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わが国数学教育現代化とその問題点
若 槻 実
は じ め に
文部省の教育課程審議会が,ユO月18日の総会で示した「中間のまとあ」によると,
小,中,高校を通じて内容の程度や分量,その取り扱いを改善する。その際,とくに小 学校については,第4学年までに整数の計算に十分習熟させる。また,中学校の「逆関数 の式表示」「連立二元や次不等式」など理解の困難な内容を高校今移す。高校では「数学
1」または「数学一般」から精選された内容と中学数学から移されたものとを中心にして 基礎的な科目を新設し,共通必修とする。また,選択科目として,例えば「代数・幾何」
「確率・統計」「関数」「微分・積分」などを設ける1)。となっている。
新指導要領の下で,いわゆる数学教育の現代化が実施されてから,算数・数学の解らな い生徒が増加したという声が頻りに聞かれるようになった。確かにわが国の数学教育の現 代化はいま深刻な反省期をむかえているように思われる。
もともと数学教育の現代化は,数学教育史上はじめての大胆な試みであった。数学の専 門家,数学教育関係者等の衆知を集めて改善した筈の数学教育が必ずしも成功していない 原因は何か。その原因を究明し,数学教育今後の在り方を検討してみよう。
1.わが国数学教育現代化の背景
わが国数学教育現代化を理解するために,まずその背景について考察してみよう。
社会的要請 従来物理学,化学,工学,統計などに限られていた数学の応用範囲が,生 物学,医学,心理学,経済学,社会学,生産管理などにまで広がったために,数学の必要 性が飛躍的に増大し,数学教育の充実が必要とされた。
世界的趨勢 1966年日数教(日本数学教育会)編集で発行された「数学教育の現代化」
の中で,諸外国の事情が,詳しく紹介されている。この執筆に当った人々は,当時からわ が国数学教育現代化の中心的メンバーであった事からみて,これら諸外国の事情がわが国 における現代化の重要な参考資料になったのは疑いのない所である。これによると,米,
英,仏,西独,ソ連など何れの国でも,集合,対応としての関数,代数的構造,変換によ る幾何などが早い時期から教えられたり,または,そのための実験教科書が作られたりし ているのがわかる。また1961年NCTM(National Counil of Teachere of Mathrnatics)
が当時の研究団体の共通な特徴として (1)集合を基盤においている。
(2)代数的構造の重点をおいている。
(3)論理的な厳密性を強調している。
(4)公理的構成を強調している。
⑤ 教材の配列においては螺旋方式を採用している。
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長崎大学教育学二三育科学研究報告 第23号
(6)生徒の創造力の開発に注意が払われている。
(7)問題・練習機に対しては十分な配慮がなされている2)。
をあげている,国際数学者会議の下部機構であるICMI(lntemational Commission of Mathematecal lnstruction)の委員長であるM. H.ストーンが
(1)数学の作用素的な面,特に,関数の写像としての作用とその統合的な働きを強調す る。
② 抽象代数およびその幾何・物理などへの応用。
(3)数学の論証的・抽象的性格を鮮明にとりあげる。すなわち,関数や集合の概念,公 理主義的方法。
(4)集合,抽象代数の諸概念の導入の上に,確率,統計,新しい計算機構の初歩の導
入3)。
のように提案した事などを述べている。その他にも多くの例をあげているが,何れもこ の当時,数学教育の中に数学的な内容をそのまま,というのが世界的趨勢であった事を示
している。 (世界各国の教科書は現在も概ねこの傾向をもっているが。)
心理学的根拠 1959年9月,米国のケープ・コッドのウッヅ・ホールに35人の数学者,
物理学者,生物学者,化学者,心理学者,教育学者,歴史学者,医学者が集って,米国の 初等,中等学校における,自然科学教育をどう改善すべきかについて討議した。この中に 数学者はカール・アレンドーファ等6名が参加していた。以後,このグループは「教育課 程の順次性」,「教具」,「学習の動機ずけ」,「学習の思考における役割」,「数学に おける認知過程」など5つの小グループに分かれ研究討論し,議長のB.S.ブルーナーが 報告書を作成した。この会議が米国における自然科学教育の現代化の理論的支柱となった
ものと考えられる。ブルーナーのことばによれば,ブルーナーはこの会議に直接刺戟され てユ960年「教育の過程」をハーバーデ大学から出版した4)。したがって「教育の過程」は 米国の自然科学教育の指導的理論を示すものと見られる。この「教育の過程」は1963年に 邦訳されて,21来1969年に早くも第十刷が発行されている所からみると,わが国の教育界 にも多大の影響を与えたものと考えられるが,1968年から実施された,わが国の数学教育 の現代化にも当然重要な役割を果したものと考えられる。数学教育の現代化を模索中であ った当事者達にとって,米国における指導的心理学者であり,現代化理論の中心人物であ ったブルーナーの「教育の過程」は教育課程の改善をすすめるに当っての重要な理論的支 柱であったと考えられるのである。ブルーナーはこの中で「どの教科でも,知的性格をそ
のままにたもって,発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができるという 仮説からはじめることにしょう。これは,教育課程というものを考えるうえで,大胆で,
しかも本質的な仮説である。それと矛盾する証拠はなにもないどころか,それを支持する
かなりな証拠が集まっている。」といい,その証拠の一つとして初等数学に深い経験を
もっている教師の一人,デイヴィド・ページのつぎの言葉を引用している。 幼稚園から大
学院まで教えてみて,私はあらゆる年令の人間が知的な面で類似性をもっているのを知っ
て驚いた。といっても,多分子どもは大人よりももっと自発的であり,創造的であり,精
力的でさえあるのだが。私の知っているかぎり,どんなものでもたいてい年少の子どもた
ちが理解できる言葉で与えれば,子どもたちは大人たちより早く学習するものである。教
材を子どもたちが理解できる言葉で与えるということは,まったく面白いことに,教える
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わわ国数学教育現代化とその問題点(若槻)
ひと自身が数学を知っていることを意味するのであり,よく知れば知るほどよく教えられ るものである。ある特定の題材について教えることが絶対に困難だときめてかからないよ うに注意したほうがよい。私が数学者たちに向って,第4学年の生徒は『集合論』までゆ けるというと『もちろんそうだ』と答えてくれる人は少ない。たいていの人はびっくりす る。『集合論』は本来難しいものだと彼らが考えるのは完全なあやまりである。いうまで もないが,どんなものでも本来難解だということはないであろう。
また「教科の課程は,その教科の構造をつくりあげている根底にある原理について得ら れるもっとも基本的な理解によって決定されなければならないということであった。特殊 な題目や技能を,ある知識の領域より包括的な基本構造のなかでそれらが占める文脈上の 位置を明らかにしないで教えるのは,つぎにのべる若干の深い意味において不経済なこと である。第一に,そのように教えれば,生徒がいままでに学習したものから,のちに学習 するものへ通ずる一般化をするζとが非常に困難になるのである。第二に一般的原理を把 握することができなかった学習は,知的興奮という報いを得ることはほとんどないので ある。教材に興味をもたせる最善の方法は,その教材を知るだけの価値のあるものにする ことであり,そのことは,得られた知識を,いま学習した事態を越えたさらに先の思考に おいても使えるようにすることを意味している。第三に,知識を獲得しても,それを相互 に結合するだけの十分な構造をもたなければ,その知識は忘れられがちなのである。関連 のない一組の事実は,記憶のなかであわれにも短命に終る。事実を,それが意味づけられ ている原理や観念と結びつけて組織することは,人間のもっている記憶が失われてゆく急 速な速度をゆるめるただ一つの方法として知られている。」と述べている。
要するにブルーナーは,教科の基本的構造を学ぶ事によって,無駄なく,興味深く,転
移が容易で,記憶し易い学習ができるしそのような学習は年令の低い生徒でも,それに適
わしい形で教えれば可能だと述べている。またとくに数学教育に関して,「数学の教育課
程の順序をどうするかということに関連したいま一つのことがある。心理発達の順次性は
教科のなかにある諸概念の発達の歴史的順次性に従うよりも,もっと密接に教材の公理の
順次性に従っていることが多い。たとえば,連結性,分離性,内在性などという位相幾何
学上の概念は,幾何学におけるユークリッド的概念や射影幾何的概念の形成に先行してい
ると考えられている。もっとも,数学の歴史においては前者の諸観念は後者よりも形式化
されるのがおそかったのだが。教材の構造を教えるのに,歴史的発展の順次性よりもむし
ろ適切な論理的または公理的順次性に従うことになにか特別の理由づけが必要であるとす
れば,いまのべたことがそれをしてくれるはずである。だからといって,その文化的また
は教育学的妥当性という見地からみて,歴史的順次性が重要でないといっているのではな
い。」,「学校の最初のニケ年で,論理的な加法,乗法,包摂,順序づけなどの基礎の操
作を強調するようなしかたで,対象を操作し,分類し,かつ順序づける一連の練習をさせ
るのは興味のあることではないだろうが。なぜなら,たしかにこれらの論理的操作は,す
べての数学を科学の,さらに特殊な操作や概念の基礎だからである。そのような早期の科
学や数学の『教育課程前の教育課程』 (Pre−curriculum)は,やがていっかは子どもに
直観的で,より帰納的な理解を与えるだろうと事実考えられるが,そのような理解はのち
になって数学や科学の正規の教科の課程で明確な形をとるようになる。われわれはそのよ
うな方法が,科学や数学にいま以上の連続性をもたせ,子どもに概念についてのよりよ
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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第23旧
く,より確実な理解を与える効果をもっと考えるが,その子どもが早期にこのような基礎 をもつのでなければ,なんら効果的な方法でこれらの概念を使用することができないまま に,のちになってこれらの概念をただ口先だけで話すことになるだろう。」一のように述べ ている。わが国の数学教育の課程をみるとこの,ブルーナーの理論に近い形で編成されて
いるのがわ・かる。
2.現代化の基本的な考え方
1968年度から角々に小,中,高校と新学習要領が公布され,現代化がはじまった。小学 校では集合の考え方,関数の考え方,組合せ,確率などが入った。中学校では,集合,演 算,記数法,順列・組合せ,確率,位相,変換などが入り,統計が充実し図形を変換の中 でとらえる,関数を対応としてとらえるなどの新しい見方が登場した。投影図,三角比が なくなり,計算的な部分が軽くなった。高等学校では,ベクトル,行列,写像,集合,論 理,幾何学の公理的構成などが入り,統計が充実した。小,中,高校を通じて,全般的に 抽象化,構造化,体系化され,スパイラル形式に教材が配列され,内容は増加した。一体 それらのねらいは何であったのか考えて見よう。
例えば新学習要領算数科の総括的な目標をみると
日常の事象を数理的にとらえ,筋道を立てて考え,統合的,発展的に考察し,処理する 能力と態度を育てる。
このため,
1 数量や図形に関する基礎的な概念や原理を理解させ,より進んだ数学的な考え方や 処理のしかたを生み出すことができるようにする。
2 数量や図形に関する基礎的な知識の習得と基礎的な技能の習熟を図り,それらが的 確かつ能率よく用いられるようにする。
3 数学的な用語や記号を用いることの意義について理解させ,それらを用いて,簡 潔,明確に表わしたり考えたりすることができるようにする。
4 事象の考察に際して,数量的な観点から,適切な見通しをもち,筋道を立てて考え るとともに,目的に照して結果を検討し処理することができるようにする。
となっている,ここでは一応数学教育で目指す所のすべてのねらいが総花的に上げられて いるので,旧学習指導要領を比較した場合,僅かに黙統合的・発展的 にという言葉が増 えただけといってもよいくらい似通っている。ところでこの付け加えられた黙統合的・発 展的 にという言葉の中にこそ現代化のねらいがこめられていることが当時の啓蒙書の一 つに述べられているので引用させていただく。それはその書物の 現代化と統合 という 項目の中でつぎのように述べられているものである。
「数学教育現代化のねらいとして,多くの人々は次の諸項目を指摘している。
(1)明確化,(2)単純化,(3)統合化,(4)拡張化,(5)構造化がそれである。ここに取りあげよ
うとする統合は,これらの項目の中の一つであるから,当然数学教育現代化の一翼をに
なうものである。いや一翼をになうと謬ったのでは適切でない。むしろ中軸をなすとい
つた方がよいかもしれない。というのは,前記5項目は,それぞれ独自の性格をもった
ねらいであることはもちろんであるが,考えてみると,これらは互いに関連し,からみ
あっている。そして統合はとくに他のいずれにも関係がある。まず(1)の明確化,(2)の単
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純化について考えてみても,あることがらを明確にしたり,単純化するためには,雑然 としたものを整理し統合することによって,その目的を達せられることが多い。もちろ ん明確化や単純化は統合だけで達せられるものでなく,内容を精選してより本質的なも のに触れさせることにより,またときにはその構造を明らかにすることにより,ときに は方法のくふう等によっても達成される。しかし,それらと並んで統合化単純化にたい せつな役割を果していることに,疑義をもたれる方はあるまい。
次に構造と統合のことを考えてみると,これは明確化や単純化のような直接的な関係 はないが,さりとて無関係とは思われない。もの(集合)の構造を知ることは,その集 合のもつある性格を知ることだともいえよう。たとえば有理数が群の構造をもっている ということを知るのは,有理数に関する性質を知ることで,見方をかえれば概念の深ま りを意味する。この概念の深まりということでは,統合も同じ役割を果たしている。い くつかのものを統合することは,それらを包括する新しい概念を形成することである。
いままで,ばらばらに思われていたものを,一つの集合の部分集合として認めることで あって,これはとりもなおさず,そのものの概念の深まりにほかならない。統合と構造 はその質は違っても,概念形成という点では数学教育上同じ任務を分担している。さら にまた,構造に着目して統合することもあることを考えると,統合は構造にも深く関係 しているといわねばならない。
以上で,現代化のねらいで純ある明確・単・統合・構造・拡張の項目が互いに関連 し,とくに統合はその中軸的な役割を果たしているとした私の考えは,大体ご了解いた だけたものと思う。今後の新指導要領がその総括目標において「日常の事象を数理的に とらえ,筋道をたてて考え,統合的,発展的に考察し,処理する能力と態度を育てる」
とのべられているのももっともであるというべきである。」
同じ書物の中で集合,関数を入れたねらいとして
「集合については,集合という内容を教えるよりは,むしろ,具体的な事物にある目 的から集まりを認めること,それによって事象をしだいに数学化してゆくところにだい
じなねらいをおいている。このことはとりもなおさず,数学的な概念の抽象性がいっそ うよくつかまれているということであり,また関連のある概念相互の関係をいっそう論 理的に正しく考察できるようにすることである。
関数は,戦前からもかなり重視されてきている概念である。これも,集合と同じよう に,算数では,特定の型の関数を指導するのではなく,日常の内容の指導で(定数の形 で表わされているものについても)適宜,変数としてとらえ,それらを対応づけて考え てゆくような見方,それによって,その内容のもつ意味やはたらきを,いっそうよく理 解できるようにしょうというところに,重要なねらいがおかれている。」と述べ,また 論理的な考え方を重視するとして ト
「図形の性質をしらべる際に,単に実測的に結果を出すだけでなく,できるだけ,わ かっていることをもとにして論理的にも説明できるようにする。また計算などでは,単 に答えを求める技法を問題にするだけでなく,計算法則をもとにして,その計算のしか たのわけが説明できることなどもだいじなことである。こうして,直観にもとづいて行 なっていることに対して,しだいに論理の反省を加えていくようにする。」と述べてい
る。
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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第23号
このような考え方は文部省,日数教,その他から出ている霧ただしい啓蒙書の中で何れ も大同小異の形で述べられているものである。これらの事から考えて現代化のねらいは,
事象を明確に,単純に,構票的に,統合的に把握し,論理的,発展的に考察処理できる という所に重点を置き,単に値や根を求めることができるといったものは,それ程重要視 しない,ことにあると考えられる。
3.現代化の問題点
現代化の問題点を論ずる場合,二つの観点に分けて論ずるべきであろう。その一つは,
現代化の考え方そのものを根本的に問い直す問題であり,他の一つは,実施上の問題であ る。実施上の不手際から起った問題が,そのまま現代化の考え方そのものの誤りの問題に すり換えられてはならない。
実施上の問題点.三つの問題点があげられる。その第一は教材の過密の問題であり,第 二は現職教育の不徹底の問題であり,第三は指導要領の硬直性の問題である。
(1)教材の過密.この事は衆知の事実であるが,その原因は三つある。第一は指導要領 による教材の持ち込み過ぎであり,第二は教科書会社の完全主義であり,第三は授業時間 数の減少である。
例えば中学校の新学習指導要領についてみると,集合,演算,記数法,順列・組合せ,
確率,位相,逆関数,標準偏差などが持ち込まれたのに較べて,除かれたのは投影図,三 角比,二次関数の一部など僅かである。これは新学習指導要領による教材の持ち込みすぎ を意味する。
また教科書会社は一般に,指導要領にもられている内容の一つ一つに全力投球して完全 なものを書こうとする傾向がある。欠けた所があるよりは完全である方が立派に見える 事,直接執筆する人は自分の分担の分だけは特に研究して完全なものにしょうとする傾向 があること,高校受験を控えた教育現場の人達が参考書のように完全に網羅された教科書 を好む傾向にあることなどが教科書の網羅主義の原因である。中学校教師の教科書採択に 当っての調査資料を見ると,某教科書会社は何が入っているが,某会社は何が欠落してい るからだめというように,完全なもの程良い教科書であるとする傾向が見られる。(受験 のない小学校ではこの傾向は少ないし,高校では教科書以外の参考書,問題集などが比較 的大きなウエイトを占めるのでこの傾向は少ないが。)したがって,学習指導要領で逆関 数が入ることになると逆関数のことが殆んど網羅されて完全な形で書かれ,これで4,5 頁費すのである。中学校の教材が特に過密になる原因の一つは完全主義の教科書を採択す
る傾向をもつ現場教師にも責任の一端はあるともいえるが,そのまた原因を探れば入試制 度の問題につき当る。 1
昭和33年の学習指導要領改訂の際,中学校1学年,2学年,3学年の授業時間数はそれ
ぞれ週4時間,4時間,5時間であったが,これは最低の基準だとの文部省の見解が示さ
れていたから,実際は各学年とも週5時間で授業する事ができた。ところが新学習指導要
領によって各学年週4時間となった。筆者は昨年(昭和49年)佐々中学校の勲位正彦教諭
とアンケートによる長崎県の実態調査をしたが,回答数132校,214名の授業時引数に関す
る部分は次の通りであった。
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現状(校数) 希望(入数)214西中
・学年12学年13学年F
4時間 4時間 4時間
4時間 4時間
4時間 5時間
4時間 4.5時間
87校 41校
4 校
1学年i2学年i3学年1名
5時間 4時聞 5時間 4時間 6時間 5時間
5時間 5時間 5時間 5時聞 6時間 4時間
5時間 4時間 4時間 5時間 6時間 5時間
145 14 12
9 5 4 そ の 他 25
であった。
このように過密な状態で教育するのではうまく行く筈がない。本来,数学教育は一つ一 つの教材について習熟して行かなければ成り立たないのものである。鱈という文字は初心 者から見れば複雑だが,魚と雪を熟知している人から見れば,それを並べただけの単純な ものに過ぎない。何事も熟知した事柄を基礎にして出来ている事柄というものは理解もし 易く,考え易いものである。また演習をしっかり積む程,概念,法則,解法の意味などが よく解ってくるものである。時間不足のしわ寄せを最も被り易いのは演習の時間である。
演習時間の不足は学習不成立の原因となる。即ち教材の過密は数学教育破壊の元兇なので
ある。
(2)現職教育の不徹底.何事も不馴れな事はうまくいかないものである。講義をする際 でも,一回目,二回目,三回目と回を重ねるに従って説明がうまくなるものである。また それまで気づかなかった要点に気づく事もあるものである。現場に新教材がどっと押し寄 せたとき現場の教師達がとまどったのは当然である。日頃研究熱心な教師は別として,平 均的教師にとっては,教材の本当の意味を汲み取る事は難しいのである。時々現場の先生 方と接触して見るとそれがわかる。この事について広川清隆氏の言葉を引用させていただ
く。
「現場の大部分の教師群には,現代化の意向からみて基礎的教材と,かなり枝葉に理る 教材(むしろ,この方に郷愁をよせている)との区別がつかず,何のために,また何故に
この教材が位置ずけられているかが理解されていないことが多いのではなかろうか。
そして,独自の準備や,工夫などをすることもなく,教科書赤刷りの指導書をたより に,割り当て時隈数通り,通り一遍に教材書の註釈を流してはいないだろうか。その流れ がうまく流れないことが多いので,そのつど,教材が多すぎる,難しい教材がある,時間 が足りないなどと発言をするようになってはいないだろうか。
このような教師に,仮にいまの倍め時間を与えても,恐らく本質をつかない不徹底さが 残り・あまり変わりばえはしないだろう。しかし,現代化は,底辺広く押し広げねばなら ないのであるから,こ:の種の教師群を放任しておくわけにはいかない。何とか,自覚し,
努力して頂けるような方策の必要さは切実なものがある。」
この言葉は現職教育の必要性を十分に指適している。
現代化の考え方の問題点。この問題に関して問い直されなければ・ならない事が二つあ
る。一つは抽象化,構造化の急ぎ過ぎであり,他の一つはスパイラル方式である。
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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第23号
① スパイラル方式について これは,ブルーナーの仮説に基づく考え方の一つであ る。ブルーナーは「教育の過程」で
「もし数,量,確率の理解が科学の探究に重要であるというのであれば,これらのこと がらを子どもの思考様式に一致させるようにして,できるだけ知的性格をそのままにたも ち,またできるだけ早く教えはじあなければならない。それらの題材はあとの学年になっ て,さらに一度も二度もくりかえし展開されなければならない。」
と述べている。これを厳密に現代化の考え方であるといえるかどうか少し疑問があるが,
一応わが国の数学教育がこの方式を採用しているのは確かである。例えば,分数について みると,2年生で告,告を習い,3年生で簡単な分数の加法,減法ができるという事を習 い,4年生で同分母の分数の加法,減法を習うことになっている。中学校の統計でいえ ば,1年生で平均を習い,3年生で標準偏差を習う事になっている。小学校から高等学校 まで通してみると,小学校6年で組合せや確率を習い,中学校2年で順列,確率を習い,
3年で確率を習い,高等学校でまた習う事になっている。これは前数学的なものから,歩 々に厳密化していくという考え方でつくられているものと思うが,2年生で習う壱や壱を 4年生のときやった方が能率的なのはいうまでもない。
中学校の1年生で平均を習っていても,3年生の標準偏差のとき,もう一度平均の説明 をしなければならないのが実情である。2年生で去,告をやって置かなければ4年生の分 数がわかり難いのであろうか。中学1年生で平均をやって置かなければ中学3年生でやる 統計が理解できないのであろうか。平均と標準偏差をどこかでまとあるわけにいかないの だろうか。小学生の時から順列をやって置かなければ高等学校でわからないものであろう か。いくつかの領域の内容を小出しにすれば,すべての領域の内容も小出しにならざるを 得ない。意味・内容というものはある程度まとまってこそ理解できるものである。このよ うに小出しでは,何が何だか解らない中に終ってしまうのは明らかだし,そのような内容 は,時間が経てば完全に消減してしまうのは明らかである。どうせ4年置で習うものを,
2年生で壱,告だけ習う意味がどこにあるのだろうか。前数学的な内容から除々に厳密化 していくことによって,後々よくわかるようになるという,プラス面に注目するのはよい が,小出し方式から起るマイナス面を忘れてはならない。少くとも現行のスパイラル方式 は完全な失敗だと断ぜざるを得ない。
(2)早い時期の抽象化・統合化について。早い時期の抽象化・統合化の代表的教材とし ては集合,演算,図形の変換などがあげられる。これらは,数学的には深い内容をもっ たものであるが,小学校,中学校などに導入する場合は非常に表面的な浅い部分のみを教 える事にならざるを得ない。そのために教材としては他愛のないものになってしまい,生 徒に演習をやらせるといっても,知識をためすだけの問題になりがちである。また演算の 教材によって,代数的な構造に対する考え方を育てたり,図形の変換の教材によって統合 的な考え方を育てようとしても,生徒がそれを汲み取ることは困難である。海や山の経験 のない人に海や山の説明をしても実感が湧かないようなものである。海や山の一般的説明 よりも,直接海や山へ行って波をかぶったり,海水を飲んだり,ボートでひっくりかえっ てみたりする方が先であろう。早い時期の抽象化・統合化は中味のない用語だけの用語づ
くりに終ってしまうことになりがちである。入れるべき内容が育たない中に用語という壷
だけを多く作って,その整理に追われる形になってしまっているのが現状ように思う。
157 わが国数学教育現代化とその問題点(若槻)
む す び
授業をやる場合,はじめの指導案というものは不具合な点が沢山あるものである。前に 何もかも配慮済みなどという事は出来ないものである。数学教育の現代化は史上はじめて の試みであった。それだけに多くの致命的な不具合さを現在もっているのは事実である。
例えば,教材の過密さを一つだけでも前述したように致命的なものだし,スパイラル方式 や現職教育の問題にしてもそうである。抽象化,統合化を急ぎ過ぎてもいけない事がわか った。基本的な演習が学習の成立の為には不可欠である事もわかった。それでは現代化の すべてが誤りであったのか。私は必ずしもそうは思わない。
良い面が見えるからといって,性急にとびつけば,スパイラル方式のような失敗がある が,悪い面が見えるからといって,すぐに何もかも悪いと決めつけるのも同様な失敗のも とになる。悪い面がみえるときは良い面にも注目し,如何にすれば最も良くなるかについ て十分考察しなければならない。
つぎに考えなければならないのは,数学のための教育と数学教育とは必ずしも方法的に 完全に一致するものではないという事である。 (勿論多くの点では一致するが)数学教育 は人間形成のための教育である。その為にある程度数学の為の教育としてはマイナスと思 われる方法もとらざるを得ないことがある。その一つの例をあげると,数学者を養成する ためならば,間口をせまくして基本的な事を徹底的にやる方が良いし,集合,論理,統計 といったものはその必要に応じてやればよいものだから,小,中,高校ではやる必要のな いものかも知れない。しかし人間形成という面からみると論理や統計はやって置く方が良 いのである。論理などというのは,代数や幾何をしっかりやって居れば,自然に身につく ものであるという数学者もあるが,数学の不得意な人にとっては代数や幾何そのものが良 く解らないことが多い。その中で論理だけを正しく会得するということは不可能である。
やはり現行の課程のように,集合・論理という項目の中で,集合や日常的な事柄の中で学 ぶ方がわかり易く,必要な事なのではなかろうか。例えば本を読んだり,人と議論したり するとき,ある命題が正しければその逆や裏も正しいと思ったり,その判断がつかなかっ たりしては困るのである。 黙猫であるならば動物である のような日常な題材によって,
必要条件,十分条件,逆,裏,対偶などを学ぶべきである。形式論理の行き過ぎに対する 懸念の声も聞かれる。成程2−3が正しいならば5−1も正しいなどという事を力み過ぎ て教えてはいけないが,こういう欠点があっても,なおかつ論理の教育は重要なものであ ると考えざるを得ない。統計にしてもまた創りである。
数学教育の現代化は人間形成のための数学教育として,その欠点を是正しながら,進め ていかなければならない。
注
(1)新日新聞10月19日号
(2)日本数学教育会編 数学教育の現代化
(3) ibid p356
(4)ブルーナー著,教育の過程,岩波書店
(5) ibid (4> P42
(6) ibid (4) P51〜52