対人援助における環境と日本的自然観
-保育における自然の意味に関する一考察-
市東 賢二
はじめに
自然と対人援助とのかかわりを考える際には、利用児・者と場や環境との関連とし て考えることができる。例えば保育であれば自然を保育室や園庭とは違った山や川、
あるいは森林のような環境として、あるいは介護であればやはり介護施設などの介護 現場を離れて山や川、森林に遠出することとしてレクリエーションの場や昔を懐かし む場として捉えてしまいがちである。こうした意味での自然とは普段の生活の一部と いうよりは、わざわざ出かけていくところとして意味づけられている。それは自然と いう言葉の意味を、明治期に持ち込まれたヨーロッパ語のnatureの翻訳をする際に対 応する言葉として適用した「自然」という意味で用いるからである。しかし、日本的自 然観は必ずしもそれだけではない。例えば、「自然に友達になっていた」などはその典 型的な表現かもしれない。
例えば大辞林によれば、「①人為によってではなく、おのずから存在しているもの。
山・川・海やそこに生きる万物。天地間の森羅万象。人間をはぐくみ恵みを与える一 方、災害をもたらし、人間の介入に対して常に立ちはだかるもの。人為によってその 秩序が乱されれば人間と対立する存在となる。②人や物に本来的に備わっている性質。
天性。③〘哲〙〔nature〕古代ギリシャで、他の力によるのではなく自らのうちに始源を もち生成変化するものの意。ここから人為・作為から区別されたありのままのものの 意にもなり、事物に内在する固有の本性ないしは本性的な力の意ともなる。また中世 では、被造物一般のことであり、さらに神の恩寵(おんちよう)に対して人間が生まれ つき具有するものを指す。」となっている。また同じ自然を「じねん」として、「①〘仏〙あ る事物や事態が、外部からの影響力によるのではなく、それが本来的に備えている性 質によって、一定の状態や特性を生ずること。②万物は因果によって生じたのではな く、現在あるがままに存在しているものだとする考え。仏教の因果論を否定する無因 論で、外道(げどう)の思想の一つ。④人為が加わらないこと。ひとりでにそうなるこ と。ありのまま。⑤たまたまそうであること。偶然。」となっている。
こうした自然の二つの意味については以下に述べることになるが、対人援助におけ る環境あるいは自然の問題を考える上では、いわゆる自然(しぜん)と自然(じねん)の 両方の意味から自然をとらえる必要がある。また、この環境という場合の環境という 言葉にも注意が必要である。環境とは主体としての人間に対して、それを取り巻く客 体的対象あるいは存在という意味にとらえられがちである。しかし、人間と環境との 関係は、それほど簡単に割り切れるものではない。一人の人間が発達するとは、一人 の人間を取りまく外的存在を環境化あるいは身体化することによって成立している。
本稿では、こうした意味からも自然と対人援助のかかわりを考えてみたい。
なお、本稿は2016年11月19日に行われた「平成28年度幼児教育学科公開講座2 リ カレント教育講座『自然とは何か』」の講座資料を基に加筆修正したものである。
1.自然という言葉の二つの意味
日本人であるわれわれにとって、自然という言葉はどのような意味を持っているだ ろうか。特に近年の地震や豪雨、あるいはそれに伴う災害など自然に由来する出来事 は我々の日常生活の様相に大きな影響を与え、その中で我々の日常生活は営まれてい る。こうした事態の中でわれわれは嫌が応にも自然を意識しなければならなくなって いる。また、都市生活をはじめとしたわれわれの生活環境は、あまりにも人工的な姿 をしており、そこでの生活に疲れたとき海や山が恋しくなる。時にはそうした自然環 境の豊かな土地へ出かけていき、その中で安らぎを覚え、自然の豊かさやその重要さ を噛みしめる。その意味で、われわれは自然を開発しながら、消費しつつ生活してい ることに間違いない。しかし一方で、近年、子育てや老後を過ごす環境として田舎を 選ぶといったライフスタイルのように、自然と共生すること、あるいはスローライフ といったことも注目されている。
いってみれば自然とは脅威であり、かつ消費の対象であると同時に、共生を望む対 象でもある。しかし自然という言葉はこれにとどまらない。国語学者の指摘を待つま でもなく、はじめにでも挙げた「自然に友達になっていた」のような用法もある。ここ での自然とは、当然の成り行きや無意識的な移ろいを表す言葉でもある。こうした意 味はむしろ対象としての自然、あるいはヨーロッパ語のnatureより用法は古く、自然
(じねん)、つまり自ら然らしむ様を表す漢語の用法である。日本古来の用法はむしろ 自然(しぜん)より、自然(じねん)であったと言える。翻訳者の柳父章の指摘1によれ ば自然=natureとしたのは森鷗外であり、これを日本に広げた功績は、文学あるいは
芸術といった分野の自然主義の人々であったという。巌本善治との論争2において鷗 外は、自然=Naturを精神=Geistに対置される概念として、外在化された存在として 捉えている。
こうしたことは日本という国の文化的背景として、ある時期にはそれを制限してい た時期もあるが、主に国外の文化を輸入し、それを吸収しつつ発展させる仕方で文化 を形成してきたということの中で繰り返し起こっている。しかも、その吸収発展のさ せ方は、基本的にその輸入した言葉を丸呑みしようとするが、それをカタカナ表記あ るいは日本語訳することで、付加価値を付けるのである。現在でもカタカナ用語の濫 用が問題になることがあるが、まさしくこの現象は今に始まったことではないのであ る。カタカナ表記あるいは日本語訳することで、元の外国語を分かったつもりになる だけでなく、なんだか凄いことを言っているような感じを周りの人間に与える3ので ある。これと同様のことが自然(じねん・しぜん)にも同様のことが起こっている。や やこしい言い方になるが、自然に自然=natureという理解をしてしまっているのであ る。ここでは、前者の自然は意識されず、後者の自然のみが意識されている。いって みれば前者の自然は主-客未分化な自然(じねん)として現れ、後者は主-客の分別の 下に対象化された自然(しぜん)として現れているのである。
しかしここで一つの疑問が生ずる。例えば、日本の原風景とも呼ばれることもある 田舎の風景がある。広い敷地に鶏が飼われていて、その周囲にはよく実った稲穂のあ る田んぼが広がっており、遠くには川や山が控えているようなそんな風景である。こ こに現れる自然豊かな日本の原風景のどこに、先に表した対象としての自然があるの だろうか。当然のことながら人の住む敷地は人間によって整備されているし、田んぼ には人間が知恵を尽くして育てた稲穂が実っている。遠くに控える川や山は、治水さ れ下草の払われた手入れの行き届いた川であり里山である。ここに現れている姿は、
natureとしての自然は限りなく遠くへ押しやられているが、ごく自然な風景である。
ここにも、自然とnatureの違いがある。自然とは人間との営みの延長として現れるが、
natureは人間の営みに取り込まれていく、あるいは人間の営みに沿うよう変化させら れるのである。
現代を生きる我々にとっては、もはやnatureとしての自然の方が目や耳に馴染んで いるのかもしれない。しかしだからといって日本的自然観は、すでにnatureとしての 自然と変わらなくなっているとは言い難い。それは例えば、梅原猛が日本的自然観の 基底として指摘した「草木国土悉皆成仏」という思想でもある4。つまり日本人にとっ
て自然とは人間と対置されるどころか、当然人間は自然の一部であり、それは生物を 指し示すのみならず「国土」つまり地面ですらそこに含まれるのである。
さらに、「じねん」としての日本古来の自然観には、自ら然からしむという、はじめ にで挙げた大辞林の定義にも見られるような、「おのずから存在しているもの」あるい は「人や物に本来的に備わっている性質」といった意味が含まれており、ここでは基本 的に人間とそれ以外といった区別はない。人間自身もまた自ら然からしむ仕方で、存 在しているのである。
2.環境としての自然
上記のような自然観が自覚的・無自覚的に表出されようとも、一方では生活し、生 きられる人間を取り巻く環境としての自然があり、一方では日常の生活環境とは隔絶 された手つかずの自然がある。この手つかずの自然をいかに活用するかという議論 が、近年特に注目されていることも忘れてはならないだろう。環境を人間とその世界 との関係から述べるなら、近代的知のありよう、つまり自然科学的な世界の理解の浸 透とともに、科学技術の進歩を促したことにも言及する必要がある。自然科学的な世 界の理解が一方では効率のよい社会を目指したのと同時に、もう一方では、今でもそ うした風潮は色濃く残っているが、人間性を蹂躙することになった。そこでの人間と その世界との関係は、基本的に主-客二元論であり、世界あるいは自然を人間から切 り離し、対象化することとして現れた。例えば人間を万物の霊長として食物連鎖(と いう世界観)において頂点に存在するとしてみたり、人間の優れた特徴として理性や 知能をあげ、他の生物と比べたりするといったことである。当然こうした視点からす れば人間を中心に世界は動いているのであり、その人間を中心として世界あるいは環 境、自然が取り巻いているような悪しき人間中心主義を導き出した。こうした理解が 広がったとき、自然は時代の流れに応じて、natureとしての自然が一気に勢力をまし、
「じねん」としての自然は影を潜めていった。
natureとしての自然は、もともと人為あるいは精神(mind〔英〕、Geist〔独〕)と対に なる言葉である。人間の精神や作為の向こう側に対立する自然(しぜん)を人間の側に 取り込み、利用するのである。欧米式の庭園に見られる動物の形に刈り上げられた庭 木を微笑ましく見るのと同時に、どこか違和感を感ずるのは筆者だけではあるまい。
こうした人間と自然を切り離し、大々的に自然(しぜん)を人間の意図するままに利用 し搾取しようとしたのが、1980年代を中心に起こったリゾート開発ブームや原生林の
乱伐である。これはそののちに批判されるように自然破壊ブームであった。こうした 反省から自然保護が叫ばれるようになるのだが、ここでも人間が自然(しぜん)を保護 できる、つまり意図的に操作できる立場にいることに違いはない。こうしたことが起 こる背景は、現在ではその理解を広まりつつあるが、生物学と生態学の根本的な誤解 あるいは曲解から成り立っている。natureとしての自然であっても人間がそれを利用 しようとすれば、必ずそれは破壊される。どんなに小さく見積もっても傷がつくので ある。そしてその傷は人間としての営みによって元に戻るなどという、人間中心の操 作主義では太刀打ちできない。時間の流れが違いすぎてしまう。現在ではこうした傷 をいかに小さく影響の少ないものとするのかということが議論の中心になっている。
1992年にリオで行われた地球サミットで採択された「生物多様性条約」などはそうした 働きかけの一環である。
こうしたことから自然環境をもう一度捉えかえしてみると、単に人間の周りにある 人工的及び自然(しぜん)の広がりとしてだけ捉えることはできず、ましてや人間の作 為によって操作できるというものでもない。必ずしも人間と環境との関係は、単なる 中心としての人間(主体)とそれを取り巻く環境(客体)としての作用-反射で表される 関係ではない。ユクスキュルが指摘したとおり「主体が知覚するものはすべてその知・ 覚・世・界・(Merkwelt)になり、作用するものはすべてその作・用・世・界・(Wirkwelt)になるか らである。知覚世界と作用世界が連れだって環・世・界・(Umwelt)という一つの完結した 全体を作りあげている」5のである。この知覚世界と作用世界によって環世界が成立 するということは、例えば人的環境とされる専門職と利用児・者の関係は、利用児・
者を中心とした環境としての専門職という定型的な関係とするよりは、「現実の現存 在、従って自分の存在にかかわりつつある現実の人間は、彼がかかわりつつあるその 時々の存在の『性質』と結びついた姿においてのみわれわれに把握される」6ような関 係のことである。こうした関係は何の属性も、性格や性質あるいは役割を帯びない「た だのひと」同士のかかわりなどではありえないし、中心と環境といった主-各二分さ れた関係でもない。。利用児・者を中心にすれば、そこにかかわる環境としての専門 職は、利用児・者にとっての環世界として現れる。物的環境としての椅子や机、ある いはペンや紙なども同様である。当然だが自然環境としての人間以外の生き物にも同 様である。しかし、その際その利用児・者の環世界として現れる人や物あるいは人以 外の生き物の本性、つまり本来それらが帯びる属性や性格、あるいは性質といったも のが、そのままその利用児・者の環世界として現れるとは限らないのである。
自分たちの役に立つように自然を開発する、あるいは自然とはわれわれ人間が自由 に開発できるのだという思い込みが、我々にとっての環境、環世界としての自然の意 味を見失わせたといえる。
3.対人援助における自然と環境
こうした議論を踏まえて、改めて対人援助における自然と環境の問題を考えてみる と、利用児・者の環境から単純に人工物を排除して、自然物に置き換えればそれでよ いということにはならない。また、人工的に加工された自然素材のものを支援や環境 設定に取り入れるだけでも足りないだろう。こうしたことだけでは単に形式だけ自然 を取り入れ、近代的自然観を模倣したにすぎないからである。模倣したに過ぎないど ころか、われわれ自身にとっての自然を無視することになる。われわれにとっての自 然を無視するということは、実はきわめて厄介なことなのである。先にも見たように すでにわれわれの自然観は自然(しぜん)と自然(じねん)という二重の仕方で実現して しまっている。「しぜん」としての自然はわれわれの働きかける対象として現れるが、
「じねん」としての自然はわれわれのありように潜む。自然(しぜん)に対して我々は意 図的に働きかけるが、その意図的な働きを支える、いわばわれわれの無意識的な在り 様は自然(じねん)に現れてしまうからである。簡単に言えば、われわれは生きられる 瞬間のすべてを意図的には生きることは不可能だということなのである。
意図的な働きかけを成しうるということは、対人援助の専門職として必要な能力で あるが、意図的な働きかけとしての支援は、支援を実行する体勢から成立させられる。
この支援を実行する体勢は常に見直され、改善されることが求められているが、支援 を実行しつつ(体勢を整えつつ)、それを見直し改善し続けるということはとても難し い。特にその支援が、専門職にとってうまく、あるいは問題なくいっていると思える ときほど、それは困難である。さらに言えば支援を始めたばかりの初任者にそれを求 めることは難しい。初任者はまさしく支援するという、意図的な働きかけを学びつつ、
工夫し整えるべき体勢が見えないまま四苦八苦している。四苦八苦しながら自らの身 をもって、支援という意図的な働きかけをするようになるころには、すでにその初任 者にとっての支援を実行する体勢は、自然(じねん)に整えられてしまうのである。こ のようになるまでにどれほどの時が必要であろうか。対人援助の専門職にとってこう したプロセスは誰しもが辿る道でありながら、このプロセスこそが役割を担い、責任 を果たす専門職の自然(じねん)なありようなのである。言い換えるなら専門職が、そ
の専門性が発揮される場に慣れるということもである。慣れるということは専門性が 発揮される場が支援を実行する体勢に整えられることであり、その場においてその専 門職の行為は、無反省あるいは自動的に行われてしまう。当然そのときすでにその専 門職を取り巻くさまざまなモノは、その専門職にとっての環世界として現れ、その専 門職にとって身体化されている。専門職がその支援を行う際に知らずに支援に癖がつ いてしまうのも、こうしたプロセスによる。
こうしたことは当然利用児・者においても生起する。例えば、子どもたちにとって は当然目の前に現れるさまざまなモノたちが、人工物であるか自然物であるかを認識 することすら難しい。それにもかかわらず、それらのモノたちはその子どもの世界に おいて環世界として立ち現れ、自然(じねん)に身体化する。このプロセスは単にその 子どもを取り巻く環境を現実化するのみならず、必然的に専門職など誰かしら大人と 生活を共にする子どもは、自然(じねん)にその生活を共にする大人の世界をも身体化 する。味覚のような感覚や箸を使った食べ方のような行動などにそれが表れる。例え ば高齢者においては、当然すでにその利用者にとっての自然(じねん)なかかわりや、
その人を取り巻く環境が身体化されているところに支援が必要となっている。長年住 み慣れた家は単なる家屋としての建物という意味だけではなく、長年使い続けその人 専用に作られたかのように馴染んだ椅子や座布団、あるいは机といった日常生活で使 われるさまざまなモノ、そしてさらにはその家を中心とした、地域の人々との人間関 係や景色をも含んで環世界として立ち現れている。介護が必要となり、息子や娘の家 や施設に生活の場所を移したとき、どんなに心を尽くして生活用品を整えても、その 人の環世界は更新されるのであって、そうした環境がその人にとって自然(じねん)な ありようとなるには、時間がかかってしまう。専門職としての支援として気づかない ことがあるかもしれないが、高齢者にとってはむしろそこから生活が始まっていく。
それぞれ関わる相手がどのような人であるのかによって、支援のありようも変容させ なければならないが、ここに日本的自然としての「じねん」が表れている。「その人に とっての当り前」に対しての支援が求められるのもこうしたことが影響しているのか もしれない。
4.保育において自然とかかわる可能性
先にも述べたとおり、子どもにかかわる保育的な支援であれば、発達のプロセス と、その子どもの環世界の広がりは同時に理解することが求められる。発達心理学を
中心とした子どもの成長発達への理解と保育的な支援は切っても切り離せないもの である。しかし、古典的な心理学7からの理解では子どもの成長発達への支援は不足 するどころか、操作と誘導に彩られた支援になりかねない。子どもの身体的・機能的 発達を理解しつつ、子どもの世界の広がりや出逢いへの支援が必要である。子どもの 世界の広がりや出逢いは、近代の知としての主-客二元論ではとらえきれない。いや むしろ大人である専門職にとっては主-客二元論で理解できてしまうことに問題があ る。子どもにとって世界は、主-客未分化なこととして現れ、出逢うことで広がって いくのである。例えば親子のやり取りによくみられる光景であるが、子どもが手を前 に出しながら、言葉にならない声を出しつつよちよち歩を進めようとする。すると親 はその向かう方向にあるタオルやおもちゃなどの対象物をいち早く見つけ「これ欲し いの?」などと言ったりしている。子どもにとっては、よちよち歩きという物理的な 移動を通した世界の広がりと、自らの世界に立ち現われる物たちとの出逢いの瞬間で あるが、その場面に出くわしている大人たちにとっては子どもと遠くにある物との関 係でしかない。子どもにとって立ち現われるさまざまな物たちは、主-客未分化であ るのみならず、自然のものであるか人工的・人為的なものであるかすら定かになって いないが、大人たちにとっては我々の世界の中にある対象化された人工的・人為的な 物である。よちよち歩きのできるようになった子どもにとって自然に営まれた行動が、
大人たちによって「欲しいものを取りに行く」という意図的な行動へ読み替えられてい くのである。先ほどの場面をもう一度見れば、子どもの自然な行動が、大人たちの先 読みによって遮られてしまうとも見える。これが必要以上に繰り返されれば、子ども にとっては、自分が何事か行動しようとすれば、大人が先回りして答えをくれるとい うことが自然なこととして身についてしまう。
一方、「しぜん」としての自然をどのように考えていくのかという問題が残っている。
さきの日本式庭園と西洋式庭園の捉え方に一つのヒントがある。人間と自然(しぜん) とは対立しているが、その対立の仕方は自然とnatureでは少し違うようである。日本 式庭園においては精緻を尽くしてまるで自然(しぜん/じねん)にそこにあるかのよう に木を植え、石を置く。さらには借景のように、その庭園のはるか向こうの自然(し ぜん)までもが庭の一部であるかのように配置する。西洋式庭園においては人為を尽 くして自然(しぜん)を庭に取り込み配置する。人間と対立する自然を人間の生活の延 長として捉えるか、人間の生活に取り込むかの違いである。われわれにとっての日本 的自然観を無視されてしまうことが厄介なことであるもう一つの理由が、ここにある。
われわれの生活は、戦後の経済成長のおかげかあまりにも人工化しすぎてしまった。
欧米化ともいえるが、われわれは欧米の文化を生きているわけではない。延長してそ の向こうに対立する自然(しぜん)は人間が浸食すれば、いくらでも活用出来てしまう ような気がしてしまう。先にあげたリゾート開発の名を借りた環境破壊の原動力はそ こにある。しかしそこでは、われわれが身体化しえないところまで延長させてしまっ たために取り返しがつかなくなってしまったものもある。われわれに対立する自然は 延長としてのつながりも表しており、それは自然を体験するという場所的なつながり だけでなく、思い出や郷愁といった時間的なつながりも表すのである。
われわれの生活はもはや人工的なものを介さずにはいられない。それらは効率的で 便利な生活をもたらしたが、その快適さは時間的空間的な広がりを狭めるものでも あった。手間という名前の人間の行為を如何に短縮するかという問題意識が快適さを もたらした。既に手に入れた快適さはなかなか手放せないが、自然(じねん/しぜん)
と再び向き合うことで、もう一度人間らしさ、あるいは人間としての生を捉え返す機 会になるともいえる。むしろ欧米の方が一度対象化された自然を捉え返す試みがすで に始まっている。自然を侵食する人間の営みが自然破壊をもたらすことが分かったと き、改めて自然を自然として捉え返すために、自然を活用することと自然が自然とし て存在することの意味を問い返している。自然教育の浸透などはその一例であろう。
5.保育における自然の再発見
自然教育あるいは自然保育の現場では、周到に準備された人工的環境で教育や保育 を行うだけでなく、安全性の確保など最低限の調整はされるとしても自然そのものの 中で学び育つという体験が認められている。それは自然を人工化することによって活 用することではなく、自然を自然として活用することによって人工化されない、ある いは不意の環境における「出逢い」や「気づき」としての教育や保育の姿であろう。不意 の環境ということであれば、実は「しぜん」としての自然だけがその環境となるわけで はなく、通常の教育や保育の現場でも成立しうる。特に幼児教育あるいは保育の行わ れる環境は子どもたちにとって、多くのことが不意にある。既に明らかであるが、こ のことは子どもたちに、計画しつくしたサプライズ・イベントを仕掛ければよいとい うものではない。子どもたちが出逢い、気づく体験を尊重することである。教えられ、
指導されるだけの環境に置かれた子どもたちの姿だけでなく、子どもたちが自然に環 境世界に気づき、主体的な関心を向けられる環境を調えることが、保育環境を調える
ということであろう。そうであれば、むしろ山や川といった自然だけが、そうした環 境ではない。しかし、刻々と変化、変容する自然を教育や保育の環境とすることで、
変化、変容のダイナミズムへの関心や気づきを喚起する可能性へ働きかけようとする とき、自然の姿を再発見することができる。
なぜならば、この気づきを喚起する可能性へ働きかけることとして、自然の二つの 意味のうちの「じねん」を問い返すことによって、明らかになることがあるからである。
自然(じねん)のすべてが言い換えられるわけではないが、フッサール, E.の自然的態 度8 、あるいはブランケンブルク, W.の自明性あるいは自然な自明性 として示される 態度において、われわれの日常的世界は背景的あるいは基礎的に支えられている。当 然何らかの注視、注意の必要なことも生起するような日常生活において、われわれは、
当たり前の世界あるいは環世界として身体化された世界を、普通に生きているのであ る。自然的態度や自明性といった概念は、われわれにとって自然に普通なこととして、
当たり前の生活が営まれる、われわれの無自覚な時間や空間からなる世界を支えてい る事柄を意味している。そうした世界、あるいは環世界から如何にして気づきが得ら れるだろうか。対人援助場面のような人工的に設定された環境においては、専門職の 意図的な配置によってその環境は整えられる。例えば、整理整頓を旨とした保育室に おいては活動が終結すれば原状回復がその原則である。そうでなければ散らかった部 屋となってしまう。また、季節感を保育室に取り入れようとする保育者は、子どもた ちが降園した後、模様替えをするかもしれない。翌日子どもたちに季節の移り変わり を伝えるために、意図的に保育環境を変化させる。つまり、人工的に整えられた環境 において、自然な変化、変容のダイナミズムとして現れることは、専門職の気づかな かったこと、あるいは不注意として成立するようなことである。われわれの気づきと は、むしろ自然的態度あるいは自明性において、われわれの環世界が現れるうちにお いて、ときとして現れる違和感や発見から導かれる。自然(じねん)に行われるいつも 通りの行動や景色、あるいは物音のうちから違和感や発見を導く変化、変容のダイナ ミズムが気づきには必要なのである。景色に目をやることもなく、物音に耳を傾けな いような、いつも通りに行動する自然的態度あるいは自明性に埋没しているうちは気 づくことはない。
その意味で、自然的態度や自明性を問い返すための保育環境は、移り変わることを その本性とする自然(しぜん)のダイナミズムを実感することによって、気づきを促す 環境として調えられる可能性がある。確かに意図的に設定された変化によっても、子
どもたちの気づきを促すことはできる。対人援助の専門職の能力あるいは資質として の気づきの重要性はこれまでも指摘されているし、幼稚園教育要領や保育所保育指針 においても子どもの興味や関心への働きかけや支援が指摘されてはいる。しかし興味 や関心とはどのようなことを示しているのか、あるいはそれらが表出するきっかけと もなる、気づきや感性がどのように生ずるのかについて明らかにしてこなかったし、
現在もされているとは言い難い。対人援助の専門職であれば、自らの自然的態度ある いは自明性に埋没することなく、常に問い返すことが求められる。専門職が自らの常 態化した、慣れた支援に埋没することは利用児・者にとって本当に必要な支援を行う ことより、専門職自身の都合の良さが優先されてしまうことを既に知っている。つま り自らの支援が、果たして本当に利用児・者への支援として適切であったかを気にす ることで、利用児・者にとっての必要な支援とは何であるかが気になる。こうした「気 にする-気になる」というダイナミズムによって、自然的態度や自明性に働きかける ことで、気づきが導かれる。このことは専門職にとってのみ必要なことではない。こ うしたダイナミズムによって導かれた気づきの体験が、子どもたちにとっての興味や 関心を引き出すきっかけともなることは想像に難くない。子どもの育ちの可能性を支 える保育としての援助を改めて問い返す意味も含めて、環世界の変容とその身体化さ れた世界が更新される、環境としての自然の意味を問い返す必要があるだろう。
引用参考文献
『現象学辞典』弘文堂 1994
『大辞林 第三版』村松明編 三省堂 梅原猛『人類哲学序説』岩波新書 2013 沼田真『自然保護という思想』岩波新書 1994 ブーバー , M.『人間とは何か』理想社 1961
フッサール, E.『イデーンⅠ-1 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想(イデーン)
第1巻 純粋現象学への全般的序論』みすず書房 渡辺二郎訳 1979 ブランケンブルク, W.『自明性の喪失 分裂病の現象学』みすず書房
木村敏 岡本進 島弘嗣共訳 1978 メルロ=ポンティ , M.『メルロ=ポンティ・コレクション』
中山元編訳 ちくま学芸文庫 1999 柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書 1982
1 柳 父 章 1 9 9 5
2 1 8 8 9 年( 明 治 2 2 年 )に 巌 本 善 治 と 森 鴎 外 の あ い だ に 起 こ っ た「 文 学 と 自 然 」論 争 3 こ う し た 効 果 の こ と を 柳 父 は カ セ ッ ト 効 果 と 呼 ん で い る が 、 こ う し た カ セ ッ ト
効 果 を 帯 び る カ タ カ ナ 表 記 や 日 本 語 訳 が 、 必 ず し も 元 の 外 国 語 と 同 じ 意 味 を 表 す と は 限 ら な い こ と も 指 摘 し て い る 。 そ の 国 の 言 語 は そ の 国 の 文 化 を 表 し 、 そ の 中 で 用 い ら れ て い る の だ か ら 、 単 語 を 切 り 出 し て き て 移 し 替 え る と い う 訳 に は い か な い の で あ る 。
4 梅 原 猛 は そ の 著『 人 類 哲 学 序 説 』( 2 0 1 3 )に お い て 日 本 人 の 自 然 観 に つ い て 禅 の 思 想 を も っ て 語 ろ う と す る 傾 向 に 対 し て 、 そ れ で は 足 り な い こ と を 指 摘 す る 。 鈴 木 大 拙 の 洞 察 や 西 田 幾 多 郎 が 影 響 を 受 け た 禅 の 思 想 は 、「 日 本 人 の 自 然 観 を 深 く し た 」( p . 9 )の で あ っ て 、 そ の 基 底 は 平 安 時 代 末 期 に 成 立 し た 天 台 本 覚 思 想 に み ら れ る「 草 木 国 土 悉 皆 成 仏 」で あ る こ と を 指 摘 す る 。
5 ユ ク ス キ ュ ル p . 7 6 ブ ー バ ー p . 1 0 0
7 主 に 記 憶 と 学 習 を 中 心 と し た 生 理 学 的 あ る い は 機 械 論 的 な 心 理 学 理 論
8 例 え ば「 直 接 的 に 一 緒 に 意 識 さ れ て い る 私 の 周 囲 の 中 の そ こ こ こ に そ れ ら が 存 在 す る の を 、 私 が ま さ に『 知 っ て い る 』よ う な 、 そ う し た 客 観 の す べ て の 方 へ と 、 私 は 私 の 注 意 を 転 ず る こ と が で き る よ う な 」( フ ッ サ ー ル , E . 1 9 7 9 p . 1 2 6 )態 度 で あ り 、「 私 が 自 然 的 に 毎 日 な ん と い う こ と な く 生 き て い る か ぎ り は 、 私 は『 自 然 的 な 態 度 を 採 っ て 』い る 」( 同 上 p p . 1 3 0 - 1 3 1 )よ う な 態 度 を 自 然 的 態 度 と い う 。
ブ ラ ン ケ ン ブ ル ク , W . は 自 ら の 患 者 で あ る ア ン ネ の 治 療 の プ ロ セ ス に お い て ア ン ネ が こ と ば で 言 い 表 し た 自 明 性 、 あ る い は 自 然 な 自 明 性 の 性 格 を「 ま ず 第 一 に 、 そ れ が 習 慣 的 な 日 常 的 意 識 の 基 盤 か ら 浮 か び 上 が ら ず 、 し た が っ て た い て い は 見 逃 さ れ て し ま う … 第 二 に 、 そ れ が - こ の 日 常 的 意 識 の 基 盤 と 同 一 の も の と し て - 基 盤 と し て 、 人 間 と い う 世 界 内 存 在 の 日 常 性 を 支 え る 」( ブ ラ ン ケ ン ブ ル ク , W . 1 9 7 8 p . 1 0 7 )よ う な こ と と し て 、 背 景 的 性 格 と 基 礎 的 性 格 を も つ こ と を 示 し て い る 。
柳父章『翻訳の思想』ちくま学芸文庫 1995
ユクスキュル, J. /クリサート, G.『生物から見た世界』岩波文庫 2005