問題の提示
戸を開いたときには、恋しい人は去った後でした。恋しい人の言葉を追ってわたしの 魂は出て行きます。求めても、あの人は見つかりません。呼び求めても、答えてくれ
ません。(雅歌5 , 6)
これは、「恋しい人」を愛し求めて止まない花嫁が、その胸の苦しみを吐露した旧約聖書 の『雅歌』の一節である。『雅歌』は、イスラエル民族に古くから伝えられてきた相聞歌(恋 愛詩)であるが、その中で「神」という名が呼ばれることは一度もない。
しかし、一度も「神」という名が呼ばれることがないにも関わらず、『雅歌』は、ユダヤ 教とキリスト教の聖典の一つとして旧約聖書に収められてきた。それは、一見不思議に思 われようが、『雅歌』は、古より真に「宗教的」な内容を有した文書として受けとめられて きたのだ。実際、ユダヤ教とキリスト教の古い伝統はともに、恋人たちの歌を集めた『雅 歌』の表現のうちに、「花婿たる神」と「花嫁たる人間」との愛の神秘を見出して、それを 歌い継いできた。本章で論考の対象となるのが、この『雅歌』を主題とした《聖書のメッ セージ》の中の『雅歌』連作»Le Cantique des Cantiques«である。
シャガールは、《聖書のメッセージ》として、『雅歌』の世界を五枚の絵に表現した。こ の『雅歌』連作において、「花嫁」と「花婿」を中心とする、さまざまなモティーフが一つ の画面に集められ、それらが多様にして全体として一なる意味を形成してゆきながら、『雅 歌』の普遍的なテーマ、すなわち、愛の神秘を指し示している。
『雅歌』連作の五枚の絵は、全部で十七点の油彩画からなる《聖書のメッセージ》の中 にあって、一つのまとまった内容を有した連作と見なすことができる。すでに見たように、
《聖書のメッセージ》美術館において、これらの絵には、独立した展示室が与えられてい るのである(第一章、《聖書のメッセージ》美術館平面図参照)。また、シャガールは、当 初予定されていたカルヴェール礼拝堂の装飾計画において、『雅歌』連作を礼拝堂の聖具室
(サクリスティー)に置くことを意図していたのであった(第一章、カルヴェール礼拝堂 平面図参照)。
なお《聖書のメッセージ》連作について、音楽との比較から、通常このように分析され
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ている。すなわち、「《聖書のメッセージ》のはじめの十二点の絵には、音楽の連作のよう に、一群のテーマがまとめられており、それらがさまざまなかたちをとって現れている」1。 これに対して、「『雅歌』という題のもとに集められた五点は、むしろ、〈主題と変奏〉とい う、もう一つの音楽ジャンルに結びついている」2と。
さて、シャガールは次のように述べている。
真の芸術は愛にあるのです。愛こそがわたしの技法であり、わたしの宗教、遠い時代 からわたしたちに伝えられた、古くて新しい宗教なのです。
(シャガール、シカゴ大学での講演、1958年)3
してみれば、『雅歌』連作に描かれた男女の叙情的な風景の奥には、シャガールが、「わ たしの技法であり、わたしの宗教」と呼ぶ「愛」の根本的な意味と志向とが表出されてい るのではないだろうか。そしてそれが、知られざる超越に開かれ、かつあらわに顕現する ものである限りで、それは「神秘」(耳目を閉じるほかないもの)に関わるのだ。その意味 での神秘とは恐らく、《聖書のメッセージ》のほかの主題を表わした作品とも深く呼応する ものであろう。そこで本章では、シャガールの『雅歌』連作に秘められた意味とその指し 示すところを、能う限り見定め吟味してゆきたい。
1 『雅歌』連作の基本的内容
『雅歌』連作は、《聖書のメッセージ》の以下の五点[図37-41]である。
《雅歌Ⅰ》(1960年)紙で補強したカンヴァスに油彩、縦146.5㎝、横171.5㎝
《雅歌Ⅱ》(1960年)紙で補強したカンヴァスに油彩、縦139㎝、横164㎝
《雅歌Ⅲ》(1960年)紙で補強したカンヴァスに油彩、縦149㎝、横210㎝
《雅歌Ⅳ》(1958年)紙で補強したカンヴァスに油彩、縦144.5㎝、横210.5㎝
《雅歌Ⅴ》(1965-1966年)紙で補強したカンヴァスに油彩、縦150㎝、横226㎝
これらの作品の具体的な分析に先立って、以下においてまずは、『雅歌』連作についての 基本的な内容を整理しておこう。
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[図37]シャガール《雅歌Ⅰ》(1960年)カンヴァスに油彩、146.5×171.5㎝
《聖書のメッセージ》美術館、ニース
[図38]シャガール《雅歌Ⅱ》(1960年)カンヴァスに油彩、139×164㎝
《聖書のメッセージ》美術館、ニース
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[図39]シャガール《雅歌Ⅲ》(1960年)カンヴァスに油彩、149×210㎝
《聖書のメッセージ》美術館、ニース
[図40]シャガール《雅歌Ⅳ》(1958年)カンヴァスに油彩、144.5×210.5㎝
《聖書のメッセージ》美術館、ニース
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『雅歌』連作は、『創世記』や『出エジプト記』を主題としたほかの《聖書のメッセージ》
の作品とは異なり、挿絵集『聖書』のエッチングでは描かれていない題材を扱っている。
それゆえ、『雅歌』連作のための基本的図像は、前章で見た《燃える柴の前のモーセ》のよ うに、あらかじめ作られていたのではない。
そこで、『雅歌』連作の原型について、これらのために作られた習作を参照することにし たい。その際、習作に表わされた基本的なイメージが、完成作品において、多様なモティ ーフとの関わりの中で、どのように新たな意味を形成しているのかを考察してゆこう。
(1)『雅歌』の成立とその思想伝統
まず、聖書の『雅歌』の成立とその思想的伝統とについて簡単に確認しておく。「歌の中 の歌(シール・ハシリーム)」の名を持つ『雅歌』は、イスラエル民族に古くから伝わる男
[図41]シャガール《雅歌Ⅴ》(1965-1966年)カンヴァスに油彩、150×226㎝
《聖書のメッセージ》美術館、ニース
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女の恋愛詩ないし相聞歌である。『雅歌』は、『箴言』、『コヘレトの言葉(伝道の書)』とと もに、イスラエルの知恵の師ソロモンによって編まれたものと伝えられている。
すでに述べたように、この『雅歌』には、「神」という言葉が一度も出てこない。このた め、ユダヤ教のラビたちの中では、このような男女の熱烈な愛の歌を宗教的聖典に組み込 むことに対して否定的な意見もあった。つまり、紀元最初の一世紀には、身体性を排除し ようとするヘレニズム的風潮の影響のもとで、律法学者たちのうちには、『雅歌』を聖書に 収めることを疑問視する見方もあったのだ4。こうした批判があった中で、『雅歌』がつい に正典の一つとして聖書に収められるに至ったということには、深い意味が隠されている。
実際、律法の専門家が、『雅歌』を聖書に収めることを躊躇する以前に、預言者たちは、
男女の愛を、神と人間との間の愛を譬える姿とみたて、次のように用いていた5。
行って、エルサレムの人々に呼びかけ、耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたし は、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思 い起こす。(エレミヤ2, 2)
このように、男女の間に宿る愛(アハーヴァー)とは、神と関係のないものではないど ころか、むしろ神を本源とするものであるとされる6。それゆえ、ユダヤ教のラビたちは、
この男女の愛を「花婿たる神」と「花嫁たる人間」との愛として受けとってきたのである。
『雅歌』のこうした伝統は、初期キリスト教の教父、修道者たちにも受け継がれ、霊的 かつ象徴的な解釈が為されていった。そしてこの伝統は、最大の聖書註解者オリゲネス
(185-254頃)や、次代の代表的教父ニュッサのグレゴリオス(335頃-395年頃)において 見事に開花することになる。またそうした思想伝統は、西方・ラテン教父以来の伝統では、
とくにベルナルドゥス(クレルヴォーのベルナール、1090頃-1153)やエックハルト(1260 頃-1328頃)、十字架のヨハネ(1521-1591)などに対しても影響を与え、西欧精神史の奥深 くに息づいているのである。
(2)『雅歌』連作の展示について
既述のように、当初のカルヴェール礼拝堂の装飾計画において、聖具室に置かれる予定 であった『雅歌』連作は、今日美術館において、独立した小部屋に展示されている。そし て、この六角形の小部屋の五つの壁には、それぞれ一枚ずつ絵がかけられている。
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このように『雅歌』のために造られた六角形の展示空間は、象徴的な雰囲気を作り出し ている。というのも、この部屋の六つの頂から線を引くと、この部屋の中にヘキサグラム
(六線星型)すなわちダヴィデの星ができるからである。これは周知のように、ユダヤ教 の伝統にあって極めて重要なシンボルであった。このため、この部屋はダヴィデの星の転 化であると言われる7。
ちなみに、このモティーフは、『雅歌』連作の中にも描き込まれている。すなわち、《雅 歌Ⅰ》においては、画面右上において、手(神の力を象徴する)がダヴィデの星を置こう としており、《雅歌Ⅴ》では、中央の太陽のモティーフとダヴィデの星とが融合しているの
である8[図42-43]。(これらのモティーフの作品における意味については、後に具体的な
作品分析を通して検討したい。)
【《聖書のメッセージ》美術館『雅歌』展示室平面図】9
Ⅰ.《雅歌Ⅰ》
Ⅱ.《雅歌Ⅱ》
Ⅲ.《雅歌Ⅲ》
Ⅳ.《雅歌Ⅳ》
Ⅴ.《雅歌Ⅴ》
[図42]《雅歌Ⅰ》部分 [図43]《雅歌Ⅴ》部分