序
論 私はとの論述に於て︑弘法大師の判教に就て内容的細論的研究を試みんとするものではなく︑概括的に弘法大 師判教の特徴を把握し判教の最後的第一義的目的を究めんとするものである︒弘法大師の判教は大師営時に存在 した華巌・天台・三論・法相等の各宗の判教とは種々た意味に於て全くその趣旨左具にして居るにもかもおわら や︑古来主として所謂額密封排と言ふ判教の表面的意味のみが高揚せられた結果大師の判教的に表現せられた大 理想が設却せられて居る怨みがある︒それ故に今は率直に大師の判教設立の動機とその特徴とに就て検討して大 師判教の大理想を明瞭にしたいと思ふ︒
凡そ大師の判教的思想は大師の著の至る所に鷲見ずる事が出来るけれ共︑特に判教諭と見るべさものは排頴密 二教諭二巻・十住心論十巻・秘蔵賓錦三者である︒との中耕顕密二教諭は一切悌教を顕教と密教とのこ教に分類 する判教で︑大師の立場から言へば大師営時存在した華巌天合法相三論の諸宗左悉く額教とし︑大師立教の異言 宗を密教と名けられたものである︒又十位心論・秘競費舗に顕れた判教思想は平安朝初期に存在した内外一切の I
弘法大仰の到教諭
日本偽数挙協合年報︵第十三年︶ 2
教法問ち儒教道教伸数等の教法をその浅深に従って十種に分類し前九を顕教とし第十を密教師ち真言宗教法正せ
られた判教であるo
真言宗の判教はその立教の営初大師に依って大成せられ︑雑然と輪入せられた内外一切の教法が批判統一せら れその封立的宗義論争が解消ぜられたから︑大師以後の悌教は漸次密教化し悌教本来の面白を護揮し︑盈茶羅宗 の立場から各自各宗の宣揚に精進する事と友ったから大師以後の真言宗は専らその賢践部門たる事相方面の普及
設展に集中せらるL事となった︒然るに錦倉初期に入ると法然・柴西・親鷺・道元・日蓮等の諸師に依って新悌
教唱導せらる
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や必然的に大師判教並にその敦皐に封する再認識が要求せられた結果︑事相中心の員言密教がと
れを轄機として教相復興へと進み幾多の皐匠輩出し︑盛に組糧論章の注煙害が作られた事は飴りにも有名た事で
ある
然し乍らとの時代の教相皐は租轄の末註がその中心を成し︑大師の教閥単をその時代に活用する迄に至らやノ︑随 ︒ って新興悌教に劃しても極めて泊極的態度を持し僅に員言教阜の復興に依ってとれに相封したと言ふのがその員 相である︒それ故に大師の判敦思想の研買に就て見るも大師の判教の異精神を把握してその時の新伸教乞批判統 一すると言ふ態度では無く専ら一大師判教の文
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の注
躍に
始経
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天雨
一一
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教の
批判
に依
って
良一
口口
密教の宣揚に努力したに過ぎなかった︒従って華天雨一一束等の奮伸教に封する態度も宗祖はその昔時の華天雨一 乗等を批判統一して文字通り悌教の統一的稜民に寄興せられたがとの時代の研究とたるみ﹂却てとれ等奮悌教との 封立的立場のみが高揚せられて︑その統一的方面は極めて微温的であった︒然し乍らとの時代の組轄の研究末程が 其の後の教相の礎石とたり叉今日の研究もとれ等の末躍が中心を成して居る事賢より見る時との時代の教相諸家
の功績を忘れる事は出来ない︒
鎌倉期教相復興期に営り大師の判教を取り扱ふに官り大師の判教を横・堅二種に分類し酔顕密二教諭に顕れた 額密二教の判教を横の判教と名け︑十住心論・秘蔵賢錦等に明す十住心判教を竪の判教と名けるやうに怒り以後 一般に真言判数に横・堅二種の判教ありと言はれるやうにたった︒との額密二教・十位心の判教を横竪ご種の判 教と名けたのは恐らく頼論師︵一
MM
駄︶
らう︑即ち頼論師のご教諭指光紗︵暗唱乙にで
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﹁先
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九大
師立
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二門
二刊
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是則
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積堅
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日判
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教−
也︒
﹂ と言ふ︒先師とは俊晴師を指すものであるが文献に顕れたものとしては南公のとの設が最も古いものと思ふ︒そ の後宥快・呆賓諸氏等に依って横堅判教の名稿が用ひられ今日では一般遇用語と友って居るから︑今もとの積竪 二種の判教に亙ヲて従来あまり注意せられなかヲた方面を観察して︑大師判教設立の動機とその特徴とに就て考 察し︑大師立教の異精紳を把握し将来への一指針を示したいと思ふ︒
二︑剣敬設立の動機
大師が所謂横竪ご門の判教を設立し真言密教を宣揚せんとせられた動機に就ては色
K
の角度からとれそ考察す る事が出来る︒而して従来の教相家の一致する見解は︑大師以前には密教の判敢に関する経論として大日経・四時 摩詞初論・菩提心論・大日経疏等を師事げる事が出来るけれども︑とれ等は何れも断片的に額密二教の差別演深を 明すと臨も未だ四家大衆等に見るやう怒専門的判教書と言ふととは出来たいから︑とれ等各宗の判教に匹敵する やうな判教の必要を痛感せられ党結果横堅一一種の判教を設立せられたと見て居る︒
3
弘法大師の列教諭
日本
偽数
挙協
ム町
同年
報︵
第十
三年
︶
四 4
然しながら大師の判教は軍に自己の倖承せられた真言密教確立と言ふやうな小一果的立場からの判較では無く平
安初期に於ける思想的封立︑その混乱等を極救し解治せしめんが矯めにその統一原理として密教を採用し︑その
営時存在した内外一切の思想を批判抱擁して悌陀方便の大理想を顕示し︑各自の偏執を去って︑各
7 F
﹂の大
道を
精進し︑以て長茶羅世界を宜現せしめんが矯めに所謂横堅二円の判教を設立せられたと見るのが︑最も受賞であ
ると
思ふ
︒
大師時代に於ては一方に所謂大串を中心とする儒教の問中者と南部諸大寺左中心とする悌教徒との封立があり︑
他方悌教内に於ても奈良時代前後して法相・三論・倶合・成茸・律・華巌等の諸宗が度来したけれども所謂直器
時代でとれ等諸宗の批判的研究若しくは綜合的統一的研究行はれや寧ろ封立的研究がその主流をたして居ったか
ら一味和合を理想とする悌敦点圏は論争常なく全く思想混鼠時代を現出して居った︒市してとの問題は日本悌教
史並に思想史の問題としてかなり興味ある問題と思ふけれ共今贋くとれ等の問題に偶れる事は出来危いけれども
大師の判教諭に顕れたとれ等の問題に就て見るに︑大師が秘碕賢舗中倉に於て儒教皐者の代表として憂国の公子
を出し︑悌敦皐徒の代表として玄関法師左とれに配し︑十四段の問答論争を放さしめ給ふより見るも︑との時代
との問題がか友り問題視せられて居った事置を知る事が出来る︒叉大師が入悌道の始め三教指蹄を作って緯李孔
三教の優劣を示し給ふのも批判に伴ふ統一原理の指示がその目的であった事を知るべきでその反面との時代がと
れ等思想の混乱期であった事を知る事が出来る︒又大師が天長五年綜事種智院を創立して韓李孔三教の壁修を勤
め給ふのも置にとの三教一融和の精神に基くものであるo印ち綜華麗智院式︵雌一謀議主︶に
前来車帝建v寺置v院仰v之
弘
v道︒雄v然
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方抱
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左越べ給ふ︒天長五年と言へば恐らく大師が十住心判教伝制定せられた直後の事でとの十住心判教の理想の賓践 としてとの綜塞種智院を創設し給ふと見るべきあ一る︒
更に平安初期に於ける悌教内の封立に就て見るに︑奈良時代の伸教は次官﹂弐ぎに倖来する伸教の直躍的研究を 特徴とするもので内面的には思想的封立がかたり濃厚であったが各宗粂撃の風儀に依って宗々の封立はさまで表 面化し放かった︒然したがら平安新伸教もんる天台宗の興起を合機として新奮の封立︑奮奮の封立が漸次表面化 し︑宗粗大師の時代はその封立の頂賄であったゃうである︒即ちとの時代とたると年分度者に︷一万別を生やるやう になった︑即ち延暦二十年四月の勅令には年分度者に法相・三論の別左明にせしめ給ふ︒とれが如何たる原因に 依るかは明瞭で泣いが延暦二十一年正月の勅令に法相・三論雨宗の論争に闘するものがあるから恐らくは雨宗の 思想的封立がその原因であると見る事が出来る︒従って延暦二十二年になると法相三論雨宗の年分度者を各一点五 名と定め給ひ︑延暦二十五年には華巌・天台・律の三宗に各々二人︑三論・法相二宗に各
k三名の年分度者を定
め給ふ︒との事は更に宗々封立に拍車を掛ける結果と友り︑惇教大師が天台宗を停へ所謂法華一一束の義左建て三 一一橋置を決判し給ふや︑法相宗との間に思想的封立を来した︒伎の筑波の徳一が悌性紗・慧目視足論三巻・中謹 義鏡三容等を作って三乗員賢一一東方便等の義を立て︑天台教義
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排議し︑とれに封して停教大師は弘仁八年には 照樫賓鏡一巻を作って徳一の悌性紗の義に答へ︑弘仁九年には守護園界章九容を作って慧日初足論等の難に答へ られて居る︒更に停教大師が弘仁十年三月一乗戒壇建立の勅許を請ひ給ふや︑奈良伸教との聞に亦復封立左生
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じ︑借綱護命等は上表文を奉ってとれに反封し︑南部戒壇院東大寺の景深も亦迷方一不玉論を作って大衆戒壇設立
弘法大師の列教諭
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