五 四 三 ― ・ .~
はじめに戦争の記憶の歴史 現代フランスと戦争の記憶 モーリス・パポン事件 む す び
現 代 フ ラ ン ス 社 会 と 戦 争 の 記 憶
渡
辺 和 行
17‑2 ‑233 (香法'97)
近年︑歴史学や歴史社会学の領域で︑﹁記憶﹂をタイトルとする書物が陸続と出版されている︒戦後五
0
年という時
代状
況が
︑
護と並んで過去を想起する一
そのような﹁記憶の噴出現象﹂を引き起こしたことは言うまでもないが︑記憶は︑記念行事や文化財の保
つの方法なのである︒
個人的記憶や自伝的記憶を含み込むが混じり合うことはなく︑ 的記憶﹂を意味していることは明らかだ︒彼は︑集合的記憶を歴史的記憶とか社会的記憶と言い換え︑集合的記憶は
それ自身の法則によって発展するものと定義した︒そ
してアルヴァックスは︑集合的記憶が社会に定着していく﹁社会的枠組み﹂と︑集合的記憶を持続させる社会集団の
力を分析したのである︒
アルヴァックスが︑集合的記憶の問題を考えていたのは︑
︵一
九五
0
年 ︶合的
記憶
﹄
(4 )
ない﹂と書き出したが︑彼は︑ の第二章を︑﹁われわれは︑隠喩によってにせよ︑集団の記憶について語ることに慣れてい
いたのだろうか︒残念ながら︑ ナチス・ドイツによるフランス占領という体験を記憶する問題を︑
アルヴァックスはこの問題を追究することはできなかった︒なぜなら︑人権同盟の総
一九四五年三月一六日に︑ブッヘンヴァルト強制収容所で死去し
(5 )
たからである︒彼の逮捕は︑次男ピエールのレジスタンス活動に対する報復であった︒
アルヴァックスが解答できなかった︑ に︑彼も同年七月︑ゲシュタポによって逮捕され︑ 裁であった岳父ヴィクトール・バッシュが︑
は じ め に
ナチ占領下のパリであった︒彼は︑死後出版された﹃集 一九四四年一月一
0
日に︑対独協力派の民兵団によって虐殺されたようナチ占領下の集合的記憶を点検することは︑戦後を生きる者の歴史的責務だ
ここで言う﹁記憶﹂が︑モーリス・アルヴァックスの言う﹁集合
どのように考えて
現 代 フ ラ ン ス 社 会 と 戦 争 の 記 憶 ( 渡 辺 )
の壁の崩壊と翌年の統一ドイツの誕生というナショナリズムの高揚のなかで︑ホロコーストを相対化し︑﹁歴史の正常 近とみに攻勢をかけているからだ︒一九八六年六月から始まったドイツの一九八九年のベルリン
とい
うの
も︑
ろう
︒ それは︑集合的記憶を生み出す社会集団の記憶を点検することにほかならないが︑
その際︑注意しなければな らないのは︑記惚は脳に刻まれた過去の痕跡の自動的な蘇生ではないことだ︒記憶とは言葉による過去の経験の再構 成である︒それだけに︑再構成の過程で︑ときには無意識的な抑圧や意識的な改窺によって︑記憶が歪められ︑変質
させられることもありうる︒
この意味で︑歴史的記憶は選択的に再構築されたものであり︑実際の歴史と一致しない
こともありうるだろう︒したがって︑歴史的記憶と実際の歴史とのすき間をいかに埋めるのか︑﹁表象と歴史的真理の
あいだの閥たり﹂をいかに縮めるのかが問われているし︑証言や史料をつき合わせて︑歴史的記憶を点検する地道な しかも歴史的記憶は︑えてしてナショナルな﹁語り﹂として創造されるだけに︑集合的記憶はナショナリズムとも
密接にかかわってくる︒なぜなら︑正史というナショナルな﹁語り﹂
は︑国民のアイデンティティーの確認と︑連続 性の保証と︑共同性の強化という三重の役割を担っているからである︒
(8 )
んだ︒だから︑第二次世界大戦の経験がいかに記憶され︑語られるのかは重要である︒
(9 )
﹁戦死者をめぐるナショナルな語り﹂として語られがちなだけに︑
エルネスト・ルナンが一
00
年以上も前に喝破したように︑
﹁ネーションの創出の本質的要素﹂に歴史的記憶の忘却があるからである︒このようなナショナルな集合的記憶が卒 む問題性を自覚しつつ︑排外的なナショナリズムにからめとられない冷静な思考と判断力が求められている︒
日独仏の各国で︑先の大戦の記憶を歪めようとする歴史修正主義者や︑ホロコースト否定論者が︑最
﹁歴
史家
論争
﹂は
︑
されているのかを検討する必要があるだろう︒なぜなら︑
その
﹁語り﹂をとおして何が忘却され︑何が想起 とくに第二次大戦の歴史は︑
一国史がネーションの物語になりがちなゆえ
作業が求められているのである︒
17‑‑2~235 (香法'97)
争の記憶を描くことを目的としている︒
( 1 2 )
化﹂を求める﹁ニューライトの知識人たち﹂を活性化させるにいたった︒日本でも︑
室を否定した
﹃マ
ルコ
ポー
ロ﹄
の廃刊事件があったし︑同年七月には︑﹁自虐史観﹂に抗議して﹁誇りをもてる日本﹂
を主張する自由主義史観研究会が旗揚げした︒そして︑同研究会代表の藤岡信勝氏らが中心になって﹁新しい歴史教
( 1 3 )
科書をつくる会﹂が生まれ︑歴史教科書から従軍慰安婦の記述の削除を求める動きが各地で起きている︒このように
日本でも︑歴史の見疸しを主張する歴史修正主義派が︑装いも新たに登場してきているだけに︑フランス社会で︑先
の大戦の記憶がどう変容してきたのかを知ることは︑神益するところが大きい︒自由主義史観研究会の挑戦が︑﹁記憶
をめぐるある種の﹃内戦﹄﹂︵姜尚中︶とか︑﹁戦後五
0
年間
︑
と忘却︵記憶の否定︶ さまざまな形で抑圧されたり沈黙を強いられてきたよう
( 1 4 )
な︑記憶をめぐる言説をもう一度立ち上げ直す動き﹂︵小森陽一︶︑と位置づけられているだけに︑想起︵記憶の肯定︶
( 1 5 )
という記憶の弁証法を明るみに出すフランスの動向は︑好個の事例といえよう︒
フランスにもホロコースト否定論があることは︑ピエール・ヴィダルーナケの﹃記憶の暗殺者たち﹄が記していると
おりである︒この本は︑
( 1 6 )
民族紛争や移民排斥などに見られるように︑冷戦後のナショナリズムの噴出という状況から︑
一九
0
八0
年代フランスの歴史修正主義者への抗議の書物だ︒しかし一九九年代になっても︑フランスの修正主義者
たちも養分を吸収して︑触手を伸ばそうとしている︒本稿は︑歴史的記憶を歪め実際の歴史を忘れさせようとする歴 史修正主義者の行動と︑先の戦争を想起し記憶しつづける活動とをフォローすることから︑最近のフランス社会の戦
一九九五年一月に︑ナチのガス
四
現代フランス社会と戦争の記憶、(渡辺)
ール派︵﹁六月一八日の男﹂︶
との
間で
︑
ていない記憶の﹁カオス期﹂
であ
り︑
らしたのである︒
戦争の記憶の歴史
フランス人の戦争の記憶の独自性は︑
現代フランス社会の戦争の記億を考える前に︑ヴィシー政府時代の経験がいかに記憶されてきたのかを︑
ルッソとロベール・フランクに依拠して概観しよう︒
むしろヴェルダンの英雄の権威とオーラに包まれ︑
カ国家であったという事実によるところが大きい︒ドイツに占領された国のなかで︑政府の存在が許されたのはフラ
ンスだけであったが︑
その
政府
は︑
九五四年までの﹁個人的記憶﹂
正統性をもって成立したヴィシー政府が対独協
ドイツからフランスを守る楯ではなくて︑
フランス人の心理的外傷を大きくし︑﹁ヴィシー症候群﹂︵ルッソ︶
歪みや神話をともなったヴィシー時代の記憶の歴史は︑次の四つに時期区分できる︒第一期は︑
の時期である︒個々人の記憶は鮮明であるが︑
フランス人を引き裂いた﹁個人的記憶﹂ 檻の役割を演じてしまった︒救世主ペタン元帥のカリスマ性が︑
五
ナチの占領によって生じ ドイツとともにフランス人を監視する
このような一
と称される事態をもた その記憶に象徴的な意味づけがなされ
の後遺症を抱えた時期だ︒対独抵抗派
と対独協力派という単純な二項対立に還元しえない複雑で曖昧な四年間を生きたフランス人が︑﹁明けることのない喪
( l e
d e u i
l i n
a c
h e
v e
) ﹂に服した時期である︒この時期は︑集合的記憶として共有されるヴィシー像やレジスタンス像は
いまだ形づくられていなかった︒戦後に二大政治潮流となった共産党︵﹁銃殺された七万五
000
人の
党﹂
︶
と︑ドゴ
レジスタンスの記憶の争奪戦が繰り広げられる時期でもある︒対独協力者の
一九四四年から 九四
0
年夏の状況こそが︑ フランス人の判断力を麻痺させたが︑ たというよりも︑アン
リ・
17 2 237 (香法'97)
できる︒この映画がテレビで放映されたのは︑ 憶を意識下に押しとどめておきたい心理と︑それを呼び覚まさそうとする心理とが対峙した時期である︒その契機になったのは︑映画とロバート・パクストンの研究︑映画﹁悲しみと哀れみ﹂︵オフュールス監督︶が上映され︑く
て︑
ドイツに協力した﹁もう︱つのフランス﹂ それに民兵団員ポール・トゥヴィエの特赦などだ︒
ドイツに抵抗した﹁レジスタンスのフランス﹂だけではな
の存在が明らかにされた︒
の反対にあい︑劇場上映しか許されなかった︒ここにも︑神話のベールがはがされることへの抵抗をうかがうことが
ミッテラン政権誕生後の一九八一年一
0
月のことである︒ この映画は本来テレビ用だったが︑政府 一九七一年に第三
期は
︑
一九七一年から一九七四年の
﹁脱
神話
期﹂
であり︑ヴィシーの記憶の﹁葛藤期﹂である︒ヴィシーの記 年のドゴール大統領の退陣と一九七
0
年一月のドゴールの死去によって︑大きな転機を迎える︒一九
六九
を共和主義の霊廟に祀ることで︑レジスタンスは共 レジスタンスの記憶の神話化によるカタルシスの時期でもある︒
的記憶による神話の時代であり︑その頂点は一九六四年のジャン・ムーランのパンテオン移葬の儀式だ︒
レジスタンス組織を大同団結させた英雄で︑
ムー
ラン
は︑
ナチ親衛隊によって一九四三年六月に虐殺された人物である︒
レジスタンスの記憶がナショナルな﹁語り﹂として神話化され︑
和主義の伝統のなかで聖別された︒こうして形成された﹁公認の記憶﹂は︑国民統合のシンボルとなるが︑ ムーラン
ると
同時
に︑
つま
り︑
レジスタンス史観という支配
第二
期は
︑
一九五四年から一九七一年までの記憶の
﹁抑
圧期
﹂
である︒思い出したくないヴィシーの記憶を抑圧す ラス以外の対独協力者の罪を赦したのである︒大赦
( a
m n
i s
t i
e )
とは﹁法的忘却﹂を意味した︒こうして﹁歴史健忘症﹂
が始まる︒反ナチよりも反共を菫視する冷戦の進行が︑記憶の忘却に拍車をかけた︒ 動とドゴール派によって主導された一九五三年の大赦は︑ペタン元帥やラヴァル首相などのヴィシー政府のトップク 粛清裁判の進行と︑他方で二度の大赦に象徴されるように︑融和を求める声がではじめる時期だ︒とくに人民共和運
'.
ノ
現代フランス社会と戦争の記澄(渡辺)
と は
︑ 第四期の戦争の記憶は︑
( 1 8 )
一九七三年に翻訳されたパクストンの研究書言ヴィシー時代のフランス﹄は︑ヴィシー政府の国民革命の独自性と︑
ヴィシー体制がフランス社会に根をもっていたことを示して︑知識人に衝撃を与えた︒
ンピドゥー大統領が︑戦争中にユダヤ人を迫害した民兵団のトゥヴィエに特赦を与えていた︒
修道院にかくまわれて逃げのびていたのである︒特赦が一九七二年五月に公になるや︑特赦を批判する声が高まった︒
そこで︑同年九月にポンピドゥーが︑﹁フランス人が互いに愛し合わず︑引き裂かれ︑殺し合いすらした時代をベール
( 1 9 )
で覆い︑忘れるときが来たのではないか﹂と特赦の説明をしたが︑
告発された︒こうして︑
てら
れた
︒
ユダヤ人迫害や対独協力を忘却のベールで覆い隠してきたヴィシー時代に︑
この第三期は︑記憶の歴史にいわば﹁認識論的切断﹂がもたらされたときであった︒
一九七四年以後現在までの記憶の﹁補償期﹂
を直視してこなかったことへの反省のうえに︑歴史的記憶を実際の歴史に近づけようとする努力がフランスの一部で 始まる時期だ︒ヴィシーの記憶を想起させる事件やディスクールに事欠かなかったが︑
とするベクトルも勢いを増した時期である︒ミッテラン大統領自身︑戦争の記憶の争いを前にして︑
ランス人の間の絶えざる内戦に終止符を打たねばならない﹂と語って︑
を主張していたし︑
( 2 0 )
A
こ ゜
し
t
第四期
は︑
それ以前にも幾度も︑
ヴィシー政府高官が
﹁人道に反する罪﹂
七
で裁かれることに疑義を表明して
﹁市民的平和﹂や﹁国民的和解﹂の名で﹁忘却﹂
一九
九四
年に
﹁フ
記憶を歪曲し︑忘却させよう
ふたたび光が当 一九七三年にトゥヴィエはユダヤ人組織によって
また一九七一年一
トゥヴィエは︑戦後︑
である︒ヴィシーの記憶を抑圧して︑
ヴィシー時代の歴史 ユダヤ人迫害の責任者の追及とヴィシーの政治的利用の二つとなって現れた︒政治的利用
一九八一年の大統領選挙の立候補者の経歴が問題とされたことに典型的なように︑
ヴィシーの四年間︑候補者 たちがどこにいて何をしていたのかが問われた︒ジスカールデスタン候補とヴィシー派とのつながり
︵ヴィシー政府 一月に︑ポ
17‑‑2 239 (香法'97)
の青少年庁長官ジョルジュ・ラミランの支持を選挙で得たし︑
ジョルジュ・マルシェ共産党書記長の過去︵大戦中︑ドイツヘ自発的に働きに行っていた︶︑
の過
去︑
といった具合である︒またユダヤ人を迫害した共犯の追及には︑
映画﹁ホロコースト﹂と︑
マン
監督
︶ や ︑
史が
あっ
た︒
ルペン党首が﹁ガス室は第二次大戦史の小事だった﹂ ジスカールデスタンの父親はペタン派であった︶
一九八五年に上映された証人たちの生きた記憶にもとづく﹁ショアー﹂︵クロード・ランズ
一九八七年にリヨンで開かれた元親衛隊中尉クラウス・バルビーの裁判などが追い風となった︒
ユダヤ人迫害問題を中心に戦争の記憶が問われた背後には︑このような戦争の記憶の歴
フランス人にとって︑ヴィシー時代は依然として﹁過ぎ去らない過去﹂なのである︒
現代フランスと戦争の記憶
一九九六年のフランスでは︑五
0
年余前の対独抵抗運動のシンボルであったレジスタンスは︑極右のシンボルと化
したかのようであった︒というのも︑
この国民戦線の名称も︑ かつては神話の高みにまでのぼらされた﹁レジスタンス﹂は︑今や極右ネオ・
ナチの組織名となったからである︒﹁ヌーヴェル・レジスタンス﹂とは︑アーリア人の優越を掲げるネオ・ナチの名で
一九九六年六月上旬の南仏トゥーロンの墓地荒らしの容疑者たちが︑ある︒この組織が注目を集めたのは︑
の影響下にあったからだ︒この小組織は︑反ユダヤ主義や悪魔崇拝と死体趣味的な異教性を帯びた組織で︑極右政党
( 2 2 )
の国民戦線の一部ともつながりがあった︒トゥーロンは国民戦線の牙城である︒
かつてはレジスタンスのシンボルであった︒大戦中の国民戦線は︑
党系の大衆組織の名である︒ 一九九六年のフランスで︑
ところが今日では︑国民戦線は︑
や ︑
フランソワ・ミッテラン
この組織
ドイツ軍と闘った共産 一九七九年に放映されたアメリカのテレビ
/¥
現代フランス社会と戦争の記惚(渡辺)
昧にする動ぎが出てきた︒日本でも報道されたが︑一九九六年四月下旬に︑
九
この
よう
に︑
戦後五
0
年が幕を閉じて一週間ほどたった一九九六年一月八日に︑ミッテラン前大統領が他界した︒
( 2 3 )
月に︑社会主義者ミッテランの右翼的過去を暴く書物が出版されて︑大統領がテレビで弁明したことはなお記憶に新
ン元帥から勲章をもらったことや︑
4) (2
交際が︑批判されたのである︒
する二不正を償う﹂ ミッテランがレジスタンスに参加するまでの約二年間︑
ミッ
テラ
ン︑
トゥヴィエに対
同筵地に埋葬されたが︑葬儀に︑
フランスでも戦争の記憶
一九九四年九
ヴィシー政府の捕虜復員局で働き︑
ユダヤ人迫害の責任を問われたヴィシー政府の警察長官ルネ・ブスケとの戦後の
ミッテランの死から半年後の七月一七日に︑
( 2 5 )
刑に服していたポール・トゥヴィエが死去していた︒トゥヴィエは︑戦争中︑
ン地区の情報部長として活動しており︑ フランス人として初めて﹁人道に反する罪﹂
一九四四年六月に七人のユダヤ人を処刑した責任が問われた︒彼が一九七三
二︱年の月日が経過していた︒
ナチに協力したフランス民兵団のリヨ トゥヴィエの葬儀は一九九六年七月二
パリでのミサには極右勢力を中心に約一
000
人が出席していた︒
の共犯として終身
セー
ヌー
サン
Iドニ選出の下院議員でかつモンフェルメイユ村の村長ピエール・ベル
ナールが村の司祭の代理として参列していたことは︑問題を引き起こした︒なぜならベルナールは︑
ために参列していたからである︒村長の
﹁露骨な振る舞い﹂
声明を発し︑七月三一日にも︱
1 0
0
名による村での抗議集会が開かれ︑ に対して︑村の左翼約二0
名が抗議( 2 6 )
そこではベルナールの辞職が求められた︒
トゥヴィエと当時を知る人が鬼籍に入って身体的記憶が薄れるにつれ︑歴史的記憶を曖
ホロコーストを否定する本を﹁フランス
五日に行われ︑
トゥヴィエの遺骸はフレーヌの共
年に告発されて一九九四年に結審するまでに︑
ま た
︑
しい︒先の戦争中︑
ペタ
が風化してきた証拠なのであろうか︒
それ
では
︑
一九九六年の戦争の記憶をフォローしよう︒
︵一
九八
七年
︶
と公言する右翼政党の名となったのである︒このようなシンボルの変質は︑
17~2~241 (香法'97)
ナの土地に対する彼らの権利を取り上げたなら︑イスラエルの建国を正統化するものはホロコーストしかないが︑犠
であり︑﹃アンネの日記﹄はあてにならないと︑
コースト否定論にまで進んだケースである︒この本を推したのが︑
父は︑挑発的な推薦状のなかで︑
ことを求め︑結果的に︑
ホロコーストは神話だと主張した︒そして︑ランズマン監督の映画﹁ショアー﹂は駄作
( 2 9 )
こきおろした︒ガロディのケースは︑宗教的な反ユダヤ主義からホロ
﹁真理探究の情熱﹂に燃えるガロディのホロコースト否定論の立場が公に討論できる
ナチスによるユダヤ人問題の﹁最終的解決﹂を曖昧にしたのである︒
戦争中のピエール神父は︑グルノーブルの助任司祭としてユダヤ人のスイスヘの逃走を手助けしたし︑三
000
人
の抵抗派がドイツ軍に掃討されたヴェルコール高原の闘いにも参加し︑
功章に輝いた英雄だ︒戦後は︑
してからはボランティア活動に邁進した︒とくに一九五四年二月一日︑
善活動の大衆化と民主化に寄与し︑ 牲者の数字には誇張があり︑
カトリック政党の人民共和運動の代議士として政界に転身したが︑
ホームレスの人々が慈善ではなくて仕事による尊厳の回復を望んでいることを訴
部である︒彼は︑
一九九五年末に出版した 問題となった本の著者ロジェ・ガロディも︑
( 2 7 )
の良心﹂と呼ばれた神父が推薦したことが発覚して物議をかもしていた︒
一九六七年の第三次中東戦争以降︑
オ・ナチの
アラブ世界を支持する左翼が関与していることであり︑現代イスラエル国家を批 判するあまり︑大虐殺の否定にまで行き着いたのである︒神父の取り巻きにも親パレスチナ勢力がいたし︑先述のネ
﹁ヌーヴェル・レジスタンス﹂も︑反ユダヤ主義の立場からパレスチナのハマス派に好意的な論文を掲載
( 2 8 )
したこともあった︒
スターリン主義からカトリックを経てイスラムに改宗した元共産党幹
﹃イスラエル政治の創設神話﹄のなかで︑もし神がユダヤ人からパレスチ
四
0
年以上のガロディの友人ピエール神父だ︒神
ドゴール将軍の弟を救助し︑レジスタンス軍
一九五一年に落選
ホームレス救済をラジオから呼びかけて︑慈 フランスのホロコースト否定論の一特徴は︑
1 0
現代フランス社会と戦争の記憶、(渡辺)
この
カー
ドは
︑
勝利﹂だと気炎をあげたほどである︒ 難を浴びるなど︑教会内でも孤立を深め︑彼への批判の高まりの前で︑七月二三日に︑
五 ︶
るにいたる︒この事件は︑宗教的な反ユダヤ主義の根強さを示すと同時に︑
であ
った
︒
五月
一日
︑
ガロディ支持の発言を撤回す
フランスのホロコースト否定論の代表であるリヨン大学教授のロベール・フォリソンは︑
ピエール神父がガロディ支持の態度を軌道修正しつつあった七月初めに︑
冠 ︶
ヤ人登録カードの真相究明報告があった︒
って︑退役軍人省で発見されたものである︒
( m )
法務省に回答していたのにである︒ともあれこの事実が︑
( 3 4 )
プされ︑耳目を驚かせた︒ ﹁歴史修正主義の
ヴィシー時代にパリ警視庁が行ったユダ
迫害問題を追及している弁護士で︑;フランス被追放ユダヤ人子息子女協会﹂会長のセルジュ・クラルスフェルトによ
︵一
九九
一年
一
一月
一三
日︶
ヴィシー政府が最初の反ユダヤ法を制定した一九四
0
年 一
0
月に︑ドイツ軍の命令でパリ警視庁がセーヌ県で行った約一五万人のユダヤ人の人口調査カードなのかどうかに関心が集まった︒
﹃ル
・モ
ンド
﹂
一九七九年に退役軍人省は︑
によってスクー いかなる人種カードも保管していないと︑
この
一
0
万枚ほどのユダヤ人登録カードは︑一九
九一
年九
月に
︑
ユダヤ人
ホロコースト否定論者を活気づける事件
の名誉委員会から除名された︒彼は︑五月三一日には﹁国際的シオニストのロビー﹂を糾弾したが︑パリ大司教の非
ピエール神父は︑
ショアーの否定ゆえに︑﹁人種差別と反ユダヤ主義に反対する国際連盟
( L I C R A
)
﹂ョアーについても︑ 支
持を
認め
︑
翌日にはガロディの著作を歴史修正主義と同一視することは詐欺的行為だと述べ︑
( JO )
ガロディとともに開かれた議論の場が望まれると語っていた︒
四月二九日には︑
その人物がホロコースト否定論に荷担したことは︑失望やら憤りを惹起した︒神父はガロディの本を精読したわけ
ではなく︑反シオニストの専門家から説明を受けて推薦状をしたためたようだ︒神父は︑ え
た︒
こうして神父は︑﹁現代の聖者﹂
と讃
えら
れ︑
フランス人の尊崇の的になったのである︒
シ 四月二
0
日にガロディヘの17~2 243 (香法'97)
一連の差別的調査カードは︑
た二回目には︑
ユダヤ人の財産も調査された︒これらの二回の大調査から︑ 一九四一年六月に南北両地区で実施し 一九九一年に発見されたと信じられた一九四
0
年 カードもあった︒個人カードは︑ 一九九二年三月に︑文化省は︑歴史家ルネ・レモンを長とする五名の委員からなる委員会に検討を委嘱した︒ン委
員会
は︑
ヴィシー政府のブラックリスト作りの実態と発見されたカードの性質︑
検討を重ねてきた︒こうして一九九六年七月三日︑
その結果︑登録カードは︑
くて
︑
クラルスフェルトが信じたような一九四
0
年 一
0
月のユダヤ人の人口調査カードではな( 3 6 )
その後に逮捕されたり追放されたりしたユダヤ人の二種類のファイルであることが判明した︒
ス全土にいたユダヤ人の個人カードであるが︑
こよ
︑
≫ > `
'1 およびカードの保管先について
( 3 5 )
アラン・ジュペ首相に四年間の調査結果が報告されたのである︒
パリのものは一九四
0
年 一
0
月の調査カードが利用された︒このなか五
0
人ほどの非ユダヤ人のカードもあった︒もう︱つのファイルは︑ユダヤ人の追跡や尾行に用いられたカードだ︒またピティヴィエやボーヌ上フーロランドやドランシーなどの収容所の
一九
四
0
年末から一九四四年夏の間に作成され︑世帯カードは一九四一年夏から翌
年の春にかけて作成された︒このカード作りには︑人口統計局の近代的な手法が利用されている︒
ヴィシー期に行われたユダヤ人の大調査は二回ある︒初回は︑
0
月の調査であり︑成さ
れた
︒
なぜなら︑このカードにもとづいて︑
レモ
パリ地域のユダヤ人世帯カードであり︑
セーヌ県で県在住のユダヤ人の九割にあたる約一五万人が登録された︒それらのカードは︑国籍
別︑住所別︑職業別などにアルファベット順に整理された︒ヴィシー政府が︑
ユダヤ系企業︑退役軍人のユダヤ人︑
九三六年一月一日以降にフランスに入国したユダヤ人︑無線や自転車を所有するユダヤ人などの個別調査カードも作
一九四六年︱二月に廃棄処分とされたが︑翌年の一月に︑行方不明ユダヤ人の捜索や
︱つ
は︑
ユダヤ人の一斉検挙と絶滅収容所への追放がなされたからである︒
フラ
ン
現 代 フ ラ ン ス 社 会 と 戦 争 の 記 恒 ( 渡 辺 )
フランス・ヨーロッパ国民主義政党
( P N F E )
( 3 9 )
組織に属する五人のスキンヘッドの仕業であることが明らかとなった︒彼らは三四の墓を破壊し︑
った八
0
歳代の男性の死体を串刺しにするという冒漬を働いた︒犯行の動機は︑ というニュースである︒ユダヤ人墓地荒らしは︑ 仏アヴィニョンに近いカルパントラで︑ ユダヤ人の年金の権利決定に役立つという理由で保存が命じられ︑一九九一年に発見されたカードは︑ある意味でヴィシーから第五共和政にいたるフランス国家の連続性を暴露した
が︑このカードの破棄か保管かをめぐって議論が百出した︒
ダヤ人犠牲者記念館の地下聖堂など︑
館に保管することを決定した︒また委員会は︑
これまでヴィシーの犯罪を追及してきた闘士のなかにも︑国民戦 線のルペンに悪用されないために︑破棄すべきだという意見もあったほどである︒現代ユダヤ資料センターや無名ユ ドは国立古文書官で保管し︑そのコピーを現代ユダヤ資料センターないし無名ユダヤ人犠牲者記念館で保存するとい
( 3 7 )
う折衷案もあった︒しかしレモン委員会は︑
カードをマイクロフィルム化して︑現代ユダヤ資料センターに収める
( 3 8 )
ことと︑何枚かのカードを無名ユダヤ人犠牲者記念館に展示することも︑同時に提言していた︒はたして国立古文書
館は
︑
ナチスとヴィシー政府による﹁忌まわしい犯罪の記憶﹂
の保管庫になり︑
ヒトラーの誕生を祝い︑ 二週間前に亡くな というネオ・ナチ
フランス国民の戦争の記憶を保存す フランスの反ユダヤ主義の根強さを知らせるニュースが流れた︒南
一九
九
0
年五月に起きたユダヤ人墓地荒らしの容疑者が六年ぶりに捕まった
ヒトラーの レモン報告から一カ月もたたない八月初めに︑ る場になるだろうか︒ ユダヤ人登録カードが
﹁国
民的
記憶
﹂ の一部であるとして︑国立古文書
いくつかのユダヤ人団体が保管先として名乗りをあげたし︑ れ︑今日にいたったのである︒
オリジナルのカー に禍根を残さないために﹂焼却処分を提案したし︑
一九九一年︱一月に︑
ェコロジストの環境大臣は︑﹁未来 一九四八年四月に内務省から退役軍人省に移管さ
17‑2 ‑245 (香法'97)
南仏ヴィトロール市議会議員選挙がフランス全土の注目を集めていた一九九七年一月二三日に︑破棄院刑事部はモ
( 4 0 )
ーリス・パポンの抗告を却下した︒パポンは︑
れたと主張して免訴を要求したが︑同年九月一八日に︑ボルドー控訴院重罪起訴部は︑﹁人道に反する罪﹂の共犯とし
( 4 1 )
この決定を不服としたパポン側が上告していたのである︒
これ
まで
︑
パポン以外で﹁人道に反する罪﹂
スケ︑警察副長官のジャン・ルゲー︑地域圏知事のモーリス・サバティエ︑
る︒彼らは︑政府︑ で提訴されたフランス人は四人いる︒ヴィシー期の警察長官ルネ・ブ
そして民兵団のポール・トゥヴィエであ
警察︑県行政︑民兵団というヴィシーの四つの制度を象徴していた︒しかし︑ブスケ裁判の開廷
( 4 2 )
に対するミッテランの反対や司法当局の緩慢な作業などによって司法手続きが滞っている間に︑ てジロンド県重罪院へのパポンの移送を決定しており︑ 一九九六年三月六日に︑﹁政治的陰謀﹂による
ルゲーとサバティエ ﹁スケープゴート﹂にさ
四 モ ー リ ス
・ パ ポ ン 事 件
道に組織されるのもフランスである︒モーリス・パポン事件がそれを示している︒
以上のように︑ で
ある
︒
死を悼むことであった︒
九九
0
年にこの事件が発覚したとき︑国民戦線を除く左右の政党が人種差別反対のデモ行進を組織し︑では
一万
人︑
そのためにドイツが降伏した五月八日が︑
パリでは二
0
万人を集めた︒
ヒトラーの象徴的な死の日付として選ばれた︒
カルパントラ
PNFE
の創設者クロード・コルニョーも︑国民戦線と関係のあった人物一九九六年のフランスでは︑戦争中のユダヤ人迫害の記憶を新たにする事件ばかりではなく︑
記憶を歪めようとする行為もあった︒それでも︑
その
こうした記憶の歪曲に抗議しつつ︑﹁忘却に対する記憶の戦い﹂が地
一 四
現代フランス社会と戦争の記憶(渡辺)
それではモーリス・パポンは︑
どのような人生を歩んできたのであろうか︒彼の一生は︑
一 五
県の事務総長として︑
ボルドー地区の子どもも含むユダヤ人一五六
0
人を一斉検挙し収容所に送ったというものであ
﹁ユダヤ人の逮捕︑監禁︑東方への追放が彼らユダヤ人の死を意味すること﹂を知りつつ︑
テクノクラートのそれで
の逮捕や追放の書類にサインしたというのである︒ っ
た ︒
パポンは ヽユダヤ人
爾来
︑
一四年の歳月が流れた︒パポンの直接の容疑は︑ のクラウス・バルビーの起訴は︑ 年︱二月八日のことだ︒そしてパポンは︑ 五のユダヤ人団体によって告訴されたのは︑ ヤ人の追放に関与していたことを示す二枚の公文書のコピーを公表した︒当時パポンは︑
さらに一九八一年六月には︑元民兵団員ポール・トゥヴィエに召喚状が出され︑
た︒しかしトゥヴィエが予審裁判所への出頭を拒否したので︑同年一 否が応でも占領期の歴史と向き合わざるをえなくなった︒
ンス人が見たという﹁悲しみと哀れみ﹂のテレビ放映があったばかりである︒
ジスカールデスタン政権の ヴィシー政府の犯罪が注目を集め
トゥヴィエの逮捕状の一カ月前には︑
一九八三年一月一九日に﹁人道に反する罪﹂
一五
00
万人のフラ
パポンが︑三
0
人ほどのユダヤ人と一フランス人のヴィシー時代についての理解が深まりつつあった一九八一
︵ い ︶
で起訴された︒元親衛隊中尉 この 一一 週間 後で あっ た︒
一九四二年六月から一九四四年八月までの間に︑ジロンド
一月二七日に彼に逮捕状が出され︑フランスは もなかった︒ 予算担当大臣(‑九七八年\一九八一年︶として知られており︑
これまで戦争中の行為に関して裁かれたことは一度
週刊誌﹃カナール・アンシェネ﹄の記事から始まった︒
同誌
は︑
モーリス・パポンが戦争中に︑
ボルドーからのユダ 今年八七歳になるパポンが渦中の人となったのは︑
一九八一年五月上旬の大統領選挙のさなかのことだ︒それは︑ が一九八九年に死去し︑
ブスケが一九九三年六月に暗殺されたため︑
パポンが裁きを待つ唯一の政府高官となった︒
17 2~247 (香法'97)
ニズムがそれだけ浸透しやすいのであろう︒
一九四一年五月l︱日であるのに︑ボルドーには
ユダヤ人の元大臣ジャン・ゼーやジョルジュ・マンデル
あった︒政治的にはブスケ同様に中道左派の家庭環境で成育したが︑第五共和政以降︑
ドゴール派へと転身した︒パ
( 4 4 )
一 九
一
0
年九月にシャンパーニュ地方の公証人かつ機械ガラス工場の経営者の家に生まれた︒法学部を卒業 して私立政治学院に進み︑官界をめざす︒兵役を終えた一九三五年七月に︑内務省の文書係に採用され︑翌年のブル ム人民戦線内閣の成立で︑総理府の国務次官フランソワ・ド・テサンの官房に勤務した︒急進社会党のド・テサンは︑
発で︑予備役の植民地歩兵隊少尉として東地中海に派遣されたが︑
務省の課長補佐に任命された︒その後︑内務省で順調に昇進し︑
されたのである︒パポンを押した上司の内務官僚モーリス・サバティエ自身も︑五月一六日にジロンド県知事かつ地
域圏知事に任命され︑ボルドーにやってきた︒これらの異動は︑
わない王党派の知事や側近をパージしたことによって生じたものである︒ジロンド県は︑
の堡塁であった︒
新しい赴任地ボルドーは︑
よ ︑
︐ リ ・
卜 反ユダヤ主義が根強い都市でもあった︒
フランスの反ユダヤ主義の特徴として︑住民のあらゆる層のなかに存在する排外的な﹁外国人嫌い﹂との密接 な結びつきを指摘しているが︑敗戦と占領という危機の時代には︑﹁フランス人のためのフランス﹂というショーヴィ
一九
四
0
年夏
︑
パリに反ユダヤ主義的な﹁ユダヤ人問題研究院﹂ができたのが︑
( 4 6 )
週間も前に同じ組織が誕生していた︒パポンは︑
王党派や復古的なペタン派 が︑北アフリカに政府を移すためにボルドーから乗船したとき︑船員や一般人の間にも反ユダヤ主義が表面化したし︑
このような町で政治の手綱をとったのである︒
一九
三
0
年代にフランスにいたハンナ・アレン
一九四二年四月に復権したラヴァル首相が︑肌の合 一九四二年五月二六日︑ジロンド県事務総長に抜擢
一九
四
0
年 一
0
月二五日に復員して一0
日後に内
パポンの父親の友人であった︒一九三七年七月には︑
ポン
は︑
ショータン内閣の外務省政務次官官房にいた︒第二次大戦の勃
一 六
現代フランス社会と戦争の記位(渡辺)
コルシカ県知事︑一九四八年
一 七 一月には︑勤続
パポ
ンは
︑
その行政手腕ゆえに屯用されて︑一九四五年にアルジェリア問題担当の課長補佐になり︑一九四七年に することが優先された結果である︒
二級
ミ
︑
ら す
︑
A )
もカカオ
ついでランド
パポ
ンは
︑
のユダヤ人を追放する命令書にサインしたのである︒ 八
00
人ほど
さらにメリニャック収容所の指揮管理やユダヤ
極的支援があって実現したし︑事実ユダヤ人の逮捕には︑ 間趙担当室﹂
パポンの積
ら生じた特別任務も担胄していた︒
パポンが就いた事務総長職は︑中央官庁の大臣官房の仕事と似ていたが︑
ユダヤ人の追放や経済のアーリア化の名でユダヤ人の資産を強奪するときも︑
ポンの宵名と知事の検印のもとになされたし︑
ドを更新して逮捕者リストを提供し︑
ドイツ占領当局と連絡を取りつつ︑前任者が作ったユダヤ人登録カー ボルドーからドランシー収容所への追放列車を調整したのも︑彼の
の仕事であった︒ドイツの保安四国察や公安部の命令で実施されたユダヤ人の逮捕や監禁は︑
フランスの威︱ーロ察と憑兵があたった︒パポンは地域圏知事か
ら権限を大幅に委任されており︑県知事の職務︑竺察や憲兵の職務︑
人問題の職務についても︑発言権をもっていた︒かくしてパポンは︑ボルドーに着任して半年の内に︑
一九四三年からレジスタンスの一部とつながりがあったことや︑
﹁ユ ダヤ 人 共産主義者による地方権力の掌握を恐
れるドゴール派の思惑もあり︑解放後の粛清を免れた︒それだけでなく︑県解放委員会がパポンの任用に反対したに
パポンは共和口委員ガストン・キュザンによって官房室長に採用されて名誉を回復し︑
県知事に任命されて︑粛清やら地域の再編にあたりさえした︒ジロンド県の公務員で処分の対象となったのは︑
公務員四一九人の内の一七人︑国家咳
r ]察二
010
人の内の四三人だけであった︒戦後のフランス再建に︑総力を結集
一九四九年にアルジェリアのコンスタンティーヌ県の知事になった︒
一八年の資格でレジオン・ドヌール五等勲章を受章してもいる︒そして一九五四年からモロッコ保護国の事務総長と
︒ ヽ
ノ
ユダヤ人問題と徴発という戦争と占領か
17‑2 ‑249 (香法'97)
年五月にユダヤ人移送の新事実が提出され︑ 者の遺族たちは︑
一九
九〇
ユダヤ人迫害の責任を問われている人物が︑ を任されたのである︒予審で主張した︒ 一九五六年にアルジェリア東部を管轄とする行政監察官として︑
でこの地位に留まった︒彼は︑ コンスタンティーヌからパリに警視総監として呼び戻され︑
アルジェリア問題の専門家として︑アルジェリア危機で騒然とした時期の首都の治安
一九
六一
年一
0
月一七日に︑夜間外出禁止令を無視してパリで行われたアルジェリア人による三万人デモを鎮圧して︑二
00
人以上の死者を出したときの責任者でもある︒こうしてドゴールに評価された彼は︑
一九六八年の選挙にドゴール派として当選して以来︑一九八一年まで国会議員であったが︑﹁パポン事件﹂の始まりで︑
( 5 0 )
一九八一年六月の総選挙には立候補を辞退していた︒
一九八三年一月に予審判事によって起訴されたが︑彼は起訴後︑
軍の命令の執行者でしかなかったとか︑上司の命令に従っただけだと抗弁したし︑ ドイツ
さらに一九九
0
年︱二月のパリ軽罪裁判所で︑彼は自分を﹁ドレフュス大尉﹂になぞらえ︑誤審の可能性を主張して冤罪をほのめかし︑裁判所の権威に挑戦しさえした︒
フランス近代史上︑反ユダヤ主義の犠牲者としてもっとも著名な人物を引き合いに出したことは︑人々の反感を買
( 5 1 )
っ た
一九八七年二月に破棄院刑事部は︑書類の不備という手続きの瑕疵ゆえにパポンの起訴を無効とした︒そこで被害 ︒
一九八八年七月にふたたびパポンを訴え︑舞台はボルドー控訴院重罪起訴部に移された︒
ある︒ニカ月前には︑ 一九九二年六月に︑﹁人道に反する罪﹂でパポンは新たに起訴されたので
パリ控訴院起訴部がトゥヴィエヘの訴因は﹁人道に反する罪﹂に該当しないとして︑不起訴を
決定していたように︑司法内部も﹁人道に反する罪﹂の概念をめぐって揺れ動き︑第二次大戦の犯罪を裁く裁判への ユダヤ教の大ラビを助けたことを 一九八一年︱二月に告訴されたパポンは︑
たたび赴いた︒
一九
五八
年三
月に
︑
一九六六年︱二月ま して治安の維持にあたり︑コンスタンティーヌにふ
一 八
現代フランス社会と戦争の記憶(渡辺)
にあ
り︑
この
概念
は︑
パポンのレジスタンスの資格を審査していた︒パポンが告訴されて一週間後の一九八一年︱二月一五日に︑そ
の審査結果が報告された︒
かつてのパポンの上司モーリス・サバティエ地域圏知事が︑名誉陪審団の前でジロンド県
( 5 2 )
内のユダヤ人弾圧に全責任を負ったこともあり︑名誉陪審団は︑パポンが一九四二年七月にジロンド県事務総長の職
を辞任すべきであったが︑彼の対独抵抗運動への参加を考慮して︑訴追は不公正だという判断を下していた︒しかし︑
一九九六年九月にボルドー控訴院重罪起訴部は︑ジロンド県事務総長が
ダヤ人を死に追いやったという確信﹂をもっており︑彼がナチのユダヤ人抹殺計画を知っていたし︑対独抵抗派でも
名
3 )
なかったと主張して︑名誉陪審団の判断をくつがえした︒パポンは︑
ところでパポンを裁く法理は︑
らん
で︑
一九四五年八月八日にロンドンで調印された国際軍事裁判所条例で明示された法概念である︒同条例第六条
は︑﹁人道に反する罪﹂を次のように定義していた︒
犯罪のおこなわれた国の国内法に違反すると否とにかかわらず︑本裁判所の管轄に属するいずれかの犯罪の遂行
とし
て︑
(C )
ある
︒
され
︑ また一九八一年五月一六日に︑ 道のりは平坦ではなかった︒
﹁人
道に
反す
る罪
﹂ 滅奴隷化︑強制的移送その他の非人道的行為︑
パポンの求めで︑
レジスタンス行動委員会によって五名からなる名誉陪審団が組織
であった︒本来︑
一九六一年のアドルフ・アイヒマン裁判でやっと適用された︒
一 九
﹁人道に反する罪﹂は﹁平和に対する罪﹂とな
またはこれに関連しておこなわれたところの︑戦前または戦時中のすべての一般住民に対する殺人︑熾
( 5 4 )
もしくは政治的・人種的または宗教的理由にもとづく迫害︒
一九四六年二月一三日の国連決議として無修正で可決されたが︑﹁人道に反する罪﹂はその後休眠状態
フランス刑法にこの法概念が明示的に導入さ ユダヤ人迫害の地方行政機構の中心にいたので ﹁逮捕︑監禁︑東方への追放が間違いなくユ
17‑2 ‑251 (香法'97)
であ
る︒
れた
が︑
れた
のは
︑
ナチ
の降
伏︱
‑ 0
周年にあたる一九六四年のことである︒ドイツの戦争犯罪は︑
到来によって公訴消滅するおそれがあった︒そこでフランスの下院は︑
︱︱
︱一
日の
国連
決議
で定
義さ
れ︑
一九四五年八月八日の国際軍事裁判所条例に明示された人道に反する罪の定義を法的
( 5 5 )
に確認しつつ︑人道に反する罪はその性質上︑時効にかからない﹂という一条からなる法律を満場一致で可決した︒
この法律のきっかけになったのは︑当時の西ドイツ政府が︑ レジスタンス神話が頂点に達する︑ジャン・ムーランのパンテオン移葬式典が一二日後に予定されていた︒
きたる一九六五年五月八日をもって戦争犯罪は時効に
なると告げたことである︒
反す
る罪
﹂
しかしこの法律は︑﹁人道に反する罪﹂の不可時効消滅性を確認しただけであり︑﹁人道に
( 5 6 )
の内容については国際軍事裁判所条例や国連決議を踏襲していた︒法案提出者の説明にもあるように︑当
初︑この法はナチの犯罪を念頭に置いており︑それがフランス人に適用されるとは考えられておらず︑
フランス人として﹁人道に反する罪﹂で最初に予審開始が決定されたのは︑
( 57 J
I )
占領地区でブスケ警察長官の代理を務めたジャン・ルゲー警察副長官である︒彼は︑
一九八九年七月に死去したために︑彼の公訴は消滅した︒
のバルビー裁判で判例となった︒
で︑人種的宗教的共同体に所属する諸個人と﹁イデオロギー的覇権政策﹂への反対者に対して︑系統的に行われた非
ルゲ
ーは
︑
ンス警察によって一万三
0
00
人のユダヤ人が逮捕され︑強制収容所に送られたヴェル・ディヴ事件の責任者の一人
さて一九八五年︱二月二
0
日の破棄院判決で︑﹁人道に反する罪﹂の定義が拡大されて︑その定義が一九八七年五月そこでは﹁人道に反する罪﹂とは︑﹁イデオロギー的覇権政策﹂を実行する国家の名 一九四二年七月一六日のパリで︑
フラ
一九七九年三月に予審が開始さ 一九四二年五月から一九四三年末まで︑ 告発まで死文と化していたのである︒ トゥヴィエの 一九六四年︱二月一六日に︑﹁一九四六年二月 一九六五年に二
0
年の時効 二0
現 代 フ ラ ン ス 社 会 と 戦 争 の 記 憶 ( 渡 辺 )
行において︑ 教的集団ないし他の恣意的規準で決定された集団を全面的ないし部分的に絶滅する意図をもって合議された計画の実 とを区別していた︒国連のジェノサイド協定を踏襲した新刑法典は︑ジェノサイドを︑﹁国民的︑民族的︑人種的︑宗
この集団成員に対して以下の行為の一っを犯すか犯させること﹂だと述べて︑﹁生命への意図的侵害︑肉
こ ︑
i,"
一九九一年七月に採択され︑ する者を処罰する法︵ゲソー法︶が可決されていた︒
いわ
ゆる
︑
﹁アウシュヴィッツの嘘﹂のフランス版である︒ しかし共産党議員の提案によって︑
に反
する
罪﹂
の共犯とは︑彼らが 人道的行為や迫害をも含むことになり︑﹁最終的解決﹂の犠牲者であるユダヤ人だけでなく︑拷問を受けたり︑強制移送されたレジスタンスの闘士も私訴原告人になりうる道が開けた︒であったし︑第二次大戦中の犯罪と言っても︑枢軸国との共謀に力点が置かれ︑ヴィシー政府の反ユダヤ主義の政策自体は不問に付された︒それは︑さ
れ︑
一月に破棄院刑事部によって不起訴の決定が取り消
とはいえ︑ここで言う﹁人道に反する罪﹂は︑第 ベトナムやアルジェリアなどの植民地でのフランス軍による残虐行為は対象外
トゥヴィエ裁判で明らかとなった︒
一九九一一年四月に一旦は不起訴になったトゥヴィエが︑同年一
ヴェルサイユの控訴院起訴部に事件は送付され︑
トゥヴィエの裁判が可能となったが︑破棄院は同時に﹁人道
﹁枢軸国のために行動したとき﹂にのみ有罪だと限定的に解釈した︒ここにも︑ヴ
ィシー政府が﹁イデオロギー的覇権政策﹂を実行したのか否か︑つまり﹁人道に反する罪﹂の共犯であったか否かの
︵ お︶
判断を︑破棄院が回避しようとする姿勢をうかがうことができる︒トゥヴィエ裁判の判決でも︑トゥヴィエがユダヤ
人に対してナチの﹁イデオロギー的覇権政策を実行﹂した点が咎められ︑裁判は結局︑
独協力者の個人責任を間う裁判に矮小化されてしまった︒ 二次大戦中に犯された罪に限定され︑
さら
ユダヤ人の殺害を煽動した対
一九
九
0
年六月二九日に︑人種差別の言動や﹁人道に反する罪﹂の存在を否定一九九四年三月から施行された新刑法典は︑ジェノサイドと﹁他の人道に反する罪﹂
17‑2 253 (香法'97)
このようなパポンの罪をどう考えたらよいだろうか︒
一九
四
0
年の休戦後︑圧倒的多数のフランス人がヴィシー政 し政治的︑思想的︑人種的︑宗教的理由によって抱かれ︑市民集団に対して合議された計画の実行のなかで準備され 体と精神への菫篤な打撃︑集団の全面的ないし部分的絶滅をもたらすような生存条件への服従︑出生を妨げる処置︑( 6 0 )
﹁他の人道に反する罪﹂に含めていた︒た非人道的行為の大量かつ系統的な実施﹂などを︑
このような法概念の変化が︑
は︑四回のユダヤ人の強制移送をパポンの有罪の証拠として提示し︑追放を目的とする逮捕監禁が︑﹁イデオロギー的
( 6 1 )
覇権政策﹂を実施したナチス・ドイツの保安警察の命令で実施されたことも明白だと述べていた︒
たしかに一九四二年七月二日に︑ヴィシーの警察長官ルネ・ブスケとオーベルク親衛隊司令官との間で︑
の逮捕におけるフランス警察の協力が約束され︑
一六日に起きるように︑ボルドーでも七月一五日の晩に︑﹁ユダヤ人問題担当室﹂が立てた計画にそって︑
官が二人一組の四〇班に分かれて六台の車に分乗して﹁ユダヤ人狩り﹂に向かった︒ジロンド県は︑
( 6 2 )
一八八四人が登録されていた︒このときの一斉検挙で︑
そのうちの一七一人が七月一八日にドランシー収容所へ追放されたが︑このなかには三三人のフランス国籍ユダヤ人
( 6 3 )
と二人の老人も含まれていた︒
当室﹂宛ての請求書が残っている︒二台のバス代として二八四フラン
( 6 4 )
五四
0
フランは支払済︶︑七月一八日には六台のバス代として一八一八フランが請求されている︒その後も八月二六日︑九月
ニ︱
日︑
‑ 0
月二
三日
と︑
一九四二年の追放のダイアリーはつづくのである︒ ユダヤ人を移送するために︑
それによると︑七月一五日には︑ でユダヤ人が集住していた地域であり︑
一九五人が逮捕され︑
八
0
人の警パリ地域につい
︵ガ
ソリ
ン代
ユダヤ人 パポン事件の私訴原告人に有利に働く︒一九九五年︱二月付けの検事総長の最終論告 子どもの強制的移送﹂の五項目をあげた︒そして﹁強制的移送︑奴隷化︑略式処刑︑失踪という名の誘拐︑拷問ない
パポンもこれを忠実に実行した︒パリでヴェル・デイヴ事件が七月
バスを提供したバス会社からパポンの﹁ユダヤ人問題担
現 代 フ ラ ン ス 社 会 と 戦 争 の 記 憶 ( 渡 辺 )
パポ
ンの
罪は
︑
府の正統性や合法性を信じたが︑それは公務員にとっても同じであった︒ペタン崇拝の雪崩現象のなかで︑﹁元帥への
( 6 6 )
誓い﹂を唱和した公務員も多かっただろう︒多くの公務員が︑反ユダヤ主義の確信からではなくて︑昇進や雇用の確 保のために行動していたのは事実である︒しかしヴィシー政府の成立時の合法性と︑ヴィシー政府の非人道的な対独
協力政策という︑明白に犯罪的な命令に従うこととは別だろう︒ヴィシー政府の反ユダヤ主義は︑
イデオロギー的に共振していたからである︒
たしかにパポンは︑
っ た
︒
警察長官のブスケやその代理のルゲーほど大物ではないし︑県庁の﹁ナンバー
3﹂
しかしパポンは︑
察の自立を求めたブスケ同様︑
こう
して
︑
ホロコーストは︑
一斉検挙に動員さ ドイツの占領政策上の拠点となる県行政を任されており︑ ナチス・ドイツと
ボルドーで対独協力政策を実行す
る責任者であった︒彼は︑転勤を願い出ることによってその任務を免れることもできたはずであったが︑ でしかなか
フランス警
パポンもドイツからのフランス行政の独立や主権の確保という大義名分によって︑積
パポンはヴィシー体制の歯車となった︒イデオロギー的覇権政策による大量殺暇を可能にしたものは︑
優生学的な人種主義だけでなくて︑効率的な行政機構の存在と不可分であった︒
れる警察から移送列車を手配する運輸省まで︑さまざまな行政組織の協力を必要とした︒そこでは︑パポンのような
( 6 8 )
テクノクラートが働いていた︒パポンは︑反ユダヤ主義の政策を遂行する国家機構に奉仕したテクノクラートであり︑
国家機構の存続を第一とする官僚であった︒彼の国家機構への忠誠は︑人間の尊厳や共和主義の原理に反していた︒
このようなヴィシー政府の反ユダヤ主義の政策との関連で礼されるべきである︒
モラルに無関心な﹁テクノクラートの犯罪﹂
( 6 9 )
が国の歴史から抹消すべき四年間﹂として︑記憶から消し去ってはならないのである︒ 極的に対独協力政策に関与したのである︒
︵ブーランジェ︶と言ってよいだろう︒だから︑ パポンのケースは︑
ヴィシーの四年間を﹁わ
~
17‑2 ‑255 (香法'97)
こで
は︑
ま た
︑
フラ
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ドイツとアメリカ合衆国についで歴史修正主義の第三の本場と言われる国である︒
六日のヴェル・デイヴ事件五三周年の日に︑ジャック・シラク大統領が︑﹁過去の過ちを︑国家によって冒された過ち
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を知ること﹂を求め︑﹁時効のない負債﹂の存在をフランス人に語っていたが︑
ち﹂を刷扶しえていないし︑歴史修正主義派の嘉動もまだつづいている︒
たゲリラ的行動はまだつづくだろう︒ シナゴーグやユダヤ人のレストランやユダ
一九九七年三月一八日にも︑パリ市内の一五
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人の校長のもとに︑歴( 7 2 )
史修正主義を主張するネオ・ナチの文書が郵送されていたことが明らかになったばかりである︒忘却派によるこうし
それでも︑三月一七日からカルパントラ事件の裁判が始まり︑三月二
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日に墓( 7 3 )
荒らしの容疑者に二年から一八カ月の禁固が求刑されたし︑今秋の一
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月八日には第一回のパポン裁判が予定されており︑戦争の記憶が問い直されるはずである︒忘却派と記憶派との戦争の記憶をめぐるヘゲモニー争いと言うにはほ
ユダヤ人登録カードに見られたように︑記念碑や記念館は﹁国民的記憶﹂
一九九五年七月一
の宮殿として位置づけられた︒そ
ナショナルな記憶が重視された︒そのような歴史的記憶や集合的記憶の構築に携わるのは︑歴史家である︒
世代を越えた記憶の伝達を担当するのは︑歴史教育であり︑
とともに個人の身体的記憶が色あせていく今︑実際の歴史にみあった記憶が創造される必要があるだろう︒
に︑歴史学のモラルと歴史家のエチカが問われている︒その際︑ ど遠いが︑近年のフランス社会が指し示したものは︑
そのツールとしての歴史教科書である︒戦争世代の死去
ナショナルな﹁語り﹂としての﹁国家的記憶﹂を脱 このような記憶の弁証法と記憶の政治学であった︒
それだけ ヤ系の小学校での爆破事件が後を絶たないし︑ フランスは﹁国家によって冒された過
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