は
じ
め
に
現存する社会主義国家ベトナムは、二つの大きな戦争を 経験した。一九四六年から五四年まで戦われた独立戦争で ある第一次インドシナ戦争と、六〇年代から七五年まで南 北統一を目指して戦われた第二次インドシナ戦争である。 ベトナム国内では、前者を抗仏抗戦、後者を抗米抗戦と呼 ぶ。これら二つの戦争の記憶は、今日にいたるまで、社会 主義を標榜する党を中心とした国家支配体制を正当化する ための、重要な文化資源であり続けた。ベトナムにおいて は、党の主導により輝かしい勝利がもたらされたとする公 式的な戦争の記憶が絶えず生産され、喧伝されてきた。一 方で、戦時期に人びとが体験した苦難や犠牲をめぐる私的 な記憶等のオルタナティブな記憶は、あくまで公式的な記 憶を脅かしすぎない限りにおいてのみ、社会における表明 を許されてきた観がある。したがって、党の指導の拙さを 正面から糾弾するような記憶や、人びとのあいだの裏切り や内紛を赤裸々に暴露する記憶といった、公式的な記憶と 齟齬をきたす 対 カ ウ ン タ ー・メ モ リ ー 抗的な記憶 は、社会的にほとんど表面化し えないできたともいえる。とはいえ、今井昭夫が指摘する ように、今日少しずつ、公式的な記憶と性質の異なる記憶 が 民 間 レ ベ ル で 表 出 す る、 「記 憶 の 社 会 化」 が 進 み つ つ あ る (今井 二〇一三) 。 いずれにせよ、ベトナムにおいて公式的な記憶は、人び と が 好 む か 好 ま な い か を 別 と し て、 長 ら く 強 い 影 響 力 を も っ て き た し、 現 在 で も 一 定 の 力 を 保 っ て い る。 そ れ ゆ特集1
紅
い
戦争
の
記憶
―
旧ソ連 ・ 中国 ・ ベトナムを比較するベ
ト
ナ
ム
に
お
け
る
公
オ フ ィ シ ャ ル式的
な
戦争
の
記憶
︱︱記念碑
と
戦争展示
を
め
ぐ
る
考察
平山陽洋
え、その記憶の形態を検討することは、ベトナムにおける 戦争の記憶の全体像を理解するうえで、欠かせない作業で ある。その検討は、また、公式的な記憶と形態を異にする 民 間 レ ベ ル の 記 憶 の、 「異 な っ た 形 態」 に 込 め ら れ た オ ル タナティブな意味を考える前提として、必要となる作業で もある。本稿では、ベトナムにおいて公式的な記憶が構築 される際に、いつ、いかなる方法や意匠が採用されてきた かを検証したい。具体的には、記念碑という、社会空間の 一角を物理的に占有する公共建築物と、戦争にまつわる遺 物や写真、絵画や彫刻等を博物館等で展示する文化政策に ついて時系列にそって検討する。また、その検討に際し、 ベトナムにとって国家建設の模範とされた、ソ連や中国と いった社会主義諸国からの同時代的な文化的影響の如何に ついても考察したい。
Ⅰ
烈士追悼碑
の
登場
と
浸透
︱︱一九五〇年代 を 中心 に 戦争にまつわる記念碑のうち、現在のベトナムで最も数 が多いのは、革命や戦争の殉死者を悼む烈士追悼碑であろ う。烈士追悼碑は、ベトナム語で Đài Tưởng niệm Liệt sĩ と 表記するが、これを漢字に変換すると「台想念烈士」とな る。この追悼碑は、ベトナム各地において、烈士墓地の区 画内や、都市、町、村の公共空間に建設されている。さま ざまな意匠が存在するが、いずれも基本的には、地面に屹 立するオベリスク型であるという共通点をもつ。 こうした追悼碑を社会主義政権が建造する歴史は、一九 五〇年代に始まったようである。建築家、建築史家のドア ン・ドゥック・タインによると、最初の追悼碑が築かれた のは、抗仏抗戦期の政権疎開地の一つであるトゥエンクア ン省チエムホア県で五一年に開催された、第二回党全国大 会 会 場 で の こ と で あ っ た。 碑 文 に は、 「共 産 主 義 と 祖 国 の ために犠牲となった同志を忘れない」とある。このときの 追悼碑は、しかし、オベリスク型ではなく、石碑に近い形 状であった。さらにこの石碑は、遮るものなくむき出しに 置かれたのではなく、藁葺き屋根に覆われた、前方が三間 に区切られた空間の内側に丁重に設置された。碑の前には 香 炉 が 置 か れ て い る ( Đoàn Đức Thành 2007 、 写 真 1) 。 石 碑という形状が採用された理由を考えたとき、伝統的な墓 碑等を通してこのかたちに馴染みがあったという事情や、 戦争中ゆえ敵軍に党大会開催地を覚らせない低さに抑える 必要性があった事情、等に思いいたる。 一方、空間にそびえるオベリスク型の追悼碑が建設され たのは、戦争終結後であった。設置場所は、ハノイのバー ディン広場である。バーディン広場とは、かつてのインドシナ総督府の眼前に広がった空間であり、四五年九月二日 にホー・チ・ミンが独立宣言を読み上げた場所でもある。 つまり、ベトナムにおいてそこは、政治的な支配と権威の 中心を象徴的に意味する場所であった。ドアンは、ハノイ に帰還した政権が、そのバーディン広場で五五年に建設し た木製の碑が、オベリスク型の追悼碑の最初であると指摘 す る (写 真 2) 。 ド ア ン に よ る と、 こ の 追 悼 碑 の 特 徴 と し て、上部に伝統的な家屋の屋根を表す「民族的な」意匠を 施 し た 点 が 挙 げ ら れ る。 ま た、 「祖 国 は 功 績 を 忘 れ な い」 という言葉を刻むという、今日まで継承される意匠も、こ の碑に始まる。そして、この追悼碑がモデルとなり、以後 各地で同様の碑が建設されていった。そのなかで最も古い も の の 一 つ が ハ ノ イ の マ イ ジ ッ ク 烈 士 墓 地 に 現 存 す る 碑 写真2 1955年にバーディン広場に設 置された追悼碑 (出所)Đoàn Đức Thành 2007: 35 写真1 1951年第2回党全国大会会場で設置された追 悼碑 (出所)Đoàn Đức Thành 2007: 35 写真3 マイジック烈士墓地の追悼碑 (2013年)
で、これはバーディン広場に設置された碑と設計者を同じ にし、意匠が踏襲されたという。バーディン広場の碑が別 のものに代わった現在、烈士追悼碑の最初期の意匠を伝え て く れ る の が、 こ の マ イ ジ ッ ク に 置 か れ た 碑 で あ る (写 真 3) 。 た だ し、 こ の 碑 は 木 製 で は な い * 1 ( Đoàn Đức Thành 2007 ) 。 し か し、 バ ー デ ィ ン 広 場 の 追 悼 碑 が 設 置 さ れ る に あ た り、一定の高さのオベリスク型が採用された理由は定かで ない。設計者であるグエン・ヴァン・ニンが、植民地期の ハノイでインドシナ美術高等学校に学んだ経歴 * 2 に着目し、 彼が学生時代にヨーロッパ式の戦没者追悼碑の知識を得て おり、その様式をベトナムに導入した、と推察することも 可能だろう。あるいは、ヨーロッパの記念碑文化がソ連や 中 国 を 経 由 し て 伝 わ っ た 可 能 性 も 考 え ら れ る。 と い う の も、抗仏抗戦後の国家建設にあたり、ソ連と中国の両国の 多岐にわたる指導、つまり、政治や経済だけでなく社会や 文化のあり方も含めた指導が大きな影響を与えたためであ る。いずれにせよ、ベトナムで烈士追悼碑は五〇年代以降 に各地に広まり、人びとにとって、戦争による死者を追悼 する馴染みの公共建築物となった。そして、とくに抗米抗 戦 終 結 以 降 に は、 抽 象 性 の 高 い モ ダ ニ ズ ム 様 式 か ら、 「伝 統」を強調する様式、人物像を伴った様式まで、追悼碑の 3 ロンアン省ロンホー県の追悼碑 2 ゲアン省クインリュー県の追悼碑 1 ソンラ省モックチャウ県の追悼碑 写真4 現在のベトナム各地の追悼碑 (出所)Doãn Đức 2012
意 匠 の 多 様 化 が 進 ん で い く ( Doãn Đức 2012 、 写 真 4 ) 。 さ まざまな意匠を備えた烈士追悼碑の建造は、また、各行政 レベルにおける烈士墓地の建設や、墓地で催す烈士追悼儀 礼 の 創 出 と い っ た 社 会 政 策 と も 関 連 し て い た ( Malarney 2001 ; マ ラ ー ニ ー 二 〇 〇 八) 。 一 般 の 人 び と に と っ て の 身 近な者たち、たとえば家族や親戚、近隣住民といった者た ちの、革命と戦争における殉死を悼むそれら社会政策が複 合的に実施されるなかで、追悼碑が人びとに馴染みのもの になったと考えられる。
Ⅱ
戦争
の
展示
と
鑑賞
︱︱一九五〇年代末 を 中心 に 烈士追悼碑の建設が始まってから数年、一九五〇年代末 に な る と、 新 た な 文 化 政 策 と し て、 「歴 史 遺 産 保 存・ 博 物 館・展示工作」が実施された。文化省歴史遺産保存・博物 館局が六〇年から六一年にかけてまとめたと推定される資 料 に よ る と、 「歴 史 遺 産 保 存・ 博 物 館・ 展 示 工 作」 は、 抗 仏抗戦に関する遺物や写真、絵画や彫刻を展示し、人びと に集団的に鑑賞させることを大きな目的の一つとした ( Vụ Bảo tồn Bảo tàng n.d. ) 。そこでは、同時に、五九年に中央革 命博物館学院が設置されるに際しソ連の専門家からの支援 があったと記されており、戦争展示の文化政策が実現され るうえで、ソ連の影響を読み取ることができる。 この資料によると、博物館、記念館、展示室といった常 設の公共施設における展示に加えて、期間を定めた展示会 も各地で催された。展示会には、小規模の展示物で各地を 巡回する方式や、大小規模の展示物を特定の場所に陳列す る方式があった。六〇年の時点で、中央政府の管理する博 物館はハノイに三館、ハイフォンに一館あった。ハノイに は、また、市が管理する記念館が三カ所設けられた。その 他、 省 や 村 で い く つ か 展 示 室 が 設 け ら れ た (写 真 5) 。 こ 写真5 フート省スーニュー村の展示室 (出所)Trần Liên 1960: 34れら常設施設の数は合計二二であり、六〇年の一年間にお ける訪問者総数は延べ人数で五五万人ほどだった。一方の 展示会は、すべての展示方式を含めると、六〇年だけで北 ベトナム全体で九六〇八回催され、延べ人数で一二〇〇万 人 が 鑑 賞 に 訪 れ た。 鑑 賞 者 の 数 が 突 出 し て 多 い の は ハ ノ イ、 ハ イ ズ オ ン、 ハ イ フ ォ ン で あ り、 ハ ノ イ は 二 〇 〇 万 を、ハイズオンとハイフォンは一〇〇万を超える。戦争後 にフランス軍の撤収港に指定され、南ベトナムに逃れよう とする人びとが集まったハイフォンや、そのハイフォンへ の ル ー ト と な る ハ イ ズ オ ン、 長 ら く フ ラ ン ス の 支 配 下 に あったハノイといった土地では、住民を教化するために、 公式的な戦争の記憶を浸透させる必要性がより強く認識さ れたのかもしれない。 いずれにせよ、五〇年代の末に、人びとは、博物館、記 念館、展示室、展示会に足を運び、戦争展示を直接観賞し た。加えて、それら展示の内容を間接的に「観賞」する機 会もまた、人びとに提供された。展示内容を写真付きで紹 介する小冊子が、五〇年代末から六〇年代前半にかけて複 数 刊 行 さ れ た の で あ る。 た と え ば、 六 〇 年 刊 行 の 写 真 集 『軍 事 博 物 館』 は、 か つ て の フ ラ ン ス 通 信 兵 の 駐 屯 地 兵 舎 を接収して五九年一二月にハノイで開場した同博物館の展 示の構成と内容を、写真を数多く使用して紹介しており、 抗仏抗戦中の大きな戦役や、人びとの生活と戦いを分かり 1 博物館外観を写した写真集表紙
(出所)Viện Bảo tàng Quân đội 1960: front page
2 ディエンビエンフーの戦い(1954年)のジオラマ展示物の
写真 (出所)Viện Bảo tàng Quân đội 1960: 46
や す く ま と め て い る ( V iện Bảo tàng Quân đội 1960 、 写 真 6 ) 。 ま た、 や は り 住 民 教 化 の 政 治 戦 略 上 重 要 な 場 所 だ っ たからか、ハイフォンにおける博物館の小冊子が六〇年に 刊行されている ( Bảo tàng Hải Phòng 1960 ) 。 さらに興味深いのは、大小さまざまな規模の戦争展示の 実 施 や、 展 示 内 容 の 小 冊 子 に よ る 紹 介 と 並 行 し て、 「文 化 の家」という名称の公共文化施設の建設が各地で進められ た 点 で あ る (写 真 7) 。「文 化 の 家」 に 集 っ た 人 び と は、 国 家の提供する新聞や雑誌に目を通し、その内容について会 話を重ねることで、国民としての共同性の意識を育んだろ うし、その一環として、戦争に関する公式的な記憶を共有 していっただろう。博物館展示を紹介する各種小冊子も、 そのような場で回覧されたのかもしれない。歴史はさらに 繰り返す。そうした意識共有の場としての「文化の家」の 建設が、抗米抗戦後の八〇年代にあらためて、統一された 南 ベ ト ナ ム の 各 地 を 含 め 全 国 的 に 推 進 さ れ た の で あ る ( Năm 1984: 28 ; Nhà Văn hóa 1985 ) 。 そ し て、 戦 争 を め ぐ る 博物館展示の文化政策にソ連の影響を読み取れるのと同様 に、 「文 化 の 家」 に お け る 集 団 的 な 意 識 共 有 と い う 文 化 実 践にも、社会主義諸国からの影響があったと推測される。 興味深いことに、五〇年代の中国で、絵物語を描いた連環 画と呼ばれる小冊子が、貸本屋という場を介して人びとの あ い だ で 回 し 読 み さ れ て い た (中 野 二 〇 〇 八) 。 こ れ な ど は、ベトナムにおける「文化の家」における実践との同時 代的な連関を感じさせる文化事象だろう。
Ⅲ
人物像記念碑
と
景観
の
変容
1
戦後復興
の
な
か
の
人物像記念碑
︱︱一九八〇年代 を 中心 に 一九八〇年代に入ると、従来の烈士追悼碑や戦争展示と 異なるかたちで、戦争の記憶や、あるいは植民地期の闘争 の記憶を、後世に伝えようとする公式的な記憶の形態が広 がりを見せ始めた。その形態とは、人物像記念碑である。 写真7 サパの「文化の家」の写真を掲 載した雑誌『文化』1960年11月号表紙ここで「人物像記念碑」と記したが、これはベトナム語の Tượng đài と い う 語 を 念 頭 に お い て い る。 こ の 語 は 漢 字 で は「像台」となる。この語の意味について明確な定義はな いが、広義ではオベリスク型の記念碑や石碑を含んだ記念 碑一般を指し、狭義では、人物を模した彫刻と、建築を組 み 合 わ せ た 記 念 碑 を 意 味 す る ( Lê Bình 1985 ; Lý Trực Dũng 2006 ) 。 現 在 の ベ ト ナ ム で は、 こ の 語 は 後 者 の 記 念 碑 を 指 す場合が多い印象である。そのため、ここでは「人物像記 念碑」と表記する。 さて、この人物像記念碑を扱った記事が、八〇年代半ば に、新聞『文化芸術』の誌面にしばしば登場する。ある記 事では、公共空間を占める最新の記念碑様式として、人物 像記念碑を紹介している。そこでは、この記念碑に馴染み のない読者を念頭に、彫刻に用いられるレリーフ等の基本 技術について解説するとともに、記念碑を眺望しやすいよ う 周 囲 の 空 間 が 設 計 さ れ る 事 情 等 が 説 明 さ れ た ( Lê Bình 1985 ) 。 ま た、 北 部 か ら 南 部 ま で の 各 地 に お け る、 戦 争 と 独立に関する人物像記念碑の建設を伝える記事も掲載され た ( Trọng Đông 1984 ; Nguyễn Hùng 1985 ; Nguyễn Thụy Bảo 1985 ) 。 加えて、 写真による人物像記念碑の紹介も多い (写 真 8) 。 同 時 期 に は、 抗 仏 抗 戦 最 初 期 の ハ ノ イ 攻 防 戦 を 記 念する人物像がハノイ市内に設置されており、その落成は 八四年であった (写真9) 。 八 〇 年 代 に 人 物 像 記 念 碑 の 建 設 が 推 進 さ れ た 背 景 と し て、抗米抗戦からの戦後復興を目指す文化政策において、 ソ連の記念碑文化を「新しい文化」の一つとして受容しよ うとする動きがあったことを指摘できる * 3 。そうしたソ連文 化が新聞『文化芸術』で取り上げられており、たとえば、 「母 な る 母 国」 像 を 紹 介 す る 記 事 が あ る。 そ こ で は、 ヴ ォ 1 バクザン市に設置された烈 士ゴー・ザー・トゥ(1908-35) の像
(出所)Nguyễn Thụy Bảo 1985: 3
2 ホーチミン市に設置された ホー・チ・ミン像とそれを仰ぎ見る 子どもたち
(出所)Nguyễn Hoài 1984: 6
ルゴグラードのママイの丘に置かれた像や、レニングラー ドにあるピスカリョフ墓地の像の写真が付されている。こ の記事からは、それら荘厳な像を建設しうるソ連文化の先 進性を視覚的に訴え、その文化を模範とする意識を涵養し よ う と す る 工 夫 が 読 み 取 れ る ( Nguyễn Trân 1985 ) 。 別 の 記 事では、そうした「新しい文化」のベトナムへの導入を示 す大きな事例として、ハノイ市でレーニン像の設置が進め られ、八五年に落成式が執り行われたことを伝えている。 その像の設置は、ベトナムとソ連との友好関係を示す一大 行事として、ソ連の技術者による支援のもと実現され、人 物像や台座に使用された素材は非常に良質のものであった ( Hài Nhân 1985 ) 。 こうした記念碑文化の導 入は、さらに、抗米抗戦後 のベトナムにおける都市再 開発や国土再開発をソ連と 東欧諸国の建築家や都市計 画家が支援した事情にも由 来している。たとえば、ハ ノイ市におけるレーニン像 やハノイ攻防戦を記念する 像の落成と同時期の八五年 に、ソ連の専門家の支援の もと、労働文化宮殿が建設 さ れ て い る ( Thanh Thủy 1985 ) 。 こ の 宮 殿 は、 今 日 のベトナムでは旧時代の無 粋な建築の代表と認識され る場合が多いが、それは当 時、最新の技術が投入され た、ベトナム随一の総合娯 楽施設としてハノイの都市 空 間 に 登 場 し た。 そ こ に は、一二七〇人が座れる座 席を備えた歌劇場や三七五 写真9 抗仏抗戦期のハノイ攻防戦を記念 する人物像(2010年) 写真10 落成当時の労働文化宮殿 (出所)Thanh Thủy 1985: 2
人分の座席を備えた映画上映室が設置されていた。その他 にも、露英仏独の四カ国語に対応した同時通訳ブース、亜 熱帯のハノイにあって気温を二〇度前後に保つ空調設備、 スプリンクラーが自動で作動する火災予防装置、等を備え て い た (写 真 10)。 ハ ノ イ に お い て は、 こ う し た 文 化 施 設 の建設と記念碑の建設が、抗米抗戦からの戦後復興が目指 されるなかで、ソ連式の都市空間構想のもと相互に結びつ けて推進されたと考えられる * 4 。なお、米中接近や中越国境 紛争等が起こった後の八〇年代に、そうした都市再開発、 国土再開発、記念碑文化導入の文脈で、ベトナムと中国と のあいだの「友好的な」文化的影響関係を想像するのは困 難だろう。
2
人物像記念碑
と
暗
い
一九八〇年代
と
い
う
イ
メ
ー
ジ
︱︱二〇〇〇年代 を 中心 に 戦後復興とともに建設が推進された人物像記念碑は、し かし、烈士追悼碑とは対照的に、人びとに馴染みのものと はならなかったようである。周知の通り、抗米抗戦後の戦 後復興は、計画経済の破綻とともに頓挫し、それが八六年 の市場開放につながった。また、ベトナムにとっての模範 とされたソ連は九一年に崩壊した。その後現在にいたるま でのあいだに、人物像記念碑は、暗い八〇年代の歴史の象 徴として受け止められ、人びとの否定的な感情を惹起する 公共建造物になった観がある。また、人物像記念碑のもつ 社会的役割が烈士追悼碑と異なり、実際に生き、そして死 した身近な者たちの追悼という意味が弱いことも、その不 人気の原因であるかもしれない。 たとえば、前節で触れた、ハノイ攻防戦を記念する八四 年設置の人物像に対して、二〇〇〇年代になるとさまざま な 批 判 が 表 明 さ れ た。 「剣 も つ 女 は ま る で 掃 き 掃 除。 敵 討 つ男はくつろいで一休み」という、デザインの粗雑さを揶 揄する批判に加え、真ん中の男性の刺突爆雷 * 5 の掲げ方は自 爆の危険性が高く、現実的にありえなかった、また、台座 に記された言葉は抗仏抗戦期には用いられていない、とい う 史 実 に 照 ら し た 批 判、 等 が あ っ た ( Xây mới Tượng đài ‘Quyết tử...’ 2003 ; Đỗ Diễm Huyền 2003 ) 。こうした批判は、 ハノイ攻防戦に関する新たな人物像記念碑を設置しようと する動きのなかで現れたものであり、八四年の像は撤去し てしまい博物館等に収納するのがよい、という議論も生ま れた。しかし、やがて状況は、興味深い方向に変化した。 八四年の人物像設置にあたり、本来は優れた内容だった設 計者キム・ザオの原案デザインが大きく改変され、結果的 に粗雑な像が完成したという、当時の事情が明るみになっ たのである ( Dương Trung Quốc 2003 、写真 11)。そして、原 案のデザインで表現されていた人物の躍動感が失われたことや、そもそも男女二人の人物構成案だったのが、労働者 と兵士、女性という、紋切り型の社会主義的人物構成に変 えられたこと、等が批判的に論じられた。そうした状況変 化のなか、ハノイの人物像に対する批判は、像の姿形に対 する不満という意味を超えて、八〇年代の文化行政の酷さ や拙さといった、暗い時代の負のイメージに対する批判と しての意味合いを帯びていった * 6 。 しかし、人びとの否定的な感情があるにもかかわらず、 人 物 像 記 念 碑 の 建 設 は、 二 〇 〇 〇 年 代 以 降 に 加 速 し て い る。 そ れ を と く に 速 め た も の の 一 つ と し て 指 摘 で き る の が、二〇〇四年一〇月に文化通信省から公示された公文第 3767/VHTT―MTNA号である。この公文におい ては、二〇二〇年までのあいだに地方各地で人物像記念碑 を 設 置 す る こ と が 定 め ら れ た ( Bộ Văn hóa-Thông tin Yêu 写真11 抗仏抗戦期のハノイ攻防 戦を記念する人物像のデザイン原 案(ミニチュア像) (出所)Dương Trung Quốc 2003: 38 写真12 クアンチ省に設置された人物像 (時代ごとの連絡兵の形象)(2007年) 写真13 かつて南北ベトナムを分かったクアンチ省 ベンハイ川の南側に設置された人物像(北ベトナム に渡った夫を待つ妻と子の形象)(2007年)
cầu... 2004 ) 。 そ し て、 こ う し た 公 式 的 な 文 化 政 策 に 従 う か たちで、以前に人物像記念碑文化を担った経歴をもつ芸術 家や建築家が近年あらためて動員され、八〇年代を想起さ せる意匠の像が新設されている (写真 12・ 13)。たとえば、 六〇年代初頭にキエフ美術大学で彫刻を学んだ経歴をもつ 彫刻家レー・ディン・クイーが、二〇〇〇年代にクアンチ 省ベンハイ川に設置された写真 13の人物像の設計を担当し た * 7 ( Trương Thảo 201 1 ; Cảnh Linh 2013 ) 。人物像増設という 近 年 に お け る 文 化 行 政 の 動 向 に つ い て、 研 究 者 の な か に は、グローバリゼーションの影響があると指摘する者もい る。現在のベトナムにおいて、貧富の格差が拡大し、高所 得者でなければ住めない洒落た高層マンションが数多く建 設される一方で、かつて東側社会主義諸国からの支援で建 設され、労働者や退役軍人等を等し並みに住まわせた集合 住宅は、古めかしく使い勝手の悪いものとして取り壊され つ つ あ る。 し か し、 「東 側 文 化」 の 同 じ よ う な「古 め か し さ」を感じさせるはずの人物像記念碑は、グローバリゼー ション下で国民の共同性を訴える必要性から、ますます増 えているという ( Schwenkel 2012 ) 。 いずれにせよ、二〇〇〇年代以降、八〇年代的な人物像 記念碑文化がベトナムで再導入されている。しかし、八〇 年代と二〇〇〇年代の文化行政には違いが見て取れる。そ の違いは、人物像記念碑を眺める主体の想定が異なる点に ある。八〇年代には、像が設置される地域の住民が、それ を眺め、記憶を継承する主体と想定されたと考えられる。 それに対し、二〇〇〇年代になると、地域住民の他に、戦 争に関する史跡等を訪れる国内観光客も含むものとして、 そ の 主 体 が 考 え ら れ る よ う に な っ た ( Logan 2006 ) 。 も ち ろん、人びとの不満は根強く、人物像記念碑の設置は公金 の無駄遣いであり、その設置よりは地域経済の成長にお金 を 使 う べ き、 と い う 意 見 が 繰 り 返 し 示 さ れ て い る ( Lý Trực Dũng 2006 ; Logan 2006 ) 。そうした批判を伴いつつも、 現在のベトナムの景観は、人物像記念碑の増設とそれらを 眺望する主体の変化とともに、変容し続けている。
お
わ
り
に
本稿では、ベトナムにおける公式的な記憶の構築を、一 九五〇年代初頭からの烈士追悼碑の建造、五〇年代末から の博物館展示と鑑賞の実践、八〇年代を中心とした人物像 記念碑の設置と二〇〇〇年代におけるその再推進と、時系 列にそって検証してきた。一般的に言って、国民国家で公 式的に構築される記憶は「上から」の押しつけとしての側 面 が 強 く、 「下 か ら」 形 成 さ れ る オ ル タ ナ テ ィ ブ な 記 憶 と 対抗関係にあると理解される場合が多い。この理解は基本的 に 正 し い と 思 わ れ る が、 戦 争 の 記 憶 に お け る「上」 と 「下」 の 関 係 が す べ て 水 と 油 の 関 係 で あ る と ま で 断 定 す る ことはできないだろう。たしかに、ベトナムにおける人物 像 記 念 碑 に 対 す る 人 び と の 不 満 か ら は、 「上 か ら」 の 記 憶 に 対 す る「下 か ら」 の 抵 抗 感 と 拒 絶 が 読 み 取 れ る。 し か し、ベトナムにおける烈士追悼碑の広がりは、実際に生き た者の死を悼むという行為の、一般の人びとにとっての意 味の重さゆえに現実化されえたのだろう。また、博物館展 示と鑑賞の実践は、その実践のなかで導入された意識共有 の方法を流用して、人びとが自分たちなりの共同性を作り 出すきっかけを生みもしただろう。これらの事例からは、 む し ろ、 「上 か ら」 作 ら れ る 公 式 的 な 記 憶 の 形 態 が「下 か ら」の記憶を包摂したり、その記憶の形成を促したりする 関係、つまり「上」と「下」の補完性が浮かび上がる。そ し て 重 要 な の は、 「上」 と「下」 の 対 抗 関 係 や 補 完 性 の 如 何 を 理 解 す る 前 提 と し て、 「上 か ら」 形 成 さ れ る 公 式 的 な 記憶の形態を、 具体的な歴史の文脈のなかに位置づけ直す 作業である。さらに、ベトナムを事例にその作業を進める 場合には、他の社会主義諸国との文化的関係が、いつどの ように構築され、切断され、再構築されたかについての考 察が不可欠となる。 も っ と も、 本 稿 で は、 戦 争 の 記 憶 に お け る「上」 と 「下」 の 関 係 に つ い て も、 各 種 各 様 の 記 憶 の 形 態 が 公 式 的 に採用されるにあたっての他の社会主義 諸 国からの影響に つ い て も、 あ く ま で 示 唆 的、 試 論 的 な 考 察 を 示 す に 留 ま り、実証的な検証を十分に展開しえたわけではない。そう した検証を、具体的な事例に即して綿密に進めることが、 今後の大きな課題である。 ◉注 * 1 な お、 マ イ ジ ッ ク 烈 士 墓 地 の 碑 の 現 在 の 姿 が 一 九 五 〇 年 代 当 時 と ま っ た く 同 じ と 考 え る の は 無 理 が あ る だ ろ う。 塗 り 直 し 等 の 修 復 措 置 が、 五 〇 年 代 に 設 置 さ れ て 以 降 に 幾 度 か 施 さ れ た で あ ろ う こ と は、 想 像 に 難 く な い。 し か し、 そ の 点 を 差 し 引 い て も、 マ イ ジ ッ ク の 碑 が、 現 存 す る 追 悼 碑 の な か で、 社 会 主 義 政 権 最 初 期 の 様 式 を 現 在 に 最 も 伝 え る も の で あ ると考えるのは妥当であろう。 * 2 グ エ ン・ ヴ ァ ン・ ニ ン は 一 九 〇 八 年 に ラ ン ソ ン で 生 ま れ、 二 六 年 か ら 三 二 年 に か け て、 ハ ノ イ の イ ン ド シ ナ 美 術 高 等 学 校 建 築 科 で 学 ん だ。 三 九 年 に は フ エ で バ オ・ ダ イ 帝 の 休 息 用 別 邸 を 設 計 し て い る。 抗 仏 抗 戦 に 参 加 し た 後 に は、 バ ー デ ィ ン 広 場 の 烈 士 追 悼 碑 を 設 計 す る ほ か、 首 相 府 内 の ホ ー・ チ・ミン執務室の設計を手掛けた(
Nguyễn Duy Chiến 2005
)。 * 3 た だ し 、 一 九 八 〇 年 代 以 前 の 社 会 主 義 政 権 が 、 人 物 像 記 念 碑 を ま っ た く 建 設 し な か っ た わ け で は な い 。 た と え ば 、 ハ ノ イ に 現 存 す る 、 革 命 に 殉 じ た 少 年 リ ー ・ ト ゥ ・ チ ョ ン ( 一 九 一 四 ~ 三 一 ) の 立 像 や 、 六 四 年 に 南 ベ ト ナ ム で マ ク ナ マ ラ 米 国 防 長 官 襲 撃 を 試 み 、 処 刑 さ れ た グ エ ン ・ ヴ ァ ン ・ チ ョ イ ( 一 九 四
〇 ~ 六 四 ) の 胸 像 は 、 い ず れ も 六 〇 年 代 後 半 に 設 置 さ れ た も の で あ る 。 両 者 は 人 物 が 南 を 向 く か た ち で 据 え ら れ て お り 、 南 北 統 一 の た め の 戦 意 高 揚 と い う 意 味 を も っ た と 思 わ れ る 。 ハ ノ イ 以 外 で も 、 た と え ば タ イ ン ホ ア 省 に 六 七 年 設 置 の 人 物 像 記 念 碑 が あ る ( Schwenkel 2009: 219, note 11 )。 こ れ は 、 六 五 年 に ナ ム ガ ン の 民 兵 が 米 空 軍 機 四 七 機 を 撃 ち 落 し た 出 来 事 を 記 念 し て 設 置 さ れ た 。 こ う し た 像 の 設 計 者 と し て は 、 ソ 連 留 学 経 験 者 等 が 抜 擢 さ れ た 。 し か し 、 ソ 連 留 学 経 験 者 は 、 親 ソ 派 を 「 修 正 主 義 」 と し て 排 除 す る 六 〇 年 代 の 政 治 動 向 の な か 、 文 化 行 政 の 要 職 に つ け ず 、 ソ 連 で 学 ん だ 技 術 を 発 揮 す る 機 会 を 、 あ ま り 得 ら れ な かったようである( Logan 2000: 197 )。 * 4 抗 米 戦 争 後 の ハ ノ イ 市 の 都 市 再 開 発 と、 そ れ に 関 わ っ た ソ 連 の 建 築 家 や 都 市 計 画 家 に つ い て は、 Logan ( 2000 ) の 第 二 章「紅 河 の 赤 い 都 市 ―― ハ ノ イ の 社 会 主 義 的 相 貌 を 創 り 出 す」 を 参 照。 ま た、 シ ュ ワ ン ケ ル は、 ベ ト ナ ム 中 部 の 都 市 ヴ ィ ン の 再 開 発 に 対 す る 東 ド イ ツ 都 市 計 画 家 の 支 援 を 論 じ て い る( Schwenkel 2012 )。 シ ュ ワ ン ケ ル に よ る と、 各 社 会 主 義 諸 国 が そ れ ぞ れ 異 な る 都 市 や 地 域 の 再 開 発 を 担 い、 ソ 連 が ハ ノ イ を、 東 ド イ ツ が ヴ ィ ン を、 ポ ー ラ ン ド が ハ イ フ ォ ン を、 ブ ル ガ リ ア と ル ー マ ニ ア が タ イ ビ ン 省 と タ イ ン ホ ア 省 を 担 当 し た。 な お、 こ れ ら 支 援 を 受 け る 代 わ り に、 ベ ト ナ ム は 東 側 各国に労働力を輸出した。 * 5 刺 突 爆 雷 と は、 日 本 軍 か ら 伝 わ っ た 対 戦 車 用 の 武 器 で、 こ れ を 掲 げ る 兵 士 は 戦 車 に 接 近 し て 先 端 に 取 り 付 け た 弾 頭 を ぶ つ け て 爆 発 さ せ る。 こ の 刺 突 爆 雷 は、 四 六 年 か ら 四 七 年 に か け て の ハ ノ イ 攻 防 戦 を 象 徴 す る 武 器 と し て、 絵 画 や 彫 刻 で 描写されることが多い。 * 6 そ の 後、 二 〇 〇 四 年 一 二 月 に、 ハ ノ イ 攻 防 戦 を 記 念 す る 新 し い 人 物 像 が 旧 市 街 北 方 の ハ ン ダ ウ 公 園 に 設 置 さ れ た。 一 方、 八 四 年 の 像 は、 博 物 館 に 収 め る べ き と い う 意 見 が 繰 り 返 されつつも元のまま残され、現在にいたっている。 * 7 レ ー・ デ ィ ン・ ク イ ー は、 一 九 九 〇 年 代 後 半 以 降、 数 多 く の 人 物 像 記 念 碑 の 設 計 を 手 が け て き た 人 物 で あ る が、 そ の 経 歴 が 興 味 深 い。 彼 は、 六 〇 年 代 前 半 に キ エ フ 美 術 大 学 で 学 ん だ が、 数 年 も た た な い う ち に、 ソ 連 に 留 学 し た 他 の ベ ト ナ ム 人 学 生 た ち と 同 様 に、 本 国 に 帰 国 さ せ ら れ た。 彼 は 帰 国 後 に ベ ト ナ ム 美 術 学 校 を 卒 業 し た が、 そ の 後 し ば ら く は 彫 刻 作 品 を 発 表 す る 機 会 を 得 な か っ た( Cảnh Linh 2013 )。 こ う し た 経 緯 は、 お そ ら く、 「修 正 主 義」 を め ぐ る 当 時 の 越 ソ 間 の 緊 張と関連している(前注3参照) 。 ◉参考文献 今 井 昭 夫(二 〇 一 三) 「一 九 七 二 年 ク リ ス マ ス 爆 撃 の 記 憶 ―― ベ ト ナ ム・ ハ ノ イ 市 カ ム テ ィ エ ン 通 り の 被 災 者 へ の 聞 き 取 り 調査」 『東京外国語大学論集』八六号、二二五―二四二頁。 中 野 徹(二 〇 〇 八) 「英 雄 の 読 ま れ 方 ―― 小 説『鉄 道 遊 撃 隊』 の 受 容」 望 月 哲 男 編『共 産 圏 の 日 常 世 界』 ス ラ ブ・ ユ ー ラ シ ア 研 究 報 告 集 一、 北 海 道 大 学 ス ラ ブ 研 究 セ ン タ ー、 一 三 一 ― 一三九頁。 マ ラ ー ニ ー、 シ ョ ウ ン・ K(二 〇 〇 八) 「戦 死 者 と と も に 生 き る ―― 現 代 ベ ト ナ ム に お け る 遺 骨 と 凶 事、 そ し て 収 束 す る 物 語」 『クァドランテ』一〇号、七―三二頁。
Bảo tàng Hải Phòng ( 1960 ) Bảo tàng Hải Phòng, Hải Phòng: Bảo tàng Hải phòng. Bộ Văn hóa-Thông tin Yêu cầu các Địa phương Thực hiện 8 Nội dung khi Xây dựng Tượng đài. ( 2004 ) Toàn cảnh Sự kiện và Dư luận 172: 36. Cảnh Linh ( 2013 ) Một Nhà Điêu khắc Độc đáo. http://suckhoedoisong. vn/ va n-hoa -the -tha o/ m ot -nha -di eu-kha c-doc -da o-20130713022133993. htm ( October 13, 2013 ). D oãn Đ ức ( 2012 ) K iến trúc Đ ài Tưởng niệm Liệt sĩ: Biểu tượng của Lòng Tri ân. http://kienviet.net/2012/07/29/kien-truc-dai-tuong-niem-liet-si-bieu-tuong-cua-long-tri-an/ ( October 13, 2013 ). Dương Trung Quốc ( 2003 ) Xây mới Tượng đài ‘Quyết tử...’ Nên Trở về với Phác thảo Gốc? Thể thao và Văn hóa 77: 38-39. Đỗ Diễm Huyền ( 2003 ) Những Uẩn khúc quanh Tượng đài ‘Cảm tử.’ http://vietbao.vn/V an-hoa/Nhung-uan-khuc-quanh-tuong-dai-Cam-tu/20035027/181/ ( October 13, 2013 ). Đoàn Đức Thành ( 2007 ) Kiến trúc Đài Tưởng niệm Liệt sĩ: Từ ‘Mẫu chuẩn’ đến những Sáng tạo Độc đáo! Thể thao và Văn hóa 89: 35. Hài Nhân ( 1985 ) Một Công trình Lớn của Tình Hữu nghị V iệt-Xô tại Hà Nội: Tượng đài Lê-nin. Văn hóa Nghệ thuật 171/172: 3, 21. Lê Bình ( 1985 ) Mấy Suy nghĩ về Xây dựng Tượng đài. Văn hóa Nghệ thuật 174: 9. Logan, W illiam ( 2000 ) Hanoi: Biography of a City , Seattle: University of W ashington Press. Logan, W illiam ( 2006 ) Dien Bien Phu, V ietnam: Managing a Battle Site, Metaphoric and Actual. Outr e-Mers. Revue d’Histoir e:
explorations, colonisations, independences
94 ( 350/351 ): 175-192. Lý Trực Dũng ( 2006 ) Tượng đài V iệt nam: Cô đơn và Tẻ nhạt. http:// tia sa ng.com .vn/ De faul t.a spx?t abi d=62& Ne ws=1430& Ca tegory ID=41 ( October 13, 2013 ). Ma la rn ey , Sh au n K. ( 20 01) “T he Fa the rla nd R em em be rs Y ou r Sacrifice”: Commemorating W ar Dead in North V ietnam. Hue-T am Ho Tai( ed. ), The Country of Memory: Remaking the Past in Late Socialist V ietnam
. Berkeley: University of California Press, pp. 46-76.
Năm 1984: 28 Nhà Văn hóa. ( 1985 ) Văn hóa Nghệ thuật , số Tết: 5. Nguyễn Duy Chiến ( 2005 ) Những Điều Ít biết về Người Thiết kế Nhà sàn Bác Hồ. http://www .tienphong.vn/xa-hoi/20667/Nhung-dieu-it-biet-ve-nguoi-thiet-ke-nha-san-Bac-Ho.html ( October 13, 2013 ). Nguyễn Hoài ( 1984 ) Chủ tịch Hồ Chí Minh và V iệc Giáo dục Thiếu nhi. Văn hóa Nghệ thuật 150: 5-8. Nguyễn Hùng ( 1985 ) Tượng đài Quế Sơn. Văn hóa Nghệ thuật 161: 9. Nguyễn Thụy Bảo ( 1985 ) Hà Bắc Xây dựng Đời sống Văn hóa Mới. Văn hóa Nghệ thuật 169: 3. Nguyễn T rân ( 1985 ) Hình tượng Bà mẹ Xô-viết trong Tượng đài. Văn hóa Nghệ thuật 164: 7. Schwenkel, Christina ( 2009 ) The American W ar in Contemporary Vietnam: Transnational Remembrance and Repr esentation ,
Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press.
Schwenkel, Christina ( 2012 ) Civilizing the City: Socialist Ruins and
Urban Renewal in Central
V ietnam. Positions 20 ( 2 ) : 437-470. Thanh Thủy ( 1985 ) Cung Văn hóa Lao động: Công trình của Tình Hữu nghị V iệt-Xô. Văn hóa Nghệ thuật 173: 2.
Trần Liên ( 1960 ) Xứ-Nhu, Xã Đầu tiên của Miền Bắc Xây dựng Nhà Chưng bày Bảo tàng Xã. Văn hóa 6: 32-34. Trọng Đông ( 1984 ) Tượ ng đà i Núi Nứa Anh dũng. Văn hóa Nghệ thuật 151: 42. Trương Thảo ( 201 1 ) Lê Đình Quỳ: Một Nghệ sĩ Tài hoa. http://www . vi etna m fi ne art .c om .vn/ St ory/ Ca cta cgi a_t ac pha m /201 1/ 7/ 2886. html# ( October 13, 2013 ). Văn hóa 11( 1960 ). V iện Bảo tàng Q uân đội ( 1960 ) Bảo tàng Q uân đội , H à Nội: Nhà
Xuất bản Quân đội Nhân dân.
Vụ Bảo tồn Bảo tàng ( n.d. ) Dự thảo Báo cáo Công tác Bảo tồn Bảo tàng và Triển lãm năm 1959 và 1960 (
Thư viện Quốc gia/ Hà nội
). Xây mới Tượng đài ‘Quyết tử...’ Xử lý Tượng đài Cũ thế nào? ( 2003 ) Thể thao và Văn hóa 46: 37. ◉ 著者紹介 ◉ ①氏名…… 平山陽洋 (ひらやま・あきひろ) 。 ②所属 ・ 職名…… 北海道大学スラブ研究センター ・ 学術研究員。 ③生年・出身地…… 一九七七年、大阪府。 ④専門分野・地域…… アジア冷戦史、ベトナム現代史。 ⑤ 学 歴 …… 東 京 外 国 語 大 学 外 国 語 学 部( 東 南 ア ジ ア 課 程 ベ ト ナ ム 語 専 攻 )、 東 京 外 国 語 大 学 大 学 院 地 域 文 化 研 究 科( 地 域 文 化 専 攻) 。 ⑥職歴…… 学術研究員 (三二歳、四年) 。 ⑦ 現 地 滞 在 経 験 …… ベ ト ナ ム( 二 四 歳、 一 年 半、 民 間 企 業 非 常 勤 職員) 。 ⑧ 研 究 手 法 …… 史 料 調 査 が 中 心 だ が、 研 究 対 象 と す る 事 象 の 起 こ っ た 社 会 空 間 の 自 然 地 理 的 条 件 や 政 治 地 理 的 条 件 を 考 え る ためのフィールド調査も実施。 ⑨所属学会…… アジア政経学会、日本アーカイブズ学会。 ⑩ 研 究 上 の 画 期 …… 第 二 次 イ ン ド シ ナ 戦 争。 世 界 各 地 で、 盛 り 上 が る 反 戦 運 動 を 背 景 に、 現 地 語 を 習 得 し ベ ト ナ ム 研 究 を 行 う 研 究 者 が 登 場。 反 戦 運 動 に 積 極 的 に 関 わ っ た 者 も 多 く、 彼 ら の 研 究 で は、 同 時 代 と ど う 切 り 結 ぶ か、 戦 争 を 担 う ベ ト ナ ム の 国 家 や 社 会 の 実 態 を い か に 考 察、 叙 述 す る か と い う 問 題 意 識 が、 直 接 的、 間 接 的 に 表 明 さ れ た。 緊 張 し た 問 題 意 識 か ら生まれた諸研究が、以後のベトナム研究の礎となった。 ⑪ 推 薦 図 書 …… 土 屋 健 治『 カ ル テ ィ ニ の 風 景』 ( め こ ん、 一 九 九 一 年) 。地域研究者は、 現地で得たさまざまな経験から、 問題意識 を 錬 成 す る。 そ の 錬 成 の 感 覚 を 繊 細 に 伝 え つ つ、 イ ン ド ネ シ ア の ナ シ ョ ナ リ ズ ム を 論 じ た の が 本 書。 と く に 地 域 研 究 を 志 す 初 学者に読んでもらいたい。