• 検索結果がありません。

古境時代後半期

ドキュメント内 教 〕歴史的町鴨方の変貌 (ページ 74-82)

J ヽ

7. 古境時代後半期

後 半期 の横 穴式 石室 については現 存 の もの に対 し大半 を踏査 で きた.特徴 的 な ことは次 の

3

点 で あ る。

‑55‑

̲ ̲ ̲ ̲

̲̲I ′ ノ 二 二 /

2‑8

地頭上 塚地 出土

① 築造 時期が 新 しい ものが殆 どで ある。

② 曲数 が多 い。

比較 的規模 が大 きい。

① については.まず石室構 造 か ら見 て確認 できる ものはすべ て無袖 で あ り,比較的 大 きな石 を面 取 り加 工を施 して構 築 している ものが ほとん どであ る こと. また遣物 か らみて発㈲調杏 されてい る

3

基 の横穴式 石室

C Z t l (

その内,阿坂 古墳 を図

2‑9

に示 した )か ら出土 した須恵鰭お よび過去 に採 集 きれて町 教委 に保 管 され ている須 恵器69(図

2‑ 10

は その 内の 一 つであ る )が陶邑編隼 田 に よ ると古 くて

TK43

型式 の後出的 要素 を もつ もので あ り,中心的時期は

TK209

,岡山県 の編年朗 で寒 風 A帯 に あ たる ことO この石室稲 造 と須恵辞 編年 よ りV.G方の後 半期古墳 の盛 行期 は

6

世紀末

〜 7

世 紀初頭の時期 が考 えられた ので ある。

② に つい ては県の過跡 台帳田 の記載分 だ けで

4

0基 前後 (消滅 した もの も含 む )の横穴式 石室が確 認 されてお り

,r

岡 山県通史』紗 こよ ると

62

基 (明 らかに シス トと記 されて い る ものを除 く )岡山 県通史の数 を補 正 した 『六条院町

j四 では旧六灸院町 だけで もさらに

10

基が加 算 され るとい うO 消滅古墳 については横穴式石 室か ど うか不詳 であ るので正確 な軟 は期 し難 いが. それ に して もrL̲産

匿 =i

∈ ≡塾)

i ・ +

2‑9

益坂阿坂 古

墳 ( 注1

文献 よ り )

韮 盤の脆弱 さや前半 期ま での状 況を考 える とか な り数 で あ る。

③ に ついては表

2‑ 1

を見 る通 りすべ て東 壁

崎 1 ̲ 2‑ I . 3m

以 上 の もので,最大 の ものは同幅

2 . 0m

を測 り吉備中枢 部 の群 熊境 と比岐 して も遜色 ない。 図

2‑ 11

は鴨方町 では著 名な向ケ市 占墳 であ るが規 模は奥 壁幅

1 . 65m

・現 存長

9 . 0m

を測 るOさ らに② で述べ た よ うに策造 時間 が比較 的新 しい と

← 一一一・・一一一′LJ

i‑ ‑.IlJ 一一〈 \

n r

、一一一†1 ‑ ‑ 「.‑ ‑ I/‑

〜‑ ‑ 「一 ・ 一一 √

2‑11

六条院 向ケ市 古墳

二 二

考 え られ るのに

.

表退期 の横穴 式石室 の特徴 であ る奥 壁

幅 1 . 0 m

前 後 の小石室 が鰍 ことで あ る。

以上 の甲実や解釈 を ど う理解 すべ きで ある うかO 犠 穴式石室 の築造 が ,生産 力の向上 を背掛 こ共 同体か ら階級 的に分化 して きた家父長 制的 世帯共同体 の家父長層 を畿内 政権 が そ の身分 秩序 の下に 組 み込むために用いた極 めて政治的 な手段 で あ ったこ とは既に定説 とな りつつあ る餌 。 そのこ とを 前提 として考 えてい くと① 〜③ で見 た よ うな,この地域では特 異 と も思 える後 半期古墳の諸特徴 も 極 めて政治的 .経済的 背景 を もつ現象 と考 え ざるを得 ない。

その背景 を考 えて い きたい。発掘 調査が ほ とん ど行 わ れてい ない現状 では あ くまで推 測 にす ぎな いが, い くつ か蓋然 性の高い ものを あげ てみ よ う。

まずEklt桝 面であるO 今 ま での流れか らす ると この分 野 での生 産 の飛 雛的な向上が あ っTことは考 え に くいが ,鴨方 の平野部 に は条里制の痕 跡が み られ その頃 には水 田化 していた こ とは確芙 なの で, 後半期 には既 に沖積化 が,そ して 水田化 がかな り進 んでい た のか も しれ ない。

に窯業 面の可能性 であ る。舛接す る金 光町 には須 恵器の窯 跡群であ る須恵古窯跡 群が あ り県 の 遺 跡台帳餌 に よると鴨方町 に も古 墳時代の窯跡 が記 され てい るO (製 品 は進入 してい た海 に より容 易 に搬出 できたで あ ろ う )

また当時 入 り込 んでい た海 での魁塩 の可能 性 は ど うだ ろ うかO古墳 時代 の海 岸線が どこまでで あ ったのかは 正確 には わか らないが 一隣接 する金光町 には江戸 時代 まで確 実に海が 入 り込 ん でい た。

また先に触 れた条里 制の痕跡 も鴨方 町 と金光町 との境 の辺 りで 途切れて いる。 さて, その よ うな海 岸線 の近 さだけではないO 『続 日本紀 』好凪 2年(716)8月の条 に僻中 国浅口郡 犬礎部 隈手 が大 和 国飛 鳥寺 の焼姫戸 に配 されていた ことが わか る記 欝が あ る朗l鴨方町中 坂東 に犬飼 とい う小字名が残 ってお り犬養部の居住 した土 地 と推定 され る。 古代 において製塩の可能性 もあ る とい え よう。

その よ うな生 産や技術 に よって畿内政権 に奉仕 す る ことに よって こそ, この他 の後 半期 古墳 の盛 行 が あ ったのだ ろう。

と りあ えず.現時点 では群雄頃 を生 み出 した背景 の解明は今 後の調杏 を得 たね ばな らないだ ろ う0

8.

古 墳 の 終 末 と 火 葬

古 墳の終末 を語 る上で興味深 いiB物が町教 委lこ保管 され てい た。 図

2‑12

の須 船群壷 と図

2‑

13

の須恵器 平版 であ る。

藁の方 は 「益坂 阿坂 出土 」との ラベ リングがあ る。

時期 は

8

世紀 で.落合町且原避跡62)・瀬戸町天皇 山遺跡餌 な どの追跡 で この型 の壷が 火葬 骨壷 と して使用 され てい るこ とか らこれ もや は り火野骨盛 として使用 され 1こもの であ ろ う。古墳 消滅の一 要因 とな った仏教的 世界観に よ る火葬 の導 入が この地 で も

8

世紀 の段階で存在 した ことを示 してい る とい え よう。

さて,身分秩 序 の手段 と しての横穴式 石室 の役割 は

7

世紀中頃 を境 に終 わ る。 それに代 わる支配 機構 としての律令制が確立 され てい った ためであ るが ,それ以後 も細 々と古 墳の策造 と使用 (追弊 ) は掛 ナられ T:O闇壁 忠彦 .醇子 夫芋 は 「少 な くと も

8

世紀 初頭 までは横穴式 石盤が従 来 の伝統 を引 い た形 で築造 され てい た

こ とを指 摘 してい るが糾 その後の従来の横 穴式 石室の形 を採 らない墳基 の形 態 を示 してい るのが 図

2‑ 13

の平瓶 を出 土 した図

2‑ 14

の 八幡塚古 墳 であ る とい えよ うQ

この造物 も過 去 の採集 に ものの ため ラベ リングでは八幡塚 とあるが .確 実に同古墳 に共 伴す るか ど うかは確 証が ない。 しかし終末期 の墳去形 闇 としての小竪穴式 石室は県内 では津 山市 の太田十二社 追跡 や京免遺跡89な どで確認 され てお り,八幡嘆 のそれ も上 記二 例 と同 じよ うに前半期 の竪穴式 石 室三の構築法 とは異 な るので終末期古墳 の可能 性は苗い とい えるO

太田十二社 遺跡や京免古 墳 の例 では遣物 が伴 ってい ないの で時期 の決 め手 を欠い 1=が,八幡塚 の 平瓶 は その特 徴 か ら

8

世紀 後半 の もの であ り, この種 の形 闇 を とる墳墓の 時期 を考 え る上 での‑ 資 料 とな るであ ろ う

また上記の 火葬 骨壷 と時期的 に並 行す るこ とか ら奈良時代 の墳基形 態 の多様 さを も伺 わ せ るので あ る。

2‑12

益坂 阿坂 出土 図

2‑13

八幡塚古 墳出土

」 ユ ー ′ ‥ ・ ・ ・ ・ ・ 」 一 一 1 ‑ ・ ● ● ′ ・ ' ′ . .

i / , , /・ / , / / / , / , ,

2‑14

八幡 塚 古墳

9. お わ り に

以上,考古 学的側 面か ら見 た鴨方町 の原始 ・古代 を温 史的 に 述べ て きた。限 られ た調査 期間 と調 査 方法 しか持 ら合 わせ なか ったた め厳 密 な考 証 .実証 を欠 き,時 に論 旨 の飛 曜が あ る こと と思 うO 発 脚調査 や新 発 見な どで串突 幽係が 大 き く変 わ るか もしれ ない。 し か し地域 史を再構 成 し てい く上 で それ を恐 れて いて はい つ ま でた って も地域 の文化 財 の位置 付 けや評価 を してい くことは で きず , その ことが却 って埋蔵 文化財 へ の無 関心 や破 壊 を もた らす ことにな りは しないだ ろ うか。 も ちろん 空想 や過度 の推測は避 け るべ きであ る。 この楠 も現 在確 認 し得 る限 りの申 実 に基 づ き, で きるだけ 地跡 ・遣物 に即 して考 えて きた つ も りで あ る

方針 としては ,吉備 または西 日本の考 古学 的 な大 きな歴 史的 流 れ は既知 の もの とし,一般的 内容 につ いての説 明 は必 要最小 限 に とどめ た。 そ してその 大 きな流れの中 での鴨 方町 の過跡 の位 置付 け を してい くと と もに, その一般 的性格 の中の地域 性 や鴨方 の地 域独 自の歴 史の流 れを重巨視 してい っ た つ もりで あ る。

なお最後 にな って しま ったが .退物 の実見 ・突刺Jfこ便 宜 を図 ってい た だい た鴨方 町 の教 育委出会 ・ 図t,7t館 の職良 の方々 ,天体物 理観測所 の相見 の 方 々,石部良書氏 ,踏 杏 の際 お 世話 にな った現地 の 方 々に心 よ り感謝 を申 し上 げたい。 また老 い 中 を石室

iB物の実 測 を手 伝 って くれ た岡大考 古学研 究 部 の後班 諸氏 に も感謝 したい。

その他 多 くの方 々の 御好 志 に甘 えなが ら もいかんせ ん欝 者 の 力丑が及 ばず 無 味 乾燥 な内 容な っ た ことは否 めな いが ,鴨方 の 地 域 史を これか ら解 明 し深め てい く上での 一 つの捨 て石 に なれば幸 い であ る。

(阿部黍久 )

参 考 文 献

(1) 岡山県文化財保並協会 『岡山県埋蔵文 化財発槻 調査報告

J )42 1981

(2) [=E(1)前掲 .和田池跡か らは石錐 ・石匙 ・石鋲 ・石斧が,向原追跡 か らは細文式土鱒がtll上 (3) F六 条院町 議』

(4) 岡山県教 育委員会 打開 山県過跡地図

J

文化財 保霊 協会 『全国遡跡地 図i

(5) 西川宏 『吉備 の

国J 1975

P26図 3

に よると,倉敷市 島地 ・笠 岡市黒土 .笠間市王泊の各地 跡がそれに あたる。

(6) 症(4)前掲 図

1

参照

(7) 症(4)前掲 及び ,鴨方町教 育委員会保 管のiB物 に よるo (8)

(5)前掲

P4 8

(9) 近藤義郎 F'削方後円墳 の時代

』 1983

q O

鴨 方町教 育委艮会 r鴨 方町文化財 の しお り

」 1965

年 帥 鴨方町教 育委艮会 保管 の ものを実測 .・・銅銭

岡山天文 台博物館保管 の ものを実測 ・・・i・3杯 ・鉢

図示 した ものの他 に町教委 には阿部山過跡の石韓が ,天文台 博物館 には中期 後半の高杯 ・銃 ・ 婆 ,後期前半の聾 ・高杯 ,後期後半の高年 ・饗 棺等の土器 片や石鮭が 保管 され ている。

OB 注(1)前掲 8寺 庄(9)前掲 84 注(9)前掲 89 注(1)前掲

8 7 )

症(4)前掲

0尋 問壁忠彦 ・間壁恵子 『倉敷考 古館研究娘報

J4 8 9

注(9)前掲

QO 乳 文鎮 .町教委 保管

l) 益坂 ・阿坂 古墳 ,地 東上 ・宮 の脇古 墳 (以上注(1)文献 )益坂 .片 山塚古墳

6

9 片山塚古墳群・・.杯 ・高林 ・感 本庄 東家古 墳‑‑柿 .礎 ・粛杯 ・蛋 小 坂乗 宵の前述跡 ‑感 ・援 瓶 ・平瓶 ・産 地頭上塚地古墳・‑柿 .横 位 ・蛋

田 平安学鯛 考古 クラブ r陶邑古窯祉群止

別 岡山県文化財保汲協会 r寒風古窯祉

群J 1978

¢与 注(4)前掲

餌 永山卯三郎 『岡 山県通史

』 193

0年

q7 ) 注

(3)前掲

ドキュメント内 教 〕歴史的町鴨方の変貌 (ページ 74-82)

関連したドキュメント