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戦後初期図画工作科準教科書の研究 金子 一夫*・今村 涼子**

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(1)

戦後初期図画工作科準教科書の研究

金子 一夫*・今村 涼子**

(1988年9月12日受理)

On Substitute Textbooks of Art and Craft in the Early Post−War Period

Kazuo KへNEKo and Ryoko IMAMuRA

(Received September 12,1988)

1.本稿の成り立ちについて

大著r日本美術教育史』の著者山形寛は同書の戦後図画工作科教科書を扱った第六章第八節にお

いて,「無教科書時代」という時期を設定している。これはGHQのCIE(民間情報教育局)の

意向により検定図画工作科教科書が発行されなかった時期である。しかし,この時期にも教科書的 役割りを果たす図書が多数出版され,教科書のように使われた。これらの図書の存在を年配の美術 教育関係者は知っているし,作成に関った人も現存する。にもかかわらず,「無教科書時代」とし てそのような図書が何の言及もされないことに異論は出ていない。その図書を知っている人でも,

「無教科書時代の教科書」といった矛盾した言い方をさせられている観がある。

金子はそれらの図書の存在を指摘したことがあるD。戦後美術教育史研究の上で重要な対象と思 うからである。これらの図書の中に図画工作科という新しい教科の内容を民間でどのように構想し たか,それと学習指導要領との関係はどのようであるか,なぜCIEは図画工作科教科書発行に反 対したのか,そしてなぜ結局は検定教科書が発行されるようになったのか,もちろん山形寛がなぜ

「無教科書時代」として無視したのかなど,これらの図書をめぐって戦後初期美術教育の重要な疑

問が出てくるのである。

以上のような問題意識をふまえて,金子の指導の下に今村涼子の調査研究が行われ,昭和62年度 茨城大学教育学部卒業研究論文「戦後初期における美術教育の研究一図画工作科教科書を中心に」

としてまとめられた(昭和63年1月提出)。さらに同論文レジュメ(茨城大学教育学部美術科教育 研究室,昭和63年3月,12頁)も発行された。本稿は同論文及びそのレジュメを基礎とし,その後

発見された資料や関連事項を加えて,再編集したものである。

今村論文と全く同時に大阪教育大学大学院生岩崎由紀夫氏も同様主題の修了論文を同大大学院に

提出された。同氏は第十回美術科教育学会でその一部を「戦後図画工作科におけるr無教科書時期』

*茨城大学教育学部美術科教育研究室.

**静岡県浜松市立湖東中学校.

(2)

の考察一民間教科書発行の経緯とその内容」と題して発表された。発表の要点はこれらの図書の 内容の量的分析をすると,昭和26年の学習指導要領が出てからは,それにあわせて作られていると いうものだと思われる。今村論文では量的分析まではいかなかったので,われわれにとっては興味 深い研究である。なお,同氏の発表を収録した学会誌は現在の時点(昭和63年9月)で未だ発行さ

れていない。

』    戦後初期,検定図画工作科教科書が発行される前に,教科書様の図書が多数発行されていたこと は,それらの現物が残っているので否定はできない。そして,いくつかの文献においてはそれらに ついての言及が見られる。それらの図書の呼び方に注意しながら,挙げてみよう。

中村亨r日本美術教育の変遷一教科書・文献にみる体系』(昭和54年)311頁では,「教科書

に準じる参考書」とし,多くの例を紹介している。図画工作科・美術科教科書発行の最大手日本文 教出版のr日文35年史』(昭和58年)41頁でも,「教科書に準じる参考書」を発行したとある。ま た,東京書籍r近代教科書の変遷・東京書籍七十年史』(昭和55年)678頁には,検定教科書発行 を予測しその準備も兼ねて「準教科書」を発行したとある。さらに,最近雑誌r美育文化』に連載

された「美育風土記」の愛媛,兵庫,滋賀,富山(市?),栃木の各県の回には,戦後初期に県単位

の「準教科書」を作成したと記されている2)。その他,当時の雑誌等にある出版広告には「副教科 書」,「参考書」,「準教科書」などの呼称がつけられて紹介されている。

以上のように,ほとんどが「参考書」,「準教科書」と呼び,「教科書」と呼ぶのを慎重に避け ている。ということは,実質の問題ではなく,形式や制度上の問題であるからだと思われる。そこ で,昭和23年7月の「教科書の発行に関する臨時措置法」を見ると第2条に教科書とは「……文部 大臣の検定を経たもの又は文部省が著作の名義を有するものをいう」とある。これでは,法令上は

これらの図書を教科書とは呼べない。おそらく,山形寛はこの法令を意識していたため,言及する ことがなかったのであろう。しかし,「無教科書時代」としては,教科書的役割りを果した図書の 存在もなかったかのような印象を与えるのも否めない。山形は同じr日本美術教育史』の490頁に

おいて,戦前の国定教科書時代に発行・使用されていた同様の図書については,「私教科書」とし

て紹介しているのである。もちろん,山形が戦後のそれらの図書の存在を知らなかったのではない。

それらの図書の中には監修者として名を連らねたものもあるくらいである。であるから,意図的に

言及しなかったものと思われる。

それでは,本稿はそれらを何と呼ぶかという問題となる。とりあえず「準教科書」と呼ぶことに したい。参考書では実質とは違ったイメージを与えるおそれがあるし,教科書では前述の制度上の

問題があり,検定教科書との関りを論じる本稿で無用の混乱をひきおこすおそれがあるからである。

当事者たちも,実質や機能の上では教科書と思いながらも,形式・制度上は教科書ではないとし て扱ってきたのだと思われる。後に述べるように,制度的に教科書になるのとそうでないのでは,

制約の度合いが全く違うのである。

(3)

3.本 稿 の 目 標

戦後の美術教育というと民間教育運動や学習指導要領を中心に語られ,教科書については触れら れないのが普通である。その理由の一つは,図画工作科・美術科教科書に対する論評が利害に関る おそれがあるからであろう。しかし,検定教科書以前の準教科書についての調査研究が利害に関る

ことは最早ないであろう。検討可能な距離ができていると思われる。

また,これらの図書の収集整理は急務に属する。というのは,前述のように準教科書は教科書と 見なされなかったため,教科書収集機関,たとえば国立教育研究所附属図書館,東書文庫,教科書 研究センター等に全くと言ってよいほど収蔵されていないからである。かといって,一般図書でも

ないので国立国会図書館にもないといった状況である。

戦後初期の美術教育界では,教科書の要・不要論が盛んであり,どちらかと言えば不要論を主張 する人が目立った。しかし,それにもかかわらず多数の準教科書が発行された。文部省もCIEの 指導に反対して検定教科書の発行を要求していたふしがある。これらは日本の美術教育界の状況が

そうさせたのであろう。そして,検定教科書の直接の材料となったのが,これら準教科書であった。

当時の準教科書をめぐる状況を明らかにすることによって,今日の美術教育の状況までも明らかに

できるのではないかと思う。

そこで,本稿の具体的目標は,一.芸能科図画及工作の教科書の使用禁止から検定制度確立まで の推移と論議を明らかにし,それをふまえて二.準教科書が発行された種々の状況と内容上の特

徴を明らかにすることとしたい。

4.図画工作科の成立と教科書の扱われ方

昭和22年5月公布の学校教育法施行規則によって芸能科図画と芸能科工作という二つの教科が,

図画工作科という一つの教科に統合された。この統合過程については山形寛r日本美術教育史』に 当時の回想があり,研究論文としては森下一期「図画工作科の成立経過について」(r名古屋大学 教育学部紀要』第32巻,昭和61年)がある。山形が占領軍の意志による統合としているのに対し,

森下論文は日本側の意志もそこにはあり,CIEから突然出されたものではないとしている。国民 学校時代,低学年では両科の内容で構成された教科書rエノホン』も使われていた事実から,両科

の統合については日本側の意志もあったのであろう。

また同年同月にr学習指導要領図画工作編(試案)』も発表された。その目標や内容は国民学校 時代の芸能科図画及び工作のそれらと根本的に違うものではなかったとするのが先の森下論文であ

る。また,やや違った角度から当教科と学習指導要領の成立を考察した葉山正行の論文がある3)。

このように昭和22年5月に図画工作科の成立と学習指導要領の発表という,戦後美術教育の枠組

みとなるものが出現した。しかし,敗戦からそこに至るまでの約二年間に何もなかったわけではな      鴨

く,教科書の扱い方をめぐって,めまぐるしい動きがあったのである。

敗戦の結果,従来の教科書をそのまま使うことはできなくなった。新しく編集するのも不可能で

ある。そこで文部省は昭和20年9月に通牒を発し,軍国主義や極端な国家主義の部分を削除訂正す

(4)

るように指示した。こうして,いわゆる墨ぬり教科書が生れた。所によっては糸で縫い合わせて不

(引用者注)

都合な頁を見えなくする方法もとられた。さらに昭和21年4月9日付発教ζ教科書局発行)37号

「新学期授業実施二関スル件」によって,図画及び工作教科書は発行供給中止書目となった。国民 学校図画及び工作教科書に関しては訂正削除したものは使ってもよいが,師範学校・中学校は不可

という但し書きがついていた。しかし,5月16日付で但し書きは取り消され,さらに6月6日付け でその5月16日発教が取り消されるというめまぐるしさである。それだけでは済まず,6月17日付 発教65号「国民学校・青年学校・中等学校・師範学校及び青年師範学校芸能科図画工作の授業につ

いて」で,図画及び工作の旧教科書の一切使用禁止と別紙「図画工作指導上の注意」が示されるこ

とでやっと落着く。

最終的に旧教科書の使用禁止に至る背景は,次のようである。森下論文によれば昭和21年5月3 日,有光教科書局々長がCIEとの連絡会議で図画と工作の教科書について「図版作成の問題から,

新しい教科書を一年間準備することができない」と述べた。これに対して担当官トレーナー海軍少 佐は墨塗り教科書を他年度に使用することはできないとし,この教科では教科書を用いず,公民教 師用書のように,教師用手引書でかえたらどうかという提案をした。結局,この方針は決定された のである。そのために,旧教科書を条件によっては使ってもよいという但し書きは取り消され,手 引書として,別紙「図画工作指導上の注意」が作成通知されたのである。図画と工作の教科書の発 行はかなり困難であったとはいえ,図画と工作の教科書は使用しないという提案したのはCIEの

側であったことは間違いないようである。

こうして,芸能科図画及工作の教科書の発行と使用は中止され,「図画工作指導上の注意」が昭

和22年に学習指導要領が発行されるまで,芸能科図画及工作指導のよりどころとされたのであった。

だが,このような 教科書がない という状況は,検定制度が発足してからも,図画工作科とい う教科が設置されてからも続いていた。検定制度を規定したのは,学校教育法第21条,第40条であ る。第21条に「小学校においては,監督庁の検定若しくは認可を経た教科用図書又は監督庁におい て著作権を有する教科用図書を使用しなければならない」と規定された。中学校は第40条に第21条 を準用のことが規定された。そして昭和24年度から新しい検定教科書が使えるように諸般の措置が

なされた。

しかしながら,各教科が検定教科書にむけて準備をしていた時,図画工作科は他教科とは違った

状況に置かれていた。その状況について山形寛はr日本美術教育史』の中で次のように述べている。

しかし図画工作の教科書は,総司令部民間情報教育部もその出版検定に反対しており,またこ

の時は,すでに国定または検定の教科書が出版されているものと同種類のものに限られており,

図画工作科は,国定のものも検定のものも無かったのであるから出版されないことになった。

ながたに

また,長谷喜久一も当時「造形的表現の指導と教科書」(r教育研究』第29号,昭和23年11月)

の中で教科書展示会に関連して次のように書いている。

{マ→

今回の検定制度は,従来文部省が編修している教科書の科目が対象とされ,文部省で編修して いなかったものについては,対象がなかったのである。であるからしたがって図画工作と言う

ものは,展示会には出て来なかったのである。

以上のように既に文部省が教科書を編集発行している教科のみ検定制度が発足,つまり検定規準

が作られたということである。山形や長谷の説明は,文部省編集の教科書を材料に検定規準を作った,

(5)

図画工作科はそれがなかったので作られなかったという意味なのであろうか。状況の説明としては,

まわりくどく曖昧な言い方になっている。その背景は森下論文が紹介しているように,既に昭和21

年9月の時点で図画・工作では教科書は使用しないことが,CIEと文部省の連絡会議で正式決定

されていたことであろう。その前の8月には,山形寛を中心に文部省で進められてきた図画・工作 教科書の編集もCIEの意見で中止されていたらしい。山形寛自身,昭和21年10月20日の芸術学会 創立講演で「図画工作教育に於ては9月10日米軍当局の招聰を受けて,図画工作の教科書は出さな

い方がよいとのことなのでこの教科書は出さなくなった」というような発言をしている4)。つまり,

検定教科書どころか,文部省編の教科書も発行できない状況であったのである。山形や長谷の文部 省が教科書編集をしてない教科はと言う意味は,CIEが反対して教科書発行ができない教科はと

いう意味なのであろう。

図画工作科で教科書を使用しない理由として,山形寛は当時の著書r新しい図画工作科の教え方』

(新教育協会,昭和22年9月序,昭和23年発行)の中で次のように述べている。

図画工作科は,児童用・生徒用の教科書は作らないことになったが,その理由は,教科書があ ると,それにとらわれ模倣に流れる恐れがあり,創意工夫を十分に伸ばすためには,教科書を 用いないで,児童・生徒の生活環境の中から学習事項を見つけ出して学習を進める方がよいと

の理由に基くものである。なお,二十四年度からは他の教科では検定教科書も出るのであるが,

図画工作科は,今のところ検定教科書も認めないことになっている。

o   ●   ●   ■   ●

山形のこの説明はCIEの考えを踏襲したものであろう。しかし,「今のところ」認めないとし ている点を見ると,文部省は近い将来には検定制を実現させたいと考えているように推測される。

また,長谷喜久一も先の論文「造形的表現の指導と教科書」の中で次のように書いている。

従来文部省で図画工作の教科書を編修しない理由としては,この科が必ずしも教科書を必要と しないと言うこと,また考え方によって教科書がある為に却って悪い影響を与えると言う意味

も考慮されて編修されなかったと聞いている。

以上のような理由の他に,戦後の兵庫県図画工作科教育の中心的存在であった中安徹氏は,費用 が少なくて済むという経済的理由も重なって教科書は発行されなかったと語っている5)。また,C IEが教科書発行に反対した背景として,当時アメリカをはじめ西欧諸国では既に教科書を使わな

くなっていて,自然から学ぶ方針で美術教育が行われていたことがあろうとは稲村退三氏の弁であ

る6)。

このようにして,図画工作科では教科書を使用しないことになったが,文部省が何の資料も作成 しなかったわけではなかった。昭和24年から「図画工作科学習資料」を出版し,教師の参考に供し た。これは提示用資料と解説書から成る。解説書を見ることができた。それは小学校と中学校に分 かれ,さらに小学校は描画,竹工,紙工,粘土,図案,色彩に,中学校は色彩,木工というように 教材別に分冊編集されている。提示資料で見ることができたのは,小学校用描画編だけである。そ れと解説書から判断すると,提示資料は10乃至15枚の図版から成り,学年は特に指定されてないも のが多い。しかし,この図画工作科学習資料がどの程度現場に普及し,効力を発揮したかは明らか

ではない。

また,昭和24年には社会科教科書(文部省著)としてr社会科14(イ)・社会施設による生活の

美化』が発行された。中学校三年用の教科書である7)。内容は美術史上傑作とされている絵画や建

(6)

築の写真と,社会における美や芸術の意味を述べた文章から構成されていて,美術教育的要素を多

大に含んでいる。

しかしながら,図画工作学習資料やr社会施設による生活の美化』などの存在にもかかわらず,

現場では図画工作科の準教科書の発行は次第に活発化する傾向にあった。これは,文部省の出した 資料等だけをよりどころとする図画工作科指導は/困難であったということを如実に示しているの

ではないかと思う。

5.図画工作科教科書の要・不要論

       も 甯繽炎冾ノおいて,図画工作科教科書の要・不要についての論議がかなり行われたようであるが,

その直接のきっかけとなったのは,やはり昭和21年6月の芸能科図画及工作の旧教科書使用禁止の 通牒であろう。教科書がないという突然の事態に対する教師たちの考えはどのようなものであった

のであろうか。

東京高等師範学校附属小学校教諭であった長谷喜久一は「図画・工作の指導」(r教育研究』第 4号,昭和21年10月)の中で次のように述べている。

図画,工作教育について,今迄相当研究し,図画,工作教育の本質をつかんでゐる人にとって は,必ずしも一律な教科書によって縛られることがなくて,むしろ今後の斯界教育が清々する と見,この度の通牒に非常な希望的賛成を示すかも知れない。しかし現在の国民学校の教師に は必ずしもさうした経験をもった入丈けがあるとは思へない。・ (中略)……図画,工作教 科書の有無についても,夫々の意見もあるだらうけれども,・ (中略)……従来の感情から 言へば,何かそこに拠り所を持ち度いと言ふ事は偽はらないお互いの気持ではなからうかと思

長谷は教科書を金科玉条としてきた従来の教育を反省し,指導者は「図画工作指導上の注意」を もとにして力を充分に発揮しなければならないとしながらも,上記引用のように教科書があったら

よいのではないかという気持ちを表明している。

しかし,長谷は昭和22年1月発行のr教育研究』第7号に載せた「図画・工作教育の限界」とい

う論文になると次のように言う。

上からの指示をまって,その通り実施する様に習慣づけられた我々にとっては確かに一つの重

荷を負はされたような感がないでもなかったが,時代の流れに沿ふて次第にこの感じもなくなっ

て,むしろ現在では誰もが教科書を作り,その教科書で授業することが理想であるとさへ感ず

るのである。

つまり,落着いて考えてみれば,上から与えられた教科書がなくても,個々の教師が教育内容を 構成していければ,理想的であると感じるということなのである。

また,同じ附属小教諭の阿妻知幸は『教育研究』の同号の「造型美術教育の進路一工作につい

て」において次のように述べている。

全国画一的な教科書のやうなものは不要でせうが,その地方地方によって特色ある教科書が作

製され,その地方の児童に最も興味ある材料を盛ったものが使用できるようになることは非常

(7)

に望ましいことと思います。……(中略)……

方法技術の問題を考えないで,題材の選択の自由だけが与へられても児童の造型美術は育た

ないと思ふのです。それはそのまま放任へ流れる道だからです。

阿妻は以前の論文では通牒を受けとめ,遭進していかなければならないとしていたのであるから8)

長谷とはちょうど逆の考え方の変化をしている。このように教師が短期間にさまざまな考え方に変 化しているのは,それまで当然のこととされてきた教科書の使用が突然禁止されてしまったことに

対する一種の戸惑いを表しているように思われる。

要・不要論はこのように発生してくるのであるが,図画工作科教科書が検定制度から除外された ことによって高まっていく。まず,不要論の例として広島高等等師範学校附属小学校教諭の平尾大 の論文「美術教育における教科書の否定とその意義」(r学校教育』第382号,昭和24年9月)が

挙げられる。平尾はそこで次のように書いている。

だが最も恐るべきは,それがお手本として使用され,その教科書に自らしばられてしまうこと である。児童の自由な感情の表現や創造力を枯渇させてしまうことである。模作によって生じ

る模倣的な態度である。

これらは使用の方法より来る悪弊とはいえまた教科書自体の貧弱さから来るものとはいえ,

そのような恐れを生ずるものであれば,一応,教科書を否定しなければならない理由ではない

だろうか。

以上のような平尾の考えは,従来の教科書がお手本的存在であったことに対する批判から生じて いると思われる。そして,平尾は教科書を自然や造形品の中に見出すべきと続ける。平尾は美術教 育の本質論・理想論の立場に立って,教科書を否定しているのである。当時の不要論者たちの考え は,平尾のそれと同じようなものであった。すなわち,創造主義教育の立場から,教科書が模倣や

一定の枠づけの原因となることを憂慮していたのである。

これに対して教科書必要論者たちの考えはどのようなものであったのであろうか。長谷喜久一が

「図画工作指導に欲しい教科書(参考書)」(r教育研究』第45号,昭和25年3月)という論文の

中で現場の教師の声を紹介している。

しかし私共がいろいろの先生方と会う機会によく話題に上るものにこの教科書があったらと言 うことを耳にします。たしかに従来のような形式の文部省教科書であれば,臨作,模倣の弱点 が強調される憂があると思います。ですから私がいろいろときかされた先生方の考え方もやは り,新しい時代に適応すべき教科書を描いての話だと思います。……(中略)……とにかくこ こに教科書の希望を出された先生方の共通の考え方と言うものは,簡単に言えば,「教科書が

あり指導の実際に際して役立つようにまとめられたもの」があれば非常に能率的に学習が出来,

自分の経験と研究を或る程度秩序立てるのに都合がよいと言うことが言えるかもしれません。

以上のような現場の声があった。それは特に工作などの技術指導において要求されたと思われる。

このような必要論は,前に触れた不要論が美術教育の理想から生じた理想論であるのに対して,美 術教育のさしあたっての現実をどうするかという現実論であったと言えよう。

さらに,当時の現実として教科書を必要とする事情も出てくる。当時は戦争の影響と児童数の増

加によって教師が不足し,旧制中学校や高等女学校を卒業している人に教員になってもらう場合が

かなりあった。そのような教員たちはしかたのないことであるが,何をどのように教えるべきか明

(8)

確に考える余裕もなく,混乱した状況にあったらしい。その混乱を救うためにも教科書は必要であっ たと言われる。これは,切実な美術教育の現実論的必要論であった。

また,以上のような現実論的な必要論ばかりではなく,理想論的なそれもないわけではない。山 形寛が紹介している第四回全国図画工作教育大会で出された必要論者の意見は「児童の周辺にいろ いろ参考になる物を提示し,環境を作ることは教育上必要である。教科書はそういえ意味でのよい 一つの環境になる」というものだった9)。参考資料として子どもの周辺に置くべきであるというも

ので,一種の理想論的性格をもっているものであった。

6.図画工作科教科書検定の可否論争         、

前節でみたように,図画工作科教科書の要・不要についてさまざまな観点から議論がなされてい

た。それらは理想論的なものであれ,現実論的なものであれ,美術教育の方法論としての論議であっ

た。しかし,図画工作科教科書の議論は教育方法論的な要・不要論から,検定制の可否論という制

度論的な議論へと移っていったのである。

その背景には準教科書の発行・使用の増加ということがある。教科書が必要であるのは準教科書 の発行数からみて明らかで,それなら検定によってよい内容の教科書を安く提供すべきだという議 論も出てきたと思われる。さらにその方向への議論転換を決定づけたのは,中学校・高等学校の図 画工作科教科書の検定制度が昭和25年6月の文部省告示(教科用図書検定基準の改正)によって発 足したことである。山形寛はr日本美術教育史』の中で当時の事情を次のように述べている。

しかるに昭和二十五年(一九五〇)ころになると総司令部民間情報教育部の中等教育の図画工 作担当官から,他の教科は何れも教科書があるのであるから,図画工作の教科書も検定した方 がよいのではないかとの意見が提出された。文部省はもとより図画工作科教科書の検定も開始 したい意向をもっており,図画工作科の検定基準も作ったのであるが,それはこれまで総司令        h司 狽ナ削られていたのである。文部省は,どうせ検定するのなら小学校も同時に検定を開始した がよいのではないかと,総司令部民間情報教育部の小学校の図画工作担当官にも交渉したとこ

ろ,この方は頑として検定に反対であった。

以上のようにして先の文部省告示となったのであるが,教科書検定に関して文部省・CIE中等 教育図画工作担当官とCIE小学校図画工作担当官の対立図式になっているのは興味深い。

これと同じような対立が民間にもおこったのである。そして,これは現在見られるような検定権

の議論ではなく,やはり図画工作科教科書の要・不要論の形を変えた議論であったように思われる。

学校教育法第21条に「小学校においては,監督庁の検定若しくは認可を経た教科用図書又は監督庁 において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない」,第40条に中学校ではこれの準用 のことが規定されていることは第4節で触れた。これは,検定・国定教科書そのものがなければ使 用はできないが,検定教科書が出現すればすべての学校でそれを使わなければならない」と解釈さ れるのである。それゆえ検定制の発足は,教科書不要論者にとって大打撃になる。それゆえ,検定

制の可否についての議論は緊迫感をもって行われた。

この検定制に関する論議が一つの焦点になったのが,昭和26年10月に福岡県で開かれた第四回全

(9)

国図画工作教育大会である。既に第二回(京都),第三回(広島)において,教科書検定が論じら れ,文部省及びCIEに対する請願が採択されている10)。この大会では,中学校の図画工作科教科 書の検定制は前年に発足していたので,小学校のそれについてが議論の焦点になった。この大会の 様子はr美育文化』昭和26年11月号の「第四回全国図画工作教育大会報告記」において紹介されて いる。そこから図画工作科教科書に関する部分を抜粋してみよう。まず,第一日(10月25日)の協

議事項の二である。

二 小学校図画工作科教科書検定の制度を設けること

文部省渡辺先生説明rCIEへの交渉によって,中学,高校は承認されたが小学校は未承認

である。又その理由としては,CIEで協議の結果,理由不明で小学校に於ては教科書の要な

しと,カリフォルニア州の例をとって回答があった」

検定基準の内容について山形寛先生「検定基準は全国の代表者によって作られたもので文部 省は資料を提供したに過ぎない」との説明あり,請願事項としての決議文は本大会最終日まで

に作成するとして本部に一任した。

さらに第三日(10月27日)の総会に,二日目に行れた小学校部会の「図画工作科教科書の検定制 度を設けること」の協議が結論が出ないまま持ちこされたらしい。同記事は次のように伝える。

小学校教科書の検定については,前日小学校部会に於て反対論も相当出て結論が出るに到らず,

本日の総会に持ち越され,ここでも,賛否両論が激しく闘われ,最後に挙手によって決定する こととなり,会場は一時騒然となった。その結果は,検定制度を設けることには問題が多い,

今しばらく地方の実情調査の上にしようということになり,この件は見送ることになった。こ れの因するところ,最近の国内の美術教育の熱心且つ活発に動いている現われとして,美術の 指導に際しては外からの強制や抑圧を加えることの害悪であることが,今日では殆んど常識の 如くなっているということであり,教科書を与えることの弊害を憂える教師達の声に他ならな

い。・・ (中略)……又,現在市場に氾濫している低俗,非良心的図工教科書の洪水,は何と

しても使用に耐える代物ではないとの意見などもあったことも附け加えなければならない。

渡辺(鶴松)の説明に「CIEへの交渉によって」とあるように,依然文部省が小学校教科書の 検定をCIEに要求し続けているのがわかる。文部省の意志やこれまでの大会の決議からすれば,

検定反対論者の方が不利であった。しかし,請願を見送ることになったのは,創造主義的な世論と

反対論者の必死の抵抗によるものと思われる。

さらに,検定制発足の請願を見送る,もう一つの理由を,岡田(清と思われる)が「全国図工大 会一福岡会場遊歩」 (『美術教育』1951年12月号)の中で書いている。

・  ●  ・  o  ■   ・  ・  ●  ■  ●   o  ■      ■  o   ●  ●   ●  ●  ●  ●  ●   ●  ●  ●   ●  ■   ■

そしてすでに本年実現を見た,中学の検定状況から考えて,小学校の検定制度はそう簡単に賛

・ ・ ・ ・ …    (傍点引用者)

成できない状態になった上に,さらに創造教育という立場から,これを教育内容の問題として 再検討すると,第二日の小学部会に於て,一箇年の研究期間をもつという結論になったのもう

なずかれる。

岡田の言う中学の検定状況というのは,上記引用でははっきりしないが,翌年の図画工作教育大 会(金沢)に関連した文章「教科書検定はもうしばらくまった方がよい一金沢全国大会所感」

(r美術教育』1952年12月号)の中でそれを明確に書いている。

それを見るに及んで,これはと思いかえしたのである。その教科書は平凡で古式で,大体にお

(10)

いて使用してみたいという積極的魅力は少ない。しかも教科書だから採用しなければならぬ所 に,美術教育の悲劇がまっている様な気がするし,重大なことは,編集者の言はきまって,検 定規準によってこれより外に何とも仕方ないのだということにある。

つまり,当時発表されたばかりの中学校の検定教科書が不評だったのである。山形寛も図画が少

なくて工作が多過ぎるという評があったと書いている11)。このような中学校の検定教科書の不評も,

請願見送りに寄与しているに違いない。

しかし,「第四回全国図画工作教育大会報告記」で見落してはならない点がもう一つある。それ

       ■   ●       ●    ●

ヘ,「経過報告」の一に「小学校教科書検定制度設置の件」として「現在では実現せず,昭和二八,

゜ ・ ・ ・ ・ ・ …    . (傍点引用者)

九年度に実施さるべし」と書かれていることである。昭和26年の時点で,昭和28,9年頃には小学校 の検定が実施されるという予測を述べているのである。そして,事実そうなった。昭和28年8月文 部省告示第112号の検定受理種目の改訂および11月告示129号検定基準の改正によって,小学校図 画工作科教科書の検定が受けつけられ,29年には展示,30年に使用され始めたのである。

この26年の時点の予測に関しては次のように推察される。昭和26年9月サンフランシスコ平和条 約が調印されたことによって,昭和27年4月から日本は主権を回復することになった。それは,教 育においても,CIEの管理下から解放されることでもあった。従って,小学校図画工作科教科書 の検定(使用)に強く反対しているCIEの存在がなくなれば,小学校図画工作科においても検定 制が発足し,教科書が使用されることになるであろうと文部省や一部の図画工作科教師たちは考え ていたに違いない。山形寛がr日本美術教育史』の中でさりげなく「平和条約発効後」小学校の検 定制が始まったと書いてあるのは,そのような意味であると思われる。

また,当時を知る某氏によれば,図画工作科教科書の検定制が他教科に比べて遅れた一つの理由 として,印刷技術の問題もあった。すなわち,検定を通るように良く色彩印刷をするのが難しかっ たので,検定制度発足が遅れたという。さらに,検定制発足が反対された理由の一つとして,準教 科書に関する利害問題もあったという。当時,準教科書は営業担当者や代理店を通して各学校に配

達されたが,そこにリベート等の利害問題が発生する余地があった。検定制が発足すれば,そういっ

た利害の生じる余地は極力抑えられるので,検定制が反対された場合もなくはなかったと言う。

ここまでの記述でわかるように,教科書使用によって生じる弊害への憂慮,中学校検定教科書に 対する不満や疑問,教科書使用義務の自動的発生,準教科書に関する利害等の理由によって,図画

工作科教科書の検定に反対する声があったのである。

これに対して検定制推進者の意見はどのようなものであったのであろうか。まず,文部省の山形 寛は「所感三つ」 (r美育文化』昭和27年1月号)の中で次のように述べている。

現在教科書類似の出版物は全国で十指を屈するほど出版されており,これが相当の売れ行きを 示していることは,教科書があれば指導上非常に便宜であることを物語っている。どうせ必要 があって使うならば検定をしたよい内容の安いものを提供するがよい。

また,後藤福次郎は彼の自伝r生きる日の限り』(まこころ社,昭和39年)の中で次のように書

いている。

終戦直後,文部省の小学校中学校の図画工作教科書は,占領軍に発行を停止された。教師の指

導能力は,低下している。その上に教科書がなかったら,図画工作は有名無実になる。そう思っ

て私は,小学校と中学校の新しい図画工作教科書の実体をそなえたものを編集し,実費で全国

(11)

の学校へ配給した。すると,私の教科書を見て,マネする出版社が続出した。はなはだしいの は,私の教科書の作品を切り貼りして,それを原稿にし,粗悪な製版で,片面ザラザラの仙貨 紙に印刷して出すものもあった。そういうものが流布し,教師へのリベートによって採用され ることは,学習効果を阻害する。そこで,水準以下のものをオミットするため,文部省に検定

制度の実施を勧告した。

後藤は戦前にr少年少女自習画帖』を編集した中心人物であり,戦後も逸早く準教科書を発行し た。それゆえ,準教科書の内容・体裁に自信をもっており,以上のような勧告をしたのであろう。

以上のように教科書があれば便利であるし,検定制によって質のよい安価な教科書が供給できる

という理由によって,検定制に賛成する声があったのである。

そうして,検定制賛成・反対の声の中,昭和28年文部省告示第112号及び第129号によって,小 学校図画工作科教科書の検定制度が実現することになった。そして,昭和29年に展示がなされ,昭

和30年度から使用されたのであった。

こうして,小・中学校の検定図画工作科教科書が揃うことになった。しかし,この検定教科書実 現の基礎には準教科書の大量発行という事実があったことを忘れてはならないであろう。これら準 教科書が検定教科書のイメージ,すなわち上は検定基準から下は具体的な体裁まで提供したのであ

る。それに関して長谷喜久一は次のように書いている12)。

当時は,民間で出版していた図画工作科の参考資料書という性格のものがあったが,検定の対 象にはなっていなかった。しかし,参考書とはいうものの教科書の体裁をもっていたので,か なりの学校がこれを採用していた。したがって,検定規準もこのような学習指導の資料の性格 を取り入れたものになり,こうして生まれた検定教科書は,国定による教科書とはだいぶ異っ

たものになったのである。

もっとも大きなちがいは,従来はお手本と称して作家の作品を中心に編集されていたのに対し,

新教科書は,児童生徒の作品を中心に編集されるようになった点である。検定基準では作品ま で指定しなかったが,方向としては,創造的な美術学習という考え方が軸になっているため,

お手本をまねるというよりは,作品を手がかりとして自分自身の表現への刺激になることを建

前とする考え方であるから,自然に児童生徒の作品を取りあげるようになっていったのである。

このように検定基準は準教科書を材料にして作成されたということである。それゆえ,検定制が

発足しても大きな混乱は生じなかったと言える。もしも昭和22,23年の時点で国定教科書の発行や,

検定制の発足があれば,民間の動向とのギャップがありすぎて大きな混乱をもたらしたであろうこ とは想像できる。思えば,戦前の昭和初期の時点で,民間の私教科書が既に国定図画教科書を内容 的に凌駕してしまっていたのである。この過程の検討は別稿でしたいが,昭和期の国定教科書は民 間の私教科書を参考にして編纂されたのである。この戦前の私教科書の系譜に連なる戦後の準教科 書も,戦後の検定教科書の参考になったというより,直接の原形となったのである。

7.準教科書発行の概況

戦後,CIEの意向によって図画工作科教科書の発行使用が中止されたことは,それまで教科書

(12)

を中心に指導してきた教師たちを大いに戸惑わせた。教科書が発行されないことは検定制度が発足 しても続いていた。そして,現場では図画工作教科書の要・不要論,検定制可否論など活発な議論

6が行われていた。そういう中で図画工作科には教科書が必要であるとして,逸早く準教科書の発行 に踏み切ったいくつかの団体があった。そのうちの主な二つの団体を見てみよう。

その一つが後藤福次郎の「図画工作研究所」である。後藤は昭和5年にr少年少女自習画帖』を 発行して,r新定画帖』に飽きていた当時の図画教育の現場に新風をもたらし,また昭和ユ5年には r図画手工(工作)教本』を発行し,新しい図画工作教育の方向を示した。こうした教科書づくり の経験を生かして,戦後の昭和23年r小学図画工作』六巻,「標準中学図画工作』三巻を発行した

のであった。

もう一つは赤津隆助を中心とする「関東師範美術連盟」である。同連盟は昭和18年頃結成され,

戦時中の昭和19年秋から教科書の編纂にとりかかっていた。そして昭和23年r新図画工作』六巻を

国民図書刊行会より発行した。

以上のr小学図画工作』,r新図画工作』は戦後の混乱期のなかでもかなり早い時期に発行され た。そしてこれらの発行に続いて,昭和25年には文教出版社(後の日本文教出版)からr小学図画 工作』が発行された。この教科書に載った表現主義的な児童の絵が戦後の児童画を方向づけた観が

ある。最初は関西で広く普及したが,昭和27年頃から関東に進出してくる。

このようにして準教科書の出版は昭和26年頃から次第に活発化し,「保育社」,「日本教材社」

「都出版」,「大和図書」などが準教科書の出版を開始した。またこの頃は県単位で,つまり,県 の美術教育団体の準教科書も編集されるようになった。筆者の調査した限りでは,準教科書を作成 発行していた県は,愛媛,滋賀,栃木,兵庫の四県であり,富山県または富山市でも作成されたら しいが明らかにはできなかった。準教科書と言えるかどうかはわからないが,和歌山県では昭和28

年r図工科教育課程の手引き』を作成したという13)。

以上のように準教科書は全国各地で発行された。そのうち筆者が調査によって存在を明らかにで

きた準教科書のリストを右に掲げる。それを見てわかるようにかなりの数の準教科書が発行された。

もちろん,リストに漏れている準教科書もあると思われるので,実際はこれよりも多く発行されて

いるはずである。

リストから判断すると,小・中学校ともに昭和23年から準教科書の発行が始まる。中学校は昭和 25年に検定制が発表になってしまうので大きな変化は見られないし,検定教科書に移行したものも 少ない。小学校の準教科書は,昭和23年の時点から中学校の

それより種類が多く,そして年々増加していき,昭和26年に       ・.こ

簗錺響峯織鵠空糠害裳膿家灘灘鵯團薗五催

ξ1ま議灘鍵誓耀監図舗欝慧耀璽難蘂1㌶鱗       許臼や 丸許苧

撫巌繕繊あ蹴畿欝⊇甑㌫箪蘇縣蜜翻;

校の準教科書と中学校のそれでは状況が違っている。      第1図.関西図画工作研究会 さて,調査したすべての準教科書についての検討を報告す     『図画工作』(昭23)

(13)

る余裕はないので,まず主要な準教科書のいくつかについて,発行の事情と内容の特徴を述べるこ とにしたい。その他の準教科書については,簡単な説明をつけて後の方に表として掲げる。

表1 小学校図画工作科準教科書一覧1

記号発行年 準 教 科 書名 編著者名 出版社名 傭    考

昭和23 小学図画工作     1〜6 図画工作研究所 図画工作研究所 しんずがこうさく   1・2

新図画工作      3〜6 関東師範美術連盟 国民図書刊行会

図画工作      1〜6 関西図画工作研究会 学徒援後会兵庫県支部 1.2.6を見ることができた

私たちの図画工作 上・中・下 遠山一義 照林堂 r」」形文庫目録』にあり

図工の学習      1・3 東本貞治 日本美術科教育協会 「山形文庫目坑にあり ずがとこうさく    1〜3

図画と工作      4〜6 教科書研究協議会 中等学校教科書 『日本教育新聞』昭23,7に広告にあり

〃? 楽しい図画工作 岡登貞治他 日本教育図書 吻・学校の図工指導山上(昭24,5序)の序及 ム巻末広告にあり

昭和24 小学図画工作     3〜6 図画工作研究所 図画工作研究所 昭23の改訂版

新図画工作      4・6 関東師範美術連盟 国民図書刊行会 昭23の改訂版

図画工作       3・5 関西図画工作研究会 兵庫図書,有文堂

びじゅつ     1。3・6 滋賀美育会 育英書房

図画の友 小林俊夫 丸井出版 『京都市立芸術大学美術教育研究会収蔵図書目

録』にあり(以下京美研目録と略す)

昭和25 しんずがこうさく   1・2

V図画工作      3〜6 関東大学教育美術連盟 国民図書刊行会 3を見ることができた

生活のための図画工作 4〜6 兵庫県図工教育研究会 学校教具

小学図画工作     1ん3 児童美術研究会 文教出版 1(教師用)を見ることができた

新しい図画工作    3〜5 中谷健次他 社会教育図書 『山形文庫目録』にあり

びじゅつ         5 滋賀美育会 育英書房 昭24の改訂版と思われる

昭和26 しょうがくずがこうさく1〜3

ャ学図画工作    4〜6 児童美術研究会 日本文教出版 しんずがこうさく   1・2

新図画工作      3〜6 関東大学教育美術連盟 国民図書刊行会 2,3,5を見ることができた

小学図画工作       1 図画工作研究所 図画工作

たのしいずがこうさく 1〜6 図画工作研究所 図画工作 1,2を見ることができた

しょうがくずがこうさく1〜3 ャ学図画工作     4〜6

大阪書籍図画工作

メ集委員会 大阪書籍 2,5を見ることができた

ずがこうさく     1〜6 図画工作教科書研究会 むさし書房 3を見ることができた

たのしいずがこうさく 1〜3 兵庫県図工教育研究会 学校教育

ずがこうさく     1〜6 小学図工科研究会 保育社 『日本美術教育総鑑(戦後編)』にあり

しょうがくずがこうさく1〜3 新教育ノ1戦画工作研究会 育英出版

小学図画工作     1〜3 新教育図画工作研究会 〃 〃

一年生の図画工作

二年生  〃 美術教育研究会 全国教育図書 「山形文庫目録』にあり

三年生  〃

昭和27 しょうがくずがこうさく1・2

ャ学図画工作     4〜6 児童美術研究会 日本文教出版 しんずがこうさく   1。2

新図画工作      3〜6 大学教育美術研連盟 国民図書刊行会 1,3を見ることができた

あたらしいずがこうさく4〜6 兵庫県図工教育研究会 大和図書 じどうのずがこうさく 1〜3

児童の図画工作    4〜6 造形美術協会 日本教材社 4〜6を見ることができた

図画工作       1〜6 図画工作編集委員会 都出版社 ずがこうさく     1〜3

9 図画工作       4〜6 愛媛県美術教育研究会

小学図画工作     1〜6 図画工作研究所 図画工作 『日本美術教育総鑑(戦後編)』にあり

たのしいずがこうさく ま〜3

楽しい図画工作    4〜6 『東書文庫目録』にあり

図画工作       1〜6 岡山県美育振興会 教育芸術社 『山形文庫目録』にあり

注 記号の○は,記載の準教科書の巻を全部見ることができたこと,△は一部を見ることができたことを示す。表臥3においても同様。

(14)

表2 小学校図画工作科準教科書一覧皿

紀号 発行年 準教 科書 名

編著者名 出版社名

備        考

しょうがくずがこうさく 1・2

昭和28 日本児童美術研究会 日本文教出版

小学図画工作      4〜6

〃      (四国版) 「東書文庫目録』にあり

しんずがこうさく    1〜3

O

新図画工作       4〜6 大学教育美術連盟 国民図書刊行会

0

あたらしい図画工作   1・2 兵庫県図工教育研究会 大和図書 じどうのずがこうさく  1〜3

造形美術協会 日本教材社 1〜3を見ることができた

児童の図画工作     4〜6

ゴトウのずがこうさく  1〜3

Sトウの図画工作    4〜6 図画工作研究所 図画工作

1,2,3,4,6を見ることができた 汳闍ウ科書へ移行する

あたらしい図画工作   1〜6 日本教育美術協会 教育芸術社 1,2,4を見ることができた 検定教科書へ移行する しょうがくせいのずがこうさく1〜3

小学生の図画工作    4〜6 阿部広司他 二葉 1,2,3,4,6を見ることができた

あたらしいずがこうさく 1〜3 安井曽太郎他 東京書籍 「東書文庫目録』にあり 検定教科書へ移行する ずがこうさく      1〜3

図画工作       4〜6 渡辺鶴松(指導) 保育社 r東書文庫目筑にあり

しょうがくずがこうさく 1・2 2,3を見ることができた

昭和29

小学図画工作      3〜6 日本児童美術研究会 日本文教出版 検定教科書へ移行する

しんずがこうさく  1・2・4 勝見勝他 国民図書刊行会 検定教科書へ移行する

あたらしいずがこうさく   1

新しい図画工作     4〜6 兵庫県図工教育研究会 大和図書

o

あたらしいずがこうさく 2・3 図工教育研究会 検定教科書へ移行する あたらしいずがこうさく 2・3

図画工作研究会 図画工作

新しい図画工作     4〜6

こどもの美術      1〜6 子どもの美術編集委員会 都出版

しょうがくぞうけい   1〜3

日本造形教育研究会 修文館

小学造形        4〜6

表3 中学校図画工作科準教科書一覧

記号 発行年 準 教 科 書 名

編著者名 出版社名

備       考

昭和23 中学図画工作      1〜3 日本教育美術協会 教育芸術社 1,3を見ることができた

標準中学図画工作    1〜3 図画工作研究所 図画工作研究所 「山形文庫目塙にあり

中学図画工作      1〜3 三苫正雄他 日本教育図書 京美研目録にあり

図画・工作 教科書研究協議会 中等学校教科書 「日本教育新聞」昭23.7に広告あり 京美研目録にあり

昭和24 標準中学図画工作    1〜3 図画工作研究所 図画工作研究所

検定教科書へ移行する 2,3を見ることができた

図画工作       1〜3 兵庫県図工教育研究会 兵庫図書

検定教科書へ移行する

〃? 美術を学ぶ 天井陸三他 照林堂 「スクールアート』昭24.6に広告あり

昭和25 中学図画工作      1〜3 岡登貞治他 国民図書刊行会 1を見ることができた

図画と工作       1〜3 教科書研究協議会 中等学校教科書 「山形文庫目録』にあり

中学生の図画工作    1〜3 栃木県図画工作研究会 関東教育図書 1,3を見ることができた

ART申学図画工作 新教育中学図画工作研究会 育英出版 「山形文庫目録身にあり

昭和26 中学の図画工作     1〜3 美術教育学会 大日本雄弁会講談社 3を見ることができた

(15)

8 主な準教科書

1.図画工作研究所(後藤福次郎)r小学図画工作』 (図画工作研究所,昭和23年)

A5判縦長,各冊48頁。

この準教科書発行の事清は後藤福次郎の自伝r生きる日の限り』(まこころ社,昭和39年)に詳 しい。それによれば,家屋敷を抵当に資金を調達し,十六名の編集委員を集めた。その中には東京 高等師範学校や東京美術学校の教授に混じって文部省の図画工作担当の山形寛や小池喜雄もいたと いう。半年がかりで編集を終え,CIEに仮製本をもっていって用紙の特配を取りつけた。印刷発 行して一学級五冊ずつ全国小学校へ百万冊を一冊十五円で配給したとする。後藤の回想をどの程度 信じてよいかわからないが,用紙の特配を取りつける過程など興味深い。

また,CIEが準教科書発行に協力的であったのは,一つには後藤の交渉相手が視聴覚教育の担 当官であり小学校図画工作担当官ではなかったこと,もう一つには,後藤が当時「アメリカへの感 謝図画」なる企画を実行し,CIEの受けがよかったためと思われる。

 後藤福次郎のr小学図画工作』は縦長A5判の体裁をとっている。

c長の判は戦前では一部の民間私教科書に例が見られるだけである。

e冊全体の約三分の一が色彩印刷,残りがモノクロ印刷になってい 驕B内容の特徴としては}一題材に関して参考作品の数が多いとい

…羅議灘聾…1}裏簾…1選}i灘

うことがある。これは戦前の国定教科書のお手本主義に対抗する試 ンであり,後藤が戦前に発行したr図画手工教本』などにも見られ

簸嫁iil鄭瓢

のr少年少女自習画帖』以来取ってきた方法である。戦前の教科書 テくりの実績が生かされている。ただ,参考作品は児童画ではなく,

蜷lが描いている。これは児童作品の収集に不利な立場に後藤がい

    〆〆バ        謹

?]菱 泄鵠灘

蛹ェ糠翻

たためであろう。そして,題材そのものは,戦前とそれほど大きな       第2図.後藤福次郎r小学

違いはないように感じられる。      図画工作』(昭23)

全体的な印象としては参考資料書といった感じがする。

2.関東師範美術連盟r新図画工作』 (国民図書刊行会,昭和23〜24年)A5判横長,各冊40頁。

この準教科書も戦後比較的早く発行された。その事情を稲村退三が青攣社編r赤津隆助』(昭

和51年)の中に書いている14)。

昭和十八年四月,全国の師範学校が,専門学校に昇格すると,先生は美術科の将来を心配され て,その年の六月傲をとばして,関東地区師範学校美術科の研究協議会を,竹早町の旧女子師 範で開かれた。もとより昇格に伴なうカリキュラムの研究や,設備の充実等が中心議題であっ た。協議をすすめていくうちに,美術科運営上,共通問題を処理するためには,将来定期的に 研究協議会を開くべきだということで,新たに「関東師範美術連盟」を結成し,新規事業とし

て,学生を中心とした美術展覧会の開催と,小・中学校の教科書を編集発行することになった。

…… i中略)・ ・一方教科書の編集は,昭和十九年秋から着手し,編集委員には赤津先生を

中心に,当時第一師範附属小学校に勤務して居られた,高橋利平,山崎幸一郎氏と,第二師範

(16)

の糟谷実氏と私が委嘱を受けた。編集会は先生のお宅の応接間で,前後数回開かれた。教科書 に載せる作品は,関東地区各師範学校の附属小学校の児

そ轡繍綴撫会は昭和23年4月4日であつた しんずがこうさく,

儲勃難養翻梅

よると,当時,従来のように美術の専門家が描いた絵を子ど     鷺購畷麟礫、

もが模写することについて大いに議論し,子どもは大人が描   第3図.関東師範美術連盟 いた絵より同年代の子どもが描いた絵の方に親近感をもっの      『新図画工作』(昭23)

ではないかという結論に達し,児童画を載せることになった。

この試みは当時としては大英断であったと言う。

第二の特徴は,各学年十から十九のテーマを設定し,そのテーマに沿って題材を数個配列してい

る点である。たとえば,五学年には「農園から」というテーマが設定され,農園の人や動物のスケッ

チ,粘土による動物制作,昆虫や動物の精密描写,昆虫や動物をモチーフにした図案という四つの 題材が配列されている。第三の特徴として,三年から鑑賞教材に取り入れ,工芸品は柳宗悦の民芸 館所蔵のものを掲載したという。ただ,第四の特徴として特に戦後的な題材はないこともある。

全体的な印象として児童作品を取り入れた身近で素朴な感じのする準教科書である。

3.児童美術研究会r小学図画工作』(日本文教出版,昭和25〜26年)

A5判 横長,各冊32頁

 この準教科書の発行事情は『日文35年史』 (日本文教出版,      難箋聾饗稽蟹囎蓼聾

鍮濃認灘騰葵里欝縢  鐸….顎

ら昭和25年4月に1−3年用を発行することができた・更に 黛 藷・苦労を続け昭和26年2月に1〜6年の全巻が揃って発行され

た。そして,この昭和26年度用r小学図画工作』は一挙に61  第4図.児童美術研究会r小学

万冊を超える売れゆきを見せ,関西地方に広く普及した。そ     図画工作』(昭26版)

の後,関東地方に改訂を重ねながら進出していったという。

この準教科書の特徴は児童画,または児童画を原画にした作品を多く取り入れていることである。

そして,児童画はクレヨンや絵具の重ね塗りをした表現主義的な作風になっている。この準教科書

が戦後児童画の表現主義的な方向づけを行ったと思われる。また,抽象表現や線描,鉱石ラジオ製

作といった新しい教材も入っている。大阪は「一本線描法」など絵画教育の研究が進んでいた地で

あり,それだけに絵画分野は充実した内容になっている。

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