LL B域 研 究 第 2 9 集
〕歴 史 的 町 鴨 方 の 変 貌
‑ 陣屋町か ら近郊住宅地へ‑
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岡山大学教育学部社会科教室内地域研究会
囲 ザ
教 育 学 串
遇 照 山 か ら の 眺 望
鴨 方 町 役 場
天 台 宗 明 王 院
鴨 神 社
陣 屋 町 の 面 影 を残 す 本 町
欽塾の塾生諸宗程課 (鴨方高校蔵)
41締指は結史一.
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‑1dJ連 明治初期の地理教科書
ロ 斗書 il 仙 川ti s. I.
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岡山県立鴨方高校
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六 条 院 小 学 校
鴨 方 町 民 会 館
竹 林 寺 山 天 文 台
鴨 方 駅
鴨 方 I C 建 設 地
‑ + ■■■i岳
み ど り ケ 丘 団 地
鴨 方 手 延 べ そ う め ん
駅 前 商 店 街
は し が き
地域 研究第 2 9 集 「 歴史的町鴨方 の変貌一陣塩町 か ら近郊住宅地へ」 を, ここに,刊行す ることになった. これは,岡山大学教育学部社会科教室 に所属 す る 3 年次生の うち. 日本 盟,地理学 および社会科教育 を轟攻 ・専修す る学生の必修単位 の授 禁 と してな された 「 地 域研究
」( 県内の 1 町村 を研究対象 と してお二を う,総合的 な実地調査) の成果 をまとめ た報告書 であ る。
昭和 5 9 年度 には , 「 地域研究」の対象地 を鴨方町 とし,調査 のための事前の予備的文献 調査 や準 備 をおこない ,7 月 2 3 日よ り 2 7 日まで , 4 泊 5 日の現地本調査 をねこか 、 ,後 , 調査結果の分析 や補 足調査 を重 ね をが ら, レポー トをまとめた
。地域 研究の対象地 を選ぶ条件 と しては,実地調査 を実施 す るに相応 す る史料 ・Tt = 料 があ ること, また,町役場 や教育委員会 などの協 力が得 られること, を どがあるわけであ るが 鴨方町 については, とりわけ,町役場 や町史編第委員会の薯諸 と協 力方 の申 し出 があった こと, また,史料 ・資料 の条件 もみた されていること, などによって,決定 した。
調査対象地 と しての鴨方町域 は,旧石 器時 代.純文 ・弥生時代 の人 々の生活の舞宙 と して 古 くか らl 糾 すた土地 であるo首長盛 である前方後円墳 は発見 されていか 1が,径十数米 の 円墳 が約 2 0 碁発見 されているo また,北部 の阿部山 ・竹林寺 山 ・遥開山 と南部 の竜王山の山 塊 の問 に形成 された低地帯 には条里制 の あとをとどめてい る
。7 1 6 年 ( 霊 屯2 ) には 「 備 中国浅 口郡犬建部云 々」と,鴨方 の属 す る浅 口郡 の名 が,初 め て歴史智 に記録 されている。平安時代 には.鴨方町域 は,浅 口郡 8 郷 中の河村郷,小坂郷 大畠郷 に属 していた.鎌倉室町期 には,荘同 が発達 し,河村郷 は津 田荘 と河村荘 に,小坂 郷 は小坂井 と呼ばれ るよ うになったO室町「 酎 ヒには,守誰細 川氏の鴫 山城 が築 かれ,細川 滴E l i J 以後 7 代 1 2 0 年間の居城 とt J . ・った。
1 6 3 2 年 ( 寛永 9 ) に池田光政の所領 とを Y ) ,1 6 72年 ( 寛文 1 2 ) に光政の 2 男 救吉 に,領 分の内,備 中浅 口 .小 田 .凄 僅3 郡 の うち 2 万 5. 0 0 0 石 を分置 して,鴨方 を陣屋 とす る支滞 設置の認可 がお りた ( 実施 は貞事元年)。鴨方借主 は,岡山 に在住 した が,鴨 山南範 に陣 屋町 が形成 された。鴨方 は,臥 ̲ 山一鴨方‑笠岡 を結ぶ鴨方往来の宿席町 で もあ り, また, 西 山拙 靖が欽塾 を聞いて朱子学 を講 じ,寛政の頃,地方文化 の一中心地 となった。
1 8 71年 ( 明治 4) の廃満置県 によって,鴨方満 は鴨方県 に, さらに深津県,′ ー 卜田県 との 改称 を経 て ,1 8 7 5 年 ( 明治 8 ) に岡山県 に合併 された。
明治初年 に,鴨方町域 には,地頭 卜札 益版.本 庄村,小板 束札 小板 西村,鴨方村,
深田札 六条院乗札 六条院中村,六条院西村 の諸村 があったが,の ち,若干 の分併合 を
経 て ,1 8 8 9 年 ( 明治 2 2 ) の町村制施 行 によって,鴨方村,小坂村,津田村,六条院村,に統
合 された 。1 9 0 5 年 ( 明治 3 8 ) には,鴨方村.小坂村,津 田村 が合併 して鴨方村 とな った。
さらに鴨方村は 1 9 2 5 年 ( 大正 1 4 ) に, また,六条院村 は ,1 9 3 4 年 ( 昭和 9 ) にそれぞれ町 制 を施 行 した。 さらに ,1 9 5 5 年 ( 昭和 3 0 ) には,矢掛町浅海の一部 を含めて,鴨方町 と六 条 院町は合併 して,現在の鴨方町 と在った。
近世 において,陣屋町 ・宿場町 として発展 した鴨方は,近代 になって新 しい展開 をみた。
1 8 9 1 年 ( 明治 2 4 ) に山陽鉄道 が笠 岡 まで開通 し,鴨方駅 が閲業 したo近代 資本主義の波 を うけ ることによる変貌である。 さらに,現代,昭和 4 0 年代,高度経済成長 と第二 のモー タ リゼー シ ョン‑マ イカーブームによる変 貌 ‑ 国道 2 号線 にそった商店や工場の進出,福 山や笠岡の近郊 としての住 宅建設 と人口増加 など ‑ がある 。1 9 8 8 年 ( 昭和 6 3 ) に予定 さ れている山陽 自動車道の開通 が,何 をもた らすの か, わか らをい。
交通 や産業の近代化 ・現代化 の波 をうけて鴨方 は,大 きく変貌 して きたD その よ うな変 貌 の中で も,産 業 ( 例 えば手延 ソーメ ンをど)や教 育 ・文化 の伝 統 を現 代 に継 承 しよ う としていることは大 きい特色であろ う。例 えば,町民会館,図} L t 館,郷土賛料館,老人憩 の家,保健 センター,武道館や竹林寺山天文台などの, 文化 や体育の施 設は人 口 2 万足 らずの 町 には,ひ ときわ目立つ。 また,教育では,明治期 に岡山県 で設立 された11の高等 女学校 の うち,鴨方村立観生女学校 ( 明治 4 1 ) は,唯一の村 寸女学校 である ( 現 ・県立鴨方高等 学校 の前身)。大正 1 3 年 には,岡山県生石教員賛成所 および生石高等女学校 が原 田林市民 によって創立 され ( 覗,岡山県山陽高等学校 の前身) て お り,教育 の伝統 をつ くって きた とい えよ う。人口 1 9, 7 1 0 人 ( 昭和 5 8 年) の町 に , 2 つの高校 と , 1 つの専門学校 ( 山陽歯 科衛生士 ‑ r 、 伴 う学校) があるとい うことは, この よ う射 云統 な くしては理解 しがたい。
表題 「 歴史的町鴨方の変貌 ‑ 陣厘町 か ら近郊住宅地へ」は.調査 の結果,す なわ ち, 事後 に,鴨方の特徴 を示 す もの として考 え られた表題 であ る。 このテーマの もとに,鴨方 を調査分析 した わけでは
射、 . また鴨方の特色のすべ て を表現 した もので も射 、 , ことを 了解 いただ きたい。
報告苔は,大草 における授業の一環 として学生た ちによって作 成 された もので あろo内 容 について,未熟 であ り,不十分 な点 につ いて,我 々の指揮の男任 が免ぜ られ るものでは ないが,御海容 いただ きたい。
現地 調査 に際 して, また刊 行 に際 して,前鴨 方 町 長 放小 林 芳 郎 氏 および大西恒夫現町 長 をは じめ町役場 の方 々,町史絹紫執筆 主幹岡本哲 一氏 をはじめ委員の方 々,教育委員会前 教育長堀幸光氏 および堀完一現教育長 をは じめ,教育委員会の方 々や その他の公的機 関 お よび,幅広 い町民の方々の御理解 と御協 力 をいただいた. また,刊行 に際 しては,町言 盛会 か らも御配慮 をいただいている。 厚 く感謝 の意 を衷す る次第です。
1 9 8 7 年 1 月 8 日
岡山大学教育学部社会科教室内 地 域 研 究 会
「 歴史的町鴨方の変貌」刊行 にあたって
鴨方町 長 大 西 恒 夫
この度 , 岡 山大学教育 学部 の先 生方 と学 生 の皆 さん方 の意 欲的 を研 究調査 によ って,「 歴史 的町 鴨方 の変貌」が刊行 され る運 び とな りま した こ とは,鴨 方 町 に と りま して まこ とに青 ば しい限 りで あ りますO
昭和 5 9 年 7 月以 来,合 楕調査 等 長期 間 の研 究調査 に当 た られ ま した ご苦労 に対 し心 よ り敬意 を表 す るもの で あ りますe
我 が鴨方町 が,今 日に発展 す るまで には, 数千年 前 か ら幾 多の変遷 が あ りま し た。 この時代 の流 れの なかで私 た ちの現在 は,偉 大 を る先 人達 の築 きあげ た文化 と伝 統 を基 盤 と して,古 くか ら人 び との生活 の なかで残 された 多 くの有形 ,無 形 の迫産 の集積 の上 に存在 す るもの で あ り,新 しい文化 形 成 の ため に も理 解 し,親
しむ ことが大切 で あ るこ とは い うまで もあ りませ ん 。
町 の歴史 を正 しくと らえ,現在 を理 解 す る とともに, この歴 史 を後 世 に伝 える ため,去 る昭和 5 5 年 合併 25 周年 記 念事 菜 の一 環 と して,鴨方町 史 ( 民俗 編 ,本編 , 史料踊) の編纂 を計画 し,以 来数 年 の歳 月 を経 て民俗 編 の発 刊 , そ して昭和 63 年 の発刊 を目指 して現在 本編 ,史料編 の編 纂 を進 め て い ます。
暗 あた か も,岡 山大学教育 学部 の先 生方 を中心 に総合 的 な観 点 か らま とめ られ た研 究 調 査 書 「 歴史 的町 鴨方 の変貌」が刊 行 され ます こ とは,町 史 編 第 上 この う えない参考 とを るとと もに,鴨方町 民 は勿論 ,町外 の方 々 に も, 鴨方町 を一層深 く知 って頂 くこ とが出来 ると確 信 いた します。
最後 に,刊行 に至 ります まで の岡 山大学教育学 部 の先 生方 と学 生 の皆 さんの汗
と貴 重 を著作 に対 し重 ねて敬意 を表 す る次第 で あ ります。
調 査 参 加 者
指 導 教 官
上 原 兼 菩 高 山 芳 治
学 生
石 原 洋 一 吉 田 和 美 丸 山 千 恵 柴 田 あゆみ 板 野 利 絵 菅 浩 伸 森 永 由香利 河 原 文 彦
卒
業 生
日 笠 百 合子
高 重 進 高 橋 達 郎
岩 藤 一 成 近 藤 茂 吉 田 誉茂子 上 田 垂 山 本 圭 二 板 倉 宏 高頚賀 哲 坪 井 聡 江 岩 田 美恵子 岩 本 智 恵
堀 伸 葵 岡 啓 子
阿 部 泰 久 綱 島 弥 生
徳 田 育 子
田 中 史 郎
曽 根 昭 信
幡 圭 子
奥 田 和 代
浜 田 守 彦
内 田 費 裕
坂 本 浩 子
広 瀬 洋 子
冒
第一章 自 然 環 境 1 鴨方町 の地形 と地質
( 1) 造照 山の山頂 にて ‑ ( 2 ) 竹林寺 山 と阿部 山
(3)阿部山の南斜面
(4)直線状 の3 U ^ : ( 5) 山砂利の丘陵
(6)南部の山地
(7)鴨方町 の地 形構造
(8)山故の小扇状地
( 9) 平野部の地形 とi壊 ‑‑
2 鴨方町 における自然の改変 ( 1) 鴨方町の天井 川
( 2)
約万町の溜池 ( 3 ) 近年の土地改変 3 気候 の概観
( 1) 岡山県の気候区分
( 2) 岡山県南西地域 の気象 ・気候
第二章 鴨 方の原始 ・古代 1 旧石掛 時代 2 縄文時代 3 弥生時代 4 農耕社会 の展開 5 高地性集落 と特殊器台 6 古墳時代前半期 7 古墳時代後半期 8 古墳 の終 末 と火葬
第三葦 近世の鴨方 1 鴨方町 の沿革
( 1) 平安時代 ( 2 ) 鎌倉室町時代 ( 3 ) 江戸時代の初期
l 1 4
567
7八日凸へ=凸0 5 5 0 1 00 8 2 1 1 1 りん‑ 3 3 3 4 7 7 9 9 0 4 5 9 4 4 4 4 ⊂J 5 5 5 3 3 3 3 6 6 6 6
吹
( 4)
江/I ‑ 時代後期
(5)町村制施行 ( 6) 六条院町の沿革 ( 7 ) 現在の鴨方町 2 江卜時 代中期の鴨方町
( 1) 位置 と石高
( 2 ) 大 路 ‑ ‑‑一 一 一 一 一 一 ‑‑‑一 一 ‑ ( 3) 川 ・橋
(4)
晶 ・ 瀕場
(51
山 ( 6) 池
( 7) 産物 ・産業 3 鴨方蒲の支配
( 1) 鴨方蒲の権 力構造
① ② ③
同山滞 か らの家臣団移動
鴨方蒲の職制 .機 側. 家臣団統制 鴨方藩地方知行制の実態
( 2) 鴨方漕内の村落構 造 4 年 貢
( 丑 鴨方満の徴税形態 と岡山播
② 鴨方村の鍬下
(2)近世後期 の年貢 5 近世村落の展開
(1
) 鴨方村 におけ る 「中割」 について ( 2 ) 天草池用水権 をめ ぐる争論 につ いて ( 3) 頗 母子講の具体相
(4)
近世後期 における賓農経営 につ いて
第四肇
人口 と集落 1 人 口
(2)
人口異動 一 一 一 ‑一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 ( 3) 人 口構成
2 駅 前 束は] 地の性柁 ( 1 ) 駅前E j f I 地の成立
7 7 (パ) 8 3 4 4 4 4 4 5 5 1 1 1 1 1 1
( 2) 人 口構成 ( 3) 通勤 ・通草先 ( 4) 前住地 と入居理 由 ( 5) 団地の暮 らし ( 6) 駅前東団地の性格 3 過疎化の進 む 日原地区
( 1) は じめ に ( 2 ) 日原地区の概 賓
( 3) 過疎の実態 ‑‑‑一 一 日‑ ‑‑
( 4) 過疎 の現由
第五章 交 通
1近世の交通 2 道路交通
( 2 ) バ ス交通 3 鉄道交通
( 1 ) 国鉄山陽本線 と鴨方駅 の あゆみ ( 2) 鴨方駅 の営常状況
第六童 農 業
1
鴨方町農業の概要 ‑‑ ‑一 一 一 ‑‑‑ ‑‑ 一 一 ( 1 ) 鴨方町
( 2 ) 農業の状況 ( 3 ) 耕地両税 ( 4) 機械 化の状況 ( 5 1 溜池 と用水路 ( 6 ) 阿部 山の開墾 2 誰農化 と虚業耗業状 況
( 1) 農業鹿茸人口 ( 2) 凍薬化 3 換金作物 と畜産
( 1) 換金作物の変避 ( 2) 澱近の農業生産
(3)畜 産
( 4) これか らの農業
1 5 5 1 5 6 1 5 6 1 5 7 1 5 7 1 5 8 1 5 8 1 5 8 一一 一 日‑‑一 ‑ ‑ 1 5 9
3 7 7 9 2 2 7 仁U 6 6 6 7 7 7 1 1 1 1 1 1 1
1 8 7
1 8 7
1 8 7
1 8 7
1 9 1
1 9 1
1 9 1
1 9 6
1 9 6
2 00
202
一・ 一 ‑‑‑‑一 一 日‑202
第七費 商 工 業 1 商 業
( 1 ) 鴨方町の商1 ‑ 3 gの推移 と現況 ( 2 ) 鴨方の商圏
2 工 業
( 1) 明治 ・大正〜第二次世 界大戦 までの工菜 ( 2 ) 第二 次世界大戦後 から現在 までの工業
第八草 教 育 1 近世の教育
( 1) 郷章一観生社 ( 2 ) 私 塾 ( 3 ) 寺子屋 2 近代の教育
( 1 ) 小学校
( 2 ) 実業補習学校 と背年学校 ( 3 ) 高等女学校
3 現代の教育
( 1) 鴨方の学校 の概況 ( 2 ) 郷土学習
第九章 子 どもた ちの ' ' 郷土 ・日本 ・世界"意識 1 調査概 要
2 子 どもた ちの郷土意純
3 子 どもた ちの空 間 ( 同山 ・日本 ・世界) 意識
9 9 2 7 7 6 1 1 3 3 3 4 2 2 2 2 2 2 9 9 0 6 9 9 7 3 2 2 9 5 5 6 7 7 7 9 0 1 1 2 2 2 2 2 2 2 2 3 3 3 3 5 2 8 3 4 6 3 3 3
第 1章 自 然 環 境
1.
鴨 方 町 の 地 形 と地 質 (1) 逓熊 山の 山頂 にて鴨方駅 か ら遺 牌 山行 のバ スに乗 るd 逓鼎 山は鴨方町.金光町 お よび小 EEl郁 矢掛 町 との境 に位
思す
る標高 406
m
の山であ るO 山頂 は岡 山県 西南部か ら郷戸 内海 にかけ て広 く眺塾 で きる展勝地 であ り, また, 山頂付近 に ラジウムを含 む冷 泉が湧 くため, 簡易保険 保獲 セ ンタ‑をは じめ, 宿泊や レク リ ェ‑ シ ョンの施投 が設 け られ, 保峯地 と して も知 られてい るOバ スは宮 ノ脇か ら光林房 を経 て佐古‑ と向か う。 右 手 には急傾斜 の 山が迫 り.左 手 には棚 田が広 が る谷底部が み られ る。 谷 は しだいに狭 くな り, 谷む こ うの急 な山腹斜面 が近 く‑迫 って くる。道 は連続 したヘ アピンカー ブで谷 を登 る。 地成
岬
に近 づ くと, 道 はゆ るやかな登 りとな り右手 に池が み られ るO バ スは樽暗 い谷 か ら明 るい峠 に出 る。 その まま峠 を下 る と矢掛 町 であ るが, バ スは右手 に折 れ てなお登 ってい くと, ほ どな く終点 の逓倍 山荘 に着 くO見事な眺望 であ るO 眼下 には金光か ら鴨方 にか け ての平野 とその南 には寄島 山塊. さ らに その 山 山を超 えて頼戸 内海 に浮かぶ笠 岡諸 島 を眺 め ることが で きる。北 東 に眼 を転 ず る と弥 高 山の 山頂 が 望 まれ る。 弥富 LL)は倉敷 市 と沸 騰町,矢掛町 とに またが ってお り, その 山頂 には高度 200m〜 300
mのか な り広 い額斜面 が認 め られ る。 そ
こ に
は古 くか ら胴金 きれた加 や それに伴 った雑務 がみ られ る. この よ うななだ らかな山頂硬斜面は弥福 山か ら次第 に高 くな りなが らここ盛照 山につ らな り, 西の阿部 山にかけて も窪 め られ る0 両東方 向を見 ると, 阿賀崎 ・玉 出の平野 が広 が り, 玉島の市街 地が望 まれ るO そのむ こ うに高梁川 を鵬 でて水島工芸地帝 が あ り, さ らに架橋 中 の板 戸大橋 と坂 飽 の島 々を遠望 す ることが で きるO浅 口郡鴨方町 は輿経133033′か ら
133
037
′,北緯34
030
′か ら34
035 ′
に位罷す るひ ょ うたん型 の町域 であ る0 両私 36 . 38
k損(昭和59
年現在 )O北部 と南部 は山地 とな ってお り, その間 に平野 が あ る。 その様 子 は図1‑ 1‑ 1
に よ く表 わされ てい る。 この図 は
500 m
胤隅 で描 い たN25o W
方 向の断面図 を束 ほ ど右 にず らして並 べ た ものであ るO また図1‑ 1‑ 2
は2 万 5
千分 の 1地形 図 で幅250mの谷 を埋 めた遡瑚 切嘩面鼠であ るO町域 の くびれの ところが平 野 にあたるの で,平野の面軌 ま小 さい。 岡山 県土地分類 図資料 (1974
年 )に よる地形労り 面群 の概 数 では, 山地500 / 0
, 丘鯉地220 / 0 ,
低地
28%
であ る。 行政 区域 か らみ る と,北写真 1‑ 1‑1
造 照 山か らの桃生は小田郡矢掛町, 東 は玩 F j即金光町, 西は笠 岡市,浅 口郡里庄町,南 は浅 口郡寄島町, 倉敷 市 と接
してい る。図
1‑ 1‑1
地形断面 図図1‑ 1‑2 鴨方町周辺の山地の埋積切峰面図 (2万5 千分の 1 地形図で 轄250m の谷を埋めた。等高練は 50m 間隔 )
‑3‑
(2) 竹林 寺 山 と阿部 山
違照 山 よ り地蔵峠 まで引返 し, そ こか ら竹林寺 山へ とむか う.施根部 の倭 斜面 は流紋 岩 よ t)成 っ てお り. 赤褐色の風化土がみ られ るo また,威97iには流紋岩の玉葱状風化 を見 る ことが で きる (写
媒 1‑ 1‑ 2
)Oしば らく行 くと,竹林寺 山山頂 に銀色 に即 く大 きな ドームが現 われ るO 岡山天 体物理観 測所 であ る (写
貞 1‑ 113)
。 粟点大学東京天文台 に所属す る観別施設 であ り, 口径1 88
(7Wの反射望遠鏡
を包む ドームをは じめ, い くつ もの概 則用 ドームが設 附 され, 鴨方町の シノホルの 1つ と もな って い るO竹林寺 山山原 も慈牌 山 と同様 な山頂桂斜 面 J:りなる。 山頂 J:り北 を見 る と矢掛町 に広 が る小 田川低地 を眼下に眺 め ることが で きる。 本 山塊 の北側, 矢掛 町へ むか っては急峻 な斜 血 と/Jってお り, 山鹿に は断個 に よる三角末%L面が認 め られ るo ふ りむいて南方 を眺 め ると鴨方低地 を見渡 す こ とが で きる。 鴨方低地 へ と至 る南瓜斜面 は北瓜斜 面 J:りもゆ るやかに府政 を減 じてお り. 虫酎 こ伸 び る山硫碩 斜面 に対 して南北 に直線的 /it芥を刻 ん でい る。 西方 には阿部 山のなT='らかな山原緩斜面
が ひろか ってい る (73:弟 1‑ 1‑4
)o観
測所 を出 て, 野鳥 の さえず りを耳 に しなが ら鰻根 づ T=い に阿 部山‑ とむか う。写真
1‑1‑2
流校章 の玉 葱状風化 写真1‑ 113
岡 山天体物理観測所の 敬利用 ドーム写真
111‑4
阿部 山の山頂横斜面 写其1‑1‑5
阿部 山山頂 にひ ろが る畑地阿部 山東 か ら阿部 山西 にかけては江戸時代末期 か ら開塾が行 われ てお り, 古 い家並 み もみ られ るO あ た り一面にひろが った他 の中 には. なだ らかfL道 が通 ってい る (写兵 1‑ 1‑ 5 )O このな T=rら かな山頂横斜 面 は西の笠 岡市‑ と続 き, ゴル フ場 として利用 され てい る所 もあ るO
(3) 阿部山の南斜面
阿部 山を藤 ケ峠 か ら小坂東 に至 る谷 に沿 って南へ下 ってい くO 峠 か らしば らくの間,道沿 いの塔 頭 にみ られ るのは流紋岩質 凍灰岩 または流紋岩封角律粒灰岩 であ るO 八方池堰境付近 で層理 のみ ら れ る砂岩 と泥岩 の地層 が現 わ れ る (写央 1‑ 1‑ 6 ). この地層 は中生代 白亜紀 の湖成層 であ る硯 石屑 にあ たる (岡 山県地学 の ガ イ ド
1980
)o この上下 にみ られ る流紋岩 質 凝灰岩 とは迎合関係 で あ り, 中生代 白亜紀 の火 山活動 に よ って流紋岩塀 が噴出 した ことを示 唆 してい るO 八方池南方 か ら 阿部 山西 の南方 に抜 け る迫 をゆ けば, この硯 石屑 を追 うことが で き (写穴
l‑ 1‑ 7
), 硯石屑 を 切 る小断層 もい くつか観察 す ることが で きるD凡 例
[ = コ 干拓地
沖 研
層山砂利
層 (更新世 ) 花的岩
(中生代 後期 ) 流紋岩
(中生代 白亜紀 ) 硯 石層群
(中生代 白亜紀 ) 変放 れい岩 〜 変卿緑岩 (古生代 ) 泥貿砦 〜
珪質 片岩 (古生代 )
チャ ー ト
〜珪質片 岩
(古生代 ) ホノレンフェ ノレス 実在断 層‑ ‑ 推定断層 一 一 一一 伏在断層 一 一一 1‑ 町界
図
11 1‑3
鴨方 町周辺の地質
図(光野千春 ・杉田
宗粛誓 岡 山県地jE図よ り作 図 )さらに南へ下 る と, 杉谷地付近 で鰭頭 は花 樹 岩へ とかわ るO 上位 の流紋岩質粒灰岩が熱変成 作用に よ ってホル ンフェル ス化 してい ることか ら. 白亜紀 以降 に花 樹岩のfl人 が あ ったことが わか る。
また, この付近 では断層 に よる鍵肌 やJFi岩 の 圧砕 された角嫌 が報 告 され てい る (虫明
1 961
)0 阿部 山を刻 んで南北 に走 る直線的 なV
字谷 は断 佃 破砕縛 に沿 った侵蝕 に よ って形成 きれた断層 線谷 であ る と思 われ る。 そ して, この周辺 には 現石屑 でみ られ る よ うな小規模 な断層が多数 ある。
L4) 直線状 の谷
阿部山の現石屑 でみ られ た よ うな小規模 な断 層 は,竹林寺 山か ら地蔵 峠 を経 て山鹿の山 ノ神 へ と至 る道中 で もい くつか見 ることが で きる。
まT:,地蔵峠 で も範肌 が報告 され てい ることか ら (虫明
1961
), 地蔵峠 か ら山 ノ神へ と至 る写真
1‑1‑6
八方池堰堤付近 の硯石 屑写真
1‑1‑7
硯石膚 (下 )と流紋岩 箕角礎凝灰岩 (上 )Ⅴ字谷 も断層線谷 であ る もの と患 われ る。 この
北栄 一南西方向の断層 は,本庄 の谷,小坂酉 の直線的 な山鹿線へ と至 ってい る. さ らに, 岡山県地 質 図 (光野 千春 .杉 田宗蘭 )によると,吉宗一宮ノ脇 を通 る南北方 向の左 すれ断層 が記 され てい るo この よ うに枚数 の断層 が交 わ る本庄 か ら地鉄 上 にかけ ては. 小 さな谷底平野が急峻 な谷壁 で囲 まれ たす り鉢状 の地形 とな ってい る。 断層破砕帯 の正 な った部分 が侵蝕 を受 け ることに よ って形成 きれ T=もの と思 われ る。
遺照 山の南, 益坂 か ら金光町阿波 にか けてはほ鹿 西に伸 び る直線的 な谷 がみ られ る。 これ も断層 線 谷 であ る。 南側 に位 怒す る原 宿約200
m
の安芸守 山一城 山の花 刷岩 よ りな る山塊 は, 北側 の慈照 山塊 よ り一段低 く, この谷 に よ って両者 は分 離 され てい るO 宮 ノ脇南方 にみ られ る山勘新 蹄線 の ト ンネルで貫 かれ る小 さな丘陵 も, この断層 に よ って形 成 された小分 離丘 陵 であ る.現在, この直線 状 の断層線谷 に沿 って山脇 自動車道 の建設が行 われ てい るO宮 ノ脇か ら南へ むか うと. す ぐ西側 に鴨 山が見 える。 戦 国時代. 鴫 山城が輿 かれ た ところであ る。
この山 もまた花 岡岩 よ り成 る. 鳩 山の南西部 にはみ ど りケ丘 団地 が造成 され てお り, 南頚 部 には鴨 方町の中心 とな ってい る本町 が あ る。 鴨 山を境 として南側 には頗苗 100
m
末価 の花 軸岩丘 陵地が点 在 してい る。 そのひ とつ,駅前団地 が建殴 され てい る鴨方駅北側 の丘 陵地 か らは,北 輿方 向 に安 芸守 山一城 山山塊 の直線状 の山鹿線 を眺 め る こと が で きる (写
r 11‑ 1‑ 8
)0(5) 山砂利 の丘陵
飢前 よ り里 見川 を取へ 下 って金 光町 との町墳 付近 の宮迫へ と向か うO宮迫付近 はtLb'皮 20‑
30mは どの なた'らかな丘 陵 とな ってい るo塔 頭 を見 る と, この丘殿 は頂部 まで硬朋 で構成さ
れ てい る ことがわか る。 棟周 は円‑並 円鎌 で梢
成 され, 直径
10
cm以下の陳が多 くを占めてい 写真1‑1‑8
安芸 守 山一城 山山塊 の直棒 状の山麓線 ることか ら, 河川 下流域 の堆項物 として捉 えることが で きる. また,背後の寄島 山塊が花 純岩 i:り成 ってい るのに対 して, この喋府 中 には花 側岩 の他 流紋岩質凝灰岩や泥岩 も認 め られ,他 の地 域か ら鎌の供給 が行 われ た ことを示 唆 してい る。
地質図 をは じめ諸文 献 では この疎屑 を更新綻, いわゆ る山砂利屑 と してい る。 同
様
な庸層 が相 部付 近 で もみ られ る。
山砂利屑 よ り成 る丘 陵 は この2
つ で. 以南 は花 岡岩 の丘 陵 とな る。 山砂利層 の上 に立地 してい る相部妹落 は古い家並 み を残 してい る。山鹿鰍 こ沿 って西‑ むか うと, 花 樹岩の丘陵 や その虎部 に梁落 や団地 が立地 してい る。 生 石典 落 は さ きほ どの相郵袋落 と同便に. 占い家並 み を殉 した規模の大 きな舛薪 であ る。 珪石 か ら鳩 ケ丘 に かけては,宮迫,相部の丘陵 と同
様
な山砂利厨が分布 してい る。 正保 の古図 に よれば,現 在の金光 町胡麻屋 西端 あた りまで梅 が入 ってい †こよ うであ る (虫明1961
)。 この ため, 平野部 は低湿 であっ7こと思 われ, 人 々は水 はけの良 い山砂利朋 の丘陵地 に縫落 をつ くっTこと考 え られ るO (6) 南部の 山地
南部 の寄島 山塊 は鴨方 ・寄島町境 の萄 王 山 (289
.
4 171)を中心 とす る花 樹磐 の 山地 であ る。鵬 ケ丘 の南方, 高井 よ り山王峠 を経 て六条院束 へ とむか う.道 はほぼ姫 西に伸 び る直線的 な谷 に 沿 ってい る。 この谷 は急峻 な谷塵 を も
つ V
字谷 であ T),WTJd繰 谷 と考 える ことが で きるO 北凧 の泉 山は南側 の簡王 山 よ りも山頂濁度 が一段低 く, と もに山頂部 に緩斜 面 を もたない。谷 を抜 け ると六 条院乗 の谷底平野 が ひ ろが るo この地形 は造原 山鍵の本庄付近 とよ く似 たす り鉢状 の小盆地 であ る.ここでは山王峠 を通 るほほ束 西の断層 と, 寄 島 山塊 を刻 む南北 方向の直線 的 な断層線 谷が交 わ って お り,侵 蝕に よって この J:うなす ()鉢状 の谷底 平野が形成 され た もの と思 われ るD
永広 か ら南‑ むかい,町境 の峠 に立 つ と, 谷 の下方 に寄島の家並 み, そ して瀬戸 内海 に浮 かぶ島 島 を眺め ることが で きるO 寄島 山塊 の南側 は急 使封 で海 に迫 ってい る。 鴨方側 の北 斜面 には, 東西 または北東 一南西方 向の谷 が深 く刻 まれてお り. それ らの谷 を境 として屯王 山 (289
, 4m)
か ら象 山(22日 m ), そ して六条 院中 の山地 (143.7が )
とい った よ うに北 へ むか って高淀 を減 じてい る。 南北方向の谷 は浅 く山塊 を刻 ん でい る。(7) 鴨方町の地形 槽造
北 部の盛 岡 山一阿部 山の 山塊 には, 栄西, 南北,北 栄 一南西方 向の断層 が発達 してお り, それ ら に よ って山塊 は多 くの モザ イク状 の断IB地塊 に分 け られてい るO 断)同地塊 は それ ぞれ高度 を異 にす るが, 山塊全 体 としては,北側 に急峻 な斜面 を もら. 南仰 まゆ るやかに高波 を減 じてい る。 山頂部 には緩斜面が薄 め られ る.
南部の寄 曲山塊 は南側 で急峻 な斜 面が掛 こ迫 ってい るのに対 して,北側 では栄 西方向 と北東 一雨 gB'方向の断同線谷 に よってい くつかの断同地塊 に分 け られ る. 断層地塊 は階段状 に高波 を減 じ, 山 塊 の北端 では丘陵地 とな る. 丘 陵地 の なかには山砂利 層の小丘 陵 もあ り, 古 くか らのfJき藩 が立地 し てい る。 この山塊 には山頂様斜面 は認 め られない。
両 山塊 と も東 西方 向 あ るいは北東 一両西方 向の断層 に よって山塊の概 形 を形成 してい る. そ して, 南北方 向の断層 は山塊 を刻む断層線 谷 とな ってい る. 枚数 の断層が交 わ る地点 では, 本庄 や六条 院 東 にみ られ るよ うなす り鉢状 の小盆 地が形成 されてい る。
両山塊に挟 まれた平野部 は,以上 の よ うな断層線配 ftFuか らl FP,ri方地滞樺 と呼ばれ てい るO 鴨方地溝 帯 には南北両 山塊 が福皮 を減 じてつ くった花 岡岩 の小丘腔がみ られ, その間 を埋 め るよ うに沖街 平 野 がひろが ってい る。
(管 浩伸 )
(8) 山斑 の小扇状地
鴨方町北 部の阿部 山や遺贈 LLJの山嵐 南部 では寄島 山地の 山鹿に小虜状地が分 布 してい る. 扇状 地 は, 河川 が 山地 か ら平野 に流れ出 る谷 rj付近 に形成 され る半 円錐状 の唯も与地形 であ る。 この地 域 では
, 1
つ 1つの茄状地の規模 は小 さいが, 山掛
こ沿 って近接 してな らび, 歳側 を重 ね る合流性 の 振合扇状地 をなす ところ もあ り, 全体 として山鹿の緩斜 面 をな してい る. 山鹿 の軽斜 血 であ るの で, 人部分 は宅地,耕 地 果樹 園な どに利用 され,改変 され てい る ところが多 い。扇状地 は, 水利 に便 なの で,水 田化 されやすいが, 粗 い妙味 か らな り, 透水 性 で水 はけが よいの で,畑 や果 樹園 と して利用 され てい るところ も多 い。 そ こでは.桃.柿, ぶ ど う,大豆, 花井 な ど の栽培 が行 われてい る。
阿部 山山鹿 は,北東 ‑南西方 向の谷 で南 を限 られ てい るO このFrにむか ってPE.]部山山地か ら流 れ こむ小谷の出 口付近 に,扇状地 が形成 きれ るo 小谷の集水 面郡 は狭 く, したが って扇状 地 も小規模 であ る。 小丘陵 をなす 山伽 と,谷 口か ら小環状地 にか けての低地 とが交丘 して, くし状 の地形 をな すo 小扇状地下流 の扇側 は, 隣 りの それ と重 な る ものが多 いo 小丘陵地 と小扇状地 とあわせ て, 全 体 としては山腰掛 こ沿 う綬 斜面 をなす。 小丘陵や扇状地 の高 み は, 集 落 ・畑 ・果秘 潤が多 く, 谷筋 には水 田が朗 けてい るO 戯状地 のお よその勾 配 は図1‑ 1‑ 5の縦断 面図の よ うである。
鴨方町南部の六条院粟, 六条院中, 六条醗 西の各地 区 で も, 寄島 山地 の山鹿 に扇状地 がみ られ るO いずれ も災水面額 が狭 い小 谷 に よ って形成 きれた もの で, 小規模 であ る。 ただ し,六条 院東 の中 四
‑ l ヽ 」 l
皿 ‑ l l ■ l l l l l l l ‑ 小起状 山地 ∫ ( 1 「 」
丘陵地 (大起状 ) ) (
丘 地 (小包状 ) . / t
ー 1 ■ ヽ
「 ′ ∫ ヽ 、 1
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庶 状 角 壁 川 道 州 . 改変 ∫I / く 丘 野 防 千 ( \
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然
河 井 工 罪 逮 \★ ◆、 . ー ノ i
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1 l 2 l 0
図
1‑1‑4
鴨方町 の地形分類図5 00
図
1‑1‑5
扇状 地縦断面 図1 , 000
(m)桑原, 四条rji,永広,森迫 にか けては, 扇状地 が担合 して, 他 の もの と比べ ると比較的規模が大 き く,傾斜 も緩 い.規模 が大 きい理 由は,堅川 のit・水面税 が やや広 い ことや,風化花 倒砦 よ りな る山 地 なの で, 土砂 の眺 給が多 いか らな どと考 え られ るO 堅川 は下流 で天井川化 してお り, 流 出土 砂丑 が比較的多 い ことを示 してい る.
この地域 の扇状地 の土地利用状況 は,六条 院中 ・六 条院西 では, 扇頂 ・崩央 の一部 に桃 や柿 な ど の果樹 園や畑が見 られ, 題火 か ら扇鞘 にか けて水田化 が進 んでい る. 宅 地化 され てい る ところ も多 いo六条院東地 区 では,
畢
川 とその支 流 に沿 った地 区 では成瀬 か ら厨鵬 まで水 田が多 く, 堅川 か ら 離 れ るに したが って,秩 .柿 な との栄樹 周や畑 を見 る ことが で きる.(堀 伸夫 ) (9) 平野部 の地形 と土虜
鴨方町の北 部には雌 高 366
m
の阿部 LLJ, 4 05 . 5 m
の遁原 山な どの山 々か らな る毒腺 山塊 があ り, 南部には標 高221.1mの泉山, 289.4m
の屯王 山な どか らな る寄島 山塊 が あ るC この2つの 山塊 の 間 に堅見川 に沿 った低地が東西 に延 び てい るO国土地理 院発行 の 1万分 の
1
カ ラー空中写如に よ り地形分類 を行 い. 山地 丘 陵, 扇状 地, 平野 な どに分類 した ものが図11 1‑4
であ る。 これに よる と平野 は里見川 お よび その支 流 に沿 って広か ってい る. 平野の中の本町付近の 市街地 の西方 及 び駅前商店街の北東 には丘陵が存在 してい るB その他 は標高 20m以下 の平姐 地 であ るO 平野部 には北 か ら杉谷川, 益坂川 が離 れ,鴨方川 に合 流 してい るo また西か ら束 ‑栴 田川 が流 れてお り. 鴨方川 と合流 したの ち里見川 へ流 れ込 ん でい る。
里 見川 は さ らに南か ら流 れ る鳩 岡川,堅川 を合流 して乗へ流れ, 玉島湾へ とそそぎ込 ん でい る。 こ
れ らの河川 に よ り山地 ・丘陵が開析 きれ,線状 に平 野 が延 び てい る。 鴨方町 の平 野 は河川 のNl胡 作 用 に よ り形成 きれ†こ沖胡平 野 であるo この平野 を流れ る
河
川 の うち, 鴨方川 ・堅川の2
河川 は天 井 JHtな ってい る部分 が あ る. ま た鴨方町 にはため池が多 く, 平 野部 に も多 くの ため池が存在 している。
里見川沿 いの低地 は西の里庄町 ‑ と続 いてお r). その低地 を西へ新庄川 が流 れ,笠 岡湾へ と注 ぎ 込 んでい る。 鴨方川 と新庄川 とは里庄町平 井付近 で谷中分水界 をな してい る. 里 見川 は ここか ら
鹿
の里庄町 の一部,鴨方町,金光町 の低地 を氾塩原 として流 れ,海 に流れ込 ん でい る。 金光町 の井戸 井付近 の里見川両 梓 には 自然鍵防が形成 されてい るO 自然堤 防 は里 見川支流の鴨方川左 岸の本町付 近 に もみ られ る。長 さ500 m
, 幅50 m
程度 の規模 であ るo 自然堤 防 上 には塊藩 が立地 してい るO 比 倫は数 10C7W種皮 であ るが, まわ りの盛土 部 との区別 が つかず, 自然堤防 との蘭圧差 は とらえにくい。
平野部 を構成 してい るのは沖碩層 であ るO 八磐盛設 コンサル タ ン ト及 び応用地質 湘査 事務所調査 の鴨方川周辺 の ポー リングデータ (図1‑1‑ 6 )に J:ると約 15m程度 の厚 さで唯研層 がみ られ る。 この堆概層の基 軌 よ風 化花 樹砦 であ る。 花 細管 は風 化が著 しく砂状 を皇 してい る。堆切眉 は シ ル ト周 ・粘土層 ・砂層 ・砂康屑 か ら研成 され てい る。 下流側 では シル ト屑 ・粘土層 が多 く, 上流側 では砂層 .砂凍屑 が多 くな る傾 向がみ られ る。屈原 も下流側 では好 く,上 流側 では比較的蒋 い.礼 屋 堰 では他の地点 に比べ て堆税J百が
21 . 5 m
と厚 いO この地点 は 自然堤 防の形成 され てい る場所 である. この平野 の堆石'3層中 には, ボー リング柱状図 には記 され ていないが, 貝敗 を含 む粘土層 が あ る。
この地層 は縄 文時代 の海進期に このあ た りまで入 りこん でい fこ浅海 の底 ない し鵜 で堆 積 した もの で, その上 に河JrIに よる砂嫌 が磯 み重 な った と考 え られ る。
次 に土成 についてであ るが, 岡山腺土地分楳基 本調査 土 壌 国 に よ り鴨 方 町 の 土 壌 国 を作成 した
(
図 1‑ 11 7)O これに よる と山地 ・丘陵地 の土頑, 台地 の土盛, 低地 の土頚の3つに大 き く分 け られ る。 山地 ・丘陵地の土車 は岩石地.末耕土, 褐色 森林土 の3土贋群 に. 台地 の土盛 は褐色森 林土, 灰色台地土,費色 土の3
土磨群
に,低地 の土軌 ま灰色低地土, グライ土 の2
土壌群 に細分 す る ことがで きる. ここでは低地 の土壌 について詳 しくみ てい くことにす るO 灰色低地土 は主 として 沖郡平野に分布 し, 全層 またはほぼ全層が灰色 または灰梱包 を呈 し, 畑地 を除 い て斑紋 を もら, 0
‑ 60
cm以下 に錬層.砂凍層 を もつ場 合 もあ る水苛性 の土厨 であ るO グライ土 は主 として沖横平 野 の排水不良地 に分布 し,表 層か ら少 な くと も80cm以 内 に背灰色の グライ層 を もら斑紋 が認 め られ る水軌性の土壌 で, 籾水面 は50‑ 70
m であ るO これ らの土腰 の分 布 をみ る と,平野 の多 くは灰〝Ⅰ 5 0 0 1. 0 0 0 m 0
リーllllllll 図1 ‑ 1 ‑ 6
鴨方町城の沖積平野におけるボーリング柱状図1 2
km■■岩石地
⊂ コ ‑)‑恥 IL
ES 習諾 慧 姦 地 )
[ Ⅱ 口等 評 土
E ∃ 灰色台地土
[ : = ]責色土
∈≡ ∃灰色低地土
∈ ヨ グライ工
図
1‑1‑7 鴨方町の土壌 (土 地分類基本調査 1983 による )
色低地土 であ り, クライ土 は主 として鴨方川 の左岸 の分布 してい る。 この グライ土 が分 布 してい る 地域 は半湿田 とな ってい る. 灰色 低地土が分 布す る地域 は 自然堤防的 な ところで, グライ土が分 布 す る地域 は後背 湿地的 な地形 であ るO
以上の ことをま とめ ると,鴨方町 の平野 は里見川及 び その支 流に沿 う低地 であ り,拙 文海進細 の 海成個の上 に これ らの河川 が土砂 を堆鎖 させ て作 られ た沖帝 平野 であ るO
(磐口 慮美 子 )
参考文献 ・参考資料 Lk明宰保 (
1961
) :義解 山塊 の地形, 岡山大学教 育学部卒業論文小野弘 志 (
1981
) :岡山県 西南部 の地形 環境, 岡 山大学 教 育学部卒 菜論文 光野千春 ・沼野忠 之 ・野晒聖人 (1980
) :岡山.県地学 の ガ イ ド, コ ロナ社 光野 千春 ・沿野忠 之 .高橋凄郎 (1982
) 二岡山aLI'地学, 山脇新聞社鴨方川地質 調査 (昭和
59
年実施 ) ㈱ 八妥 廷敷 コンサル タ ン ト,㈱ 応用地質調査車務 所 土地分類基本調査 「玉島 ・福 山 ・寄 島 ・仁尾 」 岡LL」児 (1983)
1/ 25000
土地条件図 「玉 島 」 匡I土地理院発行 (1976)
2. 鴨方町 にお ける自然の改 変
(1) 鴨方町の 天井 川
(Jl)鴨方町 内の河川 と天井川 の分布
鴨方町 内に は, 主 (こ8本 の 2級河川が放れ てい る。 鴨方町内の河川 図 (図 1‑ 21 1)i:りわか るJ:うに,鴨 方町内の河川はすべ て鴨方町の はば中央 部 を恥旅 してい る里見川 に注 い でい るo これ らの河川の うら, 杉谷 川,鴨方川, 益坂JHは その始点 を鴨方町 内の北部 山地 に もってい る。堅 川 は その始点を南部 山地 に もってい る。里見川 は, 里庄町東 部に軒 を発 し, 鴨方PT, 金 光町 を横 切 り倉 敷 市に入 り, 玉La湾 に注 いでい る。指田川 は里 庄町 k発 し, 鴨方PT内 で里見 川 に合流す る。 鳩剛 Il
は, 鴨方町の南部山地 に軒 を発 し, 一時里EEPT を流れ,再 び町5万mTに入 って里見川 に合流 す る。
これ ら他方WTを流 れ る
2
鍛河 川について ま とめ†こものが
衰 1‑21 1
であ るo鴨方 町内 には天井川が存在 してい る。天井川 とは 「堤防 内に多生 の土砂が堆 8.1し河床面が平 野面 よ り
J
T訂くrLった河 川 ,河体面が高 くrLった ため艇 防 を高 くす る とさ らに唯横が進み 平野 と の比高 は大 とlJる (地学 辞興に よ る )」河 川で あ る。 天井 川 は, 洪水 を防 ぐ目的 で堤防 を重 き 河道 を隠定 した ために で きた とい う意 味 で人工蓑 112‑1
鴨方町内 の2
扱河川 河 川 名 全延長 (m)
qI円延長( m) 里
見 川ll
.781.95 3,220̲00 鴨 方 川 3.980.65 3.980.65 括 印 川 4.800.00 3.300.00 益 坂 川 1,811.90 1.811.90 杉 谷 川 2.300.00 2.300̲00 壁 川 2.500.00 2,500.00鳩
岡 川 3.270̲00 2.470.00 本 庄 川 1.360.00 1,360.00 的 lJ地形,,であ り, 人 r'F'Jの生活 と深 くかか わ ってい る。河川の上 流か ら下流のすべ てにわ た って天井 川化 してい るの ではな く, 河川の一部に出現 す る。 また, 天井川においては, しば しば改 捗= 番か行 われ るため, その実 1削 ま年 々変化 してい る。
2万 5千分の 1の地形凶で擬 防の記職 か あ るの は, 堅川 ・鴨方川 と益坂川 .指 田川 ・鳩岡川 ・里見 川の ご く一 部 であ るO この うら国土地理院発行 の土 地条件 図 に天井川 として記峨 され てい るのは, 堅川 ・鴨方川のみで あ るo そ こで本柿 では,堅川 と鴨方川の天井川 につい て述 べ るO
( ロ)
天井川 の変遷① 墜 川
堅川は鴨方町南東 部の布 島PTとの町境 付近 の 山地 に発す る森迫川 ・巣 山戸 山IHに は じま り六 条 院 町出協 西条風 支店付近 で合流 して堅川 とfLり北流 して鴨方 町の中央 部 で里見川 に注いでいる河川であ る。上流地荷は花 勧告を母岩 とする砂質 輝土地籍 である. 北平地 区か ら里 見JH合流地点 までの確 川下 流部が天井川 とTLってい る。塾 川は抱 Fl:l朋 ・RI中蓑 雨期等 には急 激な水位 の
増
鼠 急速 な土 砂の流 入, 漏水等 の危険 な状態 を しば しば被 って きた。 この様子 は, た とえは砂防剛 Il洗路上施行 につい ての陳怯む (鴨方町町役場各 種殊帖 占嵐 昭和 49年 )等 に衣現 され てい る。 「この河 川 は鴫,6町ー.
‑ . lI ・ / \
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冊 ナ 堤 防
の南東 部 山林地 帯 に発 し地底 の 中央 部 を軒 下. 二掛 剛 l卜壁 用 を経 て北流, 二綾 取日日里 見川へ合 旅 し てい る この地方 唯一 の 河川 であ りますD この地方 の土 田 は花 拙者 を母岩 とす る砂包 頗土地 相 で南部 山林地軌ま急 峻 で あ ります0年 阻降
水
鮎 は平均 1. 200
ミリ掩度 で比収 的少 冊 であ りますが毎年抱 雨脚 こは掛 Ff東 和 に肝 々見舞 われ てお ります。 ため に二ヒ砂 の癖 矢 甚 ・fI'しく下流 の二枚 河川堅 川 の如 きは, 当初 両岸 のJBi糾 帯が阿 川 や闇 に許 が 出来 てい た状 態 であ った ものが現 在 では舶描5m〜 6m
の天井 川 とな ってい る状況 で あ ります。今般 軌跡 = を要望 い た してお ります 地 政 は急竣 な山地 よ り 流 下, 挺勾配 とな ってい る地 相 で その周辺に
は
柑 正六条 尿 策里庄 線 及 び人家 が群 雄 し降雨 亀 に上 砂 旅に よ r)改 岸O j
u蝕 .河 外のEtl没 と多大 の被r E T T を
IJ=ノてい る ところで あ りますo よっ て流路 = の触 行 に よ り人心 の安定 と災害 の防 止を計 りfこくお願 い申 しあ げ る次 第 です. 何卒, 岱 愉 ご兜察 下 され 特 別の お取 り:‑;lL')い に よ りこれ が蒐 鮎 を C採 択 下 さい ます よと陳情
いた します。」上
述 の敵 情番 の串にみ られ る 「当初 両㍍一の段 別者か 而Hllを附 に語 か 出来 て い た状 態 で あ った・‑」とい う記述 よ りか な り急 速
にF 軍
用 の天 井 川化がi珪威 した こ とが うかが え るO野
川 の天井 川化 の時期 につ い ては, Ftl
きITV.りに よる と大 正末 期か ら刑和 初 脱 にか け て天 井川 化が顕著 に進 展 した とい われ てい る。 それ以 前 (明治以 前 )よ i)六軒 川 であ っ た とい う.5‑もあ るか, それ につ い ては聞 き取 りを 泣付 け る文献 その他 の軽料 もな くよ くわか らFft、。たffラ浅 口郡蕊 の第三 ,水誌 の二 ,天 井 川 の部 分 (第一五 五節)
に,
「R)j治姓 新 ol)秒変に
苦 りで林政 弛倍 し, 民心 また世 運 の変 化の著 るしきため に 再林 の将来 を席 み る もの な く, その混 伐各 所 に迫 りで.山林 米 韓 の軌 希土 暴 砧 して一雨短に土 砂 河鹿に雌Gj'し, 河床%̲超 して所 謂 天井川 とlLり (以 下省略 )」とい う記述 があ るO これ は明治緋新 を契機 とす る天井 川化 の進展 を述 べ てい るの で あ るが, この ま ま堅 川 につ い て もあ ては ま るか どう か わか らない。聞 き取 りに よる と璽 川 は現在 まで に大 欠 壊 した こ とは ないが, たび たび水筆に見舞 わ れ(明
拾 26
年11
月 にf3LLL戸 山Jll・堅川
は7J(苛 に よ る裾fBを受けた ),その都 度 石垣 をつくるな ど徐 々に改修 工 事 が進 め られ て きたO 大 規模fJ改 倖工 市 と しては, 職和12‑ 15
年 にかけ て轟迫 川 の砂 防= 事が 行 われ たO 森迫 川 を含 む上流地 相 は花 I.WB争尽 日 とす る砂田
旗土 よ りな り, 棺 性 に乏 しい荒 れ たLLr 地 で降雨 の股に土砂 が流 出 し,墜
日 の天井 )冊 コを促 進 して きた と考 え られ る。 慨 き取 りに よ る とこの誇迫 川の土 砂 が堅 川 か ら里 見川 .玉 島帝 まで 旅 出 してい き, 玉 島 幣が埋 ま る とい う被等 さえ出 て い た とい うQ そ こで この荒 廃 した山
地
vI舵機 が tJされ, 砂 防 ダムが理殺 され たO この二 部 は旗 林省 の商標 = 中 として行 われ,RB和初 肋の不 況 に よ る按弊 農村 救 済 の役 割 も果 た してい た とい う。 その 後 もこの地kT=こは砂防 ダ ムが い くつ か つ く られ,河 味 も一 度 換 り下 げ られ土 砂 の流 出 とい う問題 は ほほ消 失 した。 この工 Tfiの記念 剛 ま六 条 院PT也 協 西 条原支 店付近 に現 在 も残 ってい る (写喜 ‡1‑2
‑ 1
, 2 )0昭和
51
年 の台 風17
号 に よ る長雨 で は堅
川 の葱 岸 の一 部 が くず れ たO 北 平地 区 よ り上 流部 では 河床 を頼 りコンク リー トで庶 ぼ りを して河道 を鼠 定 させ河 川水 を早 く抜 くとい う底 ぼ り法 を用 い た′
写真
1‑2‑1
森 迫川砂 防工事 の記 念碑(秦 ) 写真1‑2‑2
森 迫 川砂 防工事の記 念碑(寡) 改 修= 啓が行 われ た。 この上流 部 は安 心 で きる状 態 とな ってい る。一方北 平地 区 よ り泉見川 との合流 地点 までの 下旅 部 は依然 として危 険 な状 態 か続 い てい る。 そこ
で鴨方mTは以 下の よ うな要望 宙 を県 に提出 してい る。 この う らの
「2
級河
川堅
川 の改 修計TJl樹 立 と 早期実施 に つい て 」の項 目を抜粋 す るD 「この河川 は, 鴨 方町 の東 南 部寄島町 境 に発 し, 里 見川 に そ そ ぐ典型 的 な天井 川であ りますD 降雨 の都 度土 砂流 と堤槍 の漏水 に よ り災琴 の多発 してい る河川
であ ります。 近年上 流部砂 防指定 区域 につ きま して は流蹄工 の= TJiか な され安 心 出宋 る状 態 とな っ てお ります。厚 く軌 礼申 しあ げ ます O しか しなが ら本 流 部 lこお きま して は, 旧憤 然 としてお ります ので出水 の 早 さ, 勾 配 の軽 に よる水位 の輔 苗等非常 に危険 な状 況 で あ ります の で, これが 漏水 防 止 を兼 ね た本格 的河川改 修 をお願 いい た した く要望 しますO (鴨 方PT役場 各 種臥情 ,G巌, 昭 和53
年7
月11
日)」この よ うな要 望雷 は昭和44
年 か ら49
年 にか けて も毎年 挺 出 され てい るO 堅 川 下流 の河 床 は平常時 にほ とん ど滴 れ てい るが ,土 砂が か な り堆 和 してお り降 雨等 に よ る水位 の増 高 が予 想 され るO墜川 改修 田業計 画FTの堅 川縦 断 面 図お よび平面 図 よ り墜 Jllの堤 防 描 .河 床 訪 ・水 田商 を 抜 き出 して同化 した ものが図1‑2‑2
,鴨方 町 役場 に よ る鴨 方町全図 を もとに作成 した河川縦 断 図が図 1‑ 2‑ 3
であ る。 これ らの 岡 よ りわか る よ うに,叩]床 は両 岸 の水 田 よ り1.0m〜 30m
拓 く,見窃 な天 井川 を な してい る。堤 防 は河床 よ りさ らに2m
ほ ど高 いo まわ りの水 田か らみれ ば股
.
. ‑ ‑
1 .図
1‑2‑2
改鯵工事 による堅 川 の変化下流部 〔改修工Igi継軌申 〕
罫
1次計画I C K ) 5
"{1'
ETT‑Iil.こtt:̲: 笥 1.∝氾m ‑ 3 1
‑ 「* 2 上
靴 部 1〔改修工塀完了 〕
上図 卜 2‑2
で表 現 した部分1 里見川 との 合流地点図1‑2‑3
河川縦断面 図 苗 5m も描 くな ってい る。 この 下 流 演目よ昭 和6
0年 か ら絶 工 費3
億 円 の予定 で 改 捗工 印 が 計 軌 され てい るo l次計画 として里見川 との含 洗地点か ら1 . 005 m , 2
次計融 として同 じ く 合流地点か ら1 , 600
桝の範囲が予定 され ている。=法 は上流部の庶 ぼ り法に対 して勾配 を軽 くす るだけでな く伏流 水 を確保 で き経済的 に も 安価 TL床止め (根 が ため )法 を用い てい る。 こ
の=事に よ り下流 部は
2 m
樫河床が下が り現 在 は ど天井川で な くな る予定であ る。昭和
61
年2
月現有, 下流 部分の=野 は継練写真
1‑213
改 修の進 t:室川(S61.2
月現在 )写真
1‑2‑4
堅川の天井 川(右手 に見 える白い建物 は川 鉄製鉄工業鴨方住宅 )
写
g t1‑2‑5
室 川の捷防 と水田(白い車 が止 ま ってい る部 分 が堤防上 の県道 )
中 であ る(写
央 】‑2‑3‑5)
.②
rTJf1 万 川鴨方町北部 の逓照 山 ,竹林寺 山 よ り発す る本
E E
川 と曲田川は大尉付近 で合流 して鴨方川 とな り南 流 して里 見川に合流 す る。遺 恨 山の中央部は醗紋 肖地 敬 そ0)南側 o)斜面 は稚拙岩地輔 とTi‑ってい る。 また鴨方川 は川 ノ手付近 で も益坂I
IIを合 せ てい る0本庄 JII・鴨方川 は, 昭和
56
年 の柴 中京両 で欠壊 し, 堤防 ・桶 の破聴, 嫡朱等 の被苦 を受 けたo 鴨 方川 は それ まで何皮か災苗 を受 け, その都度原 申復 旧の工・‑ElJか行 われ て きたが
,馳和 56
年 か ら59
年 にかけ て災謬助成 額丑 として改俸工・gJか行 われ たo鴨 方川は川幅 が広 い †こめコン ク リー トで同幅 を闇 め るのみ に し, 河床 は砂地 の まま鼓 し
何
体が高 くなる と土砂 を掛 るとい う形 で改修 きれ た。僻和
61
年2
月現 在, 鴨方 川の潜岸 は コンク リー トで薗 め られ てい る.同株には革 が生 見, 渇水期 だったので河川水 の締 れはあ ま りな く,よ どんでい た (写
災 112‑6)
0写真
1‑216
敏 捷工事の完 了した鴨方 川 く印方掘付近 )(S61.2
月 ) (板野利絵 )(2) 鴨方 町の溜池 (JfJ 浅 rj那 0
5
徹池岡山県浅 口郡 は個 池の多い ことで知 られてい る。 い うまで もな く稲作 には榔概 が完 全であ るこ と が必死 であ る。 ところが, 当地方 は瀬戸 内沿岸 の寡両 地幣であ る うえ,触概 の利 のあ る河 川 は
打梁
川, 鴨 方 川, 大 良川 のみ で あ り, その他 多 くの 天井 川 は, 平 時 個 潟 し た状 膿 とな ってい る。 し たが って, 河 川 以 外 の もの か ら潜敢 FEl水 を補 う こ とが不可 欠 とTLる。 そ こで, その役 割 を果 た す もの と して, 戚 ん に 御地 が築 造 され たC その た め, 当地 方 は, 滑 油 の特 に多 い地 方 と して 世 に知 られ るほ どの潤 池 の 数 を有 す るに至 っ てい
る。
また, 郡 の 中 で も鴨 方 町 は, 年 間, 水 の豊 か な河 川 が な く, 冊 池 に よ る稚概 面街 の削合 の特 に宿 し、所 とな っ てい るO 古 い質料 で は あ るが, 浅 口郡 詑 (大 正末 頃 )に i る と, 池斬 田地総 段
別 616 . 4
町 の うら, 池沼 に よ る拙既 段 別 は604 . 9
qr
で, なん と98
0/Oを占 め るO (ロ) 溜 池 の変 逝溜 池 の状況 は, 苗 か らず っ と変 わ らず に現 在 に至 っ てい るわけ で はTiいO新 し く灸 造 され T:
り, 埋 め立 て られ た りしな が ら, その結 果 と し て現 在 の姿 が あ るわ け で あ る。 それ で は, どの よ うな変 遷 を た どって きたの で あ ろ うか。
蓑 112‑2
鴨 方 町 内の 溜 池 の数< 文 献 ・聞 き取 りに よ る溜 池 の 数 >
大 正 末 溜池 の 数
378
浅 口郡 誌 昭和 ㌘ 年 頃381
浅 口地 方 誌㈲ 和
4 2
年 頃245
役 場 での 聞 き取 り〟
<地形 図 か ら判 筑 で きる溜 池 の数>
明治 知 年 発 行
110
昭 和
2 5
年 〃130
。r131
昭 和43年 〃123
昭 和5]年 //
120
()r121
<
空中
写弟 か ら判読で きる溜池
の数 >昭
和50年
1‑4月国
土地理
院裾彫そ こで, まず 数 の うえか ら禰 池 をみ てい く。 わか り得 た聴 園 の もの を示 す と,
衰 1‑2‑2
の よ うにな る。ます, 文献 や拙 き取 りか ら得 た数 僻 で あ るが. 明 拾 期 あ るい は それ 以 前 の もの に つい ては と らえ るこ とが で きな か った。 た だ, 本 県 の 滑 池 は, 明治
12
年 の岡 山県統 計安 に よれ ば, す で に この時 期 に現 在 の 数 とあ ま りか わ ら7,1・い ものが で きてい たO ま た, 井 軍地 方振 興 局管 内の 溜 池 築 造 数 (衷1‑21 3
)は 明治 以 後 それ ほ ど多くない。 LT=が っ て, 鴨 方 町 に お い て も溜 池 の 数 に つ い て, 臓
妻1‑2‑3 r
岡 山県 土 地 改 良 史 」に よ る築 造 年 次 別 溜 池 敷江 戸 明 治 大 正 昭 和
振 興 局
1‑ 19 20
‑ 不 明 計笠 岡
436 14 10 7 15 534 1 . 016
岡 山県 耕 地課 訊杢
S.58.10.14
全 休 の儒 向 と同様 の ことがい えるの では なか ろ うか.大 正末 以 後の鞄 池 の数 につ い ては
ま1‑2‑2
に示 しT:通 りで あ るか, これ らの数 につい ては, それ ぞれ 数 え方 の規 準 に違 い が あ る と思 われ, そ の変化 は駈純 には考 え られ ない。 しか し, 全体 的仰 向 として, 昭和 27
年 か ら43
年 Ii‑.で の 間に減 少傾 向 に転 じてい る よ うであ る。また, 地形 軌か らとらえ た数僻 は, 文献 や朋 き取 りか ら得 た数値 に比 べ, ず い ぶん少 lJくな って い る。 これ につい ては, 地 階 閲 に表 す 禰 地の大 きさに限 狂が あ るな どの理 由 に i る もの と思 われ る。
ま た, 年代 の新 しい地形 図 の方が楠 m‑の紬 、調査 に よ り得 た結 果 が記入 され てい るの で はriいか と も考 え られ, 地形 図 か ら渦池 の敬の変 化 を比 較, 分析 す,5こ とは困 難 と思 われ る.
空中写真 か らも油 池 野 と らえてみ たが, 溜 他 か どうか を判断 するのに困 難 な ものが あ るな ど, あ ま り正確 に は と らえ られ なか った と考 え られ る。地形 図 に よる もの と比 べ ると, 幾 分数 は脚 してい るが, P=tiき取 りで村 T=数値 に は, は るか に及 はない.
次に, 溜池 の分 布 であ るが, 昭和
42, 59
年 の もの を示 す (囲 1‑ 2‑4)0 42
年 に比べ,59
年 では幾分 減 ってはい るが, 町 内 全体 に ちらぼ ってい る様 子 か うか が え る。 地形 的 に は, 山地 丘 陵部 に多 く, 低 地 に少 ない よ うであ る.減 少 してい る所 は, 山地 ・丘 陵部 に免 中 してい る とい える。
また, 潤 池の分布 につい て, 浅 口地 方誌 lこは, 地形 を低地, 衆 落, 山地 丘 陵, 海 湾 に分 けた場 令, 溜他 は丘陵の多 い所 で多 く, 恥芹 及 び低 地 で疎 とな ってお り, また, 地 形 鼠 の種類 で は, 笠 間 号 図幅 の もの, その中 で も中央 部が政 も多 い地域 とな ってい る, と配 され てい る。 す なわ ち, この 鴨 方机 あ た りが その部分 にあ た るとい え よ う。 したが って, 浅 LJ地方の なか で も, 鴨 方mTは特 に 潤 池 が多 く分 布 す る地域 とい え るの では ない た'ろ うか.
以上 溜 池 の数 の変 化 ・櫛 他の分 布 をみ て きたが, それ らよ り淘 他 は阻和
27
年 か ら43
年 の 胤 に減少傾 向 に転 じ, その後徐 々に減 少 してい るの ではないか と考 え られ た。 そ こで,
次に, 潤池 が 現 在 に至 るまで, どの よ うに変 遷 して きたか を, その理 由 と と もにみ てい きたい. ところで, 櫛 池 は,
潜涯 用 水確 保 の必要性 か ら車 道 され るの が主 であ る。 なか で も稲 作 との幽 わ りが深 い. 鴨方 qT に おけ る虚 業 の詳 しい野料 か得 られ なか った ため, 岡 山県の飽 業 の変 遷 と幽遜 づ け て溜池 の変速 を 考 えてい く。溜池 は, 新 地 の朗 発 と同時 に, 旧藩 時代 あ るい はそれ以 前 か ら常 々 と して輿 か れ た もの であ る。
築 造年代 の わか ってい る もの だけ を と ってみ て も, 江戸 時代 がLtRLも多 く, それ に年代 不明 の ものの か な りの数が 江戸 時代 の もの と患 われ る.
明治 掛 ま, 作付 の制 限が轍 頗 きれ責納 が貯 止 されて地 租 が金 納化 され た ため, 収入 の速 を拡 げ i うとして
,
曲家 は廃 って耕 地 の拡 張 に走 った。 また, 政術 も開 墾 を典 助 した ため耕地 は着 実 に増加 してい った (姦 1‑ 2‑4
)D この時 期 は全 県的 に平地, 山間 を問 わず各 地 で耕 地 が拡 張 してい っ たの で あ るO したが って, 鴨 方町 に おい て も, この流 れ に沿 い, 同様 の傾 向 が み られ た もの と思 わ図
112‑4
溜池 の 分布 (昭和42
年〜59
年 )‑23‑
表
1‑2‑4
水 田面積の変 化早 県 の 田 の 面 倒
M. 15 75 , 511
■r比. 9 20 76 . 575 ̲ 9 25 77 . 683 . 8 30 81 . 886 . 6 35 83 , 294 .3 40 85 . 762 . 0 45 86 . 667 .7
「岡 山県土 地改 良 史 」J:り 岡 山県統 計
100
年史P .4
J:り引用浅 口瓢 の水 田 面顧 (町 歩 )
加 1 . 14 3 . 740
19 3 ,544 30 3 , 677 19 /14 94 . 8%
「岡山県 土地改 良 史 」よ り 各年 の岡 山県統 計表 よ り作成
れ る。
また, 表
112‑3
「熟迅 年次 別 撒池数 」をみ てみ る と, 笠 岡 で明治 期に 14
を数 え, さ らに年 代 不明の中 に明治期 の ものか相 当含 まれ てい ると考 え られ, 実際 の築造 数 は 14よ りか な り多 か っf=と予想 され る。
したが っ て. 以 上 よ り, 明治期 に おい ては溜池 は全体 として増 加傾 向 にあ っT=の ではな い か と思 われ る。
次 に, 大 正 ・昭和 前期 (戦 前 まで )で あ るが, この 時期 は, 政掛 ま農 民 の保護 と食観増産 を
「 l 傍
として戯 某 政解 を遂 行 したO 既耕 地 の水 田化 が主体 とな り, 桝 地 の賢的 向上が 図 られ たo したが っ て, この時朋 におい ては, 排 地面概 が大 き く拡張 した明治期 に比 へ その勢 は影 をひ そめ た.
本 /UTiにお け る水 田の面積 は
, 8 . 8
万町歩 か ら89
万町歩 を前後 して, 大 きな増 軌 はなか った。 鴨 方 町に おい ては. 昭 和 に入 ってか らの数値 で は あ るか搬少傾向 に あ るこ とか うか が われ る (表
1‑2‑5) O
しか し, その一 方 で, 明治
32
年 に出 され た 桝 地盤理 法 が明治38
年 に一 部改 正 され た こ と に J:り, 水利 施設 の本 格 的 な整備 と新 設か始 ま ったO これ は大正 中期以 降, 特 に宿 発 化す る。本 県 におい て は, 水利施設 の fLかで も溜柚 に関 す る弔文 が極 め て多 く取 り上 げ られ てい る。 こ
の時馴 こ築 造 され た溜池の数 は, 井 笠地方振 興 局 管 内 で
17
個, これ らに年代 不 明の もの が幾蓑1‑2‑5
鴨方 町の 水田 の面棟「岡 山県統 計年 報 」よ り