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学校づくり運動一学校論の一考察一

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学校づくり運動一学校論の一考察一

 こんにち,学校づくりといううごきが,国民の教育運動としてさまざまにう こいている。これは,教育の権利をもった国民が,教育を自らのものにする運 動であり,これに重大な課題と期待がよせられているのである。

 しかし,この運動は,簡単に目的が達せられるもの,(達せられているもので はない)。 きびしい圧力とそれ故に挫折と停とんと屈折とさまざまな状況にな げ込まれながらすすんでいる。

 学校づくりは,永年にわたって,国家権力によって体制化され形式化された 学校を,国民と子どもの側に立って,教育本来のしごとができる条件にするよ うにつくりかえていくしごとなのであるが,権力の側は,再び「人つくり」政 策の路線にしたがって,「学校管理」一学校つくりと管理体制の強化をすすめ,

学校を権力のものにし,教育を社会のためにといって,独占(資本)のねがう ものへとすすめているのである。

 学校づくりは,いまや権力の側からもいわれ,上からと下からという葛藤と なり,国民教育を権力のものにするか,国民のためのものにするかとあらそわ れているのである。

 このきびしい時点に立って,学校づくりは,国民自らのために,教育そのも のがおこなわれることができる場面と状況をつくり出していくことであるとい わねばならない。

 この学校づくりの課題をあきらかにして,その実現の道すじをとらえ,国民 教育のありかたをつかんでいってみたい。

1 第一次新教育運動後のうごき

学校とくに,国民の子弟がすべて入るべき義務教育学校は,国家の力によっ

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て,国家のためになる人材をつくるために,国民の子弟を強制的に就学させる 教育機関であった。

 このような体制としての学校が,明治以来,永年にわたってつくられて来た

のである。

 この体制としての学校は,内容を統制し,形式化していったので教育本来の しごとをすすめるには,かけはなれたものになっていった。

 大正年代になると,

 大正時代になると,このような学校に対する学校改善のうごきがでてきた。

 民主主義,自由主義の思想がはいり,J・デューイなどの新教育のえいきょ うによって,教授活動・学級経営が反省され,新しい教育活動ができる学校が 求められた。

 子どもを自然に親しませ,個性尊重を中心とし,情操教育を重点においた成 城小学校,自由教育の名のもとに「自学自律」の教育の場を求めた千葉師範附 属小(手塚岸衛),自学主義と合科学習を実践する奈良女高師附属小(木下竹次)

赤井米吉が経営する明星学園,野口援太郎の「児童の村」などがあらわれ,新 教育を実践する新しい学校の実験がすすめられたのである。

 これらの学校の子ども達は,富裕階級やインテリの子弟であり,温室的条件 の中で,実験に培欄されるというものでi) Uった。国民大衆の学校の条件へとは つながつて来なかつた。

 2 大衆の生活運動とむすびついて

 これと対照的にあらわれたのが,新潟県北蒲原郡木崎村の「無産農民学校」

である。大正十二年,木崎村でおこった小作争議が発展するなかで,木崎村農 民組合がつくつた学校である。

 警察と地主の側から多大の圧力と妨害をうけた農民が,農民大衆の力によっ て学校をつくり,支配者から与えられた教育に反抗して,農民大衆が自らの子 弟を教育する場とそしきをつくり出したのである。

 これは,昭和3年までつづいたのであるが,他の地域に発展するというまで

にいたらず,権力の力によって,解体されていった。しかし,児童中心主義の

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学校づくり運動一学校論の一考察一 (95)

新教育運動に身を投じた教師たちの中から,プチグルインテリの温室的条件に ある実けん学校に限界を感じ,社会の壁にぶつかっていることを意識するもの がでてきた。

 児童中心も,児童の人間性の尊重も,子ども達のおかれた社会生活の上に立 って実現していかなければならない,児童一その背景にある国民大衆の生活,

そのつながりの中で,教育の目的と内容と場をつくっていかなけれぽならない と知ったのである。

 上から与えられるカリキュラム,教科書の指導要項をたなあげして,児童た ちの生活の立場に立って,その考え方と実践を指導するつづり方的方法による 教育がすすめられた。

 これらの人びとの主張する実践は,いろいろの立場をとったが,児童の真実 の表現と,その生活を尊重する点では一致し,一般勤労大衆の子どもの生活の 中にある人間性の表現を高く評価し,勤労者の人間像が求められた。

 働く者の意欲,主張,権利が,具体的に教育の目的・内容となり,一般勤労 農民大衆の生活に根ざした教育,そのための学校のありがたが出されたのであ

る9

 これは,木崎村農民学校の内容をなすものであろう。実際,東北の農山村に おいて,大都市の労働大衆の生活の中で,このような教育が求められていた。

これが,東北地方で,北方性の教育運et 〈昭和9年頃)となり,更に全国の「生 活教育」を求める良心的な教師の連絡しあう運動となっていった。

 学校で児童生徒におしえられる教科内容の批判をし,その内容が,生徒の生 活から遊離し形式化して,空疎なものになっている事実から,どうしてもこれ

をくみなおす,生活教育の実践をしなければならないとしたのである。

 このうごきは,「生活学校」(昭和10年頃一主編集戸堤廉)を中心とする運動

となり, 「児童の村」をのりこえた学校を求めていったのである。

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3 学校進動論と革新再編成

 このようなうごきに対して,「学校進動論」という学校改造の理論もうち出

された。

 この学校進動論は,大正中期,末期に自由主義の新教育運動の一つをなした 奈良女高師附属小の木下竹次の論作である。 (昭和7年)

 ブルジ・ア的自由の教育は,国民大衆の生活とはきりはなれ,社会のカベを 意識されない温室的なものである。学校を国民大衆の教育機関とみるとき,当 然,社会と学校との関係をあきらかにした学校のありかたをうち出さなけれぽ

ならなかった。

 まずそこで,世界の情勢,社会の状況を述べ,○民主主義の横濫,○第四階 級の拾頭,○婦人の覚醒という状勢のなかで,社会の進運に応じ,文化発展の 最重要機関である学校は,旧来の形式をうちやぶって,新しい形式を建設して いかなければならないという。

 それは,学校生活が,児童生徒の実際生活にそくし,生活力をつくり出せる 実用的な立場に立ったものである。

 このような観点に立って,学級,学校の経営論が述べられ,そのたてまえは,

学習者を中心とした生活学校をとり,その内容は,労作学校,郷土教育,社会 協同学校,生活学校,活動学校等の実践内容を止揚してつくるものである。

 ※ 木下竹次「学校進動論」上巻(昭7)

       下巻(昭9)

 このように当時の良心的な教師たちが,汗みどろになってとりくみ,児童生 徒の生活のなかから新しい教育のありかたを指向していたうごきをくみ入れ,

自由主義的教育の限界をのりこえて,学校改造のうごきを理論化せざるをえな かったものといえる。

 t.かし,この児童生徒の生活一その背景にある社会としてとらえているも

のは,協同社会・理想社会であり,国民大衆のおかれた階級的矛盾をはらんだ

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      学校づくり運動一学校論の一考察一         (g7)

社会の認識はさけている。むしろ新しい文化社会の建設といって,権力の指向 する国家社会を正当化・理想化し,この協同社会の生活が,児童生徒の生活の       

基本だとする「生活教育の学校」へとすすむものでもあった。

 ※ 生活錬成学校,加藤完治の「国民高等学校」

 国家権力のつくった形式的な学校からぬけ出して,自由な天地をつくり出そ うとした教育は,その教育をそしき化し,社会とむすびつけようとして,学校 の構想をもったとき,再び,権力の中にくみ入れられるという態のものであっ

た。

 きびしい社会状況の中で,ファッシズム化する国定権力は,革新,改造を求 め,この学校進動論ものみこみ,教育制度刷新の審議となり(昭和12年),つ いに国民学校の成立という変質改造がなされたのである。

 しかし,生活教育を実践し,国民大衆の生活学校を求める教育実践家たちは,

この学校進動論一学校づくり論のなかにくみこまれてはいかなかった。

 生活教育を求める実践家たちは,更に教育学者,心理学者たちと提携して,

「教育科学」の運動をすすめていった。このなかに,薪しい学校を求めるそし き論も出ているのであるが,ファッシズム化した権力は,弾圧の暴力をふるい,

このひとびとをひっそくさせていった。

4 戦後の教育体制の民主化と学校

 敗戦(昭和20年)によって,今までの軍国主義,国家主i義の教育体制は,一一 変させられた。

 日本は,連合軍によって占領され,とくにアメリカの支配下において,旧来 の体制を一変させ,民主化の方向にすすむべきことが求められたのである。

 教育についても,当然この方向が求められ, 「米国使節団報告書」として勧 告がなされた。

 日本の教育行政は,十九世紀的な絶対主義で,高度に中央集権化した制度を

もち,その結果,教育は,画一化され,児童生徒の個性は無視され,教師の活

動は極度に拘束されていた。

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 民主的で自由な日本国民をつくるためには,この制度を一一揮し,大学以外の 公立学校の管理権を一切,文部省から都道府県市町村にうつし,教育行政の地 方分権化をはからなければならない。そして教育を政治から独立させて,一般 選挙によってえらばれた一般地方民の委員によって構成される教育委員会をつ

くり,これに学校の管理権をもたせるのである。

 また,従来の学校体系は,大衆と小数の特権階級とに対し,差別した教育を 用意していたが,これをやめ,教育の機会均等を保証する民主的な教育制度を つくること。国民大衆がすべて入る義務制の初等教育と同じシステムで,男女 共学修業年限三年の下級中学,その上に無月謝の三年制上級中学校と,単線型 六・三・三制の学校体系をつくるのである。

 この学校の内容となる教育課程(カリキュラム)は,学校の周囲の社会けい けんと,児童生徒の興味と密接に関係してつくられる。

 このカリキュラムは,従来文部省がつくっていたことをやめ,学校を中心と して,教師と文部省が協力してつくるべきである。この内容の一つである教科 書は,文部省が定める(国定)、ことになっていたが,これをやめ,作製選定に 教師が参加し,作製出版は,一般競争でおこない選定する制度にすること。

 この教育の条件の中で主体性をもつべき教師は,従来,身分上職業上,二重 三重の拘束をうけていた。これをなげうち,教師は,他の国民と同様に権利と 機会があたえられ,教育という任務を果すため,思想,言論,行動の自由がみ

とめられ,経済的な保護があたえられなけれぽならない。

 以上のように,日本の教育の制度と内容について,民主化を求める路線が出 されたのである。

 これは国民の権利とする教育を実現する学校をつくり出す原則と内容を示す ものとうけとられよう。

 このような勧告をうけいれ,日本側では,教育刷新委員会をつくり,自主的 に新しい教育体制の建設を審議した。

 教育勅語を廃し(第二回国会),勅令体制から,国民の教育の権利を主体と

する「教育基本法」体制をつくり,国民の教育の機会均等を具体化した「学校

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学校づくり運動一学校論の一考察一 (99)

教育法」,地域住民の教育要求がそしきされ,教育行政の地方分権がおこなわ れる「教育委員会法」がつくられたのである。

 この教育刷新は,上からの民主化方策としてうち出されたとみられる。

 しかし,この中に,国民の権利としての教育を構成する諸要素がうち出され ており,地域住民の教育意志をそしき化し,学校を国民のための学校にし,国 民教育をつくり出す,学校つくりの諸契機が示されているのである。しかし,

このことは,教育を自らの権利としてつかみ,うち出せる国民のエネルギーが 下からつくられ,実施の方向へとすすまなければ,紙に書いた餅,更には,内 容を換骨脱胎しようとする体制権力の方向にもっていかれるものでもある。

 事実,この国民の権利としての教育の諸法律をつくる過程で,旧来から延命 した支配権力は,国民の権利をりかいできず,教育勅語の温存を策し,民主化 の方向をコントロールしようとしたのであり,更に,上からの民主化を指令し

た占領軍の方向転換とゆ着し,この諸法律の改悪をねらったのである。

 国民の権利としての教育をつくり出す「学校づくり」は,この諸法律の実質 を,国民の側に立って,国民の自主的な力によって,どれだけ公立学校という 制度のなかに実現できた,かしているかということで評価される。

5 戦後の新教育運動と学校つくリ

 さて,このようにしてうち出された教育体制の民主化は,内容を実現するた めに新教育運動としてうこいていった。

 この新教育運動のなかに,教育の民主化一学校づくりのさまざまな問題がや

どされている。

 新教育運動のうごきは,当然さかのぼって,わが国にも新教育運動の洗礼を うける時期があったと考えられ,大正から昭和初期に新教育運動のえいきょう をうけた教師たちがうかびあがってくる。しかし大かたは,懐古的で,戦争に

よる断絶をどうともすることができない。日本の社会に新しい民主主義の学校

をつくり出すリアルな力にはなりえなかった。生活教育運動の実践をし,生き

のこった人びとは,息をふきかえし,リアルな教育のありかたを求めたのであ

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るが,教師大衆にくいこみ,広範囲な国民大衆の要求につながっていくという 条件をもちえなかった。

 したがって,新教育運動は,戦争によって傷つくことをまぬかれた若手の

「革新官僚」や,教育研究者たちによって, 「新しい」教育理念と方法をもワ        ※

て「民主教育」啓蒙運動としてくりひろげられていった。

 ※ 近代教育史(請信書房)10章第四節 新教育の展開

 この啓蒙的運動の実践が,新教育の展開としての「地域社会学校」づくりと してすすめられたのである。

      ※

 「地域社会学校」の構想は,オルセンなどのコミュニティースクールにもと つくもので,これが,アメリカの地域社会にねざした進歩的なカリキュラムの 構成として,カリフォルニヤプラソ,ヴァージニア・プラソなどが紹介され,

社会科を中心とした桜田プラソ,地域の教育計画を構想する川ロプラン,本郷 町教育計画と,学校づくり一カリキュラム改造運動としてすすんだのである。

 このえいきょうは,全国各地に及び,各地域の学校で,地域にそししたカリ キュラムの構成,一カリキュラムプラソニング,学校づくりということですす められたのである。

 しかし,このような運動は,リアリズムを欠いていた。近代社会の理想,民 主主義のイメーLジがそのままあるように考え,新しい社会にむすびつけた生活 のカリキュラムをつくり,新しい学校づくりができるのだと,プランづくりに 没とうしたのである。現実は,このようなプランをうけいれ,新教育一民主主 義の学校づくりをしていくには,矛盾した,困難な条件をもっていた。

 民主主義の教育理念にもとついて,六・三制を発足させ,その実現を学校づ くりに求めたのであるが,学校づくりとは,まさしく土地・建物を確保する学 校づくりであり,学校設置者である市町村は,貧困な財政を無理して中学校を 開設した。国も財政的援助をするのだが,貧弱であり,市町村長の中には責任 を感じ,自殺する者が出る状態であった。

 開設された中学校は,施設,設備はまさしく貧弱であり,新教育の内容を実

現するにはあまりにもかけはなれていた。

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学校づくり運動一学校論の一考察一 (101)

 国民のなかで,都市地域,ある階層の人びとは,この公立学校を敬遠し,私 立学校へ子どもを入れるという傾向を生み出した。

 またPTA(父母と教師の会)が,各地域の学校につくられ,新しい学校づ くりの原動力にならなけれぽならなかったが,この貧困な学校条件を補充する 原動力として財政援助団体におちこんでいった。

 父母と教師が話しあい,学習しあって,子どものために,学埣の質と内容を よくしようとするPTAの第一一の目的はつかめず,私立学校に負けないように 施設設備をしようと寄附をつのり,父母に私費負担を課し,PTA立学校の状 況をつくり出した。この財政負担の実力者であるPTA役員は,学校への有力 な発言者となり,PTAはボスTA,ボスの発言がとおる学校づくりへとすす んだのである。このような状況をつくり出したのには,教師集団の側にも責任 がある。新しい教育をうけいれ,すすめる教師の自主的主体的な立場は,容易 につくり出せる状況にはなかった。

  「敗戦という現実が不安虚脱混迷の中に,深刻な反省の機会を与えた。この ままではいげない,何とかしなければならない。どうしたらいいのかわからな さ・」と混迷と不安の中から再出発をしようと教師たちは思った。

 ※ 「社会科の構成と学習」(中央教育研)村本精一・報告)

 これに対し,過去のべテラソ教師も,代用教員も,ひとしく民主主義教育の洗 礼をうけなければならないと民主教育の講習会が,教師たちにあたえられた。

問題解決学習,単元学習,分団学習,討議法,ホーム・ルーム,ガイタンス,

そしてコミュニティ・スクールの構成と,矢つぎぼやに新教育の理念と方法 が,占領軍CIEのおぜんだてによる, 「教育指導者講…習会」IFELを中心 にした指導講師の手によって,上からあたえられたのである。

 教師たちは,この社会集団がもっている事大主義,権威主義を清算できずに 講習に引きまわされていった。しかし, 「どこまでつづく講習か腹が減っては かなわなV甕と民主主義を霞として食う精神と,腹がへってはかなわない,経 済的社会的保障のないリアルな生活とは矛盾し,リアルな生活におびえながら・

民主教育のお念仏を,素通りさせなけれぽならなかった。

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  ※ 当時講習会中に回覧されたザレ歌である。

  経済的,社会的な教師のリアルな生活から,民主主義の条件を求め,民主教  育をつくり出す方向をつかまなければならない。そのために,教員組合のそし

  きが生れ,うごき出したのであるが,しかし,このうごきは,教師集団の中に  はなかなか浸透せず,新教育の実践,コミュニティ・スクール,教育計画の流  行とはなやかなうごきが表面にあらわれる反面,大かたの教師たちは,右往左  往し,放任と無秩序のなかに,どうやら今日一日を過そうとする。 (過さざる  をえなかった)

  施設,設備のない馬小屋改造の校舎で何をするか,PTAの援助で,辛じて   うごきがとれ,研究費というおしきせをPTAからもらい, PTAボスに学校  運営にまでくちばしをいれられ,学校,学級の経営の自主性,主体性をもちえ  ない状況におかれたのである。

6 自主的な職場つくリ,学級・学校つくリ

 上からの民主主義的啓蒙をあたえられた学校は,それを素通りさせる状況に あった。しかし,上からの流行のおしきせの民主主義というのではなく,それ を自主的主体的にうけとめていった職場もあった。流行の講習会に出て,カリ キュラムづくりにおわれるのではなく,「焼けあとに出来た新制中学という新し い学校に,いろいろの人々が教師として集って来た」。官立大学,私立大学,

専門学校と,いろいろの学校の出身者,会社つとめをしていた人,復員者,引 揚げ者,社会けいけんもさまざま異った人々によって職場がつくられた。今ま での教員社会を牛耳っていた高師,師範という閉鎖的なセクトはなくなってい た。このよりあい世帯を運営するには,みんなで相談しあう協議会がつくら れ」,それが職員会議,職場会議として学校運営の中心にならなければならな かった。丁度,CIE,文部省では,学校経営の民主化の必要をとき, 「職員 会議は教職員協議会」として民主的に構成され,学校運営を民主的におこなっ

ていかなければならないと通達した。(昭和23年の文部省通達)

 このような通達を自らの職場のものにして,自主的な学校運営をしていった。

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学校づくり運動一学校論の一考察一

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教職員協議会は,職員会議として実質的内容をつくり,この学校の民主的運営 の歴史をつくっていった。

 教職員のいれかえがあり,校長の交代があったが,この職場の雰囲気が,ル ールとしてのこされ,あたりまえだとして教職員にとらえられていった。民主 化の反動がおこり,校長が管理職だとして,権限がつよめられようとした時期 になったとき,この雰囲気,ルールをつくり出した職場は,この校長の権限の 非合理をつき,あたりまえの民主主義の職場づくりをと,しっかりとした要求 を出し,民主主義の職場をまもるうごきを示した。 (港区・青山中学校職場づ

くりの歴史)

 また敗戦後のみじめな生活環境,文化環境のなかにおかれた子ども達をみつ めた教師たちは,どうしても子どもに,勉強ができる環境とその内容をあたえ なければならないとうこいた。これが教師たちを中心とした児童文化運動にな り,よみがえったかつての生活教育の先人たちと連けいして全国各地にすすめ

られた。

 このしごとをとおして,子どもたちをとらえたエネルギーが学校のなかにあ つめられ,社会科教育,国語教育,演劇教育等々とほり下げられ・教育実践が 生み出され,このようなしごとができる学級づくりをと・それぞれの学校職場 の同僚教師をゆさぶり,教育実践のたしかめあいをする職場づくりがおこなわ れた。教科指導,学級経営と問題をとらえ,しごとができるような職場・学校 の条件づくりがおこなわれたのである。

 教育二法の問題がおこり,教委・校長管理者の上からの統制管理の力がつよ くなり,職場の意志を無視して命令が出されようとしたとき・この教育実践を みんなのものにしていった教師が中心になって,拒否を表明・仕事をともにす

る教師が結束して,職場の自主性を示したのである。 (港区某小,金沢嘉一,

落合聡三郎氏の職場)

 このように,教育実践をしっかりとしたものにしていく職場づくり・学校づ くりが各地域において,生活をふまえた教育づくりとしてすすめられた。

 東北農山村の生活に根ざし,この生活をきりひらく人間を,その能力をどの

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ようにつくり出すかと,子どもとまともにとっくんだ教育実践をすすめた「山 びこ学校」の報告がこれである。無着成恭によって実践されたこのしごとは,

北方性教育として村山俊太郎,国分一太郎,鈴木道太などによってきづきあげ られてきた生活教育をうけつぎ,おしすすめられたのである。しかも先人たち が,暗く悲しい時代にきびしくひとりで実践をおしすすめるというのではな

く,民主主義の生活づくりとして,村の社会の中にのぞみをもって,この教育 づくりを教師集団みんなの中でしていったのである。

 東北農山村だけでなく,各地域に生活教育を士台にした教育実践は芽をふい た。千葉の農村に「やつの子ども」ととりくみ,社会科の教育を中心にした地 域の教育づくりが,相川日出男によって報告され(昭和24年頃のしごと,昭和 27年刊行),「村をそだてる学力」 「学級革命」等々と子どもの生活に根をおろ

した教育実践が,各地に生み出されたのである。

7 体制権力の反動化と学校

 このように民主主義の学校づくりは,上からの啓蒙指導の波にのって流行し た地域社会学校のながれと,下から子どもと父母と地域の課題にもとづき,教 育実践をつみあげていくという泥くさいしかたと,二つのながれをもちながら すすめられていた。しかし,このしごとをしていく教師たちは,何がなくとも,

しごとが試行錯誤しても,民主主義が,みんなの中に生きているのだという実 感をもって,明るくうこいたのである。

 しかし,1950年(昭和25年)をすぎ,朝鮮戦争を契機にして,占領軍のはっ きりとした政策てんかん,マッカーサーのミステーク声明,そして「第二次教 育使節団」は,教育民主化のゆきすぎを是正することを勧告し,更に,日本を アジヤの反共の防波堤にするような政策を,教育のなかにも実現していかなけ ればならないとした。

 このような占領軍の政策転かんとゆ着し,日本の反動権力は,力をあらわに していった。サソフランシスコ平和条約,日米安保条約をむすび,憲法の改定,

教育制度の改革を意図したのである。

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学校づくり運動一学校論の一考察一

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 文部大臣は,政党人によって占められ,その官僚的そしき化がすすめられた。

 民主主義教育をすすめようとしてきた文部省の進歩的勢力は交代させられ,

官僚的統制管理の線がつよく出て来た。

 地域社会学校の計画,実践などというものは,色あせ,なくなり,学校づく りとは,学校管理を強化し,教育内容を上からあたえるしくみのなかで考えら

れた。

 学校づくりは,職場の民主化としごとの合理化によって,おこなわれるとい う一般的な考え方は,けされ,学校条件は,ととのったその合理化と能率化を おこなうことであるとしごとの督励がなされ,教師たちは過重なしごと(1日 10時間,週50時間以上ものしごと)をもち,働かざるをえない状況においこま

れて来たのである。

 これに対し,あらためて,教師たちは「職場づくり一教師の自主的なしごと のそしき化」の課題を出し,全国の教師集団の団結のなかから,研究をそしき        ※

し,その課題をとげていこうという問題に発展したのである。

 ※(日教組全国教育研究集会が1951年より発足,この中の主要テーマとなる)

 以上,学校づくりの発展のいきさつを述べたのであるが,つづいて現時点に おける問題その課題のはり下げを出すつもりであるが,紙数の関係上,他の

ところ述べさせていただきたい。

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