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道徳的自由と市民的自由との関係

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Academic year: 2021

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道徳的自由と市民的自由との関係

一τJ・ ロ

ックを中心として︵自由論補遺四一自由論一六︶1

大 谷 恵 教

 拙稿﹁道徳的自由︵自由論補遺=︶﹂︵自由論一三︑﹃早稲田社会科学研究﹄第二十八号︑昭和五十九年三月︑所収︶

において︑J・ロック︑J・S:ミル︑J・J・ルソーーとりわけルソーーなどの言を引用して︑〃道徳的自由

︵人間のなかにおける理性的性格と非理性的性格との間の激しい内面的葛藤において︑理性的性格が非理性的性格を

コントロールして︑悪魔の誘惑に負けたり欲望の奴隷になったりすることなく︑神の命令や理性の命令にしたがって

生活するという〃精神的自律︶が︑自由の最高の段階のものであることを指摘した︒

 また︑拙稿﹁ホッブズにおける道徳的自由と市民的自由の欠如およびその悲劇︵自由論補遺二︶﹂︵自由論一四︑﹃早

稲田社会科学研究﹄第二十九号︑昭和五十九年九月︑所収︶では︑ホッブズが︑人間を理性よりも意思︑感情︑感動

衝動ないし本能が徹底的に優先する情念的︑原子的︑機械的︑打算的人間としてとらえ︑自然状態において万人がみ

なしたがうべぎいかなる普遍的道徳律や正義や︑またそれらにもとずく公共に対する義務とかモラルとかも認めず︑

そこにおいては人間はただ自己保存と自利心の追求という自然的情念に動機づけられて行動し︑そのようななかから

ホッブズ独特の自然権と自由についての思想が生まれ︑その自然権とは︑自己保存のために︑各人の欲するままにそ

43 早稲田社会科学研究 第31号(60.10)

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の力を用いる自由であり︑その際用いる手段に関しては普遍的基準はなく︑それは各入の判断と理性一推理︑計算

あるいは打算一にまかせられるのであり︑かれの自由とは︑自分の能力不足以外にはいかなる制限をもたないとこ

ろの︑なしたいことはなんでもなしえて︑それに対して外部からの障害や反対が一切存在しないという自然的情念に

もとつく完全かつ絶対的な自由であり〃自然的自由であって︑道徳的自由は否定され︑その結果かれの自然状

態は〃万人の万人に対する戦争状態に陥り︑各人はそこからの救済を求めるのであるが︑その救済手段としては〃理

性の命令である自然法も社会契約も役に立たず︑そこで遂にホッブズは最後の救済策として〃自己保存本能と

〃暴力による死に対する恐怖〃という自然的情念を起因として︑理屈抜きに︑一たんは否定した社会契約を手段とし

て〃強力な国家〃の設立へとなだれこみ︑その社会契約の内容とは各人が各人の間で契約の当事者でない第三者へ全

権利を譲渡してリヴァイアサソという絶対的主権者をつくって︑それに絶対的に服従する〃臣民ないし人格なぎ

〃奴隷になり︑それに反して絶対的主権老は契約の当事者でないので︑なにをなそうとも不正−契約違反一の

かどで罪に問われることがないというもので︑その国家では絶対的主権者は文字通りの絶対専制君主であって︑臣民

は絶対的主権老の気紛れな恣意がたまたま目こぼしする一法の沈黙一とぎ︑その範囲内で偶然に一時的ではかな

い自由を与えられるにすぎず︑その自由も絶対的主権老によっていつ取り上げられるかわからないものであり︑そし

て国家内における組合︑同盟あるいは党派などの結社の自由1したがって言論︑思想︑表現などの自由1︑すな

わち市民的自由も認められず︑それゆえホッブズの国家においては絶対的主権者の専横的抑圧からの立憲的に定めら

れた自由はなく︑法という垣根はむしろ臣民の自由にとっての重い〃人工的鎖ないし〃足枷になっていて︑政治

的自由も市民的自由も存在しないことを明示しておいた︒

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道徳的自由と市民的自由との関係

 拙稿﹁ルソーにおける〃市民的自由の欠如と専制政治への傾斜︵自由論補遺三︶﹂︵自由論一五︑﹃早稲田社会科学

研究﹄第三十号︑昭和六十年三月︑所収︶においては︑ルソーは道徳的自由を強調してそれを自由の最高段階のもの

と説いたものの︑常に正しくて公共の利益を志向する〃一般意思〃の主権と万能性を力説し︑私利を眼中におく個別

意思の総計である全体意思を厳しく排除して︑一般意思に合致した法律を制定すべぎことを説くと同時に︑一般意思お

よびその指導の下に制定された法律の遵守を重視して︑その遵守を拒むものは結社全体の力でそれにしたがうように

強制すべきであり︑そのことは自由になることにほかならないのだと論じて﹁強制可能な理性的自由﹂への傾斜を示

し︑また国家内における部分的結社はその意思が私利を眼中におく個別意思にほかならないとしてこれを原則的に否

定しているが︑これは市民的自由の否定につながるものであり︑さらに代議士に関しては︑それは根本的には私的利

益−個別意思や全体意思1の追求の横行︑それによる国民の直接的な公務遂行の回避︑それに加えるに祖国愛の

減退︑国家の広大さ︑征服︑政府の職権濫用などに原因しているとして︑これを否定して直接民主主義へのいちじる

しい傾斜を示したが︑しかしルソーは直接民主主義が行なわれうるためには四つの前提条件を満たさなければなら

ず︑しかもそれらの条件を満たすことは困難であり︑それにそもそも多数者が支配して少数者が統治されるというこ

とは自然の秩序に反するし︑国民が公務を遂行するために絶えず会合するということは考えられず︑直接民主主義の

ような完壁な政体は人間には適さないと論じ︑このようにして代議制も直接民主主義も否定した結果︑遂に〃立法者

論に到達し︑盲目な群集はなかなか一般意思がわからず︑個別意思をもって私的利益の追求に向うゆえ︑あらゆる点

で非凡な立法者を設定して︑かれに盲目な群集が一般意思を知り︑それに向うように指導・強制させるべきであると

主張して︑ルソーの思想のなかに民主主義的な流れと同時に専制主義や絶対主義への傾斜の流れが存在することを論

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じた︒ 以上のところがらもわかるように︑道徳的自由なき消極的自由は放縦となり︑その結果ホッブズにおけるように

〃万人の万人に対する戦争状態というアナーキー状態に陥り︑そのなかから次に出てくる政体は専制主義であって︑

国民の政治的自由も市民的自由も否定されてしまって︑民主主義のよすがは全然存在しない︒また︑道徳的自由のみ

を認めて市民的自由を否定するときは︑ルソーにおけるようにやはり専制主義へ傾斜してしまう︒ここに︑民主主義

における道徳的自由と市民的自由との関係という問題が生じてこざるをえない︒

 拙稿﹁民主政治の精神的前提条件と公共の哲学﹂︵﹃早稲田社会科学研究﹄第十五号︑昭和五十一年二月︑所収︶の

なかでN:・・ックレムやその他の学者の言を引用して指摘したように︑民主主義はω理想としての民主主義と︑②政

治的装置としての民主主義との二つの側面をもっているのであって︑民主主義は単にひとつの政治形態であるのみな

らず︑同時にひとつの精神的ないし道徳的理想であって一すなわち民主主義は単に手段であるばかりでなく︑同時

に目的でもあるのであって一︑この理想とは﹁人間人格の向上・完成﹂であり︑これが民主主義の最高目標なので

ある︒そして︑﹁人聞人格の向上・完成﹂とはとりもなおさず道徳的自由の充実化・完成にほかならないのである︒ま

た︑人間人格の向上・完成や道徳的鼠由の充実化・完成をはかるためには︑前出拙稿﹁ホッブズにおける道徳的自由

と市民的自由の欠如およびその悲劇﹂において指摘したように︑人間は理性的側面と非理性的側面という︑まったく

相い反する性質を同時にもつ二律背反的な二元的性情の持ち主であり︑したがって不完全な可謬的存在であるので︑

他人の異なる意見や考えに謙虚に耳を傾け︑自分の意見や考えに誤まりがあればその非を卒直に認め︑他人の言い分

に正しいものがあればそれを素直に受けいれなけれぽならない︒すなわち︑人間人格や道徳的自由を確立してその内

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道徳的自由と市民的自由との関係

容を高めていくという目的を達成するためには︑その手段として言論・思想・討論・出版・報道・集会・結社などの

自由︑すなわち〃市民的自由が不可欠なのである︒このように︑民主主義における道徳的自由と市民的自由との関

係は︑道徳的自由が民主主義の最高目標なのであって︑市民的自由は道徳的自由のための不可欠の手段であるという

ことである︒そして︑その根底には︑人間をどのように見るかという人間観の問題が横たわっているのであって︑ホ

ッブズは人間をあまりにも〃自然的情念の人間として描いて︑その理性的側面を軽視しすぎたために道徳的自由も

市民的自由も否定し︑ルソーは道徳的自由を自由の最高段階のものとみなし︑かつ一般意思を強調したものの︑大衆

を蔑視しすぎたために市民的自由を否定して立法迎撃に到達したのである︒

 これに反して︑ホッブズおよびルソーと並んで三大社会契約論者の一人といわれるロックは︑他の二者にくらべて

比較的よく人間を二律背反的な二元的性情の持ち主としてとらえ︑かつ理性的側面を重視した上で︑道徳的自由と市

民的自由との間の適切な関係を説いたということができる︒そこで次に︑筆老がすでに発表した著書︑論文のなかか

らロックの言を引用しながら︑この問題についてのかれの立場を簡潔に整理してみたい︵したがって︑本稿では註を

省略したい︶︒

 まず︑ロックは道徳的自由を主張した︒すなわち︑かれは人間を二律背反的な二元的性情の持ち主であることを指

摘し︑一方において人間の可謬性を認めたが︑しかし他方では︑人間には︑人間が他の動物より優先し︑道徳を知

り︑生活を便宜にして神の法にしたがって生活するために︑神の声であり人間の生活における羅針盤である〃理性

を神から与えられていて︑これによって人間は完全ではないがかなりな程度理性的な〃理性的動物であり︑したが

ってこの理性の指導によってわれわれがより悪いことを選んだり行なったりしないようにする吟味と判断力の拘束の

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下にあることが真の自由であり︑この理性によって人間は限りなく神に近ずき︑神の法を知るようになるのであり︑

そしてその神の法は理性の法︑自然法であって︑人間はこれらの法にしたがわなければならず︑また国法は神の法に

合致するように制定されなけれぽならない︑と主張した︒このように︑戸ックの理論体系の頂点には神の法︑理性の

法︑自然法が厳然として存在し︑人間はこれらの法にしたがうべきであり︑そのために理性が与えられているのだと

強調することを通して︑ロックは︑人間は欲望の奴隷になったり悪魔の誘惑に負けたりすることなく︑理性的側面が

非理性的側面をコントロールして神の命令や理性の命令にしたがって生活するという精神的自律︑すなわち道徳的自

由を説いたのである︒

 ロックの道徳的自由の主張は︑かれの自然状態論や教育論においてもはっきりとみられる︒すなわち︑ロックは︑

前述のように人間は完全ではないがかなりな程度理性的な〃理性的動物であるゆえ︑自然状態において理性的動物

である人間が享受する臼由の状態は〃自然法の枠内において各人が﹁適当と思うままに自己の所有物と身体を処理

し︑他人の鼻息をうかがったり︑その意思に依存したりしない状態である﹂といって︑自然的自由も神の法であり理

性の法である自然法のみの制約を受けて︑それ以外のいかなるものの制約も受けない道徳的自由であることを指

摘している︒また︑ロックの教育論に関する著作である﹃教育に関する若干の考察﹄においても︑教育の目標は徳性

の酒養であり︑教育の仕事は身体を︑精神の命令にしたがいかつそれを実行することができるように︑理性的動物の

尊厳と優越性にふさわしい事柄以外のいかなるものにも同意しないような気質の精神をつくることであることを指摘

し︑﹁あらゆる徳性と優越性の原理が︑理性がわれわれの欲望を正当なものと認めない場合には︑その欲望の満足をみ

ずかち否定する力にあるということは︑わたくしには明白であるように思える﹂︑﹁徳性の真の原理と規準は︑人間の

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道徳的自由と市民的自由との関係

義務を知ることであり︑また受容と報いとの希望をもって︑神がかれに与えた光の指示にしたがりて創造主に服従す

ることの満足であるしと主張して︑教育の目標が欲望の奴隷となることなく︑神の命令や理性の指導にしたがって生

活するという精神的自律︑つまり道徳的自由を子供の身につけさせることであることを力説している︒

 このようにして︑ロックの説く第一義的な自由は欲望のままに恣意的に言動する放縦ではなくて︑﹁人びとがかれら

の間に裁判権をもつところの共通の優越者を認めずに︑理性の命令にしたがって生きていく﹂という〃道徳的自由

であり︑そのような状態がかれの自然状態なのである︒すなわち︑かれの自然状態における〃自然的自由とは︑W・

H・ダンニソグの言葉を借りれば︑個人の恣意的我儘以外のあらゆる規則からの特免ではなくて︑自然法以外のあら

ゆる規則からの特免であり︑ロック自身の言葉でいえば︑﹁地上のあらゆる優越勢力に屈伏したり︑人間の意思とか主

権に支配されることなく︑ただ自然の理法のみを自分の規範としてもっこと﹂なのである︒端的にいえば︑μックの

自由観は︑人間が神の法︑理性の法︑自然法を守る限り︑思い通りに行動し︑決して他人の恣意に支配されずに︑独

立の立場にあるということである︒

 こうしたロックの自由観は︑社会契約を結んだ結果形成される政治社会における自由の考え方にも︑基本的に継承

されている︒そもそも国家・政治社会の形成は︑かれにあっては︑各人の自由を含めた自然権︵生命︑自由︑財産︶

をさらに一層よく保障するためである︒そして︑政治社会は︑自然状態には公けの法︑公平な裁判官︑執行権力がな

いために︑人びとの間に紛争が発生したときそれに決着をつけることができないので︑形成されて︑そこに立法部を

はじめとする諸国家機関が設立されるのであるが︑そうした政治社会における自由について︑戸ックは﹁国民の同意

によって設立される立法権以外のものには支配されることなく︑その立法権が国民からの信託にしたがって制定すべ

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きもの以外には︑いかなる意思にも︑法の拘束にも屈しないことである︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝政府の下にある人間の自

由とは︑恒久的な法律を生活の規範となしうる状態をいい︑その法律はその社会の各人に共通するものであって︑そ

こに設けられた立法権によって制定される︒すなわち︑その法律が命じる範囲外においては常に自分自身の意思にし

たがい︑他人の移り気な︑不確かな︑はつぎりしない︑気儘な意思に屈しない自由の状態である﹂と述べ︑また立法

権によって制定される国法は神の法︑理性の法︑自然法に合致しなければならないとも説いている︒すなわち︑戸ッ

クの政治社会における自由とは︑国民から〃同意を得て選ばれて一定の権限を〃信託された立法権が神の法︑理

性の法︑自然法に合致させて制定した法律にのみ国民はしたがい︑その範囲外では他人のいかなる意思にも屈せず︑

常にただ自分の意思にのみしたがうという自由なのであって︑もしも立法権が神の法︑理性の法︑自然法に合致しな

い法律や︑あるいは国民の自然権を侵害するような法律を制定した場合には︑信託違反のかどでこれを更迭しうる最

高の政治権力を国民は有しているのである︒ここに︑道徳的自由の継承とあらゆる他人の絶対専制権力からの自由の

強調がみられるのである︒

 また︑戸ックは︑このような自由を政治社会において確保するためにさまざまな工夫をしているが︑前述の信託論

や権力分立論や同意による政治などがそれらであり︑それらについては拙稿﹁消極的自由︵一︶﹂︵自由論三︑﹃早稲田

社会科学研究﹄第十八号︑昭和五十三年十二月︑所収︶や拙著﹃国家と民主主義﹄のなかで詳述しているので︑ここ

では省略したい︒

 さて︑さきに入間人格の向上・完成や道徳的自由を確立してその内容を高めていくという目的を達成するために

は︑その手段として〃市民的自由が不可欠であるということを指摘したが︑これに関しては戸ックは︑﹃統治二黒﹄

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では討論の自由︑多数決原理︑国民による立法部の選挙や更迭︑同意による政治などを説き︑﹃寛容に関する書簡﹄に

おいては政教分離︑宗教上の異なる意見や立場に対する寛容︑理性的知性的態度︑討論による解決などの重要性を力

説したことは︑これも拙稿﹁消極的自由︵一︶﹂や前出拙著で指摘した通りである︒すなわち︑ロックは市民的自由の

不可欠性を十八世紀において説いたのである︒

 以上のように︑民主主義における道徳的自由と市民的自由の適切な関係を近世において説いた典型的な学者がロッ

クであったといって差し支えないであろう︒

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参照