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作家・泉鏡花の誕生 : 明治30年代文学研究の23

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作家・泉鏡花の誕生 : 明治30年代文学研究の23

著者 森 英一

雑誌名 金沢大学教育学部紀要 人文科学・社会科学編 =

Bulletin of the Faculty of Education, Kanazawa University. Social science and the Humanities

巻 31

ページ 146‑136

発行年 1982‑02‑27

URL http://hdl.handle.net/2297/23274

(2)

第31号昭和57年 金沢大学教育学部紀要(社会科学・人文科学編)

146

泉鏡花は㈲「処女作談」(明治側i)において、初めて人様の前に出したのが、二十八年のたしか四月に、文芸倶楽部に褐せた「夜行巡査」でありませう。

と述べ、⑥「おばけずきのいはれ少々と処女作」〈明却5)では、

僕の作で世の中に出た一番最初のものは「冠弥左衞門」で、この次に探偵小説の「活人形」といふがあり、「聾の一心」といふのがある。「聾の一心」は博文館の「春夏秋冬」といふ四季に一冊の冬に出た。さうして其次に「鐘声夜半録」となり、「義血侠血」となり、「予備兵」となり、「夜行巡査」となる順序である。と記し、さらにo「旧作の回顧」(明妃・4)の中では、私の処女作は「冠弥左衞門」と云ふのです。尤もこれは最初に活版になったのでして、処女作と云へるか何うかは知りません、と云ふのは、此作の以前に書いたもので、これを出した後に雑誌に載せた作が沢山あるんですから、と語っている。処女作という語の定義をめぐって、いくつかの解釈が可能であることを示す一例といえよう。㈲では、それを文壇的な出世作、いわば鏡花という名が認知された意味で使用しており、日は活字

作家・泉鏡花の誕生

l明治三○年代文学研究の二三I

になった最初の作品、というふうに理解している。pは活字になろうがなるまいが、文壇で認められようが、そうでなかろうが、ともかく自分が生まれて初めて書いた作品が処女作だということをほのめかす。こうしてみると鏡花には三通りの処女作があることになる。生まれて初めて書いた作品が活字となり、直ちに文壇的に認められるという極めて幸運な例もあるが、彼の場合、尾崎紅葉門下に列して四年後、「夜行巡査」で評価された。さて、処女作談義をするために並べたてたのではない。日文で、「冠弥左衞門」から始めて「夜行巡査」に至る七作と、その順序に注目したかったのである。今、「別表二に照らしてみても、「冠

弥左衞門」以後、「外科室」に至るまでこの七作以外にも多数の作

品が存在することは明白であろう。また、発表順序にしてもこの通りでない。なぜ、鏡花はこの七作を、こういう順序で並列したのか。単なる偶然といえない事由が存在するのではないか。

実はこの七作中、五作は郷里・金沢でほぼこの順序で執筆されたのである。明治一一十三年の上京後、鏡花は大火と(明泌)自身の脚気療養(明刎)と父親見舞(明〃)のため、都合三回帰省している 一一

九九 英

(3)

作家・泉鏡花の誕生

森英 145

27明’

月)

が、最後の明治二十七年一月から九月までの金沢滞在中に、である。従って、その五作とは「冠弥左衞門」(明牢5)と「活人形」(同上)を省いたものということになる。ここで、「冠弥左衞門」を記したのはやはり、初めて活字になった記念作ということであり、「活人形」を挙げたのは〈生前の父に見することを得た〉(「自筆年譜」)点において、同様に忘れがたい作品であったと察せられる。「夜行巡査」以前の、残る五作は、後述するように帰省中のこもる想いが込められた小説ばかりであった。五作が帰省中、このような順序で執筆されたといえるのは、最近、岩波版全集の「月報」に鏡花宛の尾崎紅葉書簡が公表され、さらにそれをもとに諸氏が調査を進められたからにほかならない。越野格氏の「泉鏡花私説」(昭印・6「国語国文研究」別号「笠原伸夫氏の『泉鏡花l美とエロスの構造』(昭早5至文堂)、小林輝冶氏の「『妖怪年代記』論」(昭牢3『鏡花研究」三号『それに、新保千代子氏の「新資料紹介」(昭弘・3「鏡花研究」四畳等を参酌しながら、帰省中執筆順の作品を次に掲げる。

この一覧表をみても、前述した⑪文における五作が、執筆順序に並べられたことが確認される。これら二十作近くものうち五作をあえて挙げた理由を推定してみると、「夜行巡査」は㈹文に記し

明亟・月-

--し ひるがえって、明治二十七年の帰省は鏡花にとってどんな意味をもっていたのか。これらの作品はどういう生活状況の中で書かれたのか。もちろん、この間に対してはすでに鏡花も答を記しているし、諸家による調査報告もある。以下は、本稿を進める都合上の、復習にすぎない。二十七年の帰省は前述した通り、父の病気見舞のためであった。しかし、父の死水をとることもできなかった。間にあわなかったのだ。落胆した鏡花を紅葉は次のように慰めた。尊父療養不治敢無くなられ候由臨終にも問に合はず重§の愁傷さこそと察入候人間の浮生なる一人には限らざる事なればこれまでの命数と諦めらるべく此後の孝行は名を成し家を興し父祖を輝かすに如くはあるまじく千僧万部の供養も之に過きず候へば随分勉強なさるべく及はずなから助力可致候(明酊・1・訓付)父の死によって、一家の経済的負担がまずは彼の双一肩にかかる。家長として老祖母と弟と己自身の日々の糧を心配しなければならぬのだ。しかし、当時の彼にそれだけの力はなかった。前記⑧文 てある通りだろう。残る「予備兵」と「義血侠血」は、どちらも「読売新聞』という当時の大舞台に発表されたことと無関係でないはずだ。たとえ、ペンネームに鏡花を使用しなくても、である。さらに、両作を収めた初めての作品集『なにがし』が春陽堂から刊行されたこと、「義血侠血」は「滝の白糸」の名で舞台を通して著名になったこと等も、その大きな理由となろう。とすれば、残るは二作。「聾の一心」と「鐘声夜半録」である。出世作でもなく、さしたる発表誌に掲載されたのでもない両作が、十数年も後にそれらと列して鏡花の記憶に鮮明な、その理由はなんだろうか。

一一一 ’○○

13113333

ノノ〃ノノ〃〃ノノ〃ノノ

$|念’

グーへ

ノノ

ーーー

3333113

ノノノノノノノノノノノノ

|念I

ノノ.4.・ノノ.〃26332 7443

明m・月

麹の一乱菊

|人坊主十万石大和心妖怪年代記鐘声夜半録義血侠血門生冷熱条発毒 口中

7.8

(9~) 明亟・月

予備兵白鬼女物語采発き

(夜行巡査) 口中

(4)

第31号昭和57年 金沢大学教育学部紀要(社会科学・人文科学編

144

では、不如意な生活を、家計が困難で米塩の料は尽きる。為に屡々自殺の意を生じて、果ては家に近き百間堀といふ池に身を投げようとさへ決心したことがあった。と回想している。もちろん、紅葉もそのような窮状を察して、金にしやすい少年物の執筆を勧めたり、あるいは若干でも送金をしたりした。師弟の残された書簡を播読して感銘を覚えるのは、そういう状態においてもなお文学にかけさせる紅葉のきびしさであり、それに応えようとする鏡花の態度である。紅葉の指導はルビの付し方から始まって、清書のあり方や墨の濃淡の是非にまで及んでいる。今日からみて合点がいかないような指導法を含みながらも、忠実にそれを受け入れていく鏡花の成長の姿が残されている原稿類にうかがうことが可能である。かかる様相の中に「聾の一心」と「鐘声夜半録」は成った。前者の残された原稿には、貼り重ねや抹消が多く、紅葉の手が半分以上加わっているが(三田英彬「泉鏡花の文学」昭別・9桜楓社)、今は全集の活字本によって論を進めたい。先の執筆順を推定した表を参照していただきたいが、両作とも一人称で書かれている。鏡花の場合、一人称といわゆる語りが絡んだ独特の文体が特徴の一つである。「別表一」をみても、明治三十一一一年までの作品中、一人称はある時期に集中しているものの、全体として三割強とパーセンテージは高くない。これは、三十四年以降の〈主要作品〉を調べた「別表一一」についてもいえることだ。しかし、|人称で作品が構成されていなくとも、語りが全編を覆う場合もあるから、単純にこの数字を信用するわけにはいかない。最初の口語体小説で、特異な内的独白をもつ「化鳥」萌別・5) は一人称の問題を考察する場合によく、スポットが当てられるが、それ以前のいわば文壇登場以前に、第一人称による小説を鏡花が書いていたことの意味を、少しく考察してみたい。先走った言い方をすれば、そのことと、鏡花がこの二作を十数年後も記憶に留めていたこととは決して無関係のように考えられないからである。しかし、その前にもう一度、執筆順を推定した表に戻ってみると、二作以外になお一人称の作品が四作ある。では、このことをどう考えたらよいか。このうち「門生冷熱」「白鬼女物語」「黒壁」については全て未完の作品であるため、|応除外してもよいと思う。しかし、あえていえば、「黒壁」「白鬼女物語」については、残る「妖怪年代記」の場合と同様に考えられよう。つまり、|般に一人称を採った場合の効果の一つに、作中の事件がどんなに奇妙なものにみえようとも、〈私(僕、余、我…)〉が語る以上、読者はリアリティを感じて、その事件が実際にそのように起こったかに思ってしまうことがある。「妖怪年代記」やあるいは「高野聖」のように、まさに怪奇の世界を描出するのにはうってつけの手法といえる。しかし、「聾の一心」と「鐘声夜半録」の作品世界は、魑魅魍魎の政属するそれではない。そもそも、|人称ないしは一人称的主人公は江戸小説中には類例がない、と野口武彦氏はいう(『小説の日本語」昭開・皿中央公論社刊)。森鴎外の「舞姫」(明朗)の時点からでも高々、三、四年の時間しか隔てていない、新しい小説形態なのである。それは明治も二十年代になって、作家がそれなりに〈近代〉を表現しようとした一つの表現方法であった。二十年代前半の雑誌『都の花」では、全小説中の二十五%を一人称小説が占めるとの報告もある(山田有策氏・日本近代文学会秋季大会研究発表「近代文学成立期の小説構造」、昭矼.Ⅲ.Ⅳ、於・聖心女子大学)。

一一

(5)

作家・泉鏡花の誕生

森英 143

「聾の一心」の舞台は帰郷中の他作同様に金沢窪野川周辺)。五十二歳の細工師とその娘阿駒と弟、それに語り手の〈余〉が主な登場人物。〈聾の一心〉と緯名される名人肌の細工師は黄金無垢の亀を作ることに全てをかけている。しかし、悪腫瘍におかされた彼の余命はいくばくもない。彼を治療するのは、以前、彼の家に止宿していた余震井)。しかし、手当てのかいもなく亀を完成させる前に細工師は死ぬ。作品中の時間は明治二十六年十一月頃から二十七年一月九日まで。この梗概からも一部判明するのだが、作品は鏡花の実体験をかなり濃厚に採用していることに気づかされる。この細工師と同じく、鏡花の父・清次も二十七年一月九日に死んでいるし、殿田良作「泉鏡花の実際と作品」(昭詔・7「国語国文』)に拠れば、清次の仕事ぶりも名人肌であったという。橋の元で死のうとした阿駒は妹の他賀萌治十九年に養女にやられているlつまり、泉家にとっては〈死〉と同一ということになろう)、少年は弟の豊春(斜江、そして、藤井医師は少年をして〈先生が当地にさへ在ら この形態は先に述べた効果とは別に、まさに作者と作中人物至人公)の視点が重なるために、〈私(僕、余、我…)〉の内面意識は徹底して表現されやすいことになる。もっとも、逆にいえば一人称主人公の死によって作品も中絶というふうに、他の人物に関して報告が限定されるという短所を裏側に抱えているが。結論を言えば「聾の一心」と「鐘声夜半録」は、この特性を最大限に生かして当時の鏡花の〈死〉とそれにまつわる煩悶という内的世界を表現した作品であった。さらに言えば、たとえ表現技法が未熟で、構成に無理がある小説であったとしても、彼がそのようにして表現できた時に、作家鏡花の誕生があったというべきである。

っしゃれば、他へ行くのぢや無かったのですけれど、故郷へ帰省になってお留守だものだから〉といわせているように、鏡花自身をそれぞれ念頭においたものだと判断できる。なお、越野格氏は前記論考において、藤井をかつて鏡花の家に寄宿したことのある福山某に、阿駒は鏡花の退化した姿に、それぞれ擬している。ともあれ、この作品は自身の実生活を忠実に反映したく私小説〉的小説といえる。もちろん、鏡花のように想像力を駆使し、虚構の世界を自由に遊ぶ作家の場合、単純に実生活上の事実を作品にあてはめることは危険であろう。しかし、それは後の鏡花にいえるのであって、蝶になるまでの蝿のこの時期(前記・笠原氏)は生活年譜との符号はより以上に重視されてよいと考える。作品は〈余〉の語りで進行しているが、〈余〉は過去のこの事件の諸相を整理しつつ、その展開を読者に示していく。過去の現在を語っているのである。そういう過去と現在を結ぶパイプは四箇所みられる。最初は、はじめて治療に訪れた一心に処置を施してやったあとで、⑪やがて師走になりぬ。その二十日は、実に肉腫の患者が病院に来れる最後の日なりき・(三)と述べる箇所。この時、珍しい腫瘍なので写真をとる場面に、②肉腫を撮影せる写真は、今尚止めて病院にあり。就いて見よ、モデル

「死」を有形に表はすに適当なる模型を得む。(二一)

とある。さらに、十一一月一一十三日の深更に天神橋の上に入水自殺しようとした阿駒をみつけた〈余〉が、その時を回想して、③月下雪中の美人、神女の姿と今も忘る、こと無し。(四と述べる。年が改まっていよいよ一心の最期が近づいて来た日、藤井宅を少年が訪れる。側一夜、日は忘れたり。十時を過ぐる頃なりき・少年は慌しく

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第31号昭和57年 金沢大学教育学部紀要(社会科学・人文科学編)

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すまひ余が当時の住居に駈来りて。:。(五)以上の四箇所が過去と現在の交錯する描写だが、これが頻噴になると、いわゆる鏡花らしくなるわけだ。藤井は過去を語りながら、なぜこの四箇所に強烈な印象を与えられたのだろうか。⑪は一心の病状が重くなり、通院も不可能になった期日ということで記憶に鮮明なのであろう。側はその意味で⑪と照応している。通院不可能になった彼の衰弱ぶりが印象的であったことを示す.臨終の日は、従って明確に記憶しているI〈一月九日正午十二時、死に先立つこと|一一十分、少年は余に馳せて変を報ぜり。〉・③は、これだけをとりだすと鏡花好みの女性と受け取られかねないが、この美人は〈死〉の世界と紙一重に位置していることに注意しなければならない。側は、いうまでもなく、〈死〉の模型として写真が痛烈な存在であることを示す。こうして、みてくると、一心という名人肌の細工師の最期を語りながら、彼の人となりを浮き彫りにし、かつ、彼の介護に懸命な姉弟のかいがいしさを紹介するという一話は、〈死〉によって色濃く縁どられていることがわかる。〈余〉にとって、かつて止宿した家の主人の〈死〉が今もなおこびりついて離れないのである。元来、延命を可能な限り図らねばならぬと考える一方で、次のような〈思想〉を抱いていたのが藤井である。その〈思想〉は語りの現在まで持続されている。さうあす「左様ですとも、気永に翌日●をお待ちな宍ごい】と慰めし時の余が心中はいかむ。一心が翌日を待つは、即これ死を待つものなり。誰か彼のみを然りといはむ、謂はずや人生朝露の如しと、されば老と幼とを問はず、翌日ありとて楽しむ者、蓋し皆死期を楽しむ者なり。(五)〈余〉が何歳かは不明だ。しかし、鏡花はこの執筆時点で二十 二歳。青年期特有の厭世的人生観の吐露、とこれを理解することも可能だ。とはいえ、父を亡くして四九日も立たないうちに執筆された本作が、その死の衝撃を濃厚に投影していると考えた方が自然である。これを鏡花の父に対する蹟罪で書かれた、という越野氏の見解(前記)に賛成である。しかし、〈父を喪った子供が、自分の境遇を単に悲しむのではなく、その悲しみを挺子として、現実の姿を隠蔽し、逆に美化するという自己欺職を行っていく〉作品かどうれは疑問である。一編の眼目は語り手たる〈余〉の現在の意識に向けられねばならぬ。とすれば、それはすでにみたように〈死〉に対する鋭敏な認識である。そして、それをさらに徹底したのが、次の「鐘声夜半録」ということになる。

てしま学生とおぼしき豊島亮助は、雨宿りがきっかけで父と一一人暮しの娘・吉倉幸(四歳)と女教師の近藤定子の二人と知りあいになる。定子は寄宿先の宣教師が帰国土産に枕絵の刺繍をほしがって、依頼してきたのを断わりきれず、手芸で生計をたてる幸に頼む。宣教師に品物が渡ったあとで、新聞にそのことが書かれたことから定子は責任を感じて入水自殺。品物を取戻すべく乗込んだ壮士風の男・篠原も不首尾を恥じて割腹死し、もはやこれまでと観念した幸も死を覚悟する。残った豊島も宣教師とあいうちを決心する。明治二十七年四月十四日のこととしている。以上の内容を余薑島)の語りで進めるのが「鐘声夜半録」である。この作品で二人が死に、あと少なくとももう数人の死が予告されている。異常というしかない。さらに異様なのは、死に居あわせる豊島がそれを物解りよく承知して、止めようとしないことだ。

(7)

森英 作家・泉鏡花の誕生 141

たとえば、定子の場合、子はいかむともなすこと能はず、聞くが如くんば女教師は死すとも可なり。斯る事情を間きても、尚彼が死を留むる如き仁者は、子のかはりに此処に斎らきざりしは、或は天公渠に死罪を命じて活かきざらむことを欲せるならむか・一方より観れば、彼は甚だ不幸なるべし。然りといへども妨害を受けずして、潔く死を遂ぐるは決死の人の本意ならずや。西)と理解をうけている。幸の遺書をみてしまった定子が、彼女を死に追いこんだ責任をとって死ぬ、そのことをここでは是とするのである。篠原については、とめようとしたが間にあわなかったとあるが、幸に関しても、経済的事情や国賊との汚名を着せられたことなどに加えて、篠原まで死なせたことから、〈たとひ(はんかち)が一民りましても、もう活きては居られません。〉といわれては豊島は、子は実に其死の巳むを得ざるを知りて、万物を賭するも、之を留むべき口実なし。宝)と肯定せざるをえない。そして、作品は〈読者如他日予が死を聞かれをば、直ちにハレスが存亡を間はれよ。同月同日同所に於て、醜虜も同時に死すべきなり〉と結ばれる。二人が死に、あと少なくとももう数人の死が予定されていると述べた所以である。このように、多数の死がみられる本作だが、そこに不自然さも感じられる。たとえば、幸の場合である。〈子〉にとって彼女は雨宿り以後、〈意中の人〉〈片時も渠を忘る、能はざりき〉(三存在であった。そのことを考えると、彼女の死を簡単に〈巳を得ざる〉と承知できるものかどうか。その辺の事情も充分に説明されていない。逆に、幸にとっての余の存在も同様だ。父宛の遺書が豊島の手にあるのをみて、彼女が顔を赤らめたということは(それ以前、定 子が彼にむかって「此書置の中には、豊島様、貴下の事が書いてございますよ」という箇所がある)、彼に対するなんらかの感情を表現していることを意味する。いずれにせよ、この時点で両名にとって死は愛よりも強かった、ということだろう。この作品を送られた尾崎紅葉も〈異常〉を感じて、このように書いた。巻中「豊島」の感情を看るに常人の心にあらず一種死を喜ぶ精神病者の如しか、る人物を点出するは畢寛作者の感情の然らしむる所なら

。。、むと私に考へ居候ひしに果然今日の書状を見れば作者の不勇●●●●、●気なる貧婁の為に撹乱されたる心麻の如く生の困難にして死。。CO。。。。ミダ。。。。。◎の愉快なるを知りなど、浪りに百間堀裏の鬼たらしむを糞ふその膳の小なる芥子の如く其心の弱きこと苧殼の如し。ざほどに貧婁が苦くは安ぞ其始彫閲錦帳の中に生れ来らざりし。破壁断軒の下に生を享けてパンを咬み水を飲む身も天ならず。。◎◎や。其天を楽めノ・筍も大詩人たるものはその脳金剛石の如く、火に焼けず、水に溺れず刃も入る能はず、槌も撃つべからざるなり、何ぞ況や一飯の飢をや。汝が金剛石の脳未だ光を放。。。。。。。◎つの時到らざるが故に天汝に苦楚の沙と銀難の砥とを与へて汝を磨き汝を琢くこと数年にして光明千万丈赫:として不滅◎oを照らさしめむが為也汝の愚痴なる箇宝を抱く一)とを暁らず自悲み自棄て、隣人の瓦を筆くるを見て羨む志、下和にして楚王を兼ぬるものといふくし。萌酊・5.9付)紅葉は余(豊島)の感情を筆者鏡花のそれに重ねあわせて、このような心配顔かつ激励の書状を書き送ったのだが、そういう紅葉の理解を助けたのは、いうまでもなく第一人称の形態である。しかもそれは、「聾の一心」のように余の語りの色彩は濃厚でない。弦巻克二氏が指摘したように(「虚構の意味l鏡花「纏紅新草」の世界l」昭蛆・望国語国文」)、記述の体に近い。 一○四

(8)

第31号昭和57年 140 金沢大学教育学部紀要(社会科学・人文科学編)

語る〈余〉の現在と過去を結ぶパイプはほとんど発見されない、ということである。むしろ、現在と未来をつなぐパイプに注目される。「聾の一心」にみられなかった太いパイプだ。それは先に引用した最終部分の、〈読者如他日予が死を聞かれなば、〉云々の読者への呼びかけである。余が死去することによって作品は進行しないこの手法では、〈余〉の死はこのような形を借りてしか予告できない。しかし、最も印象深く、強烈に死を刻印する記述だといえよう。「聾の一心」を縁どっていた死の色あいは、この「鐘声夜半録」に至ってはるかに激越なものになった。”先にも述べたように、また紅葉が書簡中で指摘するように、鏡花をしてそこにまで至らせた原因は父の死であり、そこから派生する経済的事情であった。働き手の父を失なった現在、彼は祖母と弟を養っていかねばならない。〈姉や、頼まれ効も無い、勘弁せい、無、無念だ。〉と叫んで自害する篠原の弁は、鏡花の祖母や弟に対する絶叫でなかったか。しかし、現実の鏡花は彼女ら同様に百間堀に身を投げようとしたものの(前記⑧文『思いとどまっている。その点で、作品の結末とは明白に異なるのだ。そこにこの小説の意味があるのではないだろうか。すなわち、作品世界で死を表現することによって、鏡花は現実世界の死を回避し、蘇生することが可能になったのだ。前記した笠原氏の論考は、知見の及ぶ限りではこの二作について言及したもののうち、最も共感を覚えるものである。「聾の一心」を〈老職人の死をめぐる少年と美少女という構図〉入父の死》をめぐる肉身と医師のこころの交流に主眼がおかれ〉云々、と解釈するのは賛成できかねるが、「鐘声夜半録」の評価はほぼ同意できる。すなわち氏は、「鐘声夜半録」の主題は、〈死に収散されてゆく感情の闇〉と評してよいほどで、それはおそらく〈父の死〉を介して鏡花がつきあたった神経症的なこころのそよぎの形象化であった 作家が誕生するとはどういうことだろうか。少なくとも、鏡花に限っていえば、早くに母を失ない、続いて父をも亡くし、余つさえ家族を引っぱって生活を営む責任を負わされたものの、その見通しが全く立たずに、死まで決意するようになる、その生と死のギリギリの境界に立たされた時に、己の内面世界を文字に託して表現し、生の行方を模索する、そうして作品が完成した場合を作家の誕生というのではないか。もちろん、明治二十七年の父の死以前に鏡花を訪れた試練はあった。作家を志望して上京したけれども、紅葉を訪問する機会がなく、方々を居候生活し、時には男妾的なことまでしたという二十一一一年から二十四年にかけての約一年間がある。この時は、豆腐 ろう。と述べ、己の内面へ鋭利な切り込みをみせ、それを極限化して提示した、ということで「鐘声夜半録」は注目すべき作品であった。そこで示された鋭い感覚のきつさきが、やがてより研ぎ澄まされ、異常な感覚像をともないつつ「夜行巡査」に凝集する。と語っている。この引用文中、「鐘声夜半録」と「夜行巡査」を結びつけておられ、それは氏の論理からいって当然なのだが、「外科室」ヘも結びつけることができないか、というのが私見である。前述したように、死へのあまりにも強い引力は愛を不問にした。死は愛よりも強かったと述べたことである。この命題の逆、つまり、愛は死よりも強しをテーマにすえたのが「外科室」である。もちろん、その転換の事情を説明しなければならぬが、「鐘声夜半録」で切り捨てた問題を改めて取りあげたのが「外科室」だ、と考える。因みに、同作も一人称の語りによる作品である。以上、氏の評価について、ほぼ同意できると述べた所以である。

一○五

(9)

作家・泉鏡花の誕生

森英 139

殻だけで五日間をすごしたこともあるというように貧苦にも悩まされた。しかし、まだ父は存命で、帰るべき故郷はあるし、何よりも独り身で気軽であった。さらに作家になるという希望もあった。客観的条件において、二十七年の父の死よりもはるかに楽であったというべきである。笠原氏は、〈母の死〉が愛、あるいは女への原型的固着をもたらしているのに対して、〈父の死〉は、それでも生活はめんめんとつづく、という驚きと、鏡花自身のちからによってそれを保持せねばならぬ、という恐れを喚起した、と述べた(前記)。その驚きと恐れが以後作品にどのように反映していくかは、当然他の作品についてもふれてみる必要があるが、少なくとも「聾の一心」と「鐘声夜半録」の二作についていえば、その恐れを打破していこうとする積極的姿勢をとるよりも、それを避けるべく、〈死〉を選んだことは明白である。もっとも、前述のように作品中では人物を死に至らしめたが、そのことによって現実の彼は生をうることが可能になったのだが。しかし、ともあれこの二作によって鏡花は物を書くことの原質にふれえた。作家・泉鏡花が誕生したというべきである。鏡花という人間にしか体験できない、従ってそれは特殊的であり、狭窄なものかもしれないが、素材にふさわしい第一人称の形態を採った作品を仕上げたのは当然であり、あるいは賢明であった。先の問に戻るならば、出世作でもなく、さしたる発表機関に掲載されたのでもない両作が、十数年も後にそれらと列して鏡花の記憶に鮮明な理由は、以上の点に求められるといえる。これ以後、「予備兵」「貧民倶楽部」「夜行巡査」等、多様な作風傾向を示していくが、結局は一人称と絡む語りの要素を重視して独自の文体を完成する鏡花である。その意味でも、この二作は注意すべき位置を占めているといえよう。明治二十七年九月、祖母の声をあとにして鏡花は上京し、小説 修業に励み、二十八年四月の「夜行巡査」、六月の「外科室」によって文壇に認められる。日清戦後の新進作家として期待されたのである。当時彼と並称されていた作家には、川上眉山、小栗風葉、小杉天外、田山花袋、前田曙山、後藤宙外、水谷不倒、三宅青軒、樋口一葉、広津柳浪、江見水蔭、北田薄氷等々がいる。この中には、花袋のように明治三十年代を経て四十年代に開花した作家もいれば、天外や風葉、眉山、柳浪、宙外、水蔭のように三十年代には活躍するものの、四十年代の新文学(自然主義文学)に脱落した作家もいる。また、|葉のように短命で散った作家もいる。翻って、鏡花はどうか。自然主義文学あるいは私小説が主流を占めた近代文学において、長期間にわたって幸福な作家生活を歩んできたといえよう。その理由については、作品内部の検証や読者の嗜好との関係等、あらゆる角度から考察されねばならないが、その一因として先の「聾の一心」と「鐘声夜半録」を書きえたことを挙げたい。他の作家との比較においてそのように考えるのである。たとえば、今なお読者の中で生き続ける樋口一葉の場合は、下谷龍泉寺町での小店開業、そこでの生活、さらには久佐賀義孝との問題などが彼女の文学の滋養になったはずである。逆に、三十年代の代表作家であった小杉天外の場合は、罹患した結核を創作面に生かせなかった例であろう。二十八年末、発病した彼は入院、転地療養の末、・治癒できたが、不治の病といわれた結核を通じて、死を直視し、それを作品に生かすことはできなかった。ゾラとの趨遁によって、描写技術の変革には成功したが、本質は旧態依然であった(小稿「小杉天外とゾラ」昭蛤・5『日本近代文学』)。花袋の場合は死ではないが、それにも等しい苛酷な現実生活から目をそむけずに、それと対時した。そのことが「蒲団」以下に反映したといえる(小稿「田山花袋の『時文評言」の評価をめぐって」昭記・、「日本近代文学壱。 ’○六

(10)

第31号昭和57年 金沢大学教育学部紀要(社会科学・人文科学編)

138

事は、柳浪、眉山等についても同様であろう。かつて島村抱月は明治三十年代のいわゆる前期自然主義文学をさして、自然主義の主要素を含みながらも、〈尚一呼吸の合致せざるもの〉が欠けるため、四十年代の自然主義とは区別されると述べた(「文芸上の自然主義」明似宅この〈尚一呼吸の合致せざるもの〉とは、換言すれば、天外の場合の、結核を通じて死を直視し、それを作品に生かせなかったことなどをいうのだろう。しかし、鏡花においては、今までみてきた二十七年の二作によって、四十年代の自然主義作家達と同一の基盤に立っている、と考えられる。たとえ、表面的な作風の相違はみられてもである。

三十年代あるいは四十年代における鏡花の文学史的位相を把握

するためには、以上述べてきたことがらを一応は念頭におく必要があろう。それは三十年代文学を考える際の、私なりの基礎作業でもあった。

….・

11 別表一

一○七

28282727272727272727262626

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明治年月

冠弥左衞門活人形金時計大和心予備兵義血侠血海戦の余波臂嶮談乱菊黒壁鬼の角取舵聾の一心 ロ叩

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人称

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妖怪年代記秘妾伝一人坊主夜行巡査外科室黒猫鐘声夜半録貧民倶楽部八万六千四百回ほたる琵琶伝海域発電取舵化銀杏

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編幅物語秘妾伝一之巻五の君二之巻妙の宮蓑谷三之巻四之巻紫陽花毬栗五之巻龍潭讃照葉狂言勝手口六之巻X蟷螂鰻鉄道誓之巻看守物語化鳥き、蟹凱旋祭堅パン風流蝶花形漬心庵怪語迷児凱旋祭十万石七本桜山中哲学

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暗まぎれ毒題目玄武朱雀おもかげ辰巳巷談蛇くひ白牛笈摺草紙みだれ橋鴬花径巣物語五本松雪の山家絵日傘三尺角さらノー越湖のほとり通夜物語黒百合幻往来湯島詣名媛記弓取町人高野聖怪談女の輪楕物語道行松の露月下園うしろ髪長屋刃傷三重の襖

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(11)

森英 作家・泉鏡花の誕生 137

附・泉鏡花と「北国新聞』「北国新聞」は明治二十六年八月の創刊だから、地方紙としては長い歴史をもつ存在ということになる。評論家の石橋忍月もかつて編集顧問として在社したことがあり、その他、著名な作家、評論家、思想家なども多数寄稿した。文学史研究には新聞や同人誌の調査が不可欠だとの観点から「北国新聞』文芸関係記事年表稿(明治・大正篇)や『秋田魁新報』文芸関係記事年表稿天正篇)を、本紀要第二十九号、三十号に掲載した。また、「北国新聞と近代文学」と題する一文も「北国新聞』(昭閃。n.4~坦全7回)に発表したが、以下、鏡花と「北国新聞』の関係について述べてみよう。なお、これは「北国新聞と近代文学」と内容的に重複する部分のあることをお断わりしておきたい。明治、大正年間に鏡花が「北国新聞』に載せたものは次の通りである。調査時点で欠号分が発見されれば、あるいはさらにふえる可能性はある。

⑤栃の木や山駕篭寒き夏木立 ④窓々の青田見ありく羅漢堂 ③鷲飛ふやはるかに峰を青嵐 ②畝道を早苗さけたり里女 ①片廟あまか仮寝や夏の月 である。その全てを次に掲げよう。 ⑤は俳句一一十三句を載せた内容だが、署名は鏡花、酒亭の連名 る。 なことではない。あるいは鏡花に無断で掲載したことも考えられ だけで同一紙に発表するというのは、鏡花にとっては決して名誉 再掲載が多く、特に⑥と⑧のように同一作品をタイトルを変えた 従って、側に関しても既発表の再掲かもしれない。このように 新聞』)「立春」(明弘企『短篇奇談勢揃ひ」)として発表されている。 されたものと同じである。、はもと、「雪の山家」(明犯ii「読売 四十年三月号の「女鑑』〈ただし「千代の鉢」という題名)に掲載 ものと同一、⑥と㈲は同一内容で、三十五年一、’一月号の『文薮』、 また、③は明治二十九年八月号の「文芸倶楽部』に掲載された としていて、誤りがある。

と②である。しかし、②については両者とも「明治二十八年七月」

(昭和女子大刊『近代文学研究叢書」妬巻)にすでに記されているのは⑪

この中で岩波版『鏡花全集」付載の「作品年表」と、「著作年表」

⑧「鶴の舞」(3.1.1) 、「小牛之像」(大2.1.1) ⑥「千歳の鉢」(銘ii) ⑤「前書なし理屈なし」記.8.7) 四「ひとつふたつ」(四・8.5) ③「百物語」(甲7主)

②「妙の宮」(牢6.u) ⑪「黒猫」(明牢6~7.羽)別表二

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349

本朝食人種 政談十二社 葛飾砂子 ポンチの記 女一肩衣 三枚続

斧の舞風流後妻打処方秘菱水難の里註文帳

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1 10

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年月

女仙前記風流線紅雪録銀短冊春昼婦系図草迷宮白鷺歌行燈日本橋由縁の女眉かくしの霊 ロ叩

133313313333 人称

(12)

第31号昭和57年 金沢大学教育学部紀要(社会科学・人文科学編)

136

ば、おのずから鏡券作品も明確になる。

師の尾崎紅葉は文章修業のために作句を弟子に奨励した。その 紅葉と関係が深い俳句団体・秋声会のメンバーに秋元酒汀がいる。 酒汀と酒亭が同一人なのか。それとも、鏡花の弟・泉斜汀が酒亭 なのか。不明である。いずれにせよ、酒亭が何物かはっきりすれ ば、おのずから鏡花との俳風の相違もより鮮明となって、鏡花の

れる。 ⑳銀の如き清水湧くなり金砂子

この中で、⑫が「白菊き菊そのほかに夏菊の紫」というほぼ同 一句が、@は全くの同一句がそれぞれ岩波版全集に所収されてい

るので、一一十三句のうち少なくともこの一一句は鏡花作であること

が判明する。しかし、常識的に考えて他にも鏡花作があると思わ

⑥螢一つ手つからたまふ⑦薄の一つになりて流れ⑧某庵に剥製の水鶏あり⑬若竹や灯ふかき夜の雨 ⑫黄菊白菊其ほかに夏菊の紫 ⑩墜道を出て、青田の+旱⑪夕立の海見る橡や清見寺 ⑨矢叫や沖はあやしき五月闇⑩墜道を出て、青田の+里哉⑱山寺に二人わひしき紙帳哉 ⑯昼顔のたそかれ見たりあゆみわひ⑰踊子や日傘に蝶としるしたる ⑮軒の菖蒲傘さしかけ白拍子 ⑭紅絹や眼を於さへ女梅を干す⑪新築の青葉かくれとなりにけり ⑳蚊遣火や君に盃さしも草 ⑲田植女の皆石田縞着たりけり⑳間道や編幅羽うつ塔の下 つ手つからたまふ帝哉一つになりて流れけり (昭和五十六年九月十六日受理)

一○九

参照

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