征 服 と シ ヴ ィ リ テ ィ
⎜
⎜ ル ネ サ ン ス 期 の ア イ ル ラン ド 統 治 論
⎜
⎜
木 村 俊 道
は じめ に 一 人 文 主義 と 帝 国
︵一
︶ 帝国 の ル ネサ ン ス
︵二
︶ マキ ァ ヴ ェッ リ にお け る帝 国 と征 服 二 ア イ ルラ ン ド の征 服 と野 蛮 三 帝 国 とシ ヴ ィ リテ ィ 四 ル ネ サン ス 期 のア イ ルラ ン ド統 治 論
︵一
︶ トマ ス
・ スミ ス の植 民 論
︵二
︶ ビー コ ン とハ ー バー ト
︵三
︶ エド マ ン ド・ ス ペン サ ーに お ける 征 服 とシ ヴ ィリ テ ィ お わり に
(82‑2・3‑ )
333 77
論 説
は じ め に
グロ ーバ ル化 や ヨー ロッ パ統 合 の進 展︑ ある い は︑ 最近 では ス コッ トラ ンド 独 立を め ぐる 住民 投票 に 見ら れる よう に
︑ こ れま での 主権 国 家や 国民 国家 の 枠組 みは 大き く 揺ら ぎ続 けて い る︒ しか し︑ ル ネサ ン ス期 を含 め︑ お およ そ一 六世 紀 か ら一 八世 紀ま で の初 期近 代︵ 近 世︶
ea rl y m o d er n
と呼 ばれ る時 代 まで 歴史 を振 り 返れ ば︑ デ モク ラ シー
﹂の 理念 と 同 様に
︑こ れら の 近代 的な
﹁国 家
﹂
S ta te
の概 念も また
︑ あく まで も︑ ウ ェス ト ファ リア 条約 やフ ラン ス革 命 など を転 換 点と する 時代 の 産物 にす ぎな い こと が分 かる
︒ 本稿 では
︑こ の よう な問 題関 心 を一 つ の出 発点 とし て
︑政 治思 想史 の 観 点か ら︑ 一元 的 な権 力や 均質 的 な国 民か ら成 り 立つ
﹁国 家﹂ が 自明 でな かっ た 時代 の
︑ル ネサ ンス 期 にお ける アイ ル ラ ンド 統治 論を 取 り上 げて みた い
︒ よく 知ら れて い るよ うに
︑か つ ては 近代 国家 の 一つ の模 範と さ れた
﹁イ ギリ ス
﹂は
︑ 現在 でも なお
︑ イン グラ ンド と ウ ェー ルズ
︑ス コ ット ラン ド︑ 北 アイ ルラ ンド か ら構 成さ れる
﹁ 連合 王国
﹂
U n it ed K in g d o m
で ある
︒ しか も︑ それ は か つて
︑全 世界 に版 図を 広げ た 帝国 でも あっ た
︒そ し て︑ この よう な﹁ ブ リテ ン 帝国
﹂
B ri tis h E m p ir e
が 形成 され る 過 程の 一つ の重 要 な起 点と なっ た のが
︑一 二世 紀 以降 に繰 り返 さ れた
︑イ ング ラ ンド に よる アイ ルラ ン ドの 征服 であ っ た
︒そ れゆ え︑ ア イル ラン ドの 統 治を めぐ って は
︑ 帝国
﹂や
﹁征 服
﹂︑ あ るい は
﹁植 民
﹂や
﹁改 革﹂ な どを めぐ る︑ 近 代 的な
﹁国 家﹂ の 視点 から は充 分 に見 えて こな い 言説 が展 開さ れ るよ うに なっ た ので あ る︒ 他方 でま た︑ こ のよ うな 近代 的 な﹁ 国家
﹂の 概 念に 加え
︑ 文明
﹂
ci v ili za tio n
とい う言 葉 が登 場し たの も 一八 世 紀後 半 以降 のこ とで あ った
︒サ ミュ エ ル・ ジョ ンソ ン によ る﹃ 英語 辞 典﹄
1︶
17 55
︶ の記 述 にも 見ら れる よ うに
︑そ れ以 前 は︑ 文 明を 意味 する 言葉 とし て﹁ シ ヴィ リ ティ
﹂
ci v ili ty
が用 いら れて い た︒ こ の﹁ シ ヴィ リ ティ
﹂は
︑野 蛮や 未 開と 対置 さ れる 一方 で︑ 動 的な 進歩 の過 程 や産 業技 術の 発 達を 含意 す る近 代の
ci v ili za tio n
と は異 なり
︑秩 序や 礼儀
︑丁 寧 さ︑
そ して 市民 性な ど を広 く意 味し た2
︒︶
ブラ デ ィッ ク によ れば
︑こ の よう な多 義的 な シヴ ィ リテ ィの 概念 は
︑ブ リテ ン帝 国 の もと に諸 地域 を 統合 し︑ 秩序 を 形成 する うえ で 大き な役 割を 果 たし た3
︒︶
そし て
︑ル ネ サン ス期 にお け るア イル ラン ド 統 治を 正当 化す る 大き な理 由の 一 つは
︑実 際に
︑ 征服 や植 民︑ 改 革な どを 通じ て
﹁シ ヴ ィリ ティ
﹂を 導 入し
︑野 蛮や 未 開 の状 態を 改善 す るこ とに 求め ら れた ので ある
︒ この よう に︑ ル ネサ ンス 期の ア イル ラン ドに 着 目す るこ とは
︑ 北西 ヨー ロッ パ の端 に 位置 し︑ ブリ テ ン島 の西 にあ っ て 大西 洋に 浮か ぶ 一つ の島 の記 憶 や経 験を 明ら か にす るだ けで な く︑ 近代 的な
﹁ 国家
﹂ と﹁ 文明
﹂の 見 方を 歴史 的な 観 点 から 問い 直す た めの
︑一 つの 重 要な 出発 点と な るで あろ う︒ とこ ろが
︑こ の 時代 のア イル ラ ンド への 関心 は
︑少 なく とも 国 内の 政治 思想 史 研究 に おい ては
︑わ ず かに 佐々 木武 氏 の 論稿 など を除 き
︑ほ とん ど見 られ なか った4
︒︶
そ れ ゆえ
︑ イ ギリ ス﹂ 政治 思想 史に おい ても
︑た とえ ば﹁ 市 民革 命﹂ や
﹁立 憲主 義﹂ な どに 比べ
︑ ブ リ テン 帝国
﹂の 形 成や ア イル ラン ドの
﹁征 服
﹂︑ ウェ ー ルズ の﹁ 併 合﹂
︑ス コッ ト ラン ド との
﹁合 同﹂
︑北 ア メリ カ等 への
﹁ 植民
﹂︑ さら には
﹁同 盟﹂
﹁ 連邦
﹂﹁ 属領
﹂ とい っ た国 家の 単位 を 超え る対 外的 な 主 題に つい ては 関 心が 薄か った よ うに 思わ れる
︒ とは いえ
︑近 年 では そ の一 方で
︑主 権 国家 や 国民 国家 の揺 らぎ を 反映 して
︑た と えば 英 国学 派に 見 ら れ るよ う に︑ 国際
﹂的 な政 治思 想 の展 開に も関 心が 集ま る よう にな って き た︒ 近 年 では また
︑マ キ ァヴ ェ ッリ や グロ ティ ウス など に 加え
︑ホ ッブ ズ やロ ック
︑モ ン テス キュ ー︑ ヒ ュー ム︑ バー ク など の国 際政 治 思想 に 関す る研 究や
︑ 連邦 主義 やコ ス モ ポリ タニ ズム
︑ 国家 主権
︑戦 争 と平 和︑ 帝国 や 外交 など の思 想 史や 概念 史の 研 究も 着 手さ れて いる5
︒︶
他方 でま た︑ と くに ブリ テン と アイ ルラ ンド に 関し て見 逃せ な いの が︑ これ ま での イ ング ラン ド中 心 の一 国史 観や
︑ ア イル ラン ドの 愛 国主 義的 な歴 史 観を 覆す に至 っ た︑ 近年 にお け る歴 史研 究の 目 覚ま し い進 展で ある
︒ とり わけ
︑ポ ー コ ック によ る﹁ ブ リテ ン史
﹂の 提 唱は 一九 八〇 年 代末 以降 に広 く 受け 入れ られ る よう に なっ た6
︒︶
これ に 加え て︑ 初期 近
征服とシヴィリティ(木村)
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335 79
代 のヨ ーロ ッパ の 諸国 家が
︑一 元 的で 均質 な国 家 では なく
︑そ の 領域 内に 複数 の 共同 体 や民 族︑ 制度 や 文化 など を抱 え る
﹁複 合的
﹂
co m p o si te
もし く は﹁ 多元 的﹂
m u lt ip le
な国 家で ある こ とも 併せ て認 識さ れ るよ うに なっ た7
︒︶
その 結 果︑ ブリ テン
﹂も また
︑ イン グラ ンド の みな らず
︑ウ ェ ール ズ や スコ ッ トラ ンド やア イ ルラ ンド など から 構成 さ れる 複合 的 もし くは 多元 的 な国 家で ある と いう 観点 か ら︑
ブリ テン 島﹂ や﹁ 大 西洋 群島
﹂を 舞台 とし た相 互作 用の 歴 史を 描き 直 す試 みが 盛ん に 行な われ るよ う にな った ので あ る8
︒︶
また
︑ク イン や キャ ニー らに よ って 先導 され て きた アイ ルラ ン ド史 研究9
や︶
︑ア メリ カ の側 から ベイ リ ンら によ って 提 唱 され た﹁ 大西 洋 史﹂ 研究 によ っ て︑ アイ ルラ ン ドの 植民 地の 経 験が
︑ブ リテ ン 島の み なら ず︑ 大西 洋 を越 えて 新大 陸 と 結び つ けら れる よう にな った10
︒︶
さら に︑ 従 来の 帝国 史 研究11
の︶
進 展に 加 え︑ 以上 の よ う な﹁ ブ リ テ ン史
﹂や
﹁ 大西 洋 史
﹂研 究な どの 架 橋を 試み る研 究12
と︶
して
︑ たと え ばア ーミ テイ ジ は﹁ ブリ テン 帝 国﹂ の イデ オロ ギー 的 起源 や﹁ 独立 宣 言
﹂の 世界 史︑
近代 国際 思想
﹂の 基 礎と いっ た新 たな 主題 を 開拓 して いる13
︒︶
そし て︑ 以上 の諸 研究 は︑ 歴 史 学の 分野 に 狭く 留ま るこ と なく
︑文 学研 究 など の他 分野 の研 究 を巻 き込 みな がら
︑こ れま での
﹁ イギ リス
﹂
‖イ ング ラン ド︶ の 枠を 超え た一 連 の﹁ ブリ テン
﹂ 政治 思想 史研 究 を生 み出 した の であ る14
︒︶
本稿 では
︑こ れ らの 研究 成果 を 踏ま えな がら
︑ 近代 的な
﹁国 家
﹂や
﹁文 明﹂ の 観点 か らは 充分 に見 え てこ ない
︑複 合 的
・多 元的 なブ リ テン 帝国 の形 成 をめ ぐる 言説 の 一端 を明 らか に する こと を試 み る︒ そ のう えで
︑今 回 は︑ 一七 世紀 以 降 に本 格化 する ス コッ トラ ンド と の統 合問 題や ア メリ カへ の植 民 計画 の先 例と な る︑ ル ネサ ンス 期の ア イル ラン ドを め ぐ る人 文主 義的 な 統治 論を 考察 し たい
︒以 下で 明 らか にな るよ う に︑ 同時 代の ア イル ラ ンド はま さに
︑ イン グラ ンド に よ る征 服や 植民 や 改革 を通 じて
︑ レト リッ クや 思 慮な どに 具現 さ れる 人文 主義 的 な教 養 やシ ヴィ リテ ィ の実 践が 集合 的 に 試み られ た一 つ の﹁ 実験 場15
﹂︶
で あっ たの であ る
︒
一 人 文 主 義 と 帝 国
︵ 一
︶ 帝 国 の ルネ サ ン ス デイ
ヴィ ッド
・ ヒュ ーム の﹃ イ ング ラン ド史
﹄ によ れば
︑一 四 八 五年 にお ける ヘン リ七 世 の即 位は 同時 にま た︑ シ ヴ ィリ ティ と学 問
﹂
ci v ili ty a n d sc ie n ce s
の
﹁夜 明け
﹂を も たら した16
︒︶
実際 に︑ この ウェ ー ルズ 出身 のヘ ン リか ら 一六
〇 三年 に崩 御す る エリ ザベ ス一 世 に至 るテ ュー ダ ー朝 の時 代は
︑ 人文 主義 の浸 透 が広 く 見ら れた
︑イ ン グラ ンド にお け る ルネ サン スの 時 代と され る︒ スキ ナー が
﹃近 代 政 治思 想の 基礎
﹄
19 78
︶で 描い た よう に︑ 古 代ギ リシ ア やロ ー マを モ デル とし
︑文 法
・修 辞・ 詩・ 歴 史・ 道徳 哲学 を 基礎 とす る人 文 主義 は︑ その 発 信源 で ある イタ リア か らア ルプ スを 越 え
︑イ ング ラン ド を含 む北 方ヨ ー ロッ パへ と伝 播 した17
︒︶
こ の人 文 主義 につ いて は また
︑ ハン ス・ バロ ン やポ ーコ ック に よ って
︑一 四〇
〇 年代 のフ ィレ ン ツェ 共和 国に お いて 花開 いた 市 民的 人文 主義
ci v ic h u m a n is m
の重 要 性が 強 調さ れる よ うに なっ た︒ と りわ け︑ ポ ーコ ック の﹃ マキ ャ ヴェ リ アン
・モ ー メン ト﹄
19 75
︶ のな かで
︑こ の市 民的 人文 主義 が マ キァ ヴェ ッリ を 経て
︑一 七世 紀 中葉 のイ ング ラ ンド や一 八世 紀 のア メリ カの 共 和主 義 に受 け継 がれ た 過程 が描 かれ た こ とは よく 知ら れ てい る18
︒︶
とこ ろが
︑こ れ らの 研究 にお い て︑ 先に 述べ た よう な帝 国や
︑ ある いは 複合 的
・多 元 的国 家と 人文 主 義と の関 連は 必 ず しも 充分 に明 ら かに され てこ な かっ た
︒た とえ ば︑
﹃近 代 政 治思 想の 基礎
﹄に お け るス キナ ーの 関 心は 逆 に︑ あ くま で も﹁ 近代 の国 家 概念
﹂が 形成 さ れる
﹁経 緯﹂ や
﹁前 提条 件﹂ を 明ら かに する こ とに あ った19
︒︶
ま た︑ ポ ーコ ック の影 響 を 受け たコ リン ソ ンや ペル トネ ンた ち は︑
﹃ マキ ャヴ ェリ ア ン・ モー メン ト﹄ の 議論 を 拡張 し︑ 一 七世 紀の 内 乱期 以前 か らす でに
︑イ ン グラ ンド とア イ ルラ ンド にお い て共 和主 義の 萌 芽が 見ら れた こ とを 強 調す る︒ そし て
︑こ こで 彼ら が
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征服とシヴィリティ(木村)
言 う﹁ 君主 政的 共 和国
﹂
m o n a rc h ic a l re p u b lic
ある い は﹁ 擬 似共 和 主義
﹂
q u a si -r ep u b lic a n is m
の 例と して 着 目さ れた の が︑ 以下 でも 言 及す るト マス
・ スミ スな どの 顧 問官 たち であ り
︑あ るい はリ チ ャー ド
・ビ ーコ ンや エ ドマ ンド
・ス ペ ン サー らを 含む ア イル ラン ドの 行 政官 たち であ っ た20
︒︶
しか し︑ 以下 で 議論 する よう に
︑人 文主 義的 な 教養 を有 する 彼 らが 実際 に直 面 して い たの は︑ 近代 国 家の 建設 や共 和 主 義の 受容 より は むし ろ︑ あく ま でも 君主 政国 家 のも とで 複合 的 ある いは 多元 的 な帝 国 の拡 大も しく は 維持 を目 指し
︑ 複﹅
数﹅の﹅
リヴ ァイ ア サン やビ ヒモ ス をい かに 統治 す るか とい う︑ き わめ て同 時代 的 な難 題 であ った よう に 思わ れる21
︒︶
そし て
︑こ のよ うな 関 心か ら︑ 改め て 同時 代に おけ る 人文 主義 の議 論 を眺 め直 すと
︑ そこ に はま た︑ ポリ ス やレ ス・ プブ リ カ など に由 来す る 伝統 的な 共同 体 の概 念と とも に
︑征 服や 植民
︑ シヴ ィリ ティ な どの 帝 国の 統治 と密 接 に関 連す る語 彙 も また 広く 流通 し てい たこ とに 気 づく22
︒︶
そ して
︑ なか でも
︑こ れ らの 言説 の歴 史 的な 模 範と なっ たの が
︑帝 国・ 支配 権
‖ イン ペリ ウム
im p er iu m
の拡 大に 成功 した 古 代ロ ーマ であ っ た︒ それ ゆえ
︑ レト リッ クや 道 徳哲 学に おい て 人文 主義 的 教養 の基 礎と な るキ ケロ もま た
︑た とえ ば﹃ 国家 につ いて
﹄の な か で︑
わが 国民 は 同盟 国を 守る こと に より
︑ いま 全 世界 の支 配を 獲 得し た﹂
3:
35
︶と 述べ てい た ので ある23
︒︶
︵ 二
︶ マ キ ァ ヴェ ッ リ に お け る 帝国 と 征 服 この
よう な古 代 ロー マを モデ ル とし たル ネサ ン ス期 の帝 国論 に おい て︑ その 再 生に 大 きな 役割 を果 た した のが マキ ァ ヴ ェッ リで ある
︒ ポー コッ クや ス キナ ーを はじ め とし て︑ 彼の 共 和主 義に 関す る 研究 は 盛ん に行 なわ れ てき たが
︑最 近 に なっ て︑ 彼の 帝 国論 や拡 大国 家 論に も関 心が 向 けら れる よう に なっ た24
︒︶
なか で も︑ こ のよ うな 観点 か ら新 たに 注目 さ れ るの が﹃ 君主 論
﹄の 第三 章と
﹃ ディ スコ ルシ
﹄ 第二 巻で あろ う
︒
マキ ァヴ ェッ リ は︑ リウ ィウ ス の﹃ ロー マ建 国 史﹄ に依 拠し て 書か れた
﹃デ ィ スコ ル シ﹄ の第 一巻 に おい て︑ ロー マ 型 の拡 大国 家と ス パル タ・ ヴェ ネ ツィ ア型 の現 状 維持 国家 とを 比 較す る︒ マキ ァ ヴェ ッ リに よれ ば︑ ロ ーマ は平 民に 武 力 を与 え︑ 外国 人 の移 住を 認め た が︑ 後者 は逆 に 平民 を戦 争に 用 いず
︑外 国人 に 対し て 門戸 を閉 ざす こ とに よっ て現 状 維 持を 目指 した
︒ この 両者 のど ち らが 望ま しい か につ いて
︑彼 は
︑征 服の 危険 が 常態 化 して いる 現状 を 考慮 し︑ 必 要﹂
n ec es si ta
や
﹁偉 大さ
﹂
g ra n d ez za
の観 点か ら︑ 内 紛や 対立 を 活力 に変 えて 大帝 国へ と 発展 した ロー マ 型の 拡 大国 家を 模 範と した
︵
1:
6
︶︒ その うえ で彼 は
︑自 由を 原理 とし たロ ーマ の内 政を 扱っ た 第一 巻 に続 いて
︑第 二 巻で は 外政 に目 を 向け
︑ロ ーマ が いか にイ ンペ リ ウム を拡 大し た かに つい て考 察 を進 めた ので あ る︒ それ ゆえ
︑﹃ ディ ス コル シ﹄ の第 二 巻は
︑ 帝国 と征 服の 手 引き とし て読 むこ と がで きる
︒ マキ ァヴ ェッ リに よれ ば︑ 戦争 の目 的は 征服 す るこ と﹂ にあ り
︑さ らに は征 服 地と 本国 をと も に繁 栄さ せる こ とに ある
︵
25︶
2:
6
︶︒ その ため に彼 は
︑ ロ ーマ の並 外れ た
﹁力 量と 思慮
﹂
v ir tu e
26︶
p ru d en za
に注 目 し︵
2:
1
︶︑ 帝国 を 築く 方法 につ い て次 のよ うに 述 べた
︒ この
よ うに し て為 政者 は︑ ど うし たら 市民 の 人口 を 殖 やす か︑ 従 属国 より は むし ろ同 盟国 を作 るに は どう すれ ばよ い か︑ に 心を 配る よう に なる
︒ さら には
︑征 服 し た地 方を 防衛 する た めに 屯田 兵を 定 住 さ せた り
︑敵 から 分 捕っ た もの は 国庫 に繰 り入 れ る︑ 敵を 従え る には 包囲 戦を 避 けて
︑急 襲と か 会戦 を 行な う︑ また 国 庫は 富ま せて 個 人は 質 素に する よう に指 導 した り︑ さ らに 軍事 教 練を 最も 重視 する
︑な ど一 連の 政策 をと るよ う に な るだ ろ う﹂
27︶
2:
19
︶︒ マキ
ァヴ ェッ リ はま た︑
﹃君 主論
﹄ の第 三章 から 第五 章に お いて も︑ 新 旧の 領土 を 併せ た﹁ 混 成型
﹂の 君 主 国を 取り 上 げ︑ とく に征 服 の方 法に つい て 細か く論 じて い る︒ とこ ろが
︑ この 第三 章か ら 第五 章 はこ れま で︑ 新 君主 国を 主題 と
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征服とシヴィリティ(木村)
す る﹃ 君主 論﹄ の なか では
︑力 量 ある 新君 主や 市 民型 の新 君主 を 扱っ た他 章と 比 べ︑ 充 分に 注目 され て こな かっ た︒ し か し︑ なか でも 第 三章 は︑ ロー マ の歴 代皇 帝の 気 質を 考 察し た第 一 九章 に次 いで 長い 章で あ るだ けで なく
︑ 領土 欲と い うの は︑ きわ め て自 然な
︑あ た りま えの 欲望 で ある
﹂と いっ た
︑彼 のリ アリ ス ティ ッ クな 世界 観や 人 間観 が最 初に 示 さ れる 章 でも ある28
︒︶
そし て︑ 本 稿 の関 心か らと くに 見 逃せ ない のは
︑た と え ばフ ラン ス にお け る ブ ルゴ ーニ ュ やブ ル タ ーニ ュ︑ ガス コ ーニ ュ︑ ノル マ ンデ ィー の併 合 の事 例が 挙げ ら れて いる よう に
︑こ の 章の なか で︑ 同 時代 のヨ ーロ ッ パ にお ける
﹁混 成 型﹂
︑す なわ ち複 合 的・ 多元 的国 家 と征 服の 問題 が 論じ られ てい る こと であ ろう29
︒︶
マキ ァヴ ェッ リ は︑ ここ でも
﹁ 力量 と思 慮30
﹂︶
を 有し たロ ーマ を 模範 とし なが ら
︑征 服 地に おけ る統 治 の技 術に つい て 以 下の よう に述 べ る︒ すな わち
︑ 占領 した 国を 維 持す るた めに は 民衆 の支 持が 必 要で あ るが
︑言 語や 風 習が 共通 であ り
︑ か つ自 由の 伝統 に 欠け る場 合は
︑ 領主 の血 統を 根 絶や しに し︑ 他 方で 従来 の法 や 制度 を 維持 すれ ば充 分 であ る︒ とこ ろ が
︑言 語や 風習 や 制度 が異 なる 場 合に は困 難が 大 きい ため
︑君 主 が自 ら移 住す る か︑ あ るい は経 費の か から ない 移民 兵 を 派遣 する こと が 必要 とな る︑ と いう のが 彼の 判 断で あっ た︒ それ では
︑マ キ ァヴ ェッ リと 同 時代 のア イル ラ ンド の場 合は ど うで あろ うか
︒
二 ア イ ル ラ ン ド の 征 服 と 野 蛮
イン グラ ンド に よる アイ ルラ ン ドの 征服 は︑ 一 二世 紀の ヘン リ 二世 の時 代に ま で遡 る
︒し かし
︑ア イ ルラ ンド の場 合 は
︑ケ ルト 系ゲ ー ル人 の族 長の 勢 力が 残存 する と とも に︑ 現地 に 定着 した アン グ ロ・ ノ ルマ ン系 貴族 も また 独自 に勢 力 を 強め てい き︑ ア イル ラン ド総 督 によ る イ ング ラン ドの 統治 が 機能 する のは
︑も っぱ ら﹁ ペイ ル﹂
柵︶ と 呼 ばれ るダ ブ リン 周辺 地域 だ けに 限定 され る よう にな った31
︒︶
それ ゆえ
︑ア イ ルラ ンド は︑ 言 語や 風 習や 制度 が異 な る地 域を 抱え る
と とも に︑ 現地 の 族長 や領 主が 割 拠す る複 雑な 情 況を 呈す るよ う にな った
︒こ れ に対 し て︑ ヘン リ八 世 と総 督の セン ト リ ジャ ーは
︑一 五 四一 年に アイ ル ラン ドを
﹁王 国
﹂に 昇格 さ せ︑ の ちに
﹁譲 渡 と 再授 封﹂
su rr en d er a n d re g ra n t
と呼 ば れる 政策 を通 じ てゲ ール 人の 族 長を
﹁臣 下﹂ と して 取り 込も う と試 みる
︒ま た
︑エ リ ザベ ス期 には
︑ アル スタ ーや マ ン スタ ーな どの 植 民に 加え
︑総 督 のヘ ンリ
・シ ド ニー によ って 地 方長 官・ 評議 会 が設 置 され た︒ しか し なが ら︑ 中世 以 来 の入 植者 であ る
﹁オ ール ド・ イ ング リッ シュ
﹂ に代 わり
︑新 た な支 配者 とし て アイ ル ラン ドに 渡っ て きた プロ テス タ ン トの
﹁ニ ュー
・ イン グリ ッシ ュ
﹂に よる 以降 の 一連 の﹁ 改革
﹂ は失 敗に 終わ り
︑テ ュ ーダ ー朝 末期 の 九年 戦争 にお け る 軍事 的な
﹁再 征 服﹂ に帰 結す る こと にな った32
︒︶
この よう に︑ テ ュー ダー 期の ア イル ラ ンド は︑ 中 世 以来 の歴 史を 有す る﹁ 古き 新世 界﹂ 山 本正
︶ であ ると とも に︑ 植民 地﹂ と﹁ 王国
﹂ とい う両 義的 な 性格 を有 して い た︒ それ ゆえ
︑ アイ ルラ ンド の 統治 には
﹁征 服
﹂と
﹁改 革﹂
︑あ る い は弾 圧と 融和 を めぐ る緊 張が 孕 まれ るこ とに な る︒ しか も︑ こ のよ うな 錯雑 し たア イ ルラ ンド の統 治 論に おい ては さ ら に︑ 宗教 問題 に 加え
︑イ ング ラ ンド の﹁ シヴ ィ リテ ィ﹂ とア イ ルラ ンド の﹁ 野 蛮﹂ を 対比 させ る言 説 が加 わる こと と な った33
︒︶
イ ン グ ラ ン ド に お け る
︑こ の よ う な 言 説 の 起 源 と なっ た 作 品 と し て︑ ギ ラ ル ドゥ ス
・カ ン ブ レ ン シ ス
C a m b re n si s; G er a ld o f W a le s, c. 11 47 12 23
︵G ir a ld u s
︶の
﹃ アイ ル ラン ド 地誌
﹄
T op og ra ph is H ib er n ic a
を挙 げる こと がで き る34
︒︶
ウ ェー ルズ 出身 の ギラ ルド ゥス は
︑パ リで 長く 学 んだ 人文 主義 者 であ ると とも に
︑ヘ ン リ二 世の 宮廷 付 聖職 者と して も 活 躍し た人 物で あ る︒ そし て︑ 彼 は﹃ アイ ル ラン ド地 誌﹄ な かで
︑ 自然 が隠 して お いた 大洋 の秘 所﹂ に 侵 攻し た﹁ わ れ らが 西方 のア レ クサ ンド ロス
﹂ であ るヘ ンリ を 称賛 する
︒ギ ラ ルド ゥス によ れ ば︑ ヘ ンリ は︑ 征服 や 統治 に関 する キ ケ ロや セネ カの 教 えを まさ に実 践 した 人物 であ った35
︒︶
しか し︑ こ れに 対し て︑ 別 世界 のよ う な遠 く隔 たっ た とこ ろ﹂ に いる アイ ルラ ン ドの 人々 につ い ては
︑怠 惰な 牧 畜生 活を 送っ て 農耕 に従 事せ ず
︑果 樹 や鉱 物の 恵み も 得よ うと して い
(82‑2・3‑ )
341 85
征服とシヴィリティ(木村)
な いこ とか ら︑ 楽 器の 演奏 技術 に 優れ てい るこ と を除 けば
︑ まさ に野 蛮で ある
﹂と して 以下 のよ うな 評価 が 下さ れた の であ る36
︒︶
この 民 は未 開 人で
︑無 愛想 で ある
︒獣 のみ を 食べ て︑ 獣の よう に生 きて いる
︒原 始的 な牧 畜を して 暮 らす 生活 から は なれ て いな い︒ 森か ら 平地 へ︑ 平地 か ら村
︑そ して 市 民が 集住 する 状 態へ と 人間 は進 んで い くも のだ が︑ こ の民 は 農業 労 働を 拒み
︑都 市 の富 にも ほと ん ど無 関心 で︑ 市 民の 権利 をそ う かえ り みも せず
︑森 や 草地 でこ れま で 親し ん でき た 生活 を忘 れ去 る こと がで きな い37
﹂︶
︒ また
︑ル ネサ ン ス期 にお いて
︑ この よう なア イ ルラ ンド 認識 は
︑た とえ ば一 五 七七 年 に出 版さ れた ホ リン シェ ッド の
﹃年 代 記﹄
C h ro n ic le s
を 通じ て再 生産 さ れる こ と にな る38
︒︶
ホ リン シェ ッ ドに よれ ば︑ この
﹃ 年代 記﹄ に は統 治 に必 要な
﹁政 治 的思 慮﹂
p o lit ik e p ru d en ce
が含 まれ てい る が39
︑︶
この よう な 人文 主義 的な 観 点か ら 彼は
︑イ ング ラ ンド とス コッ ト ラ ンド に加 え︑ ア イル ラン ドの 征 服の 歴史 を﹃ 年 代記
﹄に 加え た ので ある
︒ もっ とも
︑ホ リ ンシ ェッ ドに よ って アイ ルラ ン ド篇 の初 版の 編集 と 執筆 を実 際に 委ね ら れた のは
︑ ペ イ ル﹂ 出 身の 人 文主 義者 であ る リチ ャー ド・ ス タニ ハー スト
︵
R ic h a rd S ta n ih u rs t, 15 47 16 18
︶で あ った40
︒︶
そ して
︑ 彼も また
︑ホ リ ン シェ ッド と同 様 の歴 史観 を繰 り 返し たう えで
︑ アイ ルラ ンド の
﹁野 蛮﹂ に加 え
︑そ の
﹁堕 落﹂ をと も に﹁ 改革
﹂す る 必 要を 訴え た︒ す なわ ち︑ 征服 後 の植 民に よっ て
︑ア イル ラン ド には かつ て﹁ シ ヴィ リ ティ が植 え付 け られ
︑良 き法 が 定 めら れ︑ 忠誠 が 守ら れ︑ 反乱 が 抑圧 され た41
﹂︶
︒し か し︑ そ の 後は 逆に
︑ アイ ルラ ン ド語 の浸 透や 教育 の欠 如 など を通 じ て﹁ 腐敗
﹂が 進 み42
︑︶
生粋 の イン グラ ンド 人﹂ も
﹁未 開 の 種類 の人 々 と交 際す る こと によ っ て堕 落し
︑キ ルケ ー の毒 杯 を仰 いだ かの よ うに 様変 わり し てい る
﹂︒ それ ゆえ
︑ 統治 を委 ねら れた 者﹂ は︑
誠意 をも って 政治
p o lli cy e
に 励み
︑
彼 らを 粗野 から 知 識︑ 反乱 から 服 従︑ 裏切 りか ら 誠実
︑未 開か ら シヴ ィリ ティ
︑ 怠惰 か ら労 働︑ 邪悪 か ら敬 神へ と導 か れ る﹂ よう にし な けれ ばな らな い
︒彼 によ れば
︑ それ によ って 人 々が
﹁自 分が 盲 目で あ るこ とに 気づ き
︑だ らし なさ を 認 識し
︑生 活を 改 善す る﹂ とと も に︑
女王 陛 下の 法 や布 告﹂ や﹁ イ ング ラン ドの 栄 えあ る統 治﹂
︑そ し て﹁ アイ ルラ ン ド の幸 いな る改 革
﹂に 従順 とな る ので ある43
︒︶
三 帝 国 と シ ヴ ィ リ テ ィ
さて
︑こ のよ う なア イル ラン ド 認識 を踏 まえ た うえ で︑ 以下 で は改 めて
︑キ ケ ロや リ ウィ ウス
︑マ キ ァヴ ェッ リな ど を 媒介 とし た人 文 主義 の帝 国論 や シヴ ィリ ティ 論 の受 容の 過程 を 簡単 に点 描す る44
︒︶
その うえ で次 章で は
︑ト マス
・ス ミ ス やエ ドマ ンド
・ス ペン サ ー︑ ある いは リ チャ ード
・ビ ーコ ンや ウ ィリ アム
・ハ ーバ ート と いっ た﹁ ニュ ー・ イン グリ ッ シ ュ﹂ の立 場か ら 展開 され たア イ ルラ ンド 統治 論 の特 徴を 理解 し てみ たい
︒ イン グラ ンド に おい て﹁ 帝国
﹂ の概 念が 公的 に 用い られ た最 初 の例 とし て挙 げ られ る のが
︑一 五三 三 年の 上告 禁止 法 に おけ る﹁ この イ ング ラン ド王 国 は帝 国で ある
﹂
th is r ea lm o f E n g la n d is a n em p ir e
︶の 文言 であ る45
︒︶
もっ と も︑ こ こ での
﹁帝 国﹂ は
︑領 域的 なも の では なく
︑あ く まで も教 皇の 権 力か ら独 立し た 至高 の 権力 を意 味し て いた
︒し かし な が ら︑ 三六 年の ウ ェー ルズ 併合 や 四一 年の アイ ル ラン ドの 王国 化 を経 て︑ イン グ ラン ド は複 合的 で多 元 的な 君主 国と な る
︒こ れに 加え て
︑四
〇年 代に は スコ ット ラン ドに 対す る領 有権 が 主張 され
︑ グ レ イト
・ ブリ テン 帝国
﹂の 主張 が初 め てな され るこ と にな った46
︒︶
そし て︑ ロー マ的 な 拡大 を志 向す る 帝国 や征 服︑ 植 民︑ そ して シヴ ィリ テ ィの 概念 もま た
︑ 同 時代 の人 文主 義 者た ちに 浸透 し てい たと 考え ら れる
︒ この こと を示 す例 と して 見逃 せな いの が︑ 同時 代に おけ る人 文 主義 的な 政治 エリ ート 教育 の 手 引 きと な った
︑ト マ
(82‑2・3‑ )
343 87
征服とシヴィリティ(木村)
ス
・エ リオ ット
︵
T h o m a s E ly o t, c. 14 95 15 46
︶の
﹃ 統治 者 論﹄
T h e B oo k N am ed t h e G ov er n or , 15 31
であ る︒ 一六 世 紀 の間 に八 版を 重 ねた この 作品 の なか で︑ 彼は ジ ェン トル マン の 子弟 の教 育に つ いて
︑ ギリ シア 語と ラ テン 語の 文法 や 叙 事詩 に続 けて
︑ レト リッ クと 歴 史を 学ぶ こと を 勧め る︒ この レ トリ ック は︑ 説 得や 審 議︑ ある いは 助 言や 演説 など に お いて
﹁言 葉を 適 切に
︑然 るべ き 場所 に収 める
﹂ もの であ るが
︑ イソ クラ テス や デモ ス テネ ス︑ クイ ン ティ リア ヌス ら と とも に︑ その 模 範と して 挙げ ら れた のが
︑ 全世 界の 帝国 と 支配 権を 有し たロ ーマ
﹂ にお いて
﹁素 晴 らし き 雄弁 で君 臨 した
﹂キ ケロ で あっ た47
︒︶
また
︑古 典古 代 の歴 史家 のな か で最 初に 言及 さ れる のが リウ ィ ウス であ るが
︑ マキ ァ ヴェ ッリ の﹃ デ ィス コル シ﹄ の 冒 頭部 分と 同様 に
︑エ リオ ット は
︑そ の叙 述か ら
﹁も っと も高 貴 な都 市ロ ーマ が
︑貧 し い小 国か ら始 ま り︑ いか にし て 武 勇と 力量 によ っ て徐 々に 全世 界 の帝 国と 支配 権 を得 るに 至っ た か﹂ を学 ぶこ と がで き ると 述べ た︒ さ らに
︑エ リオ ッ ト はま た︑ リウ ィ ウス にお ける ポ エニ 戦争 の記 述 とと もに
︑カ エ サル を読 むこ と を君 主 や顧 問官 に薦 め る︒ なぜ なら
︑
﹃ガ リ ア戦 記﹄ の内 容 は︑
カエ サ ルの 時代 のス イ ス人 やブ リト ン 人と 同程 度の 粗 野で 野 卑な 性質 を有 し てい る﹂ アイ ル ラ ンド 人や スコ ッ トラ ンド 人と の 戦い に必 要と な るか らで あっ た48
︒︶
この よう な︑ 古 代ロ ーマ 帝国 を 模範 とす る人 文 主義 のな かに は また
︑レ トリ ッ クや 歴 史の みな らず
︑ ホリ ンシ ェッ ド の
﹃年 代記
﹄に も 見ら れた よう な
︑シ ヴィ リテ ィ の言 説 も展 開さ れ てい た︒ た とえ ば︑ ス ター
c. 14 99 15 38
キ︵T h o m a s S ta rk ey ,
︶に よっ て一 五 三〇 年前 後に 書 かれ た﹃ プー ル とラ プセ ット の 対話
se t
﹄A D ia lo gu e be tw ee n P ol e an d L u p-
のな か で︑ シヴ ィリ テ ィは 文 明や 秩序 の意 味 で用 いら れる︒ 彼に よれ ば︑
すべ て の思 慮 や政
ly cy
治p ru d en ce a n d p o l-
﹂は
﹁静 穏 とシ ヴィ リテ ィを も たら す﹂ こと に向 けら れる の であ り︑
人は
︑賢 者の 説得 によ って は じ めて
︑ 粗野 で 獣の よう な生 活 から
︑人 とし て 自然 なシ ヴィ リ ティ に入 って 行 った
﹂の であ る49
︒︶
この よう に︑ 人 文主 義 的な 教養 は︑ レ トリ ック や歴 史に 育ま れる の みな ら ず︑ 同 時 に また
︑帝 国 の拡 大 と シ ヴィ リ
テ ィへ の移 行を 可 能に する ため の 思慮 とし ても 受 容さ れて いた50
︒︶
以下 では
︑そ の 具体 的 な展 開を
︑と く にエ リザ ベス 期 の
﹁ニ ュー
・イ ン グリ ッシ ュ﹂ に よる アイ ルラ ン ド統 治論 を例 に 明ら かに して み たい
︒
四 ル ネ サ ン ス 期 の ア イ ル ラ ン ド 統 治 論
︵ 一
︶ ト マ ス
・ス ミ ス の 植 民 論 最初
に取 り上 げ るの は︑ ケン ブ リッ ジ大 学の ロ ーマ 法欽 定講 座 教授 でも あっ た トマ ス・ スミ
77
ス︵T h o m a s S m it h , 15 13
︶ であ る︒ しか も 彼は
︑そ の人 文 主義 的な 教養 に 加え
︑フ ラン ス駐 在大 使や 秘書 長 官を 務め るな ど︑ ア リ スト テレ ス やキ ケ ロに 由来 する 活動 的生 活 の理 念を 実践 し た 人 物で あ った
︒彼 は ま た︑
﹃イ ン グ ラン ド の コ モン ウ ェル
R ep u bl ic a A n gl or u m , 15 83
ス﹄D e
を執 筆し︑イ ング ラ ンド の 国制 の標 準的 な 見取 り図 を提 示 した こと でも 知ら れ てい る51
︒︶
そ の うえ で︑ とく に 帝国 とシ ヴィ リ ティ の観 点か らは まず
︑こ の スミ ス が﹃ コ モン ウィ ー ル論
C om m on w ea l , 15 81
﹄A D is co u rs e of th e
のな か で︑ エ リオ ット と同 様 に︑ コモ ンウ ェ ルス を支 える 統 治者 や 顧問 官に 論理 学 やレ トリ ック︑ 道 徳哲 学と いっ た 人文 主義 的な 教 養が 不可 欠で あ るこ とを 強調 し たこ とが 注目 さ れる
︒ なぜ なら
︑学 問 は﹁ 人間 のあ い だ にシ ヴィ リテ ィ と知 恵
w is d o m
と 政治
p o lic y
をお しひ ろ める ため にな く ては なら ない52
﹂︶
から であ る︒ しか も︑ スミ ス によ れば
︑こ の よう な学 問に 優 れた コモ ンウ ェ ルス
︑言 い換 え れば
﹁ 政治 的
p o lit ic
で 文明 的
ci v il
な 国﹂こ そが 他国 を 支配 する こと が でき る︒ その 歴 史的 な事 例と な るの が︑ 古代 の ギリ シ アや ロー マの 帝 国で あり
︑そ し て また
︑ロ ーマ や サク ソン やノ ル マン によ るイ ング ラン ドの 征服 と いう 過去 であ った
︒彼 に よれ ばま た︑ 帝 国や 王国 を 手に 入れ たり
︑ それ を維 持し た りす るの は︑ 人 間の 勇気 や力 に よる とい うよ り も︑ む しろ
︑知 恵や 政 治に よる こと の
(82‑2・3‑ )
345 89
征服とシヴィリティ(木村)
方 が多 い﹂ ので あ り︑ そう した
﹁ 知恵 や政 治と い うも のは
︑お も に学 問に よっ て 得ら れ る﹂ ので ある
︒ これ とは 逆に
︑ 学 問や 大学 が疎 か にさ れる と﹁ 政 治的 な教 養の あ る人
﹂
w is e a n d p o lit ic m en
がい なく なり
︑ 野蛮
﹂へ と退 行す るだ け でな く︑ 以 前わ た した ちが 支配 し てい た他 の国 の意 のま ま とな り︑ そ の国 の奴 隷 とな っ てし まう
﹂と い う のが 彼の 判 断で あっ た53
︒︶
以上 のよ うな 人 文主 義的 な立 場 から
︑ス ミス は
﹃コ モン ウィ ー ル論
﹄や
﹃イ ン グラ ン ドの コモ ンウ ェ ルス
﹄の なか で
︑ ト マス
・モ アに よ る空 想上 のユ ー トピ アと は異 な り︑ イン グラ ン ドの 現状 に即 し た改 革 案を 提示 した こ とを 自負 して い た54
︒︶
その う えで ス ミス は実 際に
︑ 一五 七〇 年代 に アイ ルラ ンド の アー ド半 島へ の 植民 を 計画 する こと に なる55
︒︶
彼 と息 子 の トマ スが 女王 エ リザ ベ ス との 間に 交わ した 七 一年 一〇 月五 日付 の 証書
in d en tu re
によ れ ば︑ そ の目 的は
︑ 粗野 なア イ ルラ ンド の未 開 で野 蛮な 民に
︑ より 洗練 され た 習俗 とシ ヴィ リ ティ
m o re c iv ili ty o f m a n n er
をも たら す こと
﹂ にあ る とさ れ た56
︒︶
彼 はま た︑ イ ング ラン ドに よる 植民 計 画の ため に印 刷さ れ た最 初の 宣伝 物57
﹂︶
と さ れる
﹃
I. B .
か らの 手 紙
﹄
A L et te r se n t by I . B . ,1 57 1
を匿 名で 出版 する
︒ その なか で彼 は
︑ も う一 つ のユ ー トピ ア﹂ であ る アイ ルラ ンド へ の 植民 を﹁ 最も 名 誉で 利益 のあ る 航海
﹂で ある と して
︑と くに ジ ェン トル マン の 子弟 の 参加 を説 いた の であ る58
︒︶
スミ スは また
︑ 同様 の﹁ 説得
﹂ を同 僚の 顧問 官
︵ウ ィリ アム
・ セシ ル︶ や有 力 貴族
︵ エセ ック ス伯
︶ らに 対し て行 っ た
︒こ れら のう ち
︑人 文主 義の 影 響を さら に示 す もの とし て見 逃 せな いの が︑ 説 得と い うレ トリ ック の 実践 やシ ヴィ リ テ ィの 議論 に加 え
︑彼 の植 民計 画 のモ デル とし て 古代 ロー マが 挙 げら れて いた こ とで あ ろう
︒そ して
︑ スミ スは 実際 に
︑ 計 画の 実施 を委 ね た息 子の トマ ス に対 して
︑カ ル タゴ やヴ ェネ ツ ィア とと もに
︑ ロー マ が植 民都 市を 建 設し た事 例を 参 照 しな がら
︑ 共に 住 むこ と﹂ が﹁ シ ヴィ リテ ィの 洗 練﹂
m o re c iv ili ty
をも たら すと し て以 下の よう に 述べ た︒ 人間
の 習俗
m a n n er
は︑ 共に 助 け合 い︑ 共通 の 利益 や危 険を 有 すれ ばす るほ ど
︑よ り洗 練
ci v il
さ れ従 順に なる
︒
そう で なけ れ ば︑ 彼ら は獣 の 如く 野蛮 にな る だろ う︒ それ が
︑こ れま でア イ ルラ ン ドを 頽廃 させ て きた 一因 であ っ た59
﹂︶
︒
︵ 二
︶ ビ ー コ ンと ハ ー バ ー ト スミ
スと 同様 に
︑古 典古 代の 世 界を アイ ルラ ン ドの 統治 論に 応 用し た人 文主 義 者と し て︑ さら にリ チ ャー ド・ ビー コ ン
︵
R ic h a rd B ea co n , ?-?
︶と ウィ リア ム・ ハ ーバ ート
︵
W ill ia m H er b er t, 15 53 ? 15 93
︶を 挙げ るこ と がで きる
︒し か も
︑両 者は とも に
︑マ ンス ター の 植民 に深 く関 与 した 行政 官で も あっ た︒ 以下 で 述べ る よう に︑ 彼ら の 議論 は︑ とく に ス ペン サー と比 較 した 場合 に︑ ア イル ラン ド統 治 にお ける 説得 や 教育 の役 割を 強 調し た 点で 注目 され る
︒ ビー コン が一 五 九四 年に 出版 し た﹃ ソロ ンの 狂 言﹄
S ol on H is F ol ly
は60
︑︶
そ のタ イト ルに 示 され て いる よ うに
︑ 古典 古 代の 教養 に立 脚 し︑ レト リッ ク が駆 使さ れた 対 話作 品で あっ た
︒古 代ア テナ イ の立 法 者と して 知ら れ るソ ロン は︑ あ る 時︑ 狂気 を装 い なが ら詩 を歌 い 始め
︑戦 争を 再 開し てサ ラミ ス 島を 領有 する よ うに 民 衆の 心を 動か し た61
︒︶
ビー コン は
︑ こ の﹁ 最も 賢明 で 熟練 した 統治 者﹂ で ある ソロ ンの 故 事に 倣っ て
︑ 征 服 され
︑ 衰退 し︑ 腐 敗 した コモ ンウ ィー ル の改 革
﹂を
﹁説 得﹂ し よう と試 みた の であ る62
︒︶
ビー コン によ れ ば︑
衰退 し たコ モ ンウ ィー ルの 改 革﹂ は︑ そ の原 初の 完全 な 状態 の 幸い なる 回復 に 他な らな い﹂ が
︑ と く に ア イル ラ ン ド の場 合 は 全 体 が腐 敗 し て いる た め に︑ 古来 の 法 や 慣 習︑ 生 活 様 式
︑統 治 や 制 度 と い った コ モ ン ウ ィー ル全 体に 及 ぶ﹁ 絶対 的で 徹 底的
﹂な 改革 が 必要 とさ れる63
︒︶
もっ とも
︑そ の 一方 で 彼は
︑古 来の 法 や慣 習を 改革 す る ため の手 段と し て︑ 権威 や同 意
︑強 制力 や徳 と とも に﹁ 説得 の 技術
﹂の 必要 を 強調 し た︒ それ ゆえ
︑ 第二 巻で は七 章 に 亘っ て︑ たと え ば﹁ 民衆 の感 情 を動 かし
︑勝 ち 取り
︑そ の気 に させ
﹂︑ ある いは
﹁ 嫌な 事で さえ も
︑人 びと に喜 ば れ︑
(82‑2・3‑ )
347 91
征服とシヴィリティ(木村)
受 け容 れら れる よ うに する
﹂た め に︑ 相手 の感 情 を観 察し
︑疑 念 を取 り払 い︑ 説 得し た い事 柄に 議論 を 限定 する など の
︑ すべ ての 公的 な為 政 者﹂ に必 要な 技 術や 方法 が提 示 され たの であ る64
︒︶
ビー コン の議 論 で見 逃せ ない 点 はま た︑ マキ ァ ヴェ ッリ の影 響 が随 所に 見ら れ るこ と であ る65
︒︶
たと え ば︑ ビー コン は
︑ 党 派対 立を 避け る ため に﹁ もっ と もら しい 約束 と 甘い 言葉
﹂を 用 いた ソロ ンの
﹁ 狡猾 さ
﹂に つい て︑ マ キァ ヴェ ッリ と 同 様に
︑そ れを
﹁ 正当 にも 政治
p o lic ie
と 呼ば れる
﹂も のと 評 価 し た66
︒︶
そ の う え で︑ ビー コ ンは さ ら に︑
﹃君 主 論﹄ と
﹃デ ィ スコ ルシ
﹄の 議 論を ア イル ラン ドの 統 治の 分析 に応 用す る︒ たと えば
︑ マキ ァヴ ェッ リが
﹃デ ィス コ ルシ
﹄ 第二 巻 第二 三章 で述 べ るよ うに
︑古 代 ロー マと 異な り
︑フ ィレ ンツ ェ は征 服に 際し て 中途 半 端な 方法 を取 っ たた めに
﹁帝 国 や 統治 を確 実な も のと し︑ コモ ン ウィ ール を増 大さ せる 機会 を失 った
﹂︒ そ れと 同様 に︑ アイ ルラ ンド の征 服 も中 途半 端 であ った がた め に︑
その 統 治が 幸 福で 繁栄 して い ると は決 して 見 られ ない
﹂の で ある67
︒︶
この よう に︑ ビ ーコ ン は﹁ 権 力﹂ の必 要 を 指 摘す る 一 方 で︑ 説 得﹂ や
﹁政 治﹂
︑あ る いは
﹁秘 密 の思 慮
﹂や
﹁良 き 法
﹂や
﹁厳 格な 為 政者
﹂な どを 通 じて
﹁改 革﹂ を 進め よう と試 みた68
︒︶
彼 はま た︑ あ らゆ る王 国の 強さ や力 は 群衆 や民 衆 に存 する
﹂と の 立場 から
︑ア イ ルラ ンド の衰 退 の大 きな 原因 と して
︑族 長と 領 主の 増 長と 圧政 に注 意 を向 ける
︒彼 に よ れば
︑ 征服 によ っ て獲 得さ れた コ モン ウェ ルス
﹂ にお いて は︑
貴族 の 力よ り も民 衆 の好 意に よっ て 統治 はよ り確 か な もの へと 前進 す る﹂ ので あり
︑ 学 識あ る著 者﹂ で ある マキ ァヴ ェ ッリ に従 って
︑ 民 衆を 抑圧 の状 態 から 解放 する
﹂ こ とが 必 要と され るの であ る69
︒︶
ただ し︑ そ の一 方で ビ ーコ ンは
︑法 や 宗教
︑慣 習︑ 言 語 を﹁ 統一
﹂す る こ とに 加 え︑ 征服 され た国 民を 義 務と 服従 に留 め 置く
﹂必 要 も 認識 して いた
︒そ し て︑
﹃君 主論
﹄第 三 章 の議 論と 同様 に︑ 永 続的 な 不平 不 満﹂ と﹁ 無限 に続 く出 費﹂ を招 く駐 屯軍 と対 比 して
︑ その ため の﹁ 最 も 有益
﹂ な方 法 と し て挙 げ ら れ たの が
﹁植 民
﹂で あっ た70
︒︶
他方 でま た︑ ハ ーバ ート は﹃ ア イル ラン ド論
﹄
C ro ftu s siv e d e H ib er n ia L ib er
にお いて
︑キ ケロ の
﹃ウ ェッ レス 弾
劾
﹄を 用い なが ら
︑ア イル ラン ド を古 代ロ ーマ の 属州 シチ リア に なぞ らえ た71
︒︶
ハ ーバ ー トは また
︑ア リ スト テレ スや リ ウ ィウ スな どに 加 え︑ とり わけ 同 時代 の代 表的 な 人文 主義 者で あ るリ プシ ウス の
﹃政 治 学六 巻﹄ に大 き く依 拠し なが ら
︑ 党 派や 反乱
︑暴 政
︑非 難や 中傷
︑ 法や 行政 など に 関す る悪 弊と 対 策を 考察 する72
︒︶
そし て
︑ハ ーバ ート は
︑ビ ーコ ンと 同 様 に︑
著名 な イタ リ ア人
﹂で ある マ キァ ヴ ェッ リ の﹃ 君 主論
﹄の 第三 章か ら植 民論 を 長く 引用 し︑ 移 民兵 と 駐屯 兵の 比 較を 行っ たの で ある
︒﹃ 君主 論﹄ か らは 他に も︑ 病 弊を 早期 に発 見 して 治療 を施 す 必要 や︵ 第三 章
︶︑ 他力 本願 でな く 自 力で 物事 を行 う こと
︵第 六章
︶︑ 民 衆の 憎し みを 買 わな いこ とが 最 上の 防衛 策で あ るこ と︵ 第二
〇 章︶
︑旧 来の 法や 慣 習 を残 した まま に する と反 乱が 起 き︑ 破滅 を招 く こと
︵第 五章
︶ など が参 照さ れ た73
︒︶
ハー バー トの 議 論の 特徴 はま た
︑こ れら の悪 弊 を予 防す るた め の方 策と して 教 育の 重 要性 が強 調さ れ てい るこ とに 求 め られ る︒ 彼は こ こで
︑ア イル ラ ンド 語訳 の聖 書 の必 要や プラ ト ンの 教え
︑あ る いは
﹁ 学識 が残 虐さ を 抑制 する74
﹂︶
こと な ど を 説 く と と も に︑ 具 体 的 な 大 学 設 置 の プ ラ ン を 提 示 す る︒ す な わ ち︑ ハ ーバ ー ト は︑ 徳 と 学 問 と 人 間 的 教 養
h u m a n it a tis
の最 も 悦ば し く純 粋な 源﹂ で ある 大学 をダ ブ リン とリ メリ ッ クに 設立 し︑ 神 学・ 法 学・ 医学 のカ レッ ジを 置 く だけ でな く︑ そ の財 源や 給与 や 教師 の配 置に つ いて も細 かく 言 及し たの であ る75
︒︶
この よう な教 育的 な 観点 から 彼は
︑ 他 にも
︑ 思慮 ある 統 治者
﹂に 対し て
﹁暴 政的 で危 険 な﹂ 手段 を取 る ので なく
︑公 正 な裁 判や
︑法 や 衣服 や習 慣の 統 一︑ さ らに は為 政者 が
﹁侮 辱や 嘲笑
︑ 敵対 心や 軽蔑
﹂ では なく
﹁優 し さや 親し み﹂ を もっ て 接す るこ とな ど を助 言し た76
︒︶
︵ 三
︶ エ ド マ ンド
・ ス ペ ン サ ー にお け る 征 服 と シ ヴ ィリ テ ィ この
よう に︑ ル ネサ ンス 期の ア イル ラン ド統 治 論は
︑古 典古 代 の歴 史や レト リ ック
︑ ある いは マキ ァ ヴェ ッリ やリ プ シ ウス の受 容を 通 じて 展開 され て いた
︒そ のう え で︑ とく に征 服 とシ ヴィ リテ ィ との 緊 張を 示す 例と し て最 後に 取り 上
(82‑2・3‑ )
349 93
征服とシヴィリティ(木村)
げ るの がエ ドマ ン ド・ スペ ンサ ー
︵
E d m u n d S p en se r, c. 15 22 99
︶で ある
︒彼 は 同時 代 の英 文学 史を 代 表す る詩 人と し て 一般 に知 られ て いる が︑ 同時 に また
︑ア イル ラ ンド 総督 グレ イ の私 設秘 書や
︑ 大法 官 府裁 判所 やマ ン スタ ー評 議会 の 書 記官 など を務 め た人 物で もあ っ た︒ そし て︑ ア イル ラン ドで 執 筆さ れた 彼の
﹃ 妖精 の 女王
96
﹄T h e F ae ri e Q u ee n , 15 90 ,
は77
︑︶
騎 士道 の 物語 が描 かれ た文 学作 品 であ るだ けで なく
︑以 上の よう な帝 国や シ ヴィ リ ティ を めぐ る人 文 主義 の言 説 が駆 使さ れた テ クス トで もあ っ た78
︒︶
この
﹃妖 精の 女 王﹄ に収 録さ れ たウ ォル ター
・ ロー リー 宛の 手 紙に よれ ば︑ こ の作 品 の目 的は 寓意 を 通じ てジ ェン ト ル マン 教育 を行 う こと
︵ 紳士
︑即 ち 身分 ある 人に 立 派な 道徳 的訓 育 を施 すこ と﹂
︶に あ った79
︒︶
そ れゆ え
︑ス ペン サー は
︑ ブ リテ ンの 王子 ア ーサ ーの 物語 を 軸に
︑ア リス ト テレ スが 挙げ た 諸徳 を具 現す る 騎士 を 各巻 に登 場さ せ る︒ なか でも 注 目 され るの は︑
正義
﹂の 騎士 アー テ ィガ ル がア イリ ーナ
︵ア イ ルラ ンド
︶救 出 に向 か う物 語が 述べ られ た﹃ 妖精 の女 王
﹄第 五巻 であ る
︒し かも
︑そ の 冒頭 では
︑バ ッ カス によ る﹁ 東 洋全 土﹂ の征 服
︑ヘ ラ クレ スに よる
﹁ 西洋 全土
﹂の 征 服 への 言 及が なさ れる が80
︑︶
こ の こと は︑ 第 五巻 の主 題 が正 義に よる 征服 であ る こと を示 唆し て い る︒ そ し て︑ スペ ン サ ーは 以下 の一 文 によ って
︑ 妖精 の 女王
﹂
‖エ リザ ベス
︶に よ るア イル ラン ド の支 配 を正 当化 した の であ る︒ アイ
リ ーナ と 呼ば れる その 婦 人は
︑妖 精の 女 王の もと に 赴い て︑ 女 王に 自分 の 窮状 を訴 え︑ 慈 悲深 い 援助 を請 い求 め た︒ あ の至 高の 女王
︑ あの 強大 な女 帝 は︑ あら ゆる 哀 れな 嘆願 者た ち を助 け
︑弱 い王 侯の 保 護者 とな るの を 名誉 と し︑ ア イリ ーナ 救出 の ため アー ティ ガ ルを 選ば れた
﹂
81︶
5:
1: 4
︶︒ さら
に︑ 実際 に 植民 地統 治に 携 わっ て い たス ペン サー は また
︑こ の﹃ 妖 精の 女王
﹄だ け で なく
︑﹃ ア イル ラ ンド の現 状 につ いて の見 解
﹄
A V ie w of t h e P re se n t S ta te o f Ir el an d
︵書 籍出 版 業組 合登 録
15 98
︶を 執 筆し
︑ アイ ルラ ンド の
現 状分 析と 具体 的 な改 革案 を提 示 した82
︒︶
そ して
︑ これ らの 改革 の 目的 は︑ スミ ス やビ ー コン
︑ハ ーバ ー トら と同 様に
︑ 野蛮
﹂な アイ ルラ ン ドに
﹁よ り善 き 統治 とシ ヴィ リ ティ
﹂を 導入 し
︑ 習 俗
m a n n er s
の統 合
﹂や
﹁ 心の 一 致﹂
︑そ して
﹁一 つ の国 民﹂ を創 出 する こと にあ っ た83
︒︶
もっ とも
︑ス ペ ンサ ーに よれ ば
︑イ ング ラン ド もか つて は野 蛮 であ り︑ 幾度 も 征服 さ れて きた が︑ 現 在は
﹁シ ヴィ リ テ ィへ と 至 り﹂
︑ 善 き 交 際
co n v er sa tio n
﹂ や﹁ 学 識 と 人文 学
h u m a n it ie
﹂ のあ ら ゆ る 面 で優 れ る よ うに な った84
︒︶
そ れ ゆ え彼 は︑ この 学 問を 一つ の手 段 とし てア イル ラ ンド に﹁ 洗練 さ れた 交際
﹂を 行 き渡 ら せよ うと した の であ る︒ こう
し て子 供 たち は︑ 洗 練さ れた 交 際
ci v il c o n v er sa tio n
へと 短い 間で 成長 し︑ かつ ての 粗野 な育 ち を嫌 うよ うに な る︒ そ して
︑両 親も ま た︑ まさ しく 若 い子 供た ちの 例 と比 べて みる こ とで
︑ 自ら の立 居振 舞 いの 見苦 しさ に 気づ く よう に なる だろ う︒ 学 問は それ 自体 で 素晴 らし い力 を 有し てお り︑ ひ どく 頑 固で 粗暴 な性 格 を和 らげ 穏や か にす る こと が でき る85
﹂︶
︒ とこ
ろが
︑こ れ らの シヴ ィリ テ ィの ヴィ ジョ ン に対 し︑ アル ス ター の反 乱が 全 島に 波 及し 始め た頃 に 記さ れた スペ ン サ ーの 見解 には 一 方で
︑悲 観的 な 色彩 が強 く見 ら れる よう にな る86
︒︶
彼に よ れば
︑ スキ タ イ人 を先 祖と す る︵ とさ れる
︶ ア イル ラ ンド 人の
﹁野 蛮﹂ や︑ オ ール ド
・イ ング リッ シ ュ﹂ の﹁ 堕落
﹂は 根 深く
︑い まや
﹁ 一斉 に蜂 起し て イン グラ ン ドへ の従 属を 脱 ぎ捨 てよ うと 合 図を 待っ てい る
﹂︒ それ ゆえ に彼 は
︑シ ヴィ リテ ィ を導 入す る前 に まず
︑ 全て を白 紙 に もど して
︑統 治 の形 態を すっ か りか えて しま う﹂ こ とを 求め
︑ より 強権 的な 力﹂ の必 要を 繰り 返し 主張 す るこ とに な る87
︒︶
とは いえ
︑ ここ で見 逃せ な いの は︑ この よ うな 緊張 を有 す る作 品の 最後 で 彼が 参 照し たの もま た
︑マ キァ ヴェ ッ リ の﹃ ディ スコ ル シ﹄ であ った こ とで あろ う︒ し かも
︑ス ペン サ ーは そこ から
︑ ロー マ の自 由や 徳と い った 共和 主義 的
(82‑2・3‑ )
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征服とシヴィリティ(木村)