デ ン マ ー ク 「フ ォ ー ク ・ハ イ ・ス ク ー ル 」 と平 和 教 育
167
︿報告V
デンマーク﹁フォーク・ハイ・
スクール﹂と平和教育
高村忠成
明治四四年(一九一一年)一〇月二二日︑内村鑑三は﹁デン
(1)マルク国の話﹂という講演を行った︒それは︑一八六四年︑デ
ンマークがいわゆる第ニシュレスウィヒ・ホルスタイン戦争の
結果プロシアとオーストリアに破れ︑シュレスウィヒ・ホルス
タインの二州を割譲され︑小国と化したが︑しかしその中から
荒地を開墾して農地にするなど後に見事に立ち直り︑立派な国
に変わっていった経過をのべると同時に︑なぜそうした事が可
能になったのかを分析したものである︒二〇世紀の初期におい
てデンマークは︑日本の二〇分の一しか人口はなかったが︑日
本人一人の一〇倍に当る貿易高をもち︑世界で最も富む国にな
っていた︒内村はその成功の原因は︑一言にしていえばデンマ
ーク人の国民精神にあり︑とくにデンマーク自生の自由信仰の
力によると結論した︒内村のこうした結論に賛成するか否かは
別として︑彼の胸中にあったものは︑当時日本は︑目清︑日露 両大戦に勝ったとはいえ︑だんだんとそれらの弊害に見舞われ
はじめており︑戦勝国必ずしも勝利の国とはいえないとの思い
であった︒逆に︑歴史を見るとデンマークは敗戦をきっかけに
その後の勝利を築いた︒大事なことは戦争に勝つか敗けるかで
はなく︑平和を願う強き国民精神を酒養できるかどうかという
ことである︒内村はこうした思いを強めていた︒
さてデンマークというと︑日本人にとってなじみ深いものは︑
アンデルセンの童話とキエルケゴールの実存主義哲学であろう︒
ロマンと実存の国︑いわば人間存在の両局面から入間性を追求
している国といえよう︒また酪農と農業というイメージもある︒(2)近年では︑国際政治の面でNATOの楯という印象が強い︒と
ころが︑こうしたデンマークの特徴の中で見落してはならない
ことは︑その国は早くから民主主義︑とくに平等を強調したそ
れと︑教育について独特の考え方をもっていたということであ
冤前者についてはここでは深く立ち入らないが︑男女平等な
どが早くから実現していたことは間違いない︒後者の教育につ
いては︑簡単にいうとその国には︑いわゆる通常の学校制度と︑
それとは別に国民高等学校︑いわゆるフォーク.ハイ.スクー
ルという制度がある︒とくにこのハイ・スクールは︑近代にお
いて大きな力をもち︑この発展がデンマークの民主主義を定着
させる上で少なからぬ影響力をもっていたといわれている︒
一九八五年現在︑デンマークには一〇四のフォーク.ハイ.
スクールがあり︑着実な教育活動を推進している︒それは目に
見えない︑静かな国民教育︑民衆啓蒙運動であるといってよい
であろう︒それはまた広く北欧の諸国にもとり入れられている︒681一九八五年八月四日ー一〇日︑このフォーク・ハイ・スクー
ルのひとつ︑ヘルシンゲルにある冒什o旨鉾帥§9勺oo且o.ω
Oo一一⑦oqoで︑同校主催︑国際平和学会IPRAの平和研究・平
和運動研究グループの計画によって︑ひとつの国際会議が開催
された︒テーマは"平和運動の危機‑知的挑戦"であり︑一三
力国から四六名の学者・研究者・教育者・平和運動家などが集
まり︑五日間にわたって熱心な討論を繰り広げた︒筆者も幸い
それに参加する機会をえたので︑この際ユニークなデンマーク
のフォーク・ハイ・スクールの一端を紹介しつつ︑その会議の
概要を報告し︑あわせて平和と教育という問題についての印象
をまとめてみたいと思う︒
一フォーク・ハイ・スクール
デンマークのフォーク・ハイ・スクールは︑一八才以上の成
(4)人を対象にした学校で︑入学試験も卒業試験もない︒そのかわ
り︑卒業したという証書も授与されない︒要するに勉強したい
人が自らの意志で入学し︑自分の関心のある科目を自分で選択
して学ぶという独特の学校教育制度である︒この意味で︑近年
日本で流行している教養講座に似た所があるが︑根本的に違う
のは︑短期コースにせよ長期コースにせよ︑寄宿舎に入り教師
と生徒︑生徒と生徒が起居を共にし人間的なふれあいを重視し
ているということ︑また︑ある程度体系的に履修科目を修得で
きることなどであろう︒ デンマークは今日でも日本とは違って進学熱というものはあ
まり高くない︒いわゆる高校︑大学への進学のためにはむずか
しい試験がありなかなか困難である︒そういうコースに進むに
は幼少の頃からの試験を中心にした能力によって自然に決めら
れてしまう︒しかも学校を終えるには多年の年月を要する︒多
くの青年は早くから手に職をつけることを望み︑社会的にも独
立することを好む傾向にある︒また一面ではこの国は平等の考
えが進んでいたので︑日本ほどそうしたコースに分けられるこ
とに差別観はないようである︒しかしだからといって︑早くか
ら社会に出た青年︑また大人たちが無教養であるというのは問
題であり︑ましてこの国は︑いわば季節がほぼ二分されるとい
っても過言ではないので︑農閑期は田舎の人にとっては時間は
十分ある︒そこで農民に対する教育が重要な問題になってきた︒
こうした様々な自然・社会・経済的な状況を背景として︑独特
なフォーク・ハイ・スク!ルという制度が生まれ︑今日ではそ
れが少なからぬ影響力を有しているのである︒例えば︑デンマ
ークの農家に行ってみると︑農村とは思えぬほど蔵書があった
り︑また︑博識の人がいるのに出くわすことがあるであろう︒
フォーク・ハイ・スクールはその教科内容を見ると厳格なカ
リキュラムはなく︑履習科目の選択は各学校︑教師︑また生徒
の手にかなりゆだねられている︒一見私立学校︑いな私的な塾
に似ている︒でもこれは国家によって正式に認められた学校で
あり︑法的にもその存立は保障され︑また国家から一定の財政
的援助も受けている︒しかしだからといって国家によってその
デ ン マ ー ク 「フ オ ー ク ・ハ イ ・ス ク ー ル 」 と平 和 教 育
169
教育内容に厳しい注文をつけられているというわけではない︒
もちろん学校運営的には国としても補助金を出す以上︑教科は
週どれ位以上行わねばならないとか︑教師の資格とかには一定
の基準をもうけているが︑教育方針等については各学校の自主
的判断にまかせており︑かなりの独自性を認めている︒法的に
保障されており︑しかもかなり自由であるというのがフォー
ク・ハイ・スクールのひとつの特徴といえよう︒国としてもこ
の学校の利点を認め︑軽視できない教育制度の一環として位置
付けてきた︒
ω沿革
デンマークに最初にフォーク・ハイ・スクールができたのは
一八四四年一一月七日である︒それは南ユトランドにおいてで
あり︑二〇人の青年が入学したという︒今日では前述したよう
に一〇四校あり︑およそ一万二千名が学んでいる︒
もともとこうした学校制度を考え出したのは︑グルンドヴィ
2欝o冨一国器ユo円涛0り①<o﹃一昌OHロコ鼻く戯(H刈○◎ωIHQo︑NN)である︒
彼は国民︑とくに農民が教育の機会をどのようにもつべきか︑
またどのような教育が与えられるべきかについて考えていた︒
デンマークといえば中世以来のバイキングの国であり︑その国
の歴吏は戦乱に明け暮れていた︒デンマークは一時はノルウエ
ー・スウェーデンはもとより︑ドイツ・イギリスまでその支配
下に収めていたが︑その後は敗退したり影響力を失なったりし
た︒とくに一入六四年のドイツとの戦争でその敗北は決定的に
なったが︑9巷脅くにはすでに一八三〇年代から︑国家という のは国民を軍事的に訓練するだけではなく︑精神的に教育を施
さなくてはならないと考えていた︒換言すれば︑戦略上重要な
地点にあるデンマークは︑このままでは永久に戦乱の渦中から
ぬけ出せない︒戦争によらず国を豊かにするには国民精神を酒
養する以外にない︒彼はこうした観点から教育の刷新︑興隆に
乗り出したのである︒しかも一入三一年司ユo脅圃oげ≦が絶対主
義を改め︑一種の議会制度を導入すると︑農民も議会に代表を
送れるようになり︑そのため農民たちの意識を高揚させること
が︑デンマークの民主化のために不可欠の要素となった︒ナシ
ョナリズムと民主化ー1この二つがフォーク・ハイ・スクール
誕生の政治的社会的背景であったといってよいであろう︒
しかしOH§鼻乱⑰qが求めた教育方針は︑そのような政治色
の濃いものだけではなかった︒彼が理想としたのは全人教育︑
いわゆる人間教育であった︒一八三一年彼は︑イギリスに三年
にわたる研修旅行を行い︑ケンブリッヂのトリニティカレッヂ
で学ぶ機会をえた︒そこで彼が見たものは︑フォーク・ハイ・
スクールの萌芽になったといってよい︒すなわちそれは︑コペ
ンハーゲンの大学とは違って︑授業を離れての教師と学生の生
き生きとした交流であり︑同士としてのつながりであった︒彼
はそれこそ教育の原点であると考え︑デンマークに新たな学校
をつくることを決意した︒彼はその構想をまとめ︑一八三六年
五月︑﹃﹃譜b§N客さミ爵ミQ﹁o竃晶という八三ページほど
の小冊子にして発表した︒
彼の構想は︑さらに何人かの人々によって継承され︑とくに