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戦 国 社 会 の 戦 争 経 済 と 支 出

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(1)戦国社会の戦争経済と支出. 久. 保. 健一郎. そこで本稿では︑これらの点に意を用いつつ︑戦争経済に関する. 論点をあらためて整理し︑私見を示したいと考えるが︑紙幅および. 戦国時代は︑いうまでもなく戦争に特徴づけられた時代である︒. ぼることにする︒また︑活字化された﹁拙論﹂では紙幅の制約から. なもの﹂と評価し︑検討の中心となった﹁兵糠﹂に関わる問題にし. はじめに. ただ︑この当然の事実の具体的究明・位置づけなどは︑日本中世史. 史料の引用をほとんど割愛せざるを得ず︑口頭報告においても時間. 自らの研究状況の関係から︑﹁拙論﹂において﹁戦争経済で最も重要. における戦争論への注目に伴い︑漸く端緒についたばかりである︒. の都合から細か套言及ができなかったので︑必要に応じて煩を厭わ ^4︶. したがって︑いまだ多角的な視点から︑多様な問題が検討される必. ︑. ず掲げたい︒. ︑. 要の あ る 段 階 と い え る︒. 戦国時代における戦争経済に関する論点をいくつか述べたのも︑こ ^1︶ うした認識による試みの一つである︵以下︑﹁拙論﹂とする︶︒そこ. 取論の報告を要請されて構想したものである︒ところが︑準備の過. ておこう︒もともと﹁拙論﹂は歴史学研究会日本中世史部会から収. ︑. では︑戦争と経済との関わりが重要であるにもかかわらず︑少なく. 程で戦争経済にとっては収取そのものよりもそれと裏腹の支出がむ. ︑. なお︑﹁拙論﹂が﹁戦国社会の戦争経済と収取﹂であったのに対し︑. とも日本中世史においては看過されてきたことを指摘し︑それらの. しろ重要な問題であることに気づかされた︒そこで﹁拙論﹂は支出. 先ごろ︑筆者が﹁戦国社会の戦争経済と収取﹂と題する報告で︑. 戦国時代における構造・矛盾などを︑高利貸や徳政と関連づけなが. に重点を置いた論旨となり︑﹁はじめに﹂でも﹁戦争における大量消. 一五. 本稿が﹁戦国社会の戦争経済と支出﹂であるという点について触れ. ら論じた︒しかし︑当然のことながら︑残された問題は多く︑十分 ?一. 費u支出という経済上の問題は︑収取と密接な関連を有していなが. ?一. 展開できなかった論点もなお多い︒また︑具体的な批判も寄せられた︒ 戦国社会の戦争経済と支出.

(2) その収取との関連という総体的な視点からは検討されていない﹂と. 論点を提供するのが﹁兵糠﹂であるが︑やはり消費H支出︑さらに. ら︑従来ほとんど正面から検討されていない︒これに関わり重要な. 害へ皆可入候︑但︑敵之小旗先迄も︑郷村二者︑人民然与無之而不. 来侯者︑領主深重之可為私曲侯︑傍爾者︑正月晦日を限而︑要. 一︑郷村二兵根指置儀︑分国中堅制侯︑若忽借二申付︑後日二無届出. ︐史料A︼. 一六. 述べて課題設定につなげたのだが︑部会テーマに配慮して報告題目. 叶子細侯閻︑彼等至子時之食物者︑不指置而不叶侯︑此処こま. ︻史料B︼. には﹁収取﹂を掲げた︒支出に重点があり︑それが収取と裏腹であっ. る︒しかし︑やはりこのために﹁拙論﹂は文字通りの収取論である. 敵働由候聞︑他所へ兵粧為無御印判︑一駄も越二付者︑見逢二足軽二被. ^7︶ かに分別侯而︑可申付事︑. はずと理解され︑それなのに収取論らしからぬ内容ではないかと判. 下侯︑其身事者︑可被掛傑︑小屋之義者︑金尾・風夫・鉢形・西之. たとしても収取論の一環と見なせないこともないと考えたからであ. 断される傾向があった︒また︑﹁兵捜﹂の問題もまず支出のあり方を. 奉 三山. 入相定侯︑十五已前六十已後之男︑悉書立可申上者也︑価如件︑. ^5︶. 辰o 三日. 阿佐美郷. 井上孫七郎殿. ^8︶. ^永禄十一年一 ^﹁翁邦掲福﹂朱印︺. 重視する意図だったが︑もっぱら収取のあり方に議論が集中してし まった︒この点︑何よりも自らの説明不足に原因があったのだが︑. 本稿ではあらためて戦争経済における支出問題の重要性に注目して いること︑﹁兵粧﹂もその視点によっていることを明らかにしておき. たいと考え︑かく題目も設定したわけである︒. ︻史料C︼. ﹁拙論﹂における﹁兵粧﹂の解釈・位置づけについて︑峰岸純夫氏 ^6︶ がいくつかの﹁兵捜﹂関係の史料に触れ︑批判を展開された︒峰岸. たく可申付︑但︑陣衆へ者︑一さい少之義なり共︑いろうましき者. 荷馬を取へし︑此義︑松山根小屋之足かる衆心二入︑見まハり︑か. ︿﹁兵糠﹂という正当性﹀. 茂呂御陣より罷越兵複丼馬のかいれう︑其外かい取度申いか様之. 氏も︑おそらくは紙幅の制約から︑史料の引用があまりできなかっ. 也︑以上︑. 以手引頼侯共︑一駄ハ不及申︑一俵其内なり共︑不可出︑若出侯ハ.︑. たようなので︑それぞれ次に掲げる︒.

(3) 一天正六年一. 八月十六日. □︑﹁長則﹂朱印︑. 域防衛のためということと考えた︒そして︑ここから﹁兵糠﹂は地. 域﹁平和﹂のための戦争に用いられるからこそ収取される﹁合意﹂. 料C︼は上田長則朱印状写で︑﹁足かる衆﹂が実際に﹁兵糠﹂流出を. を得︑収取正当性を有するという論理がうかがわれる︑とした︒︻史. 松山根小屋足かる衆. 監視する﹁見まハり﹂を行っているところから︑︻史料B︼で持ち出. ^9︺. 示したものである︒. 視を行い︑その発見者となることを想定しているゆえ︑という点を. された﹁兵糎﹂が﹁足軽﹂に与えられるのは︑彼らが持ち出しの監. 本郷宿中. これらは︑﹁拙論﹂において﹁兵糧﹂の収取正当性に関わって用い たものである︒︻史料A︼は天正十七年︵一五八九︶十二月二十八日. 領国内における食糧は郷村で当座必要な分を除き︵﹁彼等至子時之. た時点に︑﹁郷村二兵糠指置儀︑分国中堅制侯﹂とあるところから︑. もので︑兵模の徴発ではない﹂とし︑︻史料B︼︻史料C︼について. 略奪に備えて﹁要害﹂︵小泉城︶にすべて運び入れることを指示した. 指令で︑﹁郷村に蓄えられている富岡氏の兵稜を豊臣秀吉の侵攻・. これに対し峰岸氏は︑︻史料A︼については北条氏の領主富岡への. 食物者︑不指置而不叶侯﹂︶すべて﹁兵糠﹂とされている︑すなわち. は背景となる具体的戦況を述べた上で︑﹁兵模の確保およびその奪取. の北条家朱印状の一部で︑ここからは︑秀吉の来襲が決定的となっ. 危機的状況に当たっては領国内における食糧すべてを﹁兵捜﹂と称. が戦略の重要な一貫であることはその通りであるが︑そのことを. 書である︒□史料B︼は北条氏邦朱印状で︑﹁他所﹂へ許可なく﹁兵. −史料B︼︻史料C︼はいずれも北条領国における支城主の発給文. 収取といい︑②︻史料A︼−︻史料C︼から導いた論理を﹁兵糠﹂の. ればならない点がある︒それは︑①︻史料A︼について﹁兵糠﹂の. ここで︑報告の討論や峰岸氏の批判をふまえて確認・修正しなけ. ^10︶. して収取している︑年貢以外の食糧をも﹁兵糠﹂とする体制が現出. もって農民からの兵模収取を示すものとはならない﹂と批判された︒. 糠﹂を持ち出すのを発見したならば﹁足軽﹂に与える︑とあるとこ. 収取正当性と表現したところである︒①は﹁兵糠﹂を取る︑という. ︷マ:. している︑とした︒. ろから︑﹁兵模﹂は地域防衛のために用いられるべきものだった︑と. ことで不用意に﹁収取﹂といってしまったが︑これは通常の年貢・. ︑. ︑. ︑. した︒すなわち︑せっかく持ち出しを阻止した﹁兵糎﹂を﹁足軽﹂. 公事の収取とは異なるのだから︑﹁徴発﹂ぐらいにしておくべきだっ. ︑. に与えたのでは意味がないようだが︑これはこの﹁兵糠﹂を誰が用. た︒②は正確には﹁兵粧﹂を冠する行為が正当性を有すると見なさ. 一七. いるかではなく︑何のために用いられるかが問題であり︑それが地 戦国社会の戦争経済と支出.

(4) ﹁兵糠﹂を収取することの正当性よりも広い意味づけをしておくべき. れること︑いわば﹁兵糠﹂と称することによる行為正当性であり︑. 得︑﹁兵糠﹂と称することによる行為正当性を有する⁝⁝﹂と修正し. たところは︑﹁⁝⁝戦争に用いられるからこそことば自体が正当性を. れる﹁合意﹂を得︑収取正当性を有する論理がうかがわれる﹂とし. 一八. ところであった︒①②ともに与えられた課題である﹁収取論﹂に引. なければならない︒. えてしまったようであり︑何よりも用途H支出のされ方から出発し. 称して収取されていたりしたかのような印象を少なからぬ向きに与. う税目で−収取されていたり︑逆に年貢・公事が﹁兵糠﹂であると. 年貢・公事と同様かつ別物として並び立って−つまり﹁兵捜﹂とい. れているともいえる︒つまり﹁兵糠﹂と称することによる行為正当. 成立すれば︑﹁兵粧﹂はすでに恒常的収取と同様の意味で﹁収取﹂さ. の食糧が潜在的にすべて﹁兵粧﹂たりうる体制である︒この体制が. 統制・管理しうる体制とは︑いいかえれば年貢・公事を含むところ. ただし︑危機的状況ですべての食糧を﹁兵糠﹂だといって徴発︑. ︵11︺. きずられすぎたためといえる︒これによって︑あたかも﹁兵糠﹂が. た﹁兵線﹂の問題がもっぱら収取について議論されることになって. 性は︑直接的には緊急時における領国内全食糧の徴発︑統制・管理. を可能にし︑問接的には平時における年貢・公事などの収取をも潜. ^u︶. しまったのである︒. ﹁拙論﹂のここでの眼目は︑危機的状況ですべての食糧を﹁兵模﹂. ねない︒年貢・公事はあくまで年貢・公事として収取され︑蔵に貯. 在的﹁兵粗﹂のそれとして意味︑づける体制を現出する︒ただ︑ここ. も︑何らかの行為・主張を正当化しようとするとき︑正当化して実. えられて実質的に︑あるいは実態としての﹁兵糠﹂となるのである︒. だといって徴発︑統制・管理しうる体制を見きわめ︵︻史料A︼︶︑そ. 現しようとするときに︑これは﹁兵模﹂なのだから︑といって正当. また︑これに関連し︑﹁拙論﹂で﹁いわば︑戦争経済とは︑戦争の. には年貢・公事の﹁兵根﹂としての意識化はあるにせよ︑﹁兵糠﹂を. 化するものであるので︑﹁兵模﹂と称することによる行為正当性とい. 名の下に年貢・公事︵役︶を収取し︑実際の戦争で大量消費H支出. こまでに至る論理の創出がいかに行われるかを考察する︵︻史料B︼. うのがより相応しいわけである︒この論理は﹁兵捜﹂ということば. するところに︑構造の本質がある﹂としたところも︑﹁戦争の名の下. 収取するぞ︑といって収取するわけではなく︑やはり誤解を招きか. 自体が何らかの正当性を獲得することを前提とする︒それが﹁兵糠﹂. に﹂という点が﹁戦争﹂と称しているかの印象を与えかねないので︑. ︻史料C︼︶ことであった︒その論理とは狭く収取正当性というより. の用途︑地域防衛のために︑すなわち地域﹁平和﹂のための戦争に. ﹁戦争に規定されて﹂と修正する︒. いずれにせよ︑ここまで述べてきたような理由から︑﹁﹁兵線﹂の. ^13一. 用いられる︑ということだったのである︒したがって︑﹁拙論﹂で ﹁﹁兵根﹂は地域﹁平和﹂のための戦争に用いられるからこそ収取さ.

(5) して大名の統制・管理下に置くかであり︑そのために﹁兵糠﹂とい. 備え﹂たものである︒問題は﹁備え﹂るために郷村の食糧をいかに. 収取﹂という表現はとくに必要が生じない限り差し控え︑﹁収取正当 ^u︺ 性﹂ということばは﹁行為正当性﹂に改めたいと思う︒そして︑﹁兵. うレッテルを貼ってしまうー︿﹁兵糠﹂という正当性﹀を発動するの. れた文書である︒. いずれも天正十七・十八年という秀吉来襲の危機的状況下で発給さ. これらは報告の際にも時問の都合上などから挙げなかったもので︑. えとしては十分と考えるが︑なおいくつかの史料を挙げておこう︒. このように︑︻史料A︼のみに即しても︑峰岸氏への当面のおこた. ^16︶. 糠﹂と称することによる行為正当性ではいかにも長々しいので︑﹁兵 である︒. ﹁兵糠﹂批判について. 捜﹂ということば自体の正当性と併せて︑以下では︿﹁兵糠﹂という 正当 性 ﹀ と 表 記 し たい︒. 二 峰岸純夫氏の. 前章での確認・修正をふまえ︑峰岸氏の﹁兵糠﹂批判の検討に移. ︻史料D︼. る︒まず︑︻史料A︼について︒峰岸氏はここでの﹁兵捜﹂を領主富. 岡が郷村に貯えていたものと見なすが︑はたしてそれは妥当であろ. 可有下知侯︑少々之切所迄かたとり城中へ兵糧迄入儀諸人難渋. 一︑郷村之兵糧正月晦日迄限而︑悉要害へ可被入置事総並侯︑厳. まず︑この﹁兵糧﹂がもともと富岡のものならば︑それを﹁要害﹂. 毎度之︑畢寛其方可被楯籠居城へ可被集侯︑自元郷村二有之者ハ. うか︒. に運び入れることをわざわざ北条氏が指示するのか︑という疑問が. 小旗先迄然与可指置儀勿論之事︑. るために﹁郷村に残る百姓の分は残せといっているのである﹂とい. 糠﹂は城に集中させるのではないか︒また︑峰岸氏は論旨を補強す. 有之者︑申而出者二可被下惣国之捷也︑百姓之食物ハ無相違候︑但︑. 私領之兵根︑金山御城へ︑来晦日切而悉可入払︑傍爾を立越︑郷中二. ︻史料E︼. ^17︺. 生じる︒籠城戦を行う以上︑いわれるまでもなく富岡は自身の﹁兵. うが︑ここは百姓の分を無限定に残せといっているのではない︒﹁拙. 埋血ハ不可置者也︑価如件︑ 一天正十八年一. 一九. 論﹂でも述べたように﹁彼等至子時之食物者﹂すなわち当座の食糧 は残せといっているわけで︑それ以外は百姓の留保している食糧も ^15︶ ﹁要害﹂に運び入れることが前提されているのである︒もちろん︑こ の命令は直接的には峰岸氏のいうとおり﹁豊臣秀吉の侵攻・略奪に 戦国社会の戦争経済と支出.

(6) ^㎎︺. 宇津木殿 ︻史料F︼. 一︑当作致儀︑程有間敷問︑種夫食負郷く二指置︑作可致之事︑ 一︑郷中之兵糠︑郡代之緒一切有之間敷侯︑領主可為指引侯︑万. 一横合之族有之者︑記交名可申上侯︑可処厳科侯︑若令用捨不 致披露一︑領主可処越度事︑. 価如件︑. 一︑如此申出処︑寄事於左右︑種夫食二も無之物︑郷中二隠置候者︑. 能々遂分別︑手前く之知行之仕置肝要侯︑. 以上. 自脇聞出次第︑兵糠可為取之事︑. 右︑. 一天正十八年一. ︶. 庚剣−﹂一虎朱印一. 唖一日 ^. ︵天正十八年一. 庚到i﹂一虎朱印一. 匝四日. ^20︶. 妙本寺. 二〇. ︻史料D︼は天正十七年十二月二十七日の北条家朱印状写の一部. である︒︻史料A︼と一日違いで︑やはり﹁郷村之兵糧﹂をことごと. く﹁要害﹂へ運び入れることを命じている︒充所は国衆の長尾左衛. 門尉︵輝景︶であり︑﹁兵根﹂に関する北条氏の指示は︻史料A︼と. 同内容と見てよかろう︒そうおさえた上で注意すべきは﹁城中へ兵. 糧迄入儀諸人難渋﹂という部分である︒城中へ﹁兵模﹂を運び入れ. ることを﹁諸人﹂が難渋しているという︒この﹁諸人﹂を領主とは. 解釈し難い︒領主が自分の城中へ﹁兵糠﹂を運び入れることを難渋. しているという不可思議な事態となってしまう︒この﹁諸人﹂は百. 姓などを指すと考えざるを得ないわけで︑危機的状況にあたり食糧. 宇津木殿 ︻史料G︼. が﹁兵糠﹂として徴発←統制・管理されている︒そして︑︻史料D︼が. 朱印状である︒︻史料E︼で﹁私領之兵模﹂をことごとく金山城へ入. ︻史料E︼︻史料F︼はいずれも上野の領王宇津木に充てた北条家. るといえるのである︒. ︻史料A︼と同内容である以上︑︻史料A︼も同様の事態を示してい. 一︑於寺中︑竹木仮初二も不可前刀取事︑. 一︑寺僧衆堪忍分之兵糠︑少も不可有横合事︑ 一︑来廿五日を切而︑郷村兵糠不可置仕置侯︑寺中へ他之兵糠被入 置問敷事︑. 右︑定所如件︑. れること︑﹁百姓之食物﹂は相違ない⁝確保すべきことを命じている︒. この点︑︻史料A︼︐史料D︼等と同様であるといえよう︒しかも︑.

(7) もほぼ異論のないところであろう︒②は①の事態を受けて郷村に置. べているわけである︒ここで想起されるのは藤木久志氏によって明. ここでは︻史料F︼によってさらに詳しい事情を知ることができる︒. ﹁当作﹂まで聞がないためであり︑郷村に残る食糧は百姓の食べる分. らかにされた村の﹁預物﹂である︒すなわち︑戦争などに際して村. けなくなった﹁兵糠﹂を寺で預かってはいけない︑ということを述. だけでなく︑種籾類もあったことがわかる︒百姓の食べる分も﹁当. が大事な物を寺院等に預ける慣行である︒ここでは大名によって村. すなわち︑敵の来襲が決定的であるのに︑郷村に百姓が残るのは. 作﹂のための﹁夫食﹂という位置づけだったわけである︒これは重. へ置いておくのが禁じられたからなおさらである︒領主が﹁預物﹂. ^23︺. 要な論点を含むが︑当面の問題に関してさらに注意されるのは︑郷. をする可能性もないとはいわないが︑繰り返し述べたように領主が. 自身の籠もる城に﹁兵糧﹂を集めない理由はないのであって︑ここ. ^21︺. 中の﹁兵糠﹂について﹁郡代之騎﹂があってはならない︑領主の ﹁指引﹂11差配だ︑と述べている部分である︒これがもともと領主の. で﹁兵糧﹂を預ける主体として想定されているのは郷村と考えて問. 違いない︒すなわち︑郷村にある食糧が﹁兵糠﹂として︑拠点とな. ﹁兵模﹂であれば北条氏がわざわざこのような規定をするはずがない︒. 領主の﹁兵糠﹂でないからこそあらためての規定が必要だったので. る城に集中させられようとしていることが︑この史料からもいえる のである︒. ある︒ここからも峰岸氏の︻史料A︼における﹁兵模﹂1領主が郷 ^22︺ 村に貯えていた﹁兵糠﹂という説は成り立たないといえる︒また︑. こうした事態はすでに天正十六年北条領国が秀吉の惣無事令に危. 機感を募らせ︑急速に防衛体制を整えた時に窺いうる︒すなわち︑. 戦争が迫る混乱状況下で味方内における郡代と領主との問で﹁兵 模﹂をめぐる競合・紛争の可能性があり︑だからこそ大名による統. 同年正月三日の北条氏照朱印状写には﹁郷中二くゐ物たるほとの. より重要である︒すなわち︑①郷村に﹁兵糧﹂を置かない決定がさ. ﹁兵稜﹂と表現していることにも注目されるが︑ここでは次の部分が. いつなぐための食糧には手を出さないことを保証しており︑これを. ︻史料G︼は鎌倉妙本寺へ充てた北条家朱印状である︒寺僧衆が食. 領分兵根﹂を﹁岩付大構﹂のうちに持ってきて預けるようにと指示. いが︑正月五日の北条氏房朱印状では代官や百姓に対して﹁岩付御. これのみだとあるいは武士に限っているようにも見えるかもしれな. 知音の屋敷に﹁兵糠﹂を置かせてもらうように︑と指示している︒. 物﹂を置いてはいけないとして︑八王子に屋敷がない者は︑寄親や. ^24︶. 制・管理が必要になる︑ということも指摘できよう︒. れた︑②寺中へ他の﹁兵糠﹂を入れないように︑というところであ. し︑郷村に一俵でも残せば領主を重科に処すと述べている︒併せ考. えれば︑広く食糧を﹁兵粧﹂として徴発しようとするものと見なせ. ^25︺. る︒①と②が関違していることは容易に察しがつく︒また︑①は ︐史料A︼︻史料D︼−︻史料F︼などと同様の状況を示していること 戦国社会の戦争経済と支出. 二.

(8) 二一一. できないが︑﹁兵捜﹂を城へことごとく入れよ︑とする指示に続く部. 分であるから︑﹁郷中二有之者﹂とは郷中にまだ﹁兵糠﹂があったな. よう︒. 以上︑︻史料A︼以外のいくつかの史料からも︑危機的状況下に. らば︑と解釈してよいと思われる︒とすれば︑さらに続く部分は. ﹁申し出た者︵H﹁兵糧﹂がまだ郷村にあると知らせてきた者︶に与. あって領国内の食糧を﹁兵糠﹂として徴発し︑統制・管理しうる体 制が成立していたことを確認した︒. C︼は﹁足かる衆﹂が﹁兵根﹂流出を監視する﹁見まハり﹂を行っ. 示すために用いた史料ではない︒これも先にも触れたように︑︻史料. しても動かない︒また︑︻史料B︼︻史料C︼は一つのことを等しく. いが︑論理の問題であり収取を直接示していないところはいずれに. 取﹂﹁収取正当性﹂等の用語が誤解を招く一因となったのかもしれな. 直接示す史料としては用いていない︒この点︑あるいは﹁拙論﹂の﹁収. あった︒したがって︑これらはそもそも﹁農民からの兵糠収取﹂を. で見た体制に至る論理の創出がいかに行われたかを考察するためで. いのは︑これらを用いて述べたのは︑先にも触れたように︻史料A︼. 来の意味から変質し︑︿﹁兵糠﹂という正当性﹀の名の下に個別の﹁正. ようとしている︒いったん成立したく﹁兵糠﹂という正当性Vは︑本. ずである︒これが大名による防衛戦略のための﹁兵糠﹂に収敏され. 衛というならば︑これこそがもっとも切実で身近なそれたりうるは. おいて危機的状況下で活用される可能性があるはずである︒地域防. 似て非なる重大な相違がある︒郷村にある﹁兵模﹂は︑その郷村に. よい︑ということであろう︒しかし︑これは︻史料B︼の論理とは. 置されているよりは︑通告を奨励して﹁兵糠﹂として活用した方が. まうのでは意味がないようであるが︑大名の統制・管理に反して放. ﹁兵糠﹂として食糧を集中しようとしているのに︑通告者に与えてし. えるのは惣国の捷だ﹂との意になるであろう︒これもせっかく城に. ている実例で︑もって︻史料B︼で足軽が流出﹁兵複﹂を与えられ. 当性﹂を吸収してしまおうとする︒論理の逆転である︒この変質は︑. ついで︑︻史料B︼︻史料C︼について︒まず明らかにしておきた. る理由を推定したわけである︒つまり︑︻史料C︼はあくまで︻史料. ﹁拙論﹂で﹁兵捜﹂の搬送について述べた本来的あり方からの二次的. ^26︶. B︼の補助的役割にとどまるのであって︑もともと﹁農民からの兵. ︻史料B︼︻史料C︼についてのおこたえは以上だが︑︻史料B︼と. の到達点がある︒もちろん︑だからといってく﹁兵糠﹂という正当. 捷﹂といわれているところに事態の深刻さと︿﹁兵糧﹂という正当性﹀. 変質とも密接に関わる︒このく﹁兵糧﹂という正当性Vが﹁惣国之. の関連で重要な問題を示す事例として︑先に挙げた︻史料E︼を再. 捜収取﹂に関わる批判をされる位置にないのである︒. び見ておきたい︒すなわち︑﹁傍爾を立越︑郷中二有之者︑申血出者二. 性Vが無限定の効力を有したわけではない︒むしろさまざまな局面 ^η︺ で挫折するわけで︑この点はあらためて追究しなければならない︒ 可被下惣国之捷也﹂という部分である︒﹁傍爾を立越﹂がうまく解釈.

(9) ここでは︑当面く﹁兵捜﹂という正当性Vの論理の確認と︑その変質 の見通しを行った︒. ある︒. 以上︑峰岸氏の批判におこたえするかたちで︑﹁兵糠﹂に関わる問. のような形で軍隊の兵糠に転化されるかということを解くことが︑. 題を検討した︒なお︑峰岸氏は﹁年貢米として収取されたものがど. 間諏訪藩において﹁兵糠﹂貸しがなお見られる事例を挙げて﹁年貢. 戦争経済にとって重要﹂と指摘されており︑これにはまったく同感. なお︑峰岸氏は︑﹁拙論﹂の﹁おわりに﹂で︑十七世紀後半延宝年 ^28︶. もしくは食料を﹁兵粧﹂と称するところに正当化が見いだされる構. である︒. ﹁拙論﹂では戦争経済における﹁兵根﹂について︑︿﹁兵複﹂という. をめぐる論点の展開. これは具体的に検討を加えたものではなく︑戦争が行われなく. 正当性﹀をまず重視した︒前章までで見たように︑これを正確に表. ﹁兵糠﹂. なったにもかかわらず︑﹁兵模﹂貸しと称される行為が見られること. 現できなかったところが﹁拙論﹂の重要な反省点の一つであった︒. 三. 造が︑なお社会に色濃く残ったことを示唆する﹂と見通した部分に ついて︑﹁年貢収納以前の借米の返済を﹁兵模﹂と対比的に称して禁. 止しているので︑兵根米の収取を直接表現しているものではなく︑. によって︑﹁﹁兵糠﹂と称するところに正当化が見いだされる構造﹂. 以下︑これをふまえて﹁兵糧﹂をめぐる論点をさらに展開したい︒. 戦国期の憤行の残存と援用することはできない﹂と批判された︒. 1−︿﹁兵糧﹂という正当性﹀がなお一定の比重をもつ社会的構造があ. ︑. 次の史料は︑﹁拙論﹂で戦争経済の構造︵以下︑﹁構造﹂とする︒ ︑. るのではないか︑と推定したに過ぎない︒したがって︑﹁兵捜米の収 ︑. また︑戦争経済の矛盾を﹁矛盾﹂とする一を述べたなかで︑その社. ︑. 取を直接表現﹂しているものとは見ていないし︑﹁戦国期の慣行の残. 会への浸透を示す事例として挙げたものである︒. ︑. ︑. 存﹂を直接示そうとしたのでもない︒あくまで国内戦争終結後の社 会に戦国時代が残したものを︑﹁拙論﹂を結ぶにあたってごく漠然と. は問題があったのだが︶との関わりで批判されるのは︑いささか不. 両人召出︑遂糺明畢︑価去年巳歳大川前より兵糠拾俵︑下田之百. 西浦之百姓大川兵庫捧訴状問︑下田之小代官矢部遠江・沢村但馬. 更料H︼. 本意である︒もちろん︑杜会的構造の具体的な内容が示されていな. 姓八郎左衛門令借用証文分明也︑下田之小代官相目安二︑彼兵複之. 見通したまでであり︑本論の﹁兵模﹂収取︵﹁収取﹂ということばに. いではないか︑といわれればまったくその通りであり︑そうした批. 儀不存由難載之︑大川所へ矢部・沢村返札二者︑舟持中令納得間︑. 二三. 判であれば甘んじて受けなければならない︒この点は今後の課題で 戦国社会の戦争経済と支出.

(10) ^29︺. 堅申付︑ 可為致返弁旨︑顕之侯︑ ︻史料1︼. 一亀. 居. 元. 忠. 一. 難未申入侯︑以一書令啓侯︑価為宿願︑白彦右衛門尉殿兵模百俵 ^30︶ 鹿嶋へ進上被申侯問︑誰そ御一人可被成御越侯︑相渡可申侯︑. 二四. 鳥居元忠が宿願をかなえるために﹁兵線﹂百俵を鹿島神宮へ寄進す. るという︒たんなる神社への寄進物があえて﹁兵線﹂と称されるの. は何故か︒理由として考えられるのは一つである︒あえて重要なも. のを寄進したということで︑この寄進の意義を強調するためである︒. ︻史料J︼は天正十六年霜月十五日の蔭山氏広判物の一部である︒. ここでは︑﹁兵線﹂は重要なものの代名詞と化しているのである︒. 就拙者手前不罷成︑鎌倉屋敷上下共二︑御好味与申︑貴辺一渡置申侯︑. これも︻史料1︼同様に問題は明瞭である︒北条氏給人蔭山が生活. 更料J︼. 為此替兵糠柑三俵請取申候︑彼屋敷為先御証文︑永代遣之置候上. に困って鎌倉の屋敷を売るという︒彼はその代価として﹁兵糠﹂三. ﹁兵模﹂と称されるのは何故か︒やはり︑あえて重要なものが代価で. 十三俵を請け取ったわけである︒たんなる屋敷売却の代価があえて. ^釦︶ 者︑不可有別条侯︑. ︻史料H︼は天正十四年十月二十日の北条家裁許朱印状の一部で. のなかでとくに﹁兵糠﹂貸しとして問題となる場合があるのは何. 糠﹂が捉え返され﹂たとした︒この点若干補足しよう︒数多い借米. 見られる︒これは︿﹁兵模﹂という正当性﹀が︑もはや戦争を離れて. よってある行為を正当化し︑価値を高めようとする事例がしばしば. 以上のように︑﹁兵糠﹂を重要なものと考え︑それを称することに. あるということで︑この売買の意義を強調するためと見なせる︒こ. 故か︒蔵に貯えられている食糧としての実態はほとんど異ならない. 普遍的に認識されてきたからにほかならない︒﹁拙論﹂では正当性の. いわゆる﹁兵捜﹂貸しをめぐる相論である︒﹁拙論﹂では﹁﹁兵捜﹂. はずである︒とくにこの︻史料H︼は﹁百姓﹂が貯えていた食糧で. 問題を︑収取正当性と狭く示していたため︑この社会への浸透のと. こでも﹁兵糠﹂は重要なものの代名詞とされているのである︒. ある︒大名の側が積極的に﹁兵糠﹂と認定する理由はない︒したがつ. ころと直接関わっていなかったが︑︿﹁兵糠﹂という正当性﹀で考え. の未返済が強調され﹂﹁訴人が主張を通すため有効な論理として﹁兵. て︑これは訴人側があえて﹁兵糠﹂であると強調しようとしたから︑. れば︑戦争のなかから成立した︿﹁兵粧﹂という正当性﹀が社会へ浸. ^祝︺. そこに有効性を認めたから︑と考えられる︒大名の側でなく﹁兵糠﹂. 透︑普遍化するありさま︑戦争とは直接関わらない物事まで規定し. の社会への浸透としたが︑いきなり戦争経済の︑とするよりはく﹁兵. ていくそれとして理解できるのである︒また︑﹁拙論﹂では戦争経済. 貸しを行う側にこうした意識があるのは重要である︒. −史料1︼は年未詳だが十六世紀末と推定される高須信忠なる人 物が鹿島神宮神主に充てた書状の一部である︒問題は明瞭である︒.

(11) 糠﹂という正当性﹀の︑とした方がより正確であり︑それを媒介と して戦争なり戦争経済への人々の意識が影響を受けると想定される︑. 大名も許容していたと推定したのである︒. この点は︑史料解釈的には現在でも同様の理解であるが︑意味づ. 性の問題は収取正当性としたこともあって︑もっばら前者で述べる. ﹁拙論﹂では﹁構造﹂と﹁矛盾﹂を裁然と分けて論を展開し︑正当. と考えられ︑併せて看過できなくなった武田は移出される食糧に対. ちろんであるが︑それに加えて多くの食糧が移出されていったもの. して﹁兵糠﹂であったものが移出され︑それが問題になったのはも. けはもう少し広く考えるに至った︒すなわち︑ここですでに実態と. にとどまったが︑︿﹁兵稜﹂という正当性Vは後者に関わっても重要. して一様に﹁兵糠﹂というレッテルを貼り11︿﹁兵糠﹂という正当性v. と現段階ではおさえておきたい︒. である︒. る︒してみれば︑こう意味づけることができる︒領国内すべての食. を発動してそれに歯止めをかけ︑統制しようとしたと考えるのであ −史料K︼. 一聾. 糧を統制・管理しうる体制を創出するに至った戦争経済の下では︑. 寝一. 食糧に関わる問題︵貸借・売買から流通に至るまで︶はおしなべて. 一︑自言州越国一卯狼米運送由侯︑自今以後堅可相留之事︑ ︐史料L︼. ﹁兵糎﹂の問題として現出するのである︑と︒. なお︑﹁拙論﹂では﹁構造﹂に関わって︑﹁兵糠﹂の移動禁止︵兵. だりに﹂とある点に注目し︑この年の武田・上杉問の同盟成立によ. ていたことが推定できる事例として挙げた︒すなわち︑﹁卯﹂u﹁み. れ︑しかもしばしば禁止令が出されている他国への移出すら行われ. ﹁拙論﹂では戦争のために備蓄されておかれるべき﹁兵糠﹂が売買さ. ︻史料K︼は︑天正七年十一月二日の武田家朱印状写の一部である︒. 貼り1−︿﹁兵糠﹂という正当性﹀の発動によって行われている︒した. る﹁兵根﹂はすべての食糧であり︑これは﹁兵模﹂というレッテル. 1−すでに実態として﹁兵捜﹂であったものであるが︑移動禁止され. 搬送命令される﹁兵糠﹂は大名・領主側の蔵に貯えられた﹁兵糠﹂. をふまえた上で修正と補足が必要である︒つまりほとんどの場合︑. 指摘したが︑これについては右の﹁矛盾﹂で用いた史料の意味づけ. ︹而︺ 一︑年貢為納所俵物︑八幡山・小幡谷・松井田□□□運送商売不 ^弘︶ 可有役侯︑但他国一兵糠出儀者︑法度侯条︑可存其旨事︑. り武田領国から上杉領国へ稜米1−﹁兵線﹂が移出されはじめ︑武田. がって︑移動禁止と搬送命令は単純な裏返しではない︒領国内すべ. 糠留︶とその裏返しである搬送命令による﹁兵糠﹂の統制・管理を. も当初はそれを黙認していたが︑あまりにも﹁兵糠﹂が流出するの. ての食糧を統制・管理しうる体制といっても︑大名側の﹁兵糠﹂を. 二五. で移出禁止に至ったと考え︑﹁みだりに﹂まで至らない程度の移出は 戦国社会の戦争経済と支出.

(12) ︻史料M︼. 奉之. ある︒建前にすぎないとした点は現在でも同様に考えるが︑ここを. が他国へ流出しないようにするのはなおさら不可能と考えたからで. 国境を越えてやって来るであろうから︑盛んな商売のなかで﹁兵粧﹂. とんど意味をなさないし︑とくに他国に近い地域では多くの商人が. られることだが︑問題は﹁為無御印判﹂という部分である︒印判状. 名はこれを﹁神妙﹂として押さえ置いた﹁兵粧﹂百四俵を植松に与 ^包 える︑としたものである︒他国への﹁兵粗﹂移出禁止自体はよく見. 国へ移出されようとした﹁兵捜﹂を押さえ置いて大名に注進し︑大. ︻史料M︼は北条家朱印状である︒植松右京亮が法度に違反して他. 神妙二侯︑. 二六. 超えてこれらまで徴発しうるのはよほどの危機的状況であるわけで︑. 背御法度︑為無御印判他国几出侯兵根︑相押申上侯︑. 甲刺−﹂震朱印一. さらに掘り下げるのが重要である︒すなわち︑︻史料L︼で食糧の流. がないのに他国へ﹁兵糠﹂を移出したことが﹁御法度﹂に違反した. 清水. 通が大名にとって看過できない状態となったときに︿﹁兵糠﹂という. ということは︑印判状の内容は他国への移出許可と想定されている. 植松右京亮殿. ^36︺. 匝言. 一天正二年一. 押置模百四俵︑植松二出置侯︑可請取者也︑価如件︑. 統制・管理も段皆的こ把握する必要があるのである︒ このように考えれば︑︻史料L︼の意味づけもより明確になる︒こ. れは天正十一年九月晦日の北条家朱印状の一部で︑﹁拙論﹂では︑他. 国への﹁兵糠﹂移出を禁じているけれども︑一方で﹁俵物﹂運送商 売を役免除によって奨励しているのだから建前にすぎない︑とした︒. 領国内の食糧をすべて﹁兵粧﹂としうる体制下では﹁俵物﹂と﹁兵. 正当性﹀の発動により何とか歯止めをかけようとするのは︑︻史料. わけである︒しかしながら︑﹁兵模﹂の他国移出を許可するなどとい. 糠﹂を区別して一方の売買を奨励し︑一方の移出を禁止するのはほ. K︼と同様だが︑ここでは前述した政策矛盾の結果︑︿﹁兵糠﹂とい. う大名発給文書は︑印判状に限らず︑管見には入っていない︒移出 ︑. う正当性﹀の実効が期待できなく1まさに建前にすぎなく−なって. は食糧として許可されるのだと考えざるを得ないであろう︒すなわ. ︑. いるのである︒戦争経済のなかから成立した︿﹁兵糠﹂という正当性﹀. ち︻史料M︼は︑食糧の他国への移出が大名の許可を得て︑いわば. ︑. は︑まさにその戦争経済における大きな矛盾ーとにかく﹁兵糠﹂が. 堂々と行われていたこと︑ひとたび禁止の必要が出たときに︑それ. ︑. 流通に投下され続けなければならない−のなかで限界を露呈するわ. に﹁兵根﹂とレッテルを貼ってH︿﹁兵糠﹂という正当性﹀を発動し. ︑. けであり︑︻史料L︼はそれをよく示しているのである︒. て禁止していることを︑ふたつながら如実に表しているのである︒. ^35︶. これらの点に関わってもう一つ史料を挙げておこう︒. 彼.

(13) としてある﹁兵糠﹂と︑それを超えたすべての食糧︵潜在的な﹁兵. では︑﹁兵糠﹂の動きは大名・領主側の蔵に貯えられた︑すでに実態. 以上見たように領国内のすべての食糧を﹁兵糧﹂としうる体制下. 提とした困窮や貸借紛争に関して展開すべき論点もなお山積して. 追究していく必要がある︒また︑戦争経済自体はもちろん︑その前. に実態として蔵に貯えられている﹁兵糧﹂の動きなどを︑具体的に. た︒﹁兵糠﹂の問題はその二重構成を認識した上で︑たとえば︑すで. 二七. 一10一細かい点だが︑﹁拙論﹂で﹁食料﹂と表記していたのを以下﹁食糧﹂と改. ︵9一﹁武州文書所収比企郡要助所蔵文書﹂︵﹃戦﹄二〇二二一︒. 一8一﹁井上文書﹂︵﹃戦﹄一一〇二一︒. のように略す︶︒. ^7︶﹁原文書﹂︵﹃戦国遺文﹄後北条氏編三五九三号文書︑以下﹃戦﹄三五九三. ︵6︶峰岸注︵3︶論考︒. ︵5︶﹁討論要旨﹂参照︒なお︑この点後述︒. で︑配慮したい︒. された﹁拙論﹂のみを読まれた方には十分理解できなかったと思われるの. 一4一とくに︑前注の峰岸氏による批判は史料解釈と密接に関わるため︑活字化. 口頭のみで活字化されていないこともあり︑本稿では差し控えた︒. 氏が﹁拙論﹂への批判を行っており︑いろいろ言及すべき点があるのだが︑. 二〇〇一年七月一四日の歴史学研究会日本中世史部会例会において宍戸知. ︵3︶峰岸純夫﹁久保報告批判﹂^﹃歴史学研究﹄七五七号︑二〇〇一年︶︒なお︑. ﹁討論要旨﹂とする︶および次注参照︒. ︵2︶この点︑前注﹃歴史学研究﹄七五五号掲載の中世史部会討論要旨一以下︑. 論﹂の引用はとくに断らないかぎりこの活字化されたものによる︒. 目で﹃歴史学研究﹄七五五号︵二〇〇一年一に活字化された︒以下︑﹁拙. 一ユ一二〇〇一年五月二七日に行われた歴史学研究会大会中世史部会報告︒同題. 註. いる︒併せて別稿を期したい︒. ^40︶. 糠﹂といってもよい︶の︑いわば二重構成で考えられなければなら ^銚︶. ない︒﹁拙論﹂で﹁およそ戦国時代の総力戦においては︑人のみなら. ずモノの動員がいかに行われるかが鍵となる﹂と述べたが︑このモ ノの動員がいかに行われるかという点は︑いかなる正当性をもって 徴発←統制・管理するか︑といいかえることができる︒︿﹁兵糠﹂と. いう正当性﹀を発動される﹁兵複﹂の二重構成は︑まさにその問題 への戦争経済下における一つの解答であったのである︒. また︑このことにより︑戦争経済下で﹁流通・経済を統制・管理 する体制が形成され﹂﹁このあり方を最もよく体現しており︑した がって戦争経済で最も重要な存在が﹁兵糠﹂である﹂という﹁拙論﹂ ^39︶. の主張を補強することもできよう︒当時の流通・経済で中心的存在 であった食糧に関わる問題は︑戦争経済下ではおしなべて﹁兵根﹂ の問題として現出せざるを得ないのである︒. おわりに. 本稿は﹁はじめに﹂でも述べたように︑﹁兵根﹂の問題にしぼって. ﹁拙論﹂を補足・発展させたものだが︑しぼってもなお︑ほぼ峰岸氏 へのおこたえとく﹁兵捜﹂という正当性vの問題を論じるにとどまっ 戦国社会の戦争経済と支出.

(14) める︒. 力の問題である︒. ^u︶もちろん︑これは歴史学研究会日本中世史部会の責任ではなく︑筆者の能. ︵12︶﹁討論要旨﹂および本稿﹁はじめに﹂参照︒. ︵13一﹁拙論﹂で戦争経済における収取と年貢・公事を論じたところでは︑すで. にこうした表現を用いている︒. 一一八. た︒なお︑同日付・同内容で本間五郎大夫充てのものがある︵﹁古文書集乾﹂ ﹃戦﹄三六一〇︶︒. で﹁金沢之内称名寺﹂充て︑﹁福岡鳥越﹂充てのものがある︵﹁神奈川県立. ︵19︶﹁大阪城天守閣所蔵宇津木文書﹂︵﹃戦﹄三六二四︶︒なお︑同日付・同内容. 金沢文庫保管称名寺文書﹂﹃戦﹄≡六二五︑﹁新編武蔵国風土記稿入問郡十 一﹂﹃戦﹄三六二七︶︒. ︵20︶﹁妙本寺文書﹂一﹃戦﹄三六二二︶︒ 一21︶藤木注︵16︶論考参照︒. ^14︶この点と関わるのが︑﹁拙論﹂の報告討論において︑﹁兵糠﹂について﹁実. 態よりも意識の問題として捉えている﹂といった説明をした部分である. 平凡社︑一九八八年︑所収︑のち﹁村の隠物﹂と改題して藤木﹃村と領主. 一23一藤木久志﹁村の隠物・預物﹂︵網野善彦他編﹃ことばの文化史﹇中世1﹈﹄︑. い︒. ︵22︶もちろん︑念のため付言すれば︑領主の﹁兵糠﹂を含んでいてもかまわな. 期的変化については︑表面的な収取・徴発のあり方だけでなく︑むしろそ. 一﹁討論要旨﹂六七ぺージ︶︒これはいかにも不正確な表現で︑﹁兵糎﹂の時. れがいかなる論理に支えられ︑いかなる体制を可能にしたのか︑という点 が重要な問題になる︑という意味のことを述べたかったのである︒. の戦国世界﹄︑東京大学出版会︑一九九七年︑所収︶︒. いわなければならないのは︑︵富岡の兵狼に限らず一広く食糧を徴発するこ. 一25一﹁道祖土文書﹂一﹃戦﹄三二五四︶︑﹁武州文書所収埼玉郡名主治右衛門所蔵. ︵以︶﹁安得虎子十﹂一﹃戦﹄≡二四八一︒. 一15︶そもそも峰岸氏の文脈にしても﹁郷村に残る百姓の分は残せ﹂とわざわざ. とが前提されているからこそなのではないか︒. なのは食糧を城郭に集中して統制・管理することなのである︒集中したも. しまうわけではない︒当然のことながら避難・籠城する百姓も使う︒重要. あろう︒危機的状況下において︑不測の事態に備えなければならないから. だが︑郷村の側では︑それを超える相当量の﹁兵線﹂が必要と認識したで. ︵26︶そもそも大名が﹁時之食物﹂﹁種夫食﹂をどの程度許容しているかは不明. 文書﹂︵﹃戦﹄≡二五五一︒. のを具体的にどのように配分したかは今後の課題である︒なお︑こうした. である︒. 一16︶﹁徴発﹂といっても百姓たちの貯えを取り上げて領主・武士たちが使って. 問題について藤木久志氏は︑領主の危機管理の一環である戦時管理の問題 として捉えている一藤木﹁領主の危機管理﹂︿﹃駒沢大学史学論集﹄二二︑. ︵28︶. ︵27︶一部︑本稿でも後述する︒. 一拙著﹃戦国大名と公儀﹄︑校倉書房︑二〇〇一年︑所収︶および﹁拙論﹂. ﹁兵糠﹂貸しについては︑拙稿﹁戦国大名領国における高利貸と﹁徳政﹂﹂. ﹁雲頂庵文書﹂︵﹃戦﹄三≡九〇一︒. ﹁鹿島神宮文書﹂︵﹃茨城県史料﹄中世編−一四七ぺージ︶︒. ﹁国立史料館所蔵大川文書﹂^﹃戦﹄三〇一四一︒. 一九七五年V三七八ぺiジ︶︒. ﹁諏訪郡本郷村乙事区有文書﹂一金井圓﹃藩制成立期の研究﹄︿吉川弘文館︑. 一九九二年︑のち藤木﹃戦国史をみる目﹂︑校倉書房︑一九九五年︑所収V︶︒. ある︒藤木氏がこれを領主がいわば本来的に有する責務とするのに対し︑. 危機的状況における統制・管理という理解は﹁拙論﹂および本稿も同様で. ﹁拙論﹂および本稿はそれを可能にする正当性の成り立ちを戦争経済のなか から考えているのである︒ ︵17︶﹁上毛伝説雑記拾遺三﹂︵﹃戦﹄三五八九一︒. ︵18一﹁大阪城天守閣所蔵宇津木文書﹂︵﹃戦﹄三六〇九︶︒一部句読点を打ちかえ. 32 31 30 29.

(15) 参照︒. 一弘︶﹁高井和重氏所蔵文書﹂^﹃戦﹄二五七七︶︒. ︵33一﹁諸州古文書﹂一﹃信濃史料﹄十四巻四六〇ぺージ一︒. 一36︶﹁稲村徳氏所蔵植松文書﹂一﹃戦﹄一七〇八︶︒. ︵35︶﹁拙論﹂参照︒. うである︒天正二年七月四日の北条氏光朱印状^﹁稲村徳氏所蔵植松文書﹂. ︵37一もっとも︑後日になってこの﹁兵糠﹂は別人に与えられることになったよ. ﹃戦﹄一七二︶参 照 ︒. 糠﹂が戦争経済においてもっとも重要な問題であるといいつつ︑その意義. 一38︶﹁拙論﹂では︑この二重構成を明確に示すことができなかったため︑﹁兵. を狭く受け取られる傾向があったと考える︒ ︵39一戦争や飢饅による飢餓が重大な社会聞題であった状況では︑このように措. 定することができよう︒ただしその具体的検証は︑筆者にとって今後の課 題である︒ ︵40一﹁討論要旨﹂および峰岸注︵3一論考参照︒. 戦国社会の戦争経済と支出. 二九.

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参照

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