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ネ ス の 頸

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Academic year: 2022

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(1)ホロ フ ェ. ネスの頸. 千. 葉 文. 夫. 持ちがわれわれの側にあるからであろう︒カイヨワもまたアンド. レ・マッソン︑ジョルジュ・バタイユ︑ミシェル・レリス︑さらに ?︺ 付け加えるならばアルベルト・ジャコメッティなどと同じく︑一九. ルセウスとメドゥーサ︑ダヴィデとゴリアテなど︑斬首の主題に緒. おいて︑サロメと洗礼者ヨハネ︑ユディットとホロフェルネス︑ペ. ロジェ・カイヨワは一九六〇年代半ばに刊行された幻想絵画論に. 象づけるこの論考があくまでも怜側な研究論文という姿をとって書. れてはいなかったにちがいない︒若き著者の博覧強記ぶりを強く印. 論考﹁かまきり﹂は︑おそらくそのような体験と無縁な地点で菩か. らしたことがあったはずである︒﹃神話と人間﹄に収録されている. 三〇年代のある時点において︑斬首の主題に関係する危機に身をさ. びついた旧約聖書の登場人物もしくは古代の神話的存在がルネサン. かれているとしても︑この同じ著者には︑それに先だって書かれた. ^2︺. これらの主題がパラッツォ・ヴェッキオの壁を飾り立てることに. ︵4︶. 勢コンプレックスの痕跡をより明確に残すレシを書き記す試みがあ. った︒理論化作業と物語的要素の導入という性格の異なる書法のあ. われわれはもう一度一九三〇年代の熱い世界に戻らなければなら. 偶然ではないとすれば︑いかなる必然性が背後にあるというのか︑. い︒危険な地点を前にして︑まるで踵を返すようにして話題を転じ. ない︒そこにおいて斬首の主題が繰り返し浮かび上がり︑イメージ. いだの揺れはそもそも何を意味していたのか︒. る幻想絵画論の著者の語りぶりにいささかもどかしさを感じるとす. 四一一一. とテクストが絡み合う場でひとつの重要な局面をかたちづくるのは︑ ホロフェルネスの頸. るならば︑冷ややかな分析のまなざし以上のものをそこに求める気. その先もう一歩踏み込んで語ろうとする姿勢はそこには認められな. なったのは単なる偶然の緒果ではないと述べるに到るのだが︑仮に. ﹃精神の必然性﹄が示すように︑白伝的要素を織り込みながら︑去. ス期の絵に繰り返し描かれる事実に言及している︒さらに続けて︑. 目與具ε篶=σq7Eω窒. →︶. ○冊=①ωo目︸o凹目ω−印=巴目oωo目けo−Eω9印目o⑭而ω0E①τ蜆. レ フ.

(2) カイヨワにならって言うならば︑偶然の緒果だとは思われないので. ムの規則﹄第二巻で語られていたわけであるが︑そのような状態の. 戻ったレリスが極度の神経衰弱の状態に陥ったことはすでに﹃ゲー. るかもしれない︒アフリカヘの民族誌学の調査の旅を終えてパリに. 四四. ある︒すでにわれわれはバタイユおよびマッソンの二人の名に緒び ^5︺ ついたアセファル像の成立過程をたどり直してみたわけだが︑いま. 神分析︑民族誌学など︑まさしく二十世紀固有の体験を次々と潜り. なかで﹃成熟の年齢﹄の著者は︑まるで地下世界に潜り込むように. ミシェル・レリスを読むわれわれは︑切り落とされた頸が転がる. 抜けながら︑レリスは独自の書法を発見する︒われわれはこの書法. は︑これと重なり合いながら独自な展開を見せるもうひとつ別の例. 光景をいたるところに目撃することになるだろう︒そのもっとも有. の発見の瞬間︑その現在時に立ち戻りつつ︑﹃成熟の年齢﹄という. して一人称の世界の探索を始めるのである︒シュルレアリスム︑精. 名な例は︑﹃成熟の年齢﹄にあって︑ルーカス・クラナッハの絵を. 書物︑あるいは折り重なるテクストの地層に見え隠れする力線のあ. に目を向けよう︒. 出発点としてルクレティア︑ユディット︑ホロフェルネスの三人の. りようを想像してみなくてはならない︒. として生きる道を歩み始めるわけだが︑その一方で一人称の世界に. 運動から離れ︑ダカール ジプチ調査旅行を契機として民族誌学者. 〇年代半ばにかけての数年間の時期のレリスは︑シュルレアリスム. スの軌跡はそれとは対蹄的なものに見える︒一九二〇年代末から三. の回路を消し去りながら理論構築へと向かったのだとすれば︑レリ. かれていたと考えることもできるだろう︒すでに﹃成熟の年齢﹄に. 年代とは︑いわば長く伸びるこの書物の影の支配のもとにつねにお. 歳月が経過したことになるわけであり︑レリスにとっての一九三〇. ない︒緒果的に︑第一稿に相当する部分が書かれてからほぼ十年の. 物の最終的な刊行は︑さらに遅れて一九三九年六月を待たねばなら. マルローに原稿を手渡すのは一九三五年十二月のことであるが︑書. −一九三五年十一月なる日付が記されている︒レリスがアンドレ・. ﹃成熟の年齢﹄の末尾には︑執筆の時期を示す一九三〇年十二月. ◆一九三〇年十二月. 形象が呼び出される瞬間だといえよう︒これらの形象を導きの糸と して︑著者はさらにオペラの舞台の記憶を潮り︑リーズ叔母なる親 戚の女性が舞台で演じたヒロインたち︑すなわちサロメ︑カルメン︑. エレクトラ︑トスカなどいわゆる﹁宿命の女﹂の像に重なり合う形 ^6︺. 深く潜り込む︒ここで﹃成熟の年齢﹄において語られる﹁古代﹂へ. は︑この書物自体の起源に触れる記述が含まれていたが︑今日では. 象の数々をテクストの舞台に召喚する︒カイヨワの場合︑自己言及. の偏愛を思い起こすならば︑たとえば﹃グラディヴァ﹄の主人公が. ジャン・ジャマンによって刊行された﹃日記﹄をはじめとして︑書. ?︺. そうであるような考古学者にも似た姿で︑と付け加えることができ.

(3) てバタイユの存在は︑マッソンのそれと並ぶ大きな意味合いをもっ. ればならない︒﹁ドキュマン﹂誌の刊行が打ち切られる一九三〇年. 九三四−五年という二つの時期にはっきりと分かれていると見なけ. カール・ジブチ調査旅行の前と後︑すなわち一九二九−三〇年と一. 年間にわたって持続的に執筆がなされたというのではなくて︑ダ. の双善といえば︑バタイユがロード・オーシュなる怪しげな筆名の. り物とした秘密出版の双書のために何か原稿を書いてくれないかと i︺ バタイユから依頼されたことにすべては始まると述べている︒際物. いて︑レリスは﹃成熟の年齢﹄の成立に触れ︑エロティシズムを売. 一九六八年一月︑ポール・シャヴァスとのラジオ放送の対談にお. ^10︶. 物の成立過程をさらに詳細に浮かび上がらせる資料が数多く存在し. ていたことは改めて強調するまでもない︒. 十二月︑﹁ルクレティア︑ユディット︑ホロフェルネス﹂と題され. もとに原稿を菩き上げ︑マッソンの挿絵をともなって出版された. ^呂︺. ている︒執筆の時期に関してさらに付け加えるならば︑実際には五. た第一稿に相当する草稿が杳かれるが︑発表されぬまま引き出しの. で結ばれたこの二つの日付の意味にほからならない︒われわれはま. 物の菩物の完成に向けて新たな通路を探り当てる︒それこそ緒合線. えてパリに戻ったレリスは︑やがてこの草稿を取り出し︑今度は杳. のもとに菩き始めるというきっかけをつくったのはバタイユだった. つものであるわけだが︑少なくとも白己に関する書物をエロスの相. 球課﹄を色濃く染め上げる過激なファンタスムとは別種の響きをも. 者自身のξ二異冨=ωに関係する告白の部分︑それはもちろん﹃眼. ﹃眼球謹﹄がただちに思い浮かぶ︒﹃成熟の年齢﹄の第一稿をなす著. ず一九三〇年十二月の時点での発見と挫折がどのような体験であっ. ということになる︒. なかにしまいこまれる︒一九三三年一月アフリカヘの調査旅行を終. たのかという点をさらに見てゆかねばならない︒. りがあり︑これもまた書物の起源に関係している︒. ﹃成熟の年齢﹄には︑クラナッハの絵から受けた衝撃を語るくだ. 書物の末尾に記された日付とともに︑現行版の扉に記された﹁こ ︵9︺ の菩物の起源であるジョジュル・バタイユヘ﹂なる献辞の語句も︑ いかなる状況のもとにこの菩物が杳き始められたのかという反省へ. 九二九年に出されたアンドレ・ブルトン攻撃の文書﹁死骸﹂︑それ. ドレスデン絵画美術館にあるクラナッハの作品︵さらに言うな. 洗礼者聖ヨハネの斬首の写真を探していたところーわたしは. 一九三〇年秋の初め−−自分が協力していた芸術雑誌のために. にまた﹁ドキュマン﹂誌から一九三〇年代末の﹁祉会学研究会﹂の. らば︑よく知られた作品である一の複製写真を偶然に目にする. とわれわれを誘うものだ︒二人の出会いは一九二四年に湖るが︑一. 活動に到るまで−﹁秘密緒杜アセファル﹂および﹁社会学研究. ことがあった︒ルクレティアとユディットが対になって配され. 四五. 会﹂などの運動をめぐる離反の過程をも含めてLレリスにとっ ホロフェルネスの頸.

(4) た裸体画なのだが︑わたしが衝撃を受けたのは︑この画家の. わたしにとっては完全に異様なまでの1−官能性だ. ﹁巧みで酒脱な﹂特性であるというよりは︑この二人の女性像 を彩る. 四六. マッソンあるいはバタイユの名と緒びついた荒々しい表現とは別な. 地点に生成するものであったことが理解されるはずである︒. ところでレリスが一九二九年から三〇年にかけて﹁ドキュマン﹂. 誌に関係したこの時期は︑同時にアドリアン・ボレル博士による精. 触れられていた︒この本の杳き手はクラナッハ描く二重の女性像が. った︒. ^u︶. ここに言及されている﹁芸術雑誌﹂とは﹁ドキュマン﹂誌のこと. 投げかける光のもとに明るみに出される秘密があったと語った後で︑. 神分析治療を受けた時期でもあり︑その事実は﹃成熟の年齢﹄でも. であると思われるが︑実際にはこの雑誌のどの号にもクラナッハの. 次のように続ける︒. ^13︶. 絵の図版は掲載されていない︒ルクレティアとユディットを描く裸. 美術館と媚家を等式で緒ぶという︑これもまたレリス独自の視点が. 著者独自の二重性の主題がはっきりとあらわれている︒さらにまた. 重の像としてこの二つの形象を重ね合わせて見せるその手つきには︑. り隙を見て男の頸を切り落とすユダの娘を配し︑いささか強引に二. じて自害する女︑もう一方の極には敵将ホロフェルネスの天幕に入. の地位を得ることになるのだが︑一方の極には凌辱されたことを恥. 数々を縫い合わせる原理を導き出すために必要不可欠な図像として. て表現するだけではなく︑この本のなかで断片的に語られる回想の. れてきたこの絵は︑レリスにおけるイメージの魅惑と不安を凝縮し. 柄を清算することにあったーとして︑それに続いて︑回想の. 表現することで︑自分がその重みに苦しんでいるさまざまな事. まずはクラナッハの絵にもとづく単純な告白−その目的は︑. し方なくこれを受けざるをえなかった︒これをきっかけとして︑. のを嫌悪していたにもかかわらず︑わたしは内心の苦痛から致. とであり︑肉体の病気以外のものでも治すと主張する一切のも. たのだが︑それは精神分析治療が終わりに近づいていた頃のこ. けていた. いうべきだろうが︑自分はある寓意的な意味を彼女らに緒びつ. 何年か前のことだが︑この二人の人物. 体画︑すなわち永らく﹃成熟の年齢﹄の扉に口絵写真として掲げら. 示されているくだりを読むならば︑少なくともこの本の書き手に. 要約︑つまりわたしの生活の様相のすべてが完全に見渡せるパ. ・﹂うという考えが生れたのである︒. ^15︶. の姿を見て︑わたしはひどく心動かされてしまつ. おそらく恋意的にと. とってのエロティシズムとは︑いかに主題が血膿いものであるとし. ノラマ的眺望として︑ここに見られるようなかたちで書いてゆ. ^M︶. ても︑まるでそのことを知らぬかのように古典的ポーズをとってた たずむ裸像の冷ややかなイメージのうちに見出されるものであり︑.

(5) 自身もボレルによる﹁分析治療﹂を受けたことはすでによく知られ. を受けるように彼に勧めたのはバタイユであったという︒バタイユ. い︑十月二十八日には分析治療が始まる︒ボレルに会って分析治療. 五日付の記述においてのことである︒レリスは翌九月六日に彼に会. ボレルの名が﹃日記﹄にはじめてあらわれるのは一九二九年九月. るをえない︒. の年齢﹄にはやはりアドリアン・ボレルの影がつきまとうといわざ. 気になったのは分析治療がきっかけになってのことだった︒﹃成熟. 談によれば︑引き出しのなかに眠っていた第一稿を再び取り上げる. たことが記されているのである︒ポール・シャヴァスとのラジオ対. 六月二十九日の記述にまた登場する︒そこでは分析治療が再開され. を振り返って見る際に︑エディプス・コンプレックスなる観念を表. たというわけである︒さらにレリスは後年みずから﹃成熟の年齢﹄. つねに締め切りに遅れるという状態が続くのを見かねてのことだっ. ﹁ドキュマン﹂誌のためのレリスの原稿がなかなかできあがらず︑. なものだったと語っている︒バタイユが彼に分析治療を勧めたのは︑. 調し︑そもそもこの﹁分析治療﹂の話はそのなりゆきからして滑稽. りも︑告白によってカタルシスをえるという側面にあったことを強. つつ︑その本質的な役割がコンプレックスの分析そのものというよ. はジャン・シュステルとの対談の際に︑この﹁分析治療﹂を回想し. いて︑バタイユが﹃眼球潭﹄を書くにあたって︑この人物が﹁親代 ^ ︶ わりともいうべき役割﹂をつとめたとまで述べている︒レリス自身. 有の空間に向き合うのとは別な視点をもってこの雑誌を読む−そ. め込まれることになるものだからである︒われわれはすでに善物固. 期の記憶︑それは後にほぼそのままのかたちで﹃成熟の年齢﹄には. 文章︵﹁ドキュマン﹂誌一九二九年第七号︶の冒頭で語られる幼年. ことになるのだ︒﹁アントワーヌ・カロンの一枚の絵﹂と題された. われは︑文字どおり﹃成熟の年齢﹄の誕生の最初の瞬間に立ち会う. してくれるはずである︒何よりもまずこの雑誌のぺージを繰るわれ. 探ろうとするならば︑この雑誌はそれに答えていくつも材料を提供. ことが言える︒﹃成熟の年齢﹄の起源を﹁ドキュマン﹂誌のうちに. イユになったとするならば︑レリスの場合にもある程度似たような. バタイユが﹁ドキュマン﹂誌の体験を通じてわれわれの知るバタ. ◆真実の瞬間あるいはフォト・モンタージュ. ^19︶. た事実である︒たとえばミシェル・シュリヤはそのバタイユ伝にお. に出しすぎたのがこの本の弱いところで︑救いとなるのは幼年期の. して写真映像を眺めるー可能性についていくつかの視点を提示し ^21︺. ^20︶. 回想に詩的な形態を与えることができた点だと述べるのだが︑ここ. てきたが︑ここでは﹃成熟の年齢﹄とのかかわりを念頭においてこ. 一η︶. にも︑精神分析の影響に過大な意味を読み取ろうとする傾向に対す 扁︶ る警戒心を読み取ることができるだろう︒とは言いながらも︑不思. の雑誌に掲載された文章を読み直してみよう︒いや︑レリスの文章. 四七. 議なことにポレルの名は︑これより六年後︑﹃日記﹄の一九三四年 ホロフェルネスの頸.

(6) 綿密な書誌研究において︑一九三五年に﹃成熟の年齢﹄の紹介文と. ルはおよそこのジャンルの模範的なあり方ともいえるような詳細で. 係する事柄に触れておく必要があるにちがいない︒ルイ・イヴェー. を読み直す以前に﹁ドキュマン﹂誌という雑誌そのものの性格に関. た︒そこでは何よりもまず生の素材を提示することこそが重要なの. ジユ﹂もしくは﹁フォト・モンタージュ﹂なる表現が用いられてい. トして名高いこの文章においても︑﹁シュルレアリスト的なコラー. 年齢﹄の序文として再録され︑レリス独自の文学行為のマニフェス. かれた﹁闘牛として考察された文学﹂︑すなわち現行版の﹃成熟の. 四八. して杳かれたレリスの文章を転写している︒そこで示されるのは一. だという視点が示される︒. 連のもとに考察され︑その主題との関係の上ではじめて価値を. であり︑その主題の周囲に諸要素は集められ︑この主題との関. 小見出しなるものと対応する一定の主題を定義しようとしたの. なかった︒ただ単に︑章毎の見出し︑もしくは場合によっては. ているのではない︒たしかに自分は時間的流れを顧慮には入れ. わけだが︑文字どおりの意味での自伝的な書き物が問題になっ. いものに到るまで現実に起きた何らかの出来事に対応している. に導き入れられた象徴的事実のすべては︑ほんの取るに足らな. 語られた事実のすべては実際に起った事柄であり︑書物のなか. としては︑エドガー・ボーの﹃マルジナリア﹄のある箇所をも. レ・プルトンの﹃ナジャ﹄によって切り開かれていたが︑自分. れがわたしの選択原理であった︒すでにひとつの道がアンド. ただひたすら︑こうした事実と事実だけというわけであり︑そ. けるような真実めいた事実というだけではなく︶認めぬこと︑. 排除し︑素材としては︑真の事実以外は何も︵古典的小説にお. るに小説を否定することであった︒物語への転化をことごとく. 想像をそのもとに働かせてこれを利用するのを拒むこと︑要す. やイメージの全体を生のままの状態で凝縮させるごとであって︑. 厳密に美的な見地から自分にとっての問題となったのは︑事実. ^22一. 種のフォト・モンタージュという考え方である︒. もつものとして提出されるのであって︑結果としていわばフォ. とにボードレールが着想をえたあの企てを自分なりにやり直そ. されるような自己に関する菩物を書く︑ということである︒. ^別︶. 紙片が縮れ︑燃え上がる﹂までにとことん誠実さへの配慮がな. ドレールの言い方を借りれば︑﹁焔のペンが触れるたびごとに. うと考えていたのである︒すなわち自分の心を裸にする︑ボー. ト一モンタージュにも似た事柄が問題となっているように見 ^㎎︶. える︒. この﹁フォト・モンタージュ﹂なる一語はレリスの読者にとって. はけっして目新しいものではない︒一九四五年から翌年にかけて書.

(7) ﹁闘牛として考察された文学﹂が杳かれた一九四五年から四六年. のような流れのなかから生れ出たものであるにちがいない︒. 導き出す︒﹁ピカソの近作﹂︵﹁ドキュマン﹂誌一九三〇年第二号︶. ﹁ドキュマン﹂誌にかかわった時期︑レリスは同時代の造形作晶. からプルトンまでの文学的作品への参照関係が示されているわけだ. と題されたテクストでは︑まず﹁現実﹂︵試>⊆↓吋︶なる語が大文. の時点にあって︑むしろ前面に迫り出してくるのは︑菩物の性格に. が︑ここではまず﹁フォト・モンタージュ﹂なる語がいかなる背景. 字で書き記され︑われわれの視線を否応なくそこに引き寄せること. への言及を通じて︑いわば﹁危機的現実﹂についての美学的考察を. をもつのかという点にさらに注意の眼を向けよう︒この表現に単な. になる︒. ついての問いであり︑それを補足するかのようにしてボードレール. る比嚥にとどまらぬ意味を見出す必要があると思われるのである︒. ものだからである︒﹁ドキュマン﹂誌一九三〇年第四号はエイゼン. メージの思いがけない効果という点にその最大の特色が見出される. 映像の氾濫︑拡大写真とモンタージュの原理を利用してなされるイ. ことを思い出さねばならない︒この雑誌は︑紙面を覆い尽くす写真. モンタージュを問題化したのは﹁ドキュマン﹂誌そのものであった. への要請である︒ここでわれわれは︑何よりも生の素材を︑そして. シュルレアリスム運動を経た上で生じる新たな﹁レアリテ﹂の獲得. され︑そのなかに入り込むことができるようになる︒そのとき. マであったりすることをやめて︑その毛穴のすべてが照らし出. ものは︑漢然とした関係だったり︑遠くにある諸現象のパノラ. うにしてこれをおこなうことなのである︒こうして現実的なる. をさらに近くに︑本当の意味で触れるほど近くに抱き寄せるよ. 想像しうる現実の細かな枝分かれを表現することであり︑現実. て︑それよりもはるかに重要なのは︑現実の可能性のすべて︑. ピカソにとって︑現実を再現するためだけにというのではなく. 挿入される素材︑それはドキュマンであり︑問題となっているのは. シュテインの映画﹁古きものと新しきもの﹂を取り上げ︑映画のス. はじめて︑そして実際に一個の﹁現実﹂となるのである︒. ︵26︺. チール写真を見開きぺージ全面にわたって配しているが︑それに加. えて︑この映画の紹介文として杳かれたロベール・デスノスの文章. る現実の把握だというべきではないだろうか︒さらにこの問題は︑. ここに認められるのは︑あたかもクローズアップの効果を思わせ. いるのだとして︑モンタージュ技法を媒介とする新たなレアリスム. どのような瞬間を選び取るのかということに関係してこざるをえな. は﹁具体物に︑触知可能なものに変えること﹂こそがいま問われて. の追求への共感を語っている︒レリスの語る﹁フォト・モンター. い︒﹁ピカソの近作﹂に先立って書かれたジャコメッティ論︵﹁ド. ^肪︶. 四九. ジュ﹂の技法あるいは﹁レアリスムヘの加担﹂という考えもまたそ ホロフェルネスの頸.

(8) キュマン﹂誌一九二九年第四号︶は︑およそこの画家・彫刻家に捧. 五〇. まず最初に現実の突出というべき事柄がある︒素材をどのように. 嘉︺. 機の瞬間に匹敵するような等価物を生み出すことこそが芸術の役目. 繋ぎ合わせるのか︑あるいはまたどのような説話性を仮構するのか. だけが重要なのだ︒. であらねばらぬという︑後の﹃闘牛鑑﹄で展開される﹁真実の. という問題はその後にやってくる︒こうしてピカソあるいはジャコ. げられた文章としては最初の日付をもつものであるが︑そこには危. 瞬間﹂をめぐる思考へとつながる認識がすでに示されていると見る. メッティの同時代の仕事を見つめながら︑レリスは﹁危機的な現. 弄︺. ことができる︒. うに思われる瞬間がそれだ︒そのとき外部世界はみずから体を. .らそれに向かって投げかける呼びかけに突如として応答するよ. けが重要だという瞬間がある︒外部世界が︑われわれが内部か. 危機的発作と呼ぶことが可能であり︑人生にあってただそれだ. 身もたびたび引く名である︒ただしアドリエンヌ・モニエ宛の手紙. 引く誘惑に駆られるざるをえない︒シュオッブはたしかにレリス自. は︑ここでもうひとつの参照点としてマルセル・シュオッブの名を. れた観念であるように見えるのだが︑先の引用部分を読むわれわれ. それはたしかに同時代的な視覚イメージとの接触によって生み出さ. 実﹂からなる強度の体験をみずからの詩法の核に据えることになる︒. ひらき︑われわれの心とこの外部世界のあいだに突然の交感が. ︑. 生じるのだ︒白分の体験においても︑そのような次元に位置す. に認められるように﹃モネルの書﹄の著者としてのその名が引かれ 秀︶ ている場合が多いのだが︑ここでむしろ関係すると思われるのは︑. ︑. る記憶がいくつかある︒そして表面上は取るに足らぬ出来事︑. ﹃架空の伝記﹄︵一八九六年刊︶の序文において伝記作者の技につい. ︑. 象徴的な意味合いもなく︑あえて無償であると言ってもよいよ. ての言及がなされるくだりである︒﹁芸術は一般観念の対極にあり︑. ︑. うな出来事にすべては関係している︒街灯に照らし出されたモ. 個別を記述するだけであり︑唯一なる存在を欲望するだけである﹂. ︑. ンマルトルの街路で︑ブラック・バーズ一座のひとりの黒人女. とシュオップは言う︒﹃明るい部屋﹄のロラン・バルトならば﹁唯. ^30︶. 性が両手に濡れた薔薇をもっている︒わたしが甲板に乗る客船. 唄の切れ端︑巨大なトカゲの一種なのだろうが奇妙な動物にギ. る個別を記述することができるのかという問題であり︑要するに伝. 述べれば︑ここで主張されるのは︑いかにして一般観念の対極にあ. 一の存在に関する不可能なる学﹂と言うところだろう︒緒論を先に. リシアの廃櫨で出会ったこと⁝⁝詩はこのような﹁発作的危. 記作者にとっての課題とは︑一個の生をほかのすべての生とは違っ. の船体がゆっくりと埠頭から離れてゆく︒たまたま口ずさむ小. 機﹂からしか生み出しえない︒これと同じ価値を差し出す作品.

(9) だという点なのである︒. たものに変える細部︑もしくは特異点といったものを掴み取ること. き合わせて読み進めるなかで︑われわれは︑以前からもっていたあ. す資料を手際よくまとめているが︑おそらくそれらのテクストを突. ⁝⁝偉人たちが抱いた思想は人類の共有財産である︒ただし. あり︑っねに伸び縮みしながら︑接ぎ木されてゆく老o﹃訂巨肩o.. ち﹃成熟の年齢Lがドキュマンの集積から成る完結されざる書物で. るひとつの印象がますます強まるのを感じるにちがいない︒すなわ. 個々の人間として見れば︑本当にあったのは奇矯を言動でしか. ︒︒篶ωωのありようをそのままとどめる書物であるという印象である︒. たしかに危機の瞬間のフラッシュ映像を獲得しただけでは一冊の書. ない︒あるひとりの人間をその常軌を逸した点のすべてにわ たって記述するような書物は日本の版画. 物をなすに十分ではなく︑新たなナラティヴィテの探求が必要とな. そこでは一日のあ. る特定の時間帯に小さな毛虫がつねに見かけられることになる. その距離を埋めるための時間が予想以上にかかったということを告. るにちがいない︒﹃成熟の年齢﹄の末尾に記された二つの日付は︑. 歴史はさまざまなかたちで存在しても︑こうした事柄に関し. げているように思われる︒﹃成熟の年齢﹄がいかなるジャンルに属. −のような芸術作晶となるであろう︒. ては多くを語らぬままでいる︒証言が提供する素材の粗雑な集. する書き物なのかを定義しようとする試みは︑そのような点につい. ての反省を欠落させたままであるかぎり︑多かれ少なかれ不毛な印. 積にあって︑特異で模倣不可能な亀裂はさほど多くは存在し ^訓︺. イユは﹁ドキュマン﹂誌一九三〇年第二号に掲載された論考﹁自然. についての思考を引き継ぐものであるとは言えないだろうか︒バタ. レリスが語る﹁フォト・モンタージュ﹂とは︑このような特異点. 壼︶ ﹁自画像﹂としてこれを考えようとする試みが ある︒もちろんこれ. に︑継起的でクロノロジックな物語の展開の論理から解放された. る試みがあり︑また他方︑たとえばミシェル・ポージュールのよう. ヌのように自伝契約なる原理のなかに何とかこれを取り込もうとす. ない︒. の逸脱﹂において︑この特異点についての思考をさらに極限にまで. らの論者が多くの示唆をわれわれに与えてくれたことは確かである. 象をわれわれに与えずにはおかない︒一方にはフィリップ・ルジユ. 押し進め︑一般的法則など存在せずに︑すべてが特異点に変わるア. のだが︑いまは﹃成熟の年齢Lから﹃ゲームの規則﹄四部作へ到る. き放して考える必要があるにちがいないのだ︒. 五一. 独自の展開を︑いわゆる自伝にまとわりつく古典的な問題群から解. ン フォルムな世界を 想 像 す る ︒. このような新たな現実の把握から生れるのは開かれた書物の可能 性である︒カトリーヌ・モーボンは﹃成熟の年齢﹄の成立過程を示 ホロフェルネスの頸.

(10) キュマン﹂誌のために書いた文章のなかでは少なくとも﹁アント. 斬首の主題の強追のもとにあるレリスを想像するとき︑彼が﹁ド. ◆虐殺十エロス. に見聞きした事故や傷害にかかわる血腫い記憶へと連想の糸が手繰. る書き出し︑そしてこれを受けて旧約聖書の物語の記憶から︑現実. もっとも昔の記憶のひとつは以下のシーンに関係している﹂に始ま. ず語り始めるのである︒﹁わたしがなおも覚えている子供時代の. 五二. ワーヌ・カロンの一枚の絵﹂︵﹁ドキュマン﹂誌一九二九年十二月第. り寄せられる部分は︑後に若干の菩き直しを経て﹃成熟の年齢﹄の. ﹁ホロフェルネスの頭﹂と題する一章の冒頭部分に用いられること. 七号︶および﹁死者の頭﹂︵﹁ドキュマン﹂誌一九三〇年第八号︶な. る二つのテクストに触れておかねばならない︒. マン﹂誌に掲載されたすべての写真のなかでもとくに印象的なもの. び三枚の拡大写真が掲載されており︑拡大写真のひとつは﹁ドキュ. ン描く﹁古代ローマの粛清における虐殺﹂の全体図の複製写真およ. 出会っていることになる︒雑誌の紙面にはテクストに平行してカロ. レリスはそれ以前にこのフォンテーヌブロー派の奇想の画家の絵に. ラナッハの絵を見たとする﹃成熟の年齢﹄の記述にしたがうならば︑. が︑ここにおいてもまた絵が鏡として機能する︒一九三〇年秋にク. る意味で﹃成熟の年齢﹄の最初の稿とすることもできるわけである. ﹁血まみれの頭部﹂の幻覚を見る挿話を語る中程の部分は︑ボダン. づき︑シャルル九世の末期︑そしてまた瀕死の王がコリニー提督の. め込むのだ︒冒頭部分で語られる書き手白身の幼年時代の回想につ. ぐるしく変化する︒書き手はいくつか種類の異なる断章をそこには. である︒比較的短いこのテクストのなかで︑レリスの語り口はめま. ストを接ぎ木し︑繋ぎ合わせ︑編集する技法としてのモンタージュ. 係している︒危機的現実の瞬間的映像という意味ではなくて︑テク. 呼べるものがあるとすれば︑それもまたモンタージュなるものに関. 残酷さの主題とは別に︑いまここに生れつつあるレリス的手法と. になる︒. だ︒たったいま頸が切り落とされたばかりの死体が横たわり︑兜を. の記述にもとづくエリファス・レヴィの著書からの古めかしい文章. すでに述べたように﹁アントワーヌ・カロンの一枚の絵﹂は︑あ. かぶった兵士がその上に屈み込み︑切り開かれた胸部に手を差し入. の引用であり︑最後はこれもまたまったく次元の異なるレリス自身. はいっても︑レリスの語り口はきわめて逸脱的なものだ︒ここでの. 絵は︑書くという作業を可能にするためのひとつの契機となる︒と. たしかにここにはイメージの力を借りて書き始める人間がいる︒. アとユディット﹂﹁ホロフェルネスの愛﹂と題された各章の始まり. ﹁ルクレティア﹂﹁ユディット﹂﹁ホロフェルネスの頭﹂﹁ルクレティ. にして書かれていたかを思い出してみるがよい︒﹁悲劇﹂﹁古代﹂. の詩的テクストを置いて終わっている︒﹃成熟の年齢﹄がどのよう. ^聾. れようとしている︒. 彼は絵そのものについてではなくて︑みずからの幼年期の体験をま.

(11) ヴァル︵﹃幻視者たち﹄︶︑﹃新図解入りラルース﹄などからの引用が︑. の部分には︑ネルヴァル訳によるゲーテ︵﹃ファウスト﹄︶︑ネル. 限定せざるをえない︒この場合の変装とは︑とくに顔をマスクで覆. い︒ここでは論点を変装とエロティシズムのかかわりという主題に. 含むものであるのだが︑いまこれらの点について詳述する余裕はな. なるものが生み出す独特の魅惑︑あるいはフェティシズムの魅惑と. そしてまた夢の記述︑日記の断片などが︑まるでドキュマンを提示. テクストは残るが︑奇妙なことに絵の方は消え去る︒﹃成熟の年. いったものについての考察が︑まさに頭部に関係しており︑﹁頭部. う行為に関係するものであり︑マスクで顔を覆った女から発せられ. 齢﹄にあってまず消し去られるのは︑まさしくこのアントワーヌ.. を潰された﹂という表現に見られるように︑ほとんど斬首の主題に. するようにして転写されていたではないか︒主題としての斬首の扱. カロンの絵への参照関係だといわなければならない︒そのとき消し. 近いところで語られているという点こそが重要なのである︒そして. る不可思議な魔力が探求ル対象となる︒といっても︑ここに単なる. 去られるのは︑﹁ドキュマン﹂誌の記憶ではないのか︒アントワー. また全体を要約する部分︑全体を凝縮して象徴的にあるいは換瞼的. いもさることながら︑それと同時にレベルの異なるテクストをその. ヌ・カロンヘの言及は︑錬金術への言及とともに︑それ以後のレリ. にこれを表現する部分という発想は︑まさに﹃オランピアの頸のリ. 性的倒錯の一現象︑あるいは特殊な性的嗜好についての考察を見る. スの著作活動から抜け落ちる部分となる︒ところでこの﹁アント. ボン﹄に到るまで一貫してレリスの詩法の中核をなす要素となるも. まま差し挟んでゆくモンタージュの手法は︑この自己についての書. ワーヌ・カロンの一枚の絵﹂は錬金術にまつわるこの時代のレリス. のであるといってよい︒マネ描くオランピアの頸に結ばれた細いリ. だけですませることはできない︒われわれの文脈においては︑奇異. の関心を反映しているが︑エロティシズムに触れる要素はほとんど. ボンがその裸身をさらに浮き立たせるように︑マスクをつけること. 物の際立った特徴をなす部分なのだ︒. そこには認められないといってよい︒﹁ドキュマン﹂誌のために書. で︑かえって裸身が強調されると述べられるとき︑危機的現実の把. しようとするレリスの試みは新たなエロスの彩りをえることになる︒. 握に始まって︑生の素材︑特異な細部に迫り︑これを拡大して提示. かれた記事のなかで︑これに関係するのは﹁死者の頭﹂である︒. このテクストは﹃魔術の島﹄の著者W・E・シーブルックとの会 見の報告をもって始められている︒シーブルックはレリスが民族誌. そしてまた仮面によって︑部屋の暗がりに︑あるいは井戸の周. 学に接近する際に少なからぬ影響を与えた人物であり︑またこのと. きの会見で披露されるアラビアの修行僧の挿話もじつは﹁白己に関. 囲に通じる怪しげな道に突如として浮かび上がる肉体の幻のよ. 五三. する書物﹂の成立過程をたどる上で見過ごすことのできない内容を ホロフェルネスの頸.

(12) さらに謎めいたものになり︑ほとんど無名のものとなる︒なぜ. うにして︑女はさらに不安をわれわれに喚起するものとなり︑. 者は︑彼女の前に一個の神の顔となり変わった自分の顔をさら. 切り落とされた女. ように覆面で顔を隠した女. 五四. ならその顔が消し去られているからであって︑皮革もしくは金. して︑まっすぐと立って向かい合い︑この女の肉体を崇めるの. クラナッハの絵の発見は一九三〇年秋のことだったという︒﹁ド. そしてさらにまた捉えがたいものとなり︑あたかも不可解で魅 ^珊︶ 惑的で謎めいた物自体のごとき何かにしだいに変わってゆく︒. なっているのだが︑また顔が見えぬことでさらにまた真実の︑. であり︑その肉体は顔が見えぬことでなおさらみごとなものと. がすっくと立つ︒そしてその相手となる. もしくは︑女王のように︑頸を. 属の硬い頸伽︑女を部分的に隠す厳格な幾何学によって︑気を 壼︶ 狂わせるような一般性を獲得する︒. この引用部分にあって︑女の形容として︑不安を喚起し︑謎めい たものになる生言われるときの二語︑すなわちヨε尋曽訂と≡壱−. トによるフロイトの︐不気味なるもの﹄が仏訳されるのは一九⁝二. キュマン﹂誌最終号に掲載されることになったこの論考が書かれた. 奪巨竃なる形容詞を見過ごすことはできない︒マリー・ボナバル. 年のことであるが︑仏訳のタイトル一.ヨ︷季昌8等彗胴慧なる表. のもほぼ同時期のことではないかと思われる︒バタイユにおける. 彼独自の逃亡︵雪邑昌︶の主題を頭部の不在に緒びつける︒ただ︑. 現が﹁ドキュマン﹂誌︑﹁ミノトール﹂誌などの雑誌に漂う雰囲気. ばにかけて書かれたレリスのテクストもまたそのような空気に鋭く. 行き着く先はきわめて危険な地点である︒それはおそらく死という. ﹁脱我﹂︵異募ω︶の主題にあたかも平行するかのように︑レリスは. 反応する︒こうしてレリスの前に姿をあらわすのは︑一九三二年の. 名の以外のなにものでもないからである︒. を要約的に表現していたとすれば︑一九二〇年代末から三〇年代半. ジャコメッティのブロンズ像﹁頸を掻き切られた女﹂のように頭部. ◆クレオパトラの死. を切り落とされた女の像である︒女がサディックな攻撃の対象とな るというだけではなく︑みずから死刑執行人となって︑これに向き. ﹃成熟の年齢﹄は彩しい数の固有名が記されるテクスト空間であ. ティアとユディットの名︑そしてこの二人と向き合いながら不均斉. 実に話者が出会った女たちがここに次々と呼び出される︒ルクレ. る︒旧約聖書︑神話︑オペラの舞台のヒロインたち︑そしてまた現. 合う相手を危険な地点に誘い出すという二重の関係が問題となって いることにわれわれは目を向けなければならない︒. ハトール牝牛H女神像のように美しく︑あたかも死刑執行人の.

(13) を最終的に支配するもっとも強力な名であり︑この本の書き手がホ. な三角形をかたちづくるホロフェルネスの名が︑このテクスト空間. つまりこの出会いは︑同時に自己と他者︑男と女︑主体と客体︑. の深い意味にきわめて正確に応じていると気づかざるをえない︒. しても︑こうした象徴どうしの出会いは︑わたしが考える自殺. 殺される者と殺す者になるということであり︑−−自己と合体. ロフェルネスに自己同一化する過程こそが︑随所で杳物自体の起源. を語りながら進められてゆくこのテクストの導きの糸であることは. する唯一の可能性を意味するのである︒. 初版の刊行後もさらに序文と巻末の注が付け加えられ︑つねに増補. という点の確認をなさねばならない︒しだいに断片が書き加えられ︑. よっては危険きわまりない未来に向かって開かれた11杳物である. もって述べられていることに注意を払おう︒そのユデイットは﹁愛. 姿を認める︒わがルクレティア︑わがユディットと所有形容詞を. 的なるもの︑すなわちルクレティアとユディットの両者の合体した. 引き続きレリスはクレオパトラのうちに彼にとっての永遠の女性. ^肪︶. 確かであるとしても︑いまは︑もうひとつの別の名クレオパトラに. のかたちで書物が膨れ上がってゆくというなりゆきもまた開かれた. 国的娼婦﹂︵5S旨君三〇邑という形容が暗示するように︑純潔. 場合に. 書物という形容を連想させる根拠のひとつであるが︑ここで見よう. を守り通す旧約聖杳の娘ではなく︑ホロフェルネスと交わった後で. 注意を向けることによって︑ここにあるのが開かれた. とするのは︑それとは違った内容をもつ事柄である︒一九四六年に. その頸を打ち落とす者の名である︒. トという二人のヒロインを彼の心のうちで結合させ︑向き合う. クラナッハが貞淑な女性ルクレティアと愛国的な娼婦ユデイッ. 付け加えられることになった序文が語る﹁行為としての杳物﹂なる 表現をわれわれは文字どおりの意味において受け取る必要がある︒. エジプトの女王クレオパトラがいかなる状況のもとでみずから. 象徴であるはずの人の命を奪う蛇ーがあり︑またもう一方に. ていることにわたしは驚く︒つまり一方にはすぐれて男性的な. 二人のしぐさも本質的には同一のものであり︑二人にとってと. ことは誰にも許されるだろう︒同様に︑外見上は異なっている. によるのではないのか︑二枚折の絵を見ながらそう考えてみる. 一対の女性像として彼女らを表現するに到ったのは︑類推の鎖. は女性性器のごくありふれたイメージというべきもの︑すなわ. くに問題なのはエロテイックな行為のけがれを血で洗い落とす. 命を断ったのかを調べてゆくなかで︑次の二つの要素が緒合し. ち蛇が隠れる無花果があって︑その二つが結合しているのであ. ことであって︑一方は︵たぶん快楽を味わいつつ︶凌辱された. 五五. る︒そこに単なる偶然の一致以外のなにものも見ないでいると ホロフェルネスの頸.

(14) という恥を自殺によって賦い︑他方は身をまかせたという恥を 壼︶ 男の殺害によって賦ったのだと考えることもできよう︒. 五六. るに到る︒まさしくそのとき浮かび上がるのは︑属桃腺の肥大を取. り除く手術を喉に受けたときに自分自身の身の上に振り下ろされる. 引き寄せられる︒レリスは自伝ではなくて︑自己に関する書物であ. は︑白殺こそが自己との唯一の交感の可能性だとする極端を言葉に. めるだけではいかにも不十分に思われるのである︒われわれの視線. ゾヒズムが潭然一体となった悲劇的エロティシズムのありようを認. 語られることになるだろう︒しかしながら︑そこにサディズムとマ. られる話者のξ二震;=ωはホロフェルネスの愛という相のもとに. 切り落とされる者の名となる︒﹃成熟の年齢﹄の後半部で主要に語. の方へとすでにその触手を伸ばし始めているとすべきかもしれない︒. ネスの斬首に緒びつけられるこの出来事は︑さらに来るべき出来事. て述べていた︒扁桃腺の肥大を除去する手術︑すなわちホロフェル. わけではなくとも︑破滅的な未来を示唆するイメージの力を強調し. の絵﹂は結局のところ︑はっきりと来るべき事件を指し示している. れる刃物のきらめきの記憶である︒﹁アントワーヌ・カロンの一枚. 後次々と語りだされるのは︑自己と他者の身体めがけて振り降ろさ. ときに感じた痛さと︑まるで腹を引き裂かれる獣のようにぼくが発 轟︺ した叫び声とを除いては﹂何も覚えていないと話者は言う︒これ以. 現実の刃の記憶である︒﹁器具を喉のなかに押し込む急襲と︑その. り︑行為となるべき書物を語った︒われわれはその意味を︑過去の. レリスは反復する︒それとともに新たに出来事が呼び寄せられる︒. レリスのホロフェルネスは愛の行為のさなかにユデイットに頸を. 記憶を物語るばかりではなく︑書物が未来の予兆となるという点に. ないのか︒. それこそ︑ここでの﹁行為としての書物﹂の意味だというべきでは. 語り手. 見出す︒ここで﹃ゲームの規則﹄第三巻執筆中に起きたレリスの自 殺未遂事件︑あるいはこの本の中程に差し挟まれた書き手. 自身の死と再生の記録を思い起こさずにいるのはむずかしい︒﹃成. >邑忍零暮p皇F.両号三⁝;而二目Q葦§h§ミ§一8目二一3≡冨﹃旦二団. O竺=ヨ與﹃P−①①蜆一〇−岨蜆.. えるアンフォルムなオプジェであり︑まるで﹁ドキュマン﹂誌でジョル. 二年︶と題されたブロンズ像がある︒見ようによっては︑かまきりとも見. アルペルト・ジャコメッティ作になる﹁頸を掻き切られた女﹂︵一九三. 宛o胴而﹃O凹=−o尿一﹄崔h§﹃旦呂盲茗−o︸^尽苫. 雪9邑而一−岨ooo〇一p↓↓ム.. ︵1︶. 注. 熟の年齢﹄が開かれた書物だというのは︑まさに来るべき出来事を もそのなかに含み込むという特異な意味においてのことなのではな いのか︒. ﹃成熟の年齢﹄の話者はアレゴリーをもって語り︑アレゴリーを もって表象するおのれの性癖を鋭く意識しつつ︑おそらくはアレゴ. リーの皮膜を突き破ることによってしか現実とは触れ得ないと考え. 32.

(15) ジュ・パタイユあるいはジャン・バブロンなどが扱った古代のメダルから. ﹁悲劇的エロティシズム﹂という表現のもとにパタイユ的世界とレリス的. にまた︐エロティシズム﹄鐘言におけるレリスヘの言及を出発点として︑. レリスは二枚折の絵︵2冥さ亮︶としているが︑ルイ・イヴェールによ. ?鶉需蜆⊂己き冨一邑冨ω旨. フィリップ・ルジュヌはレリスのテクストについて精神分析的な解釈を. Hω.. 五七. ただし﹃日記﹄の記述を見ると︑レリスは必ずしも積極的にこの雑誌に. −O巨ωくき﹃戸Oサh声O﹄Oー. O−−﹃チ=−iO而−&而自目P↑︑艮o呂吻色一〇〇而畠=一−㊤Oo①.. 理解と︑書くという創造的行為のあいだに生じる二律背反に触れている︒. おこなった最初の研究者のひとりであるが︑コンプレックスの分析および. ︵18︶. ︵17︶一−︸oす①−ピO︸﹃︸岬−−而凹■ωOゴ畠蜆け而﹃.b茗^ミO呂§﹃雨︸−一﹁^⁝﹃﹃凹−目く與胴一﹄O.H⑩りO−OO1HO・. 分析治療以前にバタイユは﹃眼球揮﹄を書き上げていると証言している︒. ていいと恩う︒﹂これに対してレリスはジャン・シュステルとの対談で︑. なかったでしょう︒そういうやり方で解放されて初めて書きおえたと言っ. いた本︑それは精神分析を受けて︑そう︑そこから抜け出さなければ書け. Hミ.この著者は以下のバタイユの言葉を引いている︒﹁わたしが初めて書. ρ1;oざ一ω⁝遺一9§︸b自ミ§ざ§ミ艀−.萬§§o凹⁝冒彗p冨竃一〇−. ζF冨−−9ユ蜆一sえ沖一七.ムー.. 一自冨戸H⑩り㎝.. oξ︑o享きミ︷きgトミ貴b害宮冒§品ミミoミ. れば幸いである︒この点に関しては︑さらに以下の研究書が参考になる︒. ては︑拙稿﹁ミシェル・レリスの自画像﹂︵﹁散﹂第六号︶を参照して頂け. れば︑本来は独立した二枚の板絵であるという︒この二重性の問題につい. ︵14︶. ナルの文章が掲載されている︒. ﹁ミノトール﹂誌第七号にはクラナッハの絵の複製写真とモーリス.レ. ≦o﹃色−9ユμ卜.ふ篶庄.宇§ミ一〇凹≡目胃早8=og一昌司o=〇一暑−畠・竃.. 91−o巳ω4毒只S−h事︑.Oo㊤. 世界の接触点を探ることも十分可能であるにちがいない︒. 抜け出てきたような奇怪な姿をしている︒カイヨワの提唱した﹁斜線の 学﹂にならって︑彼自身の﹁かまきり論﹂とレリスの︐成熟の年齢﹄をつ. この主題を論じたものとしては以下の論考がある︒−彗﹃昌二而昌︸一・・5. なぐ線の中間にこのオプジェを置いてみる誘惑に駆られる︒ ^4︶ 置言何〇二団寝篶昌罵窒一ニロき篶﹃9蔓ま一畠言一〇易ますg豪亮篶而一・Fo蜆 ○與す訂﹃蜆O而O︸﹃oコo望1−⑩⑩庁一ご︹す9ω︸﹃o巨目蜆庁F皇向o=oo而↓目耐oo蜆ω旨Φ庄顯目蜆卜o. 拙稿﹁イコンの生成ーアセファルの出現﹂︵﹁早稲田フランス語フラン. きミ邑意乱.婁喜ロニ目き篶﹃9ミ註一旨︑§急雨§§§§一零一貝冨竃.. ︵5︶. レリスにとってのオペラ的世界にありように関しては拙稿﹁ミシェル・. ス文学論築﹂第四号︶︒. ︵6︶. レリスとオペラ﹂︵早稲田大学比較文学研究室﹁比較文学年誌﹂第二九号︶. それ以前に︑一部は﹁ルクレテイアとユディット﹂なる題のもとに﹁ム. を参照して頂けれ ば 幸 い で あ る ︒. ︵7︶. ジユール﹂誌︵一九三六年第三号︶に掲載されている︒ ︵8︶〇一9ミき二ざξ§・§§§膏卜.錯こ.宇§§こ二§ミ量身o巴一一⁝貝. ﹃成熟の年齢﹄の成立過程をたどるにあたって参考となる異稿および基本. ﹃o=o;8罵一冨竃︑この本にはカトリーヌ・モーポンによる注釈とともに︑. 的資料が収められている︒. 見当たらない︒ルイ・イヴェールは一九三〇年代末︑﹁秘密結社アセファ. ︵9︶ 一九三九年ブランシュ叢善の一冊として刊行された初版にはこの献辞が. ル﹂および﹁社会学研究会﹂などの活動をめぐり︑レリスがバタイユの路 線に違和感を覚えていたことにその説明を求めている︒O︷.Fo巨ωさ彗一 史茎oミsミ砧きζoミ︸ききhぎ;包︸こ而彗一−ざ思;一碧pH竃9暑﹄o︒・o︒⑩・. ︵10︶ たとえぱ詩集﹃癩摘﹄に収められた﹁唾を愛する者﹂^初出は﹁カイ. ェニァユ・シュッド﹂誌一九三〇年二月号︶は︑たとえバタイユヘの献辞 が記されていなかったとしても︑すでにそのタイトルからして﹁ドキュマ. ン﹂誌における二人の共同作業をただちに連想させるものであるし︑それ. ホロフェルネスの頸. 11. 12. 13 15. 16 19. 20.

(16) かかわってはいないという印象も生じる︒. H蜆・−①1. 拙稿﹁蜘蛛のように踏み潰されて﹂︵﹁ユリイカ﹂一九九七年七月号︶︒ −OEオくくO﹃戸O守10ま一.. 一饒Oサ而−−O︸﹃﹂餉一§O︷戸OO. −︸︷乱.o.⑩ω■. 一=o才g−9ユ蜆一ト.﹄寒乱.宇o⁝§ o Hムー. −︸︷軋..o.−ムN−. − ︸︑一.o.LH■. Nき;寒3⁝畠具司〇一一9雰邑ωら1竈.. oコωoΦ﹃胆﹃o−oσoく庁一H⑩oo①一p的1. ξo童F而=蜆一F:s口旦昌・言⁝昌一b⁝§ミ︸一εωo;oo︒二〇旦蜆3冨. して︑この﹁ドキュマン﹂誌のレリスの文章があげられている︒. もなされることになる︒とくに︐エロスの涙﹄では︑参考文献のひとつと. タイユの三ロスの涙﹄︑ブルトンの﹃魔術的芸術﹄などの書物において. この画家への言及は︑後にロジェ・カイヨワの﹃幻想のさなかに﹄︑バ. ↑ミミ﹃︸乱.§oミ ω^⁝自= H⑭ooo■. ︑︸−=oi而−色o目コ〇一卜雨きn︸雨目呂ざgoミo︑︸︷凸宮ハωoE−−一H⑩べ蜆一−≦μo−9︸而豊﹄﹂o目﹃一. 一白凹﹃o9ω︹7圭oσ一;雨蜆︷§o崎︷畠o亨雨μ向oμ一. H⑩ooo.o.−−o1. 宛O−固目﹄ 団凹﹃日=何閉一卜直O宇O§甲ミ︹−Oミ砧一〇凹=−O﹃庄■O−目心目−凹\O胆=−昌固﹃0/ωO自=一. ≦g而≡而三蜆一婁§§︸一3⁝⁝具冨塞ら.彗−. この場合も語られているのは︐モネルの書﹄の著者のことだった︒O戸. ;H一昌①.また︐ゲームの規則﹄第三巻にもシュオッブヘの言及があるが︑. >oユ而目目耐︸−o=目庁﹃.い§竜§守︸﹄軸卜s︸軋ミ︸一一−血﹃o自﹃o匝而﹃﹃與目opH⑩蜆↓.op. ;︸而;巴蜆一皇≧g・一〇9曽o篶事1b8§§︸クH竃⑩一昌ム一戸N8.. 牛に死を与える瞬間を意味する︒. ﹁真実の瞬間﹂すなわちこの場合の決定的瞬間とは︑闘牛の用語では牡. ζ庁ゴ2F9ユ蜆二らO二〇蜆忍篶具窃旦何コ8易0■尋一bO§⁝§δ一⑩ω9目ON一P①ム.. −︸︷﹄二七.H①. 23. 22 21 24 25 26 27. 28 29 30 31 32 33 35. 34. 36 37. ︵鎚︶. −ま﹄一一七.. 五八. −oAーここでの ﹁獣の叫び﹂ という表現はパタイユを連想させる︒.

(17)

参照

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