』巻一一には、尤 て外国竹枝百首を作る、づ、又た常 かつ 而れども往々李西涯に擬すと雖も、駕して其の上に出 尤悔庵楽府に工なり、……又た悔庵明史楽府を作る、 たくみ 『漁洋詩話』巻下に次のようにいう。 しつつ、明代の史事に絞った断代的詠史を作った。王士禎は はそれを意識
の詩を二 『擬明史楽府』こそ尤 ら使之を見、共に西堂の面目を識めん、 しし る所は、皆な錚々として声有る者なり、藝苑の人をして 詠明史楽府一巻、尤も神来の作と為す、選中に收む今 彼は以下のように評する。 『擬明史楽府』中の作品である。うち一四首は五首收めるが、
尤 に比す、 て之を視、王鳳洲(王世貞)の唐伯虎(唐寅)を評する 街談巷議と雖も、韻語中に入る、遠近或いは遊戯を以 のようにいう。 高く評価している。また、その帰郷以後の作風について、次 の真面目を伝えるものと見なし、
序は ( いることは、本訳注からも窺えるであろう。さらに、宋沢元 が「街談巷議」にも目配りし、逸聞を多く盛り込んで 常談』に「尤西堂に明史生老の『清・延君寿通りであるが、 する後世の『擬明史楽府』に対主な評価は、およそ以上の て気を使わざるの処、断じ学浅の能く幾及する所に非ず、 はは高張、詞旨を朴茂、其の才然矜らず骨れども風り、 こほ に詩中平好んで遊戯を以て行文故す、毎に詼諧の筆有 つね 熟西堂勝国の掌故に悉す、く根拠有り、生議論(明) 詼諧して、その博学と指摘と遊戯性をする。 ユーモア12)
尤
『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤
研究会) 239
百首有りて自 より、後の作者日々に衆 おおし」というごとく、その作品は、後に数多く作られる明史楽府の先駆となった。本訳注は、福本雅一先生の『明史楽府』講義(早稲田大学大学院中国文学研究(3)・一九九九年度四月―二〇〇一年度三月)が基となっている。その後、有志が集って「尤
[尤 先生の学恩に深謝し、さらに今後の御教導を冀いたい。 正していただき、このたび掲載の運びとなった。末筆ながら、 組織し、訳注稿を作成した。最終的に全ての原稿を先生に批 研究会」を 第五編『清代七百名人伝』9蔡冠洛巻三九事略』 8李元度『国朝先正7李桓『国朝耆献類徴初編』巻一一九 巻四五『碑伝集』6銭儀吉巻七一・文苑二『清史列伝』 『5巻四八四・文苑一清史稿』4巻七六)(『曝書亭集』 「翰林院侍講尤先生墓誌銘」3朱彜尊一八)巻(『遂初堂文集』 尤侍講艮斎伝」1自訂「2潘耒)(『西堂餘集』悔庵年譜」「 資料]
王藻『文献徴存録』巻二 10錢林・
11李集『鶴徴前録』
未詞科録』巻一二 12秦瀛『己 13朱汝珍『詞林輯略』巻二
『漁洋山人感旧集』巻四 14王士禎 15沈徳潜『国朝詩別裁集』巻一一 16鄭方坤『国朝名家詩鈔小伝』巻一
略初編』巻十 17張維屏『国朝詩人徴 18之誠『清詩紀事初編』巻三
19銭仲聯主 [ 編『清詩紀事』康熙朝巻
謝国た、まる。あとう」 (計東)従に焉と慎交社七郡を挙げ、・計甫草宜・宋徳宏) これ (宋実頴・宋徳・宋彭瓏)(彭「予順治七年条に『年譜』(2) (1)『西堂全集』所収 ]
、尤もに 館末」始社幾・一九六八年一月)の「九、書印台湾商務・庫 『明清之』(人人文動考社運際党
(3)宋 が慎交社に名を連ねたという指摘が見られる。
(順治一五年)・施閏章(順治一六年)・彭孫
・熙四年)陳維 三年)・王士禎(康熙四年)・王士禄(康熙四年)・冒襄(康 (康熙 孫彭 る。せの伝を載物は、これらの人 ・朱汝珍『詞林輯略』瀛『己未詞科録』(巻二・康熙己未)に れた。なお、秦選ばの五〇名が以下ち一四三人おり、そのう (5)挙志四によれ『清史稿』巻一〇九・選応じば、試にた者は 』(康熙七年)平調・『清』(康熙三年)黒白衛・『(康熙二年) 桃花源』・『弔琵琶・『(順治一四年)楽』鈞天『』(順治一八年) によるに(4)『年譜』繋年を以下示す。『読離騒』(順治一三年)・ (康熙一六年)呉綺 (康熙一〇年)・(康熙一一年)周亮工・(康熙一〇年)余懐・ ・李漁(康熙九年)黄周星・(康熙四年)
・倪燦・張烈・汪
・喬・王
齢・李因篤・秦松 中國詩文論叢第二十一集
齢・周清原・陳維
・徐嘉炎・陸
袁佑・朱彝尊・湯斌・汪 ・馮勗・銭中諧・汪楫・
李来泰・潘耒・沈 ・邱象随(以上、一等二〇名)・ ・施閏章・米漢
・黄与堅・李鎧・徐
沈 ・
・周慶曽・尤
澄中・呉元龍・ ・范必英・崔如岳・張鴻烈・方象瑛・李
(7)尤珍(一六四七―一七二一)、字は謹庸、號は滄 (6)『西堂全集』所収 (以上、二等三〇名) 宜溥・毛升芳・曹禾・黎騫・高詠・龍燮・邵呉遠・嚴縄孫 ・毛奇齢・銭金甫・呉任臣・陳鴻績・曹
長洲の人。尤 。江蘇
『滄 ることなく、父に侍しては山水に遊び、詩作に耽った。著に する父を養うことを理由に辞職して帰った。以後、再び仕え に加わった。のち右春坊右賛善を授けられたが、故郷に独居 に入る栄誉を受け、『大清会典』『明史』『三朝国史』の編纂 (『清史列伝』は康熙二〇年の進士とする)。父子ともに翰林 の長子。康熙二一年壬戌(一六八二)の進士
所収4『叢書集成続編』史地類・26(8) その詩を八首收める。 『国朝詩別裁集』巻一三には、ゆるがせにしなかったという。 るごとに彼に示し、夜の更けるまで論じ合い、一字たりとも 珍は、同郷で二六歳年少の沈徳潜と最も交際が厚く、詩の成 (『帰愚文鈔』巻一七)がある。尤潜に「宮賛尤先生墓誌銘」 類稿』沈徳巻七一・附伝。『清史列伝』伝はがある。 ( 首を附す」とある。十謡土り、為首を百 つく 其た巻を纂す、の餘暇国伝十竹枝詞外に既譜して復を以て、 9)(る、するに与修明史を予「に、序自康熙二〇年に書かれた かずあ
( 10)書目文献出版社・一九六六年八月 11)王守仁・呉寛[附趙寛]・王
附高夫[善鄭・芬 茂舒・祥]附李文[鄒智・]元随・守・守阯附[陳楊守・伝) ・列一巻(以上、楊廷和 ・傅汝舟]・顧
[附弟
傅・張詩元[附方古太]・何競・ 附楊慎・王廷陳[]顔木(以上、巻四文苑伝)・沈周・孫一 ]淳・彭年・銭穀・居節・周天球・・[附王寵]何良俊・蔡羽 徴]・祝允明・文・陳明[附陸師道附張霊[唐寅・]都穆附[ 海陽・何景明・徐禎卿・辺貢・康九・王思・桑悦・楊循吉 継貞・以上、・李祺維林・黄杜喬三道(巻列伝)・李夢周 順昌・趙用賢[附孫士春]・周文[附朱祖]・呂巻二列伝) (以上、深・陸] ・沈雲祚[附趙嘉
附張・徐李惟聡偉・史忠・陳文霖鐸・王磐[・陳 ・狄雲漢・張挙傑王勲・呉・]・附子龍姜昂・]毅附子士[[ 節孝行(以上、巻五隠逸・行・忠・独席本伝)・董朴禎 ・]等 魚・郭 ]・梁辰
( ・呉偉(以上、巻六循吏・藝術伝)
児島(弘一郎) 12)宋沢元「四家詠史楽府序」
尤
『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤
研究会)
241
凡例
一、底本は、『叢書集成続編』史地類・264所収の『明史楽府』一巻(光緒一一年・宋沢元校刊本・懴花庵)に基づいた。二、訳注は、解題・尤珍注・資料・詩・語釈・通釈の順で並ぶ。三、尤珍注に対する語釈は()内に記した。四、詩自体は旧字体とし、訓読・語釈・通釈は新字体・新仮名遣いとする。五、換韻位置は、訓読の下に」で示した。
1 朱家巷
太祖高皇帝、朱元璋(一三二八―一三九八)の出世にまつわる故事を歌う。詩題の朱家巷は江蘇句容。朱元璋の祖先は、漢の高祖劉邦の出身地である沛(江蘇)から朱家巷に移った。ただし、実際には朱元璋の生地は、父が居を移した安徽濠州の鍾離である。朱元璋の出生当時、元朝は帝位の継承をめぐる絶え間ない争いの中にあった。致和元年(一三二八)から元朝最後の皇帝である順帝が一三三八年に即位するまでの間 に、五代もの皇帝が立ったことがそれをよく示していよう。帝位が移るたびに重用される臣下もめまぐるしく変わり、政情が安定しなかったため、やがて飢饉などをきっかけに地方で反乱が起こり始めた。至正四年(一三四四)、朱元璋が一七歳の時に、当時の一家の居地であった鳳陽県泗州に疫病が流行し、朱家は父母、四子のうち長子と三子を同時に失う。さらに同年、蝗の害が起こり、末子の朱元璋は糧を求めて皇覚寺に入り、僧になった。しかし二月とたたぬうちに寺の倉は閉じられ、諸方に托鉢に出ざるを得なくなる。三年の放浪ののち皇覚寺に戻り、そこで再び三年を過ごした。至正一二年(一三五二)、四方で反乱勢力が蜂起し、濠州には紅巾軍の郭子興が拠った。朱元璋はこの集団に参加し、郭子興の養女馬氏を娶り、朱公子と呼ばれるようになる。その後朱元璋は故郷で若者を募り、七百人あまりの直属の兵を持つ。その中には開国の元勲となる徐達らがいた。至正一六年(一三五六)に集慶(後の南京)を占領して応天府と名づけるまでには、劉基をはじめとする幕僚も揃い、一大勢力となる。劉邦と並ぶ覇業の、基礎が出来上がったのである。[尤珍注]太祖の先世、句容朱家巷の人なり、陳太后(朱元璋の母) 中國詩文論叢第二十一集
一黄冠(仙人)の丸薬を授 さずけ、之を呑むを夢む、誕 うまるるに及び、白気空を貫き、異香室に満つ、皇覚寺に出家す、兵乱れ、衆散ず、帝伽藍に祝 いのり、難を避け旧を守るを校ずるに、皆従わず、既にして倡義を卜すに、
ち太平を告ぐと曰う、又え、輒上に見周顛 すなわまみ う、之を叱すれば、見群児の聖駕を迎えんと呼えず、ぶに遇 みあよ 夜に麻湖に陥る、に至り、西のかた汝・潁遂に決す、(河南) 卓然として立つ、計
なんじ一桶を打破し、再び一桶を做せと曰う、帝嘗て西北に朱台有り、数羽士の五采の絳衣を以て之に衣 きせしむるを夢む、又潭中に漁し、鯉三十五を獲 えたり、陳四有り、来 きたりて戯れて上を罩 とうし、其の五を窃 ぬすむ、索 もとめて還 かえさしむ、即位するに及びて、劉基に問う、朕位を享 うくること幾何 いくばくぞと、対 こたえて曰く、聖寿は無疆なり、然れども数を以て言わば、当 まさに三十五なるべし、其の間五年は仮る者なりと、上忽ち窃魚の数の符せるを思う、陳を召し、至れば将 まさに之を殺さんとして、往事を憶 おぼうるや否やと問うに、曰く、臣何ぞ烏龍潭に在りしを忘れんと、上曰く、吾が郷に此の潭無しと、曰く、臣此 ここに于いて烏龍を罩せしのみと、上喜び、乃ち之を官 かんす、洪武は三十年、其の五年は則ち革除と計 かぞう、帝の父母、歿 ぼつするに棺無し、山谷中に むるを謀る、道に うずはか
(綱)絶え、忽ちにして雷雨晦冥 こう 主劉継祖、地を以て焉に これ たり、明、往きて之を視るに、土裂け、屍は已に陥入す、田 み
文文集『太祖御制一、』巻一六・皇陵碑 二』巻野記明『允祝、伝・周顛仙』巻『贄李兵、続蔵書明明 』巻一・太祖起末『明史紀事本『明史』巻一―三・太祖本紀、 [資料] 碑有り、 に在り、御製皇陵う、鳳凰山の陽 みなみあと
朱家巷
皇覺寺王 人生朱家巷聖人生まる 仙授白光 興皇覚寺王者興る おこ
仙薬を授 さずけ白光横たわる」 示 兵神
呼 を示し遂に兵を起こす 駕群兒
聖駕を呼びて群児迎 むかう 顛 太 顛者に遇 あえば太平を告ぐ」打一桶做一桶一桶を打ち一桶を做せ朱臺絳衣來入 朱台絳衣来 きたりて夢に入る三十五魚卜年中三十五魚年を卜 ぼくして中 あたる皇陵 當時 言何痛皇陵碑言何ぞ痛なる」 田裂一
當時墓田一縫を裂く
日 陽鳴雙鳳異日朝陽双鳳鳴く
尤
『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤
研究会) 243
朱家巷江蘇句容に属す。明徐禎卿『翦勝野聞』は朱元璋の「朱氏世徳之碑」文を引いて「本宗朱氏、金陵の句容自り出づ、地は朱巷と名づく、通徳郷に在り」とする。乾隆の『句容県志』に載せる同碑文には「朱家巷」の字も見える。聖人天子。ここでは朱元璋を指す。『礼』大伝に「聖人南面して天下を治む」とある。皇覚寺鳳陽県、県城の南。洪武年間に龍興寺と改められた。朱元璋は出家してこの寺に入ったが、すぐに托鉢のため諸方を回らなくてはならなくなった。この前後の事情を朱元璋が自ら「皇陵碑文」に記している。仙授薬朱元璋の母陳氏は神人を夢に見、与えられた丸薬を呑んだところ、太祖をはらんだ。『明史』巻一に見える。なお漢の劉邦をはじめ、王朝の始祖には、このような感精説話が必ずつきまとう。白光横朱元璋が生まれる時に部屋から光がさし、近隣のものは火事と見誤ってかけつけた。詩は白光とするが、『明史紀事本末』巻一は「其の夕、赤光天を燭 やく」とする。赤は朱に通じ、朱姓の偉人が生まれたことを示す。神示
ば台のい頃、しばし朱台絳衣上太祖はに上ると仙人たち、朱元(一三五二)投じてその形で吉凶を占う。至正一二年若 かのほがこの事を記す。資料は占いの道具。竹や木の小片二つからなり、地に 六』巻語文『皇明世説新李紹と言った。做一桶をびせ」明 で地に再きながら「一桶を打破し、描を円手せると伏身を なせ、との意を示す。周顛は朱元璋の前に現れ、道の脇に 桶は統に通じる。元の統一を打破し、新しい統一を打一桶 記』巻一はその逸聞を多く載せる。 『続蔵書』巻二、また祝允明『野「太平を告ぐ」と言った。 周顛は朱元璋の前にことごとに現れては巻三二にある。 九九・周顛伝。朱元璋の撰とされる周顛仙伝が『全明文』 卒は不明。自ら南昌建昌の人と名乗る。伝は『明史』巻二 顛者は狂人。周顛を指す。一名を周顛仙。本名、生遇顛者 『明史紀事本末』巻一に見える。 それらは一声叱すると消え去った。と言うのに出会い、 の地を回り、食を乞うた時、道に童子たちが「聖駕を迎う」 潁太祖が出家して汝、聖駕は天子の乗る輿。呼聖駕(河南) 『明史』巻一に載せる。起兵の意を決した。 こで自ら兵を挙げることを占うと、果たして吉と出たため、 の目は凶であった。元朝を守ることも、また凶と出た。そ 璋が二五歳の時、進退の吉凶を占うと、兵乱を避けること 中國詩文論叢第二十一集
が彼に赤い衣と剣を授けるという夢を見ていた。明江盈科『聞紀』紀符瑞に見える。三十五魚魚の数は朱元璋の在位の年数を示す。朱元璋が故郷にいたころ、川で漁をすると、鯉三十五匹を得た。そこに近隣の陳四というものが来て、ふざけて朱元璋に魚捕りの籠をかぶせた。朱元璋が帰ってびくを開けてみると、鯉が五匹減っていた。陳四にただしたところ、隠していたと言い、怒る朱元璋に笑って返した。のち、天子の位について劉基に何年位を保てるかを問うたところ、劉基は「聖寿は無彊なり。然れども数を以て言わば、当に三十五なるべし。其の間五年は、仮る者なり」と答えた。朱元璋はその数が鯉と符合することに思い当たり、陳四を召し出して問うと、恐懼して往時のことを述べ、その地を烏龍潭、と答えた。自分がそこで天子の龍体を捕らえたためだ、という。その言葉に朱元璋は陳四を官に取り立てた。以上、祝允明『野記』巻一による。仮る者、というのは建文の五年間、いわゆる革除の期間を指す。永楽帝は建文の存在を認めず、建文四年までを洪武三五年と称した。劉基、字は伯温、処州青田の人。文成公、誠意伯の名をもって世に知られる。劉基については5「青田行」に詳しい。 皇陵碑碑は安徽鳳陽の鳳凰山に現存。朱元璋が自ら若年の暮らしを痛切につづったもの。文は『太祖御制文集』巻一六に収める。裂一縫一縫は一線。ひとすじ。至正四年(一三四四)、両親を疫病で失うと、朱元璋は両親を葬ろうとしたが、貧しく棺を買えなかった。激しい雨のふる中、仕方なくそのままなきがらを背負って運んでいたところ、背にくくった縄が切れ、なきがらが地の裂け目に落ちてしまった。しかし一夜明けると土が裂け目の上に積み上がり、まるで墳墓のようになっていた。地主の劉継祖は、この異事を見てその土地を朱元璋に与えた。『明史紀事本末』巻一に見える。朝陽朝陽は山の東。『詩』大雅・巻阿に「鳳凰は鳴けり矣、彼の高岡に。梧桐は生ぜり矣、彼の朝陽に」とある。双鳳一対の鳳凰。ここでは葬られた朱元璋の両親を指す。また、皇陵碑の建つのが鳳凰山であることをふまえる。
朱家巷に、聖人が生まれた。皇覚寺から、王者が功業を興す。仙人が薬を授けると母ははらみ、生まれると白い光がさした。神は託宣を下し、そこで兵を起こした。
尤
『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤
研究会) 245
天子のみこしだと、童子たちが迎える。狂者に出会えば、太平を告げると言う。一つの桶を打ち壊し、また一つの桶を作れ。朱色の台と赤い衣が、夢の中にやって来る。魚の数三十五尾は、在位の年を占い的中した。皇陵碑文の言辞の何と痛切なこと。その時墓地は一すじ裂けて、のちに朝日に二羽の鳳が鳴いた。(川浩二)
2
陽湖
元末の群雄の一人、陳友諒(?―一三六三)と朱元璋の戦いを歌う。詩題の
に、紅巾軍の劉福通は黄河と渭水の流域に勢力があった。朱 を背景に強大な力を持つ。同じくもと塩商人の方国珍は江南 は塩の密売商人であった張士誠が拠り、長江下流域の豊かさ に友諒がこれにかわり江西一帯を領していた。平江(蘇州) に天完国を建て、る徐寿輝が至正一一年(一三五一)のち陳 の勢力ではなかった。江西からは朱元璋と同じ紅巾軍を名乗 府(南京)に拠した時、彼は必ずしも各地の群雄の中で最大 陽湖朱元璋が応天はその戦場。(江西) 諒と先に戦う決断を下したのである。陳友諒は湖北 先に攻めるかという選択に迫られ、劉基の提言により、陳友 元璋は自分を挟む陳友諒・張士誠の二大勢力のうちどちらを
もと姓を謝といった。父は漁師で、彼は 陽の人。
四月、そして至正二三年備えた。(一三六三) た。その後兵力を整え、大船団を編成し、朱元璋との再戦に 武昌に拠っに江州での戦いで朱元璋に敗れたのち、三六一) 至正二一年(一自ら帝位に即いた。国号を漢と称し、、〇) 至正二〇年ついには彼に代わり、頭角をあらわし、(一三六 のを聞いて、反乱軍に身を投じた。紅巾軍の徐寿輝のもとで たが、その職を気に入らず、ある日、烏が「陳皇帝」と鳴く 陽の獄吏をしてい
に喩邦を漢の劉功業しばしばそのえられ、それに対して陳友 流れ矢に当たって没し、朱元璋は勝利をおさめた。朱元璋は 中、途れる逃大であった。陳友諒は敗北をさとって絶効果は に策風隊にぶつける火に出る。りからのがり、広が巨艦にお 態ら逃した。勢を整えた呉軍は、いかだに火薬積んで敵艦を 地か死を身につけ江中に身を投じ、身代わりとなって彼を服 も敵船に迫られて危機に陥る。そこで武将韓成は朱元璋の冠 して艦隊の力が劣っていたためはじめ不利で、朱元璋の乗船 進める。朱元璋率いる呉軍は、巨艦を大量に揃えた漢軍に対 陽湖に軍を 中國詩文論叢第二十一集
諒は楚の項羽に比される。ただし本詩では陳友諒は秦末の群雄のうち同姓で楚の地に拠った陳勝と重ねられている。韓成の忠誠も、項羽との戦いで身をもって劉邦を救った紀信にならってのことであった。以上、秦末と元末、二つの群雄割拠の時代を重ね、陳友諒の敗北までを描く。[尤珍注]元末の童謡に云う、石人一隻眼、黄河を挑動し、天下反すと、黄河を挑 ちようするに及び、果して石人の一眼なるを得たり、而して
同巻四・韓成伝 巻二・周顛仙伝、『続蔵書』巻三・太祖平漢、史紀事本末』 『元史』『明巻一二三・陳友諒伝、『明史』巻五一・五行志、 [資料] らる、衆に対して水中に投ず、後、康郎山に祠 まつ 、に急なる時、帳下指揮韓成、上の龍袍冠冕を衣て死す、方 きまさ 友諒頂顱を貫かれり、流矢に中火筏を以て之を衝かしむ、 あた く、乃ちしく卻なうこと多しと、戦に及びて、小ば、人を損 しりぞすこそこ 波中に戯るれ(江西)見むる、周顛曰く、水怪に至る、江豚 たわあらわ 黄馬当陳友諒を征し、太祖つ、起の兵(湖北) た
石人挑動
河枯石人挑動して黄河枯れ か 武昌 群梟斬竿夜鳴狐群梟竿を斬り夜狐鳴く
頭陳 呼武昌城頭陳渉呼び
兵百萬口呑
漢兵百万口に呉を呑む王師夜出大小孤王師夜出だす大小孤江豚風
氣
江豚風急に殺気
艨艟火攻血 し あら 康 一矢貫睛殞頭顱す頭顱を殞睛を貫き一矢 おと 眞人手挽金僕姑真人手ずから挽く金僕姑 ひ 糊模糊たり血火攻し艨艟
夜雨鬼哭 今に至るも至今壁壘搖菰蒲壁壘菰蒲揺れ ゆ 轉戰開鴻圖康郎転戦し鴻図を開く 嗚呼韓 當時交鋒何危乎当時鋒を交うること何ぞ危うき乎 まじ 燐蕪夜雨に鬼哭し青燐蕪る あ
無紀信誑楚今豈紀信の楚を誑するは今豈に無からんや 烈丈夫嗚呼韓成烈丈夫 陽澤 陽湖
陽沢
兩高 陽湖
合符両高祖符を合わするが若し ごと
石人一句至正五年(一三四五)に河南と河北に広がった童謡、「石人の一隻眼なる、黄河を挑動せば天下反す」に基づく。『元史』巻五一・五行志に見える。挑動は担ぎ出す
尤
『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤
研究会) 247
こと。隻眼の石人を埋めておき、黄河の治水工事を行った際、それを担ぎ出した。それ以降反軍が次々と起こったとされる。枯は元王朝の命脈が尽きることを指す。群梟梟は乱世の梟雄。以下二句は陳勝をはじめとする秦末の群雄の挙兵を、元末の動乱に重ねる。斬竿兵を挙げること。漢の賈誼「過秦」に「木を斬りて兵と為し、竿を掲げて旗と為す」と見える。鳴狐陳勝の挙兵の際、狐がその王位につくことを予言した。『漢書』巻三一・陳勝伝に「夜篝火するに、狐の鳴き、呼びて曰く、大楚興り、陳勝王たらんと」とある。武昌湖北武昌。対岸の漢陽で漢水が長江と合流し、長江中流第一の要衝。古えの楚に当たる。至正二一年(一三六一)に朱元璋の軍に敗れて以来、陳友諒はこの地に拠っていた。陳渉陳勝。渉は字。河南陽城の人。「燕雀安 いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」の言葉で知られる。第二句にもあるように、狐が鳴いて陳勝が王位につくことを予言したことは、陳友諒が烏の声を聞いて反軍に身を投じたことと似る。漢兵陳友諒が名乗った大漢の兵。至正二三年(一三六三)四月、陳友諒は船団を整え、南昌に侵攻した。その数を『明史紀事本末』巻三は「兵六十万と号す」と記す。 呉本詩の描く戦いの当時、朱元璋は応天府(のちの南京)に拠り、その国を西呉と呼んだ。大小孤大孤山、小孤山。南北に長い
朕人を称と憧れ、自ら「仙吾慕う。自ら真人と謂いて、 ま真人至高の人。仙人す。秦のた天子を表始皇帝は仙人に 句が見える。 手の髑髏血模糊たり、擲ずら提げ還す崔太夫」のか 血べったりと血模糊がつく。「戯作花卿歌」に「子章杜甫 くされた。 失乗って計は当たり、陳友諒は多くの兵を撤い退を余儀な らの風に折た。かけ柴をいかだに仕掛と火を載せ、火計薬 で艦を鎖繋いで陣を張った陳友諒に対して、朱元璋の軍は 燥荻を建じ、艨艟戦艦を以て載せ枯柴をしむ」とある。巨 に、艨艟軍艦。蘇軾「前赤壁賦」の序は「に瑜議蓋黄将部 夜還た風す」とある。浪を吹きてれ亦た雨ふり、江豚 詩に許渾二に見える。「石燕晴雲「金陵懐古」を払い唐 人を損なうこと多し」と被害を予言した、と『続蔵書』巻 るれば、「水怪戦いを前に小孤山の近くでこれを見て見 あらわ が、陳友諒とのカワイルカ。周顛江豚(1「朱家巷」参照) 置する。 陽湖の北端東岸に位 中國詩文論叢第二十一集
さず」と言った。『史記』巻六に見える。ここでは天子となる朱元璋を指す。金僕姑矢の雅名。『左氏』荘・一一に「乗丘の役に、公金僕姑を以て南宮長萬を射たり」とある。僕姑の語義は正義も「其の義を未だ聞かず」とする。句は杜牧「重送」の「手ずから捻く金僕姑、腰に懸く玉轆轤」をふまえる。一矢一句睛は目、顱は頭蓋骨。陳友諒が敗戦して逃亡中、流れ矢に当たって命を落としたことをいう。『明史紀事本末』巻三に「友諒は別舸に在りて流矢に中 あたり、睛及び顱を貫かれて死せり」とある。康郎康郎山。
本経訓に「『淮南子』幽鬼が泣き声を上げる。夜雨鬼哭蒼 なり」の句がある。 莓苔平らか菰蒲深く、閑階作四声詩寄襲美」に「荒池 菰蒲まこもとがま。水辺に生える草。陸亀蒙の「夏日閑居 とある。 「鴻図を嗣守す」唐書・巻三三・荘宗本紀に『旧五代史』 鴻図は国の領土を指す。国を興すこと。帝業を開く。開鴻図 してここに祀られた。 この康郎山のふもとであった。また韓成は死後、高陽侯と 陽湖の南端に面する。両軍が対峙したのは 青燐燐は鬼火。元 頡書を作り、天は粟を雨ふらせ、鬼は夜哭す」とある。
ば戦功をあげ、元帥に上った。 南直隸虹県の人。江南における覇権争いの際、しばし韓成 に沈み、戦鬼陰燐を聚む」の句がある。 の「代曲江老人百韻」に「破船古渡
南の )紀信誑楚紀信(?―前四二〇は、劉邦の幕下の将軍。河 書』巻四に見える。続蔵『本末』巻三、 朱元璋は死地を『明史紀事した。脱るみ、ゆは追撃軍の敵 け、船から身を服冠冕を身につ投じた。この献身によって 衣まず」と言って太祖の成す者有り。臣敢えて其の死を愛 おし 「古人に身を殺し以て仁をに包囲されて窮地に陥った時、 制親兵左都指揮使に任じられていた。朱元璋の乗船が漢軍 陽湖の戦いでは、帳前総 している。」に「韓成「紀誑楚信誑漢」を比し、賞賛 項羽語は評の伝書』韓成続蔵せる。なお『載本紀に・巻七 偽乗り、『史記』を逃がした。劉邦かにひそし、降伏って に駕の劉邦が信軍に包囲された時、紀楚陽で漢軍が
陽澤河南
する。並称と明太祖朱元璋を劉邦漢高祖両高祖 地。 「紀信陽に楚」の故辺。鄭州近の今す。属誑
尤
『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤
研究会) 249
石人形を担ぎ出せば黄河は枯れ、梟雄たちは挙兵し、狐は夜に鳴いた。武昌の城頭に陳勝が大声で叫ぶと、集った漢軍は百万、一口に呉軍を呑もうとする。太祖の軍が夜に大小孤山から進軍すると、カワイルカが現れ、風は激しくなり、殺気が吹き荒れる。軍船を用いて火計をしかけると、血で辺りが赤く染まるほど。太祖は自ら弓をとって金僕姑を引きしぼり、一矢は陳友諒の目を貫き、頭骨まで射抜いた。康郎山での転戦が、国の基を開いた。今でも、とりでの土塁にまこもやがまが揺れ、夜に雨が降れば幽鬼が泣き、鬼火が荒涼たる地に飛ぶ。その折の戦いの、何と危うかったことか。ああ、韓成は烈丈夫。紀信が楚をあざむいたことが、今もあるのだ。
陽沢と、
(川浩二) 二人の高祖の帝業は、ぴったりと符合するようだ。 陽湖と。
3 齊雲樓
群雄の一人、蘇州(当時は平江)を本拠とした張士誠(?―一三六七)の最期を歌う。詩題の斉雲楼は蘇州城内の楼閣。塩の密売商人であった張士誠は、至正一三年(一三五三)、江蘇高郵で反乱を起こした。元は右丞相の脱脱 トクトを討伐に差し向け、高郵を包囲したため、張士誠は危機に陥る。ところが翌年に脱脱 トクトは政争から罷免され、それに乗じて元軍を破り、南下して蘇州に拠点を移し常州・松江・湖州に勢力を拡大した。はじめ誠王と称し、国号を大周国としていたが、至正一七年(一三五七)、西の朱元璋に対抗するために元と結び、太尉の位を授けられた。その後、毎年糧米を大都(北京)に送ったが、それは蘇州から浙江にかけての肥沃な土地と豊富な資金を押さえていることの証であった。張士誠は元に王号を求めたが認められなかったので、至正二三年(一三六三)、再び独立して呉王を称した。しかし張士誠は政治を弟の張士信とその取り巻きに任せるようになり、享楽にふけって長期的な視野を持たなかった。対して朱元璋は陳友諒を破ると、至正二四年(一三六四)に同じく呉王を名乗り、積極的に攻勢に出た。至正二六年(一三六六)、朱元璋軍は湖州・杭州を落とし、 中國詩文論叢第二十一集
蘇州を包囲する。十ヶ月の篭城の後、至正二七年(一三六七)九月、ついに落城し、張士誠は捕らえられて応天府(南京)に送られ、そこで自縊した。張士誠はしばしばその決断力の乏しさを非難されるが、富豪たちの利益を守り、文人たちを保護したため、蘇州では彼の評判は高く、「死すとも怨みず、泰州の張」といわれた。本詩もその最期を潔いものに描き、評価している。[尤珍注]張士誠兵敗 やぶれ、妻劉氏に謂いて曰く、我敗れて且 まさに死せんとす、若 なんじが曹 ともがら奚 なにをか為 なすと、劉曰く、君憂うること勿 なかれ、妾必ず君に負 そむかずと、乃ち薪を斉雲楼下に積み、群妾侍女を駆 かつて自尽 じじんせしめ、火を縦 はなちて之を焚 やき、遂に自縊する也 なり、士誠執 とらわれて食 くらわず、帝に見 まみゆるに瞑目して踞坐す、帝叱して曰く、盍 なんぞ我を視 みざると、曰く、天日爾 なんじを照らし、我を照らさず、爾を視て何と為 するぞと、士誠の弟士信相と為 な
り、専ら黄敬夫・蔡彦文・葉
新に任ず、事
西風起こり、乾う、一朝 りて云う、七字詩を為丞相事業を做すに、専ら黄菜葉を用 つく れ、呉人十 やぶ
頭児と為す、婦人の瓜を懐燈謎を為或いはり、きて跣なる いだつく を乾す、微行するに、老媼有り、呼びて老竿に風して焉上 ほこれ と、太祖三人を誅し、其の屍を 翦勝野聞『禎卿徐呉、』明 、『明史事本平四・太祖巻』末伝一二三・張士誠巻『明史』紀 [資料] ぜらる、 なり、陳理(陳友諒の子)降り、帰徳侯に封(排行)士誠の行 くだ る、九四はすと、並びに其の里を屠王と為す、鼠輩敢えて爾 ほふしか 已に死せるに人呼んで張大いに怒りて曰く、張士誠、上也 なり だ大脚と云い、好淮西の婦人馬后を嘲る隠語に、る、に像 かたどはなは
齊雲樓下烽
斉雲楼下烽煙起こり三百紅妝同日死三百の紅粧同日に死す高郵
竊舊鹽徒高郵の草窃旧と塩徒 も
囚王敗ち則るればり敗ち王為則らば成則囚則爲 たやぶ 爲殘元殉疆壘ず」殉に彊塁の為にお残元猶 な
死羞作歸
瞑目 水水業の建まず飲して閉を口業閉口不飮建 とざ 侯ず羞るを作帰徳侯と死すとも寧ろ はな
西風可恨 看秣陵秋目を瞑じて看るに忍びんや秣陵の秋」 と
恨む可 べし西風黄菜葉天 項 何須
天項羽を亡ぼすに何ぞ説 とくを須 もちいん至今 老弔戰場今に至るも遺老戦場を弔う とむら
尤
『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤
研究会) 251
門流水聲嗚咽
老頭兒短 君不見君見ずや み 門の流水声嗚咽す」
九四 脚長老頭児は短く婦脚は長し 死呼張王九四郎死するも張王と呼ばる
斉雲楼蘇州城内の長洲県がわ南東寄り、古くから府が置かれた子城にあり、唐宋の詩人の詩題となる。張士誠もこの子城に居していた。平江落城にともない焼け落ちて、宋元以来の建物は全て失われ、明は蘇州府を城内の呉県がわに移した。烽煙戦火によって起こる煙。駱賓王「夕次蒲類津」に「
火軍壁に通じ、烽煙戍樓に上る」とある。三百一句紅粧は美しく化粧した女。張士誠の妻劉氏は、至正二七年(一三六七)九月、城が陥ったことを知ると、妾たちを斉雲楼に登らせて火を放って焼き、自らは縊死した。『明史紀事本末』巻四に見える。句は杜甫『悲陳陶』の「四万の義軍同日に死す」をふまえる。高郵江蘇高郵。揚州の北、大運河に沿う。秦の高郵亭。張士誠はここから兵を起こした。草窃草賊。小盗人。ここでは張士誠を指す。『周書』巻一 四・賀岳伝に「蜀の賊は草窃なる而 の己 み」とある。塩徒塩の密売商人。張士誠のこと。『明史』巻一二三に「船を操り塩を運ぶを以て業と為す」とある。残元ほろびかけた元朝。張士誠はいったん元に帰順した。彊塁辺境のとりで。江南は大都から見れば辺境といえる。成則為王一句勝てば王、敗れれば囚人。唐の淮南節度使高駢に対して叛乱を企てた畢師鐸が、処刑されるとき「成れば則ち王、敗るれば則ち虜」と言った。『新唐書』巻一四九・高駢伝に見える。帰徳侯陳友諒の幼子陳理は、朱元璋に帰徳侯の位に封じられた。なお封号は朱元璋の徳に帰順するという意味。陳理の伝は『明史』巻一二三・陳友諒伝に付される。閉口口を閉じる。張士誠は捕らわれて後食を断ったと『明史』巻一二三にある。建業南京の古称。本句は三国呉の甘露元年(二六五)、建業から武昌へ遷都しようとした孫皓に対して、陸凱が諫言の中に引いた童謡、「寧ろ建業の水を飲むも、武昌の魚を食らわず、寧ろ還りて建業に死すも、武昌の居に止まらず」の句の逆をいったもの。『三国志』呉書・巻六一・陸凱伝に見える。 中國詩文論叢第二十一集
瞑目目を閉じる。徐禎卿『翦勝野聞』によれば、張士誠は捕らわれて朱元璋を前にし、目を閉じてあぐらをかき、「天日爾を照らし、我を照らさず。爾を視て何と為るぞ」と言った。秣陵秋秣陵は南京の古称。蘇州が破れ張士誠が自殺したのは秋九月。西風一句西風は秋風。西から攻めてくる朱元璋をも指す。黄菜葉は、張士誠の弟張士信が信任した黄敬夫、蔡彦文、葉徳新の三人を表す。蘇州の民はこの三人が張士誠を亡ぼすことになると「丞相事業を做すに、専ら黄菜葉を用う。一朝西風起ち、乾
」と歌った。乾
見える。 巻七・項羽本紀に『史記』と言った。戦の罪に非ざる也」 天亡項羽我を亡ぼす、「天項羽は劉邦に敗れて東城に逃れ、 しばしば引かれる。 のほか『古謡諺』巻一四にも所収。蘇州陥落を詠んだ詩に 『翦勝野聞』巻一二三、『明史』歌はは竿にかけられた。 に朱元璋に破れると、張士信と黄蔡葉の三人は殺され、屍 は干しあがる意。後
れた。明清代はこの周辺が繁華街であった。 門蘇州城の西門。戦国時、楚に向くため破楚門とも呼ば 衆だ甚ることむし」とある。 せし籍没びて老頭児と為すは何ぞやと、即ち命じて民家を 天子と為るに、呼今に至るも呼びて張王と為す、我民 の項に、江東呉の「張士誠は小窃なるに、「老頭児」前注 蘇州の人々は張士誠を「張王」と呼んだ。張王『翦勝野聞』 九四は張士誠の排行。九四郎 「淮西」に通じる。 瓜の謎は「の「懐西瓜」懐西」がに載せる。『翦勝野聞』 て淮西の百姓出身の馬后を嘲ったことを示す。この記事も に瓜を抱えた裸足の婦人を描い花灯に謎かけを書いたもの) (元宵に飾るまた婦脚は灯謎に見える。『翦勝野聞』とが 州に入城した時、一人の老婆が彼を「老頭児」と呼んだこ 云々すること。老頭児は、じじい、ほどの意。朱元璋が蘇 老頭児一句李「張家長、家短」の用法で人やものの長短を 『古謡諺』巻二八にも所収。る。 の句が見え断絶す」肝腸かに秦川を望めば、遥咽たり。 巻二一『楽府詩集』に「隴頭水」鳴声は幽「隴頭の流水、 川の流れる音がすすり泣く声のように響く。流水声嗚咽
斉雲楼下に煙が上がり、
尤
『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤
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三百の美人が同じ日に死んだ。(張士誠は)高郵の小盗人でもとは塩の売人、それが末期の元朝に辺境のとりでで殉じようとした。成功すれば王、敗れれば囚人。帰徳侯などに封じられるなら死ぬほうがましだ。口を閉ざして、建業の水を飲まない。目をつむり、秣陵の秋を見るにしのびようか。恨めしいのは秋風に黄ばむ菜の葉。天が項羽を亡ぼすのだ、何も言う必要はない。今でも生き残りの老人たちは戦場をとむらい、
(川浩二) 九四郎は、死んでも張王と呼ばれているのに。 ごらん、朱元璋はおいぼれ、馬后は大足などと罵られた、 門に流れる水の音はすすり泣く声のようだ。
4 大都亡
元の滅亡と、明の開国の元勲徐達(一三三二―一三八五)の出征から死に至るまでの事跡を中心に歌う。詩題の大都は後の北京。金代に中都とされ、元の世祖クビライ汗によって「汗の都」を意味するカンバリクと名づけられた。それを漢 訳して大都と呼ぶ。現在まで続く北京の基礎はこのときの都市計画によるところが大きい。元朝第十一代、最後の皇帝となる妥歓帖睦尓 トゴン=ティムール(一三二〇―一三七一)は一三三二年に一三歳で即位し、順帝と号した。順帝は幼くして、叔父の九代皇帝文宗から八代皇帝明宗の子ではないとされ、広西桂林の静江に流されていた。それが至順三年(一三三二)九月に文宗が、次に即位した寧宗が同年十一月に崩じたため、静江から大都へ迎えられたのである。しかし順帝には頼るべき家臣もなく、政治よりも文芸に耽溺した。さらにその後房中術にふけるようになり、ますます国事から遠ざかった。各地の反乱がさかんになると、討伐のために送ったはずの元軍が反乱軍に取りこまれることもしばしばで、もはや元朝の崩壊は必至であった。至正二七年(一三六七)十月、陳友諒・張士誠を滅ぼした朱元璋は、北伐の命を下した。徐達に征虜大将軍を授け、常遇春を副将軍とし、まず山東を落とし、次に河南に向かわせた。朱元璋が明の国号をとなえた洪武元年(一三六八)の四月には、河南までを平定し、五月に朱元璋も自ら
手にれ、名北を河した。朱元璋は占領二日、徐達は大都を入 元年八月洪武れる。逃抵抗敗すると、順帝はをあきらめ北に 軍が大通州七月、閏えた。整を準備る入め攻し、大都にで元 梁に達 中國詩文論叢第二十一集
実ともに中国の主となったのである。徐達は安徽鳳陽の人。家は代々農家であったが、武を好み大志を抱いた。二二歳の時朱元璋と出会い、たちまち意気投合して彼に従った。朱元璋の信頼は最も厚く、陳友諒・張士誠との戦い、北への侵攻の全てにおいて軍の総司令官を任じられていた。朱元璋は宴席では徐達を兄弟と呼び、その功績を高く評価したという。その後、大都から名を改めた北平に長く留まり、燕王(後の成祖)朱棣と親しく、長女をその后とした。洪武一七年(一三八五)に北平で背に疽を病んで没すると、朱元璋は徐達に中山王の位をおくった。[尤珍注]徐達元の順帝を追い、将 まさに之に及ばんとするに、忽ち令を下して師を班 かえす、常遇春大いに怒り、馳せ帰りて帝に告げて曰く、徐達反せり矣と。達乃ち潜 ひそかに還り、剣に仗 よりて入り、帝に謁す、盛怒して其の故を問う、達曰く、元君微なりと雖も、嘗て中国に主たり、我れ執 とらえて以て来るに、何を以て之を待 またんと、帝の怒り乃ち解く、李文忠応昌に至るに、元主
元主の次子なり、之を強いて酔て達に酒を飲ましめ、嘗上 う、命じて献俘を免ぜしむ、納哈出は元臣なり、地保奴は獲 とら し、太子愛猷識理買的八刺をれ去る、其の孫遁 のが 事め、其の後慰をを らしむ、之出でて帝を拝す、し、哭大いに人夫斬めて収を して紙銭す、蓬跣帝担を徒し、哭して第に至る、命じて医 たん に卒らい、遂かに流涕し、之を密食諸医をして逃逸せしめ、 使者に対して忽ち膳を賜る、達ゆ、一日むるに、少しく差 い 疽を病むに、上後しば往きて視る、医を集めて調治せし数 しば 之を聞き乃ち喜ぶ、ず、上して叩拝して出起きて、殿下に趨 いすう けて旧内に宿せしむ、酒醒め驚きをして扶人わしむ、夜半 たす
しゆうして還 かえる、[資料]『元史』巻三八―四七・順帝本紀、『明史』巻一二五・徐達伝、『明史紀事本末』巻八・北伐中原、巻十・故元遺兵、清傅維麟『明書』巻九一・徐達伝、明徐禎卿『翦勝野聞』、清趙翼『廿二史箚記』巻三六・徐達縦元君之誤、福本雅一「天魔の舞」(中国古典研究第三一号)
大
元
買 歸而逋愛猷識理れ逋帰りて愛猷識理 のが 問う焉んぞ」可けんや亦た人君彼も焉可人君亦彼問 いずく 將大軍下班師令下せるは班師の令大将軍 る遯帝び元亡大都遯 のが
八刺 獻俘買的八刺献俘を免ぜらる
尤『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤研究会)
255
馮 已 哈出馮勝已に納哈出を降し くだ
玉仍擒地保奴藍玉仍お地保奴を擒にす な
固有
緩 ゆるく追いて賊を逸するは固より道有り窮兵搜捕奚爲乎兵を窮め捜捕して奚 なにをか為 なさん乎」咄哉 春見何
咄なる哉遇春見ること何ぞ晩 くらき棄軍 訴徐 反軍を棄て奔りて訴う徐達反せりと うつた
蓬跣 不死醫藥死御膳医薬に死せず御膳に死す 不反達は反せず 可憐舊 哭豈相見蓬跣し道に哭するも豈に相い見えんや まみ
殿下叩頭 酒醒時憐れむ可し旧内に酒醒めし時 べ
夜 殿下に叩頭し夜半に起 おく
大都亡洪武元年(一三六八)閏七月、徐達が率いる明軍が大都に迫ると、順帝は北に逃れることを計り、同月二七日夜半、后妃太子とともに大都を脱出した。その後八月二日に入城した徐達の軍は、元の重臣たちこそ処刑したものの、朱元璋の命令通り略奪を厳しく禁じ、城内に大きな混乱は起こらなかった。大将軍徐達を指す。彼は北伐の際、征虜大将軍を授けられた。 班師軍を返す。『左伝』襄・十に「帰る能わざるを懼るれば班師を請う」とあり「班は還なり」と注される。三、四、一一、一二の各句はいずれも徐達が順帝を追いつめた際、軍を返す命令を出した、という記録による。徐禎卿『翦勝野聞』は次のようにいう。常遇春が順帝を追いつめたところで、突然徐達が軍を返す命令を下した。そのため常遇春は応天府(南京)に馳せ戻り朱元璋に、徐達反せり、と告げた。徐達も応天府に戻り、武装を解かず自らの軍船の上で朱元璋に謁見した。徐達はそこで順帝を捕らえても益がないことを説いたので、朱元璋の怒りは解けた。しかし『明史』をはじめとする諸資料には、二将が朱元璋に応天府で謁見した記録は見えない。趙翼『廿二史箚記』巻三六もこの事を考証し、徐達が順帝を追いつめた事実はありえないと断定する。人君君主。『左伝』昭・一六に「且 まさに既に人君為 たるに、而して又人臣為るよりは死するに如かず」とある。愛猷識理順帝の太子、愛猷識理達臘 アユル=シリダラ(?―一三七八)。元朝第一一代皇帝・順帝(トゴン=ティムール)の長子。至正一三年(一三五八)に皇太子となる。洪武元年(一三六八)、大都を順帝とともに脱出し、洪武三年(一三七〇)五月、 中國詩文論叢第二十一集
李文忠率いる明軍に追われて応昌(現内蒙古自治区)から北に逃れ、さらに和林 カラコルムへと逃亡した。一三七一年、この地で即位し、ビリクト=ハーンと称し、宣光と改元する。即位後は河南王拡廓帖木児 ココ=ティムールとともに南方の回復を志すが、その死後、勢力は減退する。やがてカラコルムから金山へ本営を移し、一三七八年四月にこの地で病没する。廟号は昭宗。その後、弟の脱古思帖木児 トグス=ティムールが位を継いだ。伝は『元史類編』巻三〇・順帝本紀に付される。買的八刺愛猷識理達臘 アユル=シリダラの子、買的里八刺 マイダリパラ。洪武三年(一三七〇)五月、応昌で明軍に捕らえられ、応天府(南京)に護送された。臣下には処刑をすすめるものがあったが、朱元璋は許して崇礼侯を授けた。のち洪武七年(一三七四)九月に放還された。伝は父と同じく『元史類編』巻三〇に付される。献俘捕虜を処刑して犠牲として太廟に捧げること。『左伝』僖・二八に「献俘」の文字が見え、杜預は「楚の俘を廟に献ず」と注する。馮勝安徽定遠の人。はじめ名を国勝といい、のち勝とした。兄の国用とともに朱元璋に仕えた。徐達、李文忠らの死後は征虜大将軍に任じられた。洪武二〇年(一三八七)、納哈 出を降した際に戦利品を私したことをとがめられてから、朱元璋の寵を失った。洪武二六年(一三九三)の藍玉の獄には連座こそしなかったものの、洪武二八年(一三九五)に死を賜り、子は位を継ぐことをゆるされなかった。伝は『明史』巻一二九・馮勝伝。納哈出ナハチュ。元の名将木華黎の子孫。洪武元年(一三六八)に大都が占領される時、捕虜となったが、朱元璋に見出されて厚遇を受けた。しかしその後願い出て北元に還った。洪武二〇年(一三八七)、馮勝に降り、再び明に仕えて海西侯を授けられた。翌年、明軍に従って雲南征伐に向かう途中、湖北武昌で没した。伝は『明史』巻一二九・納哈出伝。藍玉安徽定遠の人。常遇春の義弟。長く朱元璋に従い武将として仕えた。洪武二一年(一三八八)の戦いで元軍を破って大功を挙げ、涼国公に叙せられた。しかしその際元の公妃を私し、それを知られ朱元璋の不興をかった。後に大逆の罪に問われたことは、8「胡藍獄」に詳しい。伝は『明史』巻一三二・藍玉伝。地保奴愛猷識理達臘 アユル=シリダラの弟脱古思帖木児 トグス=ティムールの次子。洪武二一年(一三八八)四月、藍玉は軍を率いて慶州(現内蒙古自治区)
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『擬明史楽府』訳注(一)(福本・尤
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から捕魚児海 ブイル・ノールに進み、野営中の元軍を攻撃した。脱古思帖木児と太子天保奴は逃れたものの、地保奴ら皇族、公主をはじめとする多くの元人が捕虜となった。のち藍玉に母を私されたことを知り激怒し、そのため琉球に流された。緩追逸賊わざとゆっくり追って相手を逃がすこと。『穀梁伝』隠・元に「緩く追いて賊を逸するは、親に親しむの道なり」とある。窮兵徹底して武力を行使する。『史記』巻一一二に「世を滅し祀を絶やす者は、兵を窮むるの禍なり」とある。『明史』徐達伝は大都への侵攻に先んじて、洪武元年(一三六八)の五月、
逃げないと殺されると告げた。ある日朱元璋から食事を賜 と、朱元璋は名医を集めて遣わしたが、徐達は医者に早く (一三八五)いう。洪武一七年、徐達が背にできものを病む 徐達が朱元璋から賜った膳を食べて死んだことを不死一句 見は見識。晩は昏いの意。韻のため用いた。見何晩 くら とある。 『臨済録』示衆に「咄哉、好悪を識らず」非難を表す。咄哉 する。 元璋は順帝を「兵を窮めて」追う必要はないと言った、と 梁に達した朱元璋に徐達が謁見した時、朱 に親「始めて死せば、 親の葬儀にとる礼。蓬はほどいた髪。喪問蓬跣道哭『礼』 食べた、とするが、この記事は『龍興慈記』に見えない。 した鵞鳥の肉を差し入れ、意を察した徐達は泣いてこれを 慈記』を引いて、朱元璋が徐達にできものに悪いという蒸 趙翼『廿二史箚記』『龍興巻三六・明史立伝多存大礼は、 『明書』巻九一、徐禎卿『翦勝野聞』に載せる。なかった。 し向けたが、彼らはすでに逃げ去り、捕らえることはでき り、徐達はそれを食べて死んだ。朱元璋は医者に追手を差
斯して徒跣す」とある。
に所諸資料『明史』巻一二五をはじめとしてうた。乞を載。 寝かせた。徐達は酒が醒起めてきると、驚いて拝礼し死罪 に寝台んで朱元璋が使っていた運させ、の宮殿で彼を泥酔 よ達に固辞うとしたが、彼は与えした。そこである時、こ っていた時の宮殿のこと。朱元璋はこれを徐乗を名呉王が 旧内古い宮殿。ここでは応天府にあった、朱元璋()南京 『翦勝野聞』に見える。 巻九一、『明書』不死一句と同じく、ないことを約した。 し、屋敷に向かった。徐達の夫人に会うと、後事の憂いの と、朱元璋は髪をほどきはだしになり、紙銭を担いで慟哭 冠をはずし笄だけになること。徒跣ははだし。徐達が死ぬ 斯は 中國詩文論叢第二十一集
大都が亡び、順帝は逃れた。大将軍は軍を返す命令を下した。かれも皇帝だったのだから、審問することはできない。愛猷識理達臘 アユル=シリダラは北に帰り逃れ、買的里八刺 マイダリパラは処刑を免れた。馮勝はさきに納哈出 ナハチユを降らせ、藍玉はそれから地保奴をとりこにした。逃げる賊を追わないというしかるべきやりかたがあるのに、徹底して追い詰めてどうしようというのか。常遇春よ、なんと見識の低いことか。軍を捨てて走り帰り、徐達が反したなどと訴えるとは。徐達は反してなどいない。彼は医者の薬で死んだのではない、下された食事で死んだのだ。髪を解きはだしになって慟哭しても、会うことなどできない。ああ、あわれなことだ、旧内の宮殿で酒が醒めた時、きざはしのもと叩頭して死罪を乞うたのだ、夜半に目覚めて。(川浩二)
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田行
開国の功臣・劉基(一三一一―一三七五)の事蹟を歌う。字は伯温、浙江青田の人。文成と諡された。出身地によって、劉青田とも呼ばれる。元の至順四年(一三三三)の進士。江西高安県丞・江浙儒学副提挙・江浙行省都事などを歴任し、江左の諸葛亮と称された。至正一三年(一三五三)、朝廷の方国珍招撫政策に反対し、紹興に蟄居させられる。のち数年の間、浙江の山水に放浪し詩文に耽っていたが、至正一七年(一三五七)、行枢密院経歴に任ぜられ、石抹宜孫と共に浙江処州を守った。以来、詩歌を善くした彼と意気投合し、詩文の応酬を重ねたが、その三年後、宜孫は朱元璋の軍に敗れ、処州で戦死する。劉基もまた、方国珍に左袒する執政によって軍功を無視されたため、至正一八年(一三五八)、官を棄てて郷里に帰った。帰郷後、劉基はその鬱勃たる志を『郁離子』に示すが、至正二〇年(一三六〇)、宋濂らと共に朱元璋の招きに応じて、その幕下に身を投じる。以後、朱元璋の謀臣として覇業を助け、諸制度の制定にも多く参与した。その功績によって誠意伯に封ぜられたが、丞相の人選をめぐって胡惟庸を酷評した
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ため、彼の恨みを買い、のち讒言にあって憂憤のうちに没した。一説には、胡惟庸が派遣した医者の薬を飲んで毒殺されたともいう。劉基は明初の代表的な詩文家であり、特に古体詩にすぐれる。また、天文術数に通じ、預言者としての逸話も多い。著に『誠意伯文集』がある。伝は『明史』巻一二八。[尤珍注]基嘗 かつて客と西湖に飲むに、異雲の西北より起こる有り、大言して曰く、此れ天子の気也、応に金陵に在るべし、十年の後王者の興 おこる有らん、吾当に之を輔 たすくべしと、衆駭 おどろきて去る、後太祖に帰す、中書省御座を設け、小明王を奉ず、基独り拝せずして曰く、彼は牧豎 ぼくじゆなる耳 のみ、之を奉じて何をか為さん、当に大明と号して以て之を圧すべしと、基嘗て石抹宜孫の幕を佐 たすく、今集中に詩有り、謝皐羽伝の後に題すは、殆 ほとんど宜孫の為 ために作る也、先に高安県丞為 たりしとき、老人
と略す)(以下巻、『明史』「行状」黄伯生「誠意伯劉公行状」 [資料] を惜しむ也、 庸の毒する所と為る、故に赤松子に従いて遊ぶこと能わざる 、胡惟祥甫授くるに天文術数を以てす、其の卒する也 や 三・胡藍之獄、李贄『続蔵書』巻二・劉基伝、明明 一二八・劉基伝、『明史紀事本末』巻二・平定東南、同巻一
(浙江古籍出版社・一九九九年一二月)点校『劉基集』 驪家、林「劉基詩序説」八・一九六三年四月)一(『中国文学報』 甲集・劉基伝、福本雅一『列朝詩集小伝』銭謙益劉基伝、清 巻一二三・『明史稿』王鴻緒巻一四・劉基伝、『皇明書』清 元錫 金陵天子氣如龍金陵天子気龍の如し先生笑飮西湖中先生笑いて飲む西湖の中小明豎子何足
小明は豎 じゆ子 し何ぞ道 いうに足らん大明一出空群雄大明一 ひとたび出でて群雄を空 むなしくす雖云天授非人力天授にして人力に非ずと云うと雖も佐命允推元臣功佐命允 まことに推す元臣の功惜哉
入宜孫
惜しい哉誤って入る宜孫の幕不如
膝吟 中如かず膝を抱きて
詩賦爲弔謝皐 中に吟ぜんには 詩を賦し為 ために弔う謝皐羽西臺慟哭生悲風西台に慟哭すれば悲風生ず郁離子犂眉公郁離子犂眉公文號留侯同文成の号留侯に同じ」高安授書
上比高安にて書を授かるは
上に比せらるるも 中國詩文論叢第二十一集