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“The Modern Frankenstein” ──怪物と生きる──

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青 山   愛

“The Modern Frankenstein”

──怪物と生きる──

序論

“It was on a dreary night of November... I collected the instruments of life around me, that I might infuse a spark of being into the lifeless thing that lay at my feet.” (Shelley 58)

こうして「怪物」は生まれた。 「怪物」は創造主であるヴィクター・フランケンシュ

タイン (Victor Frankenstein) に見限られ、人間社会から受け入れてもらえない

孤独な存在として描かれる。「怪物」は悩む。“what was I?” (Shelley 123)「自 分は何者だ?」

私 も 悩 む。「 怪 物 」 と は 何 か。 そ れ は 数 々 の『 フ ラ ン ケ ン シ ュ タ イ ン 』

Frankenstein )研究によって、いくつもの解釈がなされてきた。また、「怪物」

は時代によってあらゆる表象として説明される。様々な解釈を可能にするのは、

その「怪物」の特徴にあるのかもしれない。「怪物」には名前がない。(死体や

動物の)パーツから構成されている。言葉を話し、学ぶ存在である。大きい体

に人間離れした圧倒的な力を持っている。そして人間が一目見て恐怖し失神す

るほどの醜さを持つ。「怪物」はヒトなのか、モノなのか。それは人間的な一

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面を持ちながら、人間と一線を引く物体である。同時に、 「怪物」はファンタジー なのである。「ファンタジーの最大公約数的な意味をもとめると、目に見えな いものを見えるように描き出すこと、という定義を得る」(吉田 1)「怪物」は ヒトでもモノでもなく、形のない我々の無意識の現れとも考えられる。このよ うに多義的な存在であるがゆえに、「怪物」とは何かという問題が問われ続け るのである。

さらに「怪物」は、矛盾をはらむ両義的な存在ともいえる。「怪物」の解釈 と同時に浮かび上がってくるのは、怪物とその創造主ヴィクター・フランケン シュタインの関係性である。彼らは「主従」関係にある。しかし創造「主」で あるフランケンシュタインは自らの境遇を “slavery” と嘆き、怪物はフランケ ンシュタインを “slave” と呼ぶ。このように主従の逆転が起こるのは、「怪物」

が矛盾をはらんだ両義的な存在だからなのだ。例えば「怪物」は「生きる死体」

である。最新の科学で創造された「進化」の代表でありながら、同時に「退化」

を示す存在となる。矛盾と両義性をそなえているのは「怪物」だけではない。

怪物が生まれた場所である「実験室」を例に考えてみよう。「実験室」は最先 端科学の生命創造の場であり、建物の頂上つまり神に近き場所である。他方で、

暗く陰鬱な墓、独房 “a solitary chamber, or rather cell” (Shelley 55) のようにも 描かれているのだ。これは生命創造「新しい生命、すなわち怪物」が、数々の

「死」をもたらすという物語の矛盾とも重なっている。以上のように、『フラン ケンシュタイン』研究において提示される二項対立的なテーマ─「主従」 「親子」

「進化と退化」「文明と野蛮」「ヒトと怪物」「生と死」「善悪」「優劣」「創造と 破壊」─は「怪物」(小説)のはらむ矛盾によってその境界が解体され再構築 されていくのだ。

この小説は、1818 年に初版されて以降も時代を越えて普遍的に読み続けら れてきた。多くの人々を魅了してきた理由のひとつはやはり「怪物」の存在だ ろう

。また、「怪物」やこの小説自体が矛盾を多く内包している点で、私た ちが生きる人生や社会そのものと重なっているようにも感じられる。だからこ そ「怪物」を問う意味は十分にある。「怪物」とは何か─『フランケンシュタ イン』の研究において核心的なテーマであるこの問いに対し、テクストと先行 研究を参考にしながら私の怪物論を展開する。

本論文では、創造者であるヴィクター・フランケンシュタインを「ヴィク

ター」、人造人間であるモンスターを「怪物」と呼ぶ。

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第 1 章 怪物の表象

1−1 悲劇はなぜ起こったのか

『フランケンシュタイン』は悲劇である。登場人物の大半が死んでしまうと いう最悪の悲劇である。例えば小野俊太郎は『フランケンシュタイン・コンプ レックス』において、この連続殺人に関する責任の有無を4通りに場合分けし ている。以下に、簡潔にまとめた(48-49)。

〈1〉怪物に責任あり。襲ってくる怪物を排除する考え。

〈2〉ヴィクターに責任あり。製造者がすべての責任をもつべき。

〈3〉両方に責任なし。どちらも時代の制約や運命の犠牲。

〈4〉両方に責任あり。それぞれが異なった責任をもつ。

この場合分けは非常にわかりやすい示し方ではあるが、問題を単純化しすぎ ているように見える。確かに〈1〉の通り、直接の悲劇をもたらしたのはまぎ れもなく怪物である。ではなぜ怪物は生まれたのかという元を探れば、〈2〉

創造者ヴィクターにたどりつく。ここで判断の基準になっているのは、2人の 人物の行動であり、行動の背景は考慮されていない。つまり、【〈1〉の原因】

なぜ怪物は一連の殺人を遂行していったのか、【〈2〉の原因】なぜヴィクター は怪物を造ったのか、という点が取り上げられていない。この怪物の殺人行為 とヴィクターの創造行為の背景にあるはずの原因、それも root cause を探って いく必要があるのではないだろうか。

さらに言うと、小野は一つ重要な点を見落としている。それは「怪物」とは 何かという議論である。「怪物」が何かわからぬままに、「それ」に責任を追及 することはできない。また、「怪物」の実態を考えることなしに、ヴィクター との関係を論じることもできない。したがって、「怪物」とは何か、そして以 下の一連の出来事の root cause ? を考えながら、『フランケンシュタイン』に 起こる悲劇はなぜ起こってしまったのかについて考えていきたい。

〈1〉怪物が悪い→殺人を犯したから→なぜ殺人を犯したのか→ ?

〈2〉ヴィクターが悪い→怪物を造ったから→なぜ怪物を造ったのか→ ?

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1−2 なぜ怪物は殺人を犯したのか

怪物の一連の犯行の動機は何だったのだろうか。まず、物語の悲劇を時間軸 に沿ってまとめると、以下のようになる。

『フランケンシュタイン』の悲劇

被害者 状況 原因

カロリーヌ(ヴィクターの母) 病死 エリザベスの病

ド・ラセー家 放火 怪物

ウィリアム(ヴィクターの弟) 殺害 怪物

ジュスティーヌ 死刑 (怪物)

クラーヴァル(ヴィクターの親友) 殺害 怪物 エリザベス(ヴィクターの婚約者) 殺害 怪物

アルフォンス(ヴィクターの父) 衰弱死 エリザベスの死(怪物)

ヴィクター 衰弱死 (怪物)

怪物 自殺? ヴィクターの死

(※登場人物名は森下訳に準拠)

では怪物が直接的な原因となった事件を具体的に見ていこう。怪物の動機は 何だったのだろうか、その事件直前のテクストを引用する。その際に、怪物の

「怒り」に注目してほしい。

〈ド・ラセー家の放火事件〉

ʻ... when I reflected that they had spur ned and deser ted me, anger returned, a rage of anger, and unable to injure anything human, I turned my fury towards inanimate objects. As night advanced I placed a variety of combustibles around the cottage; ... I lighted the dry branch of a tree and danced with fury around the devoted cottage ... .ʼ (my italics, Shelley 140-41)

放火の直前、そして放火の様子をテクストから引用した。これによると、ド・

ラセー (De Lacey) 家に見捨てられたことによる怒りが、怪物を放火へ導いた

ことがわかる。怪物は(この時点では)人間を害することができない。しかし

放火は立派な犯罪であり、これが怪物の最初の罪であり、自らを怪物化させる

一歩であった。さらに私は “devoted” という単語に注目したい。森下訳では「呪

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われた」家と訳されているが、“devoted” には他に「愛情深い」「献身的な」と いう意味がある。私はここに一つの矛盾を感じる。それまで怪物は、この「愛 情深い」家族に「献身的に身をささげた」。怪物はド・ラセー家に家族の一員 として温かく迎え入れてもらえるはずだった。家族の愛情を受けられるという 希望があった。その場所から、ド・ラセー家は逃げて行った。そして怪物は家 を徹底的に焼き尽くした。家の破壊は家族の絆の崩壊だと私は考えている。つ まり、怪物は家族との絆をこれで永遠に失ってしまったのだ。

〈ウィリアム殺害〉

ʻ“Hideous monster! Let me go. My papa is a syndic̶he is M. Franken- stein ...”

ʻ“Frankenstein! you belong then to my enemy̶to him towards whom I have sworn eternal revenge; you shall be my fi rst victim.”

ʻThe child still struggled, and loaded me with epithets which carried de- spair to my heart; I grasped his throat to silence him, and in a moment he lay dead at my feet. (my italics, Shelley 144 )

怪物は幼いウィリアム(William)を自分の仲間にしようと捕えた。幼い子供 であれば、自分の醜さに対して偏見を持つためには十分な時間を生きていな いと考えたからだ。しかしウィリアムは怪物の醜さに対して攻撃をする。“As soon as he beheld my form, he placed his hands before his eyes ... .” (Shelley 144 ) そして怪物を苦しめる罵りを吐き散らす。しかも復讐相手であるヴィク ターの家系の者だとわかる。そして彼を黙らせるために喉を絞めて殺してしま う。ウィリアムに出会う前、怪物はヴィクターを探す旅をしていた。その旅の間、

命を助けた少女の親から暴力を受けた後、怪物はさらに怒りと憎しみを倍増さ せていた。“My daily vows rose for revenge—a deep and deadly revenge, such as would alone compensate for the outrages and anguish I had endured.” (my italics,

Shelley 143) 人間(ヴィクター)に対する怒りとそれを超える復讐の気持ちは、

彼らからの裏切りや暴力によって高まる。そしてウィリアムの言葉の暴力を受 けて、口が聞けないようにその喉を絞めてしまう。

〈クラーヴァル殺害/エリザベス殺害〉

この二人の殺害状況については詳細に述べられていない。しかしクラーヴァ

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ル(Clerval)は、ヴィクターが怪物の伴侶を造るという怪物との約束を破っ た直後に殺されている。エリザベス( Elizabeth )の殺害も、ヴィクターが約 束を破った際に怪物が予言していた通りとなった。ヴィクターが約束を拒絶し た際の怪物の反応を引用する。

The monster saw my determination in my face, and gnashed his teeth in the impotence of anger. ʻShall each man,ʼ cried he, ʻfi nd a wife for his bosom, and each beast have his mate, and I be alone? I had feelings of affection, and they were requited by detestation and scorn. Man! ... but revenge remains ̶ revenge, henceforth dearer than light or food! I may die, but first you, my tyrant and tormentor, shall curse the sun that gazes on your misery.ʼ (my italics, Shelley 172-73)

怪物は怒る。同時に孤独を悲しんでいる。愛情をもって人間に接しても、嫌悪 と軽蔑で返されてしまうことに対し、復讐の気持ちを高める。これがクラーヴァ ルやエリザベスを殺害する動機につながっているのだ。怪物を孤独にしたのは、

ヴィクターである。だから報復としてヴィクターの愛する者をこの世から消し 去ることで、同じ孤独の苦しみを与えようとした。ここで “requite” という単 語に注目してみる。意味として、「返礼する」「復讐する」「(愛情)に報いる」

などが挙げられる。つまり、怪物は人間の復讐に対して復讐するのだ。

以上、怪物の殺人(と放火)の動機をテクストの引用を使って説明した。こ れまでの議論で私が強調したのが、怪物の「怒り」である。それはテクストの 中に十二分に表れている。つまり、 怒ったから 、怪物は罪を犯したのだ。

〈1〉 怪物が悪い→殺人を犯したから→なぜ殺人を犯したのか→ 怒ったから

→ではなぜ怒ったのか→人間(ヴィクター)に暴力をふるわれたから

1−3 なぜ怪物は怒るのか

怪物の怒りには原因がある。それは人間による、肉体的・精神的な暴力で

ある。ド・ラセー家の裏切り、人間の無慈悲な攻撃、ウィリアムの言葉の暴

力、ヴィクターの裏切りなどによって、怪物は怒りを爆発させる。怪物は抑圧

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された「怒り」の表象なのだ。つまり、「怪物」とは「怒り」である。この発 想を私に喚起したのが、怪物が伴侶を造るよう説得しヴィクターに断られる場 面で描写された部分だ。“A fi endish rage animated him as he said this; his face was wrinkled into contortions too horrible for human eyes to behold; ...” (Shelley 148) 怪物に生命を吹き込むのは、「怒り」だ。

怪物が「怒り」の表象であることを、先行研究を例に挙げて考えてみたい。

それからなぜ怪物は怒るのかという議論を展開していく。

『フランケンシュタイン』研究においては、「怪物」が社会における様々なメ タファーだとして取り上げられる。主要なものを表と引用でまとめてみた。

怪物のメタファー

ヴィクター 怪物

[1] 資本家(資本主義) 労働者

[2] 植民者(帝国主義) 先住民 奴隷

[3] 貴族制(保守制) フランス革命軍

[4] 親

[5] 社会 犯罪者

[1]怪物は労働者のメタファーである 

クリス・ボルディック(Chris Baldick)は、エリザベス・ギャスケル(Elizabeth

Gaskell)が、著書の『メアリー・バートン』( Mary Barton )にフランケンシュ

タイン神話をあてはめているとして、ギャスケルの説を取り上げている。ギャ スケルは、労働者階級を「内面の力を持たぬまま、力ばかりふるう怪物…」 (142)

だと考える。無知(教育のなさ)ゆえに自らの不幸を雇用主(親)のせいにし て反抗する無産階級を怪物のようにギャスケルは描いているのだ。「労働者階 級が弱く無力であるうちは、信心深い同情を受けるに値するが、ひとたび自己 主張できるようになると、彼らは怪物的な獣として罵られることになる。」 (144)

同時に、資本家と労働者(主人と使用人)の相互依存の関係もギャスケルは示

している。「もし資本家たちが、彼らが召喚した恐るべき勢力を振り払うこと

が本当にできないならば(その労働力を食いものにして栄えている以上、彼ら

には振り払うことなどできない)、彼らは、ヴィクター・フランケンシュタイ

ン同様、自分たちの平安を奪う脅威的な怪物を、しょいこむはめになるのであ

る」(149)

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[2]怪物は先住民のメタファーである

怪物のアメリカ先住民の不幸な運命に対する反応 “ I heard of the discovery of the American hemisphere and wept with Safi e over the hapless fate of its original

inhabitants.” (Shelley 122) について廣野由美子は、「それはたんなる同情の涙

ではなく、彼らの境遇とアメリカ先住民の運命に重なり合う点があることを暗 示している」(215)と論じている。また、怪物がド・ラセー家からこっそりと 知識を学ぶ行為と、白人家庭の中で黒人奴隷が白人の会話から物事を学ぶ行為 の類似性も挙げられる。さらに、ボルディックは、帝国主義時代の政治家が植 民地の奴隷を怪物視するような発言を取り上げている。「外務大臣ジョージ・

カニングは下院において西インドの奴隷解放をめぐる論戦のなかで、奴隷につ いて『体力は大人で、身体の情熱は成熟しているが、ただし教育を受けていな い理性はまだ幼児である彼らを自由にしておけば、最近の素晴らしい空想物語 にも似た化け物を作り上げてしまうことになるだろう』と語っている。」(99)

[3]怪物は革命軍のメタファーである

『フランケンシュタイン』の著者メアリー・シェリー( Mary Wollstonecraft Shelley)が生きたのは、革命の時代である。ゆえに作品を歴史的な視点から 解釈するときに、大きく取り上げられるのはフランス革命だ。この大きな革命 を成し遂げたのは民衆である。その国家に反逆するパリの群衆の忘恩と鎮圧不 可能性は怪物的だと揶揄されるのである。

[4]怪物は子のメタファーである

怪物はヴィクターによって見捨てられて以降、その内面をどんどんと成長さ せていく。その成長の過程で怪物は誤った方向に育ってしまう。ボルディック はこれを「人間的な絆を育まぬままおこなわれた子育てのことである」(196)

と述べる。廣野もまた「愛情に対して軽蔑で報いたり、社会的存在である生き 物を社会から隔ててクズ扱いしたりすると、もとはどんなに良いものでも、悪 意に満ちたものへと仾変してしまう」(116-17)ことを論じている。

[5]怪物は犯罪者のメタファーである

怪物は物語の中で犯罪者の位置にある。しかし元々は善良で優しい心をもっ

ていたのだ。この転落人生を廣野は、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques

Rousseau)の「人間は堕落する以前は無垢の状態である」(97)という思想

(9)

やジョン・ロック(John Locke)『人間知性論』( An Essay Concerning Human

Understanding )の「人間はもともと白紙状態で、経験に基づいて知識を獲得

してゆく」(97)といった思想を使って説明する。「社会から拒絶されて孤立し た怪物は、悪鬼と化しても当然」(101)なのだ。つまりジャン=ジャック・ル セルクル(Jean=Jacques Lecercle)が言うように、「暴力を彼に強制したのは、

人間の社会…暴力的なのは社会的なものの方であって自然的なものではない」

(ルセルクル 39-40)のである。エリザベス・ブロンフェン(Elisabeth Bronfen)も、

「悪は社会的偏見によってのみ生まれる…理想的な共同体は、自分たちと根本 的に違うものを、たえまなく排除し続けることで成り立つ…怪物は激怒し、人 間の偏見を自らの内に取り込んで他者を憎むようになり、まさにその容貌にふ さわしい、醜く、悪意に満ちた心をもつようになる」(ブロンフェン 47)と論 じ、怪物を排除する社会を批判している。怪物の最後の語りにも注目したい。

“Am I to be thought the only criminal, when all humankind sinned against me?”

(Shelley 224) 犯罪者である怪物は、人類にもその責任があることを訴えるのだ。

以上に挙げた怪物のメタファー《[1]労働者[2]奴隷[3]革命軍[4]子[5]

犯罪者》には、見過ごせない共通のポイントがある。それは、社会的弱者もし くは未熟者で環境を自分の意志でコントロールできない状況にあるということ だ。さらに社会的に抑圧されているがゆえに、その不満や怒りがいつ爆発する かわからない。だから怖れられる対象となる。労働者は資本主義を、奴隷は主 人を、革命軍は貴族制を、子は親を、犯罪者は社会を脅かす存在となっている。

しかも抑圧されていた怒りがいったん解放されると、止められないほどの勢い を持つために、怪物だと表象される。

反逆の力は大きい。それは受け続けた暴力に対してぶつかっていく「怒りの 塊」である。積りに積もってしまった怒りを彼らはコントロールできない。そ の結果、相手を転覆させる。『フランケンシュタイン』は転覆劇である。怪物 はその主人であるヴィクターを力で征服しようとし、主従関係が転覆する。“ You are my creator, but I am your master̶obey!” (Shelley 172) 従わない主人ヴィク ターに対し、怪物が行ったのが暴力の行使(殺人)なのである。怪物はヴィク ターの愛する者を殺害し、徹底的にヴィクターを苦しめたのち死に追いやる。

転じて、「怪物」は労働者の怒りの体現として、資本主義を解体させようとす

る話として読める。「怪物」は先住民の怒りの体現として、ヨーロッパの繁栄

のためにインドへ向かう前のクラーヴァルを殺害し、ウォルトン(Walton)の

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航海を妨げる(つまり帝国主義の解体)。「怪物」は革命軍の怒りの体現として、

保守的制度を解体する話として読める。「怪物」は子の怒りの体現として、親 に反抗する話として読むことができる。「怪物」は犯罪者の怒りの体現として、

社会に報復する話として読むことができるのである。「怪物」は身に受ける暴 力に対抗するため、怒りから生まれている。

しかしやはり見落としてはならないのは、怒りには理由があるということだ。

どんな反逆的行為にも、それに至らせた過程がある。暴力も怒りも無からは生 まれないからだ。だから例えば、フランス革命軍を怪物だと非難する保守派の エドマンド・バーク( Edmund Burke )に対し、急進派であるトマス・ペイン

(Thomas Paine)は怪物(フランス革命軍)を生み出した親(貴族制)もまた 怪物であると述べた。これによれば、怒りを生み出したものにその責任を押し 付けることができる。つまり、資本家が、植民者が、貴族制が、親が、社会が 責任を負わなければならないということになる。怪物の怒りの原因もヴィク ターにあるのだ。それではヴィクターはどのようにして怪物を怒らせるのだろ うか。具体的に、ヴィクターはどのような暴力を怪物にふるったのかを見てい こう。

まず怪物に対してヴィクターが行った暴力行為を、時系列に沿って列挙して みる。怪物を創造したことこそ最大の暴力ではあるが、その点はひとまず脇に 置いて、怪物創造後のヴィクターの怪物への暴力行為を考えることとする。 

ヴィクターの怪物への暴力

怪物創造直後

⇒怪物を見捨てる

Unable to endure the aspect of the being I had created, I rushed out of the room ... . (Shelley 58)

怪物との再会

⇒罵る

ʻ

... Begone! relieve me from the sight of your detested form.

ʼ

(Shelley

104

)

伴侶を破壊する

⇒約束を破る

As I looked on him, his countenance expressed the utmost extent of malice and treachery. I thought with a sensation of madness on my promise of creating another like to him, and trembling with passion tore to pieces the thing on which I was engaged. (Shelley

171

)

※イタリック体はすべて引用者によるものである。

この3つの暴力が怪物にもたらすのは絶対的な孤独である。自分の一番の庇

護者であるべきはずのヴィクターに、怪物はその生まれたての段階で捨てられ

てしまう。名前さえ与えられない。ようやく再会できても、醜い存在だと罵ら

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れ拒絶される。自分の伴侶(となるはずの物体)をずたずたに破壊されてしまう。

怪物にとって、伴侶は極めて重要な意味を持つ。伴侶は怪物の深い孤独の中に 咲く唯一の希望であったからだ。人間に共感されず、人間社会では生きていけ ない怪物にとって、パートナー(家族)となるべき伴侶の喪失は怪物に大打撃 を与える。伴侶なき怪物は、いよいよ独りぼっちになるのだ。その孤独が彼を 怒らせる。ルセルクルはこう説明している。「モンスターが独りきりでいると すれば、その孤独は彼に重くのしかかり、彼は社会契約だけを夢見る…彼はそ の前半生において、他の人間たちとこの契約を結ぼうと試みる…彼らの拒絶を 前にして、彼の後半生は、人間たちが彼らの間で取り結び、彼を排除している 契約を、暴力によって解体することについやされる…モンスターが人間に対し て狼である理由は、社会契約が彼を黙殺することを望んでいること以外にはな い。」 (59-60)つまり、怪物は孤独にさせられた報復として、ド・ラセー家の家(家 庭)を破壊し、ヴィクター家を全滅に追い込む。怪物の怒りの根底に孤独が潜 んでいる。

1−4 なぜ怪物は孤独なのか

孤独という問題は明らかに、 『フランケンシュタイン』のテーマの一つである。

物語の最初の語り手であるウォルトンは、自分を理解してくれる友人がいない と孤独を嘆いている。ヴィクターは、社会・家族・親友から逃れるように自ら 進んで孤立していく。そして怪物は、孤独から逃れようと必死になるほど孤独 化していく。「怪物」とは「孤独」が実体化したものだと言えるだろう。では なぜ怪物は独りになってしまうのだろうか。人間社会が怪物を排除する原因は 何か。それは大きく分けて3つあると私は考える。①怪物は醜いから、②怪物 は名前がないから、③怪物はヒトではないから、である。

①怪物は醜いから

怪物の「醜さ」は、圧倒的な力で彼を人間社会の外へ放り出す。怪物自身も それを十分承知している。“ ... the human senses are insurmountable barriers to

our union.” (Shelley 148) 怪物がどんなに素晴らしい内面をもつ存在であって

も、人間の感覚では決して怪物に好感を抱けないのだ。この点に関連して、ボ

ルディックは、「外見で彼を非難する人間社会の気まぐれな不正義」(88)とい

う言葉を使っている。確かに、怪物の「醜さ」に対する人間社会の反応を批判

(12)

することは可能である。社会がそうある以上─「自分自身や他者との関係が純 粋にその視覚的な外形だけに基づいて成立する領域」(オロレンショー 219)

である以上─、怪物は整形手術をしない限りはその存在を一生認めてもらえな いのだ。

考えてみると、ヴィクターの怪物に対する暴力の背景には常に怪物の「醜さ」

がある。ヴィクターが自分の造ったものから、その責任を放棄して逃げ出して しまうのも怪物の「醜さ」に耐えられなかったからだ。怪物がその雄弁さでヴィ クターの心を動かしながらも、その「醜さ」がその交渉を難航にしてしまう。ヴィ クターが交渉に承知した後にすぐ目の前から消えるのも “ he suddenly quitted me, fearful, perhaps, of any change in my sentiments.” (Shelley 150)、自分の「醜 さ」が彼を心変わりさせないためだ。ヴィクターが造りかけの伴侶を破壊して しまうのも、怪物の「醜さ」を見て激情に駆られたためである。怪物の「醜さ」

が、怪物に対するあらゆる暴力行為の原因となっている。それはヴィクター以 外の人間から暴力を受ける際の原因でもある。 「醜さ」を身にまとっている以上、

怪物はどこに行こうと「孤独」なのである。

②怪物は名前がないから

怪物が「名無し」である点にも注目したい。「名無し」の理由についてはロバー ト・オロレンショー(Robert Olorenshaw)の引用を借りることにする。「人間 は自分の肉眼で識別できるものでなければ、自分の知識とすることはできず、

名前をつけることもできないからである」(211)ルセルクルも怪物について次 のように述べる。つまり、怪物は分類不可能なものであり、そこが人間に激し い恐怖をもたらすのだ。

それでは「名無し」が、どう怪物の孤独とつながるのかを考えたい。オロレ ンショーは、 「名前は人をシンボル的な階級組織のなかに位置づけるもの」 (226)

と説明する。つまり、 「名無し」であることによって怪物は、家系から排除され、

いかなる組織にも所属することができない。さらに「名無し」は怪物のアイデ ンティティーを放棄している。「名は体を表す」ゆえに、「名無し」は何も表さ ないのだ。

具体的にテクストを参考に考えてみよう。怪物の頼みの綱であったのはド・

ラセー家の盲目の老人であった。老人は視覚を持ち合わせていないゆえに、物

語の中で怪物の「醜さ」を克服する唯一の人間であった。怪物は老人に自分を

救ってくれるよう懇願する。老人は言う “... it will afford me true pleasure to be

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in any way serviceable to a human creature.” (Shelley 136)。「しかし、『人』(a

human creature )とは人類のことであって、怪物はそのなかに含まれない」(廣

野 71)。さらに留守にしていた家族が帰宅するという土壇場で老人は追い打ち をかける。“Great God! ... who are you?” (Shelley 137) もちろん名前もアイデン ティティーもない怪物には答えられない問いである。結局は留守にしていた家 族に邪魔をされ、怪物はその「醜さ」によって暴力を受け、彼らから排除され てしまう。怪物は後に、安易に自分の姿を見せてしまったことが軽薄だったと 後悔する。しかしもし盲目の老人と強固な信頼関係を築けたとして(「醜さ」

をどうにか克服できたとして)、怪物はこの家族の一員になれるのだろうか。

老人の “who are you?” という問いに対する答えを持っていない怪物は、きっと いつまでも救われないのではないだろうか。「名無し」であるがゆえに、怪物 は社会で存在することを許されないのである。

③怪物はヒトではないから

怪物が人間(社会)に受け入れてもらえないのは、彼らから共感を得られな いからである。なぜ人間は怪物に共感できないのか。それは彼がヒトではない からなのだ。ヒトではないとしたら、「怪物」の正体は一体何であると言える のか。この問いに対する答えは2通り出すことができる。ヒトより劣った生か、

もしくはヒトより優れた生か、である。

私は怪物の「醜さ」や物語における彼の境遇から判断して、ヒトではないと したらヒトより卑しい生なのだろうとずっと考えていた。所詮怪物はヴィク ターの「失敗」なのである。そのため、怪物を「成功」と捉える考え方、つま りヒトを超える生であるという発想は無かった。例えばルセルクルは、怪物は 崇高であると述べる。「彼が孤独なのは当然のことであり、彼が家族の愛情が もたらす優しく快い喜びを夢想するのは誤りである」 (ルセルクル 75)そうだ。

また、クロスビー・スミス(Crosbie Smith)は「怪物」を啓蒙主義時代の「新 しい人間」という夢想と重ね合わせている。「人間は本来不完全なもので、そ れは罪や苦痛、病気、死から免れられない」(スミス 72)。その人間の不完全 性に挑戦するのが自然科学であり、結果生まれるものが安定と完全性を備えた

「新しい人間」だと説明している。

さて、怪物は「成功=(新しい人間)」なのか。ヒトを超えた生であるゆえ

に、人間社会で生きていくことができないのだろうか。確かに怪物は超人的な

パワー(人間離れした力や俊敏さなど)を持っている。ヴィクターの手によっ

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て生まれた最先端科学を体現する生でもある。それは生殖行為や女性の子宮を 介さずに、生命を造りだすことができるという奇跡の証明なのである。そういっ た怪物の奇跡的な特徴こそ、ヒトと一線を引く要因なのだ。しかしその奇跡的 差異が人間に受け入れられない。むしろ不気味がられてしまう。怪物が人間の 共感を得られないのも、この不気味さによっている。つまり、人間がこの「新 しい人間」をはねつけるのは、その超人的なパワーにも最新の生殖科学にも嫌 悪感を抱いているからに他ならない。怪物は確かにヒトを超えた。しかし、ヒ トを超えてしまったがゆえにヒトと共存できず孤独となってしまうのだ。また 皮肉なことに、怪物は啓蒙主義時代の「新しい人間」という夢想とはほど遠い。

なぜなら、怪物は人間が解放されたかった苦痛を生涯しょいこむことになるか らである。

以上3つの原因─①怪物は醜いから、②怪物は名前がないから、③怪物はヒ トではないから─を考えてきた。しかし物語の展開を考えたうえで、彼の孤独 の一番の原因となっているのはやはり怪物の「醜さ」であろう。

〈1〉 怪物が悪い→殺人を犯したから→なぜ殺人を犯したのか→怒ったから

→なぜ怒ったのか→人間に暴力をふるわれたから→怪物が醜いから→ ?

1−5 なぜ怪物は醜いのか

怪物はなぜ醜く生まれてきてしまったのだろうか。マイケル・グラント

( Michael Grant )は、「怪物とは創作する者の創造力が形をとったもの」(グラ

ント 175)、つまり「怪物のあり方は、これを造った力に欠陥があったことを 表しているとみることができる」(169)と述べる。この説は例えば、子供の心 や体の状態をその子の描画行為(創作物)から判断するというような心理学に 通じるところがある。つまり、怪物の「醜さ」は、ヴィクターの創造行為の「卑 しさ」と同時にヴィクター自身の心の「醜さ」を反映していると言えるのでは ないだろうか。

怪物の醜さが、ヴィクターの醜さを写しだしていることを考えると、怪物は

ヴィクターの化身だと言うことができるのではないか。これは怪物とヴィク

ターをダブル(同一人物)とみる考えである。そこでまずは、 『フランケンシュ

タイン』研究でよく取り上げられる分身論(ヴィクター=怪物)を考察しなが

ら、ヴィクターの内面の醜さに迫ろう。

(15)

【小野の解釈】『フランケンシュタイン・コンプレックス』第 2 部:怪物になる ことへの恐怖(80 - 108)

小野は、『フランケンシュタイン』に関連して、二重人格物語の代表である

『ジーキル博士とハイド氏の奇妙な症例』( The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr.

Hyde )を取り上げて、ダブルの存在が与える恐怖を考察している。二重人格 は 19 世紀に病気として承認される前、「悪魔つき」と呼ばれていた。物語の主 人公であるジーキル博士 (Dr. Jekyll) は、薬でハイド (Hyde) になると体が獣化・

退化する。発育不良で劣等な人間の特徴を持つハイドは、下層労働者や外国人 移民、ホームレスとしても考えられる。さらに、子どもへの残虐行為から、 「子 どもに共感をしめさないことが、人間外の証拠となっている」(91)としてそ の凶暴性が強調される。この野獣を自己の内に抱える善良なジーキルの症例が 表しているのは、人間は本能が壊れていて、誰もが内側にハイドのような野蛮 人を隠し持っているということだ。そもそも人間は怪物(欠陥動物)なのであ る。また、この物語は人間の矛盾を示してもいる。ジーキルは医者でありなが ら、患者である。加害者(ハイド)でありながら被害者を装うのだ。そしてハ イド(薬物)依存症になったジーキルは、ハイドとして死ぬ。二重人格は、 「外 にいる怪物ではなく、内にいる怪物が問題となっている」(83)のである。

小野の解釈を『フランケンシュタイン』に当てはめてみると、以下の関係性 が見えてくる。

ジーキル ─ ヴィクター ハイド  ─ 怪物

ヴィクターはその内面に野獣(ハイド)を抱えていたのだ。それが実体化し たのが、『フランケンシュタイン』の怪物であると解釈することができる。怪 物はハイドのように醜い。ハイドと違って怪物は善良の心を持ってはいるが、

善良さとは裏腹に怪物の行動は破壊的で凶暴なものとなってしまう。ジーキル

とハイドの物語が『フランケンシュタイン』と大きく異なるのは、ヴィクター

と怪物が異なる身体をもつ一方、ジーキルとハイドは同じ身体を抱えている点

である。しかし興味深いのは、ジーキルは薬によってその身体を変化させるこ

とである。しかもハイドとして行った〈自分〉の行為を、まるで他人がやった

かのようにふるまっている。ジーキルとハイドはそれぞれ全く異なる人格を

持っているのだ。そしてヴィクターが怪物の責任を放棄するように、ジーキル

もハイド〈自分〉の責任を取ろうとしない。ジーキルとヴィクターが、己の怪

物(獣性)と向き合おうとしないのは、それが怖いからである。もしくはジー

(16)

キルもヴィクターも自分自身の内面を知る力が欠けているのかもしれない。こ うして己から逃げる結果、その獣性(ハイドと怪物)に殺されてしまうのだ。ジー キルとハイドは同時に死ぬ。それは、 『フランケンシュタイン』の最後に、ヴィ クターと怪物がほとんど一緒に死んでいく様子と重なっている。ヴィクターと 怪物はダブルなのである。

二重人格のように、「意識が『引き裂かれる』とか『分断される』という不 安が、恐怖を生む」(小野『コンプレックス』、81)ことを考えると、オスカー・

ワイルド(Oscar Wilde)の『ドリアン・グレイの肖像』( The Picture of Dorian Gray )にもその恐怖(怪物)が潜んでいるように思われる。美青年であるド

リアン (Dorian) は、自己にそっくりの秘密の肖像画を持っている。その肖像

画のドリアンは、彼が悪徳を重ねるたびに醜くなり、ドリアンの代わりに老い てくれる。そうしてドリアンは美しい容姿を保ち続け、その美しさゆえに悪徳 の罪を誰からも疑われない。最終的にドリアンは、自己の罪を生き写した肖像 画を始末しようとして、絵にナイフを刺すが、と同時に同じナイフに貫かれ死 んでしまう。この物語を『フランケンシュタイン』に当てはめると、以下のよ うに考えられるのではないか。

ドリアン     ─ ヴィクター 肖像画のドリアン ─ 怪物

ドリアンの肖像画は、ドリアンの内面を写す鏡となっている。肖像画が醜く なってしまうのは、ドリアンの悪徳の醜さによってである。肖像画が老いるの は、ドリアンの欲─老いを克服すること─が反映したからであろう。しかし老 いを克服したいという欲望は反自然的である。ドリアンは、肖像画のドリアン に、つまり自分(醜悪な欲望)に殺されてしまうのだ。この肖像画のドリアン とヴィクターの怪物は似ている。怪物は、ヴィクターの内面に押し込められた 欲が形となって現れたものなのではないか。肖像画が、ドリアンの罪深さをそ の絵に醜く表し、彼の欲望を体現しているように、怪物もヴィクターの罪深さ を、醜い欲望を表しているのだと私は考える。

さて、『ジーキル博士とハイド氏の奇妙な症例』、『ドリアン・グレイの肖

像』という作品を通して、ヴィクターと怪物がダブルであるということを示し

てきた。つまり、怪物が醜いのは、ヴィクターが内面にもつ獣性、欲望の醜

さによっている。怪物も次のように叫んでいる。“... my form is a fi lthy type of

yours, more horrid even from the very resemblance.” (Shelley 133)「このおれの

姿かたちはおまえの穢れた心そっくり」であると。それではヴィクターはその

(17)

内面にどんな悪魔を抱えていたのだろうか。

1−6 ヴィクターが抱える醜さ

(

)

とはなにか

小野は、 「『怪物の醜さはヴィクターのナルシシズムの醜さ』 (榎本眞理子)で、

ヴィクターの無意識的な願望が怪物に投影されている」(『フランケンシュタイ ン』、28)と説明している。ナルシシズムとは自己陶酔という意味であるが、ヴィ クターが自己陶酔をするのは自分の科学力においてである。ヴィクターは自分 こそ生命の神秘を解明するのだと勉学に励み、そしてそれを発見してしまう。“ I was surprised, that among so many men of genius ... I alone should be reserved to discover so astonishing a secret.” (Shelley 53) こうして、科学の知識の追及 が卑しい創造行為につながった結果、怪物が生まれたのだ。つまり自然科学へ の陶酔が、破滅の原因となる。ヴィクターがこれほどまでに自然科学にとりつ かれてしまうのはなぜか。

ヴィクターの研究熱は、探究心に基づいている。“ ... in a scientifi c pursuit there is continual food for discovery and wonder. ” (Shelley 52 ) 特に “ Whence ...

did the principle of life proceed?” (Shelley 52) という問いに対する確信をもって からは自らを犠牲にして実験に励んでいるが、この自然科学への没頭は異常で ある。ヴィクターと自然科学(怪物)との密接な結びつきに対して、興味深い 先行研究がある。それはヴィクターにとって、自然科学はマスターベーショ ンであるという考えだ。リュドミラ・ジョーダノーヴァ(Ludmilla Jordanova)

は、「マスターベーションは孤独な悪癖と呼ばれ、排他的な自己耽溺が原因と された。フランケンシュタインもまた、自分の願望に執着するあまり、他人と、

特に将来自分の花嫁になると決められている女性と、大人としての正常な関係 を築くことが困難になる」(ジョーダノーヴァ 89)と述べている。ボルディッ クも、「科学への愛は、その深さと没頭するエネルギーの点で、女性への愛と 競合する」(115)として、ヴィクターの実験室へのひきこもりは、「性的な行 為の芸術的・科学的営みへの転換」(85)であると述べている。そして、「昇華 としての仕事への没頭と性愛への関心の喪失」(106)のために、「怪物はエリ ザベスにとっての一種の恋敵」(84)だと考えている。ボルディックはまた、

ヴィクターが結婚を遅らせるのは、怪物との約束があるからだと説明する。“I must perform my engagement ... before I allowed myself to enjoy the delight of a

union. ...” (Shelley 157) 確かにヴィクターはエリザベスとの婚約よりも、怪物

(18)

との約束(engagement)を優先している。

ここで eros という言葉について考えてみたい。 eros とは性愛という意味で あり、『フランケンシュタイン』という作品を考えたとき、それはヴィクター とエリザベスの間に生まれるべきものである。しかし eros は、むしろヴィク ターと怪物の間に生まれているのだ。eros は sexual relationship と physical

relationship の二つの関係性を表す語である。特にヴィクターと怪物の間には、

暴力というかたちで絶え間ない physical relationship が生まれている。精神科 医であるジーグムント・フロイト(Sigmund Freud)の violence と sex を同じ 肉体的行為だと考える理論をここで応用すると、ヴィクターと怪物の間には eros が生まれてしまう。映画 Mary Shelley’s Frankenstein には、特に顕著にヴィ クターと怪物との間に eros が表れている。ヴィクターは生命創造の後、怪物 の体をつかんで立たせようとする。しかしヴィクターは半裸、怪物は全裸であ るゆえに実験で使った子宮膜でお互いの体が滑りやすくなり、なかなか立つこ とができない。2 人の取っ組み合いは長々と続く。取っ組み合いと言うと、レ スリングが思い浮かぶが、これも2人の男性が肉体を使って闘い合うもので、

ゲイに対する社会的制約のもとで行われていたものだった。ちなみに物語の終 盤で怪物はヴィクターに追いかけてもらうために、こんな言葉を残している。

“Come on, my enemy; we have yet to wrestle for our lives ...” (Shelley 208) 怪物 はヴィクターと命をかけた組み打ち(wrestling)を行っていると思っている。

廣野はゲイ批評でヴィクターとクラーヴァルの関係を取り上げているが、ヴィ クターと怪物の関係にも注目すべきだと私は考えている。

そもそもヴィクターはエリザベスを愛しているのだろうか。ヴィクターとエ リザベスとの間の性的な描写は一切物語の中で語られていないからである。さ らにおかしなことに、ヴィクターは怪物創造の直後、不吉な夢を見ている。そ れは夢の中でエリザベスにキスをした瞬間にそれが母の死体に変化する悪夢で ある。ヴィクターのキスがエリザベスを殺すのだ。また、物語の後半で、クラー ヴァル殺害の容疑が晴れたあと、父親はヴィクターの体の具合を心配して帰る 旅路の前に十分な休息を取ろうと提案する。しかしヴィクターは婚礼のために 体に無理をしながら一刻も早く帰ろうとする。怪物との対面を急いでいるのだ。

それがエリザベスを死なせてしまうことになるにも関わらず、である。

以上の点をまとめると、ヴィクターのエリザベスへの性愛が歪んでいること、

ヴィクターの抑圧された性的願望が自然科学(怪物創造)への没頭という点に

表れていることが言える。婚礼の晩に怪物がエリザベスを殺しにやってくるの

(19)

は偶然ではないのかもしれない。ヴィクターはエリザベスと結ばれることを望 んでいないのではないか。ゆえに怪物はヴィクターの影として、婚礼を破壊し にくるのだ。

歪んでいるのは、エリザベスへの愛だけではない。ヴィクターと家族の関係 についても考えてみよう。ヴィクターは自然科学に夢中になるほど孤立してい く。廣野は、父親からの手紙について、「大学に行ったきりまったく家に帰り もしなければ手紙さえ寄こさない息子に対する非難がこめられている…」(78)

と述べ、エリザベスの手紙からは、ヴィクターの看病を自分が出来ないことへ の嫉妬を感じ、自分も結婚したくてじりじりしているエリザベスの様子がうか がえることを指摘している。自然科学への熱中は家族との絆を解体してしまう のである。スミスはこの点について「安定した家族の世界とヴィクターとの絆 は、…いよいよインゴルシュタットに向けて旅立ったときに、完全に断ち切ら れてしまった」(64)と述べている。さらにヴィクターは怪物創造後に肉親の もとへ帰るが、「『人間らしい睦み合いに加わる権利は何一つ』もたない完全に 孤独な身となる」(ブロンフェン 45)のである。

自然科学への献身と家族関係の維持について、ボルディックは『フランケン シュタイン』が「家庭生活が持つ人間的な暖かみと、仕事に自己中心的に打ち 込む行為がもたらす自己破壊的な冷酷さや社会からの隔絶とを対照するという やり方」(112)を示していることを指摘する。確かにヴィクターは野心家であ る。家族を顧みず、人類のために、そして名声のために実験に命を捧げる姿は、

自己中心的で醜い。この点において、著者のメアリー・シェリーは、父親のウィ

リアム・ゴドウィン( William Godwin )の小説『サン・レオン』( St. Leon )を

反映しているのではないかとブロンフェンは説明する。『サン・レオン』の主

人公は「自分があまりに立身や名声、富などといった、社会制度の産物である

偏見の刻印を帯びた価値観に囚われすぎていたために、思いやりに満ちた平和

な家庭を何度も破壊してしまったと語る」(ブロンフェン 34)「創造とは本来

家族の絆への裏切りなくしては成し遂げられない行為だというこの小説から読

み取れる観念は、ゴドウィンの娘メアリに抜きがたい不安を植え付ける」(ブ

ロンフェン 37)のだそうだ。ここから読み取れるのは、仕事と家族の両立は

可能であるかという問いであり、サン・レオンもヴィクターも仕事を優先し悲

劇に陥る。他方で、ヴィクター同様、野心家であるウォルトンは北極探検とい

う挑戦を捨てたことで、姉のマーガレット(家族)のもとに帰れるのである。『フ

ランケンシュタイン』は、家族を裏切り、自分の都合で仕事を優先することの

(20)

卑しさを説いていると言える。ボルディックは、シェイクスピアがどういう文 脈で怪物という言葉を使っているのかについてこう述べる。「怪物であるとい うこと、それは友人やとりわけ肉親に対する義務といった本来の絆を断ち切る ことを意味するのである」(33)家族を大事に出来ない姿は、まさに醜い怪物 だと言えるのかもしれない。

ヴィクターが抱える醜さ(欲)とはなにかという問いを、長々と説明してきた。

それは、エリザベスとの性愛の歪みと、欲望に囚われ家族との絆を捨て自己中 心的でいることの卑しさである。特に生命創造の過程で、墓場をうろつき死体 を切り刻む姿は残酷である。ヴィクターは自分のこうした仕事を卑しく感じな がらも、自己の欲望を優先する。創造主のこうした醜さが怪物に反映し、怪物 は醜い姿となってしまうのではないか。怪物がヴィクターの心の闇を実体化し ているという点で、やはり両者はダブルの存在なのである。ヴィクター自身も、

最愛の人々が亡くなっていくことが、狂気にとりつかれて自分が行ったこと(怪 物の創造)の結果だと認めている。ヴィクターはクラーヴァルの死後に見る悪 夢の中で、こう叫ぶ。“ I called myself the murderer of William, of Justine, and of

Clerval.” (Shelley 181) ヴィクターは怪物が己自身であることを無意識のうちに

了解しているのだ。

最後に、小野の責任論で挙げていた問いを思い出してみよう。

〈2〉ヴィクターが悪い→怪物を造ったから→なぜ怪物を造ったのか→ ?

?とは、エリザベスとの絆・家族との絆が途切れ、孤独に陥り欲望の奴隷 となったからである。

ヴィクターも怪物同様、孤独だったのである。

まとめ

「第一章 怪物の表象」では、怪物の実態について考えてきた。テクストや

先行研究を考えてみた結果、それは「怒り」「孤独」「自己」であると結論づけ

たい。怪物は善良な生であったが、人間(ヴィクター)に虐げられ、怒りを爆

発させる。怪物は抑圧された「怒り」の体現者である。そして怪物の怒りの根

底にあったのが、社会から排除される悲しみ、つまり「孤独」である。怪物は

(21)

醜く、名前もアイデンティティーも無く、ヒトと違った存在であるゆえに孤独 なのである。怪物は「孤独」そのものなのだ。そして怪物は、ヴィクター自身

=「自己」でもある。自己の欲望を満たすために自然科学(怪物創造)に没頭 する姿は醜く、その醜さが怪物に表れる。怪物は、家族を無視して費やした仕 事の結果に生まれてしまう。その怪物は家族を大事に出来なかったヴィクター そのものであるゆえ、怪物がヴィクター家を破壊してしまうのは当然の結果で ある。ヴィクターが怪物とダブルであることを考えると、怪物が孤独そのもの であることは、ヴィクターに原因があるように感じられる。ヴィクターも孤独 だからである。ヴィクターは自然科学に家族(人類)との絆を断ち切られるみ じめな青年である。怪物はこの孤独を反映したせいか、しきりに家族(ド・ラ セー家、伴侶)との絆を求めるのである。しかしヴィクターの孤独な生と同様 に、怪物は誰とも絆を結べないまま、怒りと孤独の中で死ぬことになる。

第2章 怪物と生きる

第 1 章では怪物が、「怒り」「孤独」「自己」の表象であることを考察した。

怪物が怪物なのではなく、「怒り」「孤独」「自己」が怪物なのである。この物 語の世界の怪物は、私たちの世界の怪物と重なる。怪物(ヴィクター)が、湧 き上がる怒りを、孤独を、自己をコントロールできなかったことによって悲劇 を起こしたように、私たちは、怒りに我を忘れてしまうことがある。孤独の悲 しみの中に閉じ込められることがある。自分に嫌悪感を抱き、自暴自棄になる ことがある。私たちが抱く怒りも孤独も自己の内面も、取り扱いが難しいゆえ に、怪物なのである。

ボルディックは、「創造主{マスター}を支配{マスター}する」(106)と いう言葉を使っている。この言葉を借りて言うならば、 『フランケンシュタイン』

は、マスターが怒り・孤独・内面にもつ卑しい自己にマスターされてしまうこ との恐怖を描いているということになる。ここから、私たちは教訓を見出すこ とが出来る。しかし私たちの世界の怪物は、 「怒り」 「孤独」 「自己」だけではない。

私たち{マスター}を支配{マスター}しようとする怪物群は、目に見えるもの、

見えないものを含め私たちの生活の中にうようよ存在している。私たちは怪物

と生きているのだ。それでは、私たちを脅かす怪物とは何だろうか。『フラン

ケンシュタイン』の怪物をヒントに、現代社会に潜む怪物とその恐怖を探って

いきたい。

(22)

2−1 生殖科学という恐怖

『フランケンシュタイン』は、男が男を造る物語である。この点について阿 部と廣野は、怪物創造をヴィクターの出産行為に結び付ける。「メアリは興味 深いことに、ヴィクターが研究室にこもる姿を、出産の床につくことを意味す ることば(英語で「産褥につく」を意味する confi nement や「陣痛」を意味す

る labor)で描写している。」(阿部 30)「『仕事』= “labor” には、『分娩』とい

う意味もあり…人造人間を製作するフランケンシュタインの『出産』行為を象 徴していると言えるだろう。」(廣野 83)

ヴィクターは排他的な場所に実験室を作り、その中で、禁じられた実験をす る。死体を操り、自らが発見した自然科学の法に従って生命を生み出したのだ。

女性の体を介さずに行われるこの生命の創造は、女性の生殖力を奪うという点 で脅威である。しかし『フランケンシュタイン』は単なる SF 物語ではない。

現代社会において、それはもはやフィクションではなくなっている。代理母出 産、クローン技術、人工授精、体外受精、試験管ベイビーなど現代の生殖科学 の進歩は驚くべき段階にまできている。これらの生殖技術の進歩は、家族や社 会のあり方を変えるだけではない。人間の命をモノとして扱うことにつながる のである。つまり、生が軽んじられることになるのだ。生殖科学は間違いなく、

人間の生を脅かす怪物である。

小野は、『フランケンシュタイン』の課題を受けているとして、著書『フラ ンケンシュタイン・コンプレックス』の第6章(194-203)にてオルダス・ハッ クスリー( Aldous Huxley )の『すばらしい新世界』( Brave New World )を例 に挙げて生殖科学の進歩した文明社会を批判している。物語は 600 年後のロン ドン、人工授精・人工子宮により生命が工場で生産される社会が舞台である。

生殖に恋愛が不要となり、出産が母体を離れ人工的に管理される。胎児の段階 で体型・身体能力が操作され、新陳代謝の管理によって、死ぬまで体は老化し ない。この社会には、階級制度はあるが、家族・血縁という発想がない。「共有・

均等・安定」という標語が掲げられ、世界は全体主義化している。神様は自動 車の育ての親、ヘンリー・フォード( Henry Ford )であり、 「 AF 」というフォー ド紀元が使われる。自動車生産のように、命の生産においても品質管理と合理 化が追及され無駄な能力は一切省かれる。様々な可能性を封じた静止的な世界、

つまり「死の世界」であると小野は述べる。

まさに、このすばらしい新世界では、命がモノとして取り扱われている。近

(23)

年問題視されている、男女の産み分けや中絶問題、遺伝子操作や遺伝子選別、

精子銀行や細胞の冷凍保存などを想起させる内容にもなっている。こうした生 殖科学の進歩にはどめをかけるのは、生命倫理の役割である。ヴィクターはこ の倫理観が乏しかったゆえに、生命創造を成し遂げてしまったのだとも言える。

しかし倫理観ほど、漠然としたものは無い。それは、自然か不自然かという判 断基準に拠っている。例えば、体外受精(IVF)は「不自然」なものであると 考えられていた。

When IVF was new, back in 1978 , the world was horrifi ed by it. According to polls, 85 percent of the public thought it should be banned ... . But after healthy babies were born, the firestorm died down. Today, 25 years later, IVF has led to the bir th of over one million babies worldwide. IVF has become commonplace ... From this history, it appears that what we consider to be natural depends on how experienced and comfortable we are with a reproductive method rather than on how similar that method is to sexual intercourse. (Macintosh 13 )

ケースが増えれば、それが今度は「自然」なものだと受け入れるようになる社 会がある。そもそも、何が自然なことか不自然なことかという判断は極めて感 覚的なものである。ゆえに「自然」の概念が簡単に変わっていくのだ。上記の 論文は、クローン技術も法的な干渉なしに開発を許してしまえば、体外受精の 問題と同様に数十年の間に自然なものになっていくだろうという危機感を示し ている。

私たちのこの不安定な倫理観によって、ヴィクター同様、私たちは生殖技術 という怪物に支配されていくのかもしれない。すばらしい新世界は、確かにあ りえない話ではあるが、それと似た状況が実際に生まれつつあるのも確かであ る。ひとつ気になっているインタビュー記事を紹介したい。それは、代理母出 産によって生まれたある子どもにインタビューをした大野和基の言葉である。

取りあえず、一生懸命聞いて、顔の表情やら、いわゆる行間を読みながら、

きくと「ああ、これはもう苦しい」と本人は思っていることが分かります。本

音は、こうやって生まれたくなかったと言いたかったと思います。でも言えな

(24)

かったのでしょう。隣に座っている母親が、イエローカード出したりしますか ら、本音は言える状態ではありません。でも、もし、本当に純粋なかたちでイ ンタビューしたら、「こうやって生まれたくなかった」と、はっきり言ったと 思います。(大野 83)

これを読んで私は、 『フランケンシュタイン』の題辞である『失楽園』 ( Paradise Lost )のアダム(Adam)の言葉を思い出した。

Did I request thee, Maker, from my clay To mould me man? Did I solicit thee

From darkness to promote me? ̶ (Shelley 1)

代理母出産によって生まれてきたその子どもは、自分の生まれた境遇について 苦しんでいる。生殖科学技術が生み出すこうした現実にきちんと向き合い、ど のように技術を開発し使っていくのかを考え議論していくことが今後ますます 必要になってくるだろう。

また見過ごしてはならないのは、以下の点である。「ジュネーブの判事に一 部を告白したときには、ありえない夢物語だと笑われたので、ヴィクターは素 人に説明するのは不可能と考えてしまった…専門家でないと、専門家のアイデ アの良し悪しも誤謬も見抜けない、というところに、現代の科学技術がもつ厄 介さがある。」(小野、『コンプレックス』、208-09)自然科学は極めて専門的な 分野であるゆえに、素人に開かれていないのである。だから怪物が潜んでいる ことに気付けない。こうしたことを受けてか、現在アメリカでは、科学者免許 制度の是非が議論されているようだ。免許という資格によって、科学者として の責任感を担わせようとする動きである。免許制度によって、ヴィクターのよ うに一人で勝手な行いをする科学者もいなくなるかもしれない。生殖科学はそ れだけ危険なものだと考えられているのだ。私たちはこの生殖技術が暴走しな いように、その行方をきちんと見守っていかなければならない。もし素人であ ることを理由に生殖科学から目を背けていると、そこに眠っている怪物は気ま ぐれに目を覚まし私たちを支配しようとするだろう。そうなってからでは遅い のである。ヴィクターの過ちを私たちは繰り返してはならない。命はモノでは ないのだ。

生殖科学は、命をモノ化する性質を持っている。それは、生を軽んじるゆえ

(25)

に、犠牲者を出す。ルセルクルは、「科学的な驚異が成功を収めるには犠牲が 必要であったということを誰が否定するであろうか」(197)と述べている。つ まり、怪物はヴィクターの野心と成功のための犠牲者なのである。ヴィクター は死体を材料と考えることで、命をモノのように扱っていた。これを読んだ私 たちは、ヴィクターが異常だと考えるだろう。しかし私たちの社会はこの異常 によって成り立っている。例えば、2011 年度全米映画トップテンに入った映 画(米タイム誌)に『猿の惑星:創世記』 ( Rise of the Planet of the Apes )がある。

これはアルツハイマーの新薬をつくるために、野生のチンパンジーを実験体に 使った結果、そのチンパンジーたちが知能を身につけ人類に逆襲するという話 である。映画の中では、新薬開発と言う商業目的のために、何頭ものチンパン ジーが犠牲となる。物語の終盤、新薬によって生まれてしまったウイルスが全 世界を破滅に導く。(こうして地球は猿の惑星となるのだ。)この映画は専門家 の目から見ても、決してありえない話ではないとされている。映画に見られる ように、私たちは膨大な数の動物実験を世界中で行っている。猿の遺伝子を操 作したり(猿で出来るということは人間でも出来るということを表す)、例え ばペット商業では遺伝子操作によってミックス犬を作ったりしている。それは、

人間のために生殖技術を応用して動物の生を犠牲にすることである。このよう に動物の命を粗末にすることに平気でいる社会には警戒が必要である。

興味深いのは、リーダーのチンパンジーの名前がシーザー(Caesar)であ ることだ。それはシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』( Julius Caesar ) からとられた名である。この名から私は cease という英単語を連想する。名付 け親の新薬開発者はアルツハイマーという病に終止( cease )符を打つ英雄に チンパンジーをなぞらえたのではないか。しかし、その結果ウイルスが生まれ 人類が死滅し(cease)、抗体をもつ猿たちが生き残る。病気をなくそうとして、

人間が亡くなるという悲劇である。皮肉なことに、シーザーは人類の英雄では なく、猿の世界の英雄となる。シーザーは、『フランケンシュタイン』の怪物 に極めてよく似ている。シーザーは手話で人間とコミュニケーションをする。

近親な人間を愛していたが、力をコントロールできないゆえに猿の監獄へ送ら れる。そして監獄者から虐げられることに対して怒り復讐を決意する。賽は投 げられた、と。

シーザーや『フランケンシュタイン』の怪物が、人類の進歩のためにたくさ

んの命を犠牲にしている私たちに対し、いつどこで怪物化し報復してくるかわ

からない。彼らは人類の歪んだ欲望の体現者である。私たちは自らの欲望に破

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