「妖僧」彭瑩玉 - 元末西系紅巾の乱の宗教的指導者 - に就いて
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(2) 本稿では残存する断片的な史料に、もう一度整理・再検討を加えながら西系紅巾軍の叛 乱に大きな影響をあたえた彰螢玉和尚について考察する。その際、特に螢玉の説く宗教の 特質やその系統を中心に考察を進めていきたい。これによって、今なお不明瞭な部分の多 い彰流玉和尚の実像に迫り、一般に「白蓮教徒の乱」と規定されている元末の民衆叛乱(紅 巾の乱)の宗教性についても合わせて論考できると考えるからである。. 註. (1)元末の並巾軍勢力に対して東系・西系という呼称が一般化してきたのは、1970年代以降 である。参照=拙稿「紅巾の乱研究の動向と課題」r東鞭訪』倉1刊号兵轍献学食洋史確会編1995年. (2)葉子奇r草木子』や幽霊r平胡録』などに「妖彰」・「彰翼」という記述がある。また鏡謙. 益r國初璽記事略』所引の田本r皇明紀事録』には「彰祖師」と書かれている。彰螢玉 にはこのような幾つかの俗称がある。但し、これらの俗称が全て螢玉を指しているの かについては、今後検証の必要があると考えている。. 第一節 彰榮玉和尚の出自について 彰螢玉について一番詳しい記述が残されているのは、権衡の『庚申外史』全2巻である。 この書物は1369年(洪武2年)頃完成し、蓋しr野史』順帝本紀の基礎史料となったとされるも. ので、挙句紅巾の乱の研究にとってはなくてはならぬ基礎文献である(D。著者権衡は江 西省吉安の人であり、吉安縣は彰螢玉の出身とされる江西省衰州(晒省酬舵春縣)或いは湖南 省測陽(瀟省長沙艘騰)に比較的近い位置にあり、元末の戦乱を避けて28年間黄華山(瀟紅雲の西). に住み、明初に江西に帰り、聖運玉らと同じ元末明初の激動の時代を生きた民間の学者で ある(2)。この史料には、至元4年G338年)の周子旺の乱に続けて、彰螢玉の出自について、 次のような記述が見られる。. 螢玉本南泉山慈化寺東邨荘民家子。寺僧有姓彰者年六十飴歳、善観氣色。 一夕早雪、見寺東町二十丈紅焔半天。翼日、召其荘老訥之日、 「昨夜二更時、汝邨中得無失火乎。抑有他異事乎。」 内有一老臣、「血中無事惟西下言詞生一見。」. 僧遽喜日「易與我爲徒弟可乎。」 老遂捨細論。干是、遂融融吊若干酬之。 其子年十歳、堆黒入寺、與塁從嬉。時預言禍福皆実。年十五、南泉山下、忽産一 泉甚洌。是時民皆患疾疫、螢以泉水施之、疾者皆愈。以故衰民翁然事之如神。 及事敗逃准西、潅民聞其風、以故箏庇之、卒不爲有司所捕獲。. この史料で彰螢玉は、衰州南泉山慈化寺の東邨荘の民家の子として生まれたとある。お そらく慈化寺に付随した荘園で働く農家の子供として生まれたのであろう。そして慈化寺 に彰という姓の六十鯨歳の僧侶がおり、観気の術に長けて吉凶を占うこの老僧は、螢玉が 生まれた時、自分の見た紅焔半天の様子から、榮玉に不思議な能力があることを見抜き、 徒弟として収養しようとした。手玉は十歳の時、初めて寺に入り、禍福を預言したところ. 一12一.
(3) よく当たり、十五歳の時、南泉山下で洌水(清水)が出ると、その泉水を用いて疫病に苦しむ. 入々を治癒したので、衷州の人々は、螢玉に仕えること神に仕えるようであった。それ故 に、高州で徒弟の周子旺とともに乱を起こして失敗した後も、四六(潮の上流、当時の繭江北行省嘱した). に逃亡したが、潅西の人々は螢玉の風聞を聞いて、争って油玉を庇護したので、官憲も彼 を捕獲することができなかったというのである。. このr庚申外史』の記述は、極めて貴重で、この他に彰螢玉の出自に関して述べられた 史料は見当たらない。この史料記述から彰螢玉について、次のようなことが指摘できる。 ①彰螢玉は、江西:衰:州府南泉山慈化寺の僧侶であった。. ②彰螢玉に強い影響をあたえた人物として、慈化寺の「彰」という老僧があった。 ③彰螢玉の「彰」という姓も、この老僧から受けた可能性が高い。. ④彰螢玉は吉凶や禍福を預言し、鉱泉を用いて民衆を治癒し、民衆の信望を集め ていた。その行為は呪術的性格を含むものと言える。 ⑤呼野玉は周子旺の乱の失敗後、潅西に逃亡した(3)。また東邨荘(慈化寺)から衰民 (晒灘の民)へ、そして准民(瀦緬の民)へと彰螢玉の宗教信者の拡がりが看取される。. 以上の①から⑤の事項は、「西六識巾」の指導者“彰螢玉和尚”の考察上、基本的に押さえ. ておかなければならない事である。したがって、これらの諸点に留意しながら次節におい て彰螢玉和尚の宗教の特質について考察する。 註. (1)平凡社rアジア歴史事典』別巻r東洋史料集成」明代の項. (2)平凡社rアジア歴史事典』巻3 r庚申外史』の項p257 (3)彰螢玉が、なぜ潅西へ逃亡したかを考察する必要がある。元朝官憲の捕縛を逃れるた. めには、わざわざ危険を犯して長江を渡って元朝の口裏(轄籠瀧)に近い河南潅西に逃 亡するより、湖南・江西・福建などの江南地方の方へ逃亡するほうが無難と思われる。. この背景には河南潅西一帯が、伝統的に弥勒教匪の活動が盛んな地域であったことが 指摘できるのではないかと考えている。後述する本稿;第二節(四)・(五)での凸坊厩・郭菩. 薩の乱、棒胡の乱等参照の事。. 第二節 彰螢玉和尚の宗教について (一)問題の所在. 戦前、元払の紅巾の乱を本格的に研究し、その後の紅巾軍研究に大きな影響をあたえた 重松俊章氏は「(弥勒教匪は)元末の大名期には白蓮教匪の勢力と混合して活躍を続け、そ. れ以後は実際上、白蓮教中に包含化され独立の存在を認められないようになった。元末大 齪期の紅巾軍(又は紅軍、義軍)と称するものは概ね斯かる弥勒教その他の更生佛(出面佛の. 如き)品評と白蓮教匪の混合團体の別名に高ならぬと考える。」とし、また「元末大晶晶を. 一期として弥勒教會が白蓮教會と混合同化して、思想的に白蓮教がこれによって援充強化. 一13一.
(4) されたと考える。」と述べられた。このことを踏まえた上で「元末の紅巾軍には江西衰州 の妖僧虚語玉の弥勒直系と河北豊州皇城の韓山童等の白蓮教系に分類することができる。」 とし、弥勒母系の彰螢玉や愚存輝・郷普勝らの紅巾軍については、その起越した地名から. 斬黄派と呼んだ。重松氏は続けて、r草木子』やr明実録』の史料を根拠として「この斬 黄派の紅三軍は彰螢玉らの弥勒教匪を代表せるもので、彰螢玉は弥勒佛の再来や劫運転生 を説く本来の弥勒教頭に属していたことはほとんど疑いの緑地がないようである。」と述 べ、「河北の白蓮教主韓山童の教旨を奉じる劉福通・杜遵道の紅巾匪とは多少系統上の差別 が認められる。」とした。そして、「天心(徐浮寝)と龍鳳(小明王=韓林児)が元朝打壊の二. 大張本であり、これらが紅自軍の二大系統である弥勒教派と白蓮教派を代表せるものと考 えらる\事は洵に興味津然たるものでなければならぬ。」と述べられている(D。. これらの見解から考えると、重松氏は弥勒教と白蓮教の混合を述べながらも、それが包 含化されていくのは元末大能義以後であるという立場にたって、彰螢玉や徐壽輝の斬黄派 の紅血軍(西北輝)については、白蓮教ではなく、弥勒教派の蒲扇軍として規定し、韓悪心、 劉旭通らの白蓮教派の翻身軍(東魏輝)と明確に区別して捉えていると言える。そして、少. なくとも元末の彰螢玉らの弥勒教を独立した存在として認識しているのであり、白蓮教に 包含化されるとしてこれと同一視して論を述べているのではないと言えよう。 しかし、東系・西系西元軍の宗教系統については、鈴木中正氏が重松氏の説を否定し、 西系紅心止を白蓮教系する新説を発表するなど見解に相違がみられる(2)。戦後1950年代. から1960年代始めまでは重松氏のように宗教系統上差異があるとして区別してみる説が主 流であった。しかし、1970年代頃から、農民叛乱と宗教の問題に対する関心が高まり、白 蓮教の研究も盛んになってくると「紅巾の乱;白蓮教の乱」というイメージと弥勒下生信仰. と白蓮宗の習合の面が強く主張され、二つの系統は認めても森末の弥勒教の存在を独立し たものと見なさず、宗教的には両系統とも白蓮教であるとし、「白蓮教」という範疇の中 で論じられてきた傾向がみられた(3)。. 確かに河北の韓山童にはr唾壷』巻42順帝本紀5に、「白蓮會を以て焼香し、衆を惑わ す。」という記事があり、同書巻186張虚伝にも、. 頴上之冠、始結白蓮、以佛舌偏衆、終飾威権、以兵抗拒、視其所向、駿駿可畏、 其勢不段畑亡吾社稜、儘吾国家七福也。 とあり、この派の紅巾軍を白蓮教系統ではないかとする史料的根拠が存在する。しかし、. 彰露玉や迫台輝の山越軍にはこれをはっきり白蓮教系統とする明確な史料は無いのである。 r元史』巻42順帝本紀5にも、 (至正11年)八月 斬州羅田下人声貞一、名壽輝、與黄花富盛人証斎言等以妖術陰謀聚衆、. 電電兵爲齪、以紅巾爲號。 とあり、「妖術」としか記載されていない。r元史』の編纂の中心人物は朱元璋のブレーン で高名な儒学者であった宋濠(1310年∼1381年)であり、この両派の紅巾軍に対するr元史』. の記述が明確に相違するという点を看過するわけにはいかない。. 筆者は、彰螢玉や徐壽輝らの紅巾軍の宗教性が共に「白蓮教」という範疇の中で論じら 一14一.
(5) れてきた傾向の要因として、韓山童が白蓮會を主催し、彼らの集団が元末紅巾の乱の幕を 切って落とし、その系統から明の太祖朱元璋が出たために、口元璋研究の進展と共にこの 系統が重視され(4)、「紅巾の乱」はあたかも全て「白蓮教の乱」とするイメージが印象づ けられたためではないかと考えている。. さて、彰螢玉和尚の宗教を考える際に看過することができない存在は、その出身とされ る”江西省衷:州府南泉山慈出品”である。先にr庚申外史』巻上に書かれていたように、彰. 螢玉は前前寺の東面荘の民家の子として生まれ、十歳で慈化寺に入ったとあった。彰螢玉 の思想並びにその背景を考察するためには、彼が出家したとされる慈化寺について、是非 とも考察する必要がある。然るに今までの研究者は、この点を充分に考察していないので ある。それ故に、彰萱野の宗教の特質に迫る方法として、この衷州膨化寺についての考察 から始め、南宋時代この二化寺に住持した僧侶で、当時の民衆に大きな影響をあたえた“ 普庵禅師”、彰螢玉が初めて蜂起を扇動した至元四年(1338年)の“周子旺の乱”等を中心に考. 察し、さらに“元代白蓮教會の動向”にも注意しながら彰螢玉和尚の宗教の特質について考 察していこうと考える。. 註. (1)重松俊章「宋元時代の紅巾軍と元末の弥勒・白蓮教匪について(上)・(中)」 r史淵』24號、 26號 1940年∼1941年 (2)鈴木中正r中国史における革命と宗教」 第5章元明靴と鑓教東下学出版会1974年. (3)例えば鈴木中正氏は前掲書のなかで、韓山童等の東系紅巾の乱と彰螢玉・徐壽輝らの. 芳野紅巾の乱について、「二つの集団が同様に白蓮教の乱とよばれながらも」と書かれ、 相田洋氏も「白蓮教の成立とその展開一中国踪曜鞠想の繊一」『中国民衆反乱の世界』玉974年. の中で、「元末の白蓮教には韓山童・韓林児の派と彰螢玉の二大派があるが、これら二 大派は同一のものか、別系統のものかも、全くわからない。」(P工75)、「彰氏系の白 蓮教では、至正11年に徐壽輝を皇帝に、(以下賂)」(P183)、「彰氏系の白蓮教の一派 である明玉珍などは、(以下略)」(P184)と書かれている。また、宮崎市定責任編集. r世界の歴史6宋と元』中舩調1961年P417一一P4Bには「劉面通の相棒である訳出輝 は揚子江を渡って江南に入り、湖南、江西地方を征服して大勢力となったが」と書か れ、続けて「これら白蓮教系統から立った反乱のほかに闇商人系統から起こった反乱 軍がある。」として道士誠や方国珍に言及していく。因みに徐壽輝が劉福通の相棒であっ たということは史料的に立証されたものではないし、そのような連携があったとは思 われない。 (4)例えば田村實造氏は、「感厚軍:としての本命は白蓮教系の龍鳳政権であった。」 「元末. の反乱とその性格」r中国征服王朝の研究(中)』1971年、「並巾軍には河南、山東、江准地. 方に割拠する東忌詞巾軍と湖北・江西地方を地盤とする西二三巾軍の二つの系統があり、 紅巾軍としては東方系が本命であった。」r世界の歴史9』(中央公論社)1961年と述べられて. いる。田村氏が「本命」という言葉をどのような意味で使用されたのかよくわからな いが、氏が裏罫紅巾軍を重視していることは理解される。しかし、先に挙げた氏の二 っの論考も、西系紅巾軍の宗教性については、ほとんど論及がない。. 一15一.
(6) (二)慈化寺山. 慈化寺は、元の江西行二二州府の行政下 江西衰州府地図(『正徳哀州府志jより). に属していた。衰州府は三春縣・二三縣・ 二郷縣・萬載縣の四つの縣で構成され、. 下府は宜春縣にあった。明朝の武宗・正 徳年間q506年∼1521年)に書かれたr正徳. 衰州府志』によると、衰州府の地理は左 記の如くである。. この衰州府の地図をみると、二化寺の 地名があり、明代中期もその活動が行わ れていたことを示している。明の世宗の 丁丁年間(1522年∼1565年)に書かれた「嘉. 靖衷州府志』の巻一二三志第二には、 又西八十里二三泉山(二二二二持地、有慈二二。) とある。またr平胡録』の著者として有名な明の陸深(1477年∼1544年)の『三章漫抄』巻二 には、次のようにある。. 衰州萬載縣西北行百里、有慈化寺、爲普庵道場。. これらの史料とr正徳衰州府志』の地図からみて、二化寺は衰州府宜春縣から西八十里 の南泉山の中にあり、二二縣からは西北に百里行った所にあった。そしてそこは普庵とい う僧侶の地であり、また”普庵道場”と呼ばれていたことがわかる。陸深は先の引用文につ づけて、慈化寺について次のように記している。. 周回蝕甚爲宏闊、四囲皆山面、浸池水如半月、有二十四寮僧衆至二三千。正殿深. 十八丈鯨。後園中有側栢甚奇。 [中略] 山山二二普庵手植、乃倒栽之。 此難壷信。. これによると慈化寺は、広い敷地を持ち回りを南泉山の山々に囲まれ、寺院内には池が あり、その池は半月のような形をしていた。ここでは、これから僧侶として修行する者の ために二十四の寮があり、修行僧侶の数は、二・三千人という多さであった。また二化寺 の正殿は奥行きが十八丈(一丈3.11寵として、約56のあり、その後園には、奇怪な栢の木があり、 それは商議が植栽したといわれ、その植栽の仕方は根と茎を逆にして(普通の植え方とは逆に)植えた. ので、これを「倒栽」といったという。陸深はこれを悉く信じることは難しいと記した。. 引用史料はいずれも明代中期のものではあるが、これらから考察するに、二化寺は広大な 敷地の上に正殿を中心とした各種の建物を配し、多くの修行僧をかかえた大きな寺院であっ た。慈化禅寺ともいわれ、住持であった普庵がもともと臨済宗の僧侶であったことを考え るとq)、禅宗系統の寺院であったと思われる(2)。それは、国家から弾圧を受けたり、危 険視されるような秘密宗教を養成するような寺院ではなかった。また後述する普庵(1115年 ∼1169年)は慈化寺の衆徒の要請をうけて、二化寺の住持になったのであり、このことから. 一16一.
(7) 慈化寺そのものは、普庵が住持になる以前から存在していたことになる。即ち南宋の茅子 元(1086年∼l166年)が白蓮宗を唱導する以前から慈化寺は存在していたわけで、少なくとも. 白蓮宗や元末の韓山童などの白蓮會などとは、ほとんど関係のない寺院といえよう。 しかし、彰螢玉はこの慈六出で学び、「禍福を預言して皆験あり。」とか「泉水を以て之 に施し、疾者皆愈ゆ。」(r脚鰻』巻上)ということなどを通して、民衆の信望を厚め、やがて. 周子旺の乱を扇動し、ついには徐壽輝・郷普勝らと”山系雨冷の乱”を起こし、元末の江南. 社会を激動の時代へと導いていった。感化寺からこのような「妖言」といわれる人物が出た. ことは、もちろん当時の激烈な社会不安が背景としてあることは言うまでもないが、もう 少しこの事を検討していくためには、先ほどの史料にも出てくる慈心寺に住持した”普庵’. という僧侶が、どのような人物であり、どのような宗教的影響力をもっていたかを検証し てみなければならない。なぜなら、普庵は南宋初期の人ではあるが、彼を検証することに よって南宋から元代にかけての江西衰州府を中心とした地域の一つの宗教信仰上の特色を 見ることができるからである。. 註. (1)r仏教大事典』 小学館1988年、r望月佛教大辞典』増訂版1974年、各普庵の項参照。. (2)r正徳衰州府志』巻五寺観の条には、興国禅寺、太平興国禅寺、報親顯慶禅寺などの. 名が見え、衰州府一帯で禅宗が影響力を持っていたことが伺える。この傾向は潮って 元享の時代でも変わるものではなかったと思われる。本節;次項(三)註1参照の事。. (三)旧庵について 普庵(1115年一一一1169年)は、宋徽宗政和五年(1115年)に江西衷州府宜春縣に余氏の子とし. て生まれ、南宋孝宗乾道五年(1169年)七月二十一日に五十五歳で寂に入った。彼の伝は前. 出のr嘉靖哀:州府志』巻10雑志のほか、元僧念常のr佛祖歴代通載』巻20や明僧の覧岸. r繹氏稽古略』巻4などに残されている。今これらの史料をもとにして、旧庵について考 察してみたい。. 「丸正歴代通載』巻20、r繹氏稽古略』巻4などによると、南宋紹興四年(1134年)八月、 二十歳にして壽二院賢公に従って出家し、紹興十一年(l141年)四月落髪し、明年受戒して. いる。普庵は「師、容貌魁偉にして、智性凸部なり。賢、これを器とし、勉めて法華を読 ましむ。」とあるように特異な容貌で、智性巧恵であったため、吐出は彼の才能を認めて、. 特に法華経を読ましていた。しかし、やがて仏の玄旨は心を了悟するにあることを知り、 二品のもとを辞して、しばらく湖湘(湖北・瀟滞)に遊学し、牧庵忠禅師(名は灘)(Pに会って省 (内省、自身の心をふりかえるの意)を得、再び壽隆院に帰った。紹興二十三年(1153年)、要請を受けて慈. 化寺の住持となったが(2)、慈化寺に住してからの普庵の様子をr佛祖歴代通載』は、次 のように記している。. 一17一.
(8) 住持布裳紙衣、農粥虚心。禅定外、唯閲華厳経論、一日大悟。 [ 中略 ] 至品品語誌衆。部面随宜爲訟訴書偶與之、有病患者言草爲薬與之、即愈。或有疫 魚油 不相恩来者、與之頬、心得十全。至於祈穣雨陽、伐怪木殿淫祠、霊活非一。 普庵は華厳経を閲して大悟し、雨乞を説き、偶を作って授けたりした。その教えの基本 は華厳経にあるといえる(3)。また、病気の者があれば草を折って薬として与えて治癒し たり、台臨ありて人の往来せざる者(伝染病などに乱む人の意)には、頗を与えると悉く十全(100%回復). した。その他、立直を祈穣したり、心木を伐って淫祠を畏つなど霊磨は一つではなく、そ の質素にして気取らない庶民性も手伝って、彼を慕い溶化寺に尋ねる人々は非常に多かっ たという。それは、r嘉靖衷:州府志』巻10雑志にも、. 築高直函嶺日普庵、四方慕道者益衆。 とあることからも伺うことができる。このように面心を慕うものが多かった第一の要因は、. 先の史料にあらわれた詠出や薬草などをつかった除病盤面の雨滴にあると言える。また彼 は、同じくr嘉感応州府志』巻10雑詠に、 「遂に能く黙して勢に記し、未来の事を通知す。」 とあるように、所謂、預言的行為を行っていた。. これとは別に、先に引用したr佛祖歴代通載』巻20の史料の[中略部分]には、普庵が 華厳経論を閲して一日大悟した後、頗を作りその一句に「惹得胡僧特地来」と予言し、果 たしてある雪の日に道存(4)という僧侶が普庵を尋ねて、互いに笑い或いは喝しながら問 答をした際に、道存は直面に対して、. 「r師は再来の人なり。久しからずして當に吾が教を興すべし。』 雪を指して頒を書き、而して行く。」 と云ったとあり、また出山は、枯木を救うたびに衆に示して、次のように語ったとある。. 「諸国出世せず、出た浬葉有る無きや。吾が室に入る者は、必ず能く元契をなさん。 善く自ら護持して退出せしむること無かれ(5)。」. 時代が少し前後するが、五代の時代(907年∼960年)には乱世を反映して藩鎮・群雄の間に. 迷信が流行し、彼らは符命図藩法を盲信し、これらに仮託した妖教徒を民心収撹の一方便 に利用して天下統一を図ろうとする者も現れた。弥勒佛の化身とされた布袋和尚が現れた のもこの時代である㈲。この傾向は宋代も続き、「北宋の太祖趙匡胤は定光佛の化身であ る。」という説も云われた。北宋から南島にかけての時代は、燃燈佛(胱佛)や弥勒佛などの. 更生佛再来伝説が社会に浸透していった時代なのである(7)。. このような社会背景を考慮しながら、道存の「師は再来の人なり」という言や普庵の 「諸佛出世せず、湿た道面有る無きや」という言をみると、彼らの中に佛の再来や諸藩出 世を期待する心理が働いていたことは否定できない。司直の言う「諸佛出世」が具体的にど のような佛を指していたのか断定はできない。しかし、佛教では過去を燃燈佛(定光佛)が掌 教(教えを髄する)し、現在を釈迦佛、未来を弥勒佛がそれぞれ面一するという教えがあり(8)、. 畢寛佛教の輪廻転生の思想から来る佛や菩薩が衆生救済のために、適宜姿を変えて他所に 現れるという化身・権化の考えは、弥勒浄土(躰浄土)の信仰に基づくものが多いのである(9)。. 一!8一.
(9) また、弥勒教は華厳宗や真言密教のような縁起論系統に属し、日本の佛教史上からも弥勒 浄土を説くものの多くは、華厳・真言の如き南都佛教の側に限られること(lo)などを併せ. て考えると、普庵が華厳経によって悟りを開いたこと、「必ず能く元三をなさん」という 「元契」とは、普庵と門徒信者の浬繋往生についての契りの事と思われ、弥勒佛が梵語のMa itreyaの音訳であり、それはゾロァスター教のミトラ(Mitra)に由来し、「契約」や「約束」. を意味する言葉であったとされることq1)、彼の住した二化寺が、名称的に弥勒佛(”Mait reya”一”. 恷=謳m慈なるもの”)と無関係とは思われない名称であることなどから言って、. 二藍の教えやその「乱丁出世」の指す二二の対象のひとつに”弥勒佛信仰”があった可能性 は極めて高いと言えよう。. このように二化寺に住持した普庵について考察してくると、二化寺は基本的には華厳経 を旨とした臨済宗系統の禅寺であり、旧庵死後の元代・明代も引き続き発展していったと. 言える。しかしその一方で、南宋後半から元代にかけて、普庵の禍福の預言・除病除災の 三鷹や諸佛出世の観念が次第に世間に広がり、一般民衆にとっては特に二三の了すさまざ まな除病除災の二二が民衆の救いとして「二三信仰」を形成していくようになった(ユ2)。 そのような意味では、普庵は弥勒佛下生信仰にみられるようなメシア(救駐)的要素を内包. していたと見なしてよいと考える。但し、それは当時の南宋王朝側をして危険視させるほ どのものではなかった。しかし、それはまた二二のような混乱した社会不安の中では、王 朝側から危険思想とみられるような信仰に転化していく要素も兼ねていたと言わねばなら ない。ともかくも高話の霊磨に因を発する「高話信仰」は、衰州府のある江西だけでなく 長江流域全体に、その影響は浸透していった。それは、元朝第2代三二(1294年一一一1320年). の大徳4年(1300年)、普庵が”大徳二二”と重認され、第4代仁宗(1311年一一一1320年)の延祐3. 年(1316年)にも三二され、さらに明朝の永楽17年には”菩薩號”まで加認されていることで も頷ける(13)。特に元の二二の時代には、普庵の像を建てて安置する寺院(甑二二二三の譲寺). や「普庵信仰」を崇拝することによって航海上の風濤や災難から身も守ることができるとい うこと、即ち二刀を”水神”として祭る傾向が民衆の間に広まっていたことでもわかるq4)。. つまり南宋から元代を経て明代に至るまで、普庵の除病除災の霊磨に基づく「普庵信仰」 は、一般民衆の間に根強く行われていたのである。. 二三玉は、r庚申外史』の記述をもとに類推すると、普庵死後の約130年後、即ち元朝の. 中期、14世紀初頭に二化寺に入った。その修行時代は、第2代成宗の治世後半から第3代 武宗を経て第4代三品の時代(1311年一一一1320年)に適合する。つまり元朝によって普庵が重. 誼されたり、漸江省の二二寺に普庵像が安置されるなど、普庵に対する民衆の信仰が、益 々浸透拡大していく時期に彰二二は二化寺に入った。したがって、彰螢玉和尚がこの「普 庵信仰」の影響をうけないはずがないと考える。その具体的論拠は、以下の諸点である。 1.普庵と同じように「禍福を預言」したり「泉水を以て、二者を治癒した。」(r庚申外史蜷上). など除病除災の霊感に通じ、民衆の崇拝を受けていること。 2.彰螢玉は「能く偏頗を爲りて、人に勧めて弥勒佛號を念ぜしむ。」(r草粁』巻三二篇)など. 弥勒佛下生信仰を唱えているが、普庵も能く雨漏を爲って門徒に与えており、また. 一19一.
(10) 「諸佛出世の言」が毒り、その諸島の対象が弥勒佛である可能性が高いこと。 3.普庵はその死後、生前の除病除災の霊慮の多さにより像を作って祭られるようになり、. 元代には、航海上の風濤や災難から身も守る水神としての性格も帯びてきた。彰螢玉 や塵事輝の西翠紅陰型集団には、侃文俊、趙下刷、陳友諒などその出身に長江流域の 水運や漁業に従事していた人物が多いこと。(このことは、彼らの中に水神としての噌麟抑」があり、彼らが舗と同憾 化寺出身で普庵に似た預言や除病除災の験の多い故に、二二玉の叛乱に参加したという推湖を可能にする。). また以上の論点に加えて、彰螢玉は後述する心元四年の徒弟周子旺の叛乱に際して、「寅 年寅月忌日寅時」に蜂起し、叛徒に「虚者背心皆書画字、以為有佛字刀兵不能傷。」といっ. た呪術的行為を施している。このように考察を進めてくると、漁期玉和尚の説く弥勒信仰 などの宗教的背景には、少なからず普庵がよく偶頬や薬草によって疾病せる民衆を治癒し たような除病下野の霊磨に倣うところと、その宗風をうけた江西衰州府慈野寺の影響があ ると言わざるを得ないのである。. 註. (1)明の覚岸のr船舶稽古略』巻四、元の念常r窓越歴代通載』巻二十に傳がある。これ ら参考に普庵の法嗣を示すと以下のとおりである。 臨玄義玄(9世紀剛1以)から六伝 → 楚円(翻櫛)986−1049 → 楊岐議会(甑銅猿州 髄舗の人)992−1049 → 白雲端禅師 → 五塵法演禅師 → 清戸(佛眼遠藤)五祖法演門下. の三佛のひとり→ 牧庵豊富禅師 → 普庵禅師. この中で特に注視されるのは楊表方会で、宋代以降の臨済宗の主流はこの楊岐派であ り、日本の禅宗24流の内、20流がこの派である。また、楊前方会が普庵と同じ衰州府 宜春縣の人であり、衰州府楊岐山普通禅院で布教し、禅風大いに振るうとあるから(酬 =「仏誕験』小学館1988)、江西省衰州府一帯で禅宗が盛んであったことは前項の註(2)に加. えて、このことからも指摘できよう。 (2)『佛祖歴代通載』巻20に「紹興癸酉間、有隣寺慈化者衆請住持。」とあり、『繹氏稽古. 略』巻四にも「有隣寺日慈化。」とあるから、普庵が出家した寿隆院と慈化寺は隣寺の 関係であり、寿隆院も江西衰州府にあったことがわかる。 (3)r正徳衰州府志』巻12芸文3詩に、「南泉丈室」という題の七言絶句があり、その最 後の一節に、「郵貯、曽男時華厳。」とある。これは、南泉山にある慈化寺で華厳経が 画調されていたことを示している。 (4)道存については、この『佛祖歴代通載』巻20の記事にも「胡僧」とあるが、これに関 訂して、『繹凶音古謡』巻4や『嘉靖衰州府志』巻10に、胡僧(異僧)が珪化寺に普庵を. 訪問し、互いに問答したとあるから、漢人の僧侶ではなく、西域出身で南宋時代中国 に来訪した僧侶であったと思われる。 (5)『繹氏稽古略』巻4によれば、この言葉は普庵が寂する乾道5年(1169年)7月21日に 衆に示して云ったとある。 (6)重松俊章 「唐宋時代の弥勒教旨∼附、甦佛鞭∼」 『史淵』3號1931p88, p90, p100. (7)重松俊章 「乳糖時代の弥勒教匪∼附、甦佛鞭∼」r史淵』3號1931p89. p玉Ol,pIO2. 中国では唐末五代時代の漸江輪回明山の布袋和尚が岳林寺で寂した時、その遺偶に よって弥勒佛の化身であるという信仰が民衆に広まった。それ以来、今でも中国の弥. 一20一.
(11) 勒佛は太鼓腹の布袋の座像で描かれている。筆者が1995年4月、四川成都文殊院に於 いて見た弥勒佛像も正にこの座像であった。この布袋和尚は吉凶や晴雨をよく占い瞼 があったと云う。また、重松氏前掲論文P101の註には、宋の洪遇のr夷堅志』(乙志)が. 引かれ、 仙井監蘭池郷民鮮述病死。遇故人曹惟吉日「有郷民在、可勿憂。」、日「準準。」、 日「虞大博、今判更生道、明日爲更生佛 。」 [ 中略 ] 日「大慈大悲、更 生如来。」 時、紹興十八年(U48年)六月二十六日。. とある。重松氏は「死者が冥土において更生道の判官となり、更生如来に任命せらる るなど、仏典の更生佛伝説の脱線ではあるが、いかにこの思想が当時の社会民衆の間 に汎浸普及していたかの一傍証となるであろう。」と述べられている。 この紹興18年(1148年)は、書判普庵の在世中の時代である。その他r繹氏稽古略』 巻4によれば、普庵の生存中の紹興21年q151年)は”釈迦文佛入滅至是二千一百年”と. ある。以上のようなことから、普庵の活躍した南港時代も前代からの佛の転生再来に 仮託する更生佛思想は汎浸普及していたといえる。『 (8)鈴木中正編r千年王国的民衆運動の研究一嘱・繭アジアにおける一』東京大学出版会1981年. (9)重松俊章「唐宋時代の弥勒教匪一差、甦蝋匪一」r下墨』3號1931年P69 (1(})重松俊章「初期の白蓮教會に就いて一早掻律中綱緻會一」肺病鈷稀言己錬潮論叢』1933年P362、367. (11)相田洋「白蓮教の成立とその展開一中国殿嬢鞠想の激一」『即断飯匙の世界』1974年P161. (12)織田得能著「仏教大辞典』には、「普庵は臨済12世の孫、牧世法忠禅師の法嗣なり。. 道場の盛んなること天下に甲たり。没後、霊あり。凡そ祈るとあらば、その応、響の 如し。 [中略コ元仁宗延祐年中、普庵像を安置し、士民翁然として冥応を求む。」 とある。. (13)『嘉靖衰州府志』巻10雑志には、永楽17年とあるが、前出の『仏教大事典』ノ1、学館198. 8年r望月佛教大辞典』再版1974年などには、永楽18年とある。. また元朝仁宗の延祐3年の加筆については、「繹氏稽古略国国』巻1に 勅封普庵禅師嘉號詔旨。 [ 中略 ] 朕自即位以来聞。衰州路南泉山慈化 禅寺普庵[中略]禅師、紹臨済之緒、超華厳之境、徳映當代、一働方塔、其道甚 爆撃、心霧慕之。既累賜大詮。惟塔號未構可加定光之塔、日定斐川瑞之塔云云。 とあり、本文で述べた普庵の除病除災の霊慮による高名がいかに当時の士大夫階層か ら一般民衆にまで影響力を持っていたかは、この史料で仁宗が、. 「徳映當代、澤町方来、其道甚尊前、心霧慕之。」 と絶賛していることに端的に現れていると言えよう。 (14)参照;前出『望月佛教大辞典』瀞版「普庵」の項1974年. この:水神信仰については、古林即製氏の「判別の長江流域における水神信仰」細囎 r中国水鞭の硫』1995年囎刊行会カミある。この中で古林氏は陸游のr春野記』の紀行内容など. を基に長江流域の水神信仰を考察している。その一部を簡単に紹介すると、「まず馬 当(江西酬)・采石(疎太酬)・金山(瀟鎮醜)の三つの水府廟が、廟額・称号を宋朝から与えら. れ、甲西として認められた。その後、皆乍忌寸・紹興年間、金軍の侵入に対しこれら の水府廟は撃退に神助があったとして、称号に文字が増加され顕彰された。そして宋 朝は、その祭祀を各所在地の地方官に義務づけたという。南宋後期には、三水府廟を 上元水府廟・中元水府廟・下元水府廟と系統付け、他の諸祠廟とは別格の扱いにした。. その一方、長江流域には、その恐多くの水府廟があり、宋朝の政策とは別に、民間に おいてはこれに対する信仰は切実な期待をはらんでいた。特に船夫にとって舟航の安. 一21一.
(12) 全確保は、命に拘わる最大緊急の課題であった。よって船夫の仲間社会では沿江の各 所、特に航行上の難所に設けられた祀廟に対する信仰は深甚であった。」と論じられ. た。これは、翠黛時代に長江流域で水神信仰が盛んに行われていたことを物語るもの である。その傾向は、元代になっても継続されたはずであり、彰螢玉・徐壽輝などの 商議紅巾軍の中でも験勇で”双刀趙”と呼ばれた着呼勝などは長江流域の巣湖の水冠で. あり、反乱中水塞などを築いていた。西系紅巾軍には、水運関係出身者が多く、彼ら と水神信仰や旧庵信仰とを直接結び付ける史料記述は見当たらないが、彼らがこのよ うな水神信仰と無関係の存在であったとは考えられない。. (四)周子旺の乱について 彰螢玉の名前が、史料に登場する最初は徒弟の周子旺と共に起こした叛乱(至幸鴎1338年). である。周子旺はこの時、自ら”周王”と自称し、改元まで行ったがq)、叛乱は蜂起直後. に官憲によって直ちに鎮圧されてしまった。今、この叛乱について前出のr庚申外史』の 短い記述をみながら、彰螢玉の宗教の特質を考えてみたい。権衡r庚申外史』には、彰螢 玉と周子旺の乱について、次のようにある。 哀州野僧彰手玉、徒弟周子旺以寅年寅月寅日寅時反。 反回背心卜書押字、以為有佛字甲兵不能傷。 人皆惑之、筆者五千蝕人。甲兵雪平之、 殺其子天生・地生・母佛母、螢玉遂逃、匿干潅西民家。 r輔翻』本・r糖戴繍』本(2). 蓑州の「妖僧」彰螢玉とその徒弟周子旺が、「寅年寅月寅日寅時」を以て叛乱を起こした。. 彼らは、叛乱に参加した者の背中の中心に佛字を書き、この佛字の為に刀兵(禰臆)は、叛. 徒を傷つけることはできないと宣伝した。人々はこれに惑わされ、叛乱に従った者は五千 番人を数えた。郡兵が鎮圧に乗り出し、螢玉の子天生・地生と母佛母は殺され、榮玉自身 は逃れて、准西の民家に匿われた。これがこの史料の大意である。. この史料で注視したいのは、「彰螢玉と周子旺が寅年寅月今日寅時に反した」という記 述である。事歴たちが蜂起日時にこだわったのには、何か理由がなければならない。この ことについて、直接的には彰単玉らの蜂起の事象とは関係ないが、参考になる報告として、 岡本健一氏が「歴史万華鏡」・(晦日綱』1995年1月14蹴、28蹴)に、寅年寅月寅日に作った霊剣と. して「三寅剣」のことを紹介されていた。それによると、「十二支の中でも寅(虎)は、勢. いがあり、験をかつぐということで、〈寅年寅月寅日〉が重なる日を三寅といい、これに. く寅時〉まで重なると四生といったという。こういう十二支の寅が重なった時に作成した 剣を、三島剣とか四域剣といい、日本では1994年初め、長野県小海町の旧家畠山理介氏宅 で刀の棟の柄に近いところにく三訴訟〉という刀銘が金で象嵌された刀が発見され、金銀 で象嵌した毘沙門天と持国天とおぼしい尊像と北斗七星などの星座と九文字分の梵語が刻 印されていた。おそらくもとは切っ先にも仏像は刻印されて合わせて四天王が刻まれてい たであろう。」と述べられている(3)。. 一22一.
(13) とりわけ”毘沙門天”と”十二支の寅”との関係については、「奈良の信貴山(朝翻子寺)では毘. 沙門天は三冠日に現れたといわれている。」という京都教育大学和田翠氏の言があり(直直 掲r翻新聞』「歴蛎鞠」1月28蹴)、また宮崎市定氏は、「毘沙門天はもともとは勝利の神であり、 その後福神の要素を付帯され、元代以後次第に関帝廟(関羽を祀・た廟)にとってかわられていく. が、宋・元・明時代の社会に根強い民衆の信仰を仰いでいた。」と述べられ、また「毘沙門天 は、ゾロアスター教のミトラ神の化身である。」とも主張されている(4)。そしてこのミト. ラは、先述したように息出玉の侶治した弥勒佛と全く無関係のものではない。岡本氏も前 掲「歴史万華鏡」1月28日號の中で、「宮崎氏の学説は現代の佛教学界で通説の位置を占 めるわけではないが、r弥勒菩薩のイメージはミトラ神に負う』という学説などにも、(宮山 の)影響がみられる。」と述べられている。このようなことから考えると彰螢玉が、「寅年七 月忌日二時」の”四寅の日”に蜂起したのは、”毘沙門天信仰”と”十二支の寅”との関係を意. 識していたとは言えないまでも、”四寅の日”が”毘沙門天信仰”と相侯って、事を起こし勝. 利を目指すに際して、大変験の良い日柄であることを知っており、蜂起に参加する信者・. 民衆にその勝利を洗脳させるために、当時あったこのような呪術的民間信仰を利用したも のに他ならない。. 次に、注視されるのは「温温背心皆書虚字、以二二佛字刀兵不能傷」という記述である。 背中に二字を書くことによって、官兵から斬られないということも先に同じく蜂起に参加 する信者たちに勝利を洗脳させ、叛乱を成功に導くために使用された詐術と考えられ、元 朝の官憲側からみれば一種の妄言に過ぎない。. しかし、このことと類似した事例は北宋の「王学の乱」にもみられるのである。後述す るように明確な弥勒教匪の叛乱としては、史料上、元代以前で時代的に一番近いのは「王 則の乱」しかない。王則の乱は、北山の慶暦7年目1047年)に河北の貝田(砒省翻縣)で起こっ. たもので、二二は自から東平郡王と称し、国號を”安陽”、年號を”得聖”と改め、官属を置. き、旗幟二品には概ね留山を以てし、また「釈迦山鼠謝、弥勒佛當持世」と序言した明ら かに弥勒佛下生信仰を背景とした宗教的性格の強い叛乱であった(5)。この叛乱で実は王. 則は、慶暦八年正月元旦を期して叛乱を計画していたのだが、事が事前に漏れたため11月 に蜂起せざるを得なくなった。(ただし、州城占拠後、12月を以て醐と爲した。)また王則がその出身である琢. 州(二日琢縣)を去るとき、彼の母は再会時の記念にと王則の背中に「福」の字を刺青した。. この刺青を見た三州の弥勒教徒たちが、何か神聖な意味を有する隠語であるとして、四則 を非常の入物であるとし、彼を立て叛乱を起こしたのである。彼は州城占領後、百姓(民衆) の年十二以上七十以下の者を悉く籍してその面に”義軍”だとか”破趙得勝”(趙一町宋の帝室である舐. を指す)の刺青して兵となし防御に充てたのであった(ω。r王則の乱」は宋朝の地方軍だけで. は鎮圧できるものではなかったが、中央から参詣政事:文彦博が河北宣撫使として派遣さ. れるに及び、蜂起後凡そ65日で鎮圧された。しかし、宋朝はこれに呼応して叛乱を計画す るものもあり、叛乱が首都開封に近い河北で起こったこと、王則らが契丹(遼)と結ぼうと. したこと、翌年には西教という士大夫階級の者も王則の一味の弥勒教徒であることが発覚 して宋朝権力内を巻き込む連座事件に発展したことなどに驚き、以後弥勒教徒に対する取. 一23一.
(14) り締まりを強化したのである(7)。そのため、これ以後、南宋を経て元朝の泰定二年(1325 年)河南息州の趙白磁・郭菩薩等が、r元史』巻29出定帝1に、 泰定二年六月(1325年)、息州民趙吉凶・郭菩薩、妖言「弥勒佛當有天下」・ 有司以聞、命宗正府、刑部、橿密院、御史墓及河南行省官難遊郭。 [ 中略 ]. 十一月、郭菩薩等伏諌、皆様其黛。 とあるように、「弥勒佛當に天下を有つべし」と妖言して叛乱を計画し、郭菩薩等が訣せ られるまで、弥勒佛下生を唱えた叛乱に関する記述は、ほとんど史料に現れて来ない(8)。. しかし、それは弥勒教徒の活動がなくなったことを意味するのではなく、ますます反権 力的な秘密宗教的色彩を強めていったと考えられる。「王則の乱」は、そのような意味で 元末以前の弥勒教徒の蜂起に関する貴重な史料であり、これと二二の二二玉らの叛乱とを 比較検証することは無意味なことではないと考える。そこで王則の乱と彰螢玉・周子旺の. 乱、その後の彰螢玉・徐壽輝の西系紅巾の乱との類似性を考えてみると、次のような点が 指摘できる。. ◇”正月元旦”や”四寅蜂起”など叛乱蜂起に関してその期日にこだわりがあること。 ◇蜂起後、すぐに王を称し、国號や年號を建てていること(9)。 ◇王則が背中に福の字を刺青をしていたり、蜂起民衆の顔に”義軍”だとか”破趙得勝”. の文字を刺青した事と彰螢玉らが叛徒の背中に刺青ではなく二文字を書いて与えた という違いはあるが、当然彰真玉や周子旺自身も背中に佛文字を書いて叛乱を指導 していたであろうし、背中に書いた佛文字や刺青の文字に対して、その呪術的効能 を叛乱の徒が崇拝していること。 ◇王則は百姓の年十二以上七十以下の者を悉く籍し、その面に二軍”や”破趙得勝”の 刺青したとあるが、彰や徐壽輝の西系紅二軍は至正十二年(1352年)七月、杭州を占領 した際に、殺さず淫せず民を招き、投降する者の姓名を帳簿に記載している事(10)。. ◇王則の叛乱やそれ以前の中国史上に見られる弥勒三三の叛乱に共通する特色のひと つは、弥勒佛下生信仰と同時に呪術的或いは詐術的行為を弄して叛乱に及んでいる 事であり(ll)、彰螢玉・周子旺の乱にも全く同様のことが指摘できること(12)。. 以上のように見てくると、北宋時代の王則らの弥勒教門の叛乱と彰螢玉が初めて史料に 現れた周子旺の叛乱とは高い類似性がみられるのであり、このことは二二玉の宗教の特質 が、王則ら弥勒教匪の叛乱の延長線上にあることを物語ると言えよう。. 註. (1)r元史』巻39順帝本紀2至元4年6月の条に、次のようにある。 衰州民周子軽羅、僖響町王、偽改年號。尋檎獲、伏珠。 (2)ここではr学海類書』本やr叢書集成続編』本によって、「母仏母」という記述にしたが、. 『学章章原』本やそこから転載した『叢書集成新編』本には、「目高母」という記述になつ. ている。そこでr庚申外史』の諸本について、若干言及しておきたい。平凡社rアジ ア歴史事典』の鈴木山留の解説によると、権衡r庚申外史』を収めているのは次ぎの. 一24一.
(15) 叢書である。(⇒は、そこからの轍を示す). ・『学津討原』嘉慶10年忌玉805年)清の紅海鵬編⇒『叢書集成新編』⇒「妻赤軍」という記述。. ・「学海類編』道光U年(1831年)清の曹追尊⇒「母仏母」という記述。. ・「海山目遣叢書』道光29年(1849年)清の播徳雷編⇒r胡氏豫章叢書』[鰍硬八種本]. ⇒r叢書集成続編』⇒「母群動」という記述。 ・「宝顔堂鞍置』明代陳継摺糠⇒ 「北面母」という讃。. これら諸本によってr庚申外史』の記述に多少の差異があることは、既に平凡社r東 洋史料集成』の中で指摘されている。r東洋史料集成』の説明では、 r学津討原』本が 比較的良いとあるが、その理由は説明がない。r薄綿討原』本は、清の張病弱の輯で、 嘉慶10年(1805年)の盧山号氏聴感閣刊本をもとに影印したものであり、張海鵬の訂が入っ. ている。これは、明末の毛晋(1599一一一1659)のr三縄秘書』に基づくが、これはまた. 明の黒髭亨が自らの蔵書を刻して『秘冊彙函』と名付けたものの、完成しないうちに 焼けてしまい、その残版を毛晋が増補したものである。r学津討原』本は明代末まで潮 ることができ、『学海娼狂』本や『海山仙館叢書』よりも原書に近いように思える。し. かし、毛晋は鏡謙益などと親交があり宋代の書物をより原典に湖って出版して名声を 得たようであるが、次第に出版が商売化して校訂が粗雑になったという点が指摘され ている。(酬rアジア歴蝉典』巻9磯雌氏の記述。)これに対して、r学海類編』本はr叢書集成続編』. 本と同じ記述内容である。「叢書集成続編』本は、『胡氏豫章叢書』所収の[明人小史八 種本]から転載したものであり、さらにr胡氏藤野叢書』所収の[明人小史八種本]は、 『海山郵貯叢書』から来ている。「叢書集成続編』本は清の曹溶の輯で門弟強談の増訂が 入り、道光11年(1831年)六安晃氏活字印本とあり、これには『四庫全書』総目提要52、. 史部8雑史類存目1に編集:圧平藻家蔵本と書かれてあり、乾隆年間にr四半全書』 にく存目=ただ書名を存し、集めて総目とした〉としてではあるが、採録されたのはこちらの方である。. 筆者は、この事について明確な見解を持てずにいるが、何れにせよ、『庚申外史』の記 述が諸本によって差異があることについては、注意しなければならないと考える。 尚、r四庫全書』のく存目〉に関しては、季鄭・任総・劉俊文「四庫存目とr四座全書存目叢書』. 」 『汲古』第27號1995年汲古書院参照の事。 (3)この剣は鑑定の結果7・8世紀の奈良時代のものとされるが、宇田川武久氏の「李朝前. 期の兵器の諸相と兵器図説」『国立歴史民族博物館研究報告』第12集によると16世紀 の李氏朝鮮においても、r中宗實録』中頃37年4月の条に、 四寅剣(寅年累月寅日所造)。則照年年所鋳、白扇寅年齢之、此祖宗朝固持也。 今適寅年、故鋳之。. とあるように李氏朝鮮においても作られていた。また、長野県で発見された三寅剣を 調べた水野正好氏らの三業剣検討委員会によると、この剣名の淵源の地は中国である ことは自明の理であるとし、その後の調査で果たして『網頭』(道教の吻経)の中にも「景. 雲剣」という三園剣の呪文と同じような銘文と星座が刻んである剣があったという。 これら三理工、四寅剣のことについては、次の論文等参照。. ・岡本健一「歴史万華鏡」 r毎日新聞』1月14日號、21日號 1995年 ・水野正好「〈三寅剣〉剣名孜」 『四日市市立博物館紀要』第一号工994年 ・宇田川武久「李朝前期の兵器の諸相と兵器図説」『国立歴史民囎物館腰難』第12集. (4)宮崎市定「毘沙門天信仰の東漸に覧て」京都魍大学興部史学欄r紀元2600年記念史学論文集』. 194エ年、その後、r宮崎市定全集19東西交渉』1992年岩波書店に所収。 (5)本論と関係する王則の乱についての記述をr続資治通釈長編』巻161から一部摘出する。. 一25一.
(16) 貝州宣毅卒王則、拠城反。則本琢州人。歳饒流至貝州。 [ 中略 ] 貝・翼俗、. 妖陸相與習五滞陣涙等経伝圖識諸書言、「釈迦仏衰謝、弥勒佛當持世」。理趣去 琢、母與之訣別、刺福字於其背、以爲記。韓人因循伝福字隠、三三信事之。 [. 中略 ] 建国日安陽 [ 中略 ] 改元得聖、以十二月爲正月。百姓年十二 以上七十以下女君即日、義軍破墨得勝。旗幟號令、率以佛爲称。 大意]貝母(河北省隆昌)の宣毅軍の兵卒であった王則が反乱を起こした。彼は琢州の出身. で、流れて貝州にきた。[ 中略 ] 当時この地域一帯では五龍滴郎等経及圖識諸書 が流行し、「釈迦仏衰世、弥勒佛當持世。」などと流言が飛び交っていた。王則は背中 に福の文字の入れ墨があり、これが彼を反乱の指導者に押し:立てていった。[中略]. 安陽と国號し、[中略コ改元して得聖と称するなどしていた。反乱参加民衆の中で、 12歳から70歳までの者に、「義軍」・「破趙得勝」などの入れ墨をしていた。旗幟號令は、. 率ね佛を以て称となしていた。この他、r宋学」巻292明断傳、巻11仁宗紀。 r東都事 略』巻63、巻67。『宋朝事實』巻16などに王則の乱についての記述がある。 (6)重松俊章「唐宋時代の弥勒教匪∼猷甦佛鞭∼」 『史淵』3號 1931年P92 P93 (7)重松俊章「唐宋時代の弥勒教匪∼附、更生佛鞭∼」『史淵』3號 1931年P94 P95. (8)重松氏は、元末の民衆叛乱の先駆は、「趙丑厩・郭菩薩の弥勒教匪の叛乱であった副と 述べられている。しかし、この「元史』の記述だけでは、実際に趙丑斯・郭菩薩らが「叛. 乱」を起こしたとは断定できない。この点、鈴木中正氏は、「この一味は相当大きな叛 乱計画を持っていたらしい。」と述べられている。元朝が、宗正府・刑部・枢密院・御史. 台・河南行省という官庁を交えて取り調べをしたとあるから、鈴木氏の指摘するように 趙丑厩・郭菩薩一味が大きな叛乱計画を持っていたことは確かであろう。 参照=重松俊章「単元時代の紅巾軍と元末の弥勒・白蓮教匪に就いて(中)」r史淵』26號 194工年;鈴木中正r中国史における革命と宗教』第5章元・明鞠珀緻東姻直会1974年. (9)このような例は中国の民衆反乱史上には、他にも多くみられることではあるが、束系 紅唖蝉の劉福通や杜華道らが、毫州(鍬省毫縣)に韓林児を皇帝に迎え、国號を「宋」、年號. を「龍鳳」としたのが、至正11年5月の蜂起から約四年経った至正15年2,月であったの に比べると、彰手玉は”周子旺の乱”でもすぐに周子旺に王號を名乗らせ、改元し、ま. た徐壽輝・郷普勝らと至正11年8月中蜂起したときも、10月には徐壽輝を皇帝とし、国 號を「天完」、年層を「治平」と改元している。このことは東系・西系紅巾政権の成立に関. する大きな差異である。 (10)陶宗儀『巨群録』巻28刑賞難治 (11)弥勒佛下生信仰に基ずく民衆反乱は概ね町代に始まり、つぎのような叛乱があった。. a.階大業9年(613年)一気子賢の乱一河北省唐綿 自ら弥勒佛の出世と称し、幻術を善くし、紙・絹の上に蛇獣の形を書き、鏡を 使って種々の形体を示し、罪業ある者が繊悔、礼拝すれば忽ち人形に転化でき るなどの詐術を使った。(『冊府元亀』巻921妖妄). b.階大業9年(613年)12月一向海明の乱一郭西省扶風縣 弥勒佛の化身、皇帝と称し、白鳥元年と改元した。(r封書』巻4場帝紀) 向海明に帰依するものは吉夢を獲るといわれた。(『通鑑』巻182場帝紀) c.階大業7年差611年)正月朔 盗あり。. 白練の裾儒を着し、手に香花を持って、自ら弥勒佛の出世と生して、長安城の 建国門から禁裏に侵入しようとした。(陸勲『集異志』). これらの叛乱や王則の叛乱をみると、弥勒教徒の反乱は弥勒佛下生信仰とともに呪術. 一26一.
(17) 的行為や迷信に類するようなことが同時に現れてくることが特色としてあげられる。 また酒杯では、唐玄宗開元の初め(8世紀前半)にも、王懐古という者が、. 「釈迦牟尼佛末、言下新佛出。」 という妖言を放って叛乱を計画し、官憲に捕殺されている。(『冊府元亀』巻922妖妄) 河北長州(総則の乱以後、恩州と名称変更する)一帯は、弥勒教徒の中心地であった。 (12)もっとも史料上では、周子旺の乱に関して、「弥勒佛」という文字等は見られない。し. かし、周子旺の師彰螢玉は弥勒門下生信仰を唱え、呪術的行為により聚衆・過納して. いたから、この乱が宗教的には弥勒佛信仰を背景としていたことは疑いない。. (五)元代白蓮教會の動向 本節前項(四)で彰榮玉・周子旺らの叛乱が、北宋王則の弥勒教匪の乱と高い類似性があり、. 彰螢玉の宗教の特質は、弥勒教徒の叛乱の延長線上にあると述べた。しかしその一方で、 今までの彰螢玉の宗教に関する考察の中で、元代に於ける「白蓮」を名乗る叛乱との比較 や白蓮宗と弥勒佛下生信仰の習合については、ほとんど論及してこなかった。そこで本項 では、元代の白蓮教會の動向を見ながら、紅巾の乱以前の杜萬一・高仙道らの白蓮教匪の 叛乱や阿弥陀浄土を説く念仏宗派として発達してきた白蓮教會(白蓮宗)が弥勒佛下生信仰 (弥勒教)と本格的に習合した時期について考えてみたい。. 元代の白蓮教會に対する元朝の対応と白蓮教匪や弥勒教匪の叛乱について、r元史』や r元典章』・r通制条格』などの史料を参考にすると、概ね次のような史料記述等が摘出 される。. [第1回白蓮教會禁止令=第1回白蓮教匪の乱:杜萬一の乱(D] 1.至元18年(1282年)三月、都農縣賊首杜萬一等指白蓮會爲名作乱。照得江南見有白蓮會等 名目五臨監、向背圖(2)、血盆及鷹合禁断天文図書、一切左道乱正之術、擬合禁断。 (r通制好悪』巻28雑令)(『頑章』巻33華道5瓢縮圏等胴様の1謎あり). [第2回白蓮教匪の乱:高仙道の乱] 2.成宗大徳4年(1300年)(3)広西妖賊高仙道以左道脇息、平民註誤者忌数千計。既敗。. (r元史』巻137察牢伝) [第2回白蓮教會禁止令:武宗] 3.武宗至大元年(1308年)五月、禁白蓮社、殿其祠宇、以其人還隷民籍。 (r元史』巻22武宗本紀)(r三条格』巻29髄に関連記事あり). [高仙道の乱等に対する盧山東林寺善法堂の僧普度の辮明]. 4.武宗至大3年(1310年)、若前掲彰徳之朱傾寳、広西之高仙道、斯徒即非本教念仏之人 (r盧打撃呼集』巻上「上白蓮宗書」). 而妄称白蓮道門門陛下刑禁者。 [白蓮教會布教許可:仁宗]. 5.①仁心至大4年(1311年目閏7月⇒武宗崩御後、 簸:『豊山善教集』巻上宣政院榜の記述、 参照:小笠原宣秀「元代普度の白蓮宗復興運動」r仏教史学』第1巻第4號1950年. 一27一.
(18) ②仁宗皇極2年(1312年)9月2日⇒福建建寧路後山の白蓮堂に白蓮教護持の制旨 あり。 典拠:r元典章』巻33一部6「白蓮教」の記述。 参照:重松俊章「初期の白蓮教會に就いて∼附元律中の白蓮教會∼」. r市村博士古稀記念東洋史論叢』1933年 P383 [第3回白蓮教會禁止令:八宗]. 6.論宗至治2年(1322年)、面白蓮佛事。 (r出血』巻28英宗本紀) [弥勒熱雲の乱:元代第1回;趙丑厩・郭菩薩]. 7.泰定2年6月(1325年)、息州民趙丑斯・郭菩薩、妖言弥勒佛當有天下、有司山郭、命 宗正府、刑部、椹密院、御史墓及河南行省官雑鞠之。11月、郭菩薩等法話、二流其黛。. (『元徳』巻29泰定帝1) [弥勒教匪の乱:元代第2回;棒胡]. 8.順帝歯元3年2月(1337年)、棒胡弓於汝寧信陽州。棒胡本陳州人、名閨児、以焼香惑. 衆、妄造妖言作乱、破帰徳馬鹿面、焚陳州、屯上露密話。面面献所獲棒胡弥勒佛、小 旗、偽宣勅益益金印、量天尺。 (r元高』巻39順帝本紀2) [弥勒教匪の乱:元代第3回;周子旺] 9.至元4年6月(1338年)、哀:州民周子旺反、論証周面、偽改年號。晶晶獲、諌伏。. (『元史』巻39順帝本紀2) 史料1は世祖(フビライ)時代、江西南康幽幽昌縣で立直一という人物が、白蓮教會に名をか. りて叛乱をなしたことに関連して、彼らが民衆を惑わすものとして利用した「推背山」など. の道具を厳禁したものである。史料2は第2代密宗時代、広西で高仙道という人物が叛乱 を起こしたこと、史料3は第3代武宗時代、再び白蓮教會が禁止されたこと、史料4は、 気山の白蓮宗僧侶角度の高仙道の齪に対する泊明、史料5は第4代皇宗時代、普度の復教 活動により、白蓮宗の布教が再び許可公認されたことなどを記録したものである。また、. 史料6は第5代英宗時代、三たび白蓮教會の活動が禁止されたことを示したものであり、 史料7・8・9は、r元史』本紀から摘出した元代後半に見られる弥勒西霞の叛乱に関する 記述を示したものである。. これらの史料によると、元代の白蓮教會は世祖・武宗時代にそれぞれ禁止令が出され、. 盧山白蓮僧主普度の復教運動によって、仁宗時代に一時布教を公認されたが、次の英宗の. 時代に再び禁止された。そして、このような前後3回の禁止令を経て元末の湯冷の乱を迎 えることになった。広西の高仙道の乱は史料2のr元史』の記述だけでは、白蓮教徒の乱 とは指摘できないが、史料4のr盧山復教集』巻上「上白蓮宗書」の記述によって、白蓮道. を称した叛乱であったことが判る。またこれに先立つ史料1の江西都昌縣杜萬一の乱も白 蓮會を称した叛乱であった。細末紅巾の乱以前に「白蓮」の名称が史料に表れる叛乱は、. この2件についてだけである。この2件の叛乱をみると、次のような事が指摘できる。 ①前項で考察した周子旺の乱や王則の乱など弥勒教匪の叛乱の系統が、改元や国號・王 號を儲称したり、史料8の棒胡の乱(4♪が偽宣勅・紫金印(天子の使用する最頗の金の鰹)・量天尺(天 子が特権として偏する暦を織するため}こ会する天体観測器)など小国家の体制を指向していることが看取される. 一28一.
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