• 検索結果がありません。

農村青年会運動発生についての 一考察

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "農村青年会運動発生についての 一考察"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

農村青年会運動発生についての 一考察

一蘇峰と滝之助をめぐって一

大 串 隆 吉

 はじめに

 山本滝之助論は,小川利夫氏の「山本滝之助論」(社会教育研究会編r社会教 育』昭和28年10月号)以降,あまり教育史研究でとりあげられてこなかった。

それは,むしろ近年,歴史学研究者によってとりあげられ,山本滝之助の思想 史的位置づけが試みられているといえよう。

 鹿野政直氏は,「資本主義形成期の秩序意識」(筑摩書房・昭和45年)で,山 本滝之助r田舎青年』が,徳富蘇峰の「地方優先論的な思想によって感奮させ

られ」て書かれたものであることを指摘した。さらに「山本の思想的発条と なったのは,福沢諭吉の『学問のすすめ』とならんでとくにr国民の友』であっ た(r田舎青年』中の引用文や発想からたしかめられる)。」と指摘し,「田舎青 年」は,「福沢諭吉のr学問のすすめ』や徳富蘇峰の平民主義につよく影響され

ながらも,国家主義への傾斜を一面で示していた」と適確に指摘している。こ のように思想史研究の分野では,r国民の友』に代表される平民主義との関係 で,山本滝之助の歴史的位置づけがおこなわれている。ひるがえって教育史研 究では,歴史学研究でなされているような位置づけの試みは見当たらない。そ こでは,「要するに虚弱な体質の上に,眼疾に苦しめられていた『逆境青年』

すなわちr地方郷村の一般青年より一頭地を抜いた特志青年』これこそが彼が 自からの上に投げかけた絶えざる言葉であった。r田舎青年』の叫びは,この

(2)

      (1)

ような彼の苦悶と焦慮とにみたされている」という評価をうけつぎ,当時流行       (2)

していた夜学会を支えた「能力を持ちながら貧困のために進学できない青年」

の1人として山本を位置づけている。これは山本の一面を把握したものだった。

 しかし,山本滝之助が,徳富蘇峰の影響を強くうけてきたことを明きらかに してこなかったことは,滝之助の歴史的評価を深められなかっただけでなく,

当然のことながら教育研究史上,徳富蘇峰の教育思想を教育史の中に位置づけ られなかったという結果を招いている。宮原誠一編r教育史』(東津経済新報 社)では,全くふれられておらず,福沢諭吉に比べて徳富には正当な評価が与 えられていないようである。近代日本教育論集『社会運動と教育』(国土社)の 解説では,教育思想史上「『田舎紳士』の教育」としてとりあげられ,又『講座 現代民主主i義教育・第2巻・日本資本主i義と教育』(青木書店)では,「日本資 本主義と教育運動」の章で,「国民形成における民権論的発想の破綻」としてと

りあげられている。しかし,これらは研究の端緒についたというべきであって 不充分であることは言うまでもないし,なかんずく社会教育史の面からすれば

満足できない。

 何故,できないのか。それは,大まかに言うと次の理由からである。徳富蘇 峰は,「国民の友」を通じて,平民主義によって日本を変革するために一大学

       (3)

習運動を提起した。そして,その行動主体として青年に期待し,岡和田常忠氏が         (4)

指摘しているように世代論に基づいてであったが,青年教育論を展開し,青年

         (5)

運動を構想している。このことは,平民主義が,客観的には生産者が資本家に なるという資本主義化の道を構想していたこととあいまって,我が国の資本主 義の発展と関連させて青年運動の歴史を論ずる場合,見過ごしにできないと考 えるが,どうであろうか。それと関連して,そのような資本主義化の展望が現 実の資本主義化とぶつかる中で,教育思想にどのようなごん跡をのこしたのか

を考察する必要がありはしないだろうか。

 この小論は,以上のような課題をあきらかにすることである。ここでは,山

(3)

本滝之助そのものを論ずるつもりはない。山本滝之助を通じて徳富蘇峰の青年 教育論をあきらかにすることである。そこでまず,鹿野政直氏の指摘にしたが

って「『田舎青年』中の引用文や発想からたしかめてみよう。

 註

 ①小川利夫「山本滝之助論」(社会教育研究会編r社会教育』昭和28年10月号)

 ②宮原誠一編r教育史』(東洋経済新報社・昭和38年)P161

 ⑧「吾人をして先見の名を為さしむる勿れ」(r国民の友』9号・明治20年10月)で,「国   会準備の運動」をするために,「各地に於て政社を設立するの必要を感す」と呼びか

  けて,「政社とは何ぞや,人々打ち集ひて政治を議論するの場所なり」と性格づけ

  た。

 ④岡和田常忠「青年論と世代論一明治期におけるその政治的特質」(r恩想』514号,1967   年)

 ⑤「新日本の青年及び新日本の政治一(第4)心に配して忘る可らざるもの」r国民の   友』9号,明治20年10月)

一 「田舎青年」と徳富蘇峰

 周知のように,山本は,「田舎青年」を書くにあたって当時の青年論が,学 生を対象にしたことに反撲して「近来青年の呼聲漸く高まれりと錐も,其所謂 青年は全く学生に外ならずして,青年論と云い少年論と云ふも,多くは之学生 論にあらざるなく」と指弾した。そして,次のように言う。

 「其の説く所少しも田舎青年の上に及ぼず,偶一人の之に気付くものあるも多くは真  実熱心を歓きてr彼等ハ書ヲ読ム遊民ナリ』r彼等二回ケロナシ』など,徒らに彼等  々々と呼びすてになすのみ,真摯の気切愛の情少しも之無くして,全く浮華の空文を  弄するに過きず,都会より発行せる所謂青年雑誌の如き多くは論なし,艶麗絶妙のも  のは之有り,熱誠霊活なるものは之なし,巧にr全国青年子弟のため』云々と口には

 言へども,心には純然たる顧客を以て之を視るあるのみ……」

 r彼等ハ書ヲ読ム遊民ナリ』という引用は,明治24年10月のr国民の友』132

(4)

号にのった徳富の論文「書を読む遊民」からの引用である。したがって徳富 は,山本にとって「田舎青年」に気づいた「偶1人」で,「徒らに彼等々汝と 呼びすてになすのみ」で「真摯の気切愛の情少しも之無くして,全く浮華の空 文弄する」者に過ぎないのである。ところが,徳富は,「呼び捨て」にしたわ

      (1)

けではなかった。「社会の新原動力」で農村青年会の結成を呼びかけている。

すなわち,「新日本の社会を組織す可き明治の青年」を「彼等相互の力に頼り て,以て磨励,精研,訓練,陶治以て将来の社会に恰當する資格を養成せしむ る」ための方法は,「各地方に青年会を設立すること」だと主張する。青年会 とは,「其の隣里郷党の青年相聚りて以て一種の団結を為」すことによって,

「第二の国民たる資格を修養する」という性格をもつのであるが,「第二の国民 たるの資格」とは,「今日の四民平等社会に必要なる資格」である。そして,

町村を単位とし1郡1県から全国へおよぼす青年会連合の構想を打ちだした。

ここに我kは,r田舎青年』で山本が提案した青年会連合の原型をみることがで きる。さらに徳富は,26年になると,青年教育の対象を知識人青年=学生から 農村青年へ移すことを,宣言した。「吾人の所謂青年,即ち高等の教育を受け,

日本綿の兵帯,高下駄の青年にあらずして,終日田畑に鍬を取り,稲を負う所 の青年結合して,町村青年会を形成し……」。

 何故,徳富が,農村青年会の必要を認識したかという理由は,後でくわしく のべることにし,ここでぱ結論をさきにのべる。徳富は,「田舎紳士」一中・豪 農層に依拠してイギリス型の生産者が資本家になるという資本主義化を理想と

していたから,そのことは当然の帰結であった。したがって,山本の指摘はあ たっておらず,逆に徳富の歴史的展望からすれば,農村青年をおろそかにでき

なかったのである。

 むしろ,山本は文脈からみると,つぎにあげる徳富の農村在住高小卒青年の

      (2)

状態の指摘に共感しながらも,彼等を「書を読む遊民」と評価したことにひっ

(5)

かかっている。徳富は,前掲「書を読む遊民」で,明治になってから「天下を経 営する者は,皆洋学書生の一群にてありし」という状況のため,「世の青年,

始めて学問の大切なるを知り,之が為に養子先を離縁して,学問をなす者あ り。其田地を売却して,学問をなす者あり。其家屋を抵当として学問をなす者 あり。而して其父母の如き,其親族の如き,皆な指を屈して卒業年限を侯ち,

以て所謂左團羽の生活の日,近づき来るを楽み居れり。」とのべ,これでは,

「生産社会の情態を改革」できず,それをするためには,θ実学を奨励するこ と,㊤学者が労作を重んずること,㊤貧賎,富貴にまどわされず,分に安んず ること,㊧父兄が,子供に学問をさせて幸福になろうと思わないこと,をあげ た。山本は,「都会青年=学生の華やかな生活に反機しながらも,強くそれに ひきつけられたのであり,仮令廻り道をしてであろうとも,まず彼自身が文筆 によって彼等の生活に伍してゆくことを,つねに最大の問題としていたので

  (3〕

あった」から,徳富によれば山本自身が「書を読む遊民」となり,徳富の農村 青年への批判は痛かったにちがいない。徳富の意図にもかかわらず,山本は野 心を捨てなかったから,前記の4つの方針は,受け入れがたなかったにちがい ない。だから徳富に対してからんでいるのであろう。

       (4)

 山本は,明治22年に「協調会」という青年団体に入っている。協調会は,雑 誌「少年子」を発行していたのでデ山本も読者になっている。協調会は,「少 年社会弊風ヲー洗スルヲ」目的とし,山本のような農村青年や,労働青年まで

        (5)

含んでいたけれど,中心はあくまで地方出身の都市知識青年だった。しかも,

支部や例会は都市に限られていたから,都市を遠く離れた農村青年は,実質的 には,会費を払い,機関誌をうけとるか投書するだけだった。したがって,

「都会より発行せる所謂青年雑誌の如き……心には純然たる顧客を以て之を視 るあるのみ」という山本の指摘はあたっており,そこには山本自からのにがい 経験が反映していると考えられる。

 山本は,「田舎青年」の序で次のようにのべた。「本書田舎青年の覚悟を論ず

(6)

るの一項間k先人の精神理論を採りて,其の説方書を換ゆるものあり。」それ は,次のような点である。

 第1に,青年論が世代論に基づいており,老人と青年をその特性によってわ け,老人=保守性,青年=浮気・進歩性としたことである。この論理は,明治 20年代の徳富蘇峰・志賀垂昂の青年論の特徴である。第2に,「田舎」を主張する 論拠になった地方優先論である。この地方優先論が,徳富のそれであったこと は鹿野政直氏が指摘したとおりであるからくわしくのべないが,『山本滝之助 全集』8ページの発想とr国民之友』52号「田舎漢」の発想との類似を指摘し ておく。このように,山本は「一項問k先人の精神理論」を採ったのである。

 徳富が,農村青年に注目し,農村青年会の結成を呼びかけたが故に,山本 が,彼を攻撃したことは,「田舎青年」を書くことによって「立身栄達への野 望」を達成しようとしたことを裏書きしている。本格的に農村青年会を論じ,

その結成を呼びかけたのは,山本ではなくて,徳富蘇峰だったのである。

 註

 ①「国民の友」24年3月,113号

 ②「田舎青年」の引用一「山本滝之助全集」では3ページーは,前掲「書を読む遊民」

  の引用であることから,こう考えられる。

 ③小川利夫「山本滝之助論」(社会教育研究会編r社会教育』昭和28年10月号・P44)

 ④「協調会」は,明治20年4月に,地方出身学生を中心にして東京で結成された。後   援者として志賀垂昂がなっている。明治21年7月,雑誌として「少年子」を発行し   た頃から,支部組織を作りはじめた。支部は,東京を中心に,地方都市にも幾らか

  できている。結成当時10名だった会員は,明治22年には,1500名近くになるという   急速な発展をとげた。

      (ママ)

   「協調会」の目的は,「将来国家ノ事宜ヲ経論シ社会ノ秩序ヲ整理シ我国ノ独立

  ヲ維持スル」(会員募集公告)という少年の責任を果たすため「少年社会ノ弊風ヲー・

  洗スル」(会告)ことにあった。協調会は,このための学習組識であり,「少年子」

  は学習雑誌だった。

(7)

⑤例えば,明治22年2月10日「少年子」第7号に,東京在住の職工小泉慶吉の「日本

 国中ノ年小ナル労力者二期待ス」という文がのっている。

補註 明治20年代初頭における青年と少年の区別は,論者によつて異なるが,「少年

 子」「少年園」等の少年雑誌では,基本として学校体系によって区別されていた。

 高等中学校以上に在学の学生は青年であり,それをめざして受験勉強中の者が少年

 である。

二 徳富蘇峰の青年教育論

 明治20年代における徳富の青年教育論の変化は,3段階をへている。第1段 階では,「新日本の青年」にあらわされているように知識青年を対象として論じ

られている。第2は,明治21年以降,「田舎紳士」という言葉に象徴される「地 方優先論」が明確になった時期で,農村青年が対象となる。農村青年といって も,徳富が論じる場合,農村出身で都市で学んでいる知識青年と,農村在住の 青年にわけられる。23年以降前者から後者へ視点を移していく。第3段階は,

日清戦争後である。このような変化は,徳富が構想していた日本を変革する道 すじの変化と密接に関係していた。

(→ 「新日本の青年」から「田舎書生」へ

 論文「新日本の青年」は,青年教育論で対象は知識青年である。そして,後 に青年教育を論じる場合,ベースとなった世代論的青年論が軸となっている。

対象を知識青年に設走したのは,単にこの論文が,明治19年に彼が経営してい た大江義塾で塾生に向けた講演をまとめたものであるからだけでなく,彼の歴 史の見方に由来するし,したがって又,青年教育にこれだけのエネルギーをそ そいだのも,彼の思想に由来する。

 彼の歴史の見方は,まず「維新ノ変革ハ思想ノ改革ヨリ政治ノ改革二及ヒ

      (1)

タルモノナリ」と断走し,明治における「思想ノ変革」は,「泰西的ノ胎内ヨ

(8)

リ孕出シタル」ものと認識したことにある。「思想ノ改革ヨリ政治ノ改革」へと いうみかたは,思想を重視し,それを担う人間の教育を重視するという帰結に なる。そのため「新日本の青年」の約半分を使って「維新前後学問及教育ノ変遷」

を分析し,「復古主i義」・「偏知主義」・「折衷主義」と分類し,それらを批判し,

克服する方向を出したのである。「吾人力学問及教育世界第ニノ革命ヲ成熟ス ルノ手段トシテ論シタル」は,「時勢ノ推移シテ学問及教育ノ世界ヲ変シ来ル ヲ埃タスシテ,自ラ学問及教育ノ世界ヲ改革シテ時勢ヲー変セサル可ラスト云

・  .  ・  。  .  ・  ・  。  ,  ・ (2)

フー黒占二外ナラサルヤ」。(傍点・筆者)

 徳富によれば,青年は「社会ノ継続者」であり,「我邦知識世界第ニノ革命」

       (3)

を行うのは,「其ノ主動ノ機関タル青年其人二存スルト謂ハサルヲ得ス。」とい うことになる。では,何故「知識世界第ニノ革命」の主体として青年を重視した のか。青年と老人を対比して様kに性格づけているが,要するに,「老人ハ秩        (4)

序ノ味方ニシテ。青年ハ進歩ノ朋友ナルハ決シテ疑可カラサル事実ナリトス」

と結論づけたのである。これを,「何ノ時代,何ノ邦土ヲ問ワス」普遍的な事実 と考えていた。その理由として,生理的なものもあげているけど,より根本的 には,イギリスで封建制度を打破したのは,オックスフォード大学の学生であ

り,維新の革命をやったのは,松下村塾出身の塾生,伊藤,井上,桂という青 年であるという歴史認識があった。

 徳富は,明治維新を「泰西的政府」の成立ととらえていたから,伊藤,井上        (5)

等は先輩であったわけである。しかし,今や彼等は,「天保ノ老人」となった。

「老人」であるからには,「秩序ノ味方」であり,「四気既二衰へ,官能将二遅鈍        (6)

ナラソトシ,漸・々トシテ暁月ノ光ヲ没ス如ク社会ノ大勢ヲ退クノ時」である。

そして,青年の「大敵」となったとして,こう警告する。「諸君力尤モ大敵タ       (7)

ル可キモノハ諸君力恒二敬愛スル所ノ彼ノ老人輩ニアリ」。「老人」は,青年の 活動を圧迫するものとなった。では,これら「老人」達の維新後20年たった思 想的内容は何か。それは,「新衷主義」である。「社会現在ノ支配者タル大人ノ

(9)

過半ハ。皆悉ク此ノ議論ノ発議者。若クハ賛成者二非サルハナシ。想フニ我力

      (8)

文部省中ノ重ナル人kモ亦此ノ中ニアランカ。」そして,この「折衷主義」こそ

「以テ談ス可キ価値ヲ有スル」ものだった。

 このように徳富は,イギリスのブルジョア革命と明治維新とをモデル化し,

そこから「教訓」を引きだすことによって,知識青年の教育の重要性を提出し たのだった。そして,青年=進歩の味方→「泰西的主義」の担い手という図式を たてた。したがって青年教育の場を設定する時,官立学校は,先の引用のよう に「老人」に支配されているから,教育目的を達することは期待できず,その 場を私立学校に求めたのである。徳富は,自からこれらの青年の1人として

「天保ノ老人」と対比させることによって,若き世代として自からを自覚したの である。そして,明治10年代の自由民権運動の敗北を体験し,その戦術を否定 することによって評論活動,啓蒙活動へと一路まい進したのだった。

 明治15・6年の自由民権運動「有志家」達の戦術を否定した理由は,実力行 動を簡単に圧した明治政府の権力の大きさと,彼等「有志家」の行動が,「全 国の人民」から孤立せざるをえなかったことにある。だから,徳富の運動は,

「多数の同意者,即ち全国の人民を其の味方に有する一あるのみ」だった。この考 え方は,イギリス型議会制民主主義をめざす運動と結びついている。社会は,

政府と人民の対立関係で動くから,将来人民は,政府を従属させるものでなけ ればならない。そして,人民の力を発揮させる中心的な場所を議会に求め,国 会開設を「独逸流の帝室内閣にする乎,議院内閣にする乎の一点に外ならす」

と判断し,「全国人民の大団結をなして以て,全国の輿論を発揮せよ」と呼び       (9)

かけ,そのために学習組繊としての「政社の結合」をすることによって運動化 し,イギリス型の責任内閣制をめざしたのである。

 さて,明治20年に再版した「新日本の青年」の序で徳富は,次のようにのべ た。「(r新日本の青年』は)既二過去ノ著述ナリ,故二例セハ復古主義折衷主 義ヲ駁シタルカ如キ。書中間k。今日ノ時宜二適中セサルモノナキニアラス。」

(10)

帝国議会開設の準備の過程で明治政府の統治機構は急速に碓i立されていく。18 年の内閣制による官僚統治機構の確立をはじめ,各種学校令による学校体系の 確立,地方行政機構,軍事・警察機構iの確立は,明治18年から20年にかけて集 中した。このような状況を,徳富は,「明治政府の紀綱整正したるは徳川末期 の比」ではなく,常備軍を持ち,警察法をもち,有能な官吏がいて「彼れの中        (10)

央集権の政治は,全国を網細工の如くに統轄」していると把握した。

 このような明治政府への状況把握は,思想の把握だけにとどまれず,国家活 動の把握を必要としたことを示し,その結果明治政府を構成していた人達を

「有するもの」と規定する。すなわち,「権威を有するもの」「門地を有するも の」「学識を有するもの」「腕力を有するもの」である。そして,「大凡人類の 住する所,2箇階級のあらさるなく……二箇反対の力在る所,未た嘗て相ひ燭 着格闘せさるはあらす」という認識に基づいて,「有せさるもの」という「階級」

を,改革運動の主体と考えた。この「有せさるもの」という概念は,先述した 政府対人民の対抗関係における「人民」と同じものをさすことになり,この階級 の代表は「青年書生の階級」であり,その理由を「其の重なるもの」だと説明 する時,青年は,「人民」の特徴を最大限体現するものとしてあらわれる。ここ        (11)

に青年は,人民のフロントにならねばならないものとして位置づけられる。し かし,「有せさるもの」を,改革運動の主体として捉らえた理由は,望むものを 得られないから得ようとする意欲をもつというはなはだ単純なものである。

 この一連の考え方は,青年二進歩の味方,老人=保守の味方という考えと結

びつく。「新日本の青年」での規定に,「有するもの」=保守,「有しないもの」

=進歩という規定が結びついた。ここには,青年が依拠すべきものを明らかに するという志向があらわれている。それは,徳富が立憲国家をめざす展望を確 立していく道程であらわれたものである。

 すでにのべたように,徳富の青年論は,まず明治維新のモデル化一特に吉田 松陰とその一統一から演繹されている。それは,第1に,思想変革から政治変

(11)

革へという命題第2に,変革は少数の知識青年から生じるという命題であっ

(12)

た。私立学校を重視し,政社を地方に作ることを願ったのも吉田松陰の松下村 塾での活動が念頭にあったのであろう。しかし,イギリス型の資本主義化をめ ざす路線を我が国に適用することをめざしていた徳富にとって,モデルを「神話

 (13)

化」することはできない。モデルを念頭におきながらも,明治維新とちがった 状況から出発せねばならない。明治維新の経験から抽象化された「青年書生」

「有せさるもの」という概念は,異なった具体性をもたねばならない。依拠する 物質的なものを設定せねばならない。

 それは,「人民」の一員としての「中等民族」=「田舎紳士」である。すなわ ち,農民の中で「多少の土地を有し,土地を有するか故に土地を耕作する農 夫」である。彼らは,県会議員になることができ,「一郡一村に於て勧業,土 木,衛生等の如き事に就て最も尽力する」者,たとえていえば「村内の総理大 臣」のようなものである。すなわち,彼らはいわゆる地方名望家であり,県会 議員の被選挙権を有する者である。したがって実際には,地租10円以上を納め

る者である。この層は,資本の本源的蓄積によって明治14年を100とすると,

24年には,71と激減している。しかし,20年から22年にかけて,91から93へと

      (14)

減少がとまり若干増加した。このような一時的安定期を背景として「地方優先 論」がでてきたのである。

 これら中,豪農層が資本を蓄積することによって,生産者が資本家になると いう資本主義化の道を徳富は,構想する。その場合,着目した産業は養蚕であ る。「即ち田舎紳士の多数に於ては,……経営起業の民となるに相違ある可か らず,例せば既に桑を植ゆれば,蚕を飼いざる可からず,既に蚕を飼へば,糸 を製せざる可からず,既に糸を製すれば,之を売却せざる可からず,勢ひ玄玄に 至らば,彼れ等は農夫の魁たる資格を拡けて,製造貿易商の資格に進まざる可

   (15)

からず。」

 徳富が,「地方優先論」を提出した背景には彼が依拠した私立学校で平民出身

(12)

者が士族出身者をうわまったという事実がある。例えば,慶応義塾では,明治

      (16)

15・6年頃から平民出身者が士族出身者をうわまった。これら,私立学校で学 んだ「新日本の青年」は将来「田舎紳士」にならねばならない「田舎書生」で

  (17)

ある。彼等が,故郷に帰って何をすべきか。彼等の身につけた「新日本の知 識」の有効性を次のようにとく。

  「彼等の父兄たる天保時代の老人は,小作人の若情に随分辟易したるべし,然れども  彼等が修め得たる経済学よりして之を考ふれば,小作人の苦情更に恐る可きに非ず,

 彼等の父兄は三百代言の恐嚇に随分窮したるべし,然れども彼等が有する法律上の見  識は,彼等をして更に三百代言の恐るべきを覚えしめず,彼等が父兄の眼中には,戸  長も尊き者にてあらん,郡長も尊き者にてあらん然れども,彼等が政治学上に於て得  たる知識は,彼等をして更に郡戸長の恐るべきを感ぜさらしむ,彼等が胸中に盆湧す

 る新智識,新思想,新精神は,彼等が父兄の如く……小作人より旦那旦那と崇めらるる

 を以て之れに満足せさるべし,此に於て彼等は新たに業を起さんと欲し,新たに自家  の好尚に値する境遇を造らんと欲し,……よし彼等が受ける泰西流儀の教育は敢て深  幽博大なる知識を與へさるにせよ……彼等を駆りて此の如く新奇を好み,新事業を好

 み,名誉を好み,活動を好むものと為らしめたり,教育の刺激も亦た大なりと謂はさる

    (ユ8)

 可らず。」

 ここに「天保の老人」は,明治政府の元老だけでなく,農村の天保生れの老 人にまで及ぶ。徳富の世代論的青年論は完成する。この2つの世代を分ける基 準は,思想・知識である。そこには,教育への過大評価と,オプティミズムが ある。これは,実際的には民間教育=私立学校の教育に対する過大評価であ る。「政府と民間とは何れか多く日本青年の気風・性質・品行等に其感化を及 ほし併せて明治社会を包蔵したるや……吾人は猶豫なく民間の力政府に優れる       ⑲

と万kなるを断せんと欲す。」

 しかし,現実には徳富の見解は裏釦られる。これと前後して平民主義者の機

      侶①

関誌は,青年の非進歩性を問題にしはじめる。r概して現今の学生は,往々喧 ましき理屈を云うにも拘らず,読書にも勉強し,学科にも欠席せず,教師の裁

(13)

判帳に於ける品行点には,百点以上の道徳家も,亦鮮なしとせずも,果して此

       (21)

の如くんば誠に視す可きの外あらざるなり」。学問とは「人を干澗に為」し,

「高慢に為」すものだ。「明治の教育は数多の金銭を消費して,健全有為の青年 を懐了て無用無益の人たらしめんとせなり」と慨嘆する。このことは,官立学 校のみならず私立学校も例外でなくなる。

 「生徒が如何なる放蕩怠情をなすも,教師は毫も之に関せざるなり。何となれば教師  は,只生徒に向て学問を売る者なればなり。其品行の如き,其徳性の如き,其思想の  如きは,固より売買以外の代物なればなり。教育是に至りて,亦実に荒みたりと云う  べし。而して古令有名なる私立学校にして,斯の如くならざる者それ幾何か有る。蓋        (22)

 し必らず是れあらん,吾人未だ多く之を見ず。」

 これはまさに私立学校への過大評価が破局を示したことに他ならない。同時 にこのことは,農村出身の青年が,都市の私立学校(例へば慶応,伺志社)で 新知議を学んで農村へ帰り,それを応用するという期待が危機に直面したこと

を示している。

 地方優先論は,裏面から言えば都市編重主義の批判であり,地方の優位性を 説くものであるから,都市は悪で,農村は善ということになった。都市は,地 方に比べ,精神上,肉体上有害であるから,青年学生は,この都市で「動もす れば驕奢に失し易く,動もすれば虚飾に過ぎ易く」なる。暑中体暇には,故郷       (23)

に帰って「命の洗濯」をするべきだ。「青年学生は奨ぞ故郷に帰らざる」と言 う。以上のことを,先に引用した私立学校への評価と重ねあわせると,私立学 校は明きらかに都市にあるから,都市の悪風に私立学校の教育では,対抗でき なくなったと考えたといってよかろう。こうした論理展開は,徳富が青年教育 の重点を農村在住青年に移すことを必然ならしめた。

 さて徳富がめざした青年像は,どういうものであったろうか。それは,一言 Cいえば, 「泰西的」の新奇な教育をうけた人間,平民社会の必要とする人間 像であることによって,徳富の政治路線と密接に結びついている。「一国大政

(14)

の翻なるものは二個の勤の関係より生f, Rロち政府人民の関蔚)と考

え,人民が政府を従属させうる立憲国家をめざした。この路線は一方で,「人 民ありてこそ政治あれ」と認識させ,青年に「人民を愛すること」を要求し,

        (25)

「人情」を要求した。

 かれらが身につけるべきものは,自主自営の精神である。すなわち「自家自       (26)

カラ自家を支配スル責任ヲ有スル」ことであり,「一身一家より隣里郷党に及 び延て一国に及ぼす」という展望の下に,「政治の運動に加入する者は,皆な 産を治め,家を為す人に非ざれば能はざる事」を前提とする。したがって政府 の要人や壮士のような政治専業家を廃し,日常の利益を政治に反映させる兼業 家を推奨する。このようにして未来の政治家たる青年には,まず「政治と生活

とを分離し,独立の生活をなせ」と要求する。

 「田舎紳士」の道徳の中心眼目たる「自営自活」という精神は,勤労者への同 情となって発展する。「若し勤勉に,正直に,精朽に自家の業務に従事するも のは,其人は綱渡りにせよ,活字拾いにせよ,屑屋にせよ,社会経済的の眼孔       (27)

より之を見れば,金冠を載きたるものなり」と述べる。これら労務者が,仕事 をするための道徳として「労作・節用・貯蓄」を奨励する。これこそ「不羅独 立,敢て他人に,依頼せずして,以て自分の一生を了せしむる所以の道」なの

である。

 以上のような青年像が教育の場に適用されると,労作教育と自治教育として 提唱される。労作教育は,「請ふ小学校教育より始めよ。」といっているように初 等教育から高等教育まで学校教育全体を貫ぬくものである。とは言っても徳富 が直接労作教育について論じたのは,尋常小学校だけである。尋常小学校におけ

る労作教育には倫理への傾斜がある。「労作を愛好し,労作に耐え,自から労作的        (28)

人物と成らしむる」というのが労作教育の目的であり,そこには,あきらかに 倫理への傾斜がみられる。その手だてとして「自治制を布く」「学校に関する力 作」「寄宿舎を設る」「家庭に於ける力作」「手工科を設る」「課業外の時間を利

(15)

用して,以て労作的の気風を養成する」ことをかかげているけれど,結局は「労 作を愛好し,労作に耐え」るという態度に収れんされる。「観察力」等は,その 結果として位置づけられるにすぎない。中等教育については,高等中学を「職務 教育」の機関として位置づけて次のようにのべる。「高等中学なるものは,普通 教育を主とするものにあらすして高等教育を主とするものなるを知るへく,語

を換へて言へば,高等中学の教育は庶民教育にあらすして職務教育にあるを知

     (29)

るへきなり」。すなわち中等教育は「職務教育」でなければならない。この「職 務教育」は,「其の学ぶ所を応用するの道を知らしめ」る実業専問教育である から,「一の職務教育に従事するものと他の職務に従事するものとは,其の教 育の種に於て,勢ひ又た異ならさるを得す」ということになる。何故なら応用 すべき学問が効果を発揮するのは,「其の学問が其人の位置と,其の生計と其 の境遇とに釣りあへ」る時だからである。「田舎紳士」でないものには,「経営 起業」の方法を教しえても応用する場を持たないのだからその成果はないとい

うことになる。このような実業教育の観点が,初等教育でも同じであること は,実業補習学校規程に賛成したことにあらわれている。明治26年の実業補習 学校規程を歓迎し,しかも高等小学校を全廃してそれに代るものとすることを 要求した。その場合この実業補習学校の内容は,「実地実習を以て第1とな L,学科蝶罫)とし耐ればならts v・.これらでは一尋常小学校より上での 教育は一実用主義の傾向を色濃くもっていた。この背景として,当時の公教育

は「卑践な労働を厭ふ」「書を読む遊民」しか造り出さず,「立身出世」にしか益が

ないという認識と,それへの批判があった。その批判の結果「書」一教科教育 を軽視する傾向があったといえるが,この教科教育の軽視は,徳富の教育観そ のものにあった。「概して言へば,教育は書籍に限らず,学校は教場に限ら ず,すべて教師の眼より,生徒の眼に閃き,教師の口より生徒の中に轟き,教       (31)

師の心より生徒の心に徹する者,皆是れ教育なり,学問なり」このように教師 と生徒との人格的ふれあいを教育の本質とする限り,「書」は軽視される。徳富

(16)

の教育観と実用主義的傾向が,「田舎紳士」のイデオロギーとしてどのようにし て結びついているかまだ明確に論ずることはできない。

 徳富にとって,「職務教育」は,「労作教育」の上に成りたつもの,すなわち

「労作教育」は国民にとって必須なもの,「職務教育」の前提になければならな かった。「職務教育」に階級i生が貫かれていたのと同様に,「労作教育」にも階 級性が貫かれていた。すなわち,それは,生徒の出身階層によってその定義が 異なっていた。先述した「小学校に手工科を設ける事」を提案した際,「手工」の

「豪農商若しくは貴族の児童」に与える影響を強調した。「去れば彼の豪農商若

       (ママ)

くは貴族の児童の如きは,必ずしも手工を作す必要なしと難,若し学校に於て 之を学ぶ時に於ては,彼等は平民的習慣に養成せられ。他日に於て下情に達し        (ママ)

他の労工者に向て,同感情を表すを得,之が為に益を為を成すと,幾何なる

         (32)

事,固より論を俊たず。」とのべて,彼等が社長・地主・政治家になった時を展

望した。

 白治教育については,徳富が正面から論じたものがないので,その内容をく わしくのべることはできないが,次のことを指摘しておきたい。「自営自治」と

いう評語が示めすように,自治は自営のための労作に従属されており,自治教 育は労作教育に従属させら才iていた。このことは,先に引用した小学校におい て労作教育の方法として自治制を提唱していることからも明かである。

 付言しておかなければならないのは,徳富が中等教育を青年の教育として促 らえていたことである。このことは,先述したような徳富の青年像,青年論か らして当然の帰結である。その場合,青年は中等教育の階級的な性格からして

「田舎紳士」の青年であった。

⇔ 農村青年会

 明治24年になると徳富の青年教育の対象には,農村在住青年が入ってくる。

それは,まず明治23年の帝国憲法の発布が契機となった。徳富をはじめとする

(17)

平民主義者は,帝国憲法に賛意をあらわさなかった。徳富は,帝国憲法を国民 の権利を制限するものと判断して法律解釈で実質上,帝国憲法を骨抜きにしよ うとした。そのためには,人民を平民主義で武装して立憲国家を展望せねばな らない。人民を教育する場は,普通教育であるから,徳富の関心はそれにむ

かった。

 「普通教育は立憲政治の基礎なり,根底なり,衆庶と興に衆庶の政治を,為 んとするには,衆庶をして先づ国民たるの資格を養成せしめざる可からず,国        (33)

民たるの資格を養成するには,是れ普通教育の一大眼目にあらずや。」と認識 し,小学校で平民主義の教育をおこなうことを期待した。この期待は,彼の政 治展望に基づいていたが,小学校に,私立学校とちがった可能性をみいだして いた。それは私立学校にいける者が「少数者」であるのに比べ,小学校は,階 級・階層を問わず入れるのだから「平民社会の雛形」であるという理由である。

「誠に思え,三菱の小児も,若くは某公爵の小児も,某車夫の小児も,一たび 小学校に入る時に於ては,皆一切平等となるに非ずや。……只其優劣を定むる       (34)

は,一一に其生徒の学課の出来,不出来,品行の善,不善にあるのみ」。

 小学校教育は,徳育の面で「自主・独立・直誠・耐久,信を重んじ,義を尊 ぶ」,勤勉にして有為なる人を養成することにあった。したがって,徳富にと

っては,教育勅語を「奉読」したり「拝礼」するようなことはいとうべきもの

だった。

 しかし,このように期待した小学校教育は,教育史の事実が示すように徳富 の希望通りにはいかなくなる。小学校だけでなく「官立諸学校」で,生徒は「自 治心に乏し」く,学校の厳重なる規制の下には,頭を低くし,教師は,「政府        (35)

に諸ひ,文部省に諸ひ,文部弱気に諸い,甚しきに至りては生徒に論う」状態 であって,自治自営等の平民主義の精神は存在しない。

 徳富にとって,当面,学校に平民主義の教育を期待することはできない。で は,どこに期待したのであろうか。それが,農村青年会である。学校に欠乏し

(18)

ているもの,それは青年(青年になるべき児童も含めて)を「相互の力に頼り        (36)

て,以て磨励,精研,訓練,陶治を以て将来の社会に恰當する資格を養成」す ることである。それは,「各地方に青年会を設立する」ことによって達成でき る。徳富は,あきらかに農村青年会を平民主義者を養成する場と設定した。彼 のヒントになったのは,群馬県でおこなわれた廃娼運動に青年会が活躍したこ

   (37)

とである。一方,小学校教育に対しては,教師が平民主義教育をするよう訴え た。青年会の目的は,平民主義者たる「第二の国民」を養成することにあり,

その活動は次のようなものである。相互学習を目的とした夜学校を設けるこ と。「書籍館」を設置して,図書の他新聞雑誌をおくこと。青年会のある地方に おける時事問題で「講習討論」をすること。又,青年が「意気相投じ,同類相求

る」ようにするため「遠足」「狩り」を勧めた。徳富が,地方の時事問題を討論 する必要をのべて,例えば「其地方に鉄道を通ずる時に於ては,如何なる利害 を及ぼす可きかを論じ,若くは道路の問題の如き,橋梁の問題の如き,或は,

      (38)

其地方の物産繁植の道に関する問題の如き」をあげる時,「田舎紳士」の基盤で ある地方の産業をどう発展させるかということをぬきにしなかったことをもの がたっている。

 「第二の国民」(傍点筆者)を養成するには,上毛青年会のように有志青年に とどまらないで「一層其の組織の範囲を進ましめ」て,町村全体の青年を組織 せねばならない。そして,青年会を町村から一郡一県→全国に及ぶ青年会の連 合体を構想した。先述したようにここに山本滝之助による青年会連合構想の原 型をみることができるが,徳富は青年会を平民主義者養成のための教育組織と

して考えていたのであるから,あきらかに山本とちがった意図をもっていた。

一町村から一郡・一県・全国へという構想は,地方自治制に際して構想した

「一身一家より隣里郷党及び延て一国に及ぼす」という考えと同じである。後者 の考えは,政党組織として「一の地方団結を以て」その基礎単位とすることに なる。これらの構想は,いずれも立憲国家をめざす展望と結びついていたか

(19)

ら,ここにブルジョア民主主義を志向する学習運動としての青年会運動が全国 的規模で構想されたのである。

 農村青年をトータルに組織しようとした農村青年会においては,豪農層出身 青年の役割は,どのようなものだったのだろうか。先述した青年フロント説か ら言って,当然指導者でなければならない。しかし,徳富が青年会連合を提起 した明治24年以降,平民主義者は「中等階級の堕落」に直面し,指導者の内容 は変化する。その「堕落」は,第一に経済的要因から,第二には教育的要因か

ら生じたものである。

 経済的要因とは次のようなものである。明治23年から松方財政によって農村 は不況におそわれ急速に農民層の分解が進む。平民主義の担い手だった地租10 円以上の農…民層の状態は,明治21・2年に一時安定したが明治14年を100とす ると,22年95,23年86,25年67とその没落は急テンポだった。このような事態 は,平民主義者にとって自からの物質的基盤を失なうことを意味したから問題 にせざるをえない。明治24年5月13日の「国民の友」は,「都鄙到る処不景気 の嘆声を聞かざるはなし」とのべ,25年には米価下落のため「田舎紳士」は

       (39)

「逆運に誼わるる」とのべた。

 この不況への対応のしかたは,思想上様kであるが,どのような思想を選ぼ うとも不況をのりきるために「其の四隣の小作人を対手に高利貸を営み,近傍

       (40)

細民の膏血を締りて,自家の滋養分に供せり」というように豪農は,小作等か らの収奪を強化せねばならない。しかし,これでは「彼等旧来の徳義」を失な い農村における指導者たりえない。

 教育的要因について言えば,平民主義者によって問題とされたのは「地方を 空虚にする」すなわち農村からの脱出を促進し,生産労働を否走するという事と なって表らわれる中・高等教育要求である。先述したように明治20年代初頭か

ら平民主義者の注意を引いていた高等教育機関と学生の「堕落」は,教育機関・

学生の非進歩性を問題にすることにとどまっていたが,この頃になると「田舎

(20)

紳士」全体を問題にする。すなわち「養子先を離縁して,学問をなす者あり。

其家屋を低当として学問をなす者あり,而して其父母の如き其親族の如き,楽 を指を屈して卒業年限を倹ち,以て所謂左團羽の生活の日近づき来るを楽み居

  (41)

れり」という状態は,「田舎紳士」の経済状態を悪化させるのみならずその存在 さえ問われる。しかも,このようにして高等小学校を卒業したものは,「卑賎 なる労働を厭うように」なるのである。

 以上のような問題を解決するにあたって徳富は,政治斗争に頼らなかった。

その理由は,明治政府への認識にあったと思えるが,より根本的には彼一流の 世代論と思想偏重にあったとおもわれる。解決を思想教育に求め,松方デフレ の影響が一段落した明治26年に,徳富は豪農・地主層に属する高等教育を受け た青年に対し次のように訴えた。

  一町村を以て,平等,自由,平和,安楽,親愛の天国となすは一大事業なり,一中  略一深く汝の故郷を愛育せよ。第一着として,町村の青年,当世の所謂青年にあらず  して吾人の所謂青年,即ち高等の教育を受け,白木綿の兵帯,高下駄の青年にあらず  して,終日田畑に鍬を取り,稲を負う所の青年を結合して,町村青年会を形成し,自        (42)

 らその頭領となり,智識上,精神上の訓練を彼等に与えて以て」

 彼の青年教育が,小・貧農青年をはっきりと対象にしたことを示している。し かし,この時点で徳富が提起した青年会の中での豪・地主層青年の役割は,現実 性を持っていたのであろうか。結論から先に言えばなかったことになる。それ は,徳富の世代論的青年論が破産したことを示すことになる。明治20年代初頭 に「中等階級」の長所として把握したものを明治26年にふたたび強調せねばな らなかったことに表らわされている。しかし,徳富はこの時期でも立憲国家へ の展望に対し楽観的だった。「平民主義第一者の勝利」は,近づきつつあるの であって,制度的には平民社会になったが思想上そうなっていないだけであ

る。こう判断した背景には,服部之総の指摘するように「第四議会における民

       (43)

党連合のすざましい闘争力」があったのであろう。藩閥政府と民党との斗いの中

(21)

に「民党の大躍進」を見た徳富は,彼一流の世代論によって次のような幻想を いだいた。「天保生れの老人」達一伊藤・山県・井上等は,「老境に入」り「半死 の老人」となった。だから藩閥政府も「巳に十年の運命のみ」「十年の後は,

実に政治を中心として社会一切の大革新を来たする機熟」している。「而して       (44)

此時こそ20年間,屈伏したる新時代の活力が,赫々,酒・々として起つの時」で ある。この見解は,「新日本の青年」以来徳富が主張してやまないものであっ た。しかし,現実は甘くなかった。「新時代の活力」は生ずる河能性をなくし

ていた。

 このように一方において「十年の後」という楽観的な展望をもっていたか ら, 「中等階級の堕落」を念頭におきつつも,平民社会を築くに際して「田舎 紳士」の青年に対して,彼等と貧農青年との関係を「慈善」と「訓練」で解決 することを求めたわけである。明治26年の時点で徳富ぱ「田舎紳士」が「経営 企業の民」としての性格を失ない,地主層として底着しはじめていた事実を認 めざるをえなかった。したがって,この段階で報徳社運動のような考え方とど の位差があったかという疑問が残る。又,すでに述べたように徳富の青年会連 合構想のヒントになった上毛青年会は,青年有志の集団として運動を成功させ たことを考えると青年会連合の現実的意味を上毛青年会の分析をふまえて考え

ねばならないだろう。

 研究の上で以上の課題を残すわけであるが,徳富の青年教育論にもどると,

日清戦争を境として,それは変化した。日清戦争の勝利の理由を,次のように

述べた。

 「平民は維新の革命をえて教育令に因って統一的の教育を受けたり。彼らか駐々とし  て学に向い,世界の智識を吸収して敢て一歩を後れざるは予じめこれが地を為すもの  ありたれぽなり。而して此教育令に因って訓練されたる籍白禾あ書年こそ即ち征清の

    (45)

 兵士なれ」(傍点一筆者)

 ここにあざやかな徳富の変身を読みとることができる。「統一的の教育」を

(22)

「駿汝として学に向」ったことを批判してきたのは徳富でなかったのか。その 批判によって「新日本の青年」を前面にたて立憲国家を展望しえたのではな かったのか。彼は,この後,産業資本と豪農層との二本足の上に資本主義化を 構想するようになる。これに基づいて農村青年に二つの道を期待する。すなわ ち,「兄は茅屋に在りて平安なる農業を営み,弟は進んで大市場に奔走し,其 相助くると恰も薫何の間中に在りて,遙かに助けしか如くするを得ば是れ量人 物経済に於ける最大美事に非ずや」と云う。しかし,このような主張は,すで に明治初頭から農民の間で実行されていた。片山潜が,東京に出ることができ たのは次男だったからであり,彼の親友二人が農村にとどまったのは総領だっ たからである。こうして,彼の青年教育論の改良性はきえ,現実の進展に追従

していくようになり,周知のように日本帝国主義のイデオローグとなる。

 註

 (1)徳富猪一郎r新日本之青年』(r民友社』明治20年)P46

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

(7)

(8)

(9)

(10)

前掲書 P123 P124 P26

P4

P22 P126 P66

   「吾人をして先見の名を為さしむる勿れ」(r国民の友』9号・明治20年7月)

   「新日本の青年及び新日本の政治・K第2)明治の歴史こそ其の実例なれ」(前  掲7号・明治20年7月)

(11)「新日本の青年及び新日本の政治・(第1)青年書生は政治運動の要素なり」(前  掲6号・明治20年7月)

(12) 「同志社学生に告ぐ」(前掲35号・明治21年12月)

(13) 岡和田常忠「青年論と世代論一明治期におけるその政治的特質」(前掲)によれ

(23)

 ば,徳富や志賀の青年論は明治維新の志士の活動を「神話化」することによって生  まれたことになる。しかし,徳富にあっては,明治維新をイギリスのブルジョア革  命になぞらえることによって,政治展望を作りだした。したがって,自からの依拠  する階層によって青年論の対象を変化させねばならなかった。岡和田氏は論文「明

 治青年の政治意識」(有斐閣r近代日本政治思想史1』1971年所収)でもそのこと

 にふれていない。それは,「神話化」ととらえることによって世代論的方法のみに  依拠したからだと考える。

(14)平野義太郎r日本資本主義社会の機構』(岩波書店・昭和12年)P72

(15)「隠密なる政治上変遷(第3)生活と教育との刺激」(r国民の友』17号・明治  21年3月)

(16)前掲

(17)「田舎漢」(r国民之友』52号・明治22年6月)

(18)(15)・(16)と同じ

(19) 「福沢諭吉君と新島嚢君」(r国民の友』17号・明治21年3月)

(20)例えば,明治21年5月の「日本人」4号に次のような文が載っている

 「今日の青年輩にして,学に志す老の挙動を察するに,往々慨嘆に堪えざるものあ

 り。……其目的の学業に従事するも,一朝多少の障碍に遭遇するときは,忽ち其志

 を屈し……」(宮崎道正r日本書生の前途』)

(21)「青年学生」(r国民の友』29号・明治21年9月)

(22)「教育界の時事」(前掲112号・明治24年3月)

(23)r国民の友』56号・明治22年7月

(24) 「外交の憂い外に在らずして内に在り」(前掲2号・明治20年3月)

(25)「新日本の青年及び新日本の政治(第4)心に配して忘る可らざるもの」(前掲9  号・明治20年11月)

(26)r新日本の青年』(前掲)P7

(27) 「社会経済的の眼孔」(前掲38号・明治22年1月)

(28) 「労作教育」(前掲133号・明治24年10月)

(29)「先づ高等中学を廃すべし」(前掲60号・明治22年8月)

(24)

 (30) 「実業学校」(前掲197号・明治26年7月)

 (31)「小学校及び小学教育」(前掲96号・明治23年10月)

 (32) 「労作教育」(前掲)

 (33)(34) 「小学校及び小学教育」(前掲)

 (35) 「教育界の時事」(前掲)

 (36)「社会の新原動力」(前掲113号・明治24年3月)

 (37)群馬県の廃娼運動は,上毛青年会が中心となって他の町村青年会を糾合してお   こしたもので明治22年に最高潮に達した。徳富は,上毛青年会と人的・思想的結合   を持っており,上毛青年会機関紙「上毛之青年」創刊号に徳富の祝詞が載った。上   毛青年会が中心となった青年会の連合体は,徳富の構想した青年会連合のヒントに   なったと考えられる

 (38) 「社会の新原動力」(前掲)

 (39)(40) 「中等階級の堕落」(前掲172号・明治25年11月)

 (41) 「書を読む遊民」(前掲132号・明治24年)

 (42) 「学生の前途」(前掲196号・明治26年7月)

 (43)r服部之総著1乍集第6巻・明治の思想』(理論社・1971年)P210

 (44) 「10年の後」(r国民の友』181号・明治26年2月)

 (45)「何故に我は清に勝てりや」(前掲240号・明治27年12月)

 まとめ

 徳富の青年教育論は,まず明治維新の「天保の老人」達の活躍とイギリスに おけるブルジョア革命をモデル化することによって世代論として,又その対象 を知識青年に設定して,登場した。これを可能にしたのは,思想・教育のもつ 機能への過大評価と明治20年代明治政府への幻想であり,彼自身の被教育者と

      (1)

しての経験が反映している。そして政府対人民という対抗関係の中で,青年を 人民の象徴とみなし,青年を運動のフロントとして提出した。そして,青年教 育の場を私立学校に求めた。

 「地方優先論」の成立とともに,青年の対象は,中・豪農層の青年になる。

「地方優先論」は,中・豪農層が資本を蓄積することによって資本主義化をめざ

(25)

したから当然の帰結だった。これを基礎としながら農村青年会の結成をうなが した要因には次のことをあげることができる。第一に,都市に対する失望,私 立学校への失望。第二に,立憲国家をめざし,明治国家体制を変革する主体の 養成の場としての小学校教育への失望である。こうして,農村青年会は,ブル ジョア民主主義をめざす学習運動組識としての性格をおび,それ故に全国組識

をめざした。

 したがって,農村青年会のヘゲモニーは,あくまで中・豪農層の青年でなけ ればならなかった。それは,松方財政による不況下で「中等階級の堕落」に際 して強調され,彼等を通じて小・貧農層の青年を対象として明確にする。それ は,不況への平民主義者徳富の教育的対応に他ならない。

 不況に伴う「中等階級の堕落」の青年論における意味はなんだったのか。そ れは,世代論的青年論の破たんである。青年=進歩という規定は,あてはまら なくなる。山本滝之助に代表される学問で身を立てようとする指向は,「出か

      (2)

せぎ型地域主義」となり,中・豪農層は,分解していく。それ故,平民主義の 道徳をより先鋭化して強調させねばならなかった。そのひとつが労作教育の主 張である。この事自体,中・豪農層=「田舎紳士」と長所として把握された自 営・自治・労作・勤倹等の平民道徳が,現実の進展の中で消え失せたことを意 味した。それは,松方財政によって中・豪農層が分解し,平民主義の物質的基 盤がなくなりつつあったことに照応するものである。

 こうして,日清戦争に際して,徳富の青年教育論は,あざやかな変身をと げ,その進歩性は失なわれ,日本資本主義の発展を支える青年教育論のイデオ

ローグとして徳富は登場する。

 さて,徳富の青年教育論の歴史的位置づけにかかわる二・三の課題を提起し ておく。第1に,山本滝之助の青年会論にかかわる問題である。山本の「田舎 青年」が,徳富の影響をうけたことは指摘したとおりであるが,山本が農村青 年会でおこなうものとして挙げている禁酒,禁煙,質素という徳目が,徳富の

参照

関連したドキュメント

また、犯行時の状況も、被告人が犯行をためらった形跡はなく、110番

 現在では、Kさんの次兄が家業の造り酒屋を継ぎ、

る。もう一つの世帯は,妻の父の兄の長女,つまり彼女にとってはいとこに

驚いたことに、ラー

それらを積極的に理想とした。しかし、ことオリン

して・国家性格の認識論が重視されねばならな  さて,以上のような課題意識のもとに,地方議

文字,演戯等の総合芸術の形をととのえてきた。そもそも舞台でのバレエは,オペラのこまの踊

労働に従事していないという点で,ニートは