2014( 平 成 26) 年 度 EU 研 究 デ ィ プ ロ マ プ ロ グ ラ ム リ サ ー チ ペ ー パ ー
ユ ダ ヤ 人 画 家 M・ シ ャ ガ ー ル の 《 聖 書 の メ ッ セ ー ジ 》 連 作 を め ぐ っ て
― ― ヨ ー ロ ッ パ に お け る 民 族 性 と 普 遍 性 の 間 に ― ―
西 南 学 院 大 学 国 際 文 化 研 究 科 国 際 文 化 専 攻 指 導 教 授 後 藤 新 治 15MK004 宮 川 由 衣1 要旨 マルク・シャガール(Marc Chagall 1887-1985)の作品には、聖書の精神が充溢している。 その集大成とも称されるのが、拙論において論考の主題となる《聖書のメッセージ》連作 »Message Biblique«(1956-1966 年)である。十七点の大型の油彩画からなる本連作は、ニー スの国立マルク・シャガール《聖書のメッセージ》美術館の中枢となっている。《聖書のメ ッセージ》連作は、時代や民族を超えたすべての人々に向けられた普遍的なメッセージな のだ。 近年ではシャガールの文化・民俗的背景としての「ユダヤ的なもの」を考慮した研究に より、シャガールの作品における図像表現の意味が解き明かされてきた。これらの研究に より証しされているように、シャガールの芸術は「ユダヤ的なもの」のゆたかな表出であ る。しかしその一方で、シャガールは民族の異なりを超えた「普遍的なもの」を志向して いた。とりわけ、晩年に生み出された《聖書のメッセージ》連作においては、こうしたシ ャガールの普遍的なものへの探求が結実しているのである。そこで、《聖書のメッセージ》 における「象徴へと変貌しつつあるもう一つの現実」を注視しつつ、その普遍的なメッセ ージを読み取ってゆくことが、本論文の目的である。 ところで、シャガールの芸術すべてについて言えるように、《聖書のメッセージ》連作は シャガールの生と深く結びついている。それゆえ、第一章において、まず画家の生涯と制 作を振り返ることから考察をはじめる。ロシアに生まれ、ユダヤ教の伝統に育まれたシャ ガールは、革命や二度の世界大戦を経験した。しかし、それを悲しみとともに受けとめ、「人 間としての普遍的なもの」を志向して生きた。第二次世界大戦後には、教会装飾をはじめ とした記念碑的作品の制作に取り組むようになる。こうした中、シャガールが六十八歳の ときにはじめたのが《聖書のメッセージ》連作の制作であった。 まず、具体的な作品分析に先立って、《聖書のメッセージ》連作の基本的内容を確認する。 その際、シャガールが《聖書のメッセージ》美術館の開館に際して語った《聖書のメッセ ージ》図録「巻頭言」――本連作の分析に際して重要な文章である――および本連作につ いての主な先行研究を挙げる。 第二章からは、『創世記』、『出エジプト記』、そして『雅歌』からなる《聖書のメッセー ジ》連作の主題選択にもとづき、各章でそれぞれに聖書の箇所を主題とした作品を中心に 吟味し考察してゆく。
第二章において論考の主題となるのが、《燃える柴の前のモーセ》»Moïse devant le buisson ardent«(1960-1966 年)である。シャガールはこの絵において、挿絵集『聖書』(1957 年刊 行)のために形成した二つの図像を素材として用いつつ、それらを一つの画面の中で描き 出した。「なぜ画家は『モーセの召命』と『紅海渡河』の二つのモティーフを併置し、一つ の作品として描いたのか」という問いのもと、古来の旧約聖書の解釈に即して、本作の総
2 合的意味について探究してゆく。
続く第三章では、『雅歌』連作»Le Cantique des Cantiques«(1958-1966 年)について考察す る。『雅歌』連作の五枚の絵は、《聖書のメッセージ》の中にあって、一つのまとまった内 容を有した連作である。『雅歌』は、イスラエル民族に古くから伝えられてきた相聞歌(恋 愛詩)であるが、その中で「神」という名が呼ばれることは一度もない。しかし、ユダヤ 教とキリスト教の古い伝統はともに、恋人たちの歌を集めた『雅歌』の表現のうちに、「花 婿たる神」と「花嫁たる人間」との愛の神秘を見出して、それを歌い継いできたのである。 本章では、『雅歌』連作の個々の作品分析を行ったうえで、男女の愛の情景の奥に秘められ た『雅歌』連作のテーマを考察する。
次に第四章では、《人間の創造》»La création de l’homme«(1956-1958 年)を論考の主題と する。本作品は、《聖書のメッセージ》連作の中でも、とりわけ重要な作品として理解され る。《聖書のメッセージ》連作におけるほかの多くの作品と同様に、《人間の創造》は、挿 絵集『聖書』のために形成された図像を素材として用いている。が、これは単に『聖書』 の挿絵を再現しているのではなく、習作制作の過程において色彩と多様なモティーフ―― アダムとエバ、モーセ、そして十字架にかけられた人など――とが加えられ、いわば「肉 づけ」されていった。つまり、『聖書』の挿絵にある翼を持った人物と彼に抱えられた人と が原型となる図像であり、次いで原罪の成立を表わすアダムとエバのモティーフが、原型 となる図像に最初に追加された。さらに、旋回する太陽の周辺に多様なモティーフが配さ れ、最後に十字架にかけられた人のモティーフが置かれたのである。 これらのモティーフはどのような意味を形成しながら、全体として一なるテーマ、すな わち「人間の創造」というわざを表現しているのか。最後に改めてそのことを考察し、《人 間の創造》において集約されている《聖書のメッセージ》連作全体の普遍的なテーマを問 う。
1
目次
序章――問題の提示…………p. 3 第一章 シャガールの生涯と創作活動…………p. 9 1 その生涯 2 《聖書のメッセージ》連作 第二章 神の顕現の動的構造――《燃える柴の前のモーセ》について…………p. 36 1 《燃える柴の前のモーセ》の基本的内容 2 モーセの召命 3 紅海渡河 4 《燃える柴の前のモーセ》の総合的意味 第三章 呼びかけと応答――『雅歌』連作について…………p. 74 1 『雅歌』連作の基本的内容 2 愛の道行き――《雅歌Ⅰ》、《雅歌Ⅱ》、《雅歌Ⅲ》 3 婚姻の成就――《雅歌Ⅳ》、《雅歌Ⅴ》 4 呼びかけと応答――『雅歌』連作のテーマ 第四章 絶えざる生成――《人間の創造》について…………p. 115 1 《人間の創造》の基本的内容 2 人間の創造――原初的な姿として 3 アダムとエバ――罪の可能性 4 旋回する円とその周り――絶えざる生成 5 創造と愛――結語に代えて 参考文献…………p. 1592 [凡例] ・《 》は美術作品・連作名、『 』は書名・雑誌名として使用した。 ・本文および註での敬称は基本的に省略した。 ・引用文について、日本語文献およびすでに邦訳がある文献については、基本的にそれら に準拠したが、論述の都合上一部表記を変えたところもある。 ・聖書からの引用は、基本的に新共同訳に従ったが、表記の統一のために一部改変を加え ている。 ・註は各章の章末に設けた。
3
序章――問題の提示
聖書はマルク・シャガール(Marc Chagall 1887-1985)の生と芸術とに、その成立の根本 から霊感を与え、水を注いできた。すなわち、シャガールが愛し描いたもの――花、動物、 鳥など自然界の事物、また恋人たちやサーカスの道化師、さらには人の喜びも悲しみも―― それらすべてに聖書の精神が充溢している。すなわち、シャガールの作品には、聖書の精 神と、その霊の働きに心打たれ、それに感応していったシャガールの姿が映し出されてい るのだ。実際シャガールは、自らの芸術の源泉である聖書について、次のように述べてい る。 わたしは、聖書という偉大な普遍的書物、、、、、に依拠してきた。幼い頃以来、聖書はわたし を世界の運命についてのヴィジョンで満たし、わたしの仕事に霊感を与えてきた。疑 いにとりつかれたとき、高度に詩的なその偉大さと知恵はわたしを落ち着かせてくれ た。わたしにとって聖書は、第二の自然のようなものであった。[……] 聖書の知恵を通して、わたしは人生のさまざまな出来事や芸術作品を見ている。真に 偉大な芸術作品は、聖書の精神と調和に貫かれている。多分、このように考えるのは、 とりわけ今日では、わたしだけではないだろう。聖書の精神と世界がわたしの内面で 大きな位置を占めているがゆえに、わたしはそれを表現しようとしてきた。自然のあ らゆる側面を写しとることではなく、目に見えぬ世界のさまざまな要素を表わすこと こそが大切なのだ。(シャガール、シャルル・ソルリエの書に引用の文章、1979 年)1 そして、シャガールの絵画制作における集大成とも称されるのが、拙論において論考の 主題となる《聖書のメッセージ》連作»Message Biblique«(1956-1966 年)である。十七点 の大型の油彩画からなる本連作は、ニースの国立マルク・シャガール《聖書のメッセージ》 美術館2(以後《聖書のメッセージ》美術館)の中枢となっている。 近年ではシャガールの文化・民俗的背景としての「ユダヤ的なもの」を考慮した研究に より、シャガールの作品における図像表現――それらはしばしば非現実的と看做されてき たのであった――の意味が解き明かされてきた。これらの研究により証しされているよう に、シャガールの芸術は確かに「ユダヤ的なもの」のゆたかな表出である。しかしその一 方で、シャガールは民族の異なりを超えた「普遍的なもの」を志向しているのだ。とりわ4 け、晩年に生み出された《聖書のメッセージ》連作においては、こうしたシャガールの普 遍的なものへの探求が結実しているのである。 民族性と普遍性 さて、二十世紀に二度の大きな戦争を経験したヨーロッパ世界は、第二次世界大戦後、 平和的統合に向けて想いを一つにしようとしていた。こうした動きの中で、紺碧海岸(コ ート・ダジュール)と呼ばれる南仏東部に二十世紀美術史の巨匠たちが集い、それぞれが 平和への祈りをかたちにしていった。マティス(Henri Matisse 1869-1954)がそのデザイン の隅々に渡るまで手掛けたロザリオ礼拝堂(1951 年)、ヴァロリス村の礼拝堂跡に描かれ たピカソ(Pablo Picasso 1881-1973)による壁画(1952 年)、そしてヴィルフランシュ・シ ュル・メールの伝道者礼拝堂におけるジャン・コクトー(Jean Cocteau 1889-1963)のフレ スコ画(1975 年)などが、それである。これらの記念碑的建造物は、二十世紀芸術が生ん だ重要な遺産と目されよう。 そしてこの地において、シャガールが礼拝堂の壁画としての構想のもとに描き、後に国 に寄贈され、《聖書のメッセージ》美術館の中枢となったのが、《聖書のメッセージ》と題 された一連の大型油彩画である。この《聖書のメッセージ》連作には、古よりのユダヤ民 族の苦難の歴史を担い、二十世紀をロシア系ユダヤ人芸術家として生き抜いたシャガール の生とその精神とが、如実に刻印されている。 ところで、シャガールは自らを世界市民であり、狭い民族性を超えた普遍的なものを描 く芸術家であると考えていたため、単なる「ユダヤ人の画家」と思われることを望んでい なかった3。たとえば、自らの芸術における「ユダヤ的な要素」について問われた際には、 シャガールは明確に次のように答えている。 ある画家がユダヤ人であって、生を描くならば、彼の作品においてユダヤ人であると いう要素がどのように手伝うのだろうか。しかし、彼が良き画家であるならば、ユダ ヤ人であるということ以上のものがあるはずだ。ユダヤ的な要素はそこにあるだろう。 だが、彼の芸術は普遍的なものを目指しているだろう。4
5 また、「自分自身をユダヤ人、ロシア人、それともフランス人の画家と感じるか」と尋ね られたときには、こう答えた。 わたしは単純に一人の人間であり、画家であり、すべての人々のための芸術家である。 すなわち、自由のための、宗教のための、そしてすべての人間の自由のための芸術家 である。5 しかし、一人の芸術家として普遍的なものを描き体現しようとしたシャガールが、しば しばユダヤの伝統から外れた主題やモティーフを選んだことに対しては、もちろん批判す る者も少なくなかった。とりわけ、シャガールが 1912 年以降繰り返し描いてきた十字架は、 一部のユダヤ人によって非難の的となったのである。 この点、シャガールの十字架図には、七本の枝付き燭台や礼拝用の肩掛けなどユダヤ教 のシンボルがしばしばともに描かれている。が、それはユダヤ人社会の側から「姑息な言 い訳」と見なされ、さらに多くの批判を生んだ6。また、シャガールが「これらの十字架図 は数世紀に及ぶユダヤ人の苦難をも、、表しているのだ」と説明しても、彼を非難する者はそ の真意を認めようとしなかったのである7。 シャガールはさらに、教会と美術館とを混同しているとも非難された。「教会は抽象的で 芸術的な真実を探し求める場所ではなく、宗教上の厳格な教義に従わねばならない場所な のだ」8と。これについて、テシューヴァは次のように述べている。 シャガールの批判者たちが全く理解しようとしなかったのは、彼の芸術的視野が、神 を畏怖する世界中のすべての人々を結びつける情熱に満ちた人類愛に基づいているこ とだった。9 とすれば、シャガールが人間の悲劇を描くとき、それは必ずしもある特定の民族の受難 のみを表わしたものと見なすべきではないであろう。それゆえシャガールは、《聖書のメッ セージ》連作を描いていた頃、次のように語っている。 わたしはすでに着手した聖書連作を続けてゆくつもりである。この連作は将来、ある 建物に設置するためのものであるが、その建物は、礼拝堂でも美術館でもなく、芸術
6 作品の新しい精神的・造形的内容を求める人々すべてを迎えうる場となることだろう。 わたしたちの間にそれを求める人のいることは、わたしは十分感じている。そのなか には今ここにいる人もあれば、明日はまた別の人々もいるだろう。 (シャガール、講演「何故わたしたちはかくも不安に陥っているのか」1963 年)10 そしてさらに、人々が美術館で彼の作品を目にする日が来たときには、《聖書のメッセー ジ》連作について、このように述べた。 これらの絵をこの美術館に置き、人々にある種の平和、ある種の精神性、宗教的感情、 人生の意味を見出してもらいたいと思います。これらの絵は単にある民族の夢を表現 したものではなく、人類全体のそれを表わしていると思っています。 (シャガール、《聖書のメッセージ》図録「巻頭言」1973 年)11 このように、《聖書のメッセージ》という一連の作品が語り告げようとしているのは、時 代や民族を超えてすべての人々に向けられた普遍的なメッセージなのである。 現実以上の現実――自然と自然を超えるもの すでに見たようにシャガールは、「自然のあらゆる側面を写しとることではなく、目に見 えぬ世界のさまざまな要素を表わすことこそが大切なのだ」と語っている。つまり、シャ ガールは《聖書のメッセージ》連作において、聖書の字義を単に描写するのではなく、そ れらのうちに隠された霊的かつ象徴的な意味を深く見つめて、いわばその精神性を描き表 わそうとしているのだ。従って、われわれが聖書の表面の字義に秘められた象徴的意味を 問いながら「聖書の言葉」を読み取ってゆくとき、シャガールの《聖書のメッセージ》連 作はその豊かな結実の一つであることが、より一層の驚きをもって受けとめられるであろ う。 ところで、上の「目に見えぬ世界」とは、幻想ないし非現実を意味するものではない。 すなわち《聖書のメッセージ》連作とは、非現実を表わしているのではなく、シャガール の「内面において大きな位置を占めていた」「聖書の精神」を、そしてその顕現としての「世 界の現実」を描き出していると考えられよう。この点、シャガールはこう述べている。
7 わたしたちの内面世界は、おそらく目に見える世界以上に現実的な現実なのです。非 論理的とみえるものすべてを幻想、おとぎ話と呼ぶことは、自然を理解していないこ とを認めることです。(シャガール、シカゴ大学での講演「芸術家」1947 年)12 たとえわたしの芸術の中に、快楽の追求しか見ない人がいても、それは自由です。ま た、形と色の非論理的、心理的な構成物を、象徴へと変貌しつつある何かもう一つの 現実とみなすことも自由です。この点については――また他の多くの点についても ――わたしには、沈黙を守り、人々が好き勝手に考える自由を残しておく方が、好ま しく思われます。(シャガール、シャルル・ソルリエの書に引用の文章、1979 年)13 こうした言葉に窺われるように、シャガール自身が聖書を民族の聖典ではなく、「普遍的 書物」と呼ぶのはなぜなのか。またシャガールがすべての人に向けて残した《聖書のメッ セージ》連作の普遍的意味とは何であるのか。これらの問いに何ほどか答えてゆくべく《聖 書のメッセージ》連作における「象徴へと変貌しつつあるもう一つの現実」を注視しつつ、 その普遍的なメッセージを読み取ってゆくことが、本論文の目的である。 もとより、シャガールの芸術すべてについて言えるように、《聖書のメッセージ》連作は シャガールの生と深く結びついている。われわれは《聖書のメッセージ》連作を注意深く 眺めるとき、その絵の舞台がシャガールの故郷や制作時に暮らしていた町であることや、 聖書の人物たちと並んで絵筆をもった画家自身の姿が描き込まれていることに気づくだろ う。そこで、次にまず、画家の生涯と制作を振り返ることから考察をはじめることにした い。
8
1 Charles Sorlier, Werner Schmalenbach, Marc Chagall, Propyläen, Paris, 1979. 邦訳:ピエール・プロヴォワユ
ール『シャガールの聖書』太田泰人、幸福輝訳、岩波書店、1985 年、p. 44。
2 美術館は 2005 年に「国立マルク・シャガール美術館」という呼称に改称された。本論文では、開館当
時の名称《聖書のメッセージ》美術館を用いる。
3 Jacob Baal-Teshuva, Marc Chagall, 1887-1985, Taschen, Köln 1998. 邦訳:ヤコブ・バール=テシューヴァ『マ
ルク・シャガール : 1887-1985』Yuko Suzuki 訳、タッシェン・ジャパン、2003 年、p. 265。
4 Werner Alfred, “Marc Chagall and his Bible illustrations,” Reconstructionist 23 no 10 June 28, 1957, p. 8. 5 Klaus Mayer, Ich habe die Bibel geträumt Marc Chagall Maler und Mystiker, Echter, Würzburg 2009, S. 8. 6 テシューヴァ、前掲書、p. 265。
7 Ibid., p. 265. 8 Ibid., pp. 265-266. 9 Ibid., p. 266.
10 ”Pourquoi sommes-nous devenus si angoissés? ” Bridges of human understanding (Chicago 1963) University
Publishers, New York, 1964. 邦訳:プロヴォワユール、前掲書、p. 45。
11 Daniel Marchesseau, Chagall, ivre d'images, Gallimard, Paris, 1995, p. 148. 邦訳:ダニエル・マルシェッソ
ー『シャガール』高階秀爾監修、田辺希久子、村上尚子訳、創元社、1999 年、p. 158。
12
The Artist. シカゴ大学での講演 The Works of the Mind, Chicago, 1947 に収録(講演 Quelques impressions sur
la peinture française の英訳)。邦訳:プロヴォワユール、前掲書、p. 22。なお、ここでシャガールが言う「自
然」とは、西欧近代におけるような対象的自然ではなく、被造的なすべてのものを含む言葉であろう。こ れは、ユダヤ教と教父的伝統における古来の自然把握であった。
13
9
第一章 シャガールの生涯と創作活動
1 その生涯 ユダヤ教の伝統に育まれたシャガールは、ユダヤ人として幼少の頃から生涯にわたって 多くの迫害を経験した。しかしシャガールは、民族の苦難の歴史を自ら担いつつ、時代と 民族との異なりを超えて、それらの根底に潜む「人間としての普遍的なもの」を志向して 生きた。 そこで以下、九十七年の画家の生涯を三つの時期に分けて、とくに拙論の叙述に関わる 重要な事項に注目し、生涯と制作を簡単に振り返りたいと思う。 (1)前期(1887-1922 年)(三十五歳まで) 故郷, ユダヤ人画家 1887 年七月六日、シャガールは帝政ロシア(現ベラルーシ)の中でも有数のユダヤ人居 住地であったヴィテブスク郊外に、労働者階級に属するユダヤ人の家庭の九人兄弟の長子 として生まれた。 彼にはモイシェ・ハツケレフというイディッシュ語1の名が与えられた。また、もともと 家族名はセガルであったが、後にシャガールへと変えられている。さらに 1910 年のパリ到 着後には、名を改めてマルク・シャガールと名乗るようになった2。 シャガールが育ったヴィテブスクは、ポーランドとの国境近く、ヴィチバ川と西ドヴィ ナ川の合流地点に位置する六万五千人の人口を持つ都市であり、そこにはユダヤ教徒とキ リスト教徒がともに暮らしていた。ちなみに、故郷の風景を特徴づける木造の家々や円天 井をもつロシア正教会の聖堂は、シャガールの絵に繰り返しあらわれるモティーフである。 ところで、シャガールの祖父はユダヤ教会堂の説教師兼詠唱者であり、また鰊倉庫で働 く労働者の父は、伝統に従って毎日欠かさずに教会堂に通う敬虔なユダヤ教徒であった3。 シャガールの回想4によれば、画家に関する周囲の知識と理解は限られていたという。とい うのも、古来ユダヤ教においては十戒によりいかなる像を造ることも禁じられていたから である。それは周知のように旧約聖書において、「あなたはいかなる像も造ってはならな い。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造っ てはならない」(出エジプト 20, 4)と記されている通りである。ちなみにユダヤ教の伝統10 にあって、家族が画家という存在に対して抱いていた感情については、シャガールの回想 の次の一節に読み取ることができる。 わたしの叔父さんはわたしと握手するのを恐れていた。わたしは画家だと言われてい たから。もしわたしが叔父さんを描くとしたら。神さまはそれを許しはしない。罪で すよ。(シャガール『わが回想』1931 年)5 ユダヤ人社会のこうした雰囲気の中、小さな食料品店を営んでいた母は、画家と親しく していた自分の兄に相談したうえで、画家になろうという息子の決心を認めてくれたので ある。そこで、十九歳になったシャガールは、故郷ヴィテブスクのイェフダ・ペン(1854-1937) の画塾で学ぶことになった。ペンはユダヤ人画家であったが、当時ロシアではペンの他に もユダヤ人芸術家が少なからず活動していた。というのも、一般に裕福な、そして宗教に やや距離を置いたユダヤ人にとって、芸術は縁のないものではなかったからである。ただ、 それにもかかわらず、ペンが敬虔なユダヤ教徒であったという事実は、シャガールの家族 を安心させたという6。 サンクトペテルブルクでの修業時代 ペンの画塾での友人の提案により、シャガールは絵画の勉強を続けるため、首都サンク トペテルブルクへと向かった。サンクトペテルブルクでシャガールの師であったレオン・ バクスト(1866-1924)は、当時のロシア美術界の指導的人物として知られており、パリで も名声を確立していたユダヤ人画家であった。シャガールはこのバクストのもとで、新た に現代フランス絵画をも学ぶことになる。 さらにまた、サンクトペテルブルクでの修業時代、シャガールはエルミタージュ美術館 や旧ミハイロフスキー宮殿のアレクサンドル三世ロシア美術館に通い、ビザンティン・ロ シアの伝統の作品に学んだ。このときの経験は、シャガールの芸術形成に重要な影響を与 えている。 その際シャガールは、ルヴリョフ(Andrei Rublëv 1360 頃-1430)のイコンを目当てに、 繰り返し美術館に通っている。ちなみに、ルヴリョフのイコンは、1911 年にマティスがロ シアを訪問した際に、唯一彼を魅了したという。イコンについて、シャガールは、「わが 心はイコン画とともに平穏だった」7と述べている。
11 実際、ビザンチン美術の影響はシャガールの芸術の至るところに表われている。たとえ ば、《聖書のメッセージ》の一枚《アブラハムと三人の天使》(1960-1966 年)の制作に際 し、「シャガールがその造形上の典拠をイコンに求められたことは明らかである」8と指摘 されている[図 1、2]。また、画家の幼年期について(すでに述べたようにユダヤ教会堂 では戒律により聖像は禁止されていたが)、「ロシア正教会堂に足を踏み入れ、そこでイ コノスタシスを見、所狭しと描かれた聖像を見た」9であろうと言われている。 さらにイコンと並び、シャガールを夢中にさせたのが、とくにエルミタージュ美術館の レンブラント(Rembrandt Harmensz van Rijn 1606-1669)の作品である。エルミタージュ美 術館は、レンブラント作品を数多く収蔵しており、聖書から主題をえた作品を豊富に揃え ていたのだ。当時シャガールにとって、レンブラント作品のうちでとりわけ重要な作品の 一つが、《老ユダヤ人の肖像》(1654 年)[図 3]であった。シャガールは自作の老ユダヤ人 [図 4]を描く以前に、十年近くこれらの作品を眺めては瞑想にふけったという10。 [図1]ルヴリョフ〈三位一体〉 (15 世紀)141.8×112.7 ㎝ トレチャコフ美術館、モスクワ [図 2]シャガール《アブラハムと三人の天使》 (1960-1966 年)カンヴァスに油彩、190×292 ㎝ 《聖書のメッセージ》美術館、ニース
12 さてシャガールは、ヴィテブスクに帰省した際に出会ったベラ・ローゼンフェルトと 1910 年に婚約するに至った。宝石店を営むローゼンフェルト家は、ヴィテブスクでもっと も富裕なユダヤ人家庭の一つであった。ヴィテブスクの公立学校をロシア全土で成績上位 者四名の一人として卒業したベラは、モスクワの名女学校ゲリエ女子大学で文学、歴史、 そして哲学を学んでいた11。 そして 1915 年、二十八歳のときにシャガールはベラと結婚した。この翌年には娘イダが 誕生した。以来、ベラへの愛と家族は、シャガールの芸術と稀有なほどに深く結びつくも のであり続けたのである。 パリ, ベルリン, 再びロシアへ サンクトペテルブルクの美術学校で師事していたバクストが、ロシア・バレエの舞台装 飾を担当するためにパリに向かうことになった際、シャガールはアシスタントとして彼に 同行することを願った。この願いは叶わなかったが、幸運にも、彼の才能を認めていた帝 国議会の代議士であり弁護士であったマックス・ヴィナヴェルの援助を得て、シャガール は 1910 年、二十三歳のときにパリに旅立つことができた。 [図 3]レンブラント《老ユダヤ人の肖像》 (1654 年)カンヴァスに油彩、109×85 ㎝ エルミタージュ美術館 サンクトペテルブルク [図 4]シャガール《祈るユダヤ人》(1914 年) カンヴァスに油彩、104×84 ㎝ ヴェネチア近代美術館
13
その当時のパリ美術界においては、キュビズムがもっとも大きな影響力をもっていた。 そんな中、アンデパンダン展で名を上げたのち、シャガールは 1912 年には若い芸術家が集 まる「ラ・リュッシュ」(蜂の巣)に住み、前衛的芸術運動の推進者であった詩人のアポリ ネール(Guillaume Appolinaire 1880-1918)やサンドラール(Blaise Cendrars 1887-1961)ら と交流した。 なお、このとき描かれた《アポリネール礼讃》(1911-1912 年)を前に、アポリネールが 「超自然的シュルナチュレル!」とつぶやいたことから、後に「シュルレアリスム」となる概念が作られた ことは周知のとおりである。しかし、シャガールが美術運動としての「シュルレアリスム」 に加わることはなかった12。 ところで、宗教的なものは、初期から一貫してシャガールの芸術における重要なテーマ であった。初期を代表する油彩画の一つ《ゴルゴダ》(1912 年)[図 5]は、十字架に架け られた人を主題とした作品である。シャガールいわく、「パリでこの作品を描いたとき、わ たしはイコン画家の視点から、ロシア芸術全体からして、心理的に自分を解きほぐそうと 試みていた」13。また、キリストについては、「象徴的なキリスト像に、わたしはつねに親 [図 5]シャガール《ゴルゴダ》(1912 年) カンヴァスに油彩、174.6×192.4 ㎝ ニューヨーク近代美術館 [図 6]シャガール《アポリネール礼讃》 (1911-1912 年)カンヴァスに油彩、金粉、銀粉 エイントホーフェン市立ファン・アッベ美術館
14 しんできた。自分の若い心が想像した姿で、それに形を与えようとしていた。キリストを 無垢な子どもとして描きたかった」14と述べている。 さらに十字架と並び、シャガールの芸術表現における主要な要素として挙げられるアダ ムとエバのモティーフも、初期から描かれている。同じ時期に描かれた《アポリネール礼 讃》15[図 6]と《アダムとエバ(誘惑)》(1912 年)は、ともに『創世記』で語られるい わゆる原罪の問題をテーマとして扱っている。こうした「十字架」そして「罪」などのテ ーマについては、シャガール自身の精神とその志向するところにできるだけ忠実に、後に 吟味することにしたい。 さて 1914 年、シャガールの最初の展覧会がベルリンのシュトルム画廊で開かれた。こ のとき、シャガールのパリ時代のほぼ全作品にあたる四十作品が展示されたのだ。この個 展は、フランツ・マルク(Franz Marc 1880-1916)らドイツ表現主義の若い画家たちに衝撃 を与え、シャガールが世界的な名声を築く礎となった。そして以後二十年間、ドイツの収 集家がシャガール作品の主たる市場となるのである16。 なお、第一次世界大戦以前のドイツで活動していた二つの芸術家グループ――「ブリュ ッケ(橋)」と「ブラウエ・ライター(青騎士)」――に対して用いられる表現主義の一派 に、正確にはそうでないにせよ、シャガールも加えられることがある17。シャガールは、 ナチスによる近代芸術の弾圧期には、この表現主義の画家たちの作品とともに、「頽廃芸術 家」の烙印を押され、厳しく非難されることになるのである。ちなみに、ロベール・ドロ ーネー(Robert Delaunay 1885-1941)は、1911 年に表現主義の「ブラウエ・ライター(青 騎士)」一派とともに作品を展示しはじめたのであった。この時代、シャガールが親しく付 き合っていた画家は、ドローネーただ一人であったとも言われており18、初期の代表作《ア ポリネール礼讃》における円盤のモティーフや明るい色彩には、アポリネールがドローネ ーの作品に対する表現として造った、色彩による抽象表現に特徴づけられるオルフィスム の影響を見出すこともできる19。 シュトルム画廊での個展の後、シャガールは故郷ヴィテブスクを訪ねた。当初短期間の 滞在を予定していたが、第一次世界大戦、ロシア革命、そして内乱といった国内の混乱の ため、結局八年間もロシアに留まることになった。この間シャガールは、ヴィテブスク地 方の芸術人民委員に任命され、芸術学校を開校し校長に就いた。また 1920 年にはヴィテブ
15 スクを去り、モスクワのユダヤ人劇場で、衣装や舞台のデザイン、そして壁画の制作を手 掛けた。 それ以前、1917 年初頭に、反共産主義の白軍とボリシェヴィキの赤軍の間で勃発した内 戦は、1920 年にベラルーシに大きな傷跡を残して終わった。このようなロシアの当時の社 会的状況は、シャガールにとって到底受け容れがたく、心苦しいものであった。 この間、シャガールは革命後のロシアにおける大衆の過酷な生活をいやおうなく目にし、 自身の日々の生活も苦しさを増す一方であった。ユダヤ劇場の壁画に対して、結局シャガ ールに報酬が支払われることはなく、力を尽くした結果と才能とにふさわしい評価を得る ことができないうえに、一家の経済状況はますます悪化していったのである。後になって シャガールは、悪化の一途をたどる経済的、政治的状況の中で、「家族を養う問題とは、な んら関係もなく『純粋に芸術的な』理由からロシアを離れた」20と述べている。 そして 1922 年、三十五歳になろうとしていたシャガールは祖国を離れベルリンで暮ら した後、以後の人生の大半をフランスで過ごすこととなる。ロシアで過ごした日々を振り 返った回想の終章は、次の言葉で結ばれている。 ロシア帝国も、ソヴィエト・ロシアもわたしを必要としていないのだ。わたしは彼ら に理解されない異邦人なのだ。(シャガール『わが回想』1931 年)21 (2)中期(1923-1948 年)(三十六歳から六十一歳) 挿絵集『聖書』 1923 年にパリに戻ったシャガールは、画商のヴォラール(Ambroise Vollard 1868-1939) から挿絵の注文を受けた。ヴォラールとの共同作業ですでに幾つかの成功を収めた後22、 1930 年にシャガールは、彼から旧約聖書の挿絵を依頼されたのであった。 これを機に、シャガールは 1931 年初頭に家族とともにはじめて、魂の故郷とも言うべ きパレスチナに赴いた。この旅は、挿絵集『聖書』のための取材であったのだが、その後 のシャガールの芸術にとって重要な意味をもつ旅となった。この旅について、シャガール は次のように語っている。 わたしは決して頭の中だけで仕事はしない。わたしはパレスチナをこの眼で見たかっ たし、その地にこの手で触れたかった。カメラなしで、鉛筆さえ使わずに、ある感覚
16 を確かめたかった。あの急な坂道を、何千年も前にキリストが歩いたのだ。あの遠い 場所で、あご髭を生やし、青や、黄色や、赤い服を着て、毛皮の帽子をかぶったユダ ヤ人が、嘆きの壁の前を行ったり来たりしている。あの場所ほど、深い絶望と限りな い喜びの見られるところは、どこにもない。エルサレムや、サフェドや、預言者たち が幾層にも葬られている山々の古い石の塊と埃を眼にするときほど、心が悲しみに震 え、幸福に満たされることもない。23 その旅の感慨を秘めて、シャガールはパリへ戻るとすぐに、『聖書』のための下絵数点を グワッシュで描いた。 1939 年には、六十六点の版画が出来上がっていた。が、この年に注文主のヴォラールが 死去し、さらに第二次世界大戦が勃発した。これにより、シャガールが亡命先のアメリカ から戻ってくる 1952 年までの間、『聖書』の制作はしばらく中断された。そして、1956 年 にその書は完成し、同年、ヴォラールの後を継いだテリアド(1897-1983)によって出版さ れた。こうした挿絵集『聖書』は一〇五点のエッチングから成り、旧約聖書の全体からテ ーマが選択されている。 また、その『聖書』を手掛けるにあたって、シャガールは 1930 年代にヨーロッパ各地を 旅し、多くの作品に学んでいる。実際にシャガールが感銘を受け学び取った西欧近代の画 家として、レンブラント、ベラスケス(Diego Velázquez 1599-1660)、ゴヤ(Francisco José de Goya 1746-1828)、そしてグレコ(El Greco 1541-1614)などが挙げられる24。かくして挿絵 集『聖書』のために生み出された図像は、以後の聖書的絵画のイメージの基礎となり、《聖 書のメッセージ》においても応用されている。 迫害とアメリカ亡命 第一次世界大戦の後、政治的経済的混乱の中、1933 年、ドイツではヒトラーが政権を奪 取し、首相となった。そして、ミュンヒェンにおいてナチスによる頽廃芸術展が開催され た 1937 年、ドイツ国内の美術館からシャガールの全作品が撤去された。さらにこの年の三 月、シャガールの最初の師であったペンがヴィテブスクのアパートで殺害された。ほぼ確 実に国家秘密警察の仕業であったという25。これはシャガールがペンに手紙を送った僅か 一か月後のことだった。
17 この頃からシャガールの作品には、十字架のモティーフが頻出するようになった。この うち、1938 年に描かれた《白い十字架》[図 7]はその代表的作品の一つである。 通常この絵は、「シャガールが若い頃に眼にしたであろうロシア正教のイコンを思わせる やり方で、さまざまに異なる場面が一つの画面にまとめあげられている」26と評される。 また、十字架にかけられた人がユダヤ人であることは、腰に巻かれた礼拝用肩掛けによっ て示され、頭上には「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」を意味する言葉が、ローマ字の「INRI」 だけでなく、イエスの母国語のアラム語でも書かれている。さらに、その右手にはユダヤ 教会堂に火を放つドイツ人兵士が描かれており、当時の歴史的出来事を想起させる内容を 持っている。 ところで 1940 年、ナチスのフランス侵攻が始まったとき、シャガールは戦火の及ばな いプロヴァンスのゴルドへ避難した。この年の末、米国緊急救援委員会のヴァリアン・フ ライと在マルセイユのアメリカ副領事ハイラム・ビンガムが、アメリカ合衆国に来るよう にとの提案を伝えに、ゴルドのシャガールのもとを訪ねた27。しかし、このときフランス に残ることに危機をほとんど感じていなかったシャガールは、この申し出を受けた後もフ ランスに留まるつもりでいた。 [図 7]シャガール《白い十字架》 (1938 年)カンヴァスに油彩 155×139.5 ㎝、シカゴ美術研究所
18 ところが翌年四月、ヴィシー政権下のフランスでユダヤ人問題局が設立され、1936 年以 降に帰化したユダヤ人は、フランス国民としての身分を失うこととなった。それゆえ、1937 年にフランスの市民権を獲得したシャガール夫妻の名は、フランス国籍を剥奪される予定 の人物として『ジュルナル・オフィシエル』紙に名簿に載せられた28。こうした状況下で、 シャガール一家がフランスで暮らし続けることはもはや不可能であった。 意を決したシャガール夫妻は、リスボン経由でアメリカに向かうために南仏の港町マル セイユへ移動した。そしてシャガールが到着した数日後の四月九日、マルセイユのホテル に泊まっているユダヤ人の一斉検挙が行われ、シャガールもほかのユダヤ人とともに警察 本部に連行された。このとき妻のベラは、フライに電話で危機的状況を知らせた。 フライはすぐにその警察署に電話をかけて、三十分以内にシャガールを解放しなければ、 ニューヨーク・タイムズ紙に電話して、国際的スキャンダルにすると訴えた29。こうして シャガールは無事に釈放されたが、この出来事はシャガールに危機の深刻さを思い知らせ た。そこでシャガールとベラはマルセイユを出発し、マドリッドを経由してリスボンに到 着した。 ところでシャガールがリスボンで船を待つ間に書いた詩が残っている。その詩は「出発 前、リスボンにて」と題されている。 われわれのあいだに壁が生える。墓と墓で覆われた山が、 あなたはわが顔を見たことがあるか―― 道路の真ん中で、身体のない顔を? だれも彼を知らず、彼の叫び声は深淵に沈んでいく。 あなたがたの中にわが星を探した、世のかなたまで探した、 あなたと一緒に強くなりたかった。 だがあなたは怯えて逃げ出した。 わが最後の言葉をいかに伝えよう、あなたに――あなたが失われたとき。 わたしにはこの世で行くところがない。 涙よ乾け 石の上の名前よ拭いとられよ さすればわたしも、あなたのように影になり、 煙のごとく溶けていく。(シャガール「出発前、リスボンにて」1941 年)30
19 アメリカ亡命中、さらなる悲しみがシャガールを襲った。最愛の妻ベラの病死である。 パリへ戻る予定の数日前のことであった。シャガールは深い悲しみに暮れ、九か月の間絵 筆を取ることができなかった。そしてシャガールが再びフランスで暮らし始めたのは 1948 年のことである。 (3)後期・晩年(1949-1985 年)(六十二歳から九十七歳) 「慈しみの聖母教会」の装飾 時を遡って 1937 年、フランス南東部、オート・サヴォワ地方のプラトゥー・ダシィのサ ナトリウム付き司祭であったドヴェミー神父(Jean Devémy 1896-1981)は、この施設で療 養する人々のための教会(後の「慈しみの聖母教会 Notre-Dame-de-Toute-Grâce」)の建設 を決意した。そして彼は、内部の装飾計画について、同時代の多くの芸術家と交流のあっ たドミニコ修道会のクチュリエ神父(Marie-Alain Couturier 1897-1954)の助言を仰いだの である。 当時クチュリエ神父は、近代化された世界の中でいかに信仰を実践するかを主題として、 『アール・サクレ(宗教芸術)』誌上で教会装飾について論じていた。ステンドグラスの専 門家でもあったクチュリエ神父は、シャガールとも親しかった著名なカトリック哲学者ジ ャック・マリタン(Jacques Maritain 1882-1973)の友人でもあった。 「慈しみの聖母教会」の装飾には、ルオー(Georges Rouault 1871-1958)、マティス、そ してレジェ(Fernand Léger 1881-1955)らがすでに参加しており、シャガールにも声がかか ったのである。そして 1952 年にシャガールは、「洗礼室の装飾はすべて彼が手掛ける」と いう条件がはっきり示されたうえで、その依頼を受け入れた。 シャガールは九十枚の陶板で構成される《紅海渡河》(1956 年)[図 8]を制作した。こ の絵は後に記述するように、拙論における解釈上、重要なテーマを含んでいる。この図像 は、挿絵集『聖書』のために作られた基本的図像[図 9]を発展させたものである。陶板 画には、1931 年の水彩画に既に見られる主要モティーフに加えて、魚、ダヴィデ、花嫁と 花婿、そして十字架にかけられた人とその周辺に集う人々が画面の上方に描き足されてい る。
20 さらに、『詩編』第四十二章と第百二十四章を表わしたレリーフ二点と、ステンドグラ ス《天使と燭台》(1956 年)とがともに洗礼室内に設置されることになった。シャガール はこのときはじめてステンドグラスを制作する機会を得たのだが、以後多くのステンドグ ラスを生み出していくことになる。 ところで、「慈しみの聖母教会」の装飾計画は、当時の芸術家がその宗教・信条にかか わらず呼び集められ、キリスト教の教会でありつつ、他宗教を含む共同体へと開かれた交 わりの場であった。 すなわちカトリックのルオーはステンドグラスを、マティスは黄色いタイルの祭壇、ボ ナール(Pierre Bonnard 1867-1947)は油彩画、そして女性彫刻家リシエ(Germaine Richier 1904-1959)はブロンズの十字架を手掛けた。また共産主義者であったレジェは正面ファサ ードのモザイク装飾を、ユダヤ人であるリプシッツ(Jacques Lipchitz 1891-1973)はブロン ズの聖母像をそれぞれ制作した。リプシッツによるブロンズの聖母像には、次のように刻 [図 9]シャガール〈紅海渡河〉(1931 年) 紙に水彩、鉛筆、ペン 《聖書のメッセージ》美術館、ニース [図 8]シャガール《紅海渡河》(1956 年) 陶板、慈しみの聖母教会、ダシィ
21 まれている。「祖先の宗教に忠実なユダヤ人ヤコブ・リプシッツは、聖霊が治めるかぎり、 この世における人類のよき理解を願い、この聖母像を制作した」31と。そしてシャガール の陶板画には、「すべての宗教の自由の名において」32という銘文が描き入れられたのであ る。 「慈しみの聖母教会」の装飾の後、シャガールはメッス大聖堂(1959-1968 年)やヘブ ライ大学ハダサー医療センター付属のシナゴーグのステンドグラス(1960-1962 年)、パリ 国立オペラ座の天井画(1963-1964 年)、ニューヨークの国際連合本部のステンドグラス (1963-1964 年)、イスラエル国会議事堂のタピスリー(1964 年)、ニース大学法学部のモ ザイク(1968 年)、そしてマインツの聖ステファヌス教会のステンドグラス(1977-1984 年) など世界各地で、多くの公共建築の装飾を手掛けている。 そして、「慈しみの聖母教会」の教会装飾と並行して進められていたのが、礼拝堂装飾 の望みにはじまる《聖書のメッセージ》の制作であった。それが、本論文で主たる研究対 象として取り上げる連作である。 《聖書のメッセージ》連作について シャガールは、1950 年からヴァンスで暮らし始めた。この年の一月、シャガールは古び て廃屋と化していたカルヴェール礼拝堂に案内された。その礼拝堂のラテン十字型のプラ ンに配された十二の壁面は、シャガールの心を惹きつけた。 そして、シャガールはカルヴェール礼拝堂の装飾壁画として、1956 年に《聖書のメッセ ージ》に取りかかった。礼拝堂の壁に合わせて、作品とその配置が計画されていた。 しかし、この建物が長期間作品を保存するのに適さなかったため、この計画は中止しな くてはならなくなった。こうして、礼拝堂に合わせてすでに制作が開始されていた作品は、 美術館に置かれることとなる。
22 【カルヴェール礼拝堂平面図】33 この変更は、アンドレ・マルロー(André Malraux 1901-1976)の発言なくしては、行わ れえなかっただろう34。1928 年、ベルネーム=ジュヌ画廊での『寓話』(1926 年にヴォラ ールの注文により制作)の挿絵展のオープニングで知り合って以来、シャガールの親しい 友人であったマルローは、1959 年以降は大臣としてフランスの文化活動に尽力していた。 そして、マルローは《聖書のメッセージ》の十七点の作品を美術館という意味でのコレク ションと見なし、シャガールにそれをフランスへ寄贈するように説得したのである35。 両者の一致した意見により、寄贈は 1966 年に登録され、このコレクションを収蔵するた めの建築工事の責任が、文化省とフランス美術館総局に委ねられた。美術館の設計者には 1 《人間の創造》 2 《楽園》 3 《楽園を追放されるアダムとエバ》 4 《イサクの供犠》 5 《モーセの岩打ち》 6 大理石の浅浮彫 7 《燃える柴の前のモーセ》 8 《ノアと虹》 9 《アブラハムと三人の天使》 10 大理石の浅浮彫 11 《十戒の石板を授かるモーセ》 12 《ノアの箱舟》 13 《ヤコブと天使との格闘》 14 《ヤコブの夢》 15 《雅歌》 1 は内陣、8 は出入口 15 の部屋は聖具室
23 アンドレ・エルマン(André Hermant 1908-1978)が指名され、1968 年に定礎された36。 また、それぞれの絵に独立した壁面が与えられ、これらに筋の展開という考えが付与さ れていない。絵の陳列は、シャガールの承認をうけたものであるが37、聖書の物語の順に 絵が配置されておらず、それぞれの絵が独自の価値をもって置かれている。 【《聖書のメッセージ》美術館平面図】38 ①玄関ロビー ②主展示室 ③彫刻展示室 ④『雅歌』の間 ⑤池 ⑥モザイクの間 ⑦テラスの間 ⑧講堂 ⑨図書室 ⑩テラス 1 《人間の創造》 2 《楽園》 3 《楽園を追放されるアダムとエバ》 4 《ノアの箱舟》 5 《ノアと虹》 6 《アブラハムと三人の天使》 7 《イサクの供犠》 8 《ヤコブの夢》 9 《ヤコブと天使との格闘》 10 《燃える柴の前のモーセ》 11 《モーセの岩打ち》 12 《十戒の石板を授かるモーセ》 13 《雅歌Ⅰ》 14 《雅歌Ⅱ》 15 《雅歌Ⅲ》 16 《雅歌Ⅳ》 17 《雅歌Ⅴ》 18 モザイク《預言者エリヤ》 19 玄関のタピスリー 20 ステンドグラス《天地創造》初めの四日間 21 ステンドグラス《天地創造》第五、六日 22 ステンドグラス《天地創造》第七日 23 クラヴサン(蓋:マルク・シャガール画)
24 《聖書のメッセージ》美術館は、1973 年シャガール八十六歳の誕生日に開館した。そし て以後、この美術館では、多彩な展覧会――〈レンブラントと聖書〉展(1975 年)、〈十六 世紀ヴェネツィアの宗教美術〉展(1979 年)、〈アフリカの精神と神々〉展(1980 年)、そ して〈ギメ美術館蔵ヒマラヤのマンダラ〉展(1981 年)など――が催されてきた。 シャガールは八十歳を超えてもなお、精力的にステンドグラスや絵の制作に向き合い続 けた。そして 1985 年三月二十八日に九十七歳で静かに息をひきとったのだが、その日も、 アトリエで絵を描いていたという。シャガールは、《聖書のメッセージ》美術館から遠くな い南仏サン=ポール=ド=ヴァンスの地に埋葬された。 拙論では、《聖書のメッセージ》連作を主な対象として解釈してゆく。ただ、旧約聖書の 表現を素材としたそれらの作品群は相当の数に上り、主題も多様であるので――真の内容 としては、後に論じるように「多様にして一」という性格を有していると思われるが―― 次に便宜上、それらの全体を列挙し、その基本的意味を概観しておこう。 2 《聖書のメッセージ》連作 (1)《聖書のメッセージ》連作の基本的内容 さて《聖書のメッセージ》連作はいずれも旧約聖書を主題とし、『創世記』から九点、 『出エジプト記』から三点、そして『雅歌』から五点、合わせて十七点の油彩画から成る 連作である。 【《聖書のメッセージ》連作の諸作品(リスト)】([素材とした聖書の中心箇所]) 『創世記』 《人間の創造》(1956-1958 年)カンヴァスに油彩、縦 299 ㎝、横 200.5 ㎝[第一章] 《楽園》(1961 年)カンヴァスに油彩、縦 198 ㎝、横 288 ㎝[第二章] 《楽園を追放されるアダムとエバ》(1961 年)カンヴァスに油彩、縦 190 ㎝、横 283.5 ㎝[第三章] 《ノアの箱舟》(1961-1966 年)カンヴァスに油彩、縦 236 ㎝、横 234 ㎝[第六―八章] 《ノアと虹》(1961-1966 年)カンヴァスに油彩、縦 205 ㎝、横 292.5 ㎝[第九章] 《アブラハムと三人の天使》(1960-1966 年)カンヴァスに油彩、縦 190 ㎝、横 292 ㎝[第十八章]
25 《イサクの供犠》(1960-1966 年)カンヴァスに油彩、縦 230.5 ㎝、横 235 ㎝[第二十二章] 《ヤコブの夢》(1960-1966 年)カンヴァスに油彩、縦 230.5 ㎝、横 235 ㎝[第二十八章] 《ヤコブと天使との格闘》(1960-1966 年)カンヴァスに油彩、縦 251 ㎝、横 205 ㎝[第三十二章] 『出エジプト記』 《燃える柴の前のモーセ》(1960-1966 年)カンヴァスに油彩、縦 195 ㎝、横 312 ㎝[第三章] 《モーセの岩打ち》(1960-1966 年)カンヴァスに油彩、縦 237 ㎝、横 232 ㎝[第十七章] 《十戒の石板を受けとるモーセ》(1960-1966 年)カンヴァスに油彩、縦 237 ㎝、横 233 ㎝[第十九章] 『雅歌』 《雅歌Ⅰ》(1960 年)紙で補強したカンヴァスに油彩、縦 146.5 ㎝、横 171.5 ㎝ 《雅歌Ⅱ》(1960 年)紙で補強したカンヴァスに油彩、縦 139 ㎝、横 164 ㎝ 《雅歌Ⅲ》(1960 年)紙で補強したカンヴァスに油彩、縦 149 ㎝、横 210 ㎝ 《雅歌Ⅳ》(1958 年)紙で補強したカンヴァスに油彩、縦 144.5 ㎝、横 210.5 ㎝ 《雅歌Ⅴ》(1965-1966 年)紙で補強したカンヴァスに油彩、縦 150 ㎝、横 226 ㎝ これらの中で『創世記』と『出エジプト記』を主題としたものは、ヴォラールの注文に よる挿絵集『聖書』(1956 年刊行)およびその下絵として描かれたグワッシュ(1930-1931 年)の図像を、基本的に継承している。このため本連作は聖書の挿絵と見なされる可能性 を持つが、《聖書のメッセージ》連作は挿絵とは大きく性質を異にしている。 これについて、《聖書のメッセージ》美術館の研究員であり、本連作の体系的な研究書 を著したプロヴォワユールによれば、《聖書のメッセージ》連作は「もはや聖書を挿絵して いるのではなく、聖書の具体化なのである」39。このように《聖書のメッセージ》連作が 「聖書の具体化」(指し示すところの具現)であると言われるのは、その内容はもちろんの こと、表現形式の特徴とも結びついている。 すでに見たように、《聖書のメッセージ》連作の大きな特徴は、これらの絵が壁画として 構想された大型の作品であるという点である。これらはいずれも縦横の寸法がそれぞれ一 メートル以上の大型のカンヴァスに描かれ、画面の中に多様なモティーフが描きこまれて いる。また、それらの連作全体は 1956 年から 1966 年にかけて制作されており、一枚の作 品の制作期間が長期に渡るものも少なくない。
26 ところで、表現形式としての壁画連作には、美術史上数多くの例を挙げることができる。 たとえば、ジョット(Giotto di Bondone 1266 頃-1337)の手になるスクロヴェーニ礼拝堂の 壁画は、三段に分けて、マリア伝、キリスト伝、そして受難伝が、上段から下段へと、三 回周るように連続して描かれている。このように、多くの場合、これらは本のように読む ことが可能であり、内容的な展開を持っている。他方、《聖書のメッセージ》連作は聖書の 記述の順に従って展示されておらず、それぞれの絵に独立した壁が与えられている(《聖書 のメッセージ》美術館平面図参照)。 従って、《聖書のメッセージ》連作は、それぞれの絵が固有の価値を有するものとして受 容することができる。それと同時に、連作としての意味連関を持っており、これを無視す べきではない。この点、プロヴォワユールによる研究書は、《聖書のメッセージ》連作全作 品の解説に加えて、美術館の構造や《聖書のメッセージ》の連作としての意味を論じた示 唆に富む内容である。ただし本研究での主旨は、全作品を取り上げてそれぞれを分析する のではなく、《聖書のメッセージ》連作が全体として指し示す普遍的な意味を読み取るべく、 作品を重点的に吟味し論じてゆくことにある。 以上のことから、本論文では先行研究を踏まえたうえで、各章で論考の中心となる作品 をそれぞれ精査しつつ、連作の他作品との関わりについても指摘したい。さらに、その普 遍性を論じるうえで、聖書を描いた作品以外のものとの関係をも含めて、《聖書のメッセー ジ》連作を考察したい。 ところで、シャガールは《聖書のメッセージ》連作の中で、個々の作品については自ら 語っていない。それは、彼が次のように述べるとおりである。 あらゆる問いと答えは、絵画そのものの上に現われている。誰でもそれを、自分なり に捉え、また、自分が捉えたこと、自分の捉え方を解釈することができる。絵の中に は、言語で言い表すことができる以上のことば、沈黙、疑念がしばしば隠されている。 (シャガール、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場壁画除幕式挨拶、1967 年)40 従って、《聖書のメッセージ》連作における個々の作品の解釈は、われわれ受け手に委ね られていると言える。他方で 1973 年、美術館の開館に際し、シャガールは図録の巻頭にお いて、これらの絵に卓抜な「メッセージ」を付しており、そこには、《聖書のメッセージ》
27 連作という作品の根本的な意味と志向が語られている。そしてこれは、《聖書のメッセージ》 連作の分析に際し、われわれがつねに肝に銘じるべき最も貴重な文章であろう。 次にこの図録「巻頭言」の訳文を揚げておく。その普遍的な意味については、本論(第 二章以降)で具体的な作品解釈を通してさらに吟味し探求してゆきたいと思う。 (2)《聖書のメッセージ》図録「巻頭言」 ごく幼い頃から、わたしは聖書のとりこになっていました。それはあらゆる時代を通 して最も偉大な詩・詩情(ポエジー)の源泉であるとずっと思っていましたし、今で もそう思っています。以来、わたしは生活や芸術の中に聖書を反映(具現)させよう としてきました。聖書は自然全体(被造的なものすべて)の反響のようなものです。 わたしはこの謎・神秘を伝えようとしてきました。 ときには自分が寄留者(旅人)であるような、つまり空と大地の間に生まれたとでも 言うか、世界が大きな砂漠で、自分の魂は松明のようにそこをさまよっていると思え ることもありました。しかしわたしは一生を通じて、この見果てぬ夢に歩調を合わせ るように、力の許す限り絵を描いてきました。これらの絵をこの美術館に置き、人々 にある種の平和、(ある種の)精神性、宗教的感情、そして人生の意味を見出してもら いたいと思います。 これらの絵は単にある民族の夢を実現したものではなく、人類全体のそれを表わして いると思っています。これはわたしとフランス人の編集者アンブロワーズ・ヴォラー ルとの出会い、そしてオリエントへの旅の結果生まれたものです。フランスに残そう と思ったのは、そこがわたしが二度目に生まれた国のような気がするからです。 これらの絵に説明を加えるつもりはありません。作品そのものが語ってくれるでしょ う。 技法について、どんな様式や何派の技法で彩色を施すかなどとよく言われます。しか し色彩は生まれつきのものであり、みなさんが考えるような技法や様式には関係あり ません。筆づかいの巧拙とも関係ありません。色彩はすべて特定の芸術運動の外にあ ります。すべての芸術運動の中で唯一歴史に残るのは、生来の色彩をもった画家―― それは非常にまれなのですが――だけであり[……]運動そのものは忘れ去られるの です。 絵画とは、そして色彩とは、愛から霊感を得ているのではないでしょうか。絵画とは
28 内面的自我の反映にほかならず、それを考えれば筆さばきは問題ではありません。筆 使いのうまさなど、何の意味もないのです。色彩と線の中には、あなたの人格やメッ セージが込められているのです。 生あるものにすべて終わりがあるなら、生ある間はその生を愛と希望との色彩で彩る べきでありましょう。この愛の中にこそ、人生の社会的意味があり、あらゆる宗教の 本質があるのです。 わたしにとって、芸術と人生における理想はこの聖書に始まります。聖書の精神なく して、芸術や人生の言語的、理性的、創造的働きは実を結びません。 この美術館には若い人や、そう若くない人が、わたしが色彩や線によって夢見たよう な、愛と友愛の理想を求めてやってこられることでしょう。 また、わたしがすべての人々に対して抱く愛について、語り合う人もありましょう。 そこにはもはや敵意はなく、母親が愛情と労苦をもってこの世に生命を送り出すよう に、若い人やそう若くない人々が新しい色調で愛の世界を作り上げていくことでしょ う。 宗派に関係なく、あらゆる人がここに集まり、悪意や熱狂とはまったく無関係に、こ の夢を語ることもできるでしょう。 またこの場所に、あらゆる民族の高い精神性を示す芸術作品や文書が展示され、それ らの民族が諳じている音楽や詩に耳を傾けられればと思います。 この夢は実現できるでしょうか。 実に、芸術においても人生においても、基本に愛があれば、どんなことも可能なので す。(シャガール、《聖書のメッセージ》図録「巻頭言」、1973 年)41 (3)関連研究 シャガールについては、これまでさまざまな視点から研究され、数多くの研究書が著さ れている。このうち、ここでは、《聖書のメッセージ》連作に関する主なものについて言及 しておこう。 《聖書のメッセージ》連作についての代表的研究書は、プロヴォワユールによる 1975 年刊行の書『シャガールの聖書』42であろう。プロヴォワユールは《聖書のメッセージ》 美術館の研究員であり、この研究書では《聖書のメッセージ》連作の他、タピスリーやス
29 テンドグラスを含めた美術館収蔵作品の解説を行っている。さらに美術館が生まれる経緯 や、美術館の構造、そして絵の配置などについても詳しく紹介している。 また同著者による 1985 年刊行の研究書『パステルによるシャガールの聖書』43には、《聖 書のメッセージ》連作のパステルによる習作が多く収録され、作品形成の過程について詳 細に考察されている。 そしてこれらに加え、《聖書のメッセージ》美術館の図録44を、《聖書のメッセージ》連 作についての基本的参考文献として挙げることができよう。 さらに言えば、シャガール研究においてもっとも重要とされるフランツ・マイヤー45に よる研究書46が、最初にドイツ語で刊行された。それ以来、ドイツにおいてシャガールの 研究は盛んであり、とりわけ聖書に関する作品への関心が高いと言えよう。その先駆けと して、1970 年に刊行されたロータームントによる研究書『シャガールと旧約聖書』47は、 シャガールの聖書的絵画作品についてテーマ領域ごとに論じている。そして終章は「シャ ガールの作品における十字架にかけられた人」と題されて、その意味を考察している。 なお近年では、「第二の視点から」という主題のもと、モスとケーニンガーの共著48が著 されている。これは「表面的で物質的なものの背後にある意味深いメッセージを探求する こと」49を旨として、聖書に関する作品(《聖書のメッセージ》連作の作品の一部を含める) についての詳細な分析を行った示唆に富む研究書である。 同じく、近年著されたものに、フィンダイゼンによる研究書50がある。これは、「不可 視なるものの画家」という主題のもとに、《聖書のメッセージ》連作を含めた十八点の作 品について詳しく論じたものである。 またとくに、シャガールによるマインツの聖ステファヌス教会のステンドグラスの注文 主であり、マインツ教区の司祭クラウス・マイヤーは、シャガールについての多くの書を 著している。このうち、《聖書のメッセージ》連作とも図像的連関をもつ聖ステファヌス教 会のステンドグラスについての一連の著作51では、そこに表わされた様々なモティーフの 象徴的意味を読み取り、その内容の豊かさを明らかにしている。 ところで、クラウス・マイヤーはステンドグラスの他にも、《聖書のメッセージ》連作の 『雅歌』を主題とした五作品についての著書52において、色彩や様々なモティーフが指し 示す意味について一つの見方を提示している。 また近年ではシャガールの二十四枚のカラーリトグラフからなる『出エジプト記』(1966