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日本佛教學協會年報 第13号(全)

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第十三年

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日本悌教事協合年報第十三年

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日本側教挙協合年報

第十三年

道元締師の宗教思想の睦系組織に就て::・

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事相上より見たる守魔法親王の御偉徳::−

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皇閤精紳より見たる浄土教義の基本的構造:

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一 、 絡 諭 = 、 諸 先 恵 一 の 日 本 叡 三、日遼翠人の日本観 ー、粟散議土としての大日本図 2 、神図としての大日本図 5 、偽法隆昌固としての大日本図 4、法華経本線図しての大日本図 5 、本国土妙閣としての大日本図

日蓮混一人は従来の記停に沿いては、十六歳又は十八歳出家の後に、如来一代の較に八宗十宗あるは何故ぞとの 疑惑を解決せん矯め、﹃日本第一の智者と友さしめたまへ﹄と、清澄寺の本傘虚宰蔵菩薩に祈願したとせられてゐ る が 、 私 は ﹁ 延 山 録 外 ﹂ の ﹁ 光 日 房 書 断 簡 ﹂ に 治 け る I 日慈雲人の日本観

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日本偽設事協 A W H 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 2 ﹃予はかっしろしめされて俣ごとく、品川 J 仇市より事文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御霊前に願を立。日 本第一の智者とたし給へ、十二のとしより此願を立。主︵所願に子細あり、今くはしくはのせがたし。﹄ とあるに鑑みて、恐らく此の願あるによって十二歳より清澄山に登りて習皐し、十六歳にいたりて何等か得る所 あるに至って出家されたのではたいかと考へ、遺文を探究したととろ、果して﹁神国王御書﹂にたいて、需永の 安徳天皇の西海の御率、及び承久の饗に沿ける三上皇の三嶋の謹座の御事を、詳細に叙されたる後、 0 0 0 0 0 0 G o o

﹃日蓮此事を疑ひしゅへに、幼少の頃より、随分に額密二道、並に諸宗の一切経を、或は人に習弘、或は我と 開見し、勘へ見て候へば、故の候ひけるぞ。﹄ といはれてゐる文にないで、我が神園に沿いて紳・儒・伸の三道盛りたるに、何故に て、或は海中に謹幸せられ、或は嶋 k に遷座あるが如き異箆の出来せるかの疑を有してゐられた事をたしかめ、 ま た ﹁ 妙 法 比 丘 尼 御 返 事 ﹂ に 、 至 骨 与 が 臣 下 と の 戟 に よ り ﹃市るに日蓮は、日本国安房園と申露に生れて侯が、民の家より出でて頭を剃り袈裟を着たり。此度いかにも して、悌種をもうへ生死をはたるる身とたらんと思て候しほどに、皆人の願せ給事・なれば、阿繭陀備をたのみ 0 0 0 0 0 奉り、幼少より名読を唱候し程に、いささかの事ありて此事を疑し故に、一の願を沿とす。日本固に渡れる慮 の悌経並に菩薩の論と人師の程とを習見候はピや。又倶合宗成賓宗律宗法相宗三論宗華巌宗真言宗天台法華宗 と 申 宗 ど も あ ま た 有 と き く 上 に 、 問 料 宗 浮 土 宗 と 申 ︷ 一 部 も 候 た り 。 此 等 の ︷ 一 万 k 枝葉をばとまかに習はやとも、所詮 肝要乞知る身と・ならばやと思し故に、随分にはしりまはり、十二十六の年より三十二に至まで、二十齢年が問、 鎌倉・京・叡山・園按寺・高野・天王寺等の閤 k 寺 k あ ら / \ 習 回 り 候 し 。 ﹄

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と あ り 、 ま た ﹁ 報 思 抄 ﹂ に ﹃世間をみるに、各 k 我も/\といへども、園主は但一人なり。二人とたれば国土ただやかたらや。家にこの 主あれば其家必やぶる。一切一経も叉かくのごとくや有らん。何の経にでもをはせ、一程とそ一切経の大王にて はをはずらめ。市に十宗七宗まで各 k 評論して隠はや、園に七人十人の大王ありて寓民をだやかたらじ。いか D O G C O んがせんと疑ととろに、一の願を立。我れ八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として、一代の勝劣を ク テ 一 一 レ ラ 一 − かんがへしがごとく、一切経を聞をみるに、浬繋経と申経に去、依 v 不 v v人等云云。依法と申は一切経、 不依人と申は備を除を奉て外の普賢菩薩文殊師利害薩乃至上にあぐるととろの諸人師たり。﹄ とあるのに依ると、聖人は官時の一般の風習により、幼少から稿名念伸してゐられたが、いささかの動機から一 人の耀迦牟尼悌の教に、八宗十宗あるは何故ぞと疑ひ、経論轄の研究乞忠弘立売れた事が、たしかめられる。かく の如きごうの大疑は、容易に何人も解治せしむべきものではなく、官時にあって誰人に聞いても答の得らるべき ものでもない。さてとそ﹃日本第一の智者とたし給へ、十二のとしより此願を立、罪、所闘に子細あり﹄といはれて ゐるのであらう。而して﹁善無長三戴抄﹂に ﹃市るを日蓮は・安房園東保郷清澄山の住人也。 h v h J m 白 r h v h ι r p 静 子 世 口 一 閃 竺 D 勺 じ が 一 ず い 、 日 本 第 一 の 智 者 とたし給へと云云。虚空蔵菩薩眼前に高借とたらせ給て、明星の如く怒る智慧の費珠を授させ給き﹄ と い ひ 、 ﹁ 清 澄 寺 大 衆 中 書 ﹂ に 3 ﹃生身の虚空競菩薩より、大智慧を給りし事ありき。日本第一の智者とたしたまへと申せし事を、 たぽしめしけん。明星の如なる大賓珠を給て、左の柏に受取候し。﹄ ふぴんとや 日蓮連人の日本観

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日 本 係 数 革 協 舎 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 四 4 とある宗敬心理上回心の奇置をも、古来の記停は十六又は十八歳の時に護願し三七日祈念せる感臆としてゐるが、 それでは﹁善無畏三蔵抄﹂の﹃幼少の時より立願﹄といふ文にも親しくない。のみたらや聖人減後一八

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年代の身延 山 日 朝 師 の ﹁ 元 組 化 導 記 ﹂ が 、 或 る 古 記 を 引 い て 、 ﹃ 御 出 家 ノ 最 初 、 虚 空 蔵 菩 薩 ノ 霊 前 − 一 於 テ 、 世 − 一 比 類 ナ キ 智 者 − 一 シ テ タ ピ ク マ ヘ ト 、 強 盛 = 御 前 ア リ シ カ パ 、 後門ノ方ヨリト畳シク、気高キ老借一人出来リテ、虚空蔵菩薩所持ノ如意賓珠ヲ手=執リ持チ、卵、?甲府一仰心円 ツル智慧ヲ只今輿へ一一ト、車人ノ御方へ投グ渡サセ給ヘパ、此ノ玉相違ナク飛ピ来リテ、左ノ柏へ入ルト云フ 夢想ヲ蒙リ、願望成リヌト御慌アリテ、遠ク他園=趣キ、買ク諸︷一部ヲ畢スルホドェ、甫都・北嶺・東寺・高野、 残リナク之ヲ伺ヒ、宗 k ノ 淵 底 ヲ 究 メ タ マ ヘ リ 。 ﹄ といってゐる﹁汝ガ年来祈リツル智慧﹄とあるにも合致したい。要するに従来の記俸は、﹁身延山録外﹂の﹁光日房 書断簡﹂を知らたかった矯めに、十六又は十八歳護願感躍といふ風に倖へたもので、﹁紳園王御書﹂﹁妙法比丘尼 御 返 事 ﹂ 等 の ﹁ 幼 少 よ り の 大 疑 ﹄ 、 ﹁ 善 無 畏 三 購 抄 ﹂ の ﹃ 幼 少 よ り の 立 願 ﹄ 、 ﹁ 一 五 組 化 導 記 ﹂ 所 引 古 記 の ﹃ 汝 ガ 年 来 前 リ ツ ル﹄等の諸文とは翻酷してゐる。﹁光日房書簡簡﹂の﹃十二のとしより此願を立﹄とあるによりて、はじめて諸文悉 く疏通するに至ったので、その詳細は﹁日蓮聖人の護心立願の時期を論や﹂︵引綿

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研︺に明かにして置いた。 十二歳にして承久の饗の下赴上を疑ひ、悌法の大師を疑ったといふ聖人にして、はじめて開魔立宗の首詮の誓 と し て 、 ﹁ 開 目 抄 ﹂ に ﹁ 本 願 を 立 ん 。 申 さ や ば 、 法華経をすてて観経等について後生在期せよ。父母の頚を例ん、 たんどの種 K の 大 難 出 来 ず と も 、 九 伊 ι f h 日 野 中

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念悌 風の前の塵

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0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 D O D O なるべし。我れ日本の桂とならん、我れ日本の眼目とたらん、我れ日本の大舶とならん、等とちかひし願やぶ る べ か ら や 。 ﹄ といはれたる本願も理解し得られ、また﹁妙一女御返事﹂に ﹁日蓮がひが事たらば、日天もしめし、彼等にも召し合せ、︵我若し︶其理にまけてありとも其心ひるがへらや ば 、 ︵ 日 蓮 が ︶ 天 需 を も め し と ら れ よ か し 。 ﹄ といはれたる、生命をかけた公明正大怒る態度をも了解し得られるのである。 し た が う て 聖 人 は ﹁ 立 正 安 閤 論 ﹂ に 、 ヅ ヅ テ ア ク ヅ ア ﹃ 先 耐 ニ 園 家 司 須 v コ 伸 法 一 ﹄ といふ園家本位の備法を唱へてゐられるが、上の﹁開目抄﹂の﹃日本の桂・眼目・大舶﹄といふ本誓に照せば、それ は皐に一般の園家本位の備法ではたく、特に日本国家に斯の法を立てねばならぬといふ意味を内在してゐるもの とせねば友らぬ多くの理由がある。その一斑は﹁安園論御勘由来﹂に セ パ ノ ラ タ ノ キ ﹃若段ニ壊此園土﹁復悌法破滅無 y 者 也 。 ﹄ と、法因不可離の信念をも呈露してゐられるのでも明かだ。 ζ の意味に沿いて、日蓮聖人の日本観は、冷静に研究せらるべき必要がある。

二、諸先聖の日本観

5 そとで聖人の日本観を考察するに先ち、聖人以前の諸先聖の日本観を一瞥するととも、決して徒爾のととであ 日慈雲人の日本務 五

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日 本 品 開 教 革 協 曾 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ 占 ノ、 6 る ま い 。 聖徳法王の日本観は、寡聞にして誼確た文献を事げ得ないが、十七保憲法の第二僚に、三賀を以て﹃四生之格 師、寓園之極宗﹄とせられ、憲法の保文は詩・書・左停・瞳記・論語より、管・孟・墨・旺・韓非の諸子、さては 史記・漢書・文選と、経子史文から汎く取用せられたのは、印度・支那を文化の先進国として、その長を我が固 に揖取せられたものであると共に、彼園が大固であり我閣が小園であるととも認識せられてゐたに相遣ないが、 しかもそれ故にその聞に優劣の感を訟もちにたったのではたいととは、かの有名友﹁日出慮天子、致ニ童盲目設慮天 − 一 キ ヤ テ ス ニ 子﹁無 v ﹄ と も 、 ﹃ 東 天 皇 敬 白 ニ 西 皇 帝 − ﹄ と も 書 か れ て 、 封 等 の 外 交 を 錯 し た ま へ る を 始 め 、 ﹁ 三 経 義 疏 ﹂ 就 中 そ の ﹁法華義疏﹂の如を、梁の三大法師として彼土に大名のあった光宅法雲の﹁義記﹂を本義とせられたがら、何等の忌 随一なくその準用すべきは用ひ、その疑あるは之を開き、或は敢然として之を訂正したまへる創見を出したをふた ど、事も小闘が大固に制を仰ぐが如き態度はゐ示しにたってゐ・ない。却てその﹁勝置経義疏﹂には唐の明昼︵妙築 大師の弟子︶が﹁勝室経義疏私抄﹂といふ末註を書いてゐるほどである。 か︿の如を太子の識見はいづれから来たものであらうかを訟もふ時、印度の経論、支那の経史に通じが︵まふ太 テ 、 ラ ズ メ 子としては、我が園障にたける強い御自信があられたのではたいかと公もはれる。十七憲法第三僚の﹃承 v 必 謹 、 、 チ 己 ヒ シ ス ル ラ セ ハ 、 シ ト ラ サ シ ル 、 ラ 君則天也、臣則地也。天覆地載、四時順行、再試得 v遇。地欲 v v 天、則致 v 耳 ﹄ 云 一 ー と あ る が 如 、 さ 、 支 那 ・ 印 度は大園ではあるが、易姓革命つねに常経を喪へる園である。かの﹁法華義疏﹂の法師品の下に沿いて、書量品の 久遠質成の伸を以て、諸経の伸果の至極とし、以て遍く法華最第一を嘆やる所以としてゐらるるのも、﹃悌害命無 窮極﹄を以て、内に我が天壌無窮の皇位のそれに比して、御自信の深きものがあられたのではないかとの想像も

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あながち無稽の臆測とのみは魚し得ないものがあらう。 レ ハ 4 F − 一 キ 4 プ ラ ’ ル − 偉 教 大 師 の 日 本 観 は 、 そ の ﹁ 内 諮 備 法 相 承 血 脈 譜 ﹂ に は 、 ﹃ 夫 悌 法 之 源 、 出 ニ 於 中 天 ﹁ 過 エ 於 大 唐 ﹁ 流 コ 於 日 本 一 ﹄ と いうてあるから、天竺を悌出世の中固とし、大唐・日本は漸衣謹園とせられてゐるかの如くであるが、その︷ l 一 顧 戒論﹂には、天竺には一向大乗園、大小品現行園、一向小栗園の三種ありとし、大唐にも一同大衆、大小粂行、一 向小乗三種の寺ありとし、我が日本固にもまた三種の寺ありしととをいはれてゐるが、大師の所顕であり所期で あり所見としては、印度には小一来自利の聾問、大一束利他の菩薩あり、支那には小人と君子とあり、我が日本園は 男女ともに儒にあっては君子、備にあっては菩薩で、総じて大一来の種姓たりとするにありしが如くである。聖徳 法 王 が ﹁ 三 経 義 疏 ﹂ の 講 撰 も 、 ﹁ 維 摩 ﹂ は 男 子 の 長 者 、 ﹁ 勝 霊 ﹂ は 園 王 の 夫 人 、 と も に 菩 躍 の 教 に し て ﹁ 維 摩 ﹂ は 小 乗 を 弾 じ 、 ﹁ 勝 置 ﹂ は 四 重 任 も て 正 法 一 一 戸 一 試 ︺ を 揖 受 し 、 ﹁ 法 華 ﹂ は ﹁ 在 家 出 家 行 菩 薩 道 ﹄ と 談 じ て 人 天 ・ 三 乗 を 一 大 悌 一 束 に問合せしめられた経であるから、三経講讃はすでに日本園の大衆種姓を暗示せられてゐる。偉教大師との太子 の化に接腫して大衆の教を沿くせんとし、入唐四法の相承があったものとして、弟子光完の﹁一心戒文﹂には、頻 りに太子が南岳後身の設を魚して偉教との即接左示し、孫弟安然の﹁普通授菩薩戒賢程﹂の序には、﹃繭勅菩薩一和 P J リ ノ ノ ミ ガ ル ラ ズ ヤ 一 一 言、東有ニ小園﹁業中唯有エ大衆種姓刊我日本圏、食知ニ成悌﹁宣非ニ其事−﹄といふに至り、所謂中古天台の平安末 期にたいては、﹃大日本園﹄とは﹃大口山本園﹄友りとて、法界員哩の本間とせられる大日如来の本園怒りとの口停ま で 生 じ て ゐ る 。 リ ノ テ ム ル コ ト ラ ル コ ト 弘法大師の﹁御遺台﹂を見ると、青龍寺の慧某に授串した時のとと在、﹃有三大日本園沙門、来求ニ聖教﹁皆令エ所 セ シ ク テ ル F ノ ハ ズ − 一 ノ − 一 − ν ノ ヲ ユ ス D D ノ ラ 串﹁可 v エ 潟 瓶 刊 此 沙 門 是 非 ニ 凡 徒 ﹁ 三 地 菩 薩 也 。 内 具 ニ 大 衆 心 ﹁ 外 一 子 一 小 国 沙 門 相 − ﹄ と 央 段 纂 が 云 っ た と あ る が 、 7 日慈雲人の日本叡 七

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8 八 ノ テ レ 0 0 ュ ノ ス ユ ヲ ヲ ネ ラ ととに日本因を小園といってゐるが、﹁遺台﹂の叙には、﹃鷲峰視聴惇流ユ中洲﹁館塔倖敦利ユ見烏卯 4 探 v流尋 v 源 、 ラ ル 品 ラ ユ テ エ リ ノ プ カ ヲ シ テ カ ス ラ 壁 v晃討 v本、大唐曲成既有ニ血脈﹁日本末葉何無二後生﹁伺明示 v ﹄ と あ っ て 、 我 園 を 自 ら 一 ﹁ 中 削 ﹄ と い っ て ゐ る 。 大師後世の門人伎の憂陀羅寺成傘が後一二一保天皇のいまだ皇太子にましましける頃、﹁即位濯頂儀軌﹂を奉ったの に、印位の御儀は天照傘の三味に入りたまふととで天照傘は印ち大日金輪怒りといってゐるのは、叡山口停 の﹃大口山本園﹄に通じるもので、大白金輪とは金輪車王が四天下を平定する意の三味怒るはいふまでもたいから、 日 本 偽 数 血 中 協 曾 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ その四天下平定の金輪車王の本園は﹃中洲﹄といはるべき意味を有するととになるからである。 天台・真言雨宗に沿いて斯くばかり掌重せられたる我が日本園も、山門と三井、高野と停法院、興幅寺と多武 峰との闘脊以来、保元の援に至。ては、備法も王法もともに衰へ果てたるが如く、所謂末法感は欝然と興り来っ た。ととにたいて鎌倉初期の先皇の日本観には、倖敦・弘法雨大師に具るものがある。 法然上人は欣求浮土厭離競土の法門を以て、末法闘静に問問む素生を救はうとせられたのだから、﹃滞土門はまづ との婆婆世界をいとひずてて、いそぎかの極築浮土にむまれて、かのくににして悌道を行やる也:::かの園にむ まるる事は、すべて機の善悪をえらば歩、ただほとけのちかひを信じ信ぜざるによる。五逆十悪をつくれるもの も 、 と ん 一 念 十 念 に 往 生 す る は 、 す な は ち と の と と は り 也 ﹂ ︵ 地 要 拠 ︶ 1 c 、 遺 悪 の 晶 弘 法 定 安 心 な 興 へ 、 市 も ﹃ 備 は 悪 人 をすて給はねども、とのみて悪をつくる事とれ悌弟子にはあらや、一切の悌法に悪を制せやといふ事たし、悪を 制するにかゑらやしもとれをとどめ得ざるものは、念⋮伸してそのつみを減せよとすすめたる也﹂︵伽院側︶と、彼等 をして任運に遁悪を制せしめられたるが、自然なる現世の飴徳であるから、別に上人の日本観といふものは、そ の著書法語には見あたらぬが如くである。

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柴 西 縄 師 は そ の ﹁ 興 開 護 園 論 ﹂ に 沿 い て 、 ﹃ 印 度 赤 肱 品 殊 勝 之 地 、 果 報 純 熟 之 人 色 エ 於 其 乱 一 4 日 本 日 応 謹 地 也 。 不 善 ク ガ ノ 種 族 色 = 子 此 4 払 ︵ 詮 田 加 入 ︶ 元 県 v 有 、 又 、 戒 行 猷 疎 、 雨 脚 不 v v 有 ﹄ と の 難 に 封 し 、 ﹃ 大 般 若 経 一 去 、 我 浬 探 後 、 後 時 後 八 知 乱 五 百 晶 体 、 ・ 叫 v 知 経 典 、 判 的 ニ 東 北 + デ 九 偽 一 伸 手 交 O 駒 山 V か ト 和 、

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分 ち、剥土のしなじ・なによりて、悌法を舎すべからざる設悲し。﹃人みた般若の正種ゆたかたり、ただ承営するとと まれに、受用するとといまだしきたらし﹄︵醐選︶と、時代方魔に超然、として居らるるが、他面には最明恥時額に 天下の樺を、中八朝に障し奉れと勧告されたといふ停設もある。 9 日 運 用 量 人 の 日 本 叡 大会

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日 本 係 数 民 中 協 舎 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶

10 親鷺嬰人は、その﹁和讃﹂に、﹃源空みづから立はく、霊山舎上にありしとを、聾間借にまじはりて、頭陀を行じ て化度せしむ。粟散片州に誕生して、念悌宗をひろめしむ。衆生化度のためにして、との土にたび/\をたらし む﹄︵野店︶とも、﹃かなしきかたやとのごろの、和国の道俗みたともに、伸教の威儀をもととして、一対一史 v h r 一 砕 い 争⋮砂わ﹄︵鶴間⋮︶ともいはるると共に、﹃久遠却よりとの世まで、感れみましますしるしには、悌智不思議につけ D 3 D G O O D 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 しめて、善悪滞械もたかりけり、和園の教主聖徳皇、庚思深徳謝しがたし、一心に陣命したてまつり、奉讃不退た らしめよ、上官皇子方便し、和園の有情をあはれみて、如来の悲願を弘宣せり、慶喜奉誼せしむべし、:::聖徳 皇のあはれみに、護持養育たえやして、如来二種の回向に、すすめられしめゐはします﹄︵弾一議︶と、国土の立慨 を超越し、二種回向の中の還相回向によりて、栗散片州の日本国も、伸光明担の日本園たらしむべしとて、﹃念悌 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 をふさん人 K は、わが御身の料は沿ぼしめさやノとも、朝家の御ため園民のために、念悌を申し合せたまひ候はば、 め で た う さ う ら ふ べ し : : : 世 の た か 安 穏 な れ 、 悌 池 山 ひ ろ ま れ と K M W M しめすべしとぞ雲仙えさふらふ o ﹄ ︵ 問 問 一 即 時 ︶ とも訓へてゐらるるのである。 とれ等の先聖は、概してみな一往は我が園の東謹の小園たるととを肯定して、市して後にたの/\その所見の 日本観を示してゐらるるのであるが、日蓮聖人の日本観は果していかん、とれ此の篇の主要論目である。 而して墨人の日本観を詳細に論明するととは、しばらく他日に譲り、その日本観にいくばくの方面ありやを、 一 一 一 の 例 文 に よ り て 示 ず に 止 め よ う と 沿 も ふ 。

日蓮聖人の日本観

(17)

聖人は前記の如く、十二歳の時から、一には承久の援について重大なる疑惑を生じて、以後二十飴年の聞の悌 教・儒教・紳遣の研究によって、漸く解決を得てととに法華本門の妙宗を唱導し、行者五眼兵足の見地から、そ の日本観は深淵にして霊 k の襲が含まれてゐるが、今篇は要を撮ってとれを左の五重に分っととにする。 ー、粟散漫土としての大日本図 2 、神園としての大日本図 5 、働法隆昌閣としての大日本図 4 、法華鯉本線図としての大日本図 5 、本図土妙図としての大日本国 ︵ 肉 眼 叡 ︶ ︵ 天 限 貌 ︶ ︵ 慈 眼 観 ︶ ︵ 法 限 観 ︶ ︵ 偽 限 額 ︶

ー、粟散遼土としての大日本図

﹁中興入道治息﹂に ﹃九日本国と申閣は、須繭山よりは南、一閣浮提の凡縦虞七千由旬也。其内に八寓四千の園あり。所謂五天竺 0 0 0 0 D D 十六の大圏、五百の中園、十千の小園、無量の粟散園、徴塵の嶋 k 也。此等の園 k は皆大海の中にあり、警は 池にとのはのちれるが如し。此日本園は大海の中の小嶋、潮のみつれは不 v 見、ひればみゆるかの程にて候し 0 0 0 0 0 0 0 を、紳のつを出し給﹄ とあるは其の代表的のものであると同時に、 2 の意を暗示せられ、或は﹃月氏漢土の人の此園の人 K 左 見 候 に は 、 此園の人の伊豆の大嶋、奥州の東夷なんどを見るやうにとそ侯らめ﹄︵脚僻詑︶といはれてゐるのは、彼等の園 11 k よりの感想を示されたのであるが、﹁新池殴御消息﹂に 日蓮聖人の日本貌

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日 本 偽 数 民 中 協 合 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 12 ﹃月氏固と申園は大圏也。彼園に五天竺あり、其より東海の中に小嶋あり、 日本園是也:::園は六十六園二の 天 竺 に も ま さ れ り 。 ﹄ と は 3 を兼ねていはれたもの、﹁四保金吾殿御返事﹂︵閣改︶に

﹃天竺をば月氏と一宮、我闘をば日本と申す。一閤浮提八高の園の中に、大たる園は天竺、小き園は日本也。名 0 0 0 0 0 0 0 0 0 O D O D D O D O 0 0 0 0 0 0 0 O D O C D D 0 0 、、、リ、、、、、、、、、 の目出たきは印土第二、扶桑第一也。備法は月の園に始て日の園に留るべし。月は自 v 西出て東に向ひ、日は 従 v東西へ行事、天然の理り、磁石と鎖と、雷と芭蕉との如し。誰か此理を破らん。﹄ と は 、 5 を暗示せられたものたる事は、﹁額悌未来記﹂等によって察せられるのである。 畢寛して﹃粟散謹土﹄とは、車に地理上の大小と位置からいはれたものであるが、 嶋 : : : 備 法 の 繁 昌 は 漢 土 に も 勝 れ 、 此の園の歴史的因縁からは、 2 の紳園としての大日本園が設かれてゐる。

2

、一紳固としての大日本国 ﹁聖愚問答秒﹂に レ 0 0 ﹃日本は夫紳固として伊提諾伊英由付傘此園を作り 天 照 大 一 紳 垂 v 御 坐 ま し て 、 御裳濯河の流れ久くして今に た え や 。 ﹄ その代表的のものであるが、聖人の営時には、往 A 偽者の中にも、天神地祇は鬼神であるから、 掌敬してはならねなどと説くものもあったが、それ等に射して聖人は、﹁月水御書﹂に、 。 。 ﹃但し日本園は紳園也。此園の習として悌菩薩の垂迩不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに、是をそむけば と あ る が 如 を は 、

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現に営罰あり。委細に経論を勘へ見るに、悌法の中に随方昆尼と申戒の法門は是に営れり。此戒の心は、いた う事かけざる事をば、少− R 悌教にたがふとも其園の風俗に遺べからざるよし、伸一の戒を詮給へり。此由を知 をる智者共、紳は鬼神たれば敬ふべからや・なんど申強義を申て、多の檀那を損やる事ありと見えて候也。﹄ と其の惑ひを解いてゐらる L のである。叉﹃悌菩薩の垂迩﹄とあるをば、今時往 A にして印度人の生れがはりなる かの如︿悪解ずるものがあるのは、伸教を知らぬ誤想に基くが、いふまでも友︿悌教にいふととるの本地の悌菩 薩とは﹃法身﹄をいふので、真理の霊酷であって印度だの支部だの日本だの l A あるべきものでたい。毘史的の園土 に生れて来てゐる悌菩薩ゑどいふは、悉くみ友﹃臆化身﹄であるから、印度に生れたる程迦牟尼備も勿論垂迩の悌 であるとは、﹁法華経﹂本門の説くととろで、特に日蓮聖人の強い主張であるから、本地垂迩をいったからとて、 印度乞本とし臼本を迩としたものでた︿、方鹿と時代とを超えたる、宇宙員理の本障をば﹁本﹄とし、方庭時代に 制約せられてゐる歴史上の人間世界の事費を﹃遮﹄といつであるととを、ととに附け加へて置かねば・ならない。 ﹁ 繭 源 太 殿 御 返 事 ﹂ ︵ 唯 一 川 ︶ に ﹃ 日 蓮 は 日 本 園 の 中 に は 安 州 の も の 捻 り 。 縞 じ て 彼 園 は 界 一 昨 刊 八 山

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判 明

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酢なりといへり。かしとに て臼本因をさぐり出し給ふ。あはの園御︿りや怒り。しかも此闘の一切素生の慈父慈母怒り。か L るいみじき O O D O 0 0 0 0 0 園たれば定て故ぞ候ちん。日蓮叉彼園に生れたる第一の果報たるなり。﹄ いかなる停設によられたものか不明であるが、﹁紳皇正統記﹂にも、﹃凡紳書にさま

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\の異 説あり。日本紀・奮事本紀・古語拾遺等に載せざらん事は、末閥単の輩偏に信用し難かるべし﹄といはれてゐるか ら、安房閣の惇設にも聖人時代さゃうのものがあったのであり、聖人はそれを果報とされてゐた。その と い は れ て ゐ る の は 、 天照大 13 日選聖人の日本観

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日 本 偽 数 店 平 協 命 日 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 四 14 一 押 に は 天 壌 無 窮 の 御 神 勅 が あ り 、 八幡大菩薩には百王守護の誓があらせられる。そして営時は多く百王守護と いふととが唱へられてゐたのは、聖人同時代の先輩としての天台座主慈固僧正の﹁愚管抄 L にも、繰返していはれ てゐるのでも明かであるが、であるに係らや聖人誕生の前年即ち承久三年には、人皇第八十二代後鳥羽院、第 八十コ一代土御門院、第八十四代順徳院の三院は、北保義時の矯めに三嶋に還されたまひ、第八十一代安 徳天皇は、源平の戟ひの矯めに八嶋壇ノ浦に漂はせられ、遂に海中に御謹幸にならせられた。物ごとろのついもル 頃から世の鑓還を語り聞かされた聖人は、と L に 大 疑 問 に 遭 遇 し た 。 前にもいひしが如く、聖人が十二歳にして﹃日本第一の智者となし給へ﹄と、大虚空戴に祈られたのは、 紳儒備の三道行はれ、ととに紳祇備法の崇敬盛りたる日本紳固に、いかにして書永の鑓に安徳天皇は西海に還 幸したまひ、承久の費に三上皇は三嶋に還流せられたまへるかとの、此の重大たる疑問を決するが魚めであっ た 。 故 に ﹁ 立 正 安 園 論 ﹂ に も 、 天 時 拠 地 天 飢 僅 疫 病 の 樹 博 の 無 殻 に 寄 せ 、 ネ ラ シ ユ 0 0 0 タ O ラ ノ ク へ J ア レ タ ル ﹃ 夫 二 離 合 v壁、五緯連 v珠、三賀在 v世、百王未 v 、 此 世 早 衰 、 主 一 法 何 履 ﹄ と片鱗を示されてゐるが、佐渡額震以前であるから、幼少からの疑問の黙には偶れてゐられたいのである。だか ら身延入山後の早 k に﹁紳閤玉御書﹂を著して、それをいはれてゐるが、彼の書の境頭には、 ﹁夫以日本園左ば亦は水穂園、亦は野馬墓、又は秋津嶋、又は扶桑等一アー。六十六箇園、二嶋巳上六十八箇因。 東西は三千飴里、南北は不定也。此固に五畿七道あり。五畿と申は山城大和河内和泉揖津等也。七道と申は東 海道十五箇岡、東山道八箇園、北陸道七箇園、山陰道八箇園、山陽道八箇園、南海道六箇園、西海道十一筒園 亦云ユ鎮西−亦は太宰府と云云。己上目見は園也。園主を尋れば、紳代十二代は天紳七代地紳五代也。天神七代第 一 に は

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一 は 園 常 立 傘 、 乃 至 第 七 は 伊 翠 一 附 律 一 蹴 伊 突 丹 一 等 一 眼 。 地 神 五 代 の 第 一 は 天 照 大 神 伊提舟の御女也。乃至御五は彦波激武麟鷲州葺不合傘。此紳は第四の彦火の御子也。母は龍王の女也。己上十 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 二代は紳代也。人王は大瞳百代たるべきか。其第一の王は神武天皇是は菅波激の御子也。乃至第十四は 天皇鵠的。第十五は神功皇后鉱山。第十六は陪紳天皇仲哀神功の御子今の八幡大菩薩也 o ﹄ 等と神闘の由来を奉げられ、また弐下に 伊勢太神宮日紳是也。伊提諾 仲哀 ﹃ 紳 と 申 は 又 閣 k の国主の崩御し給へるを生身のごとく崇め給う。是又園王図人の父母也主君也師匠也。片時 も背かば園安穏たるべからや。此を崇れば閣は三災を泊し七難を掛び、人は病なく長害左持ち、後生には人天 L L 三一飛と悌となり給べし。:::其上、紳は第一天照大柿、第二八幡大菩薩、第三は山王等の三千齢社。主夜に 我闘をまほり、朝夕に園家をみそなわし給。其上天照大紳は、内侍所と申明鏡にかげをうかペ大内裏にあがめ られ給、八幡大菩寵は、費肢をすて L 主上の頂を栖とし給と申﹄ と、紳園の紳固たる奇特を書かれてゐるのである。 た H h ととに疑問に沿もはれるととは、 現 在 知 ら れ て ゐ る 遺 文 の 中 に は 、 ﹃ 天 壌 無 窮 ﹄ の 一 紳 勅 が 見 え て ゐ た い で 、 八幡大菩薩の百王守護の誓のみがしば/\繰り返されてゐるとと、伎の同時代の﹁愚管抄﹂と同じきととである。 さればとて慈園借正や日蓮聖人が、﹁日本記﹂一書の伎の紳勅を知らなかったとは考へられないが、何故にそれが 神園の特徴として敢へられ・なかったものであらうかといふととで、殊に聖人に沿いて疑問の色濃く考へられるの は、聖人の六上足の一人白蓮阿闇梨日興師の著の﹁三時弘経弐第﹂に、末法の法華本門の弘経利益を説く下に、 ﹃ 天 照 太 一 札 勅 口 山 15 一 五

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16 日本偽致事協舎年報︵第十三年︶

F ハ X M P キ タ ル − ν ク テ ス 葦原千五百秋瑞穂圏、是︵我︶子孫可 v 之 地 也 。 宜 ニ 就 而 治 二 詩 。 孝 魁 ︵ 註 ︶ 一 時 、 へ ハ ヲ チ 先王行エ正直之徳﹁則四方之家圏、 一 六 ス ル ニ 皆 順 ニ 秘 法 則 − 也 。 ﹂ といってゐるととで、此の書の著述年代は知られたいが、興師示寂の元弘三年︹議︺より少くも七グ年以前を下 らぬものであるととは、嘉一騎ご年︵醐瑚︺の興師の申欣には此の書を添附せられてあるし、元弘三年十一月の弟子 朝廷への申放にもそれが添附せられてあるからで、若し他の興師の申肢は武家へのものであるから、 日目師が 添附したかったものとすれば、或は二三十年以前七乞湖る興師五六十歳代のものでないかと思はる L 謹が相官に多 い。故に﹁紳皇正統記﹂以前、早ければ三四十年、遅くも十三年以前に以上の如さととが書かれてゐるのである。 此の興師が量一一をあらはした思想が、日蓮聖人にあってそれが興師に停はったものとすれば、嬰人は何故にそれ を額はに書かれてゐたいのか。若しまた無かったものとすれば、興師の特護ま売は何れかの影響とすべきか。私 は此の黙については、前者の意見を有するものであるが、しばらく別論に譲るとととし、 5 の下で言及するとと に す る で あ ら う 。

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、悌法隆昌闘としての大日本園

前に出した﹁新池殿御治息﹂にも、﹃働法の繁昌は漢土にも勝れ、天竺にもまされり。﹄とあるが、もっとも詳細 た る は ﹁ 紳 園 王 御 書 ﹂ で あ る 。 ﹃ 第 三 十 代 は 欽明天皇此の皇は第二十七代の 糟 障 の 御 一 敵 ︵ 蹴 肘 ︶ 子 也 。 治 二 一 十 二 年 o 此の阜の治十三年何十月

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十三日酔、百済圏の昌明皇、金銅の韓迦悌を渡し奉司令今日本園の上下高入、一同に阿繭陀悌と恥此也。其あ ユ ク ク ユ パ シ ユ を ふ ノ リ シ ア ル 一 一 テ テ 文云、巨開高法之中備法最善。世間之道悌法最上。天皇陛下、亦躍−一修行刊故敬持コ悌像経教法師﹁附 v 使 貢 厭 。 与一信払⋮弘山中。然といへども、欽明敏達用明の三代三十飴年は出町一札事なし。其聞の事さま

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\なりといへ ども、其時の天費地天は今の代にとそ、にて候へども今は亦、其の代にはにるべくもたき捷夫也。第三十三代 崇峻天皇の御宇より、備法我朝に崇られて、第三十四代推古天皇の御宇に盛にひろまりを。﹄ と 、 ︷ 一 万 k 渡来のさまを叙せられて後、 0 0 0 0 0 0 9 0 0 0 0 一間浮提の内、月氏漢土にもすぐれ、八高の園にも超党る園ぞかし。其故は月氏の働 法は西域ハ記︶等に載られて候、但七十齢園也。其飴は皆外道の閣也。漢土の寺は十高八千四十所たり。我朝の 山寺は十七寓一千三十七所也。此の園は月氏漢土に封すれば、日本園に伊豆の大嶋を封せるがごとし。寺をか やうれば、漢土月氏にも雲泥すぎたり。かれは叉大一来の園・小乗の園。大一束も権大衆の園也。此は寺ごとに八 宗十宗をならい、家 K 宅 k に 大 乗 を 讃 諦 す 。 伎 の 月 氏 漢 去 古 代 備 法 を 用 る 人 は 千 人 に 一 人 也 。 川 町 一 ﹁ 和 恥 町 山 町 一 炉 0 0 0 0 0 0 道 一 人 も た し 。 ﹄ ﹃ し か る に 我 日 本 国 は 、 の王とたる人は ま た ﹁ 高 橋 入 道 殿 御 返 事 ﹂ の 如 く 、 ﹃ 日 本 国 天照大紳の御魂の入代りたまへる王也﹄といふが如き仲骨

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い れ ふ カ わ が 勘 に 、 との備法隆昌固としての大日本酌 o と史的現賓の扶勢を記されてゐる。 いかにして需 永・承久の雨時段、前者は攻める者は頼朝の代官義経であっても、その後へには後白河院の院宣はあり、京には 後鳥羽天皇の御践一昨もあったから、まだいはど保元の費の延長というてもよいととろもあるが、後者承久の饗 にいたっては、純然たる陪臣子義時の大軍が、畏くも官軍を破って三院を三嶋に還し奉ったのである。小固と 17 日蓮聖人の日本観 一 七

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日 本 偽 教 革 協 合 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ /司、 18 はいへ、閤浮希有のとの紳圏、との備法隆昌園としての大日本に、いかにしてか L る下魁上は起り得たか。とれ が聖人登心の動機であっ売とし、十二歳から三十二歳まで、二十年の修皐蹄思に、漸くその疑問を解決し得られ たとすれば、聖人内観の大日本園、開魔の上に浮き出て来た大日本園、本来の面白としての大日本園は、決して 粟散謹土の小園でもなければ、単怒る紳園でも‘なければ、単なる悌法隆昌の閣でもたく、もっと/\深い意義の あるものと解せられたに相違たいととにたらねばたらないのである。 江戸時代の儒者や神道者流が、往 K にして我が日本国は、伸教や儒教が渡来して来てから、人も悪くゑり大義 名分の素れも出来てきたかの如くにいふ。ととに悌法が崇峻天皇の御時より盛りに向って来たたどとあると、 だから東漢直駒の如きとともあったのであるなどといはうとするが、とれは史賓を隠廠し曲を他に嫁しようとす るものである。神道は自然の正道であっても、忘れたり失ったりすれば人も世も悪くならうし、悌教は宇宙の正 法であっても、誤解したり偏曲したらば世も園をも害ふととにもなるであらう。現に儒教渡来以前にも、手研耳 命の御事始め、武埴安彦の事、狭穂彦の事、震坂忍熊二王の事等の類例も少からやあるが、之を神道の罪と出来 ようか。悌敬渡来以前にも眉輪王の事、平群員烏父子の入鹿父子に近い専横、外国と通謀して謀叛した磐井の事 等も少く注いが、之を儒教の罪とすべきであらうか。それ等を然か断じ得・なければ、蘇我馬子の事や道鏡の事を 以て偶数の牲とすべきでたく、況や蘇我氏を減した中大兄皇子も中巨鎌足も、道鏡を毘挫した和策清麿もまた熱 心た悌教徒であったではないか。日本園躍は決してさやう友我に異るものは、悉く之を排斥せんとするが如き偏 明治天皇の御製に 狭なものではない。泣くは よきをとりあしきをすて L 外固に訟とらぬ園とたすよしもがた

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との仰せは、一官に欧米の文化に封ずる天皇の御思召であっ、たばかりでなく、儒教悌教をはじめあらゆる外園の 文化を揖取したまへる、我が大日本園瞳の園韓たる大包容であって、また我が皇阻皇宗御代 K の御態度であら せ ら れ た の で あ る 。 聖人は紳儒悌の三教ととには備法隆昌固としての大日本因に、承久の援の如き下魁上の行はれたのは、何故ぞ との疑から悌教を研究せられたが、とれを以てすべての悌教の牲とするととたく、悌教を誤り解したる矯めの災 なりとして、悌教が解すると乙ろの大日本園をば、法華経本縁固としての大日本園、更に進んで本園土妙園とし ての大日本園といふものを魔り出して、そとに特殊の大日本観を示し出されたのであった。

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、 法 華 経 本 総 固 と し て の 大 日 本 国 さらば聖人の法華経本縁固としての大日本園は、 いかに表現せられてゐるであらうかを見ると、 先づ正元元年 三 十 八 歳 著 の ﹁ 守 護 園 家 論 ﹂ に 、 ノ ナ リ ヤ ヤ ﹃問一宮、日本閣法華浬撰有縁地否。 各 一 時 、 法 華 経 第 八 一 試 吋 制 約 二 如 来 脚 色 ﹁ 閤 浮 品 九 島 弘 行 流 布 ﹁ 店 町 一 一 小 一 断 紘 4uhh 弘 一 時 、 賢 宜 流 私 可 払 − 一 闇 浮 札 プ 純 一 A U 一 ト 断 払 刊 浬 擦 問 即 九 一 時 、 比 大 乗 経 典 大 浬 撰 払 恥 乱 丸 v E o 居 時 二 於 南 妥 協 菩 民 一 札 、 生 ニ 由 肋 流 私 − 回 一 日 。 事 一 ︵ 婆 婆 ︶ 三 千 世 ラ テ 界買﹁悌自以コ法華浬繋﹁定ニ南方流布鹿 4 於 ニ 南 あ 諸 島 血 一 ﹁ 日 本 国 殊 ユ 法 華 経 可 己 流 布 日 庭 也 。 問 一 式 、 其 詮 如 何 。 争 時 、 壁 ゐ 法 華 翻 経 後 田 山 一 馬 、 羅 什 三 蔵 、 奉 y = 須 梨 耶 蘇 摩 三 蔵 ﹁ 授 ニ 法 華 経 − 時 語 一 宮 、 悌 白 隠 ニ 西 山 九 遺 耀 照 ニ 東 19 日蓮聖人の日本観 九

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O 品 川 4 芯典有 v ニ 於 束 中 か 諸 問 皆 汝 悔 倖 払 ョ 泊 。 東 払 者 日 本 也 。 自 エ 西 乱 天 位 一 三 泉 払 ハ 品 川 二 日 私 − 也 。 札 慧 パ 仏 一 乗 要 九 一 時 、 臼 本 一 州 国 機 純 す 朝 野 遠 近 ロ 附 鼠 二 一 来 ﹁ 絡 素 貴 賎 為 県 エ 成 品 附 − 店 。 岡 山

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本 毘 今 札 道 俗 : : : 体 内 ユ 法 華 浬 聡 現 丸 引 持 ニ 肇 公 慧 心 日 本 記 ﹁ 企 二 法 華 修 行 安 心 4 問 一 時 、 法 華 経 修 行 者 、 可 v ユ 何

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日 耶 。 弘 一 為 法 華 経 二 十 八 品 肝 ふ 害 時 量 口 昨 一 時 、 我

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・ 払 ニ 此 婆 婆 世 田 か 亦 一 時 、 我 忠 弘 三 於 日 比 4 亦 一 時 、 出 向 此 ム ム 安 偽 ピ 。 れ 一 品 山 ヲ ノ ユ テ ノ ラ キ フ レ ノ ラ 品 ノ ハ ヲ 文 4 単 位 。 本 地 久 成 園 伸 在 二 此 世 界 ﹁ 拾 コ 此 土 日 可 v願=伺土一乎。故法華経修行者所住之鹿可 v コ 浮 土 4 何 煩 求 − 一 位 鹿 − 乎 。 日 本 偽 設 準 協 舎 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ とあるを初めとして、﹁後五百歳合文﹂等にもとの意があり、弘長二年四十一歳伊豆流罪中の﹁教機時園抄﹂には、 ズ ユ シ ム ラ ユ ハ 悌法必依 v閤可 v v之。園、寒国熱圏、貧困宮圏、中園建園、大園小園、一向倫盗圏、一向殺生園、一向不孝 園等私 v之。又一向小栗圏、一同大乗園、大小兼行園私 v 。 一 品

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本風一向小弟園欺、一向大一熱園敷、大小朱札 ナ ル シ ア ラ 園欺。能 K 可 v v セ ハ シ ノ テ リ シ カ ユ ハ 日 本 国 一 向 法 華 経 閤 也 。 例 如 = 舎 衛 園 一 同 大 一 来 日 也 。 叉 天 竺 、 一 向 小 一 来 園 、 一 同 大 一 札 園 、 大 小 乗 閥 単 園 有 v之。日 本風一同大草吋大量モ忠弘ニ法華魁圏一也。錦繍﹃逮網干器一様、 と 説 品 目 ﹂ て 、 教 ・ 機 ・ 時 ・ 園 ・ 教 法 流 布 の 前 後 を 審 究 し て 、 立 宗 ず べ き と と を 論 ぜ ら れ 、 ﹁ 南 保 兵 衛 七 郎 殴 御 返 事 ﹂ に は 繭 勃 菩 薩 の 云 へ る と て 、 ﹃ 東 方 有 エ 小 閤 − ﹄ 一 首 云 の 語 、 安 然 の ﹃ 我 日 本 園 、 皆 信 ニ 大 乗 日 ﹄ の 語 が 事 げ ら れ 、 ﹁ 後 五 百 \ お 弓 1 4 レ パ ラ チ ノ ノ レ パ ヲ チ ノ ノ レ パ ラ チ ユ ク 歳 合 文 ﹂ に は 、 ﹁ 法 華 秀 句 ﹂ 戸 前 ﹂ の ﹃ 語 v代則像終末始、尋 v地則唐東謁西。原 v人則五濁之生闘持之時、経云、猶多 怨 嫉 況 減 度 弘 、 此 言 由 民 有 VM ム也﹄が引かれてゐる。墨徳の語は、現存遺文では見賞らたい。而してとれ等の中、日

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本園を法華経の有縁の固なりとするに足るものは、安然の引いた﹁東方小国﹄の繭勅菩薩の語といはれるものと、 肇公が須梨耶蘇摩三臓の語たりと記せる、﹃有 v縁ニ於東方−﹄の語で、その東方小園、東北に有縁の中、現賓に該 営ずるものは我が日本でないかといふ意味の解程である。しかし・ながら此の摘勅の語たるものは﹁論伽論﹂と停へ られるが、現文は見営らや、﹁法華翻経後記﹂は松本文三郎博士の如く、名を借肇に偲りた慌文だとの設を矯ナ人 もある。とれに封してなほ法華経を日本園に本縁ありと説くに、他の根操ありやといふについては、聖人の時代 には、以上の雨文を疑ふ人はたかったゃうだから、聖人はそれを説明はしてゐられないが、 t u そらくは中心から その須梨耶蘇摩の語を信じてゐられたと解せられるべを根擦がある。それは、﹁法華経﹂の現文に依ると、陀羅尼 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 口聞に二聖二天十羅剃女が、法華経の守護を説いてゐるのに、二天は東方の持閤天と北方の毘沙門天とで、特に後 0 0 0 0 0 0 0 0 者の守護の誓には、﹃令百由旬内、無諸表患﹄の文がある。との設相に治のづから東北に有縁といふととが表はれ てゐるし、また小固といふ意も時一店せられてゐるといへたいとともない。異語の﹁正法華経﹂もとの設相に異りは ないのであるから、壁公の記の東北有縁と繭勃薩涯の語の小園とは、けだし聖人の信念を愈と強めたととであら うと思はれるし、更にまた惇教大師の﹁秀何﹂の、像法の格、末法の始の日本園は、五濁の衆生の闘静堅固の時代 モ ノ ユ ス ラ ホ シ ヤ ノ ラ ヤ に近いのであるが、﹁法華経﹂の法師品に、﹃而此経者、如来現在、猫多ニ怨嫉 4 況減度後﹄といはれたのは、まと とに所以のあるととである。我が法華経の弘通にずら、斯の如く南都六宗の誹諒があるものをといはれた意で、 笠 松 の 此 の 意 は ﹁ 秀 伺 ﹂ だ け で た く 、 ﹁ 守 護 章 1 一 一 一 日 ︺ に も 、 ﹃ 営 今 人 機 皆 轄 艶 、 品 位 ⋮ ニ 小 悉 鍔 一 止 像 柏 羽 山 岳 、 末 法

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w J キ − − J シ ク レ ノ テ リ ラ テ ル ル ヨ ト ラ ユ ク J ト 有 v ι 法華一一来機、今正是其時。何以得 v 。 安 築 行 品 一 式 、 末 世 法 減 時 也 ﹄ と あ っ て 、 と れ に は ﹃ 唐 東 掲 西 ﹄ の 如 き明かに日本国を指された丈はたいが、末法闘静堅固の時が近い、法華一乗の機今正しく是れ其の時ぞと、時と 21 日 慈 雲 人 の 日 本 叡

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日 本 係 数 革 協 合 同 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 22 機に約して﹁法華経﹂の流布をいってゐられるので

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るが、市もとれは停教大師だけの信仰ではたくて、その源は 天台大師の信仰であったと解せらるペをは、大師の﹁法華文句 1 ︵ぎの序品の題轄の下に、本一仰の賓在に約して如 来自在神力師子奮迅威猛大勢の力を設を、種熟院の三盆左四節に開し、三世九世の種熟院を論じたる後に、此の 経の序正流通を示す、その流通分を、 ﹃ 恥 三 品 賞 品 パ 時 在 ︺ 弘 一 一 た 利 払 4 低 五 百 歳 、 出 馬 仲 間 − 一 妙 匙 4 払 弘 二 流 通 分 − 也 o ﹄ と、聖人が前に引詮せる薬王品及び勤護品の、後五百歳買宣流布、または債令流布の文を指してゐる。天台は像 法の後の五百歳に出でて、末法第五の五百歳闘詩堅田の時を諌言してゐるのである。妙築大師は﹁記﹂に扶程して、 ズ キ ニ ラ ク ル ノ キ ス 一 一 ユ フ ト ﹃仇正五

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ク 払 ニ 一 位 4 末法之初冥利不 v 。 且 操 下 大 教 可 ニ 流 布 − 時 M 故 一 亨 一 五 百 己 と解して、末法第五の五百歳に流布し始め、冥利を施すべきととを説いてゐる。惇教が﹁秀伺﹂と﹁守護章﹂の前引 の言はとれに基いてゐるととは、同じく﹁秀何 L 鴎 ︺ に 、 普 賢 品 の ﹃ 争 後 五 百 歳 濁 悪 札 止 一 ﹁ 乱 私 一 受 ニ 払 ル 匙 経 曲 一 品 、 − ア キ ノ ラ ム ヒ テ ル コ ト ヲ 我 営 下 守 護 除 コ 其 衰 患 一 令 h v ニ 安 穏 − ﹄ の 文 を 出 し 、 ﹃ 生 vh 川 法 華 員 昆 位 、 判 的 エ 後 五 百 島

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町 臨 ニ 流 一 停 ﹄ と第五五百歳闘誇堅固の時の流惇左、﹃必臆﹄と信じてゐもんととに依うて知り得るのである。 とれ等の経緯に精通 せる聖人は、その﹁法華経﹂の必臆流停には、﹃五濁之生闘静之時、経一式猫多怨嫉、況減度後﹄の大難あるべきを信 じ て ﹁ 開 目 抄 ﹂ ︵ 社 ︶ に 、 弘 通 の 初 の 畳 悟 を ば 、 ﹃費塔品の六難九日勿とれたり。我等程の小力の者須蹴山はなぐとも、我等程の無題の者乾川内を負て劫火にはや けやとも、我等程の無智の者恒沙の経 K をばよみをぼうとも、法華経は一句一一備も末代に持ちがたしととかる

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るはとれ・なるべし。今度強盛の菩提心ををとして退轄せじと願しぬ。﹄ と、有名たる日本の柱・眼目・大舶もんらん。いかたる迫害誘惑の来るとも、智者に我義破られやば用ひじと誓は れたのであった。その末法法華経の行者の値うべき難は、悪口罵晋のみゑらや、刀杖損出数 k に 及 ぶ 勤 持 口 問 の 三 類の強敵である。かかる強敵に値ふ行者に封して、伎の東北方の守護を示せる陀羅尼品は、十羅利女が法華経の レ テ ル コ ト ト ク ナ ラ シ 行者を悩ナ者をば、﹃頭破作エ七分刊如ニ阿梨樹枝−﹄といふ如く巌しく罰すべしと誓へる時、悌それが一般の法華 経行者にはその要友しとしてか、訂正せられて、 ﹃ 設 等 佃 向 島 船 下 動 セ パ め ニ 和 ス ル 恥 事 ノ れ か づ 払 即 日 一 幅 不 v 一 叫 v 色 ﹄ といはれてゐるととに障やるのである。即ち陀羅尼品の設相はたのづから東北方にたける令百由旬の底に、法華 の題目受持の行者を十羅剥女は、﹃頭破作七分﹄の守護左錯すべしの意とたる。本経にすでに此の設相があり、須 利耶蘇摩の記、天台大師・妙柴大師・倖教大師の強識がある。市して史賢もまたとれ左裏書してゐる。のみたら や日本因承久の捷の翌年に生れて、その大麓に幼少より疑問を懐ける翠人は、その解決の矯めに二十年修撃の後 に 得 、 売 る と と ろ の も の は 、 ﹁ 法 華 経 ﹂ 一 脚 力 品 に た け る 上 行 菩 薩 へ の 別 付 属 は 、 ﹁ 法 華 経 ﹂ の 名 障 宗 用 教 の 五 重 玄 具 足 の妙法五字であり、上行催地化の人は之を 2 7 ノ = 一 プ ノ ﹃ 於 = 如 来 滅 後 二 時 ︺ 、 知 ニ 悌 所 説 経 門 教 ︺ 、 因 縁 ︵ 醐 紛 艶 ︺ 恥 ’ 次 第 − ︹ 居 、 陪 附 v 語 幹 品 加 v 払 い と五義に約して宣設して、遂に ノ ノ ク ク f J ラ ノ ジ テ ユ ク − ン ノ ラ テ ノ ヰ ノ シ テ − ﹃ 如 三 日 月 光 明 能 除 ユ 諸 幽 冥 ﹁ 斯 人 行 ニ 世 間 ﹁ 能 減 ニ 素 生 闇 ﹁ 教 ユ 無 量 菩 薩 − 畢 寛 て 住 二 一 来 日 ﹄ 23 ム ﹂ 定 め ら れ て ゐ る と と で あ り 、 その弘通に三類の強敵あるとと、 猶際経の不軽菩躍の如くたるべしとの事をも覧 日 蓮 禦 人 の 日 本 叡

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日 本 偽 数 革 協 合 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ ニ 四 24 り出して、決然として﹃況減度後﹄の鉾先に営られたのであって、その結果勧持品の預言を悉く身に讃み、 ﹃十叫に法華経の第五の巻勤持品の二十行の侮は、日蓮だにも此園に

ι

やば、ほとをど世掌は大妄語の入、八十 チ 寓億那由他の菩薩は、提婆が虚証罪にも堕ぬべし。﹄ と、﹁法華経﹂の諜言、それは天台・妙柴・倖教によってもまた解程せられ預言せられてゐる諌言が、法華経及び 三豊の預言せる時に沿いて、預言せる園に沿いて、闘誇竪閣の機の矯めに設かれて、すべて諜一言のままに賓現せ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 られたとすれば、その日本園は法華経本縁の園でか仏くて何であらうぞと。とれが聖人の法華経本縁閣としての大 日本園観であったのである。 ただに流通の因縁のみでなく、大日本園は教理上から見ても、法華経本縁の闘である。聖人の﹁開目抄﹂に依れ ば、﹁法華経﹂の教理はご一東作伸一切衆生悉皆成悌と、久遠宮成本悌常住三世盆物との二個の大綱に鴎するのであ る。しかるに一閤浮提のあらゆる闘の中に、大日本園は寓民に差別を置かぬ園である。敵を征服しても伎が異に 服従すれば、本領安堵せしめるに容で怒く、審別の鴎化人をも皇別紳別と平等に扱ひて、不安朝の東北の鎮護道 場をはじめた倖教大師は、後漢献帝の首青登高貴王の末。東山将軍塚としての武道の鎮めは、後漢霊帝の古育阿 知使主の末の坂上田村麿。平安京経営の財的奉仕は秦始皇帝の首育太泰一族であったといふ如きは、二一東作伸一 切業生悉皆成備と同じ意の冥ム口ではたいか。一閤浮提のあらゆる闘の中に、大日本園のみ濁り高世一系天壌無窮 賢所は御代 K の 崇 敬 の 皇 位 を 有 し た ま ひ 、 いかたる固にもその類例たく 天租の御精神は三種の神器に停り、 をあつめたまひ、御即位式の大嘗舎は 陛下が現人紳として 天租の御霊乞ば享けたまふもので 明治天皇の御 製 の 、 ﹃千早振紳のととるをととろにて我が園民左治めてしがた﹄の大御心は、 即ち阜人の所謂﹃日本閣の王と

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たる人は お 九 た 念 し ひ 天照大紳の御紳の入かはらせたまふ王たり﹄であって、 とれまた久遠賓成本伸常住三世盆物と同じ意 の 冥 A 口ではたいか。かくの如を信念は聖人の心中に躍動してゐたに相遣ない。ただ北保政府の治下にあった矯め に、顕露に設き得・なかったに過ぎたいととは、文底に沿のづから表ほされてゐるのである。

5

、本国土妙固としての大日本因

本閤土妙といふのは、﹁法華経﹂の最高教理にたいて、宇宙の員理本躍としての賢在は、本果・本因・本園土と いふ三面の表現をするとしてある。それは﹁法華経﹂の如来書量品と、如来紳力品とに、雨種の表現がせられてゐ る。害時量品のはいはば本躍的の表現であり、神力品のはいはば臨用的持売諜識的の表現である。その害時量品のも の は 、 ナ リ ヘ パ ﹃我賓成悌巳来、無量無謹百千寓億郡白他劫。誓如二五百千寓億那由他阿借祇三千大千世界一ア吉﹄︵本果妙︶ ﹃ 我 札 予 比 婆 婆 世 田 ヂ ﹄ ︵ 本 園 土 妙 ︶ ト ジ − 7 F ア F セ シ ホ タ キ ﹃ 我 本 行 ユ 菩 薩 道 − 所 v 害 時 命 今 猶 未 v 、 復 傍 ニ 上 敷 − ﹄ ︵ 本 因 妙 ﹀ といふのであり、一脚力品のものは、その十神力の第七の空中唱聾に、 ﹃ 印 陀 諸 天 、 制 約 三 虚 ︷ bh 一 ﹁ 高 島 民 プ 弓 盲 目 、 羽 山 ニ 此 無 量 無 謹 百 千 高 億 阿 借 乱 世 同 州 ﹁ 私 v

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一 婆 比 一 ︵ 日 一 畑 ︺ 。 乱 、 恥 私 v 伸 、 私 一 断 迦 牟 閉 山 司 ︹ 榊 呆 ︺ o 今 居 住 誌 菩 薩 摩 一 刊 誌 ﹁ 払 す 八 一 夜 踊 防 庁 行 炉 法 蓮 華 教 菩 薩 法 ⋮ 悌 所 護 ふ − ︹ 桝 因 ︺ 。 L 等 生 エ 深 、 仏 一 随 喜 ﹁ 亦 営 回 瞳 − み 押 供 三 養 韓 迦 牟 尼 伸 4 ﹄ 25 といへるもの是である。 日慈雲人の日本観 二 五

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日本偽致事協曾年報︵第十三年︶ 一 一 六 26 而して此の神力品のものは、一位は﹁法華経﹂の虚空舎にたいて、其の他の藍十方の法界の衆生を悉くとの虚空 舎の舎座の本果妙の本悌韓隼と、本園土妙の婆婆世界と、諸菩薩の矯めに設きたまふ本因妙の妙法蓮華経に鴎命 供養せよと、それ等の世界の諸天が空中から説くといふ設相で、ついで第八の威皆師命で、霊十方の素生は本悌 に蹄命し、第九の造散諸物で、彼等素生が身を蓋して供養する乞叙し、第十の通一一伺土で、十方世界は悉く此の 虚空舎の三妙に統一せられ、法界惑く如来書量品の本四回界に如同するととを明してゐるのであるが、再往いふと とれは末法時代に、唯一の教︹献ーさ唯一の本寧︵胤

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︺ 、 唯 一 の 修 行 ︵ 献 し 4 ︺ 、 唯 一 の 真 理 ︹ 4 ︺に統一せられると いふととを象徴的に表現したるものぞと、天台大師は程せられてゐる︹材閥均︺のである。 日蓮聖人は佐渡に沿いて、﹁観心本傘抄﹂を著はさるるまではいはれてゐたいが、﹁本竿抄﹂を額護せられたる後 には、一閤浮提に沿いて、との大日本園はその中心閣であるといふととを、諸庭にいはれてゐるのである。 先 づ ﹁ 観 心 本 隼 抄 ﹂ の 末 段 に テ ク ノ ﹃ 問 云 、 悌 記 文 一 試 何 。 テ ク − J テ ユ セ シ シ テ ク ノ ク ハ シ ニ シ テ ク 答日、後五百歳、於エ閤浮提﹁医宣流布。天台大師記一去、後五百歳、遠泊ニ妙道 4 妙柴記一 E 、末法之初、冥利 ラ ズ − 一 ク ギ テ ダ リ キ ニ ノ ハ f ハ ス ト シ キ 一 一 7 − 一 シ 一 プ 不 v 無。停教大師一宮、正像柏過巳、末法太有 v 近等云云。末法太有近躍、我時非エ正時﹁一冨意也。偉教大師日本 シ 4 7 J ラ ク レ パ ラ J J レ パ ラ J ノ レ パ ラ チ ノ ナ リ ユ ク ト 記 ニ 末 法 始 二 式 、 語 v代像終末始。尋 v地唐東掲西。原 v人則五濁之生、闘静之時。経一宮、狛多怨嫉況減度後。此 ト ノ ス ノ ラ ノ シ 4 7 J ノ リ ト O 言良有 v 也 。 此 韓 関 詩 之 時 一 古 一 式 。 今 指 エ 自 界 叛 逆 西 海 侵 一 通 二 難 日 也 。 此 時 地 涌 千 界 出 現 、 本 門 躍 曾 潟 三 脇 士 ﹁ 一 0 0 0 0 0 ノ D O D O ツ O J O − − タ サ ノ ノ ヒ ラ ル ラ ダ テ 閤浮提第︸本隼可 v立エ此園 4 月支震旦未 v ユ 此 本 隼 4 日本園上宮、建エ立四天王寺﹁未 v v 、 以 コ 阿 摘 陀 他 あ − 件 一 本 乱 4 聖 武 天 皇 、 建 エ 弘 前 向 だ ち ﹁ 花 巌 魁 教 主 也 。 和 v 蜘 ニ 法 花 位 置 草 加 4 停 教 大 師 畑 出 願 ニ ホ 法 花 紙 賞 品 4 冊 ヂ 帥 内

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時 未 v来之故、建ニ立東方鵡王﹁不 v ニ 本 門 四 菩 薩 4 所 詮 、 メ 二 p m J へ 玉 7 ガ 矯 ニ 地 涌 千 界 ﹁ 譲 − 一 興 此 “ 故 也 。 ﹄ ム﹂。末法第五の五百歳に、との日本固に自界叛逆西海侵逼のご難ある時、一閤浮提の一切業生が悉く蹄依すべき 筈の第一の本傘を、此の大日本国に建てた。印度・支那には此の本傘はない。とれは日本固に建つべく法花粧の 本縁があるのだが、上宮太子・聖武天皇・偉教大師の本傘、みないまだ五五百歳に来らたいから、法花経の貴義 を現はさ−なかったので、今や時至って一閤浮提同障の本寧は建てられたのであるとの意で、即ち﹁法花経﹂神力品 に十方の衆生が悉く婆婆世界の本園土に蹄したるがごとく、閤浮の諸京生はみな大日本国に障すべき、本国土妙 固であるぞとの意が含められてゐるのである。 さ れ ば 同 じ 佐 渡 に 訟 け る ﹁ 額 伸 未 来 記 ﹂ に は 、 リ ヂ − b ラ ハ リ 夕 、 ス ラ モ テ シ ノ 一 一 ハ リ U L − − ハ リ ク ユ ﹃ 月 白 v西出、照 v束、目白 v東出、照 v西。備法又以如 v是。正像自 v西 向 v束。末法白 v東往 v西 。 妙 柴 大 師 云 、 島 払 一 中 園 ︹ 帥 ︺ 九 v 、 お 一 一 乙 四 排 昨 日 乎 等 一 五 云 。 夫 位 一 鉱 ニ 備 法 − 詮 文 也 o 制 約 三 漢 ← 一 一 一 高 宗 皇 帝 之 時 、 北 扶 一 軒 於 聡 日 ル ザ ユ キ ヌ ノ ノ ニ ハ モ ア ラ リ 子 v今一百五十飴年、備法王法共霊了。漢土大蔵中、小乗経一向無 v 之、大衆経多分夫 v 。 自 ニ 日 本 日 寂 照 等 少 ス ラ モ リ ト レ パ ノ ホ シ ノ セ ル ガ ラ ユ ノ ク メ リ ア シ ス ル ガ タ リ k 渡 v之。雑 v然無ユ停持人﹁猶如三木石帯ニ持衣鉢刊故謹式云、始自 v西停、猶ユ月之生刊今復白 v 返 、 猶 三 日 之 ル ガ シ パ ノ ノ テ ユ セ ル コ ト ラ 昇 日 等 一 首 云 。 如 ニ 此 等 緯 − 者 、 於 エ 天 竺 漢 土 ﹁ 失 エ 備 法 − 勿 論 也 。 テ ク テ ユ キ レ リ ラ ノ ユ パ テ ラ ル ラ 問 一 式 、 於 ニ 月 氏 漢 土 ﹁ 無 ユ 悌 法 曲 者 知 v 。 東 西 北 コ 一 州 無 = 悌 法 − 事 、 以 v何知 v 之 。 テ ク ノ ユ ク テ f v 一 O O O J O ユ ク メ テ セ メ シ ラ セ 答云、法華経第八一式、於コ如来減後﹁閤浮提内。債令コ流布﹁使 v ユ 断 絶 − 等 云 云 。 テ ク 品 シ ノ f ハ 問目、悌記既如 v 。 汝 未 来 記 如 何 。 庁 間 口 山 、 問 即 日 備 自 ゲ 臨 け

L

、 払 相 ニ 色 川 官 五 百 品 仏 加 + 働 b w h 昨 日 e 一 叫 山 一 酌 一 一 知 村 一 , h u 恥 − か 。 ﹄ 内 字 嫌 エ 三 州 − 文 也 。 27 日蓮翠人の日本翻 七

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日 本 悌 致 事 協 曾 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ ニ 八 28 月の園の印度の悌法は、正像二時に西より束の漢土日本に偉へ来ったが、今やその化縁は霊き了り、月氏漢土の 悌法は賓益霊さはてた。ずなはち新しき末法の備法は、日の昇るが如く東土の日本より出づべきであるとの意で ある。されば身延最初の著たる﹁法花取要抄﹂には、その東土の日本より出づる悌法は、 ク ノ レ テ 一 シ ノ ラ ノ J シ ラ 0 0 0 0 0 0 0 ニ 0 0 0 0 0 ノ 0 0 0 0 0 カ ラ シ O ﹃ 如 v是範三園土国後、出二現上行等聖人﹁本門三法門建ニ立之﹁一四天四海一問、妙法蓮花経質主流布無 v 疑 0 0 者 敗 。 ﹄ と、日本闘が一天四海の中心固となるべきとと。印ち本園土妙園の本相を穎はナぺきととをいはれ、遂に﹁撰時 抄 ﹂ ︹ 措 ︺ に は 、 ﹃前代未聞の大闘静一閤浮提に起るペし。其時日月所照の四天下の一切裁生、或は園ををしみ、或は身ををし むゆへに、一切の悌菩薩にいのりをかくともしるしたくば、伎のにくみつる一の小借を信じて、無量の大借等、 八高の大王等、一切の高民皆頭を地につけ掌を合て、南無妙法蓮華経ととなふペし。例せば神力品の十神力の 時、十方世界の一切家生一人もたく、婆婆世界に向て、大菅聾をはたちて、南無韓迦牟尼伸、南無煙迦牟尼備、 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。﹂ と、大日本園乞ば神力品に表はれたる本国土妙の婆婆世界に比して、本園土妙圏、たるととを事買に顕はすととの 来るべきととを、諌言してゐらるるのである。されば建治二年の﹁報思抄﹂︵時︺にも、三大秘法を設かるる時、 0 0 己 ﹃一には日本乃至一閤浮提一向に、本門の教主鰐隼を本隼とすべし。所謂、賓塔の中の韓迦多費、外の諸悌、並 0 0 に上行等の四菩薩脇士となるべし。こには本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閤浮提の人ごとに、有智無 智をきらはや、一同に他事をすてて、南無妙法蓮華経と唱べし。﹄

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