奈良教育大学学術リポジトリNEAR
〈数学教育の人間化〉の一考察 −〈表現〉の問題
−
著者 重松 敬一
雑誌名 奈良教育大学紀要. 自然科学
巻 28
号 2
ページ 13‑28
発行年 1979‑11‑15
その他のタイトル An Investigation of 'Humanising Mathematical Education' −The problem of 'representation'−
URL http://hdl.handle.net/10105/2456
奈良教待人'、j'紀要 第28逢 第 ・'} (自然)昭和54n二 Bull. Nara Univ. Educ, Vol.28, No.2 (Nat.),1979
<数学教育の人間化>の一考察
‑<表現>の問題‑
jK 松i'k ‑
(数学教育学教室) (昭和54年5月1口受理)
An Investigation of ̀Humanising Mathematical Education'
‑ The problem of ̀representation'‑
Keiichi SHIGEMATSU
(Department of Mathematics Education, Nara University of Education, Nara, Japan) (Received May 1, 1979)
Abstract
In the last thirty years, we have seen the so‑called ̀modernization' of mathematics education, and we are now bewildered at it.
Some mathematics educators say that the modernization ended in failure, and insist that the curriculum of the so‑called ̀New Math'must be changed from the slogan ̀Back to Basics'.
However, this interpretation is not necessarily true because the idea of the change is not certain and there may be a risk of the re‑modernization in this idea.
SO, we are very interested in D.Wheeler's idea of ̀Humanising Mathematical Education'because the idea has, we think, a philosophy of revolution of mathematics education related with the ̀pedagogy of situation'.
The purpose of this article is to investigate his idea, especially one of three ways of humanising : mathematisation.
Firstly, we describe Wheeler's three ways of humanising: mathematisa‑
tion, unfolding mathematics as human activities and awareness.
Secondarily, we point out that the activity of ̀representation' is useful for the mathematisation and we fail to notice a possibility of self‑modifica‑
tion of representation.
In conclusion, the idea of ̀Humanising' is favored because it may improve the ̀Subordination of Learning to Teaching'.
13
IE! 重 松 敬 一
I 序 言
今日の数学教育は,新たな混迷期を迎えている. 1950年代に1つの潮流を現出した,いわゆる数 学教育の現代化運動は,共通した確固たる改革の方針があったわけではないが,ともかくも,この 運動には,誘因を含めて,いくつかの世界的に共通したものがあった.その共通性は,動向の要と しての種々の国際会議を見ることによって理解できる.例えば, 1958年のICMI ( International Commission on Mathematical Instruction)エジンバラ会議は,会議の参加者,討議テーマ, その後の影響から,数学教育の現代化運動の国際化の役割を果した.また, 1962年のUNESCO ブタペスト会議は,現代化運動の焦点を内容から方法へと拡大し,実践化への基礎研究の方向を明 確にしたことに意義がある.その結果, 1965年ごろを転機に現代化運動の様相に変化が見えはじめ たのも世界的な傾向であった.とくに,初期の数学者主導の性急な改革‑の反省がもたらされたの もこのころであった.
これら数学教育の現代化運動については別に論じている(1).ここでは,この共通した様相を呈し た現代化運動(いわば"New Math"による教育)が,混迷を迎える様相の変化を略説し,現状の 問題点と研究の目的を明らかにしたい.
1965年ごろに様相の1つの変化が訪れたことは先に述べた.それでも,その変化はA.E.Meder Jr.とM.Kline, J.Dieudonn」とR.Thom との,いわゆる<古代対現代>の論争と軌を一にす るもので,いわばNew Mathをめぐるものであった.
混迷の様相が現われるのは 1972年,アメリカのカリキュラム研究グループ SMSG (School Mathematics Study Group)が解散するころからである SMSGは,アメリカの国家科学財団 (NSF)のサポートを受け, 1958年に発足したものである.解散するに臨んでSMSGは,テキス トの作成,現職教育,啓蒙活動等々に十分な成果があり,初期の目的を達成したと述べている.が 実際のところは,中等教育を含む教育の大衆化と経済社会の変化が急激に進む中で,十分な成果が 得られず,なおかつ,引き続き現代化運動のイニシャチブを取って行くことが困難となったから解 散したものと思われる.
では,この混迷の中に,どのような数学教育のアイデアが見られるのだろうか. 1つば,現代化 運動によって初期の目的が達せられなかったのだから現代化運動を全面的に放棄する必要がある
‑という懐古論である.今1つは,どんな運動にもそれなりの問題があるから,現代の社会的要 求に合致するように,いわば新たな現代化運動を図ろう‑という考え方である.
ところが,これらの少なくとも2つの考え方は,現代数学の発達に対応できるように現代化した ことに無理があったのだから,社会の要求する最低のレベルから数学教育を内容的に再構成しよう
‑という点において共通したものがある.基礎へ帰ろう(Back to Basics) ‑というのがそ のスローガンである.もっとも,この基礎・基本については必ずしも統一した見解はないようであ る.例えば,アメリカの数学教育の指導者による委員会 NCSM (National Council of Super‑
visors of Mathematics)は,高等学校卒業時までに必要な基礎的技能として, 10の蝕域を規定し ている;問題解決,日常場面‑の数学の適用,概算と近似,適度の計算能力,図形,測定,表・チ
ャート・グラフを読んだり解釈したり構成したりすること,数学を予測に使うこと,結果の妥当性
を判断すること,コンピューターについての教養.これをみる限りでは,基礎とは3Rの時代の単
に計算技能に止まらず,結局は内容的にもNew Mathのカリキュラムと変らないのではないかと
<数学教育の人間化>の一考察 15
思える.
ともかく,これらの考え方は,歴史的に幾度となく見られる改革の不連続性,即ち,数学か子ど もかの誤った二分法における振子の移動にすぎず,再び現代化の轍を踏まなければならない問題点 を内包したままであることは明らかである.少なくとも,日本の今日の様相にはこの点が一層鮮明
に現われているように思われる.
では,この混迷に,内容だけの,基礎‑帰ろう‑という考え方以外の発想はないか‑という と,イギリスのD. Wheeler氏の提唱する <数学教育の人間化>が,次の点において注目に値す ると思われる.過去の誤った二分法的視点では,いづれにおいても,少なくとも教師と生徒は,数 学をはさんで対立した別の立場でしかなかった.したがって,生徒は常に教師に対応する形でしか 学習することができなかったわけである.ところが Wheeler氏の考え方では,生徒と教師は, 指導者に対する学習者ではなく,同じ対象を観察し,操作する1つの立場である.これはすでに述 べた"シツエーション"による教育と軌を一にするものであり,単に指導法上の発想に止まらず, 数学教育の原理となるものである.
そこで,本稿においてはD.Wheeler氏の考え方を明らかにするとともに,そこに述べられてい る人間化の方策の1つである数学化(Mathematisation)に関って, <表現>の問題を考察してみ AD
I D.Wheeler氏の<数学教育の人間化>
この章では, <数学教育の人間化>の提唱について概説したい.
与1. D. Wheeler氏と<数学教育の人間化>の提唱について
David Wheeler氏は,イギリスの数学教育研究団体ATM (Association of Teachers of Mathematics)の会員であり, 1965年には同会の会長もつとめている.さらに,以下で概説する Wheeler氏の論文が掲載された同会の雑誌 Mathematics Teaching の編者にもなっているな
ど,数学教育の活動は広範であり,指導的役割を果している.
最近では,数学教育の研究だけでなく,研究整備の必要性などを論評した論文も多い.
では, D.Wheeler 氏の提唱する<数学教育の人開化>とはどういうことであろうか.提唱の動 機などからみてみたい(2)
この提唱は, 1975年同会のランカスターにおけるイースタ‑会議において行なわれたものであ る Wheeler 氏をしてこのような発想を抱かせた動機が次のように述べられている;ただ,すべ ての子どもが学校にいるわずかな間だけでも,数学の可能性や魅力を経験してもらいたい.数学が 学校の外ではほとんどの人に無縁であるのに,その学校で学習するわずかな時に,誤解やダメージ を受けたまま卒業していく非人間的現実をWheeler氏は憂いたものであろう.本来人間的である はずの数学的活動を望んだわけである.
Wheeler氏は,人間的である数学教育の具体的なイメージを明確にもって,そのアイデアを述 べているわけではない.むしろ,この提唱を今後10年間の研究の礎にしたいとしている.そのため に,ここで述べられていることは,人間化の必要な社会的要請とその3つの方策である.それで も,人間的である数学教育の基本的な考え方は窺い知ることができる.
数学自体,成功も失敗も踏えた人間的活動である.それゆえ,数学的知識を伝えることのみが数
学教育の目的ではない.むしろ,子どもの数学的活動を促進することが目的である.この人間性を
復権する比較的手軽な方法は,子どもに数学を強要することをやめることである.ただ教師が暖
16 虫 松(u ‑
く,抱擁力のある臨床医である数学教育が,人間的である‑というわけではない.
このように,人間的である数学教育は,人間的な数学的活動を前提とした教育活動であるという ことができよう.
§2. <数学教育の人間化>の社会的要請とその方策
Wheeler氏は,人間化の必要な社会的要請を3つ挙げている.
(1)戦後の知識の爆発的増大と技術の発達は,だれもが知るべきことのすべてを知ることが出来 ないということ,また,その応用が制御される必要のある発見の意味を把握することが出来ない
‑ということを知らしめた.各人が自分の興味,必要,能力に応じて自分の世界を構築すること が今こそ必要である.
(2)仲間や個人の間に不和や分裂が生じている社会となり,教育実践すらこの状況に慣れ合って しまっている.学校教育の人間化によって,次のことが求められている;学校は,子どもの個性を 伸ばし,能力を確かめ,望むなら現代の社会を越えていくことができることを子どもに示すことが できること.
(3)学校は,子どもを型通りの人間にしたり,子どもに型通りのモデルを示すことができなくな っている.教育の個別化は必要であるが,単なるクラス編成や指導形態の問題ではない.
ここでは,教育の個別化が,必ずしも人間化に直結していない‑という見解に注目したい.千 どもの個性に応じるとして個別化がよく捉唱されるが,ともすれば,子どもの小グループ化による 型はめであったり,全くの孤立化であったりする.このような個別化は,決して人間化ではなく, 結局は没個性的な型通りの人間形成に陥ることになる‑というものである.
次に Wheeler氏は,人開化のための3つの方策を示している.
(1)子どもに数学的知識を押しつけるのではなく,子どもの数学的活動を促進するために,数学 化(mathematisation)を強調すること.
(2)子どもに,成功も失敗もある人間活動として数学を捉示すること.
(3)数学を媒介にして,子どもの意識性(Awareness)を育成するために,意識性のレッスン を用いること.意識性はまさに人間のものである.
ここで, Wheeler氏の説明を中心に, 3つの方策について今少し言及してみよう.
1.数学化について
この発想は, Wheeler氏固有のものではない.すでに,オランダの数学者H.Freudenthal氏 によって発想されたものである.この用語自体,数学的活動のある側面を指示したものであるが, 実は多様な解釈を生む危険性を内包している. Freudenthal氏自身,次のように注意している(3)
もし,数学化が公理化(axiomatisation)の意味で用いられたり,形式化(formalisation) の意味で用いられたら,私は怒るだろう.というのも数学化は,あらゆるレベルでの活動である
‑という私の発想から遊離しているからである.前者は,すでに数学的問題であるものの特別 で,巧妙な数学化であり,後者は,言語的問題として数学的に処理することである.私はくどい ようでも,この一方的な誤解に警告したい. (p.183)
では,このように誤解されやすい数学化を,あえて人間化の方策とする意図は何であろうか.非 人間的教育としての知識伝達に対して,活動を強調すると,ともすれば,了‑どもが活発に発言した
とか,よく体を動かした‑といった内面的知性の育成に連ならない活動と誤解されやすい.この
誤解を避け,また,数学的活動という抽象的言い回しよりも,数学化という少しでも貝体的な活動
を示したかったのだろう.
<放J芋教育の人間化>の一考察 17
Wheeler氏は,数学化について次のように述べている(2)
数学化は,プロセスに対するラベルである.もし,子どもは数学化できる必要な機能をもっ ているという強く妥当な確信の上に数学化が用いられれば,過去において作られたものによっ てのみ数学を判断するという横暴から自由になれるかも知れない.数学化の所産が必ずしも数 学ではない.数学化する能力は,私たちが知っている数学とは独立にあると思えるからであ る.多くの日常的活動の背後にも数学化の活動はみえる.例えば,見知らぬ目的地にドライブ する時など. (p.6)
また,数学化の本性的機能として次のような要素も列挙している.
① 関係を読みとる能力.
㊥ 関係を純粋に念頭的思考の対象として理想化する能力.
③ さらに,新しい関係を生み出すために,念頭的に対象を操作する能力.
④ もし〜であればどうなる‑という自問に答えようとして,活動や知覚を内在化したり,初 党化したりする能力.
⑨ 活動から知党‑,知党からイメ‑ジへ,イメージから概念へと変換する能力.
㊥ 指示の枠組を変え,シツエ‑ションの無視された性nを再評価し,問題を作り変える能力.
(う 現実と理想を位置づけ,対比させる能力.
⑧ 知党,イメージ,言語,記号の体系を統合させる能力.
そして,これらの諸機能が,特定の事例から切り離されて,純粋な関係として通用することがで きるようになれば,その所産は数学となるであろう‑と Wheeler氏は結んでいる.
これらの言い回しはかなり抽象的であるが, Wheeler氏は,この数学化の事例として, Caleb Gattegno氏の「数学教育の常識」 {the common sense of teaching mathematics, Educational Solutions, 1974)を参照するように勧めている.
2.人間活動として数学を提示すること
この方策に関しては Wheeler氏自身, (1), (3)に比べてあまり言及していない.これは,数学 教育を実践・研究しているものにとって,あまりにも自明のことであると Wheeler氏は考えたか
らであろう.ところが,数学は人間の創造物であるという数学紬は, 19世紀の終りごろから G.
Cantor, D. Hilbert らによって明確にされたものであるにすぎない.それゆえ,今Rでもなお, 数学は自然を写しとったものであるという自然科学としての数学観が根強い.そのために,一部の 高名な数学者のみが発見に携ることができ,数学する(do mathematics)ことができると考えて いる教師も多い.
数学の創造においては,子どもたちの数学的活動と類似の経験が行なわれていることを示すため に,次のような問題を提示している;数学を創造するとき,数学者はどんなことを問題としていた のか.ある業績が残り,他のものが放棄されるのはなぜか.数学者は,自分の業績がいつも価値あ るものと考えていたのか,等々.
Wheeler氏は,結局,このような人間臭さを子どもが自らのものにすることによって,その経 験や和解を拡大することが可能となると考えたものと思われる.
3.意識性について
この方策の説明にWheeler氏は,論文の半分以上を割いている.それは,意識性が人間に特徴
的な性質であり,自らの意識を意識できるという行為こそ,最も人間らしい状態であると考えたか
らである.加えて, C. Gattegno氏による<意識性のみ教rn掴巳である^> (only awareness is
m 山 松 fft ‑‑1・
educable )という教育原理に共鳴したからでもあろう.
とはいえ,心理学においてさえ意識の研究は長く等閑に付され,最近,人間を直接の研究対象と することになって,ようやく意識の復柿が図られている程だから,意識性の定義はかなり困難であ る.まして,教育的効用についての研究は緒についたばかりである Wheeler氏も,意識性を定 義することはせず,現象に現われたそのいくつかの側面を指摘することに止めている.
ただ,数学は他教科よりも意識性に関する情報をより多く生み出しているという.というのも, 定義(definition)の形で意識性のいくつかを明確にしているからである;数学の体系において最 も基本的な定義は,意識性の形式化である.つまり,定義は,強調されるか,さもなくば,無視さ れる性質を強調し,多様なシツエ‑ションの中から採用され,発展の可能性を示唆し,未来をもっ ている.もっとも,必要な意識性が定義の中に兄い出されるとしても,すべての意識性が定義の形 で明らかにされることはないことに注意している.
例えば, 10の倍数の定義に見られる意識性についてみよう Cuisenaireの色棒の操作の経験を 通して,次の2つのレベルの意識の統合が必要であるという.
① 発音のレベル・'‑部の例外を除いて, ‑tyをつけて発音する.
㊥ 行動のレベル:白の色棒の,甲種1としての,かぞえる操作,グループ化する操作,加える ことの操作などが,オレンジの色梓の,単位10としての操作としても同様に 行なえる.
さらに, Wheeler 氏は,意識性のイメージをより鮮明にするために,そのいくつかの側面を列 挙している.
① 意識には,種々の型とあらゆる種類の特性がある.あるものは私たちが将来必要とするであ ろうもっと特殊な意識のための某穀となる.例えば,幾何は空間的で,代数は時間的であるという 意識は,数学に対する視点を形成する.
⑧ 意識は,別のことに関心がある時にでも,突然現われる.
㊥ (経験は学習の必要な要素であるが,決して十分ではない. )意識は経験の重要な部分を保 有し,将来応用できるように整理するための注意行動である.
④ 意識は,洞察とほぼ同じような質をしている.
⑥ 意識は,画観と同じ特性を含んでいるが,全く同じ‑というわけではない∴ 誠は直観を 超え,直観がとどかないところまでも到達することができる.
㊥ 意識性は,仮説や理論の状態ではなく,知ること(knowing)である.
⑦ 意言劉生は,必ずしも,かなりありそうな命題の信念や肯定のようなものではない.
㊥ 意識は,道具である.それは,技能,知識,理解の成長の道程に沿っての道標となるだけで はなく,取り組むべく残っている挑戦,疑問,問題を私たちに示してくれる.
そして,最後に,意識性の教育はあまりにも単純な人開化の方策かも知れないが,教育の役割, 子どもの立場を明らかにする.さらに,珊論,イデオロギ‑,流行,非人間的要求などから独立し て教育される椎利がすべての子どもたちにあることを示す唯一の答である‑と Wheeler氏は結 んでいる.
このように, Wheeler氏の人間化の発想が,そのいくつかの中心概念がいまのところ明確なもの ではなく,被も言うように,今後10年J二日‑.の研究ij‑rji‑‑笛ではあるが,今Flの混迷した数,‑y.教育にかな り明瞭な方向性を与えているように思われる.教育を通して,子どもに何を残すことができるのか
‑という最も基本的なテーゼに対しても,人開化の方向性は,確かな足どりを示しているように
<数学教育の人間化>の一考察 19
思われる.
§3. <数学教育の人間化>の展開
Wheeler氏の提唱に関って,当面,次の5つの論文が注目される.
(1) John V.Trivett : Forward to the Basics, Mathematics Teaching, No.79 (4‑ll), 1977.
(2) Willy Servais : Humaniser I enseignement de la mathematique, Bull. APMEP, torn.
56, No.307 (17‑52), 1977.
(3)平林‑栄: 「「数学教育の人FHj化」 oj聞題」中田四国教育学会発表, 1975.10.
(4)同上: 「「数学教育の人間化」の問題(続論)」中国四国教育学会発表, 1977.ll.
(5) Seamus Dunn: Students and the Humanising of Mathematics, Mathematics
Teaching, No.83 (43‑45), 1978.
これらの論文は,内容において共通するところが多い.何よりも Wheeler氏と同様の数学観が その根底にある.例えば, Trivett氏はそれを次のように説明している;あらゆる人が,自己の関 係を取り扱う能力に漸次気がついてもらいたい.数学は,このような関係の研究である.しかも, 闇係の関係や,自分自身の理解のメカニズムにおけるその力動性と決定的な役割を強調した研究で ある.
Servais氏の論文は Wheeler氏の論文とは独立したものであるが, Trivett, Dunn両氏の論 文は, Wheeler氏の提唱に対するものである.また,平林氏の1975*f‑の発表は,彼の活動主義の 見解から, Wheeler氏の論文を糾介したものであり, 1977年の発表は, Trivett, Servais両氏の 論文に囲って,人間化をより一層探求したものである.ここでは,平林氏の1977年の発表とDunn
氏の論文を中心に,人間的である数学教育について今少しみてみよう.
Trivett氏は,数学教育の根本を見つめたとき,そこに人間的と言われるためのどんな要件が必 要であるか‑ということを,教師,生徒,数学の3つの視点から述べている.
(1)すべての数学の授業‑すべての数学‑は,人間のみがそのような活動ができる‑とい う意味で人間的である.
(2)教師は,教えるべき数学をよく知るべきである.
(3)子どもは,提示されたものを学んだり,楽しんだりする能ノ」があることを教i湘ま知るべきで ある.
(4)教師は,教室の中でこのような数学が人間の でいかにコミュニケートされるかを知るべき である.
これらは,平林氏も言うように,あまりにも自明のことであるが,ともすれば忘れられてきた.
そのために,非人問的な現象が生起しているわけである Tnvett氏が注目されるのは,このよう な「常識」を再認させたことではなく,次のことであると平林氏は述べている(4)
Trivett氏は,生徒を関係網の世界の一部と見徹し,そこ‑教師も巻きこまれている‑とみ ている.彼の意図は,数学教育の人間化を超えて,自然と人間を一体化した関係としての世界の 中で,教価も生徒もそこへ巻きこまれた存在であるという認識に立って数学教育を企画しようと
したところにある (p‑4)
いささか抽象的な言い回しであるが,序言で述べたように,教師と生徒が共通の対象を認識でき る風Iit (関係網の世界,シツエーション)の中で,聞係を探求した数学教ffの姿が, Trivett氏 の,また平林氏の人間的数学敷石であると思われる.
このような数学初とそれにもとづく人間的数I芋教!溝10)追求は, Servais氏においても共通して
20 近 松 敬 一
いる<4)
伝統的にせよ,現代的にせよ,教育は同一の貧困さに悩んでいる.それは肉体から離れた (desincarnee)数学を反為させながら提示することになってしまっていることである.それはつ ねに,子どもを無視することによって,隠蔽された,純粋に内部的なプログラムを持っている.
そして,教師は,子どもの情緒性,人格的発達をあまり考慮しないで,きわめて急速に子どもを 条件づけることになっている.このような不溝足な事態をいかにして改良するか‑
(1)各生徒に適したよい心理学的接触をもつこと.
(2)理解による学習を保証すること.
(3)誤りからよい部分を引き出すこと.
(4)均衡のとれた数学的栄養を与えること.
(5)民主的精神を発達させること.
(6)人格的喜びを刺激すること.
(7)生活との結びつきを十分に保つこと. (p.6)
とくに Servais 氏に注目すべきことは,初等教育において最近かなり常識化されている諸注意 を,中等致f封こおいて今日とくに強調すべきである‑としたことである.それこそ,中等教育の 大衆化における人間化の要請である‑と平林氏はまとめている.
Dunn氏の論文は,人間的であることを,授業の中で実証的に分析した点で注目される(5) (1)数学は,人間行動の復稚さを考えにおいたときにのみ,人間的である.
(2)生徒は,仮説を一般化したり,予測したり,検証したりするときに,いろいろな活動を試み ている.
(3)外部からの強制をできるだけ除外すれば,生徒の数学的活動は,普段の授業の中での活動と は,似ても似つかないものである.
Dunn氏は,このような授業分析があまりなされておらず,今後このような某槌を重ねていくこ とによって,より人間的である数学教育が明らかになる‑と結んでいる.
このように,各氏の論文には,分析の方法等に幾分かの違いがあっても,共通した数学教育観を 持ち,また追求していることが明らかになったであろう.この人問的数学教育の揖唱は,決して一 時的な流行ではなく,実践と一休化しうるものであると思われる.
とはいえ Wheeler氏の人間化の方策としての,数学化,意識性の概念規定は緒についたばか りである.次の̲章では,とくに数学化に関って, <表現>の問題を考・察してみたい.
Ⅷ 数学教育における<表現>の問題
前章では,今Llの混迷した数学教子自こ明りを燈す燈台のような人間的数学数百の発想について述 べてきた.それは,平林氏らの活動主義に立脚した数学教育(いわば,シツエーションによる教 育)の発想と軌を一にするものであった.
ところで,この人F制再数学教育の基盤となる,いわゆる方法論,内容論は‑というと,人間化 の方策の中にその萌芽をみることが出来るとしても,まだ明確なものではない.この不明確さは, 人r酬勺数学教習を抽象的議論に閉じ込めてしまいかねない.この解決には,当面,すでにあるよう に次のような視点の研究が必要であろう.
(1)今日の数学教tiの非人間的側面を収集し,人間的である数学的活動の意味を探求する.
<数学教育の人「冊ヒ>の一考察 21
(2) Wheeler氏の人間化の方策をより明確にし,実践可能な数学教育として理論構成を図る.
この̲章では, (2)の問題の中でも,数'、r‑iLの機能に関って, <表現>ォ間題を考察してみたい.
§1.問題の所在と表記研究
はじめに,今日の数学教育にみられる<表現>に纏わる事例を紹介してみよう(6) (1)小学校1年生の授業‑くり上りのある加法の導入
たまご10個入りのケースを使った場面構成から,直観的に答を求めさせて記録させていた時,あ る子どもが質問した. 「先生./<式>は書かなくてもいいの. 」
ところで,この質問をした千どもはどんな発想から式を持ち出したのだろうか.ここでは, ^が 簡潔な関係表現である‑という意識よりも,式がなければ答が出ない,あるいは,式が出ていな ければ算数と思えない‑という先入観に提われていたと考えるのが妥当であると思われた.
(2)中学校3年生の授業‑定理の証明
証明の記述指導において,ある生徒が推論の古き方について質問した.その生徒は,カッコ付き のP針圧吉きが,どんな場合に必要で,どこまで書けばいいのか決った吾式を示してくれ‑とでも 言いたげであった,それは,試験で1押〕とされないための方便を求めているだけのようでもあっ
た.
これはよく見かける事例であるが,この生徒にとって,伸男の記述をする必要性は全くなく,自 分が納得できなくとも,他人に理解してもらえなくともまるで関係なしというものである.果し て,すばらしいアイデアを表現するための技術指導が,中味のない小手兄の指導で終ってよいので
あろうか.
このような事例に接するとき,生徒は,教師の認識対象でしかない風最に押し込められ,ただ指 示されるままに応答するといった一方通行の非人間的放J芋教ffの感/i‑強くする.そこでは,数学化
の有用さなど何も感じることができない.
では,数学化の活動を誘発するような<表現>に関る指導が,現ffi了なわれていないのであろ うか.ここでは,文章題の問題帖夫における,問題把握のための「図解指導」について考えてみた い.
荒木雄 氏は,図解について次のような意義を認めている(7)
文章題に合まれている各閃子を図に表現して視党化することは,問題場面を全体的,直観的に 把握することを容易にするとともに,全体と部分,部分相互の関係の把握にも非翻こ有効な方法 である (p.217)
この図解に対する見方は,おそらく日々の1受業の中で行なわれている「図に出、てみなさい」と いう発問と軌を一にするものと思われる.たしかに,この図解は視党化によって,子どもの取り入 れの活動には有用であろう.ところが,子どもの解決行動をみたとき,どの子どもにとっても理解 が容易であるものとして,図は必ずしも機能していない.まして,慨係把握できたアイデアを取り 出し,他の人に示すものとしての活動には,全く機能していないと患われる.その意味では,子ど
もは全く受身で,解釈活動としてのみ行動しているように思われる.
ところで,このような<表現>に関する諸問題を'分析・考察した先行m究についてみてみると,
戸Ul清氏をはじめとする表記研究は,大いに示唆のあるところである.とくに,平林氏の<図的表
記の言語性>の分析は, <表現>を考えるときの規範とも言えるものであろう.ところが,この表
記研究の発想には,いささか言語のラング的分析のニュアンスが感じられる.平林氏は<表記>の
発想について,次のように説明している(8)
99
重 松 敬 一
数学では,もっぱら視覚的記号だけを考察の対象にし11/告や身ぶり,手振りによる記引ま全 く取り扱かわないので, 「かれた記号」という意味でこれを使用する. (p.194)
したがって,表記研究は,いわば指導者側に立った研究であり,子どもの積極的活動を前提とし ない,理解のしやすさ,指導上の伝達のしやすさを中心として<表現>が分析されていると思われ る.
では,人間的数学教育における数学化の活動を支える<表現>とはどういうことであろうか.
§2. <表現>について
1. <表理> (representation)の語義
<表現>の語義を明らかにするために, expressionの譜表と対比させてみたい.
辞書にみるかぎり,ともに表現行為とその結果をも意味し,表現の方法も,絵画,言共,記号, 文字などを用いることに変りはない.違いは,表現行為者の意識性,とくに何を表現するのか‑
という点にある(9)
expression 感情,精神,性格,したがって内面の表;ii.例えば,赤ん坊が泣く.
representation;考え,心像,概念,したがって対象の表現,再現,描写.例えば,役者が舞台 SftH
このようにみれば representationは,対象に対する概念などの表現行為とその結果と考える ことができる.しかも,そこには表現行為者の情趣的な姿勢が潜在していることがわかる.この意 味から<表現>を捉え,その行為の精練性をより強調するために<表現活動>を伎うことにした い.
2. <表現>の棟能 (1) <表現>の対象
<表現>がどんな対象に対する活動であるか‑ということは語義の分析から明らかになった.
ここでは,数学教育における<表現>に限定して,今少し対象を明らかにしたい.
㊥ 数,数の性質,図形などの概念
⑧ l月数快腺,数量¥M{系, fx料の整理などの関係
③ 論理的思考
この3つが教科Jj‥の分析などを通して明らかになった.これからわかることは, <表現>が,数 学教育の内容と深く関り,人間性の発現に重要な役割を果す‑ということである.実際,数学化 の活動として,このような対象を日常生活,あるいは学習場ifn'w中から読み取り,数学的に処理す ることを可能ならしめるのが, 1つに<表現活動>であろう.
(2) <表現>の方法
方法を明らかにするために,崎谷真也氏の教科書の分析を参考にしてみよう(10) 的谷氏は,汰 の5つの方法に整理している;言語,数・式,衣,グラフ,図.尤も,それらが厳密にディスジ ョイントに類別されるものではない‑としている.とすれば, R.Skemp氏や先の表記研究にお けるように,次の2つのカテゴリーに焦点づけた方がよさそうである.
㊥ 言語・数式的表現(言語・代数的訂<]‑) (勃 図的表現(視党的記})
ところで,これらの分類のみで方法を規定しておくと,表記研究に対して指摘したように,指導
者側のいわばラング的研究には通しているが,手どもの側のいわばパロール的研究としては不都合
な面も生じる.そこで,糾内表現法に対する言大のような動的表現法も方法として規定しておきた
<放'}''‑教育の人r冊ヒ>の‑ ,T弓・察 23
い.
⑧ 身ぶり,手ぶりなどによる表現 (彰 子どもらしい表現
③の例として, Z.P.Dienes氏は,次のような事例を娠示している(ll)
ある子どもが,点とは何ですか‑と聞かれたとき, 2木の人差し指を交差させ,皆んなに見 せて,この2つの線が交わったところです‑と答えたという (p.91)
また, ④の例として,西ドイツの教科習Alefの<表現>は,みるべきものが多い(図1)(.2)̲ こ こに示したのは,簡単なカルノ‑図による分類である (p.146)
㊥, ④のカテゴリ‑は, ㊨, ④に比べて,かなり不明確なものであるが, <表現>が丁・どもにと って,眺め,操作する対象となるためのイメ‑ジ化には必要な方法と言える.
実際,今l二1の教科書が読みにくい‑という批判を受けるのは,何よりも, 子どもが眺めるべき<表現>がないためであろう.
これらの方法は,全く独立してLV.起するわけではない.表現活動がより豊 かになり,誤りのないものであるためには,共存も考えられる.さらには, 子どもの発達段階に応じて変化するなどの側面にも注意したい.
ここで,表現方法の条件についても述べてみよう.
① <表現>は,できるだけ自然であること. 図1 Alef の図的表現
⑧ <表現>は,生成的,活動的,再発的であること.すばらしい表現は,自己増姑することが できる.
(め コード(解釈のための規則体系)が明砧であること.
(隻)用いられている方法の文脈が男らかであること.
⑧のく表現>の一例が代数式である. mはたかだか4次元のものまでしか祝先化できないが,式 は, n次元空間を<見える>がごとく示してくれる.これによって言高次元空間を対象とした認識 も可能となるわけである.
(3) <表現>の機能
<表現>の機能は,図2からもIIJjらかなように,個人内での思考,コミュニケ‑ションに手がか りを与えることであろう.千どもの念頭腑且考について言えば,実1捌勺シツエーションから,数 学的概念,皿係を抽出し,それを類化して
抽象的に処理するという狭義の数学化のた めに<表現>が手がかりとなる.逆に A 体化のプロセスにおいても, <表現>が機 能することは言うまでもない.さらに,節 三者とのコミュニケーションにおいても,
<表現>は有用な役割をもっている.即 ち,個人内の念血的思考を外在化させるこ
とによって,誤りのない思考のシツエーシ ョンが成立するのである.
したがって, <表現>の機能は,少なく とも次の3つの機能に整理できるCO)
⑧ 個人再のイメ‑ジ化を明L縮こする.
l く表現)
揉維il‑fi、 → 抽H‑
阜‑ (抽象的モテル)
‖*:;'^・‑..‑メ.「
‑‑‑ ̲̲ ・
l 個人
\/
現 衣
ヽ、
人l 偶l
‑
I 1
‑ I
・
一
一
I
I.
l l
図2 く表現)の機能
?4 重 松 徴1‑・
⑧抽象化されたものの理解を容易にする.
@アイデアを表現することによって,コミュニケーションを容易にする.
§3.<数学教育の人間化>のための<表現活動>
これまで,<表現>の概念規定について述べてきた.その中で,今までの数学教ffにおいては,
<表現活動>が軽視されるか,あるいは全く行なわれてこなかったことが明らかになったであろ う.この節では,さらに,従来あまり注視されてこなかった<表現>の変容の側面について言及し てみよう.
1.<表現>の変容可能性‑図的表現を例に
例えば,円).射[]の定理「1つの円で,同じ孤に対する円周frJTはすべて等しい.」に関する国r領主
」柚こついて考えてみよう.
こ0)定理の図的表現を教科H:
iiから拾ったものが下の図であ生徒はこのような図的表現から,
図4
Fil周角の定PI!の図的表現
この命題を同じようには意識してくれない.とはいえ,すべての生徒が同じ風景をもたなければ, この命題の意味も,抽男の必要性も問題にならない.これは,このような図的表現が悪いのであろ うか.この問題の解決視点として,表現の<連続的変容の'l亜巳性>という考え方を明らかにした い.
まず,図3のような, R]川上の2点でしか/i‑こされていないrT]川角から,すべてのP]J.肘fjを構成で きるか考えてみたい.構成できるためには,点AかDを一定の方向に動かすことによって,角の不 変性も意識されなければならない.また,図5のようにPlからP6まで動かした図的表現があって 生徒白身がP1‑‑‑P6と連続的に変容させることが出来なかったら,やはり角の不変性は意識で きない.したがって<表現>を変容させることが出来ず,ただ眺めている4/diは,歌仙がいかに点 を動かしてみたところで,いつまでも,命題とその正しさが理解できないということになる.
<表現>には,また,個人的表現からシツエーションの文脈に合った共通の容勧化されたく衣 現>へという変容の可能性もある. R.Harvey氏は,これを個人のイメージ構成(enactive image) から共通のイメージの構成(action free image)への変容として説明している(13)ただ,この変 容は,必ずしもなだらかなスロープを登るような連晶'i'J変容ではなく,飛躍的な変容であると述べ
られていることに注意したい.図6の例において, (a), (b)‑‑・・とその共通の命題を連続的に変容さ
せることができ,十分な意識化の後に飛躍がrjjれる様子が図的に表」ヲ・はれている.もっとも,この
<甘jI:教育の人間化>の一考察
例、平行四辺形の面積 個人のイメージ
二 二 〒