泉鏡花における制度と自然
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自然主義試論Ⅳ
The fiction of IZUMI Kyoka : System , Institution and Nature
葛 綿 正 一 KUZUWATA Masakazu 自然主義は必然的に自然主義ならざるものを生み出す。それが泉鏡花の文学であろう。しかし自然主義は、そもそ
も制度を批判する言説であった。その意味では、反=制度性を特徴とする鏡花文学がもっとも自然主義的であるとも
いえる。「ロマンチツクと自然主義」(一九〇八年)と題された評論で「自然主義の人々のやうに、ああした実感を刺
激するやうな材料を好んで書かれると、それと対比して存在しようとする、美を生命としたロマンチツクの作品は、
余程努力しないといけない。其処で刺激になる」と述べているが、鏡花は自然主義を刺激とし糧とするのである。以
下、鏡花作品を制度と自然という観点から分析してみたい。年代順に辿っていくが、引用は『鏡花全集』全二八巻(岩
波書店、一九七六年)による〔1〕。
一 制度と自然――一八九四~九九年
ここではまず観念小説と呼ばれた『義血侠血』『夜行巡査』を取り上げ、次に自伝的な小説である『照葉狂言』『一
之巻』~『誓之巻』を取り上げる。そして観念的なものと自伝的なものが入り組んでいった初期の短篇として『龍潭
譚』『化鳥』『三尺角』『湯島詣』などを取り上げてみたい。
1観念小説 『義血侠血』(一八九四年)は制度批判の小説である。女芸人の白糸にとって水芸は自由自在の世界だが、法制度は
苛酷な世界にほかならない。正当防衛であるにもかかわらず、死刑を宣告されるからである。
結末をみてみよう。「之に次ぎて白糸は無雑作に其重罪をも白状したりき。裁判長は直に訊問を中止して、即刻此
日の公判を終れり。/検事代理村越欣弥は私情の眼を掩ひて具に白糸の罪状を取調べ、大恩の上に大恩を累ねたる至
大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。さるほどに予審終り、公判開きて、裁判長は検事代理の請求を是な
りとして、渠に死刑を宣告せり。/一生他人たるまじと契たる村越欣弥は、遂に幽明を隔てて、永く恩人と相見る可
からざるを憂ひて、宣告の夕寓居の二階に自殺してけり」。白糸の援助で出世した村越欣弥は、自殺することで法制
度よりも水芸の世界に一体化するのである。
『夜行巡査』(一八九五年)は制度と一体になって自滅する男を描いた制度批判の小説である。八田巡査は憐れむべ
き老車夫や母子を責め苛むが、そのサディスト的形象が高まれば高まるほど、制度の苛酷さが際立つだろう。だが、
お香を苛む老人を助けるために命を失う。「…咄嗟に巡査は一躍して、棄つるが如く身を投ぜり。お香はハツとして
絶入りぬ。あはれ八田は警官として、社会より荷へる処の負債を消却せむがため、あくまで其死せむことを、寧ろ殺
さむことを欲しつつありし悪魔を救はむとて、氷点の冷、水凍る夜半に泳を知らざる身の、生命とともに愛を棄てぬ。
後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称せり。ああ果して仁なりや、然も一人の渠が残忍苛酷にして、恕すべき老車
夫を懲罰し憐むべき母と子を厳責したりし尽瘁を、讃歎するもの無きはいかむ」。
八田巡査は泳げないにもかかわらず、職務を遂行するために水に飛び込むのだが、この氷点下の水が制度の苛酷さ にほかならない。これはお香を苛む老人以上の冷たさである。後の作品『日本橋』には「先 さつき刻から、水に臨んで、橋
の上に、ここに暫時立つてゐたのは、ありやどういふわけですか」と警官に問い詰められる場面があるが、水面は法
と自然が鋭く対峙する場といえる。
『外科室』(一八九五年)は植物園ですれ違った二人が、外科室で医師と患者として再会し、宿命の恋ゆえに死を選
ぶ物語である。
『でも、貴下は、貴下は、私を知りますまい!』/謂ふ時晩し、高峰が手にせる刀 ナイフに片手を添へて、乳の下深く
掻切りぬ。医学士は真蒼になりて戦きつつ、/『忘れません。』/其声、其呼吸、其姿、其声、其呼吸、其姿。
伯爵夫人は嬉しげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばつたり、枕に伏すとぞ見えし、
唇の色変りたり。/其時の二人が状、恰も二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきが如くなりし。
(上)
「恰も二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきが如くなりし」とあるが、これが制度のない状態
であろう。結末の「渠等二人は罪悪あつて、天にゆくこと得ざるべきか」とは結婚という制度を批判する言葉にほか
ならない。評論「愛と婚姻」(一八九五年)で「要するに社会の婚姻は、愛を束縛して、圧制して、自由を剥奪せむ
がために造られたる、残絶、酷絶の刑法なりとす」と述べている。結婚制度は鏡花にとって「残絶、酷絶の刑法」で
しかない。
『琵琶伝』(一八九六年)は、無慈悲な夫の嫉妬ゆえに女が幽閉される話である。注目したいのは、夫ではなく恋人
の声を模倣する鸚鵡である。咽喉は食い破られた夫は声を発することができないが、恋人が銃殺されても、その声は
鸚鵡に引き継がれるのである。
『化銀杏』(一八九六年)もまた女の孤家の話である。少年を愛し夫を殺した妻は狂気に陥って部屋に閉じこもる。「渠 は恐 おそれ懼て日光を見ず、もし強ひて戸を開きて光明其膚に一注せば、渠は立処に絶して万事休まむ。/光厭ふこと斯の
如し。されば深更一縷の燈火をもお貞は恐れて吹消し去るなり」。少年の好んだ銀杏返しに髪を結った狂気の妻が行
燈を吹き消すゆえに化銀杏の旅館と呼ばれるのだが、暗闇は制度から排除されたものの棲む場所といえる。少年はそ
こに幽霊を見ようとするのである(「活きたるお貞よりも寧ろ其姉の幽霊を見むと欲して…」)。
2自伝的小説 『照葉狂言』(一八九六年)は母のいない少年が姉に愛される物語である。「あなたのね、母 おつかさん様がおなくなり遊ばし
たのを、御近所に居ながら鳴物もいかがな訳だつて、お嬢様が御遠慮を遊ばすんでございますよ」と冒頭で語られて
いる。亡くなった母を再生させるために必要とされるのが、向かいに継母と暮らすお雪である。伯母は花札賭博で連
行されてしまうのであって、母親代理の役割を務めてはいない。継母に苛められる継子の物語がお雪の存在を情動化
している。
もう疑ふことはない。姉様は此の中に埋 いれられたな、と思ひながら、姉さん、姉さん、と地 つちに口をつけて呼んで 見ても返事がないから、はツと思つて、泣伏して… (鞠歌二)
それからまた精一杯な声で、姉さん姉さんツて呼んだの。然うすると、ああ、もう水が出て、足の裏が冷たくツ
て冷たくツて、と姉さんがお言ひだとね。土を掘つたのだもの、水が出ますわ。 (鞠歌三)
貢は照葉狂言一座の小親と親しくなり諸国を巡るが、継母や婿養子に苛められるお雪を救うためには小親と別れな
ければならない。「わが小親を売りて養子の手より姉上を救ひ参らせむか、はた姉上をさし置きて、小親とともに世
を楽しく送らむか、いづれか是なる、いづれか非なる」と悩む。お雪か小親かという二者択一を強制するのが制度で
あろう。だが、それによって情動が高まる。
あれといふ声、啊 あなや呀と姉上の叫び給ひしと、わが覚ゆる声の、猫をば見たまひて驚きたまひしならば可し。さな
くて残忍なる養子のために憂目見たまひしならばいかにせむ。それか、あらぬかとのみ思ひ悩みつつ、われは夜
半の道を行くなりき。 (峰の堂一)
われは一足立戻りぬ。あれといふ処、啊呀と叫びたまひし声、いかで其ままに差置きて、小親と楽しく眠らるべき。
/いま少し、いま少し、仮小屋と広岡の家と楓の樹と、三ツともにある処に、いま少し、少しにても遠く隔たり
たらば、心の悩ましさ忘られむ。/渡り越せば、仮小屋とハヤ川一ツ隔たりたり。 (峰の堂二)
母なるものとは情動の高まりであり、こうしたディレンマを通して息を吹き返すものではないだろうか。ディレン
マこそが母親の幻影を回帰させるように思われる。つまり、鏡花は母を再生させるために、言語を選言的に使用して
いるのである。
『一之巻』から『誓之巻』(一八九六年)もまた母のいない少年が、姉というべき存在に愛される物語である。
『今ね、誰かにさう申して、お墓を直さしてあげますからね……お可哀想に。』/といひかけつ。其瞬間一点の、
一事の胸にあることなく、無心なりし予が面をばじつと見しが顔を背向け、/『そんなら、あの、待つておいで
遊ばせよ。』/と行きかけてまた見返りぬ。 (『一之巻』) 母の墓を修復してくれるのが時計屋のお秀という女性である。「秀の黒髪颯と乱れて、横ざまに臥したるにぞ、予
は心地酔へるが如く再び足を爪立てつ。/『新次!』/と一声背後より妙なる声のいと清きが少しく怒を含みて呼ぶ
に、と胸を打ちて見返りぬ。/茶博多の帯胸高に占めたりし、亡き母の胸のあたりのみ、わが頭より少しく上に月あ
かりに仄見えつ」(四の巻)。
お秀は主人公の新次を庇護してくれるが、盲目の富の市に苛まれるのであり、母の出現とともに消え去ることにな
る。庇護してくれる英語教師のミリヤアドも同様である。
『肯 ききませんか。あなた、私を何と思ひます。』/と切なる声に怒を帯びたる、りりしき眼の色恐ろしく、射窘め
らるる思あり。/枕に沈める横顔の、あはれに、尊く、うつくしく、気だかく、清き芙蓉の花片、香の煙に消ゆ
よばかり亡き母上のをもかげをば、まのあたり見る心地しつ。 (『誓之巻』) 母親の出現とともに、ミリヤアドは病気で亡くなるのである。お秀もミリヤアドもともに「怒り」を含んでいるこ
とに注目したい。鏡花の女たちはいずれも男を鼓舞し叱咤する存在なのである。だが、お秀とミリヤアドは両立しな
い。お秀のことを早く忘れるようにミリヤアドは諭しているが、これはお雪と小親の排他的関係と同じである。
興味深いのは、鏡花の女たちが水を操る女であるとともに、金属を扱う女だという点であろう。「水の如き瞳を寄 せ、眉根を皺めて顰みつつ、針の尖 さきもて歯のうろを危げに掘りくれしが、/『直りましやう、大丈夫。』/と微笑みつ。
桃色の絹の手 ハンケチ拭に針の尖をつと通して押拭へるを、予が着たる衣ものの襟に縫着けたり」(『二のまき』)。 ミリヤアドは針を用いて、主人公を目覚めさせるのである。同時に、主人公が同数異号の和について学んでいるこ
とに注目するべきであろう。「戒むる人ありて強ゐてまた数学教うる私塾に塾生とはなれりしかど、同数異号の和は
零なりと、寝覚にも呟かれし、教師の口癖を習ひ取りて、人の気に染まぬことをいふごとに、横を向きて、/『同数
異号の和は零なりですから。』/恁 かくいひ消しては笑ふことの快きを覚えしのみ」(『三之巻』)。
不在の母と現存する姉たちは鏡花にとって同数異号の存在ではないか。とすれば、両者が重なって零に至るのが鏡
花の作品構造ということになる。亡くなった母を再生させること、そのために鏡花は言語を操って、水の環境や金属
の変容を描き続けるのである。
「僕は明かに世に二つの大なる超自然力があることを信ずる。これを強いて一纏めに命名すると、一を観音力、一
を鬼神力とでも呼ばうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものである」と鏡花は述べているが(「おばけず
きのいはれ少々と処女作」一九〇七年)、観音力と鬼神力は同数異号のものにちがいない。『ななもと桜』(一八九七年)
でも「同数異号の和は零なりといふ原理」に言及している。『神鑿』(一九〇九年)の主人公が双六谷に入っていくの
は、その原理を確かめるためであろう。事実、燃やされた人形と神隠しにあった妻の間には等号が成り立つ。『袖屏風』
(一九〇一年)の結末には「得意の代数式で占つても答へは疑のXのみ」とあるが、代数式を使って未知のXを浮か
び上がらせるのが鏡花の小説といえるかもしれない。
尾崎紅葉に汽車賃を借りに行く体験を踏まえた『怪語』(一八九七年)の主人公もまた新次である。旅僧が語り、
鉄道にも言及があり、『高野聖』に繋がっていくことがわかる。
3観念と自伝 『龍潭譚』(一八九六年)は母を呼び寄せる点で鏡花的な神隠しの物語である。母のいない少年千里は姉の禁止を破っ
て山中に迷い込む。冒頭、「危ないぞ危ないぞ」と強調されている。
色彩あり光沢ある虫は毒なりと、姉上の教へたるをふと思ひ出でたれば、打置きてすごすごと引返せしが、足許
にさきの石の二ツに砕けて落ちたるより俄に心動き、拾ひあげて取つて返し、きと毒虫をねらひけり。
(「躑躅か丘」) 少年は金属的な光沢のある禁忌の対象に魅入られているが、禁忌に触れることで失われた母を取り戻そうとするの
である〔2〕。それが九ツ谺に棲み、少年を庇護した山姫であろう。神隠しから戻ってきた少年は村人たちから迫害され、
姉が森に連れて行くと激しい暴風雨に襲われる。「すさまじき暴 あ風 ら雨 しなりしかな。この谷もと薬研の如き形したりき
とぞ。/幾株となき松柏の根こそぎになりて谷間の吹倒されしに山腹の土落ちたまりて、底をながるる谷川をせきと
めたる、おのづからなる堤防をなして、凄まじき水を湛へつ。一たびこのところ決潰せむか、城の端の町は水底の都
となるべしと、人々の恐れまどひて、怠らず土を装 もり石を伏せて堅き堤防を築きしが、恰も今の関屋少将の夫人姉上
十七の時なれば、年つもりて、嫩なりし常磐木もハヤ丈のびつ、草生ひ、苔むして、いにしへよりかかりけむと思ひ
紛ふばかりなり。/あはれ礫を投ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気なる友のいたづらを叱り留め
つ。年若く面清き海軍の少尉候補生は、薄暮暗碧を湛へたる淵に臨みて粛然とせり」(「千呪陀羅尼」)。
暴風雨によって九ツ谺は水底に沈み、千里は少尉候補生に出世するので、制度の世界によって母なる世界は葬り去
られたかにみえる。しかし、礫一つを投ずるだけで母なるものは蘇るのではないだろうか。それが鏡花作品の潜勢力
だからである。『故郷七十年』(一九五八年)で柳田國男は自らの神隠し体験を記しているが、この甘美さはない。
『化鳥』(一八九七年)は自然をめぐる少年の独白である。「愉 おも快 しろいな、愉快いな、お天気が悪くつて外へ出て遊べ
なくても可いや、笠を着て、蓑を着て、雨の降るなかをびしよびしよ濡れながら、橋の上を渡つて行くのは猪だ。/
菅笠を目深に被つて、に濡れまいと思つて向風に俯向いてるから顔も見えない、着て居る蓑の裙が引摺つて長いか
ら、脚も見えないで歩行いて行く、脊の高さは五尺ばかりあらうかな、猪としては大なものよ、大方猪ン中の王様が
彼様三角形の冠を被て、市 まちへ出て来て、而して、私の母様の橋の上を渡るのであらう」(一)。 人から猪へ、この変容を引き起こすのが、水であることに注目しておきたい。雨が人を猪に変えてしまうからであ
る。少年の母はどうやら橋の通行料を取って暮らしているらしい。そんな少年の前に立ち現れるのが制度としての教
師であり、少年の感覚は先生の進歩主義と対立している。「それから、釣をしてますのは、ね、先生、とまた其時先
生にさういひました。あれは人間ぢやあない、蕈なんで、御覧なさい。片手懐つて、ぬうと立つて、笠を被つてる姿
といふものは、堤防の上に一本占治茸が生へたのに違ひません」(三)。
これは少年だけに見える光景であろうが、雨が釣り人を一本占治茸に変えているのである。少年に教えてくれるの
は先生ではなく母親のほうである。
(鳥なの、母様。)とさういつて其の時私が聴いた。/これにも母様は少し口籠つておいでであつたが、/(鳥ぢ
やあないよ、翼の生へた美しい姉さんだよ。)/何うしても分らんかつた。うるさくいつたら、しまいにや、お
前には分らない、とさうおいひであつたのを、また推返して聴いたら、やつぱり、/(翼の生えたうつくしい姉
さんだつてば。) (十一)
口唇的な母親の言葉に導かれて、少年は翼の生えた美しい姉さんの実在を確信するが、それは母親の姿に重なるも のであろう。「何 どうもさうらしい、翼の生えたうつくしい人は何うも母様であるらしい。もう鳥屋には、行くまい。
わけてもこの恐しい処へと、其後ふつつり。/しかし、何うしても何う見ても、母様にうつくしい五色の翼が生えち
やあ居ないから、またさうではなく、他にそんな人が居るのかも知れない、何うしても判 はつ然 きりしないで疑はれる。(中略)
羽の生へたうつくしい姉さん。だけれども、まあ、可い。母様が在らつしやるから、母様が在らつしやつたから」(十二)。
母から姉へ、姉から母へ、この変容こそが鏡花文学の特質にほかならない。一方には羽の生えた母と姉の世界があ
り、他方には笠を被った釣り人の世界があるといえるかもしれない。
『辰巳巷談』(一八九八年)は深川を舞台にして鼎とお君の悲恋を描く。お君は廓を出たものの、鼎と暮らすことが
できず、船頭の宗平のもとに行かざるをえない。
「お君さん、しつかりおし。私だよ、おいらん、おいらん、鼎さんの母様が来たんだよ。」 (第三十五)
お君が宗平に刺されたところに鼎の実母が現れて止めを刺し、自刃して果てるが、二人の仲を引き裂くことなしに
母は出現できない。しかも、母は出現するやいなや消え果てるほかないのである。
深川木場を舞台にした『三尺角』(一八九九年)は父と叔母をめぐる謎の物語である。「干潮の時は見るも哀で、宛
然洪水の如く」、しかし満潮になると「掃除をするでもなく美しい」という船が少年与吉の住まいになっている。な
ぜ病気の父は魚を食べないのか、同居する瀕死の叔母が「人に血を吸はれた」のはなぜか、少年が何も知らないまま
その謎を解き明かす。本作品にも自然と制度についての考察がある。制度の世界からみれば、材木に枝葉が栄えるな
ど自然にはありえない。だが、それが実現してしまう。
「大変だ、大変だ、材木が化けたんだぜ、小屋の材木に葉が茂つた、大変だ、枝が出来た。」/と普請小屋、材木
納屋の前で叫び足らず、与吉は狂気の如く大声で、此家の前をも呼はつて歩行いたのである。/「ね、ね、柳ち
やん――柳ちやん――」うつとりと、目を開いて、ハヤ色の褪せた唇に微笑むで頷いた。人に血を吸はれたあは
れな者の、将に死なんとする耳に、与吉は福音を伝へたのである、この与吉のやうなものでなければ、実際また
恁ね福音は伝へられなかつたのであらう。
材木とは何か、それはもはや生き物ではなく、加工された人工物である。自然ではなく、制度といってもよい。そ
れが変容するのである。反自然が自然になるというのは、無垢なる少年がいなければ実現できないものであろう。続
篇の『木霊』において、今度は制度の視点から確認しているが、それが工学士の役割ということになる。「深川の此
の木場の材木に葉が繁つたら、夫婦になつて遣るツておつしやつたのね」、この約束の成就とともにお葉は息を引き
取る。同数異号の和に等しい結末である。『錦帯記』(一八九九年)では錦の帯を贈られた女家主が殺害され、「浦里、
一層此死骸と結婚しないか」と勧められている。死者との結婚もまた同数異号の和ではないだろうか。
『湯島詣』(一八九九年)の芸者蝶吉は制度の世界では生きられない女である。恋人の神月梓はすでに結婚しており、
一緒になることができない。「交番の中に、蝶吉は、腕を背 そびらへ捻られたまま、水を張つた手桶に其の横顔を押着けられて、
ひいひい泣いて居た」。梓は警察の無法ぶりを批判しようとするが、すべては制度の言葉に言いくるめられてしまう。
梓は歯 はがみ切をして、衝と寄つて、其の行 おこなひ為を詰つたが、これに答へた警官の語 ことばは、極めて明瞭に、且つ極めて正当 なものであつた。/狂 きちがひぢから人力で手に合はず、取静めようとして引留めれば、主 ぬしのある身体だ、指を指すなど、あば
れ廻つて、簪を抜いて突かうとする。突かれて手の甲に傷つけられたものも一名ある、漸々掴まへてからも危険
だから、腕は捻ぢ上げて置かねばならぬ。且つ其の住所、姓名、身分の手懸を知るために、懐中物も検べねばな
らず、或は如何なる迫害を途上受けたかも計られないから、身内を検するには、着物も脱がさなければならぬ、
勿論帯も解かんけりや不可い。逆 のぼせ上て夥多しく鼻血を出すから、手当をして、今冷して居る処だといつた。
(五十一)
狡猾ともいえる完璧な制度の言葉に、法学士も反論することができない。だから、死を選択せざるをえないのであ る(「其時は二人抱合つて居たが、死骸は大川で別 わかれかわれ々」)。本作は『義血侠血』『夜行巡査』からはじまったスタイルを
閉じるものといえるだろう。
二 鉄道と自然――一九〇〇~六年
ここではまず鉄道ではじまる『高野聖』を取り上げ、次に鉄道建設を描く『風流線』『続風流線』を取り上げる。
そして鉄道がかかわる小説として『春昼』『春昼後刻』を取り上げてみたい。鉄道小説が描くのは制度と自然の単純
な対立ではなく、制度と自然の入り組んだ関係である。
1二つの世界を結ぶ話法 『高野聖』(一九〇〇年)は鉄道で知り合った旅僧の話を聞く設定になっている。旅僧が語るのは、飛騨から信州へ
と薬売りを追って山中に分け入った若き日の体験である。山中の孤屋に住む美女に誘惑された薬売りは馬に変えられ
るが、若き宗朝は危うく助かったという。
表紙を付けた折本「参謀本部編纂の地図」が示すのは、いわば制度の世界である。しかし、地図には標記されてい
ない世界に旅僧は紛れ込む。折り畳まれた襞といってもよい。それが山中の孤家である。「聞く身には他事をいふう
ちが抵 もどか捂しく、膠もなく続きを促した」という通り、聞き手は旅僧に語りを促す(二十三)。旅僧によれば、すべて
は洪水のせいだと生き残った親父が語ったらしい。
その時分はまだ一個 かの荘、家も小 こ二十軒もあつたのが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留した五日目から 大雨が降出した。滝を覆すやうで小 をやみ歇もなく家に居ながら皆簑笠で凌いだ位、茅葺の繕ひをすることはさて置い
て、表の口も明けられず、内から内、隣同士、おうおうと声をかけ合つて纔に未だ人種の世に尽きぬのを知るば
かり、八日を八百年と雨の中に籠ると九日目の真夜中から大風が吹出してその風の勢ここが峠といふ処で忽ち泥
海。/此の洪水で生残つたのは、不思議にも娘と小児と其に其時村から供をした此の親仁ばかり。 (二十六)
生き残った白痴の小児と娘は夫婦になるのだが、洪水を招き寄せたのは女の力にほかならない。だからこそ、若き
旅僧は水の環境に引き入れられるのである。「女瀧の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震はすやうで、
岸に居てさへ体がわななく、肉が跳る。況して此の水上は、昨日孤 ひと家 つやの婦人と水を浴びた処と思ふと、気の所為か其 の女瀧の中に絵のやうな彼の婦人の姿が歴 あり々 あり、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思ふと又浮いて、千筋に乱るる 水とともに其の膚 はだへが粉に砕けて、花 はな片 びらが散込むやうな」(二十五)。 だが、生き残った親父は警告する。「彼の白痴殿の女房になつて世の中へは目もやらぬ換 かはりにやあ、嬢様は如意自在、
男はより取つて、飽けば、息をかけて獣にするわ、殊にその洪水以来、山を穿つたこの流は天道様がお授けの、男を
誘 いざなふ怪しの水、生命を取られぬものはないのぢや」。親父は「いや軈て、この鯉を料理して、大胡坐で飲む時の魔神
の姿が見せたいな」と口にしつつ「妄念は起さずに早う此処を退かつしやい、助けられたが不思議な位、嬢様別して
のお情じやわ、生命冥加な、お若いの、きつと修行をさつしやりませ」と背中を叩く。しかし、その鯉が料理されな
いであろうことは予想がつく。
藻抜けのやうに立つて居た、私 わしが魂は身に戻つた。其 そなた方を拝むと斉しく、杖をかい込み、小笠を傾け、踵を返す と慌しく一散に駈け下りたが、里に着いた時分に山は驟 ゆふ雨 だち、親父が婦人に齎らした鯉も、このために活きて孤屋 に着いたらうと思ふ大雨であつた。 (二十六)
ほとんど注目されることはないが、この結末が「床にも座敷にも飾りといつては無いが、柱立の見事な、畳の堅い、
炉の大なる、自在鍵の鯉は鱗が黄金造であるかと思はるる艶を持つた、素ばらしい竈を二ツ並べて一斗飯は焚けさう
な目覚しい釜の懸つた古家で」とあった冒頭の場面に呼応することは明らかであろう。金属の鯉はいつの間にか生身
の鯉に変容している、これが鏡花の魔術なのである。したがって、鉄道もまた生々しい領域へ導く装置となる。
『X蟷螂鰒鉄道』(一八九六年)では女作家の小説X、少年の好む蟷螂、夫の好む鰒、妻の働く鉄道が並列されたま
まであった。それに対して、複数の要素が見事な話法で語られたのが『高野聖』である。二つの世界を入れ子型に結
びつける話法は本作品において最も成功したといえる(『歌行燈』ではさらに三重の世界が結びつけられる)。花袋の
紀行文が旅を平板な表象に置き換えてしまったとすれば、鏡花の小説は旅に強度を取り戻す。
同じく話法の点で注目される『註文帳』(一九〇一年)は剃刀が導く怪談である。吉原大門前にある剃刀研ぎの五
助の店では、毎月一九日になると剃刀が紛失する。その日に店を訪れた鏡研ぎの作平が、旧幕臣の娘で無理心中に失
敗して自害した遊女お縫の話をする。その夜、お縫の霊に導かれ近くの紅梅屋敷を訪れた欽之助は、お縫の霊に取り
憑かれたお若に剃刀で無理心中させられる。
…返事がない。猶予ならず、庭の袖垣を左に見て、勝手口を過ぎて大廻りに植込の中を潜ると、向うにきらきら
水銀の流るるばかり、湯殿の窓が雪の中に見えると思ふと、前の溝と覚しきに、むらむらと薄く凡そ人の脊丈ば
かり湯気が立つて居た。/之にぎよツとして五助、作平、湯殿の下へ駈けつけた時はもう喘いで居た。(二十五)
注目するべきは、鋭利な刃物が金属の流体に変容している点であろう。お縫の情人であった長州閥の陸軍少将の甥
に当たるのが欽之助であり、ドイツ留学から戻ったエリートだが、お若を自らの妻と認めて死ぬ。あたかも制度的エ
リートが女の情念によって溶けていったかのようだ(森鴎外の『舞姫』とは逆である)。
「剃刀」が「弟」の字形を含むことに注目しておきたい。陸軍少将にとって欽之助は弟分であり、お縫にとっては
自らが庇護し、自らが死に至らしめる弟であろう。もともと「注文帳」であったが、紅葉の指摘を受けて「註文帳」
に改めたという。ここでは「水」よりも言葉が注がれるのである。
2『風流線』『続風流線』
『風流線』(一九〇三年)および『続風流線』(一九〇四年)は鉄道建設をめぐる伝奇小説だが、まず注目したいのは
老婆の針の運びである。冒頭にみえる、この鉄の動きこそが鉄道建設を導いているのではないか。
背後に附著いた古板敷の筵の上、茶釜を前に、明りとりを逆に、故 わざと暗い方に蹲つて、覚束ない針の運び、夏の
はじめから山国は、継物に忙い白髪の嫗、はじめて知つたか新来の客に、しよぼしよぼとした目を注ぎ、/「お
や、入らつしやいまし。」 (一)