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ドキュメント内 日本佛教學協會年報 第13号(全) (ページ 172-200)

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我名﹂とのこ伺が︑阿繭陀悌の名競を指したととは前後闘係の文意によって想定され得るが︑更に﹃観経﹄九品段に

よると︑南無阿繭陀悌の六字の御名を指したととは明らかである︒とれによってとれを見れば︑従来修行の悌名舎

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は単に悌名経の讃請にのみに留ってゐたが︑今︑悲に﹁悌名を呑嘩し稿する﹂といひ︑﹁其名披を骨ゎ︑﹂といふは︑

それより一歩進んだものと言はねば怒らぬ︒私共が名競によって︑よくとれを聞き得るたらば︑私共は能問者で

あって︑とれに封ずる所聞の法即ち悌名そのものの客観性を認めねばたらぬ︒そのととはやがて悌名そのものを

蹄依膿拝の封象︵本隼︶たらしめんとする一つの過程の上にあるものといはねば友らぬ︒かうし売見地より更に一

歩進んで︑悌名そのものを本傘として採用し︑師依合掌の封象もんら一しめたのは正し︿時土真宗の開組親鷺聖人で

あって︑との潤創とそは置に我が日本悌敦史上に新紀元を劃するものとして注意せねばたらぬ︒かの観念念悌か

ら一一躍稿名念悌にまで進んだ法然上人の巣断の御徳にも敬服するが︑更にその名競を本隼にまで雇用した親驚聖

人の積極性も亦特筆大書すべきであらう︒しかし友がらたとへ名競本隼︵印ち偽名本寧︶が宗組の濁創に出づるも

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の友りとしても︑穴勝に経典に根撮友き妄談とは相異なるのであって︑それは﹁大方贋国費経﹄に見ゆる﹁稽ニ首十か齢仲やヂ﹂の語によってもたやすくそれは説明される︒

親饗聖人の採用され売悌名本隼・として︑今日現存する所の異蹟名競は大略弐の五幅である︒

字名披︵南無阿掬陀偽︶

康元一元年宗施八十四歳筆︑上下に銘文あ百字名競︵厳命意十方無碍光如来︶

康一元一万年宗組八十四歳筆︑上下に讃銘あり

西 寺 議

2

重 専 修 寺 厳 51 

紳偽分離以前に於ける一位寺本館の史的交渉

一六

日本偽教皐協曾年報︵第十三年︶

52 

3

字 名 競

︵ 南 無 童 十 方 無 碍 光 如 来

上下に讃銘なし

字 名 競

︵ 蔚 命 議 十 方 無 碍 光 如 来

上下の讃銘︑西本願寺所蔵六字名放に同じ

字 名 披

︵ 南 無 不 可 思 議 光 偽

重 専 修 寺 蔵

4

愛 知 妙 源 寺 歳

5

︑八

霊 専 修 寺 厳

その外にも麗筆と構へるものが・ないではたいが︑しかしそれらは後世親饗聖人の真蹟塾教から︑名競の文字だ

けを切り取ったものであるから︑寸法の小さいものが多い︒されば本傘所用のため掛幅用として仕立上げられた

上記の五賠は︑堅三尺横九寸程度の大きさであるから︑真宗原始教圏に於ける道場本隼としては全く相躍したも

のである︒然らば何が故に親驚塾人が如是辛口悌名本隼を工夫し採用せしかに就ては︑恐らく左のごつの理由によ

るものと考へざるを得たい︒

一つには真宗に於ける本隼は︑第二章第一節に﹃教行信詮﹄詮容並に﹁唯信文意﹄の文を引いて説明した如く︑無

色無形の真理からかりに形ちを現はしたのが方便法身であるから︑根本に遡れば賓に無色無形の法性法身でたけ

ねば友らぬ︒との法身悌としての阿調陀悌を象徴するには︑傘像よりも寧ろ偉観の方が誼営さを抽唱すからであら

うと

いふ

とと

二つには傘形又は御影を製作するについて︑傘形たらば悌師を必要とし︑御影抵らば童家を必要とするが如く︑

それ/\専門家に依額されねば怒らぬが︑しかし悌名本偉に至つては紙と筆墨とさへあらば容易にとれを作り得

る︒即ちそれは本隼製作を簡易怒らしむる便法である︒

かくして出来上つ売悌名本隼が親驚聖人の本傘の全部であると誤解してはたらたい︒それは親驚聖人の著述に

﹃傘鵠異像銘文﹄一巻が存在するととによって知らる

Lが如︿︑悌名本舎の他に員像郎ち御影本骨骨の存在してあっ

しかしたがら親饗聖人をして特色付けるものは何といってもとの悌名本律であらう︒

たととは申すまでたい︒

第 六 節 題 目 本 隼 真宗に於ける悌名本品与が親饗塾人の濁創によって成立し得たととは己に前節に於て説いたが︑かうした悌名本

隼が導化線と怒って︑関東に於ける日蓮塾人を刺戟し︑還に彼をして唱題より一歩前進︑弦に題百本命を創始せ しむるに至ったものである︒

由来日蓮によって開創された日蓮宗は︑建長五年三月廿八日︑阿房の清澄山に於て旭日に封し︑法華の題目を 口唱した日並を以て開宗日と定めてゐるけれども︑営時彼にしても未だ宗義を説いた書物がるるわけではなく︑

れより後二十年︑文永八年以後に於て佐渡の配所にあり︑﹃開目紗﹄や﹁観心本隼紗岩守の製作を初め︑十界勧請の 大長茶羅を園するととによって始めてその宗義左開額し得もんから︑畢寛日蓮宗の立教開宗は佐渡に於ける十回仲勤 講長茶羅即ち題目本隼の成立年時を以てせたければならぬ︒若し現存せる康元元年製作︵皇紀一九二ハ︶の悌名本 傘を以て︑保りに製作の最初のものと見倣しても︑文永八年︵皇紀一九三一︶は猶それより十六年以後に属するか ら︑白蓮嬰人の題目本写を産み出ずに至らしめたものは︑恐らく親驚塾人の悌名本隼に影響せらる

Lとと多かり

しといはねばたるまい︒

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今︑題目本象の成立過程について之れを眺むる−ならば︑先づ︑経典の首題名字そのものに滅罪生善の功徳ある

神品抑分離以前に於ける枇寺本写の史的交渉

一六

日本

悌教

事協

曾年

報︵

第十

一一

一年

一 七

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ととに稜足せねばならぬ︒即ちかの﹃観無量害経﹄九品段の下上品に﹁命欲v絡

時︑

遇三

善知

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讃三

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十二

部経

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首題名字二子聞ニ如v是

諸経

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間ニ三費名﹁郎得エ往生乙とあるのは︑経題が悌名僧名と共に功徳威力のあるととを示す有名注文献であって︑そ

れがため古来構念に併行して唱題が行はれもんのである︒増修され売三十倉本﹃悌名鰹﹄に︑悌名僧名以外に経名を

列ぬるのも︑全く経題そのものに減罪生善の利益を認めたからであって︑支部天台の智者や日本天台の停教が何

れも臨絡に於て法華題目を唱へたのはそれがためである︒かうして法華題目の功徳威力を認め︑常に唱題左勘ん

だ法華宗の開祖日蓮が積極的にとれをば本傘に採用し︑南無妙法蓮華経の七字を題目本傘として創案したのは置

に吃駕に慣する︒真宗に於て南無阿摘陀悌の六字を稽念し︑とれを本隼とする以上︑その影響をうけた日蓮上人

が恒に唱題し且っとれを唱題本傘に採用したととに何等の不思議もたいが︑相共に鎌倉時代の生んだ新悌教の特

色として注意すべきととは申すまでもたい︒

日蓮上人の題目本牟の作製は文永八年佐渡園流罪以後に属するととは前に述べもん通りであるが︑文永十年四月

二十五日に至って先づ﹁観心本隼紗﹄を著はし︑とれによって初めて十界統一の本館を園額したのである︵七月八

日︶︒とれをば日蓮聖人佐渡始額の長茶羅と稿へ︑もと甲斐園久遠寺に所識されてゐたが︑惜しむらくは明治八年

に焼失した︒今︑日蓮墓人御真蹟と題する版本によると︑上綿園藻原寺︵文永十一年七月︶︑伊豆園玉揮妙法華寺

︵建治二年卯月︶︑相模園川合寺︵弘安四年五月︶所蔵の三鮪左出すが︑とれら本掌製作の由来並にその内容構成に

ついては︑﹃日女御前御返事﹄に委しく説明されてゐるから︑左に録するととL

しゃ

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日蓮いかたる不思議にてや候らん︒龍樹天親等天台妙柴等だにも額はし給はざる大量茶羅を末法に入て二百齢

はじめて法華弘通の旗印として額はし奉る怒り︒とれ全く日蓮が自作にあらや︑多費塔中大牟尼世律 分身の諸備すりか党ぎたる本曾たり︒きれば首題の五字は中央に掛り︵中隼中軸︶︑四大天王は費塔の四方に座

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文殊

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弗利

日蓮

等座

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大衆

容麗

︶︑

日天月天第六天の魔王龍王阿修羅︵天龍諸部︶︑其外不動愛染は南北の二方に陣を取り︵明王部衆︶︑悪逆の謹多 愚痴の龍女一座を張り︵二箇諌暁衆︶︒三千世界の人の露命を奪ふ悪鬼売る鬼子母神十羅剃女等︵羅利衆︶︑加之 日本園の守護紳売る天照太神八幡大菩薩︵日本祖廟﹀︑天神七代地神五代の紳ぺ綿じて大小の紳祇等︑韓の神

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悌 菩薩大要等︑組じて序品列座の二界八番の雑衆等一人も漏れや此御本傘の中に位し給ひ︵法界綿揖︶︑妙法五字 の光明に照され本有の隼形とたる︑是を本隼とは申怒り︵輪園具足︶︒

いはど経題を書いたどけでは本隼としては飴りにも単純であるから︑字形の上に意匠を加へ︑更に経中に説く 年

の比

︑ 悌菩薩等のすべての名披を附加して憂茶羅様式にしたのであらう︒

猶︑以上の外に最も特色あるものとして知らる

Lのは︑佐渡園阿悌房妙宜寺所臓にか

Lる本傘と︑元丹波園燈明

寺所蔵︵現東京市河合氏保管︶の本隼であらう︒前者は夙に女人成悌の本隼として知られ︑韓迦悌の脇へ文殊普賢 を書き︑多賓如来の脇へ智積菩薩をかいて︑其の下へ十羅制女を特別に書き︑法華経提婆品の龍女成備の設相を示 したものである︒文永九年秋の製作だといふが︑佐渡始額の憂茶羅すら文永十年七月の製作であるから︑それ以 後のものたるととは明らかである︒次に奮燈明寺博来の一本といふは︑本幅の中央南無妙法蓮華経の直ぐ下に天

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紳品開分離以前に於ける枇寺本隼の史的交渉

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