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仏教系生命保険会社の生成について

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仏教系生命保険会社の生成について

⎜⎜ 真宗信徒生命を中心に ⎜⎜

深 見 泰 孝

■アブストラクト

明治20年代に,各宗仏教団体を中心とするか又は宗教団体を背景とする生 命保険会社が続々と設立されたことは,わが国の生命保険業史上における特 徴の一つに挙げられている。わが国で仏教教団が生命保険事業へ進出した理 由を解明するには,個別の仏教系生命保険会社の内部史料を用いて分析する ことが必要となる。本稿では,真宗信徒生命に関与した本願寺の 定期集会 筆記 という議会議事速記録を用いて,真宗信徒生命の設立理由を検討した。

その結果,キリスト教に対する危機感を幕末・維新期から醸成していた本願 寺教団が,外国人の内地雑居を目前に控え,キリスト教対策の慈善事業費を 調達することを目的として設立された会社であることを明らかにした。そし て,その中心には,赤松連城や島地黙雷といった留学経験のある役僧がいた ことが明らかとなった。

■キーワード

仏教系生命保険会社の設立理由,寺院経済との関連性

1.はじめに

平成13年3月,東京生命保険相互会社(以下,東京生命と略記)が経営破 綻した。同社の前身は明治28年4月に設立された真宗信徒生命保険株式会社

*平成19年6月16日の日本保険学会関西部会報告による。

/平成19年7月9日原稿受領。

【査読済み論文】

(2)

(以下,真宗信徒生命と略記)であった。この会社は,資本金50万円で,浄 土真宗本願寺派(以下,本願寺と略記)門信徒が経営していた,いわゆる仏 教系生命保険会社(以下,仏教系生保)であった。仏教系生保とは,小林

(平成元年)の定義を借りれば, 各宗仏教団体を中心とするか又は宗教団体 を背景とする生命保険会社 のことを指しており,明治27年から明治30年 ごろを中心に,続々と設立された。このことは,生命保険業史上においても,

わが国固有の特徴の一つとして挙げられており,明治30年前後にその数は10 社に上った 。また,計画された会社も含めるとその数はさらに増加する 。 しかし,その寿命は表1に示すように全般的に短かったこともその特徴とい える。

1) 小林惟司 日本保険思想の生成と展開 東洋経済新報社,平成元年,p.438。

2) 仏教系生保とした10社とは,仏教生命(仏教各派),有隣生命(仏教各派),

明教保険(神仏総合),真宗信徒生命(本願寺),真宗生命(浄土真宗各派),

日宗生命(日蓮宗),禅徒生命(臨済宗円覚寺派),六条生命(浄土真宗大谷 派),共慶生命(浄土真宗大谷派),御嶽生存(御嶽教)である。

3) 当時,設立が計画されていた会社とは,日本各宗生命,臨済生命,成田生命,

内外相互保険,豊川生命などである。

(3)

さて,宗教と生命保険や仏教系生保に関する先行研究としては,友松(昭 和8年),椎名(昭和42年),小林(平成元年,平成3年,平成9年),田村

(平成18年)が挙げられる。そこで,まず,宗教と生命保険に関する研究か ら言及したい。椎名(昭和42年)では,宗教と生命保険に共通している点は,

安心立命の心境に達せしめることを目的としていること。また,不安がなけ れば両者は成立しないことを挙げた。一方で,この両者の差異は,不幸な偶 発的事件が発生した際の対応にあるとした。すなわち,保険は加入者に対し て損失を補塡して財産を保全するが,宗教は,単に信心が足りないと処理す るだけであり,ここに差異があるとした。加えて,ヨーロッパでは,保険は 神罰を減殺させるものとの偏見から,宗教が生命保険を敵視していたのに対 し,日本は,現世利益を希求する国民性から,こうした偏見は見られなかっ たことを指摘した。田村(平成18年)では,宗教と保険の両者の構造は,

死後の給付を約束することによって安心感を与える 点が類似していたこ (表1)仏教系生保の営業期間

会社名 設立年月 備考

仏教生命保険株式会社 明治27年3月 明治43年5月任意解散

有隣生命保険株式会社 明治27年4月 明治44年高倉藤平へ経営支配権異動 明教保険株式会社 明治27年5月 明治39年11月任意解散

真宗信徒生命保険株式

会社 明治28年4月 昭和9年9月,野村財閥へ経営支配権異動 真宗生命保険株式会社 明治28年8月 明治32年6月,広岡久右衛門へ経営支配権異

日宗生命保険株式会社 明治30年2月 明治42年9月解散 禅徒生命株式会社 明治30年12月 明治38年1月任意解散 六条生命保険株式会社 明治32年2月 明治40年4月任意解散

共慶生命保険株式会社 明治33年10月 昭和11年11月,帝国生命に契約を包括移転・

解散

御嶽生存保険合資会社 明治31年5月 明治33年5月経営支配権移転。御嶽教と関係 なし。

(出所)東京生命社史編纂委員会編 東京生命七十年史 昭和45年,p.26,保険 銀行時報社 本邦生命保険業史 昭和8年,(会社)pp.140‑221,生命保 険会社協会編 明治大正保険史料 第3巻 第2編 昭和14年,pp.1106‑

1258より作成。

(4)

とを指摘した。そして,このことがアメリカで宗教界から生命保険が反発を 受けた理由とした。一方,日本でそうした反発が起きなかったのは,生保業 界が,生命保険をあたかも貯蓄の一種であるかの如く販売していたこと。そ して,仏教教団が,自宗の教義と生命保険の関係には無関心なままに,専ら 教団財政上の理由から生保事業に参入していたこと,この2点から,キリス ト教のような内心の深刻な葛藤とは無縁であったため,反発が起きなかった と結論づけた。

また,仏教系生保に関する先行研究として,友松(昭和8年)では,多く の仏教系生保の設立理由は,教団内部の経済的理由という内部要因と日清戦 勝の余沢という外部要因によるとした。そして,仏教の無常感に対する用意 を団体的,計数的にするのが保険事業であり,この点に仏教と保険事業の結 合点を求めたが,実際上の両者の関係は,利益の一部を教団へ寄付して,教 団から保険加入者としての信徒の利用権を得るという経済的関係にあったと 結論づけた。次に,小林(平成元年)では,仏教教団が生命保険事業へ進出 した理由を,明治維新以後の国家神道政策によって寺院経済は多大な影響を 受け,その経済的苦境を乗り切るため,教団が後援者として自らの財源を確 保したいことにそれを求めた。また,利益配分上の特徴として,準備金積立 よりも教団への寄付に重点が置かれていたことを挙げた。そして,募集活動 でも保険数理を理解せず,宗門の権威を用いることがその前提にあったため,

事業構想が緻密にされなかったこと,そして,宗教教理のために積極的な営 利行為が行えなかったこと,これらを仏教系生保の失敗要因とした。同様に,

小林(平成3年)でも,仏教教団の生命保険事業への進出理由を経済的困窮 としている。さらに,小林(平成9年)では,江戸時代に東西本願寺で行わ れていた家人救済法を,本願寺の財政構造やその中心人物から考察している。

こうした先行研究を踏まえ,本稿では真宗信徒生命を事例に取り上げ,仏 教系生保の生成について論じる。そこで,なぜ筆者が真宗信徒生命を取り上 げるのかを述べておく必要があろう。一つ目の理由は本稿で用いる史料に接 したところ,非常に興味深い内容があったこと。また,仏教系生保は表1と

(5)

注2に示したとおり,明治27年に設立された3社は,特定の仏教教団を背景 に設立されたのではなく,仏教各派や仏教,神道が横断的に支援した生命保 険会社(以下,生保会社と略記)であった。ところが,次に設立された真宗 信徒生命以降は特定の仏教教団が設立に関与している。つまり,真宗信徒生 命の設立,成功が,他の仏教教団に対し,生命保険事業への進出に何らかの 動機を与えたのではないかと推測することができるのである。例えば,明治 32年に設立された浄土真宗大谷派が関与する六条生命の設立動機を,当時の 新聞は次のように報じている 。

六条生命保険会社は,彼の本派本願寺に関係ありと称する起業銀行と真 宗信徒生命との関係の如く,目下大谷派本願寺に関係して創立中なる六 条銀行と共に設立せんとせるものにして…大谷派本願寺の機関会社と為 り,同派の信徒を誘導する目的

すなわち,六条生命は真宗信徒生命の成功が会社設立の主要な要因となっ ていたことがわかる。おそらく,このように他の仏教系生保の設立にも,真 宗信徒生命の成功が刺激を与えたのではなかろうかと推測することができる。

この2点から,仏教教団が営利事業に関係する要因となった真宗信徒生命の 生成を分析することは,仏教系生保の研究史上においても重要なテーマであ ると考え,本稿のテーマに取り上げたのである。

本稿では,こうした筆者の事例設定理由および前述の先行研究をふまえた 上で,本願寺が生保会社を設立した理由が,従来言われている仏教教団の経 済的苦境が最大の理由であったのか。加えて,アメリカなどで起こった宗教 界による生命保険事業に対する反発が日本で起こらなかったのはなぜか。ま た,真宗信徒生命の設立過程において,本願寺は主体的に設立に関与したの か,それとも後援者に留まったのか。これらの点を本願寺の 定期集会筆 記 という史料を基にして論じ,仏教系生保の生成について一考を加えたい。

4) なお,長文引用にあたっては読点を付けた。以下同じ。

5) 京都日出新聞 明治34年2月1日。

(6)

2. 定期集会筆記 とはどのような史料か

真宗信徒生命の設立に,本願寺門信徒が関わっていることは,東京生命の 社史などにも記載されており,周知のことである。しかし,これまで本願寺 がどのようにこの会社に関与したのかについて,本願寺に残る第一次史料を 用いて論及されてこなかった。本論に入る前に,本稿で主として使用する 定期集会筆記 について言及する必要があろう。 定期集会筆記 は,縦 18㎝余,横13㎝弱で冊子になったものである。この冊子は,本願寺の宗門校 である龍谷大学図書館に,明治23年から34年と37年の13年分が所蔵されてい る。この冊子は毎年発行されており,明治23年から27年までの5年間は甲号,

乙号の2冊に分冊され,それ以降は毎年1冊ずつ発行されている。本冊子に は,本願寺で毎年行われていた定期集会での集会議員の発言内容が全て収録 されている。すなわち,生命保険会社を設立するにあたり,本願寺内でどの ような議論が行われていたのかに関して,最も詳しい内容を有している。

さて, 定期集会筆記 が定期集会の速記録であることはわかった。では,

定期集会とはどういった経緯で本願寺内に設置されたのか,また,何を議論 する場であったのかを記しておく。

明治初期の本願寺門主であった明如上人(以下,明如と略記)は,仏教徒 の視野拡大,教団の近代化を促進するため,島地黙雷や赤松連城といった自 宗僧侶を海外へ派遣し,宗教や思想,文化などを調査研究させた。彼らの調 査報告を受けて,本願寺の学制改革に着手し,それまでの学林教育を明治政 府の学校制度に準じた大教校,中教校,小教校からなる新学制へ変更したこ とは,その一例として挙げられる。また,明如は本願寺の運営にも懸念を抱 き,本願寺の改革を実施しようとした。その内容は,築地別院に改正事務所 を設置すること。そして,本願寺派管長と本願寺住職を派内の住職から選挙 で選び,明如自身は大谷本廟の守真者に退くこと。さらに,寺格・堂班を廃 止して寺院・僧侶を平等にし,本願寺所有の土地・山林・物品などをすべて 売却の上,本願寺維持基金に充てることであった。

(7)

この改革案にしたがって,明如は築地別院に居城を移し,島地黙雷,大洲 鉄然,赤松連城,利井明朗ら長州勢力が独占していた本願寺の議事・行事両 局を廃止して全職員の解職を命じ,総理に北畠道龍を任命した。ところが,

この改正令は,反長州勢力であった北畠道龍らの意見を取り入れて作られて いたため,長州勢力は北畠一派の陰謀として反対運動を展開する。そして,

100名以上の警察官を動員しても鎮圧できない騒乱が本願寺で起きたのであ る。こうした事態を受け,明如は改正事務所を解散して京都へ帰山するが,

宗政参加を希望する門末寺院住職との対立はもはや埋まらなくなっていた。

そこで,門末寺院の強い要望に応えて,明治13年に集会制度を創設する。そ の構成員は,門主が選任する特選会衆と門末寺院住職から公選された総代会 衆で構成され,審議事項は,本願寺の規則制定や改正,予算審議,予算支出 方法などであった。こうした経緯で本願寺内に集会制度ができたのであった。

3.真宗信徒生命設立前史

まず,一つ目の論点である,本願寺が生保会社を設立した理由は,従来言 われているように教団の財政苦境が最大の理由だったのか否かから検討した い。この点は,東京生命の社史に記載されているので引用したい。

真宗信徒生命保険株式会社の事業発起の端緒は,明治二十七年のはじめ 頃,銀行,保険ならびに運輸事業などの振興論者でもあり,また真宗本 派の信徒でもあった品川弥二郎子爵から,西本願寺の大谷明如に,本山 財政の一助として信徒を対象とする生命保険事業をすすめられたことに あるといわれる 。

本山財政の一助として信徒を対象とする生命保険事業を勧めたのは,農 商務省の設立にあたって大輔となり,のちに大日本農会など産業団体の 結成や共同運輸会社設立などに尽力し,また真宗本派の信徒でもあった 政治家品川弥二郎子爵であるといわれている。明治27年初頭のことであ

6) 東京生命社史編纂委員会編 東京生命七十年史 昭和45年,p.2。

(8)

った 。

両社史から明らかとなることは,明治27年初頭から会社設立を検討し始め たこと。そして,それは品川弥二郎からの勧めが要因であったこと。さらに,

その目的は教団財政への一助にあったことである。しかし,真宗信徒生命設 立には,その前史があったのである。すなわち, 定期集会筆記 によれば,

本願寺では,明治23年秋にも生命保険事業への進出を検討していたのであっ た。そこで,明治23年10月に行われた定期集会での議論を以下に抜粋し,真 宗信徒生命設立前史を明らかにしたい。

次ニ生命保険会社創設ノ建議 右ハ建白委員ニ附ス。

上首(赤松連城)過日,生命保険会社建議ニ付,建白委員ハ明年マテ延 期シタシト云考案ナリ。異論ナキカヲ問フ。

異論ナキヲ以テ委員考案ノ通ニ決ス 。

この史料から,本願寺では,明治27年以前から生保会社設立を検討してい たことが明らかとなる。ただし,どのような事情があったのかは明らかでは ないが,明治23年時点では翌年へ継続審議としたことがわかる。

では,明治23年に会社設立が検討され,設立に至らなかった背景には,ど のような事情があったのかを当時の経済事情から推察してみたい。わが国で は,明治19年ごろから海外輸出の大幅な増加により,第1次企業勃興期とな る。その中心は鉄道業と紡績業であった。鉄道業では,日本鉄道を含めて後 に五大私鉄と呼ばれる山陽鉄道,九州鉄道,北海道炭鉱鉄道,関西鉄道をは じめとする会社が設立され,第1次鉄道ブームが起きていた。また,紡績業 でも,鐘淵紡績,摂津紡績,金巾製織,尼崎紡績など大手紡績会社を中心に 会社が続々と設立され,まさに資本主義経済が本格化する過程にあった。

生保業界も例外ではなく,帝国生命が明治21年,日本生命が明治22年にそ れぞれ営業を開始し,順調に保有契約高を伸ばしていた。そして,保険会社

7) 東京生命保険相互会社 東京生命百年史 平成7年,p.21。

8) 明治廿三年十月 定期集会筆記 従第十一号 至第二十三号 乙号

(9)

を規制,監督する法律が存在せず会社設立が極めて容易であったことと明治 生命を加えた先発3社の成功が刺激となって,小規模資本の生保会社も設立 が始まっていた 。

わが国の生保業界は,明治14年に福沢諭吉の門下生や慶応義塾関係者たち が中心となって設立した明治生命保険会社によって,近代的な生保会社の歴 史が始まる。明治生命は,設立当初,学者,医者,官吏,銀行家などを顧客 層と位置づけて,募集活動を行っていた。加えて,一部しか定着していなか った保険思想を広く定着させるために,頭取・阿部泰蔵は全国を行脚してい た。阿部泰蔵の全国行脚は明治22・23年頃まで行われていた。このことから,

帝国生命や日本生命が設立された頃は,まだ保険思想は十分定着していたと は言い難く,保険思想の定着と顧客層拡大は生保業界共通の課題であった。

そこで,3社は様々な手法を用いて保険思想定着と顧客層拡大を図る。例え ば,日本生命では,関西を代表する資本家・鴻池善右衛門を社長に迎えて信 用力を高め, 保険之大要 という生命保険の仕組みを説明した冊子などを 配布して保険思想の定着を図っていた。

このように,保険思想の定着と顧客層の拡大が生保業界共通の課題となっ ていた当時,生保会社は,生命保険と同じ 死 を扱い,精神的つながりが ある宗教を,保険思想定着のための一手段として利用していた。そのことは,

日本生命が明治24年頃に, 朝には紅顔ありて,夕には白骨となれる身なり という一節が有名な蓮如上人の 白骨の御文章 を巧みにまねたパンフレッ ト を作成,配付していたことからも明らかである。このように,保険思想 が十分に根付いていなかった当時,宗教が保険募集の手段の一つとして使わ れていたのである。

一方,本願寺が生保会社の設立を検討していた明治23年,詳しくは述べな

9) 一例を挙げれば,設立の記録こそあるものの,短期間で消滅した東京生命,

日本共同生命などである。

10) 白骨の御文章では,人間のはかなさを説いた上で念仏をすすめているのであ るが,このパンフレットでは念仏ではなく生命保険への加入をすすめていた。

(10)

いが,日本経済は恐慌下にあった。こうした経済環境の変化を受けたことと,

後に詳述するが,教団内で営利事業を行うことへの反発が起きたことが要因 となって,生保会社設立の審議を延期したものと推測できる。このように,

東京生命の社史に記載されている明治27年以前から,本願寺では生保会社設 立を検討していたことが明らかとなる。

4.真宗信徒生命設立の経緯とその目的

⑴ 真宗信徒生命設立に至る経緯

真宗信徒生命の設立は,東京生命の社史に記載されていることに加え,そ の前史があったことが明らかになった。では,明治23年に審議が延期された 生保会社設立の審議は,その後,どうなったのか。また,真宗信徒生命の設 立に至る経緯をこの項では明らかにしたい。

明治23年の定期集会で延期された生保会社設立の審議は,明治24・25・26 年の 定期集会筆記 を見る限りにおいては全く審議されていない。そして,

明治27年の定期集会で,真宗信徒生命の設立に至る経緯を小田佛乗が述べて いるので,これを引用する。

本山自ラコノ会社ヲ結ヒナサルヘシト本山ヘ申出タルモノ二人三人ニ非 ス。最初,中村道太カアル貴顯ノ書面ヲ持来リ法王殿ヘ差出シ,本山カ 会社ヲ結フコトヲ勧ム。依テ直チニ断ル訳ニモ参ラヌユエ,時日ヲ延ヘ 私,赤松ト両人カ参リテ断レリ。其次ニ出テ来タルハ有隣生命保険会社 ナリ。之レモ断リ,ソノ他生命保険会社数多来リタルモミナ断レリ。爾 レトモ,斯ク続々出来テ来ルトキハ,何テモ本山カ逃レラレヌモノヲ一 ツ設ケテ,陰ニ賛成スルコトニシテ,自他宗混淆ノモノハ断ルヘシト申 合ヘル処ヘ,東京ノ岡田某カ生命保険会社設立ノコトヲ申来レリ。ソノ 趣意書ヲミルニ能ク出来テアリ。依テ,斯クノ如ク成立テハ本山ノ慈善 ノ事モ出来ルユヘ,之レヲ設ケ以テ他ヨリ申込ムモノヲ断ルヘシ 。

11) 明治廿七年九月 定期集会筆記 従第十二号 至第十九号 乙号

(11)

この引用からわかることは4点ある。一つは,明治生命設立に関与してい た中村道太や有隣生命などが本願寺に生保会社設立の提案や支援要請をして いたことである。二つ目が,本願寺はこうした要請を全て断っていたことで ある 。そして,三つ目が,時期は不明だが,生保会社が続々と設立されて きたため,本願寺が生保会社を設立し,その会社を支援することを決心した ことである。最後が,本願寺は,慈善活動資金を得ることを目論んで,岡田 某の提案を受け入れて,生保会社を設立することを決めたことである。

さて,先の引用では,岡田某が本願寺へ生保会社設立を提案した時期が不 明である。引用に出てくる岡田某とは,東京生命の社史で設立に関与したと 記載のある岡田治衛武 (以下,岡田と略記)のことであろう。岡田の伝記 には,真宗信徒生命設立に関する記載があるので,これを引用する。

抑も君が雄大なる企画を抱持し,初めて本願寺に交渉したるは,実に明 治廿五年の冬なり。而も同寺は,宗教界裡に於て,隠然政府の威権を有 し,山外優婆夷の言論に左右せられて,容易に其意を動かすが如き,汎 操無力のものに非ず,為めに君は廿七年二月より,七月下旬に至る間,

同寺に入りて勤奨誘導に勉むるもの,実に数十回の多きに及ぶ。凡そ此 間に於ける君が刻苦の経歴は,零々たる一小冊子の能く尽す所に非ざる

12) このとき断られた人物の中に,後に真宗信徒生命乗っ取りを画策する岡部廣 も含まれていた。このことは,赤松連城が品川弥二郎へ宛てた書簡に 然処,

本日就行処にて承候へは,嶋地氏(筆者注:島地黙雷)の識面にて岡部広とか 申人,数日前,竹村藤兵衛の紹介にて小田仏乗に面会,保険会社之儀申出候由,

尚嶋地氏への申陳候趣に候得とも,該件は於本山は関係不致事に相決居,程能 同人へ相断候心得に有之候旨に有之候 (尚友倶楽部品川弥二郎関係文書編纂 委員会,平成5年,p.187)と記載されている。

13) 岡田治衛武は,安政6年12月,現在の山口県美弥市伊佐町の薬種商・岡田治 右衛門の家に生まれ,明治19年9月日本郵船会社入社,明治20年1月山口県会 議員に就任,明治22年3月日本郵船会社退社。明治22年4月汽船会社・共栄社 社長に就任。明治23年9月同社退社。明治24年1月大日本製薬会社専務取締役 就任,明治26年3月同社退社。明治26年7月総武鉄道会社事務顧問就任,明治 27年1月同社退社している。

(12)

也。君は同寺の長老たる島地黙雷,大洲徹然,小田佛乗,利井明朗,香 川葆香,赤松連城の諸師を叩き,弁論数次,時に理を以て之を説き,情 を以て之を動かし,誠意と熱心とを以て其利害を陳疏し,漸くにして之 を承諾せしむるに至る 。

岡田の伝記から明らかになることは,明治25年冬に本願寺へ趣意書を携え て生保会社設立を提案するが,本願寺はその提案を受け入れなかったこと。

そして,明治27年2月から7月の間に,島地黙雷,赤松連城ら本願寺の長老 を数十回訪ねて説明し,ようやく本願寺は岡田の提案を受け入れたことであ る。

では,本願寺が生保事業へ進出を決意したのはいつ頃なのだろうか。岡田 の伝記からは,明治25年冬から明治27年7月までの間であることが特定でき る。また, 定期集会筆記 には 斯ク続々出来テ来ルトキハ,何テモ本山 カ逃レラレヌモノヲ一ツ設ケテ との記載があり,岡田の伝記で特定した 期間の中で,このような時期があるかを検討すれば大体の時期が特定できる。

そこで,明治24年から28年に新規設立された会社数を表2にまとめた。

表2によれば,この5年間で24社が新たに設立されているが,その8割が 明治26,27年に集中していた。まさに,岡田の伝記に記載のあった時期と符 合する。そこで,明治26年の月別に新規設立会社数を調べてみると,5月に 1社,6月に9社,12月に2社設立されていたことがわかる。

14) 河村恒二郎編 岡田治衛武君小伝 明治35年,p.36。

15) 明治廿七年九月 定期集会筆記 従第十二号 至第十九号 乙号

(13)

また,真宗信徒生命は明治27年8月22日に,真宗生命保険株式会社発起認 可願を農商務大臣に提出している。これらの事実から考えれば,本願寺が生 保事業への進出を決心するのは,明治26年7月以降,明治27年前半のことと 考えられる。そして,この意思決定の中心には,岡田の伝記から島地黙雷や 赤松連城といった留学経験のある本願寺の役僧がいたものと推測できる。

すなわち,真宗信徒生命設立までの経緯は次のように考えられる。生保会 社設立は,明治23年に定期集会で審議したものの継続審議となった。その後,

既存会社や種々の人物から会社設立の提案や支援要請が行われるも,本願寺 はそれをすべて断っていた。ところが,明治25年冬に岡田が生保会社設立を 持ちかける。本願寺は,すぐに生保事業への進出を決心したわけではないが,

明治26年7月以降,明治27年前半までに,島地黙雷や赤松連城といった本願 寺の役僧たちが,岡田案を採用して,生保事業に進出することを決意したと 推察できるのである。次に,真宗信徒生命設立の目的について検討したい。

⑵ 真宗信徒生命設立の目的

従来の先行研究では,仏教系生保の設立目的は,財政的苦境にあった仏教 (表2)新規開業保険会社数一覧

(出所)前掲 本邦生命保険業史 昭和8年,(本紀)p.94,(会社)

pp

.134‑212,生命保険会社協会編 明治大正保険史料 第 2巻 第2編,p.215,商業興信所 日本全国諸会社役員録 各年度版より作成。

開業年 新規設立社数 公称資本金

10万円以下 30万円以下 30万円以上 明治24年 0社

明治25年 0社

明治26年 9社 9社

明治27年 12社 9社 1社 2社

明治28年 4社 1社 2社 1社

合計 24社 18社 3社 3社

(14)

教団の財源確保であったとされる。この点についても,教団の史料を用いた 言及がこれまでされていないので,少し言及したい。そこで,注目したいの は,明治27年の定期集会で小田佛乗が語った 斯クノ如ク成立テハ本山ノ慈 善ノ事モ出来ルユヘ という一文である。本願寺内には幕末維新期からキ リスト教に対する危機感があり ,外国人が内地雑居すれば,キリスト教が 勢力を拡大させると分析していた。そこで,本願寺は慈善事業をキリスト教 の勢力拡大に対する防止策と位置づけていた。そのことは, 本願寺史 で も, 特に明治後半期には仏教各宗の間に社会教化・社会事業の動きが顕著で あり,なかでも本願寺派の動向は諸宗派に先んずる観があった と述べら れている。また,大日本仏教慈善会の第二次準備会での明如の親諭からもそ のことが窺い知れる。

本年七月よりは改正条約も実施せられ…内地雑居の暁には,彼れ外人即 ち基教徒は従来の例証より推すに,必ず吾国内に於て種々の方面に向て 盛に慈善的事業を興し,以て基教弘通の方便に供することならん,然る に吾真宗行者が彼れ外人の為めに吾国慈善の事業を一手に掌握せられて,

袖手傍観一も為す所なき有様にありては仏教の運命如何と気遣はるゝの みならず,仏教者としての国家の対する義務上相済ざる次第である…況 や本宗の如きは機根最劣の者を所対として他力の悲願を弘め玉へる宗旨

16) 明治廿七年九月 定期集会筆記 従第十二号 至第十九号 乙号

17) 幕末以来,本願寺内でキリスト教に対する危機感が醸成されていた。それは,

文久元年に,学林が本願寺に対して,キリスト教伝播への善処を求めるべく建 白書を提出したことや文久2年に,当時一般には出回っていなかった 旧約聖 書 と 新約聖書 を本願寺と協議して購入し,学林内でキリスト教批判を目 的としてキリスト教研究が始められている。また,学林では明治元年に真宗学 に加え,キリスト教批判を主目的とした破邪学の学科を設置,他にも護法運動 や反省会が結成されていた。本願寺内にも,慶応4年にキリスト教排斥および 排仏防御のために 破邪顕正御用掛 が設置され,明治32年,社会教化,社会 事業を実施すべく大日本仏教慈善会が設立されている。このことからも,当時,

本願寺内ではキリスト教に対する危機感が醸成されていたことが窺い知れる。

18) 本願寺史料研究所編 本願寺史 第三巻

p

.234。

(15)

なれば,僧俗を論ぜず,常に称名もろともに社会下層の窮苦を救ひ,慈 仁を施すことを忘れては相済ざる儀なり 。

本願寺でも,真宗信徒生命設立以前にも慈善事業は行われていた。ただ,

それは,明治24年の濃尾震災の被災門信徒に対する義捐金送付などの一時的 な慈善事業であった。一方の,キリスト教は真宗信徒生命設立趣意書の第三 項に記載のとおり,盲唖院や育兒院を建て継続的,組織的な慈善活動を行っ ていた。したがって,キリスト教に対する危機感をもっていた本願寺は,キ リスト教が慈善活動を本格化する前に,組織的,継続的な慈善事業を行う必 要があったと言えよう。そして,その財源獲得手段として,真宗信徒生命を 設立する必要があったことが創立趣意書の第三項に書かれているので,これ を引用する。

将来,完全ナル布教伝道ノ実ヲ挙ント欲セハ,猶別ニ大ニ設計ヲ要スヘ キコトアリ。何ソヤ,慈善資金ノ準備是ナリ。凡ソ仏門ニ於テ,慈悲ヲ 先ンスルハ,今更弁ヲ俟タスト雖モ,其慈悲ノ最モ早ク俗情ニ感シ易キ ハ,不慮ノ天災ニ遭遇セル窮民ヲ救恤スル如キ,又ハ,盲唖聾跛等ノ無 拠ノ国民ヲ教育スル如キ等ノコトニアリテ,彼ノ耶蘇教徒ノ伝道方ヲ鑑 察スルニ,始メハ盲唖院ヲ立テ育兒院ヲ置キ或ハ不時ノ罹災民ヲ救恤ス ル等慈善ヲ主トシテ,先ヅ其地民ノ感情ヲ惹キ置キ,而シテ後徐々ニ己 カ教旨ヲ演ヘ之レヲ勧化シ,終ニ凝固ナル信者ヲ得ルニ至ル。是彼レノ 慣手段トスル所ナリ。真理ニ暗キ彼レ耶蘇教徒ニシテ慈善ニ志スコト已 テニ如斯…然レトモ,已テニ教学資金タル護持会ノ設アツテ,一方ニ未 タ確固タル慈善資金ノ準備アラサルハ又隔靴掻痒ノ感ナキヲ得ス。然ル ニ,今,此真宗信徒生命保険会社起ランカ,此社ヨリ寄スル所ノ資財

(即チ,会社純益毎歳十分ノ三)ヲ以テ,慈善資金ニ充ツルコトトセハ,

実ニ是永遠堅固ノ収入ニシテ,必スヤ前途頗ル有力ナル慈善救恤ノ行動 ヲ為スヲ得ヘシ…護持会費ト並ヒ立テ鳥ノ両翼ノ如ク,教学慈善相共ニ

19) 前掲 本願寺史 第三巻

pp

.235‑236。

(16)

全フシ,布教伝道勇往敢進至大ノ功ヲ奏スヘキコト火ヲ観ルヨリモ明ナ リ 。

すなわち,本願寺には,教学布教資金を調達するための護持会という組織 はあるが,慈善事業費を賄う手段がなかった。そこで,真宗信徒生命の純利 益の30%を本願寺の慈善活動の財源に充てることを目論んでいたのである。

当時,キリスト教に対する危機感を抱いていたのは本願寺だけではない。

それは,江戸末期に復古神道から浄土真宗とともに神敵二宗と位置づけられ た日蓮宗でも同様であった。そのことは,日蓮宗が設立に関与した日宗生命 の保険規則でも, 当会社は,日蓮宗篤信 素の発起したるものにして,其 目的は本宗信徒相互救済の便を図り,併せて会社純益の内を以て本宗拡張の 資に供するに在り…興学布教慈善救済の必要なる人皆之を説く而も其必要の 急なる今日より甚しきはなし。見よ。改正条約は外人の移住を促し,戦勝の 結果は版図の大を加ふ。実に我国趨勢一転の秋なり。興学布教以て人身綱紀 を維持し,以て新化の民を懐柔し慈善救済以て上下和睦の途を図らざるべか らず と書かれている。また,友松(昭和8年)には, 今日に於て,務め て(筆者注:日蓮宗)信徒を被保険人たらしむるは,他日,内地雑居の暁に 於て,外教に対する最大防御策たり との記述があり,日蓮宗でもキリス ト教に対する危機感と自宗門信徒の引き留めを図っていたことがわかる。

さて,真宗信徒生命は慈善事業費調達を会社設立の理由の一つにしていた ため,定款には本願寺への寄付が規定されていた。定款には, 純益金ノ内,

其十分ノ三ハ真宗本願寺派本願寺慈善資金トシテ,当会社ヨリ毎年度必同寺 ニ寄贈スルモノトス(定款40条) , 純益金ハ左の順序ニ拠リ分配スヘシ 第一 真宗本願寺派本願寺寄贈金(定款41条) と規定されていた。この条項 によれば,真宗信徒生命の利益配分で最も優先されていたのが,本願寺への 慈善事業資金の寄付であったことがわかる。また,寄付額は,毎年の純利益

20) 前掲 東京生命七十年史

p

.9。

21) 友松圓諦 明治時代の仏教保険事業 現代仏教 十周年記念特集号,昭和 8年7月,p.761。

(17)

の30%であったことがわかる。そこで,実際に行われた寄付額を表3にまと めた。

これによれば,分配率は年々下がる傾向にあったが,10年間で43,557円の 寄付をしていたことがわかる。では,この寄付金が目的どおり慈善事業資金 として利用されていなければ,慈善事業資金を得ることが,真宗信徒生命の 目的とは言えないので,次に,当時の本願寺財政について検討する。

5.明治維新以降期の本願寺の財政

さて,真宗信徒生命設立前後の本願寺財政は,窮乏していたのであろうか。

また,真宗信徒生命からの寄付金は,設立目的にも記載のとおり,慈善事業 費として本願寺は支出していたのであろうか。それとも,寄付金は本願寺財 政に組み込まれていたのであろうか。このことは,一つ目の論点である教団 の経済的苦境が生命保険事業進出の最大要因であったのか,加えて,設立目

(表3)真宗信徒生命の本願寺への利益分配率

(出所)真宗信徒生命保険株式会社 各年度営 業報告 明治29年‑明治38年より作成。

年度 分配率 (分配金╱純利益)

明治29年 29.8% 3,100円╱10,397円 明治30年 30.0% 4,407円╱14,692円 明治31年 30.0% 4,430円╱14,767円 明治32年 27.9% 4,000円╱14,336円 明治33年 26.7% 3,832円╱14,360円 明治34年 23.3% 5,990円╱25,746円 明治35年 22.9% 5,290円╱23,060円 明治36年 19.9% 4,390円╱22,007円 明治37年 16.4% 3,046円╱18,571円 明治38年 19.9% 5,072円╱25,432円 寄付金総計 43,557円

(18)

的を検証する上においても極めて重要な点である。そこで,本願寺の財政事 情がいかなる状態にあったのか,真宗信徒生命が設立された明治28年から33 年までの本願寺の財務諸表を用いて確認したい。そして,本願寺の生保事業 進出が教団財政への貢献を目的としたものなのか。それとも,慈善事業費獲 得が目的であったのかを明らかにしたい。

そのために,最初に江戸末期以来の本願寺財政について簡単に触れておき たい。江戸末期の本願寺財政は,興正寺との係争や御影堂の大修理などで60 万両余の負債があった。この財政危機に対して広如上人は,天保御改革とい われる負債整理を実施し,その償却に成功する。ところが,維新期,本願寺 は勤皇派に属し,朝廷への18,000両の献納や御幸橋(荒神橋)の架橋,亀山 天皇陵の修築などを行ったために,財政は再び悪化する。そして,維新後も,

大教校の建築や鹿児島,北海道,ウラジオストック,ハワイ,北米をはじめ とする無教地開拓など積極的な教学布教施策を実施する。こうした教学布教 施策に要した経費は多額に上り,本願寺は教学布教資金を充実させる必要に 迫られる。そこで,教学布教資金獲得を目的として護持会を設立したのであ った。このように,本願寺は財政整理を行いつつ,一方で積極的な教学施策 を展開していたのであった。

このことを踏まえた上で,真宗信徒生命設立前後の本願寺の財政について 検討したい。明治28年度以降の本願寺の決算が, 定期集会筆記 に掲載さ れていたので,これを用いて分析したい。ただ,支出は勘定科目が年度によ って異なるため,勘定科目ごとに比較することが不可能である。そこで,各 年度の収入額,支出額を計算して総計を出し,それに繰越金などを用いて作 成された 出納決算報告 をもとに表4を作成した。

(19)

表4によれば,真宗信徒生命の設立が認められて,開業を目前に控えた明 治27年12月時点で,本願寺は12万円余りの不足金を次年度へ繰り越していた ことがわかる。そして,明治28年12月時点でも9万円余りの不足金を翌年に 繰り越している。また,明治30年にも4万円弱の不足金が生じており,不足 金は,明治32年まで発生していた。ただ,翌年度に繰り越す不足金は,年々 減少しており,財政整理が進んでいたのであろう。このことから考えれば,

財政整理が進んでいたとはいえ,本願寺財政は毎年不足金を翌年に繰り越し ており,財政が窮乏していたことが,生保事業進出の要因とも考えられる。

しかし,本願寺の生保進出理由を確定させるには,真宗信徒生命からの寄付 金の使途が何であったかが明らかにされる必要がある。すなわち,会社から の寄付金が,本願寺の収入に組み込まれていなければならない。

そこで,収入・支出の勘定科目ごとに,その明細を説明した 出納決算説 明書 が 定期集会筆記 に掲載されているので,これを調べたが,収入の 勘定科目に真宗信徒生命からの寄付は認められなかった。また,明治31年以

(表4)本願寺財政の推移(明治28年度〜明治33年度)

(単位:円)

明治28年度 明治29年度 明治30年度 明治31年度 明治32年度 明治33年度 本年度収入① 238,849.748 313,355.108 323,007.406 633,139.986 48,0691.611 408,682.242 同支出② 206,859.735 261,515.874 314,509.173 612,549.579 44,7882.519 559,741.016 差引①‑②=③ 31,990.013 51,839.234 8,498.233 20,590.407 32,809.092 ‑151,058.774 前年度残余④ ‑122,635.928 ‑90,645.915 ‑38,806.681 ‑30,308.448 ‑9,718.041 23,091.051 差引③+④=⑤ ‑90,645.915 ‑38,806.681 ‑30,308.448 ‑9,718.041 23,091.051 ‑127,967.723 勘定ヨリ⑥ 22,718.510 18,452.100 12,302.100 0.000 0.000 0.000 預り金⑦ 10,787.240 13,102.240 16,952.240 18,402.240 21,477.240 21,477.240 借入金⑧ 48,346.155 23,000.000 22,500.000 0.000 23,300.000 184,300.000 先納金⑨ 13,338.845 13,338.845 13,338.845 13,338.845 13,338.845 13,338.845 合計⑦+⑧+⑨=⑩ 95,190.750 67,893.185 65,093.185 31,741.085 58,116.085 219,116.085 差引⑤‑⑩ 4,544.835 29,086.504 34,784.737 22,023.044 81,207.136 91,148.362

(出所) 定期集会筆記 (各年度)より作成。

(20)

降の 定期集会筆記 には, 真宗信徒生命ヨリ寄付金報告 という別の決 算書が記載されていたので,寄付金報告に記載の内容を表5にまとめた。

表 5 に よ れ ば,明 治31年 に4,430円,明 治32年 に4,000円,明 治33年 は 3,832円が収入として計上されている。この額は,表3の寄付額と合致して いる。このことから,明治29・30年は不明だが,少なくとも明治31年度以降 は,真宗信徒生命からの寄付金は,本願寺財政に組み込まれていなかったこ とが明らかとなる。では,真宗信徒生命からの寄付金が,設立趣意書に記載 のとおり慈善事業費に使われていたか否かを確認せねばならない。そこで,

明治33年度の8,000円の使途を確認すると, 慈善財団への貸 とある。す なわち,本願寺が貧者施療や罹災救助,感化などを行うために設立中であっ た大日本仏教慈善財団への貸金であった。

このことから,真宗信徒生命からの寄付金は,明治29・30年は不明だが,

少なくとも明治31年以降は,本願寺財政とは別に置かれ,その使途は慈善事 業であったことが明らかとなったのである。

6.本願寺の教義との関連性

次に,二つ目の論点である宗教界が生命保険事業に反発しなかった理由を 検討するために,本願寺の教義と生命保険事業の関連性について,設立趣意 書の第1項に書かれているので,これを引用する。

(表5)真宗信徒生命からの寄付金決算 明治31年度 明治32年度 明治33年度 前年度繰越 0 4,430 8,430 本年度収入 4,430 4,000 3,832 合計 4,430 8,430 12,262

支出 0 0 8,000

差引残余 4,430 8,430 4,262

(出所) 定期集会筆記 (各年度)より作成。

(21)

第一項 我真宗ハ教旨上ニ於テ生命保険事業興立ノ必要アル事

夫,我真宗ノ教旨ハ,真俗二諦現当両全ノ妙旨ヲ備エ,吾人人類ニ無量 ノ功益ヲ与フルモノニシテ…方今,宇内ノ形勢ヲ察スルニ,文明ノ進歩,

人智ノ発達,駸々乎トシテ止マラス。事物ノ道理,益々明カナルニ従テ,

優勝劣敗,貧富懸隔ノ差モ又愈々遠カリ軽車肥馬ニ鞭ツテ街路塵ヲ驚カ ス…其極,終ニ同盟罷工,一揆徒党,財産平均論等破壊主義ノ暴行ト成 リ,国家ノ禍乱ヲ起スニ至ル…貧困ノ余リ落魄ノ極,漸ク道義ノ境ヲ逸 シ…終ニ窃盗,強盗,放火等ノ世ニモ忌ハシキ大罪ヲ犯スニ至ル者,

此々皆然リトス…概ネ戸主一人ノ芸能労力ヲ以テ一家数口日々ノ生計ヲ 立ツルモノナルニ,其戸主タル者,一朝無常ノ風ニ誘ハレ突然瞑目スル 如キアラバ,後ニ残レル妻子ノ困難ハ如何許リナラン…信徒一般ニ普及 シテ時ノ宜シキニ副フヘキ事柄ハ何ソヤ,人々各々能ク其己ノ分ニ応ス ル貯蓄ヲ為シ,死後ノ遺族ヲシテ貧困悲惨ノ境界ニ堕レシメス…而シテ,

之レヲ躬行,実践,容易ナラシムルノ善法アリヤ否ヤ曰ク在リ。生命保 険ノ事,則是也。生命保険ノ法タルヤ人類相互ノ間ニ於テ,長寿ノ幸ヲ 得ル人,短命ノ不幸ニ遇フ人ヲ助ケ,富ノ徳ヲ有スル者,貧ノ厄ニ沈ム 者ヲ救ヒ,同胞兄弟相共ニ幸不幸ヲ分担シ,社会ノ災害禍乱ヲ予防シ,

国家ノ安寧秩序ヲ保持スル唯一共済ノ慈善事業ナリ 。

第1項を要約すると,真俗二諦という教旨上,生命保険会社の設立が必要 であり,これが信徒に俗諦を護らせるための唯一の慈善事業であるとの記載 である。真俗二諦という教義は,死後の往生浄土のための信仰である 真 諦 と,世俗の支配秩序の遵守をこの世における真実とし,国法(憲法)の 遵守,また,天皇制国家への隷属を求めた 俗諦 からなる教義である。

この教義が生まれた背景は,江戸末期に仏教教団が儒教や国学,神道のそ れぞれから激しい批判を浴びていたことにある。特に,本願寺は経済基盤を 農村部に置いていたことと民心の掌握能力が高かったため,排仏運動の中心

22) 前掲 東京生命七十年史

pp.6‑7。

(22)

にあった復古神道から日蓮宗とともに 神敵二宗 と位置づけられ,他の仏 教教団より激しい批判を浴びていた。当時本願寺で教学を規定していた性海 は,こうした批判に 真俗二諦十五門 を著し廃仏論に対応しようとする。

性海は,この教義によって,支配体制への献身的奉仕こそが死後の浄土往生 につながるとし,本願寺の教学は,支配体制(天皇制国家)への積極的支持 者となり,国法(憲法)を遵守することを門信徒に求めていくのである。

この教義と生命保険事業の関連性は,世俗の支配秩序の遵守を求める 俗 諦 と関連づけられる。すなわち,窃盗,強盗,放火などは貧困が原因であ り,ストライキや一揆なども所得その他の様々な格差が原因である。しかし,

こうした行為は違法であり,天皇制国家への隷属を否定する行為である。し たがって,門信徒を貧窮化させないことが教義を守らせる上で重要であると した。また,一般家庭では,主人が家計維持者である場合がほとんどなので,

主人の 死 に備えた貯蓄は,俗諦を守らせる唯一の慈善事業であるとした のである。

そこで,本願寺の教義と生保事業との関連性は,次のように考えることが できよう。本願寺には,法律の遵守,天皇制国家への隷属を求めた真俗二諦 という教義があった。一方で,当時各家庭の家計を支えたのは主人であり,

彼らの死に備えた貯蓄,すなわち保険は,門信徒に俗諦を守らせる一手段で あったと理屈づけており,そのため,反発を生まなかったのではなかろうか。

ただ,この点は,さらに本願寺の教義を調べる必要があろう。

7.真宗信徒生命設立の主導者は誰か

では,真宗信徒生命の設立を主導したのは信徒だったのか,それとも本願 寺だったのだろうか。これについても,明治27年9月の定期集会で小田佛乗 が語った内容にそのヒントがあるので,これを以下に引用する。

実ハ,コノ生命保険会社ヲ本山自ラ起シテ耻シクナヒ。生命保険ハ,西 洋ニテハ慈善事業トシテオルユヘ,本山,コノ慈善事業ヲナスモ差支ナ シ。又,之ヲ起セハ,教学ノ資金モ出来ル。…爾レトモ之レハ,信徒ニ

(23)

計ラネハナラヌ。西洋テハ慈善事業トスルモ,我邦ノ感情ニテハ本山自 ラ営利的ノ会社ヲ起スハ不可ナルユエ,信徒ノ事業トシテ起サネハナラ ヌ。信徒ナレハ本山ヨリ可成丈ケノ保護ヲ與フルハ差支ナシ。依テ信徒 ヲ呼集メテ協議スヘシ。爾レトモ,ソノ協議モ執行ノ資格テハ宜シカラ サルユエ,一箇人ニテ若干名ヲ招キタリ。コノ人等ハ十ニ 九マテ多額 納税者ナリ。…集マリタルモノ十名程ナリ。ミナ結構ナルコトナリ。依 テ,尚ホ多数ノ信徒ニ協議セヨト云。其場テ断ル訳ニモ参ラス引受ケ,

第二ノ呼状ハ既ニ同意ヲ表シタルモノヘハ本山勘定某々ノ名ニテ呼ヒ,

初メテノ分ハ赤松ナリ私ナリ懇意ナル者ヘ各々書面ヲ発シタリ。…何レ モ異論ナク本山ノ慈善事業トセントス。乃テ赤松氏カコノ会社ハ信徒諸 氏ノ起コストコロノモノニシテ,陰ニ本山ヲ扶クル事ニナレハ,爾来ハ 表面一切関係セヌコトニスヘシ云云一場ノ演説ヲナセリ。ソノ所ヘ私モ 参リ諸君カ起スコトニナレハ関係ハナサス。是非関係セネハナラヌ事ア レハソノトキ来談セヨ。関係シテ差支ナキ限リハ相談スヘシト云 。 この発言によれば,西洋では生命保険が慈善事業と認識されており,本願 寺首脳は,生保会社を自ら興こしても問題ないと考えていた。ところが,日 本では教団が営利事業へ関与することに批判的なため,門信徒が経営する会 社とし,代わりに本願寺が全面的な協力,支援を約束したことがわかる。

これに対して,集会議員から,本願寺が営利事業を行うことに対する批判 が起こる。例えば,日種宗淵は, 生命保険会社ヲ以テ慈善ト云フハ誤リナ リ。苟モ,株式会社ト云フ以上ハ営利ノモノナリ と主張し,宮本恵順は 会社ト云フハヨキコト斗リニアラス。不都合ナルトキモアリテ,裁判所ヘ 出ル事モ時々アラン。ソノ際,カノ会社ハ本願寺ノ会社ナリ。本願寺ハ表面 ニハ宗教ヲ以テスルモ,裏面ニハ営利的ノ会社アリ抔ト云ハルヽトキハ甚タ 不都合ナリ と主張している。こうした批判は,建前上は門信徒が経営す ることになっていたが,会社設立は本願寺の役僧が決定し,その上で資産家

23) 前掲 明治廿七年九月 定期集会筆記 従第十二号 至第十九号 乙号 24) 前掲 明治廿七年九月 定期集会筆記 従第十二号 至第十九号 乙号

(24)

の門信徒を集めて協議していること。門信徒の招集に,本願寺の役職名を用 いていたことから,本願寺が実質的に真宗信徒生命の経営に関与することを 危惧していたため起こったものと考えられる。

ただ,集会議員の大勢は,秦法励の 生命保険ト云フ事カ必用ナラハ,耶 蘇教抔ノ手ニ成ルヨリ余程宜シカラント考フ。宿老ノ人々モ,最初ヨリ関係 モアリタルコトナレハ不都合ナル事ハアルマシ。依テ,爾来本山ニ一切関係 ナキ事ノ書面ヲ取交シオケハ可ナリ。ソレ丈ハ是非致シオキタシ という 意見に代表されるように,本願寺が企図した事業ではあるが,経営主体を本 願寺以外にしておけば,営利事業への関与も許すという考えが多かった。

なお,会社設立後の大株主は表6のとおりであり,本願寺の役僧は存在し ない。また,伊藤忠兵衛家に残る 掌帳 によれば ,初代・忠兵衛は真宗 信徒生命の発起人となり,株式を200株(1株=50円)引き受けていたが,

その株金を明治27年5月に200円,明治28年3月に2,300円を払い込んでおり,

名義株ではなく出資を伴う実質的な株主であった。このことから,本願寺の 役僧が会社の経営に直接関与していなかったことは間違いなかろう。

25) 前掲 明治廿七年九月 定期集会筆記 従第十二号 至第十九号 乙号

26) なお,伊藤忠兵衛家文書は滋賀大学経済学部附属史料館で現在整理中であり,

非公開である。

(25)

つまり,真宗信徒生命の設立は,岡田の伝記や小田佛乗の定期集会での発 言から,赤松連城や島地黙雷などの留学経験のある本願寺の役僧が中心とな って企図し,門信徒を呼び集めて出資とともに経営も行わせたと言えよう。

(表6)200株以上保有株主一覧

(出所)真宗信徒生命 第2回営業報告 ,京都市姓氏歴史人物大辞典編纂委員 会 京都市姓氏歴史人物大辞典 平成9年,角川書店,p.361,交詢 社 日本紳士録 明治43年,p.11,薗田宗恵 第四世伊藤長次郎伝 明治31年,p.14,成瀬麟,土屋周太郎編纂 大日本人物誌 一名現代 人名次辭書 紘社,大正2年,す之部

p

.4,日本全国商工人名録発 行所編 日本全国商工人名録 明治31年,p.ほノ六十六,ろノ六十,

さノ十四,はノ二百十,はノ二百十一,つノ十七,にノ三十二,三十 三,しノ十二,平瀬光慶 近江商人 近江尚商会,明治44年,pp.263

‑267,pp.449‑458,吉弘白眼 当世名士譚 大華堂,明治25年,p.81 より作成。

都道府県 株主氏名 保有株数 本業

兵庫 小西 新右衛門 500 清酒醸造業 滋賀 阿部 市郎兵衛 500 麻布商

兵庫 伊藤 長次郎 310 第三十 国立銀行取締役ほか 京都 杉本 新左衛門 230 呉服仕入商

京都 芝原 嘉兵衛 220 煙草問屋,郵政請取所 京都 井上 治郎兵衛 220 煙草問屋兼呉服太物仲買 香川 鎌田 勝太郎 210 醬油醸造業

京都 池田 長兵衛 200 紙蝋燭商 大阪 高木 善兵衛 200 起業銀行取締役 大阪 勝田 悌三郎 200 三島実業銀行頭取 大阪 高井 幸三 200 茨城銀行取締役,代議士 兵庫 牛谷 富太郎 200 小西家本店支配役 滋賀 伊藤 忠兵衛 200 呉服太物商

岐阜 渡邊 甚吉 200 絹織物商,十六銀行頭取ほか 山口 豊永 長吉 200 日本舎密製造会社社長ほか 佐賀 伊丹 弥太郎 200 株式会社栄銀行頭取ほか 東京 品川 弥一 200 品川弥二郎の子息

合計(保有割合) 4,190(41.9%)

(26)

その点で,本願寺が主導的に会社を設立したといってよかろう。

8.むすびにかえて

本稿では,真宗信徒生命の設立を事例に取り上げ,仏教系生保に関する三 つの論点を挙げて検討を進めた。すなわち,1点目は,本願寺が生命保険事 業に進出した背景は,従来言われている教団の経済的苦境が最大の理由であ ったのか。2点目は,アメリカなどで起こった宗教界による生命保険事業へ の反発が日本では起こらなかったのはなぜか。3点目は,真宗信徒生命の設 立過程において,本願寺は主体的に関与したのか,それとも後援者に留まっ たのかという点である。

まず,本願寺が生命保険事業へ進出した理由は,内地雑居を目前に控え,

キリスト教に対する危機感が本願寺内に醸成されていたことがその背景にあ る。そこで,キリスト教が信者獲得に用いていた慈善事業を彼らに先んじて 実施するべく,その費用を真宗信徒生命からの寄付金で一部賄うことが目論 まれていた。本願寺の財政は,財政整理中であったが,本願寺の決算からは 真宗信徒生命からの寄付金が,本願寺財政に組み込まれている事実は確認で きなかった。むしろ,判明している範囲では,明治31年以降,真宗信徒生命 からの寄付金は,本願寺財政とは別に置かれ,その使途も慈善事業費であっ た。このことから,本願寺が生命保険事業へ進出した目的は,従来言われい るように困窮していた教団財政への経済的貢献ではなく,慈善事業費獲得が その目的であったことが分かった。

次に,二つ目の論点であるアメリカなどで起こった宗教界による生命保険 事業に対する反発が日本では起こらなかったのはなぜかである。キリスト教 で生命保険に対する反発が起こったのは,教義上,生命保険は神の意志に対 する不敬の企みと位置づけられたことが挙げられる。これに対し,本願寺で は 真俗二諦 という教義によって,各家庭の家計維持者たる主人の死に対 する貯蓄は,俗諦を守らせる一手段として必要と考えられていたのではなか ろうか。また,門信徒も,会社の純利益の30%が慈善事業費として教団へ寄

(27)

付されていたことから,反発するというよりむしろ 御本山のために と積 極的に保険に加入したのではなかろうか。その証左に, 東京生命百年史 でも, 御本山のために という合言葉で信徒の信仰心と報恩心に訴え 保険勧誘が行われていたことが記載されている。ただ,この点は,さらに本 願寺の教義を深く調べ,教義との関連性を究明する必要があろう。

そして,三つ目の論点である真宗信徒生命設立に本願寺は主体的に関与し たのかという点は,結論から言えば,設立過程においては,赤松連城や島地 黙雷などの留学経験のある役僧が中心となって,本願寺が主体的に関わって いた。ただ,実際の経営に彼らは参画せず,門信徒の中でも特に熱心な信仰 心を持つ地方名望家に当たらせていた。それは,わが国では仏教教団の営利 事業進出に抵抗感を持つ人が多く,本願寺内部にもそのことを批判する者が いたことがその背景にあろう。すなわち,真宗信徒生命は,キリスト教に対 する危機感を幕末・維新期から醸成していた本願寺教団が,外国人の内地雑 居を目前に控え,キリスト教対策として行う慈善事業の費用調達を目的とし て設立された。しかし,彼らが自ら会社の経営を行うには,抵抗を持つ人が 多く,本願寺内部にも批判的な僧侶がいたため,地方名望家に会社の経営を 任せたのであろう。

本稿では,仏教系生保のうち,本願寺が関与した真宗信徒生命の設立を取 り上げた。ただ,浄土真宗は,本願寺派だけでなく六条生命に関与した大谷 派もある。同一の宗祖をもつ大谷派が経営した六条生命については,本文中 に真宗信徒生命の成功に刺激されて設立したことを少し触れたが,仏教系生 保全体の解明を行う上では,さらに深く調べる必要がある。また,本稿で取 り上げた本願寺の教義を深く調べ,本願寺の教義と生命保険との関連性につ いて,さらに検討する必要がある。また,教義が異なる他宗派,例えば,日 蓮宗が設立に関与した日宗生命などとも比較し,我が国では,諸外国と異な り,生命保険に対する反発が起きなかった理由をさらに深く究明する必要も

27) 前掲 東京生命百年史

p.27。

(28)

ある。そして,仏教系生保ではない一般の生保会社との比較を通じて,なぜ 仏教系生保は明治30年代末にはその姿を消したのかについても調べる必要が あろう。いずれも,今後の課題としたい。

(筆者は滋賀大学大学院経済学研究科博士後期課程)

付記

本稿は,財団法人 昭和報公会(伊藤忠兵衛基金)から研究助成を受けた 初 代・2代伊藤忠兵衛の経営活動に関する研究 (代表者:宇佐美英機 滋賀大学教 授)の研究成果の一部である。

参考 献

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史料

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明治廿七年九月 定期集会筆記 従第十二号 至第十九号 乙号 (龍谷大学図書館 蔵)

掌帳 伊藤忠兵衛家文書

新聞

京都日出新聞 読売新聞

(30)

雑誌

東京経済雑誌 時事新報 教誨一瀾

参照

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