現代における大学のあり方の探究(1) : わが国の大学問題
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(2) . 第 22 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和47年1月. 現代における大学のあり方の探究 (1) -- わが国の大学問題 -- 松. 田. 哲. 義. 北海道教育大学岩見沢分校教育学教室. Y0shiaki MATSUDA ; My lnquiries into ▽Vha t Universities l l d Bein the Present Age (1) - -Some and Col eges Shou University and Co l l ege Probl emsin japan. 次. 目. 問題の所在 問題解決の方向 わが国の大学における一般教育. 問. 題. W 一般教育科目としての文化人類 学と、 それが現代の大学に対して もつ意義. の. 所. 在. l lm Kennedy) は, そ の 著 『小 日 本 史』 (A short 英 国 の 日 本 研 究 家 マ ル コ ー ム 。 ケ ネ デ ィ(Ma co. History o fJ apan). の中で, 日本の教育体系のうちで, も っとも弱い部分は, 大学制度であること を指摘 している. 同氏はまた, 日本の大学は, その脆弱性のゆえに, 共産主義に侵入されて, 非常 な 混 乱 を 呈 す る こ と に な る だ ろ う, と も 言 っ てい る。 残 念 な こと に, わ が 国 の 大 学 は, ケ ネ デ ィ 氏 の 予 言 を 地 でい っ た 観 が あ る。 しか し諺 に も, 雨 降 っ て 地 固 ま る, と も い わ れ て い る か ら, わ れわ. れとしては,この経験を十分生かして,問題の所在をつきとめ, その解決を企図することによって, わが国の大学制度に確固 たる基礎を与えることが必要である。. わが国の大学教育に混乱が生ずることは, 一つの必然であったとも言い得るであろう。 というの. は, わが国の大学制度は, 戦後の教育改革によって, 根本的に変化したからである。 もちろん小学 校・中学校・高等学校の教育も, 理念的に, はたまた制度的に, 大きく変化したが, それらの教育 には,それぞれ学習指導要領というものがあ って,教科書も, その線に沿って編纂されているから, その基本線そのものについては, ときに論議がおこるとしても, さほ ど大きな混乱が生ずる余地は 存在しない。 それに比べて, 大学の方は, 本来, 研究。教授の自由を尊重することにな っているの. で, い ったん混乱が生ずる場合は, それだけ大きくなるわけである。 では, わが国の大学教育の混乱の, もっとも根本的な理由は何であ ったのであろうか. それは, すでに多くの人々によって指摘されてい るように, 戦後のわが国の大学, いわゆる新制大学が, ひ. どく大衆化したという事実であ る。 この事実は, わが国の大学制度が, アメリカの大学制度にな ら って, つく られたことの当然の結果である。 周知のように, 戦前のわが国の大学制度は, も っぱ ら ヨ ーロ ッ パ の 大 学 を モ デ ル と して つく られ, ま た そ の 線 に 沿 っ て 発 展 が 企 図 さ れ た の であ っ た。 と. ころでヨーロ ッパ諸国の高等教育機関は, いわゆるエリートを対象とする学問研究の機関として発 -159 J-. 〉 > ● 〉 ● 、 、 、 : 、 > 、 ・ ● ノ ′ ● ● ● 〉 ● ′ ′ 〉 、 、 ′ ′ > ′ ′ ・ ′ 、 ′ ′ ′ ● ′ ● ′ ● ● ′ ● ● ● ● ′ .. ● ー ′ ′ ● 、 . ± ; 、 ・ ′ ′ ● ・ ● ′ 、 、 ′ ′ ′ ′ ′ ・ ′. ′ 、 ● ●. ●.
(3) . i i i lof Hokka t on IC) ido Uni ty of Educa on (Sect Journa s ver. vol .22 N0 ・2. January ,1972. 達 して き た も の であ っ た. そ れ を モ デ ル と した も の で あ る か ら, わ が 国 の い わ ゆ る 旧 制 大 学 も, も. っぱ らエリートを対象とする大学として発達 してきたのであった. それが 戦後の教育改革で, アメ リカの大学制度をモデルとするように切り替え られたわけ である.. と こ ろ で アメ リ カ の 大 学 制 度 であ る が, そ れ も, も と は ヨ ー ロ ッ パ の 大 学, た と え ば オ ッ ク ス フ ォ ー ド大 学, ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学, あ る い は ベ ル リ ン大 学 な どを モ デ ル と した も の で あ っ た が, 歴 史 の 進 展 と と も に,徐 々 に アメ リ カ の 独 特 な 大 学へ と 成 長 し てい っ た. こ う し て 最 初 は,英 国 型 と か,. 9世紀以後になると, 英国型でも ドイツ型でもないア ドイツ型の大学であ ったものが, 少なくとも1. メ リ カ 型 の 大 学 に な っ て しま っ た.. ではアメリカ型の大学というのは, どんな大学をいうの であるか. 第 一の特徴は, 大衆化した大 学という ことである. それは民主主義に対 する不動の信念からきている. その信念は, 大学教育に 対 しては, 大学教育を受けようと意志し, またその能力をも っているすべての者に, 自由な教育を 与 え よ う と す る 決 意 と な っ てあ らわ れ て い る. こ の 点は, 少 数 の エ リ ー トに 対 し て の み 門 戸 を 開 い. て きた ョ 【 ロ ッ パ 型 の 大 学 と は, 根 本 的 に 異 な る 点 であ り, す ぐれ て アメ リ カ 的 とい わ れ る 点 であ. る.. 次にアメリカの大学をヨーロ ッパ 型の大学から区別するもう一つの点は, 学問を実際 生活に役 立. た せ る こ と を 重 視 す る 点 であ る. , こ の 理 念 は, 言 う ま で も な く, プ ラ グマ テ ィ ズ ム の 哲 学 か ら導 き 出 さ れ た も の で あ る. アメ リ カ の 大 学 は 大 衆 化 さ れ る こ と に と も な っ て, カ リ キ ュ ラ ム の 上 では,. 一 般教育を重視することになったが, その一般教育は, ヨーロ ッパ 的な自由教育とは異なったもの で, 根 本 的 に は, プ ラ グマ テ ィ ズ ム の 哲 学 と 結 び つい てい る。 した が っ て, そ れは ヨ ー ロ ッ パ 的 な. 自由教育のように, 単に人間に広い教養を与えるという ことにとどま らないで, 実際生活に役 立つ 自然科学や社会科学を 重視する主張とな ってあ らわれてきている。 一般教育重視の思想は, アメリカの大学が大衆化現象によっ てかも し出される種々の問題に対 す る 教 育 上 の 対 策 と して 打 ち 出 した も の であ っ て, と に かく アメ リ カ の 大 学 は, こ う い う 方 法 を と る こ と に よ っ て, 今 日 に い た る ま で の 発 展 を と げ て きた の であ る. し か し, そ れ に よ っ て 問 題 が す べ て 解 決 さ れ た わ け で は なく, 今 日 な お 種 々 の 問 題 が 残 っ てい る こ と は, ア メ リ カ に おい て も ま た,. あちこちで大学問題が発生しているという事実からも, 容易に知る ことができる. さて, われわれはアメリカの大学の特徴の第 一として, 大衆化現象をあ げたが, そういう特徴を も ったアメリカの大学制度 をモデルとして, 戦後のわが国の大学制度はつく られたのであるから,. 5年度の わが国の大学数を示 当然にわが 国の大学も大衆化した. ちなみに文部省統計によ って昭和4 す と, 次 の と お り であ る.. 学. 382(国立 75. 公立. 33. 短期大学. 4 79(国立 22. 公立. 43. 大. 私立 274) ) 私立 414. 以上のうち, 大学院をもつ大学の数は, 次のとおりである. 総. 数. 180 (国 立. 公立. 59. 19. 私 立 102). 同 じく文部省統計で, 主要国における高等教育進学者の該当年令人口に対 する比率を示すことに す る.. 最. 近. 年. 度. 国. 名. 日. 本. 1963. アメ リカ. 1963. 38.1. イ ギリス. 1962. 8.4. 年度. 5. 高等教育進学者の比率 15 .7%. 年度. 前. 伸 び率. 高等教育進学者の比率. 1958. 10 .9%. 44%. 1958. 33 .6. 13. 1957 0- -1 6. 年. 6,9. 22.
(4) . 第 22 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 西 ドイ ツ. 1961. フ ラ ンス. 1962. 6.5% 12.1. 昭和47年1月. 1956. 4 .5%. 1957. 8,6. 44% ・. 41. こ の 統 計 か ら, わ れ わ れ は, イ ギ リ ス, 西 ドイ ツ フ ラ ンス に お い て も とく に 西 ドイ ツ と フ ラ , ,. ンス に お い て も, 伸 び率 が わ が 国 と 同 じよ う に 高い こ と を 知 る の であ る が こ の 事 実 は 現 今 では , , か つ て アメ リ カ の 大 学の モ デ ル と な っ た ヨ ーロ ッ パ 型 の 大 学 に おい て も アメ リ カ 型 の 大 学 の 影 響 ,. を受けて, 大衆化の方向に進みつつあることを示してい る. それにしても, わが国の大学の大衆化は, 戦後かなり急速におこなわれてきたので, それに対応 する適当な対策 をとることがおくれがちになり, それだけ問題を大きく した と言うことができる , 。 けれどもそれも無理はなかった, とも考えることも できる。 というのは教育制度には, つねに教育. 理念がつきまとうの であるが, 制度の方はすばやく取り入れることができても, 理念の方は, 一朝 一 夕 に は い か な い か らであ る。 こ れ ま で長 い あ い だ, ョ 【 ロ ッ パ 的 大 学 の 理 念 の も と に あ っ た わ が. 国 の 大 学 を, 一 朝 一 夕 に アメ リ カ 的 大 学 の 理 念 の も と に お き か え る こ と は, 言 う は や すく, お こ な. うはかたか ったのである。 だから東京大学の改革準備調査会も, 第1次報告書を公表 したころは, ただ大衆化の事実を認めるのみで, それに対 して打つ手は, 未だ十分具体化していなかった その 。 報告書の次の部分を, われわれは興味をもって読む。 「今日では, 大学に子弟を入学させるのは, 特定のかぎられた社会階層だけではなくなり, また. 大学に進むことは, とくに学問研究 を志す者や, 社会の指導的地位に進もうとする者だけにかぎら れなくな っ ている。 学生自身をも含めて, 社会一 般が, 大学は青年たちが学校教育を終えて社会に 出てゆく前に当然通過すべき一つのステ ッ プであると考えるようになりつつあり, 大学において学 問を学ぶことに, それほ ど関心のない多くの青年たちも, 青春を楽しむための当然の時期として, あるいは有利な就職とか結婚 などのために, ともかくも大学に進学するようになりつつある。 」. いまやわれわれは, この事実は 事実として認めるほかない。 それは, いわば生み出した数多くの. 子 供 の よ う な も の であ る。 い っ た ん 生 ん だ 子 供 は, 何 と して でも 育 て ね ば な ら な い。 そ こ で 問 題 は い か に して 育 て る か, とい う こ と であ る。 こ れ を 大 学 問 題 に あ て は め て 考 え る と, い っ た ん, つく. っ た 数 多 く の 大 学 を, い か に して 育 て, 発 展 さ せ る か と い う 問 題 であ る. アメ リカ の 大 学 は, さ き. にも指摘した ように, 一般教 育を重視することを一つの重要な対策としてきたが, わが国の大学も. そ の 問 題 解 決 の 参 考 に す る こ と の で き る も の は, アメ リ カ の 大 学 を お い て ほ か に ない の であ る か ら,. 一般教 育重視の方策も参考と して取り入れるのがいいであろう こうしてわが国の大学においても 。 一般教 育が重視されてきたのであるが, しかしわが国の大学においては, それが必ず しもうまくい かなかった。 それは, わが国の大 学人が必ず しも, アメリカの大学における一般教育の根底にはプ ラグマティ ズムの哲学が横たわっていることに気づかず, これを, もっ ぱら伝統的な理想主義の哲 学 に よ っ て 取 り 扱 お う と した と こ ろ に, 大 き な 原 因 が あ る の で は な か ろ う か こ の 点 に つ い て, も 。. う少 し掘りさげて考えてみる必要があ る。 口. , 、 … ≧ ≧ … …. … …. リ ≦ … “ ● ・ , ・ . 、 ミ ; も. … ;. 問 題 解 決 の 方 向. 問 題 解 決 の た め に, わ れ わ れ が と る べ き 方 向 と して は, アメ リ カ の 大 学 が, こ れま で に 歩 ん で き. た道をふりかえり, それを参考と して取り上げるのが, もっとも効果的である。 なぜならわが国の 大 学の よ う に 大 衆 化 した 大 学 の ケ ー ス と して は, アメ リ カ の 大 学 を お い て ほ か に な い か らで あ る。. もちろんアメリカの大学にも種々の問題がある。 それらの問題のうちには, われわれの問題と共通 なものもあり, またそうではなくて, アメリカの大学に独特なものもある。 たとえば黒人問題なん かは, われわれとは関係がない問題である。 しかし質の低下の問題なんかは, われわれがかかえて -1 61-. ・ ず ・ き き … ; ・ ま き き l き.
(5) . Vo I l O .22 No .2. i i on (Sec t i on I C) iver t ido Un lof Hokka t s Journa y of Bduca. January ,1972. いる問題の一つでもある。 一般教育をどのように位 置づけるかという問題も, 質の低下の問題との 関連において, 日米共通の問題でなくてはならない.. 根 本 的 に は, プラ グ マ テ ィ ズム の 問 題 が あ る. ア メ リカ の 大 学 人 の 思 惟 の 根 底 に プ ラ グマ テ ィ ズ. ムの哲学があることは, 一つの顕著な事実である。 もちろんアメリカ にも理想主義の哲学があり,. ズム そ う い う 見 地 か ら, 大 学改 革 の 問 題 を 考 え て い る 人 々 も い る, そ う い う 人 々 は, プ ラ グマ テ ィ. の哲学に対 しても, 批判的な態度を示している。 しかし, それにもかかわらず, アメリカ 人一般の. 思 惟 に お い て プラ グマ テ ィ ッ ク な 考 え 方 が も つ 力 は, け っ して 過 少 評 価 して は な らな い で あ ろ う.. われわれとしては, いかなる哲学をとるかは自由 である, わが国には, わが国に固有な伝統的哲 学があるのである か ら, われわれはそれに固執 することも自由であろう。 しかしそ れも問題の解決 に役立つかぎりにおいてである。 いく ら努力しても, 問題が解決しないでは, われわれとしては, 手段と して用いる哲学の価値を疑わ ざるを得ない。 こういう見地に立てば, われわれが大学問題の 解 決 に お い て, と る べ き 方 向 も, お の ず か らき ま っ てく る の で は な か ろ う か。. ) と題する論文を発表 し, 東京大学の隅 谷三喜男教授は, 『思想』 誌上に 「大学の生命と使命」1 今や東京大学は, ドイツ的学問観からアメリカ的学問観に転換せざるを得な い状 況にあることを指 摘 しているが, この提言は, われわれが以上において辿ってきた文脈の中に的確にく り入れること プラ の で き る も の で あ る. 同 教 授 が い う アメ リ カ 的 学 問 観 は, ドイ ツ 的 学 問 観 との 対 照 に おい て, グマ テ ィ ッ ク な 学 問 観 と 解 して い い と 思 う.. た だ わ れ わ れ と して は, アメ リ カ に お い て も, プ ラ グマ テ ィ ズム に 対 す る 深 刻 な 批 判 も あ る と い B う 事 実 を 知 っ て おく 必 要 が あ る. 筆者 が ボ ス ト ン大 学 で お 世 話 に な っ た ブラ メ ル ド(Theodore ra-. l d ) 博士の ごときも批判的立場をとる者の一人である。 博士は, 周知のように, 教育研究 におい me て人類学的アプローチの必要を強調 する方であるが, そういう立場におい て, われわれが文化を考 察の対象とするとき, あまりに生物学的傾向の強い プラ グマティ ズムの哲学にあきた らなく 思うよ う に な る の は, 当 然 であ ろ う。 博 士 は, そ の 著 書 の 中 で, 「プラ グマテ ィ ス ト は, よ り 低 い 動 物 の. )芝 述べている. た しかに プラ グ 試行錯誤的な行為のな かに根をおろした学習 理論を展開させるJ2 マプィ ズムの哲学は, きわめて自然主義的であり,1人間に固有な価値を認める点で不徹底なところ がある。 ところが現代の危機を救う道は, 人間が低い動物とは異なった, 人間に固有な価値をもっ た存在である, という自覚に立ちも どる以外にはないところから, 現代に生きる人々は, 人間存在 の動物的側面に 主な立脚点をおいたような理論構成にはとうてい満 足できない。 その現代人の精神 的 状 況 を 代 弁 し て い る も の が, アメ リ カ に ブ お い て は, ラ メ ル ド博 士 の 教 育 哲 学 であ る, と 解 す る こ と が で き る.. 本来 プラ グマティ ズムは, 相対主義の立場をとり, した がって普遍妥当的な真理というものは考 えない. それによると, 宇宙それ自体 が流 動の状態にあり, 永遠的・絶対的真理についての方式を 定立することは不可能 であるのみな らず, 無用のことである. すべての真理, すべての価値は手段. 的である, というのは, 本来, この哲学は, 現存の社会的秩序を進歩的に再建することを最高の目 的としているか ら, 価値の判断もまた, この目的に照 らして手段的に決定される。 いろいろある行 為のうちで, いかなる行為 が, も っとも社会の進歩に役立つかは, その時, その場所の特殊な状 況 において判断される. だから, この立場をとる人々は, 社会の全進歩に対する一般的な公式をも っ て も い な け れ ば, ま た 固 定 した 価 値 も 知 らな い。 ブ ラ メ ル ド博 士 も, プ ラ グマ テ ィ ズ ムに 未 来 の 計. 画された社会への展望のないことをな げいている。. さ て, プ ラ グ マ テ ィ ズ ム の 哲 学に, このような限界が指摘されるかぎり, 一般教育のあり方を, 数 多 く の アメ リ カ の 学 者 の よ う に, 一 方 的 に プ ラ グマ テ ィ ズ ム に よ っ て 規 制 す る こ と に も 問 題 が あ -162 .-.
(6) . 第 22 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和47年1月. る. わが国の大学における一般教育のあり方が論議の的となり, け っきょく期待するような成果を あげることができなかった主な理由は, この辺に見いだされるように思われる。 そこで一般教育の 問題は, さらに掘りさげ, また種々の角度か ら考察 してみたいと思う。 m. わが国の大学にお ける一般教育. 3 ) の中では, 一般教育の目的について 国立大学協会の意見書 「大学における一般教育について」. 次 の よ う に 述 べ られ て い る。. 「大学における一般教育の目的は, すべての学生に対 し,その専門の如何にかかわりなく,人生と 学問体系における自己の専門の正しい地位を理解させるとともに, 将来彼らが社会人として行動す るときに必要と考えられる教養を与えることにある,といわれる。 それは特定の知識9技能を意味す るものではなく,人生と学問体系との関連において,深く専門を理解するための, また複雑な社会の. 中において適正な批判力と判断力とをも って行動するための知性, 知恵ともいうべきものである。 」 そこでは, これを専門教育と対比して, 「一方が特殊化された専門知識の修得, 技術の訓練であ るのに対 して, 他方は諸科学の全般展望と,それらの相互関係に対する理解を与えるもの」 である,. とも説明されている。 また, 大学基準協会の報告書は, 「大学における一般教育」 の見だしのもとに, まず, それは,. 戦前 の 旧 制 高 校 に 見 られた よ う な, 多 数 エ リ ← トの た め の 予 備 的教 養と して の リ ベ ラ ル ・エ デ ュ ケ. イ ショ ンとは区別されるとし, 新制大学が n日制大学と大いに異なる」 点は, 「大学の専門教育化 の弊害」 への反省に立って, 「知識技能を教える専門教育と同時に, 人間の完成を目的とする人間 教育」 をおこなうところにあり, その 「人間教育」 とは, 「人間である限り誰にも必要なもので, 人間一般に共通する問題であるところから, 一般教 育と名 づけ られ」るものである,と述べている。. そして一般教育の目的は, 「人生の如何なる問題に直面 しても, つねにその場合, 場合に応 じて調 和適合 した正しい認識判断をな し得て, 民主社会に積極的に貢献し得る人間を養成すること」 にあ る, と 規 定 して い る。 こう い う 意 味 で の 一 般教 育 が 必 要 であ る こ と は, 異 論 の な い と こ ろ で あ る。 オ ル テ ガ (lose ) の 中 で, 極 力, ortega y Ga i6n de la Univers idad)4 ) も, その著 『大学の使命』 (La Mi s sset こ こ で い う 一 般教 育 の 重 要 性 を 強 調 して い る。 彼 は, そ れ を 与 え る こ と が で き る と い う こ と が, 大. l 学 を して 大 学 た ら しめ る 根 本 条 件 の 一 つ であ る と し て い る。 も.っ と も 彼 は 一 般 教 養 (genera l ture) と い う 言 葉 を 用 い, そ の 意 味 す る と こ ろ は, 必 ず しも アメ リカ の プ ラ グマ テ ィ ス ト が い う cu. 一般教育とは, 内容的に必ず しも一致 しないのであるが, さきに掲げた報告書の定義とは, 大体一 致 して い る よ う に 思 わ れ る。 オ ル テ ガ に よ る と, 大 学 の 大 学 た る ゆ え ん は, 専 門 教 育 を施 して, 専. 門的職業人をつく ることと, 純粋の学究をつくることとのほかに, 一般教育を与える点にある。 だ から大学から一般教育を取り去ることは, かえって大学の存在理由を失わせることになる。 オルテガの主張の骨子は次のごとくである。 一般教養の中核は, 哲学り歴史・社会学o人類学な. どで あ る が, 哲 学 や 歴 史 は, 中 世 大 学に お い て は, カ リ キ ュ ラ ム の 中心 を 占め て い た。 と こ ろ が 近. 世になって自然科学が発達 し, 産業革命がおこり, 社会において専門的な知識技能が要求されるに. fess l i iona sm) と, 研 究 そ の も の(research) い た り, 大 学 に お い て も,専 門 的 知 識 を 与 え る こと (pro. とが, 大学の使命と考えられるにいたった。 しかし, これら2つの柱のみでは十分でない。 なぜな ら, いかに専門的な知識技能をも った職業人になっても, また純粋な研究者になっても, 一般的な 教養がなくては, 一面的に 偏した, いわば不具な人間となるからである。 オルテガは, そういう不. 具な人間を野蛮人と呼んでいる。 そこで現代の大学においても, 一 般的な教養は, プロフェ ショナ -1 63-.
(7) . Vol .22 No .2. i ion IC) iver i ido Un lof Hokka t t Journa s on (Sec y of Bducat. january ,1972. リ ズ ム と リ サ ー チ と の 二 本 の 柱 の ほ か に, も う 1 つ の 柱 と し て 重 視 さ れ ね ば な らな い. しか も, こ. れは大学でなくては, 他では与えられないものであるという意味で, 大学のュニークな特徴も しく は条件を形造ることになる. このオルテガのいう一般教養は, さきに掲げた報告書のいう一 般教育と, 内容的に一致するもの で あ る が, しか しオ ル テ ガは, さ す が は ヨ ー ロ ッ パ 人 だ け あ っ て, ヨ ー ロ ッ パ 的 な 教 養 主 義 の に お. い を も っ て い る. こ れ が アメ リ カ の プラ グマ テ ィ ス トに な る と, 同 じ 一 般教 養 と い っ ても, 実 際 的. 有用性を重視するから, いきおい自然科学や社会科学が中心とな っ て, 人文科学は, ややもすると 影 の う す い も の と な る の であ る. しか しアメ リ カ に も, そ う い う 考 え 方 に 反対 して, ヨ ー ロ ッ パ 的. な考え方にかえろうとする者もいることは, すでに指摘 したとおりである. 問題は, わが国の場合である. わが国では, 大学基準協会の報告書でも, 一応一般教育をリベラ ル ・ エ デ ュ ケイ シ ョ ンと 区 別 して い る の で あ る が,.も し区別 す る の であ れ ば, アメ リ カ 流 に, プラ グマ テ ィ ズ ム の 立 場 に 立 つ よ り ほ か な い。 しか し, こ と プ ラ グ マ テ ィ ズ ム と な る と, そ う 簡 単 に 取 り 上 げ る こ と も で き ず, け っ き ょ く は, 中 ぶ らり ん な 立 場 を と ら ざ る を 得 な か っ た。 した が っ て,. 一 般教育に十分の成果をあげる ことができなかった が, しか し考えようによっては, 十分の成果を. あげ得なかっ たことが, かえって十分の成果をあげているという逆説も成り立つだろう. わが国に. おいては, アメリカのように, とくに自然科学と社会科学に的をしぼることを しないで, 人文科学 ▲ そ して も っ ぱ ら一 般教 育 に お け る レ ベ ル・ ダ ウ .社会科学・ 自然科学の三系統を平等に取り扱い, して ンを問題にした. だから, それに対する対策と , 国立大学協会から次のような見解が出される こ と に な っ た.. 1 ) 前期2年の教養, 後期2年の専門に分けている現行の 「横割り」 をやめ, 4年間を通して専門 ( .教養を教育する 「縦割り」 制をとる.. ) 教養科目の内容を レベル・ア ッ プし, 高校教育のくり返 しをなくする。 2 {. 調 教養の単位数を36単位と定めた現行の大学設置基準を改め, 単位数は各大学が自主 的 に き め ( る.. ) 教養部教官o専門課程教官の区別をなく して, 教員組織を一本化する. 牲 この見解によると, 一般教育の存在がかなりあいまいになるが, この見解には, 教育的見地より. も, むしろ教養部と学部との相克を解決したいという大学側の要望が織り込まれている. そこで文 部省では, 一 般教育の存在は, できるだけあいまいに しないで, しかも大学側の要望をも織り入れ て, 次のように大学設置基準の改正をおこな った。. 新. 旧. 1 ) 一 般教育科目については, 人文・社 会・目 1 ) 人文科学・社会科学・自然科学の3系列に ( ( 然の3分野にわたり合計3 6単位以上を卒業の つ き, それぞれ3科目以上12単位, 合計9科 目 以 上36単 位。. 要 件 と す る.. の 単 位 を も っ て 代 え る こ と が で き る。. は, 外 国 語 科 目 o 基礎教育科目・専門教育科 目 の 単 位 で代 え る こ と が で き る。. 2 1 また, 一般教育36単位のうち, 1 2単位まで 2 ) 36単位のうち8単位までは, 基礎教育科目 ( (. この改正の狙いは, 一般教育科目を, 3分野にわたり合計36単位以上履修すべきことについては 従来と同様であるが, 各分野 ごとに修得すべき単位数については, 各大学の判断にゆだねることと したので, 大学は一般教育科目についての卒業要件の定め方をかなり自由におこなえるようにな っ たこと, また 一 般教育科目の振り替えの幅が広くな ったので, 大学がその教育方針を授業科目全体 -1 64-.
(8) . 第 22 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和47年1月. の履修方法の上に自由に展開できる余地が できたことである。 したがって, わが国の大学の一般教 育 に お い て は, アメ リカ の プ ラ グマ テ ィ ス トた ち が 考 え る よ う な 自 然 科 学, 社 会 科 学 中心 に 考 え る. 必要はなく. 大学の方針に従 って適当な処置をとる こともできるわけである。 ということは, わが 国の大学の一般教育においては, 必ずしもプラ グマティックな考え方にとらわれる必要はない, と いうことである。 けれども プラ グマティックな考え方を無視するようになると, 直ちに危機的様相 が深まることは, わが国の教育が, しばしば経験するところである。 と こ ろ で ア メ リカ に お い て も, 一 般 教 育 と ス ペ シ ァ リ ズ ム と の 関 係 が 問 題 に な っ て い て, 質 の 低. 下も, しばしば指摘されるが, しかし一般教育を否定する考えは出てこない。 それも当然で, これ は 大 衆 化 した 大 学 には 必 要 不 可 欠 の も の だ か らで あ る。 1945年 に 出 た ハ ー バ ー ド・ リ ポ ー トと して. I Bducation in a Free Society) は, こ の 問 題 に 答 え よ の 『自由社会に おける一般教 育』 (Gene r a. うとしたもの であるが, その中では, 大学は, すべての分野や, すべての科が, 同じ価値をもった 一般教育の責任者であるという考えは, 捨てるべきだ, とされている。 つまり, それは一般教育を そ れ ぞ れ異 な っ た グル ー プの 要 求 に 適 応 さ せ る こ と であ る。 こ こ に は プ ラ グマ テ ィ ッ ク な 考 え 方 が. かな り 強く 働 い て い る. 異 な っ た グ ル ← プ の 要 求 と い っ て も, アメ リ カ では, どう し て も 自 然 科 学 ・ 社 会 科 学 中心 の かた ち を と る こ と に な る。 こ の よ う に アメ リカ では, 一 般教 育 は, い ろ い ろ 異 な. ったかたちをとることができるが, どんなにかたちが異なっていても, 「自由社会が依存する共通 の知識や共通の価値」 を表現することのできるものでなくてはならない, というように考えられて い る か ら, プ ラ グマ テ ィ ズ ム が 深く 根 を お ろ して い る アメ リ カ に お い て は, どう して も 自 然 科 学 と. 社会科学とが 「自由社会が依存する共通の知識」 であり, また 「共通の価値」 であると見なすこと に な り, ョ 【 ロ ッ パ 的 な リ ベ ラ ル ・ エ デ ュ ケイ シ ョ ンに お い て 尊 重 さ れ る 知 識 や 価 値 が, 必 ず しも アメ リカ では 尊 重 さ れる と は 限 らな い こ と に な る。. IEducat ion) と, アメ リカ 人 の い う 一 般 教 育 (Ge- こ こ でヨ ーロ ッ パ 人の い う 自 由 教 育 (Libera t ion)と は, 一 応 区 別 さ れる べ き も の であ る こと に つ い て 考 え てみ よ う。 わ が 国 で も 両 neraI Educa. 概念のあいだに区別を設けない人もいるが, もともとアメリカの大学に起源をもつ一般教育につい ては, ア メ リ カ 人 が 一 般教 育 に よ っ て 何 を 意 味 す る か を 知 っ て おく こ と は 必 要 であ る。 アメ リ カ の. 大学では, 一般に一般教育において, 比較的新 しい実用主義的 プログラムが考えられている, とい う こ と は, 一 般教 育 の 概 念 の 根 底 に プ ラ グマ テ ィ ズ ム の 哲 学 が 横 た わ っ て い る と い う こ と であ る.. この 点 は, す でに 指 摘 した と こ ろ であ る。 モ ース (Horace T. Morse) は プ ラ グマテ ィ ス トと 見 な. 5 ) されるが, 彼は次の諸点で両者を区別している。 1 ( ) 自由教育は, ヨーロ ッパの文化遺産から選定された知識の体系的o論理的組織として, 教材に. 関心をおく が, 一般教育は, まず, 人間としての学習者に関心をおいて, その心理的要求に応 じ て組織され, 必ずしも伝統的な学科にはとらわれない。. 2 ) 自由教育は, 歴史的な7自由科目 (3学-文法・修辞o論理, 4科-算術o音楽o幾何・天文 ( 学) を中心とした固定的な内容であ って, 最近になって, ようやく実験科学を加えてきているに. すぎないが, 一般教育は, 積極的に時代と個人に適応した内容を取り上げる。 圏 自由教育の狙いは, 文化遺産の伝達をとおして, 反省的思考能力を陶冶することにあるが, 一. 般教育は, 個人の知的・情緒的o全人的発達を狙い, そのために学生補導を重視する。 ) 自由教育は, 実用的意図をもたず, 知識領域における既成の結論の修得をめざすが, 一般教育 性 は, 実際的世界をたえず視野におき, 人間の目的達成の手段として, 知識の活用 を重視する。 つ. まり前者は思考に, 後者は行動に関心をおく. ( 5 } 自由教育は, 生まれつき優秀な学問的適性をもつ知的エリートに限られ, 貴族主義的である。 -1 6 5一.
(9) . i i i lof Hokka ido Uni t t on I C) journa on (Sec ver s y of Educat. I l Vo O .22 No .2. january ,1972. これに対 して, 一般教育は, 個人や社会の発展に寄与 する能力をもっている者に与え られるもの で, 同年令層の約半数に及ぶものという意味で, 民主主義的である。 したが って, 学位を目的と しない, また専攻をもたない学生に適 しており, また短期大学の学生に向いている.. 6 } 自由教育は, 知識の特殊領域を深く掘りさげる集中的 研究を伴う. 一般教育は, 文化や環境な { どの諸倶『面を広く研究する。 の 自由教育では, 課外活動は重視されないが, 一般教育では, 歓迎され, 奨励される. ー. にお い て は, 以 上 の よ う に 区別 さ れる が, し さ て, 自 由 教 育 と 一 般教 育 と は, プ ラ グ マ テ ィ ス トモ. か し プ ラ グマ テ ィ ス ト でな い 者 に あ っ て は, 両 者 の 区 別 は, さ ほ ど明 確 では なく な る. だ か ら理 想. 主義者もいる アメリカにおい ても, わが国におけると同様, 両者を明確に区別 しないで, 一般教育 が自由教育の現代的な復活ないしは拡大である, という考え方をする人もいる。 そういう人の思惟 においては, 自然科学と社会科学と が中心的地位を占めるということはなく て, 人文科学にも同様 の 地 位 が 与 え られ る こ と に な る.. わが国の大学に おける 一般教育がとる立脚地は, プラ グマティ ズムのみに限られてはならないで. あ ろ う. と い う の は, プ ラ グマ テ ィ ズ ム の 哲 学 は, す で に 指 摘 した よ う な 限 界 を も っ て い る か ら で. ある. わが国の大学における一般教育には, た しかに プラ グマティックな考え方 も, ある程度取り 入 れ られ な く て は な らな い が, しか しそ れ に 劣 らず 重 要 な こ と は, アメ リ カ の プ ラ グ マ テ ィ ズム を. 批判できる哲学も, 同時に用意されなくてはな らない, ということである. その条件が満たされる とき, わが国の大学の一般教育は, 憲法を一貫する理念につながることができる. したがって, そ こにわが国の大学独特の一般教育が成立することになる。 わが国の大学の一般教育がふるわなくな った根本の原因は, この点についての認識が明確でなかったところにあるのではないか. た しかに そうである. W. 一般教育科目 としての女化人類学と, それが現代の大学に対してもつ意義. 0世紀にかけての科学的理論や哲学は, 根本的に, 人 自然科学の発達にともな って, 19世紀から2 が強かった. つま そしてそれのみを科学的と考える傾向 間を動物の一種と見るところから出発し,. り自然科学的人間観が支配的であ った。 事実, プラグマティ ズムの哲学も, マルクス 主義の哲学も そういう人間観を基盤と して成り立 っている. しかし, われわれは, そういう哲学をして大衆化し た大学に君臨させていいものであろうか. すでに大衆化した大学が位置する時代は, 原子力時代と 呼ばるべき時代にな っているのである。 そして大学に学ぶ若者たちは, やがては, この時代におい. て指導的地位につく ことが期待せられているのである。 そういうことであ ってみれば, 現在, 大学 に学ぶ若者たちには, この時代の先頭に立って生き抜き, また同胞たちを生き抜かせることができ. るだけの哲学も しくは理論体系が装備されねばな らない. ところが事実は, その点で必ずしもうま くはい っていないというのが, 実状である. 筆者に言わせると, 現代の青年に第一に要求されるも の は, プ ラ グマ テ ィ ズ ム を 批 判 し, ま た マ ル ク ス 主 義 を 批 判 す る こ と が で き る だ け の 能 力 と, 科 学 的 デ ー タ と の 所 有 であ る.. l ick 1 キ ル パ トリ ッ ク (W. H. Ki 871-1 952 ) の教育哲学も, 多分に生物学的であるが, しか r pat. し, それでも彼は, 人間をその他の動物か ら区別する8つの特徴をあげ, 7つまでは共通であるが ただ一 つの特徴, すなわち思考力が高度である点で, 人間はその他の動物から区別されることを指 摘 して い る。 ま さ に そ の と お り で, こ のゆ え に 人 間 は, 他 の 動 物 の も っ て い な い 文 化 を もつ こ と に. なり, 文化の中でも, とくに高度の科学的知識や, 深遠な哲学・宗教をももつことができるように な っ た の で あ る.. -166-.
(10) . 第 22 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和47年1月. 社会化については, た しかに人間以外の動物も社会化される. すなわち彼らも環境と生活の必要 とに迫られて集団をな して生き, 他のものと協力するようにさせられる。 だから彼らのあ いだにも 種の意識と共感との発達によって, 社会化の過程の主観的もしくは精神的側面の端緒く らいはある とも考えられる。 しかし彼らにあ っては, 集団の精神生活への意識的6自発的参加は認 め ら れ な. い。 なぜな らそれは文化的現象であり, 人間以外の動物の知的能力をもっ てしては, その レベ ルに 到達することは不可能だからである。 自然科学的人間観の上に成り立つプラ グマティ ズムやマルクス主義の批判は, 理想主義の立場に 立 つ 人 々 に よ っ て も 試 み られ て い る。 た と え ば 理 想 主 義 の 伝 統 を 受 け つ い で い る シ ュ フ ラ ソ ガ ー (Ed .Spranger 1882-1963) は, とく に ス タ ーリ ン主 義 を 批 判 して, そ れ は 「私 が 組 織 に しば ら. れた人間と呼ぶ現象を, すでに事実と してわれわれに示 した。 このような組織のもとに長く生存し た人間は, もはやま ったく他様にはあり得ないし, また他様には考えたり, 行動したりすることも 可能でない。 組織が崩壊すれば, 彼らのたよりないこと, まるで保護される完全な場所が 彼らから. 取り上げられ, もはや行くことが できないかのようである。 もっとも悲劇的な結果は, 彼らがもは や, それを全然意欲 しないことである。 なぜなら彼らにとって, それ以外になお生きることが可能 であ る よ う な い っ さ い の も の が, す でに 根 底 に お い て 消滅 して い る か らであ る 」6 ) 。. シ ュ ブ ラ ンガ ー は ま た, プ ラ グ マ テ ィ ズ ム を 批 判 して, 「さ きに は 教 育 は 社 会 技 術 的 に 考 え ら ,. れていた. だか ら教育の理論的基礎は, 社会学と心理学とが認識 したと信ずる経過法則のうちに存 在した。 ところが今後中心になるのは, 内部から自主的に 態度を決定する人間である 」 ) 。7 要するに, 理想主義の立場は, 内的人間の形成に問題解決の道 を見いだそうとする, そ してその ア プ ロ ー チ の 仕 方 も, け っ して 全 面 的 に 誤 っ て は い な い。 け れ ども 問 題 は, そ う い う 主 観的 も しく. は 観 念 論 的 な ア プ ロ ー チ に よ っ て, 時代 の 危 機 を 克 服 す る こ と が で き る か どう か に よ る そ う , , 。. いう点から考えて, 少なくとも理想主義の哲学は, 人々の信頼をつなぎとめることがで き な か っ た。 それも当然で, 現代人は, 実証的データにもとづいて説得しないと, 満足しないからである。. ここにおいて人々から見放された観念論哲 学にと って代って, あくまでも実証主義的立場をとり つつ, しかも プラグマティ ズムやマルクス主義の限界をも十分自覚しつつ, 現代に課せられた課題 l l anthropo tura を果 す べ く 登 場 した の が, 文 化 人 類 学 (cu l ogy) であ る。 そ れ は 人 間 の み が も ち,. しかも客観的実在としても存在する文化を取り上げ, その分析から出発する。 そして究極的には, 人間のもつ問題の解決に挑もうとする。 これは人類 学のうちでも, 主として文化人類学の領域で , 人類 学 に は, も う 一 つ の 領 域 と して, 体 質 人 類 学 (phys i lanthropo l ca ogy) が あ る。. それは 人間. 有機体の発達と, それの種々雑多な環境 への適応を研究する. 身体的特質に主眼をおくので, これ は, たしかに身体的方面を研究する人類学と理解 していい。 それに対 して, もう一つの領域として. の文化人類学は, 文化的方面の研究を目的とする。 文化といっても, 生きた文化と死んだ文化とが あるが, ここでは, そのいずれをも包括する。 一般の人類学の文献では, 人類学に4つの研究部門 がある。 すなわち体質人類学o言語学o考古学◎文化人類学である そ して教育哲学と関係をもつ , の は 文 化 人 類 学 であ る, と い う よ うに 説 明 さ れ て い る。 しか しネ ラ ー (George F Kne l l er) 博 士 .. が指摘 しているように, もっとも広い意 味では, 言語学と考古学とは文化人類 学に含まれる ただ 。 ネラー博士は, 言語学・考古学 (死んだ文化の研究) および民族学 (生きた文化 もしくは直接に , 観察できる文化の研究) を文化人類学の内 容と し, 彼自身の関心は, 民族学という意 味での文化人 ) 類 学 と 教 育 と の 関 係 を 明 らか に す る こ と であ る, と述 べ て い る。8. しかし, 文化人類学即民族学とするネラー博士の見解には, 問題が含まれている というのは 。. 文 化必 ず しも 民 族 文 化 で は な い か らであ る. た と え ば リ ー ソハ ー ト (Godfrey Li enhardt) が 指 摘 一167一.
(11) . VO1 ,22 No ,2. ion (Se ion I C) lof Hokkaido Uni i t ty of Bducat Journa c s ver. ) 南 ス ー ダ ンの 百 万 く らい の テ ィ ソカ 族 と, そ れ に 隣 接 した ヌ して い る よ う に,9. Janua坪,1972. ァ族とは, 民族. は 異 な っ て い る が, 文 化 の 上 で は, ほ と ん ど同 一 であ る, と 言 っ て い い. した が っ て 民 族 と 文 化 と. は必ずしも一致 しないが, 多くの場合, 各民族は, それぞれその民族に固有の文化をも っているの で, ネラ【博士の見解も, 大ざっぱにいえば, 誤 ってはいない. しかし. われわれと しては, 民族 は異な っても, 統合的文化をもち得ることを理論 づけることを企図する, というのは, そうするこ とによってのみ, われわれは時代の危機を克服できる, と考えるからである. われわれは現代にお いて, 単なる民族主義にも, また単なる階級主義にも加担すること ができない. われわれの創造す. べ き未来の文化は, 単なる民族や単なる階級を超えたものでなくてはならない. そのような文化を 創造することによってのみ, 社会的相克を乗り越えた安定 した社会をつく り出すことができる. し かし, そのような企図を単なる空想に終らせないためには, 科学的基礎づけが必要である. 文化人 類 学 の 研 究 は, そ う い っ た 意 味 を も っ て い る.. 文化人類学の研究が教育哲学の研究の基礎になることが意 識され出 したのは, 最近 の. こ. と であ. る. ス タ ンフ ォ ー ド大 学 の ス ピ ン ドラ ー (George D.Spindl er) 博 士 は, 人 類 学 が 教 育 に か か わ り. -つは教育過程の分析の基礎と して, の2点か ら をもつのは, 一 つは一般教育の基礎と して, もう‐ l o ) そ の 論 旨 は 次 の と お り であ る. で あ る, と 述 べ て い る。. 人類学は人間と人間の仕事との研究を意味するが, それは伝統的に, 文化の過程・言語・種族お よび人間の進化に対 して興味を示す. それは, とりも直さず一般教育への貢献を意味する. 人類学. 自身としては, 中等学校の社会科の プロ グラムや大学の自由科の プロ グラムの中核になることを要 求しないが, しかし, 現存の科目で, 人類学ほ どに中核としての意味をもち得るものはない. 人間 の研究は, 動物と人間とのあいだのギャップを埋めること, 人間の行為の相対性と普遍性, な らび にそれについての諸問題について考えること, 人間の諸問題を, 過去および未来への時間的次元に おいて考える こと, を可能にする. そ して人間の基礎的な生活と, 人間と自然との関係に焦点を向. ける. だから, その意味で, それは一般教育への貢献である. それは, 専門的な人類学者をつくる ことを目的とするものではない. それは人間生活への新しい展望をつくり出すために教授されるの であ る.. 大部分のアメリカの人類学者は, 「文化・文化類似性と相違性・ 種族および進化の近代的概念は. ハ イ ・ ス ク ー ル の カ リ キ ュ ラ ム の 一 部 分 と な る の が, 正 当 で あ る.」と 主 張 す る. しか し, 小 学 校 の 教 師 が, ア メ リ カ の イ ンデ ィ ア ンも しく は, 他 国 の 国 民に つ い て の 単 元 を 展 開 す る と き に は, す で. に人類学が教え られていることになる.. 次に人類学が教育過程の分析に貢献する面について考察 してみよう. 教育の過程と構造とは, 人 間生活の他の領域に見いだされる過程および構造と, 根本的には異な っていない. だから人類学は. 教育的状位における人間の行為に光をあてることができる。 子供を集団によって受け容れられた地 位にまで教育 するということは, 成長と適応との過程である. 教育は, それよりもいっそう限定さ. れた過程と考えることができよう. 教育は技能・知識・態度o価 値ならびに特殊的な行為型相を含 めて文化を伝達 する過程である。 それは人間を開化することである. 文化の ダイ ナミ ックスに関する人類学者の仕事は, 文化の変化や固定の過程に関する も の で あ. る. こ れ ま でに な さ れ て きた 研 究 は, 主 と して 記 述 的 レ ベ ル の も の で あ っ た, と い う の は, 文 化 的. 変化における文化的伝達や教育の役割に, あまり注意が払われなかった, ということである. 文化 的な変化な らびに固定を媒介するものは, 両親や教師が子供たちに伝達 するものである. だから,. その方面の研究は, 教育の機能を明らかにすることになる. これまで教育哲学は, カ ント哲学や, それにつ づく数多くの哲学か ら影響を受けて発 展 し て き -168一.
(12) . 第 22 巻 第. 2号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和47年1月. た. しかし, 現代の複雑な文化の構造は, 従来の哲学的概念で捕捉することが困難にな ってきてい る. 最近の教育哲学は, とくに社会学からの影響を受けることが著しかった。 しかし, 現代におい ては, 文化の危機を克服する道として, 人類学的ア プローチに大きな期待が寄せ られている。 それ. は, も ち ろ ん 社 会 学 的 ア プ ロ ー チ を排 除 す る も の で は な い。 な ぜ そ う い う こ とに な っ た か と い う に,. 総じて人類学者は, その研究の成果に照らして, 広い視野をもつことができるからである。 この点 に つ い て, ス ピ ン ドラ ー教 授 は 次 の よ うに 述 べ て い る。. 「交差文化的展望は人類学者に, われわれ自身の社会における行為の吟味において一定の客観性 を与えるが, それは他のところで獲得できないものである。 これは人類学者が偏見か ら自由である ことを意味 しない. それは人類学者が, 人間に関する事がらについて広い展望を与える利点をもつ. ことを意味する. それによって人類学者は, 人間の本性について文化的に限定された一般化を導き I ) 出すことから救われ, それにかわる可能性を行動の解釈に含めることができるようになるJI ブラメル ド博士は, 人類学的研究の結果として, 文化の統合の可能性を明らかにしている。 それ は文化の規範的局面, すなわち価値を問題にすることを意味するが, これまでの人類学者は, 一般 に価値の問題には注意を払わなかった, ブラメル ド博士は文化人類学が教育に 貢献する面に, 特別 の注意を向けるので, 当然, 文化の価値的局面を重視することになるが, それは自然科学的方法の 適応を困難にするので, リーソハートな どは文化という言葉を使用するのをきらうようなところが. 見える. しかし, われわれが人間を単に動物の一種と見るのでなくて, とくに人間と他の動物との ちがいに注意を向ける場合には, 当然, 文化を問題にせざるを得ない し, しかも文化の規範的な意. 味を大きく取り上げざるを得ない。 すでに述べたように, 文化は人間に固有のものである。 人間以 外の動物には文化は存在しない. 百獣の王といわれるライオ ンにも文化はない。 それらは, ただ生 ま れ, 生 き, そ して 死 ん で ゆ く の み であ る, そ う い う過 程 を 千 年 一 日 の ご とく に, く り 返 して い ,. る. しかし人間の生は, 他の動物と同じような, くり返しの過程とともに, 単なるく り返しではな い局面をも っている. すなわち人間は, 他の動物よりはるかに高い知能をもち, それによ って人間. 固有の文化をつくり出してきた. 人間は そういう文化の中に生れおち, そして, そういう文化か ら何らかの影響を受けつつ成長する. やがては人間は, 新 しい文化を生み出すことによ って, そう. いう文化に何かをつけ加えるようになる. こうして人間は文化の蓄積としての歴史をも つようにな った. そういう歴史の中に生きるかぎり, 人間の生は, 他の動物のような単なるくり返しを意味し な い. こ の 意 味 で, 人 間 と 他 の 動 物 と は, は っ き り と 区別 さ れ る よ うに な っ た。. そういう文化は, 価値とかかわりをも っている. もともと文化は, 人間の高い知能か ら生まれた もので, 文化のうちにや どろ価値も, もとは人間の高い知能と関係をもっている。 この知能の程度 の差が, 人間にのみ文化をもたせる結果になった。 しかもその文化は, 累積的に連続発展して, 文 化の歴史を形造ることとな った. その文化の歴史は, それ自体のうちに目標を含んでいる。 目標は. 価値とかかわるものである. 人間以外の動物には価値は何のかかわりももたない。 さて, 自然科学の発達の結果, 人類は人間と他の動物との類似性を明 らかにすることには成功し たが, 反対に, 人間と他の動物との相違性に対しては, かえって感覚をにぶ らせた。 しかし, 人間 と他の動物との相違性を明らかにすることも, 科学の任務でなくてはならない。 そこに成立する科. 学は, 文化科学とでも呼ばるべ きものである。 文明人に比べると, はるかに人間以外の動物に近い原始的な生活をしているイ ンディ ア ンも 一 定の価値観をも っているという事実は, 彼 らが単なる動物ではなくて, 人間であることを示すもの. である。 たとえばクリー部族は, 勇敢であること, 長幼の序を重んずること, もてる物を惜 しみな く他に与えることを価値としている。 この点で, 彼らは価値の意識をもたない他の動物とは, 判然 -169-.
(13) . VO I .22 No .2. ido Uni i lof Hokka i Journa i t s t ve r on (Sec on IC) y of Educat. January ,1972. と区別される.. ア メ リ カ のイ ンデ ィ ア ンの 種 族 は, ほ と ん どみ な, サ ー チ ェ ム (世 襲 酋 長) お よ び チ ーフ (普 通. 酋 長) の 二 種 の 酋 長 を も っ て い た. サ ー チ ェ ム の 役 目 は, 空 位 に な る と, 何 度 でも 補 充 さ れ る と い. う意味で, 世 襲的であ った. ところが チ フの役目は, 個人的功績の報酬として与え られ, しかも 一代かぎりのものであ った。 個人的功績というのは, 個人的な武勇, 事務上の 才能, 会議における. 雄 弁 と か を意 味 した が, こ れ らの も の が イ ンデ ィ ア ンに と っ て の 価 値 を 意 味 した. 要 す る に, イ ン. ディ ア ンの文化も価値と無関係には考えられない。 人格的価値を絶対的のものとする考え方は, キリスト教文化においては, 最初から確立されてい. るが, しか し, キリスト教文化の影響を受けていない種族においては, それは必ずしも最高価値と しては認め られていない. たとえばエスキモーには, 最初の女の子は氷の上に置いて殺すならわし があ った. また白熊と娘を交換するようなことも, エスキモーに人格的価値が確立していない こと を示すものである. 畑中幸子女史の研究によると, ニュ ーギニアのシシミ ン族の社会では, 女性が 豚と交換されるな らわ しがある. このようなな らわしは, いく らか形は変わっていても, 支明人と いわれている人々のあいだにも見いだされる。 要は価値観の問題である.. フ フメ ル ド博 士 が, こ の よ う な 見 地 か らデ ュ ーイ が 代 表 す る 進 歩 主 義 を 批 判 して い る こ と に つ い. ては,すでに指摘 したとおりである. 彼は人間と他の動物との区別に特別 の注意を払 っているから, 人間の創造した文化に高い価値を認め, 教育 を文化を獲得 し, そして文化を新 しく創造する過程と 解する. それはけっ して動物実験に見 られるような刺激と反応との関係によ っては, 十分説明され ない。 彼は教育を文化的文脈の中でと らえるのであるが, 文化的文脈の構造とか, 過程とか, 目標 とかは, ただ文化人類学によってのみ明 らかにされる. その場合も, ちろん文化の記述的局面だけ でなく, 規範的局面も考察の対象となる. フフメル ド博士によると, 価値は, 一方において, 人間のエネルギー --必要・欲求・衝動・興. 味・願望-- のうちに基礎をも っているが, 他方では, 自然と文化との環境によ って形造 られる. こうして人間と文化との関係が, 文化人類学の重要な問題となる. それは教育哲学にとっても, も っとも基礎的なテーマである. リーンハートは高級な民族の特徴として, 科学的な論理形式と技術. 的能力, 代表者による強力な 政治と, 発達した私有財産の概念,厳密な一夫一婦制と性道徳の強調, 倫理的一神教の宗教な どをあげている. したが って, 最低級な民族とは, これらと反対の性質をも つ. たとえ ば幼稚な思考様式, 発明の才の欠如, 政治の場における政府の欠如ないし専制政治, 性 1 2 ) ここには価値の問題 と経済の共産制, 不道徳な儀礼あるいはまったくの宗教的無知な どである。 が 横 た わ っ て い る.. 普遍的価値については, 未だ社会科学者によって十分研究されていないが, それにもかかわらず khohn) も, 互恵主義・単なる衝動の抑制・人命の尊重などは, すべ ク ラ ッ ク ホ ー ソ (C1 uc yde K1. て の 文 化 に よ っ て 望 ま しい も の と 考 え ら れて い る, と 述 べ て い る.. 価値は教育の日的を形造る. しかし, その価値 が何であるかを科学的に基礎づけるためには, 文 化人類学的研究の成果は十分に利用されなくてはな らない. それを単に 思弁的に, もしくは演輝的 に導き出 したのでは,過去の哲学が おかした過ちをくり返すことになる. 現代における価値意識は,. 種々の文化のうちに組織された人間の生活に内在する価値から, その意味が明 らかにされなければ な らな い.. ところで, その価値 が普遍的と解されるか, それとも相対的とと られるかによって, 教育の目標 にも, 普遍的と特殊的 との二通りが考え られる. プラ グマティ ズムやマルクス主義は, 相対主義と して, 後 者 を と る」. lhe lm しか し, そ の よ うな 立 場 は, す で に ドイ ツ に お い て, デ ィ ル タイ (Wi -1 70-.
(14) . 第 22 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和47年1月. l Di they 1833‐1911) に よ っ て 表 明 さ れ て い る. デ ィ ル タ イ の 立 場 は, た しか に 文 化 的 相 対 主 義 の. 立場であるが, しかし, 文化的普遍 主義が成り立つことも, 文化人類学者によって認められて いる こ と は, さ きに 論 及 した と お り であ る.. 以上述べたところによって, 現代の大衆 化した大学のカリキュラムにおいて, 文化人類学が一般 教育料日として, 中心的位置を占めることが, 人類の現在と未来と に対 して, マイナスよりは, は るかに多くの プラスをもたらす理由が明 らかにな ったと思う。 『思想』1970年1月号) 1 ) 隅谷三喜男 「大学の生命と使命」 ( i i i fPi tyo t t sburg Pr on ver s es s 2 ) Theodore Brameld, The Use 。f Bxplosiveldeasin Educat , Un ,1965 , p .212. 3 ) 昭和37年3月 i fthe Un iver i t th an lnt i ty s r roduct on by H。ward Lee Nos rand s s on o 4 ) 英訳本には Mi , wi ,t , London , 4 6 19 がある. 5 ) IDB大学教育国際資料 14 , 23-24ペ ト ジ i i f i i t t ragen derGegenwar z ehungs sche Per spekt ven ragezuBr 6 ) Ed,Spranger .10 ,S ,Be ,1952 , Padagog t t oS 7) di ,14. i l iona I AnthroP1 l ヒ l roduc ey & Sons nc ogy on er 8 . ) cf ,l ,John Wi . George F. Kne , An lnt , New , Educat York ,1965. iI Anthropo l ogy 9 ) Godfrey Liehhardt ,1964 (増 田他 訳 221ペ ← ジ) ,Soca log i I Approach l l i tur t t and ‘ 認, Ho e ca on and Cu o l ) George D, Spindler , Anthropo , Rinehar , Educat. k i ぴマ ton ns .53一62 , PP , New Yor,1963 t t 1 2 11) di op . i t 12 ) G. Lienrardt .(増 田他訳 14ペ ー ジ) .c , op. -1 71一.
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