(1) 鴨方藩 の徴 税形頓 (免 状 を中心 と して )
( ∋
鴨 方溝 の散租形 態 と岡 山滞寵文12年(1672 ). 池 田綱 政の次 弟 政
吉は 25000
石 の分 地 が認 め られ fこ。 そ して貞草元 年 (1684), 政吉 の所蘭 が備中浅 口 .経由 両 郡 に まとめ られ領地 の朱印状 も下 され て鴨方支滞 成立 とな っ/こ。 鴨方 支店 の成立 に よって, 桐 山滞筒 か ら鴨方浦街 とな る村 々の教組 の形 態 は どの よ うに 変化 してい るの だ ろ うか。 この点に つ いて, 六 条 院西 村, そ して窪屋 郡 埋川 村,
懲 沖村, 古 新田外 新 田 村の免 状 を分 析 す る ことを中心 に 考察 して み r=い。 4村 と もに斑文 12年 に政 胃 に分 地 きれ 自 学元符 に正式 に鴨方満額 とな る村 々で あ るOまず, 免状 の形 式 につい て示 して お きTこいo免状 の形 式 自体 は岡 山席 の村 ごも鴨 方常 の村 で あ っ て も変 化 は ないo
衷A
は六条院西 村 の点字 2
年 の免状 であ るO最初 の① の貴 慮 であ るが, この ほか に「 ○
○ 郡 △△ 村定土免 之LB」⑩ ⑪
⑬⑨ ⑧ ⑦ ⑥ ⑤
④ ③ ② ①浅口郡六条院西村定免相∠野
i荷九百四拾三石壱升内=
三輪
石
壱斗七升七合年々立来万引高庇:.3七百五拾九石三斗壱升五A=
残 品
九百拾弐石八斗三升三合内⁚田;rIj
弐
百五拾石五斗九升六合物成百弐拾石弐斗八升六合免四ツ八分
間高三百弐拾八石五斗
物成百弐拾四石八斗三升免三ソ八分
同市五拾石七斗ヒ升壱合
物成拾八石弐升四合
由布弐百八拾弐石九斗六升六合
物成八拾九石壱斗三升四合免三ツ境分五リン
四口吻成三百有給弐石斗七升六合内=
弐石
四
斗九升樋守水入屑共壱石五升三合意田免下応五石弐斗六升
九合之所へ退ス
残物成三百四拾八石ヒ斗三升壱合
左成三拾四石九斗膚升弐(夫米弐拾石九斗弐升四合
口米六石九斗七升五合
又'弐石壱斗電升ぬかわら代走米合三百七拾八石七斗四升
右相定遡上者庄屋小官姓出作造寄合佃甲乙令割
符来ル霜月中御年員急度皆済可仕儀若死突入於有之者為残百姓弁可納所者也
貞草式年
⑩
広内権右南門花押⑲十月廿八日
庄屋小百姓中
とな ってい る免 状 が あ る。② の一掛 ま朱 印 疎 を示 してい るo この免状 では存在 しな いが, 朱 印 痛の 列 に新 しく開 かれ た関白 の稀 を示 す 「又応 」が‑ 話 の次lこ記 峨 され てい る免状 もあ る.③ の 部分 は,
田白荒 な どに よる万 引砧が記俄 され てい るO② の一 席か ら③ の万 引 応 を引 い た ものが⑤ の残 砧 とな る。残 蕗 は その年 の実際 の村 有 を示 してい る. そ して⑥ の部分 で田 由 の缶, 物成 虫 , 免串 が記 され てお り,物 成 ̲qの合計 が⑦ とな る。 これは定物 成 侵, つ ま り領 主 側 の搾 取 しよ うと し/二見 を現 して い る。⑧ の部分 では,加 損,検 見 下 りとい った よ うな物 成 引が示 され て い る。 ここは⑦ の定物 成1A か らどの程度 引か れ るか とい う実際 の収噂 故 にかか わ る部分 であ るo そ して定物 成 母 か ら⑧ の物 成 引 を
引
いた ものが⑨ の甥物成 であ り,実際の収
#丑 を示 して い るo⑲ は付加 税 で あ るが,詳 しい ことは後述 す る。残物 成 と付 加税 の合計 が⑪ であ る
o⑩
は決 ま り文句 であ り⑱ は その村 の年 白徴 収正任 者 の氏名 であ る。⑩ は免状 が下付 きれ た口付 が示 され てい るが, 徴租 法 を考 え る上で大 切な部分 であ る。 /Jお
,
④ の直高につい ては次 で触れ る。それでは, 次に免状 の分析 に うつ りたい。 まず鴨 方灘 の一 高 (宋印帯 ), そ して直 高につ いて考 えてみ たい。
1
) 鴨方潜 の一 再 と画商政吉 に栄 印が下付 され たの は山乎元年
9
月の ことであ る。 そ してその4カ月前,正式 に分地 きれ る村 々の一 帥 『信 州脚 知 行噌 呈 謡と内去年 之由物成御 見合帳 』 (以 F『‑ 牒脈割
』 と略す )に記峨 されてい る。 それに よると六条院西村 の場 合, 943石l升4台 とな ってい る。
蓑3‑4‑1
六 条 院 西 村芳治
( 1 6 6 0
3) 一 高8又苗 2967.2.5.4.石8斗9升9合 環指924市1斗5升 万引帯 0 直訂759石3斗 1升5合貞 早 l
(1eB4) ‑又店8店 494.0.5.5.6.8,9.9. 残蕗910.7.7.7. 万引fL'530石1斗7升7合 虚砧759.3.1.5.
出撃 2 ‑砧943.0,1.0. 残薗912.8.3.3. 万引高30.1.7,7. LnI靖759.3.1.5.
埋 川 村
万治3 ‑南215石4二相 升3台 残搭179石2斗5升4合 7=jL引砧36石2斗3升9合
直
柘 77石7斗6升 貞与と1 一 高215.4.9.3. 残高164.5.9.0. 万引扇50.9.0.ト 百石 77.7.6.由
宇 2 ‑荷164.5.9.0. 残拓 164.5.9.0. 万引雷0
感応 77.7.6.貞学 4 ‑高164.5,9.0.
残
高 164.5.9,0. 万引砧0
両高 77.7.6.ここでJk3‑ 4‑ 1をみてい た†ごきたい。 これ は2相 の鴨方溜成 立軌の村両 を示 した もの があ るが, これ をみ る と六条院 西村の場 合
,
『イ;,J州様知行割 』に
示 され [=‑ 市が免状 に現 れ るのは出I r 32
年 か らと考 え られ る. そ して新 しい一高 を前年 と比較 してみ る と, 岡 LLト価筒 時代の一宿 と又 商, そ して 天和3年 の新開田島 (2石6斗 )の合計 が的万博成立時 の一 宿 つ ま り朱 印描 とな ってい る ことがわ か るO しか しなが ら万 引掛 ま新 しい‑ ,fiとな った以降 も30石 程度存在 してお り, その ため実際 の 相 帯 を示 してい る薦 膚は, その万 引高の出 だけ低 くな ってい る.次に掛 目村 の場 合 であ る。 『信州 様 知剤 』に よる一 高 は, 164石5斗9升2台 であ り, 六条院西村同 様,鴨 方溝 としての‑ ELJTが免 状 に現 れ るのは用事 2年 と考 え られ るO埋川村 の新 たな一 宿 は, 前年 までの残席 に当 たる丑であ る。この村の脇 合は, よ り現実的 なE.l
i
が鴨方幣の米 印痛 とfiってい るとい え るO以 上,鴨 方潜 としての米印両 につ いては,輿 ll:設定 があ っ†こと考 え られ るが,貞卑j軌こ示 され Jこ各村 の朱印柘 は幕末 に至 るまで変 化 していな い。 しか しなが ら,六条 院西村 では30石余 りの万
引高が匂年 存在 し, ま[=蝿川村 では, 汀戸時 代rF7収以降,開発 され た新 田分 29石 4
升
8台 が存在 す る. この よ うに,村 々の実際 の砧が‑ 蕗 とお ()であ った とは い えない であ ろ うO次に慮掛 こつい てであ る。岡 山藩 における山 砧の設定 は, 光政 の播邸 か ら因 .伯へ の転封 時 (元 和
2
年 )に さか のぼ る。播蝉 か ら因伯へ の転封は , 215700
石 の減封 とな った。 この/A印戚激減 とい う状 況に対 して,家来 敬, その絵地 応 をその ままに保 つ T:めに設 け られ 1=の が面内 とい う究空 のl・j古であ ったO そ して潟 ・伯か ら術前へ の転封時 (LlE永9年 )に も, 因 .伯 とイ肘iTlの朱印苗がは と^ ど変 らなか ったf=めに, 岡 山席 におい て もTu]掛 こ面 高が設定 され たのであ る。 この直/.耳は,家中
‑tli役賦課 の基準の柘 として, また僻細物成寧計罪 の基 準 の稿 としてTti‑安 な意 味 を もつ もの であ っ†こ。
しか し, 画稿 とい う
; .
:・)‑はあ くまで架顎 の応 であ り,家米 側か らすれば給地 .由は慮満 に よって老 化 し なか っ†こものの,物 成準 は実際 に仔/とす るl
LTtこii合 うJ:うに 下げ られ たの で,実 際 の取米 が減少 し て しま った とい う状 況 であ ったOこの直需, 岡 山帯磁 の各 村 々の免状 には礎九 に至 るまで伯 に記収 され てい る。鴨方備 前 とな る4 カ村 について,免状 の残 存 してい る明府 ・万拾 肋以磯 の
j 訓
戒状 況 をみ る と, 岡 山藩領 時代 は榊論 の ことであ るが,究文12
年 政吉 に分 地 され て以降, そ して由宇 元年 正式 に朱印状 が下 され Tこ以降 も 由砧は記威 され挽 けてい るの であ る0 位末 期か残 ってい る鴨方村 の免状 に も庶高の記 俄 をみ ること が で きる。 そ して宙 応 の並 なの であ るが, どの村 も一点 が痘苗 を上回 ってい る状 懐 であ る。 (表 3‑ 4‑ 1参府 )岡 山帝領 の時代 か らそ うな ってい るの であ るが,鴨方滞成立以降 もず っとこの状態 であ る. まfこ六条院西村 においては, 自
学 2
年 か ら貞 事3
年 にか けて面蕗が減少 し, それ以降 は減 少 した直面 で記城が続 いてい る状況 であ る。一 応が厄前 を上回 ってい る状況, そ して直 稀が減 少 し てい る六条院西村 の例, これ らはい ったい どの よ うな意味 が あ るの だろ うか。 直苗の,3味 か らすれ ば矛盾 してい る と考 え られ るO鴨方僻 に とって血路が どうい う意 味 を もってい T=のか, 甚 だ疑問 で あ る。2)
的万感 の徴税法次に,鴨方僻 の徴税法 について岡山僻統時代 を含 めて考 えてゆ きたい。
まず, 岡 山津 の状況 について述 べてお きたい。 岡 山掛 こおいて, その初期 の段 階 (拙 文期迄 )の 徴租法 は
,
「土免」が基本 とな ってお り, そ して飲 免 ・毛兄 を補 完物 として補 って, その総体 で一 つの徴相法 をな してい1ことされて い る。土 免 とい うの は癖の段 階に その年 の年古 を決定 す る。 つ ま り春免 であ り, 額モ側 の全剰余労 幽搾取志向 と在地 の生産力構造 が矛 盾 す る轄賭 制 社会第一段階の 教祖法 であ るとされ てい る。岡山滞領 の各 村 々の免状 では, 明暦朋 か ら斑文朗にか けて, 衣掛 こ上 免 と記城
きれ 日付 が布 の 日付 とな ってい る嚇 合 が多い。 そ して, u=l由の免率 は L.だいに と韓す る傾 向 にあ り,多 くの村 では詑文末 好日こは それ までの叔 荷の物成!inに遜 す るのであ るO そ して それ以降,Z 新 †こな展開 をみせ て くる。各村免状 をみ ると丘拓の物成 屯 とな るrtE文末朋以 降, 田由 の免率 が嗣定 化 され る傾向 にあ り,廷宝 羽後Y・にな って くる と表題 に土 免 の記 収 もな くな り, 日付 も秋 の 日付 とな ってい く。 この段 階の教組 法 は
,一 筆
ごとの田島の免率 が固定 化 きれ, それに基 づいて徴租 が行 われ る とい う「板取 免 」であ る とされてい るD 岡 山津領尾上村 では,田方が上免 .中免 ・下免 に分 け られてお り, それは下 々EElであ って も上免 に含 まれ てい る とい っ†ニよ うに田品 にかか わ りな く三 殿軌 こ分 け られてい るのであ る。 そ して その三段階 の免 は祥末 に至 るまで変 化 していないのであ るo 免 が=.段肝 に分 け られ るとはか ざらないが, 岡 山溜領 において は,
先文末 期 か ら延宝期 にかけて土 免 か ら税収 免へ と変 化 し, 免 が固定 化 きれ Tこ以 上春 の段階 に免決定 を行 う必要 もな くな り. やがて 秋 の決 ま っ†二円 (10
月28
日 )に免状 が下付 され る よ うにな る。 そ して板取免 の段附に な ると, 定 め られ T二物成 位か らどれだ け引か れ るか, つ ま り物 成 引の大小 が実際 の年貞盛 にかかわ って くる の であ り,j i
H民的余 剰 の可碓 性が でて くる段牌 とrfって くるの であ る。以上,岡 山常 の徴租法の鋤 きをふ まえ ,鴨 方 藩 の徴 税 法 につい て ,岡 山 錯 簡 時 代か ら考 えてみ た い 。
まず, 明暦朋 よ り連続 して免状が残 ってい る埋川村 ・について考 ,iてみ よ う。先 に述べ た よ うに, 岡 山潜 にお いては経文親 までは士免 を中心 と Lfこ徴机 法 が行 われ てい ・1,)。判り廿村の場 合, 免状 をみ る と政
吉
に分地 きれ る窺文 12
年 までは土免 の記椛 をみ るこ とが で きる。 (以下衷 3‑4‑ 2
参照) こC)村 は明暦期以降 の免状 が残 ってい るのであ るが, その明麿 の旭状 はいずれ も表鬼 に土免 の記収 が あ り, 日付 も春の 日付 とな ってお り, この時糊 に土免が行 われてい た ことは明 らか であ ろ う。寛 文3
年, 8
年の免状 ではそれ ぞれ「6
月20
日, 10
月 二攻
」, 「6
月19
日, 9
月二改 」 とな っ てい る. これ らの年 は, 春の段借 に年 貞割 付 が行 われ たけれ ど も実際 の で き荷が予樋 に反 しTこもの とな り秋の段階に変 更 しなけ ればな らな くな った年 で あ っTこと考 え られ る。 ま†こ寛文10, ll,12
年 は土免免状 とな ってい る。次 に「口由の免率 であ るが, 明暦2
年 の免状 では田免3
ツ(30% )
, 由免2
ツ (200
/a)とな ってい る。T,nL文期 に はい って兜文2
年, 4
年 Iと上昇がみ られ,'m文8
年 に EEl免 3ツ6分, 畠免 2ツ5分 とな って以降上昇 がみ られな くな る。明暦朋 か ら寛文 末朋 にかけて[H 后免率が漸 増 し, 究 文8
年 に上 昇 した後 はず っ と固定 化 されてい る状況 であ るD寛文期 までの埋川
村 の状況 は, 偲沖村, 古新 田外新 田村 について もあて は まる。 土免の記城が あ り日付 も春 の 日付 で あ るとい う免状 は.Lhi文末期 ま でであ り, 雅文期 までの 田は免率 の漸増,
ir三文8年以降 の同定 化 につ い て も桝.
川村 と同 じであ る。以上 の こ とか ら
,
兜文8
年 ごろの段 牌 までは,備 中岡 山潜 において も土 免が行 われてい fこと考 え られ る。諾文8年以降,埋川村他 2相 で もEEI由免が固定化 されてい る。 そ して, 六条院西村の 自早期 の免 状 において も免準 が変 化 していないの であ るが, この村 の勘合, 田方 の免が, 4ツ8分, 3ツ8分,