生活記録運動の歴史的研究
一プロレタリァ文学運動から生活記録 運動へ一
大 串 隆 吉
はじめに
本稿は,『信濃毎日新聞』が1930年から1941年までおこなった農村雑記をと りあげて,生活記録運動の歴史と性格をあきらかにする。
すでに,「生活記録運動一戦前と戦後一覚え書」(東京都立大学『人文学報』
150号,1981年)でのべたように,生活記録運動は戦後の産物ではなく戦前か ら存在し,プロレタリア文学運動から発生した。本稿は,生活記録運動の原型 を実証的にあきらかにするのが,課題であるが,このことは次のような課題も あわせ持つ。
生活記録運動がプロレタリア文学運動の影響をうけてうまれたことは,鶴見 俊輔・久野収の次の評価に再検討を加えるものである。両氏は,日本には更級 日記,枕草子の昔から,身辺雑記の記述の習慣が短歌風の感情表現と結びつい て発展してきており,生活記録運動はその延長線上に,与えられた二,三枚の なかでひとつの感情的なしめくくりをつけ単純な像をつくるという単純化,定 式化をもっているというω。農村雑記も与えられた二,三枚のなかで書かれた ものであるが,プロレタリア文学運動の影響をうけたことは,限られたスペー スのなかであれ,身辺雑記的な定式化,単純化を排し,自己と日常的な出来事 のなかに社会問題を発見しようとした教育,学習運動として生まれたことを意 味するのでなかろうか。
生活記録は,プロレタリア新聞,雑誌による組織化の方法として,又プロレ タリア文学運動の大衆化,作家の大衆的養成の方法として胚胎した。生活記録 としての農村雑記は,ここから出発し,自己教育運動そのものへと転換した。
すなわち,文学運動から自己教育運動へと転換したのであって,その転換の論
理と思想をあきらかにせねばならない。このことは,こんにち,社会教育を文 化政策に包摂,解消する動向があるなかで,社会教育の独自性その教育的価値 をあきらかにする課題が生じている上で重要である(2)。
文学運動から自己教育運動への転換は,天量制ファシズムの確立の過程でお こなわれた。したがって,この歴史的時期の特徴のなかで考察されねばならな い。すなわち,後述するようにファシズム体制への抵抗運動として考えられ,
その内実と転換をあきらかにすることが必要となる。
さて,『信濃毎日新聞』がおこなった農村雑記は,四つの時期に区分され る。一期は,1930年から1933年である。この時期はプロレタリア文学の影響を うけ,主として文学運動としてとりくまれ,昭和大恐慌の現実を反映する作品 が多い。第二期は,1934年から1937年の時期である。第一期の特徴をうけつぎ ながらファショ化への抵抗姿勢を明確にし,第三期にうけつながれる投稿者の グループをつくった。第三期は,1938年から1940年の時期で,最も充実し,自 己教育運動としての性格を明確にした。第四期は,1941年である。この時期 は,1938年から1940年にかけての農村雑記を選択収録した『農村青年報告』三 冊が完結し(第一・輯,第二輯1940年,第三輯1941年),全国的な注目をあび,
大日本青少年団が「生活記録報道運動」をはじめるのに影響を与えた。同時 に,近衛新体制によるファショ体制に協力を余儀なくされ,1941年12月に担当 記者,投稿者が検挙された。
以下,この四期にわけて論じていく。 (なお,若平前掲拙稿と重複する部分 があるがお許し願いたい。)
先行研究では, 『岩波講座,現代教育学16,青年の問題』 (1962年)所収の 碓井論文があるが,これは,「農村雑記」を生活記録としての性格を持たない
ものとしている。この他に,安田常雄「戦中期民衆史の一断面一ある生活記録 の紹介を通して」(r昭和期の社会運動』近代日本研究会編,山川出版社,1983 年)がある。これは,前掲の『農村青年報告』を素材として「戦時体制下にお
ける民衆の現実的生活と生活意識の実態を究明」しようとしたものであり「出
征と出稼ぎ」「物価上昇と物資不足」と,それらとかかわって「農民の戦争体
制への同調と批判の特質」を検討している。これは,生活記録の性格を教育の
問題として分析したわけではないが,作品の分析視点として重要であると言え よう。ただし,「出征と出稼ぎ」「物価上昇と物資不足」が,当時の全国的な 経済的特徴から導き出されているため,農村青年の様々な意識動態とそれを規 定する生活課題を導き出しているとは言えない。
1. 労農通信・報告文学と生活記録
すでにのべたように,第一期はプロレタリア文学運動の影響をえてはじまっ たので,まずプロレタリア文学運動における生活記録の位置づけを検討するこ
とからはじめる。
労農芸術家連盟の機関誌『文芸戦線』は,1928年2月号に「無産婦人の『生
活記録』を募る」と次のような呼びかけをのせた。「題材は無産婦人の生活記
ロ e ■ e の
録であれば自由であるが,自由に大胆に,偽りのない婦人の生活を書き送って
マ マ 欲しいと思ふ。殊に無産階級に従事する婦人,及びその夫を持たれた婦人の感 想,苦しみ,悲しみ,喜び,苦闘……実に得がたいものがなければならぬ筈だ
と思ふ。いまこそ凡ての無産婦人諸君は,本誌のこの企てに,工場,事務所,
e の e の
デパートメント,家庭,その他一切の窓をあけ放して諸君の生活の正体を開放 して頂きたい。」(傍点一引用者)また,コップ機関誌『戦旗』は,1929年9月 号から婦人欄に「真夏の松本紡績女工日記」「女車掌の日記」等をのせはじめ,
11月号で「(婦人欄に一引用者)あらゆる鉱山,工場,農村,病院,事務所,自 転車,電話局,学校,等々に働く婦人の生活記録をどしどし送れ」,翌年3月
号で「工場で,農村で,その他あらゆる職場で働いている労働婦人のいつはら
の
ない生活の記録をわれわれは欲しています。」(傍点一引用者)と呼びかけた。
これらでわかるように,プロレタリア文化団体の機関誌は婦人の生活をリアル に発表させようとしていたのであり,これは生活記録の原初的なものだと言え
よう。
プロレタリア文学運動は,プロレタリア文学大衆化のために「記録文学」
「報告文学」「労農通信」をとりあげた。この三者の区別と関連について必ら
ずしも明確であったとはいいがたいが,蔵原惟人によれば「記録文学」「報告
文学」は,芸術的概活がされる文学以前の「個々の事件の正確なかつ迅速な記
録であり報告である。」そして,その機能は広範な大衆をプロレタリア作家に 導くために,革命的公式主義や観念主義におちいらないよう,最初に革命的な 現実を正確に記録をすることによって正しい現実認識を獲得させることにあっ た(3)。 「報告文学」 「記録文学」は,文学者になるための教育的機能を持つも のとして考えられた。それに対し,「労農通信」は,『戦旗』の生活記録に着
目して提案され,「闘争しつつあるプロレタリアートの手によって,工場,農 村その他のあらゆる闘争場面から,彼等の運動の状勢を広汎なる同志達の問に 報告するため」のもので,「文学を目的として書かれるものではないが,しか しそれは新たなる文学形式(即ち報告文学のこと一引用者)の萌芽状態を意味 するもの」とされた㈲。
したがって,文学運動からみた「報告文学」「記録文学」 「労農通信」は,
労働者,農民がプロレタリア作家になる教育的機能をもつものとして位置づけ られ,「労農通信」がその最も大衆的なもの,出発点,土台となるものであっ
た。
しかし,「労農通信」をプロレタリア文学運動以外からみれば,また異なっ た意味があった。 「労農通信」は,『第二無産者新聞』『無産青年』等でもと
りくまれた。これらの新聞は各地に読者からなる労農通信員を募集,組織し,
各地の運動の実情を彼等の通信によって掲載する運動をおこなった。この運動 は労農通信員運動とよばれ,「諸種の左翼新聞雑誌に所属し,自らを大衆の間 に置き,或は工場に,或は農村に,或は兵営に,或は学校の中にあって,大衆 自身の思想と気持の中に生活し諸種の具体的問題について大衆の利害を直接代 表し,それを事実の報告といふ形式に於てプロレタリア新聞雑誌に通信する広 汎な労働者,農民,兵士,学生通信員の運動」と定義された。この運動におい
て,労農通信員の任務は,(1)通信的任務,(2)煽動的任務,(3)組織的任務だとさ れた(5)。したがって,通信をするだけでなく,大衆を組織する任務があること になるが,それは,直接組織する面と通信といふ媒体を通じて組織する面にわ けられる。後者については,「私達が団結する為には,各職場の状勢が常に全
ママ ママ
国の労働者農民に鮮りして居る事が極く必要な事だと思ひます。」⑥との指摘に
あらわれていた。
以上,「報告文学」「記録文学」と労農通信員運動の性格を概括した。ここ には,まだ大衆的な教育運動の位置づけはみられないが,「労農通信」「報告 文学」の文学運動上の教育的機能は,農村雑記において大衆的な教育運動に転 化していく。この点について詳述する前に,プロレタリア文学運動自体から萌 芽が出ていたことにふれておこう。
1934年3月,日本プロレタリア作家同盟が主として弾圧によって解散したあ と,プロレタリア作家は同人的な雑誌に依拠して文学運動を継続した。そのひ とつに,徳永直・渡辺順三による『文学評論』 (ナウカ社)がある。1934年3 月号から創刊された『文学評論』は,同年11月号から投稿からなる「村の生 活・町の生活」を掲載しはじめた。これは,「プロレタリア文学の基礎ともい
ふべき『報告文学』の発表場所」であった。徳永によれば,報告文学とは「全 体的に概括する方法として数的・量的文学で論理的表現を加はへうる」もので
あり, 「対象物自体の芸術的概括的抽象(作りかへ)を加へずに表現するこ と」を特徴としているという。さらに徳永は,この報告文学と小説の間に「ス ケッチ」をおき,それを次のように定式化した。「rスケッチ』が『報告文学』
の異なるところは,より抽象の芸術的高さである。ここでは論理的数字的表現 がなくなり,はるかにもっと小説に接近しているのである。たとえば,ここで ある「村」について芸術的概括をするとする。一中略一即ち「村」全体をスケ
ッチで最も「村」的な,典型的なものを抽象する。一面からいえば,『スケッ チ』は『報告文学』よりもはるかに感性的形象の統一一を要求する。」それでは,
「スケッチ」と小説とのちがいはどこにあるのか。「『スケッチ』は多分に小説 的であるが,しかも対象物を『作りかへ』ないといふ点で,小説よりも抽象の 度合が低いと云へるのだ。そしてまた即現実を土台とするところにリアルなす ぐれた小説を描き出すところの技術的力と直観力の鋭さを養ふところにその意 義がある」と述べていた(7)。
徳永が定式化した報告文学,スケッチ,小説の区別の問題点を指摘するのは たやすい。報告文学を「芸術的概括的抽象(作りかえ)を加えず」と言うと,
それは文学でなくなりむしろ労農通信であり,戦旗が募集した生活記録であ
る。その点では「記録」であると言った蔵原の報告文学の性格づけを継承して
いるが,そこで報告文学に与えられていた教育的機能はスケッチに与えられて いる。ところで「スケッチ」は,対象の典型性を描くところにあるから,それ はむしろ現在のルポルタージュー報告文学に近いのである。したがって,徳永 が言うところの報告文学を労農通信ないし生活記録とし,「スケッチ」をルポ ルタージュとした方が区別が明確になることになる。 (徳永の定式化の積極性 は,単なる「正確かつ訊速な記録」とは別に,虚構を持ちこまずに現実を典型 化する努力に独自な位置を与えようとした点にある。)
徳永の定式化は,このような問題点を持っていた故に,寛清「r職場スケッ チ』欄について」(『文学評論』1936年6月号)が徳永の三分法を批判して,
「スケッチ」は「小説と並び立つところの立派な芸術文学であり,実在する諸
ご
事実の姿,及びその諸意義を創造的に伝達するが故に報告文学なのである」と のべたのも当然であった。そして,徳永が「村の生活・町の生活」を廃し,文 学的修業をおこなう「職場スケッチ」欄のみにしようとしたことに対し,それ への参加は作家志望者に限定されてしまうから,「大衆の間に社会的事象に対 する怠りなき観察と批判との習慣を養」い,「働く大衆の交歓の場所であり,
また相互に経験を交換する場所」として「村の生活・町の生活」を充実させる ことを主張し,五点の希望をのべた。
五点の希望とは次のものである。「第一,『職場スケッチ」という狭隆な名 称を捨ててもとのように『村の生活・町の生活』とし,第二,生活のあらゆる 諸面に関する,種々な文学様式を以てする記録を以て満し,第三,過度の文学 的要求や偏頗な文学教育方法に堕さず,第四,文学的意義以外に,何らかの意 味で重要と認められる生活記録は,その文学的価値如何にかかわらず,採用す
ること,そして,第五,本欄の重要性の故に,更に頁を拡大すること」であっ
た。
このような覧の主張には,次のような意味がある。すなわち,「報告文学」
「労農通信」の作家養成のための教育的機能は,現実を正しく科学的にとらえ
ることをプロレタリア作家となる前提条件としてもっていたが,この点が分離
されて作家志望にとどまらない人々の課題とされ,そのための方法として生活
を記録することが位置づけられようとしたのである。同時に,「労農通信」の
ひとつの特徴として考えられた通信を通じての人々の交流と団結も生活記録の 意義と考えられたのである。ここに,生活を記録するこζが文学運動の教育的 機能としてではなく,社会認識を獲i得するための教育活動と考えられるに至っ たのである。しかし,そのために生活の何をどのように記録するかまでは提起
されるに至らなかった。この点は,農村雑記で試みられる。
2.農村雑記の出発一プロレタリア文学運動の影響
農村雑記は,1930年10月から『信濃毎日新聞』学芸欄の投稿募集ではじまっ た。すでにその前から,『信毎」学芸欄は1930年1月15日付に炬燵i雑記を募集 していた。そのよびかけは,「炬燵かこんでの笑い話,いろり辺りの論戦,若 い衆がより合っての娯楽,冬籠りの農村には幾多の挿話が転っている筈,あり
e o o
のままの消息を書き込んで下さい。〔規定〕原稿用紙六枚以内。」(傍点一引用 者)とある。このよびかけは,炬燵雑記とあるように,公の場に出てこない炬 燵やいろりのまわりで話される日常的な出来事を,新聞ζいう社会的な場で公 表させ交流させようとした意図が読みとれる。その意味では農村雑記の原型は
ここにあらわれていた。
この炬燵雑記には,七編掲載され,そのあと労農体験録となる。これは,同 年5月12日付の原稿募集。○労働体験記録,○農民文芸にたいする希望,○青 年団の今日の役割(各原稿用紙10枚以内)のひとつであった。この労働体験記 録の意義について,同年5月21日付の学芸欄に次のような主張がのった。 (前 掲拙稿でも紹介したが,あらためてのせておく)(注)
(注)
「労働体験記録」募集を期待(生きた経済学を持込め) 淵東謙介
花々しい理論闘争もそれが正しい姿をとりあげて,それから遊離せず行われている
間はいいけれども,とかく従来の理論家は,自家の理論の正しきことを証明するにめ
に,現実の姿にはおかまいなしで,理論から理論と,都合のよい理論の遊戯にふける
という弊害がすくなくなかった。幸いにいくらか現実に忠実な理論家があったとして
も,自説に都倉のいい事実をのみとりあげて,これをみせびらかし,都合の悪い方は
ひた隠に押しかくそうとする態度のみられたのは甚だ遺憾であった。これらはえらそ
うな理論家という名にわざわひされた欠陥である。百の屍理届より,正しく掴み出さ
れた二め現実の妥がどれほど有難いか,一理論理論でかけ声のみやかましい きに
は,さうも考えられてくるのである。
△
それで考えさせられることだが理論の戦いで,あるいは推理の上で落ちついた「結 論」が正しいかどうか,生活行動の方針として誤りないかどうか,ということを調べ るには,つねに具体的事実の究明を怠ってはならない。云い換れば具体的事実から
「理論」を,そうして「理論」をつかみ出さなければならない。もしこういう方法を とらなければ,その理論や結論はとんでもないウソのかたまりでしかないであろう。
しかも多くの理論家が,いつまでたっても理論家で,実際はちっとも役に立たないの は,このわかりきった「事実をみる」ということに無関心であるからで,これはふか
くわれわれの遺憾としていたところである。
△
ところが,それについていい機会にめぐまれた。外でもない本欄に於いて,「労働 体験記録」を募集されるという発表をみたので,如上の意味合いから,これを喜ぶと ともに,この企てが好い収獲を納めるよう希うものである。吾々の体験を,ありのま まに描くかぎり,それ故われわれの真実の叫びである限り,その機会を通じて,いろ いろな注意されるべき具体的事実が持込まれるに違いないと思う。具体的事実を読者 のまえにつきつける,この記録は,さらにまた理論から来た結論の正しきや否やをつ
きとめるためにも新しい道を開拓してくれるであろうからである。
△
吾々の「労働体験記録」こそは生ける経済学生ける社会学であるべきだ。なぜな ら,日常の労働体験を通じてこそ,あらゆる資本主義社会の機構を覗くことができる からである。資本主義社会の本質は,労働する大衆のみが本質的に掴みうるところの
ものである。
申すまでもないが,この記録を作製するに真面して,これが単なる独りよがりの体 験記録を羅列するにとどまってはならない。生々した体験と,社会全般の観察を総合 して,今日の社会の真実の姿を描くよう努むべきであろう。個人の体験記録に陥るこ とは,ふかくいましむべきである。
△
農村より,工場より,商店よりいつわりのない生活記録をどしどし持込め。それら が一つに纒めあげられて,そしてそれから一一定の生活方針,行動の指針が生み出され だとき,それは絶対に誤りのない,正しき行動の理論であるにちがいない。
この主張は明快である。理論が空転することを克服する課題意識にたち,労
働体験記録生活記録をそれを克服する方法として考えている。生活記録の特
質は,ありのままに現実を書くことによる現実把握の方法であり,個人の体験
からぬけだして社会の真の姿(典型と言ってよいだろう)を描き出すことに求
められていた。そして,社会の本質をつかみ生活の方針,行動の指針をつかむ ことによって理論と現実,実践は結合されると考えていた。このような現実把 握の方法としての生活記録という位置づけは農村雑記にうけつがれる。 tt 農村雑記の意義を述べたものとして,原田今朝二「文芸時評」(6・)」(1931奪
2月27日付),沖圭一郎「7月の文芸雑感(3),(4),(5)」(1932年6月30 日付,7月1日,2日付)がある。原田,沖はプロレタリア文学運動の影響を うけながら位置づけを試みたものである。
原田は,報告文学は一種の労農通信であり,農村雑記はこれに属し,芸術大 衆化のためにあると次のように述べた。
(農村雑記は一引用者)農民自身の問題がなまなましく農民の立場から,簡単明瞭 に農民の言葉で書かれているということである。これは自然発生的な報告文学ともい われるべきものであろう。一中略一それは方々の村々から色んな人々によって報告さ れる種々な実際的出来事である。そのひとつひとつに読者は生きた農村の姿をみる。
これらの報告は,もちろん一定の正しい意識で科学的な観点から書かれたものばかり ではない。さまざまな意識と観点からの断片記事である。しかし,これらのすべてを つらぬいている赤い一・一・Wtは,現在の社会に対する農民の不平不満である。一申略一そ れらが農業恐慌のもとに喘ぐ農村の具体的事実と結びついている。一中略一農民を最 も熱情的ならしめる関心は,彼等と直接の利害を有するところの彼等の眼の前の出来 事彼等が直接ぶつかり解決しなければならない閾題に注がれる。そケして,それに対 する批判警戒糾弾反抗などを通してのみ,彼等の間の種々雑多な意識は統一され,高 められ,ある一定の歴史的方向へ組織される。一この新聞によってとりあげられる 自然発生的な報告文学=「農村雑記」もまた,かかる意味からその大部分の読者層で あるところの一般農民の関心をあふるのであろう。一中略一だからこの農村通信も村 々の経験の事実をありのままに取りあげ,或いは一般新聞が黙殺する問題を正しく取 りあげることによって,もろもろの社会的虚偽と悪の摘発者となり・被圧迫農民の防 禦者となり社会的不正の糾弾者となりうるであろう。」
この原田の指摘には,農村雑記をめぐる当時の状況がよくあらわれている。
それは,養i蚕・米作地帯であった長野県に典型的にあらわれた大恐慌と小作争 議のひんばつ,長野県連青の階級青年団論にあらわれた農村生活の破壊であっ
た。したがって,この時期の農村雑記には原田が指摘するように生活破壊の報 告,行政のおこなう救済事業の批判が目立つ。原田は,このような農村雑記を
プロレタリア文化運動の報告文学,労農通信にヒントを得て意味づけようとし
た。(原田は,日本プロレタリア作家同盟の同盟員であった。)すなわち,農 村雑記は,被抑圧農民によって書かれた実際的な出来事のありのままの報告で ある。それは,さしあたり自然発生的なものであるけれど,実際的な出来事を 批判的に書くことによって科学的な観点を獲i得し,「ある一定の歴史的な方向」
(原田の立場から考えて,土地解放,小作制度の廃止のようなことであろう。)
に組織されるものだと考えたのである。
沖は,農村雑記を自然発生的な農民文学と考え,立ちいって書く視点につい て述べた。 (沖の言う農民文学は,農本主義的,アナーキズム的それではなく て,プロレタリア文学のひとつとしてのそれである。)農村雑記には,「生活現 象の単なる記録的要素のみに終始するものと,生活現象の無批判的詠嘆的表現 によるもの」の二種類がある。前者は,「相互に深い関連を持った生活現象の 底に流れているところの本質を見究めること」をせねばならず,後者は,「事 物を具体的に把握すること物を批判的に見る眼を養うこと」が必要だと提言し
た。
さらに,沖は,三木清が「文学の真について一文芸時評」(r改造』1932年7 月号)で「客観的現実性」と「主体的真実性」との弁証法的統一によって「文 学の真」がなりたつと述べたことに賛意を表し,客観的問題との関係でおこる
「r主体的なもの』の動き,即ち彼の心理描写を軽視することは出来ない」と のべた。これと関連してであろう「現代の様に社会のあらゆる領域に於て状勢 の切迫した時代にあっては,ともすれば,自己を凝視することを失い勝ちであ る。自己を凝視すること一吾々の文学建設の道もそこから始まるのである。」
と述べた。この指摘は,客観的現実とぶつかって生じる主体の内面も書かなけ ればならないということであった。
沖は,事物を具体的に把握して記録すると共に,各々の断面を総合的に関連 をもったものとしてとらえ,その本質を見定めることと,客観的な現実との交 渉で生じる主体の内面を把握し書くことを提唱したわけである。
淵東,原田,沖に共通しているのは,生活を記録することによって,具体的 現実をとらえ,個々の現実を総合化することを通じて,現象の本質にせまる力
を養成しようという点にあった。沖は,それに加えて「主体的真実性」を描く
ことを加えた。しかし,原田は,芸術大衆化の点から,沖は,文学修業の点か ら,すなわち文学運動の教育的機能として農村雑記をとらえていた。
ところで,1932年5月15日付から応募作品選評が,一,二週間に一度の割で のるようになった。応募作品選評は文学修業を念頭におきながら,現実をリア ルにつかみ,その本質を見究めることを強調した。幾つか列挙してみよう。
「農村の疲弊困態を誰も一応述べたてる。そんなことは当節なにも取立てて珍しい 話ではなかろう。農村に生起した具体的事実を丁寧に取上げてし細に分析した上,そ の発生の根元をつき止め,矛盾を暴露する方法をとるならば,もっと読みごたえのあ るものが出来ないものではあるまい」 (1932年6月6日付)
「肥料を買えぬ貧しさを隠し立て天候や害虫ばかりを問題にする一部の農民の意識 を促えてきた着眼点を買う」 (同年6月20日付) 「御説御尤であるが,作者の思った 点を理届ではなく具体的事実を把えて述べてもらいたい」 (同年6月24日付)
「概して『堀下げる』意味を履違えて,現象だけを克明に描いて事足れりとしてい るが,現象の根元まで突込んで本体を探り出すのでなければ堀下げたとは言われな い。しかし,本欄の優秀な作家が労働する人々の人生を懸命に描こうとしている真面 目な人で占められてきたことは,大いにうれしい。」(同年7月4日付)
「農村の窮迫した実情を可成り描き出しているのはいいけれど,更に一歩進んでそ こからの活路を単なる主観ではなく客観的事実のうちから指示して貰いたかった。」
(同年7月11日付)
「『救農工事』は,営利会社の利益になるに過ぎない道路工事を,農繁期に然も田 を強制寄付させられて『救農工事』と銘打って起工されることを曝露したものだが,
市と営利会社との関係,農民の気持等がぼやけている為に生ぬるいものとなってい る。」(同年11月5日付)
「小作農の収入状態を自家の実際に徴して調べたのは有意義。こうした資料を出来 る限り正確にそれを自家だけでなく,なるべく区域や階層をひろめて調べてどしどし 送って欲しい。」(1933年2月16日付)
「救農工事のバラス掬ひの状態を数字をあげて克明に描き,愚直な人夫をだます仕 組みが成程とうなづける。」(同年5月18日付)
現実をリアルに把握し,その本質をつかまえることを強調したのは,解決の 方向を見出す為でもあった。また,その方法として統計的調査をすすめてい
る。調査方法について提案してないが,溝上正男「農村部落調査」 (1933年2
月21,22,23日付)を高く評価した。溝上は,調査の課題として農村の貧困状
態の解明をあげ,その為には階級的視点をもって封建的地主搾取と近代資本家
的搾取との二重の抑圧の下にあえいでいるという認識を持っておこなわれなけ ればならないとした。そして,自分の住む村と貧農の生活状態,資本主義の影 響を調査したのであった。選評はこれについて「克明に農村の経済状態を調査 したもので,作者の精進振りに敬意を表す」と肯定的に評価しており,このよ うな調査方法を支持していたことをうかがわせる。この他に生度奈衣「どうも 分らぬ『収支報告』」(1933年7月25日付)が掲載された。これは,谷二郎「春 蚕収支報告と農村の近況」 (同年7月17日付)の収支報告が厳密さに欠けてい る為,筆者のねらいと逆の効果をうんでいることを指摘したものであった。こ れを掲載したことは,統計調査の技術的厳密さも要求していたと言える。
参考の為に溝上正男「農村部落調査」をあげておく。(注)
(注)
我々は農村の貧因状態について,真に正確な内容の発表された事を見ない。農民が 非常に貧因して居ると言う事は理届ではなくして実際である。而るに屡々拝見した所 の農村貧困状態の調査なるもの多くは表面的な観察にて実際の農村の姿とは余程遠 い。何故であるか,世に知られた所の農村の経済状態はそれがほとんど農村外に有る 従って農村の苦情を実際に体験した事のない人達の調査発表になるが故でないだろう か。
従ってそれ等の人達の観察は農村一般についてであり,地主,中農,貧小作農の個 々についての実際はキワメテあいまいにされている。
そしてこの事が今日の農村を論ずるものの最大の欠点の一である。今日最も生活に 窮して居る所のものは農民一般ではなくして貧農,小作農の農村下層階級の大衆であ る。一中略一従ってこの事の認識なしの農村論は骨ぬきのものである。
×
では農村はどの様な状態にあるか又貧農地主との対立はどの様であるか,自分の住 む所の一部落について調査を試みる。調査は上伊那郡について行う。一申略一。
農村の現状は大体以上の如ぐだが特に貧農個人についての生活状態を見れば,次の 様だ。
〔一例〕▼水田耕作五反歩,内三反小作にて生産高十石,内三反歩小作料三石六斗 引いて六石四斗収入(百二円余)
▼養蚕桑園七反歩,産額繭六十貫の内小作桑園四反歩小作料二十八貫差引三十二貫 (百三十一円余)計二百三十三円余
以h収入に対して支出は水田,桑園施肥料金三十円,蚕種代金八円六十銭,計三十
八円余これはほんの主な支出だけだ。米は自家用だから計算に入れず,繭代百三十一
円から支出計三十八円差引いて九十三円しか残らない。これに農業労働資金十円位加
えて百三円位の収入だがこの中から一切の家計支出がされるのだ。
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先ず米も年収六石四斗では不足だから買わねばならず,公課,其他食糧品,日用品 一切の購入に百円や百五十円で足りよう筈もない。借金又借金だが此頃では其借金さ え出来ない有様だ。部落の調査表に記入された借金は一戸平均六百円二十六戸総額一 万五千六百だ(だが此中最も多額なのは自作農と地主だが珍しい統計だ)これは当部 落が非常な養蚕地だけに昨今の糸価下落の影響で特別に大打撃を食った事を物語るも のである。
かく苦境におち入った地主等は其の小作人への搾取強化により自己の苦しみをのが れ様とあせる。即ち小作料の値上げだ,小作人の無力につけ込んで土地の取上,新小 作料制定,そして新小作人の貸付けという風に。一中略一。かくて最後の負たんはい
つも貧小作農だ。そして其苦しみは次,三男婦女子の工場労働者化を促進する。
×
今当部落出身工場プロレタリアートの数を大正九年十年頃養蚕好況なり頃のそれに 比すると
大正十年頃 女工 五名,男労働者,二名,
昭和七年 女工 十一名,男労働者,七名
一中略一よってこれを経人数に於ける率別に見ると一中略一,当時(大正十年頃一引 用者)次,三男九名中,二名の労働者は約ご割強となり女子総数十二名中五名の労働 者は四割強となる他は自家農業に従事
昭和七年
▼次・三男総数 十五名 ▼女子総数(十五才以上独身の者)十四名 で男十五名中 労働者七名は約五割女子十四名中女工十一名は約八割弱である。
尚現今,次・三男十五名申労働者七名以外の者を見ると次の如し
自家農業に従う者三名(自作農),中等学校に在る者 二名,地主,自作農の俸)
兵役にある者 一名 徒弟的労働に従う者二名(小作,自小作)
又女子総数十四名中労働者(製糸女工)十一名以外の三名は自家農業に従事。これ に見る通り女子はほとんど皆女工に出て居る。而して貧農小作農にあっては女工の労 働賃金が経済の重要なるものである。ではその労働賃金はどうであるか年(一人の
額)
昭和二年 二百円 昭和六年 八十円
即ち昭和二年に比し六年は約六割の減少を示して居る。至も尚労働賃金未払の状態に
て昭和六年度に於ける未払被害者当部落女工十一名中四名に上って居る。一中略一そ
してこの事は亦農民が直接に資本家に対立せるを物語るものであってこれも又農村資
本主義化の一表現であると見られる。一一以下一略一。
全般的に選評は,貧農の立場から記録することを支持しており,自力更生や 農本主i義的志向を持つものに批判的であった。例えば,1933年2月16日付の選 評は「救農工事,自力更生,娯楽(思想善導の意味が含まれている)等を讃美 或は強調している作品には空想的要素が多くこの反対のものは比較的実際的な 材料を集めた作品であった」とのべ,自力更生,思想善導賛成のものに批判的 であった。また,同年2月27日付の選評は,春日峡水「農民自治会ゴについて
「老朽教員が頭の中で農村を救済しようとして作った自治会で,作者は人が好 いから共鳴して居るが,こんなことで救済出来るなら二宮尊徳翁以来農民は困
りはしまいに一。」と手きびしく批判した。したがって,農村雑記の評者は,
マルクス主義の影響を受けていたと言える。この点は,反マルキシストで自力 更生のため産業組合を推しょうし,中農上層に依拠しようとした主義の桐生悠 々と異なっていた。
以上,プロレタリア文学運動の影響から出発した農村雑記の第1期の性格を 述べてきたが,最後に「労農通信」の役割として指摘されていた人々を結びつ
ける役割を農村雑記に即して指摘したものにふれておこう。
それは,石川正夫(溝上正男)「泥だらけの手で書くおれたちの文学」(1933 年9月18日,19日付)である。石川正夫は,農村雑記に1941年まで投稿を続 け,短編小説にも度々応募し掲載された。石川は,この文章で短編小説に力点 をおきながらであるが次のようにのべた。「俺達は日常の生活の中で数かぎり ない切実な題材を現実に於て体験している。そうして丁度日記を書く様な気も ちでいつわりなく書きあげる」「俺は生活の刻々の記録をきざみあげる。」「俺 の書くものは皆んな現実の生きた事象である。」それ故に,「俺達の作品は俺達 の仲間に最も良く理解され,愛される。」のであり,「信毎の学芸らんから最近 のいくつかの作品を切りぬいて置き時々読んでみてみては,言うべからざる懐
しみを覚える。それはこの中には俺自身の生活が,其の感情が事象こそ異へあ
りありとうかがえるからである。」と言った。ここでのべられている人との結
びつきは,「労農通信」で言われた「団結」とはレベルがちがう共感的なもの
であるが,農村雑記のもつ性格を指摘したものであった。これが書かれた1933
年9月は,同年2月の2・4事件にみられるように長野県下の左翼運動が弾圧
をうけ,組織的な運動(組合や農民組合等の運動)が非常に困難になった時期 だっだから,現状変革の希望をもっていた青年達にとって合法性と公然性をも っていた農村雑記は,共感的なレベルであれ人と人との結びつきを持ち得る数 少ない場となりつつあった(8)。
選評は1933年9月11日付で中止され,農…村雑記も同年9月で中断した。ここ で第一期はおわる。第一期で確立された基本的性格一生活の事実を記録し,現 象の本質を把握しようとする努力,その為に調査的方法をとり入れたこと,そ
して記録を通じて人と人とを結びつけることは,その後にうけつがれた。
3. ファショ化に抗して
農村雑記は,1934年4月から再開された。1934年から1937年の時期は,どう いう時代だったろうか。
すでにのべたとおり1933年の2・4事件によって長野県の左翼運動は大打撃 をうけた。長野県連合青年団は,自主化運動の方向転換を余儀なくされ,1933 年6月の県連青代議員会で「国民的自覚の上に自主的使命の遂行を期す」と国 家の政策の枠内で活動をおこなうことを決め,翌年3月の町村青年代表者会議 では大日本連合青年団の方針を受け入れ,「一切の活動の基準を国民的自覚の 下に求むべきである」ことを決議するに至った。自力更生運動も本格化し,長 野県当局は青年に対し1934年から中堅青年講習会を開始し,村塾運動も開始し た。満州移民が具体化された。1937年日中戦争が開始されると,戦争遂行の目 的で国民精神総動員運動がはじまり,勤労奉仕などの銃後活動の強化,貯蓄奨 励,資源愛護など非常時経済政策の協力が叫ばれ,その組織化のため部落会,
町内会,部落常会の設置が県当局によってしょう励されはじめt3.。
『信毎』についてみれば,1933年8月に主筆桐生悠々の筆過事件がおこっ
た。桐生が8月11日付の評論「関東防空大演習を囁う」で,敵機を本土上空に
侵入させてはおしまいだから防空大演習をやるよりも,敵機を撃退することが
第一義だと合理的なことを書いたことに対し,軍部,在郷軍人会は総攻撃をお
こなった。『信毎』はこれに抗しきれず,同年12月桐生は退社した。このこと
は,軍部へのいかなる批判も許されなくなりつつあったことを示していた。
こうした事態がすすむなかで,『信毎』は自力更生運動の成功事例を連載 し,評論で日中戦争の開始や国民精神総動員運動を支持した。松本連隊が中国 に出兵すると,その記事をのせる為に,第一夕刊,第二夕刊をつくり戦地の報 道を大々的におこなった。しかし,信毎が国家の政策を全面的に宣伝するもの となったと考えるのは正しくない。評論でも,後述するように農民の生活に及 ぼす政策やナチス,青年団の官僚統制に批判的であった。特に学芸欄は,ファ ショ化への抵抗の姿勢を示し,三木清,戸坂潤等の文芸時評,論壇時評を掲載 した。特に諸戸富二(町田惣一一郎) 「人民戦線の問題」 (1936年9月11日付),
戸坂潤「ファショ化の過程」 (1937年1月3日付), 「ファシズムと倫理化活 動」 (同年1月4日付)は,ファシズムの危険性,日本ファシズムの性格を分 析し,反ファショ人民戦線運動の必要性を訴えたものだった。これらは,当 時,学芸欄を担当していた佐藤三治郎が依類したものであった。しかし,内務 省警保局は1937年12月人民戦線派の執筆を禁止,翌年3月には林要,戸坂潤,
宮本百合子等の執筆を見合わすように出版社に内示した。このため,ジャーナ リズムにおいてファシズムに反対する主張をすることは,極めてむずかしくな
った。
ところで,農村雑記をはじめた坂本令太郎は農村雑記を継続することで青年 に何を期待したのだろうか。それを示したのは,坂本が書いた1936年12月23日 付の「評論農村青年の無気力」である。「みすずかる信濃の里はひどい窮乏 だ」にはじまるこの評論は,青年そして青年団が「萎微退嬰」しているといわ れていることを指摘し,その理由を述べていた。(注)
(注)
「現在の青年の上に被せられている『沈滞』なる忌まわしい一言は,まずもって
『考えることを停止した』ことに原因しているのではないか。いくら働いても借金は
ふえるばかりなのは何故か。小作地を引き上げられる心配ばかりしていて,更生に専
心出来るか,と言う簡単なところから始まって,数字的には一一一・一向改善されていないが
精神的に更生していたと言われる現在県下農村の現実が何を語るものであるかと言う
位の疑いさへも起さないその『思考停止』それこそ非常時なのである。一中es−一目下
の急務はその打破にあろう。現実から眼を覆った更生運動なんと言う妙なものがあり
得る筈がないのだ。青年が更生運動に参画すると言うのは何もただ『隣保共助』だの
『共存同栄』だのということにワイワイ騒ぐことではなくて,まず現実を直視する。
その矛盾の斐除に努力することでなければならない。そのためには,今までの痴呆症 的放心状態を改めるために考えることを始めるべきだ。」
この評論は,「まことに『考へないこと』は日本精神の発揚にさへ支障を来 す虞があるのだ」で結ばれており,当時の言論抑圧を考慮しながら書かれてい る。それは,政府が戦時体制を浸透させるのに使った「非常時」を使いなが
ら,1933年の2・4事件以後,長野の青年(団)の思想が善導された一「精神 的更生」されたことが,実は青年の「思考停止」にあったのだと痛烈な皮肉を 言いながら,「非常時」の意味するところをちがったものとして欝っているこ
とにもあらわれている。言わんとすることは,日常の現実生活からきちんと問 題をとらえ,矛盾を解決することを青年に期待したものであった。この青年に 対する期待は,農村雑記を担当していた佐藤三治郎が, 「今の現状でいいと考
えていなかったもんですから,世の中を変えていくには,現実をよくみとかに ゃいかんと。そんなことから(農村雑記を)取りあげていこうと(9 」考えてい たことと同趣旨だった。したがって,この時期の農村雑記は,第…期でつくら れた性格を受けついでいた。
それでは,青年はこの期待にどう応えただろうか。投稿者は,第期から続 いて寄稿した人々の他に,あたらしい人々が加わった。農業青年だけでなく,
女工,小地主の息子,教師にひろがり,女性の投稿も目立つようになった。テ ーマは,自力更生運動,教化総動員,生活改善,消費節約への事実からの批判 が目立つが,その事実は生活の貧しさ,農業経営の困難さだけでなく,娯楽,
無尽,改良農具,次三男問題等生活,生産の多方面にわたるようになった。ま た,小地主の没落,青年の結婚問題も題材にされ,それらのなかでの村の封建 制の閤題が指摘されるようになった。幾つか代表的なものをあげてみよう。
生活改善一消費節約が,村の娯楽をうばっていくさまを描いた,偶選歌「振
舞iと酒」(1935年5月2日付),島田…夫「酒と農村」(1936年5月29日付)。自
力更生運動における農本主義的自給自足経済論を事実をもって批判したもの
に,松井誠「醤油寝込」(1937年4月8日付)。農民の文化享受の面から更生運
動を問題にした志村誠「村の文化調査」 (1936年10月6日付)がある。
養蚕からの転換として多角経営有蓄農業が推しょうされたが,市場確保のみ とおしのあまさで失敗したことを分析した,谷川守生「漬大根と牛」 (1936年 12月24日付),室数霞城「副業養兎」 (1937年3月12・13日付),山形徹郎「胡 露柿製造」 (1936年11月19・20日付)。生活難のなかで次三男の将来と生活を 問題にした石川正夫「若者の居ない村」 (1935年5月7日付),満州移民に行
くことを止めることの出来なかったことを青年の生活のなかから書いた島田一 夫「黄昏の藁工場」 (1936年3月13・14日付)がある。又教師として村から卒 業生をおくり出さぎるをえないことを慨嘆した東素子「卒業期」 (1937年3月
3日付)もある。石川正夫「若者の居ない村」をあげておく。(注)
(注)
石川正夫「若者の居ない村」
「若い者の居ない村」一一これがどんなに寂しいものである事か,さらでだにすさ び切った農村の灰色の生活の中に,ピチピチと若魚の躍る様な,情熱を感じられる青 年達が一日一日村を去ってゆく者が続く。
小さい時からの友人の利雄君が先日木曾の発電所工事の土方に出かけていった。
「ここの仕事が九月頃まであるそうだから,今年の夏場はナカノリさんの本場で過す ことにする」と言う便りをくれた。(ああ利雄君も又行ってしまった。そして広志君 も春一君も)私は,自分の親しい友人達が,次々に去って行くあとに淋しく彼等の姿 を見送りながら,益々味気ないものに落ちてゆく村の寂莫とした空気を感じるのであ る。
◆
現実的に考えて見ると,もう何のあてもない農村の生活である。
だが,私らの様に宿命的に,家,親,義理,そうしたものに縛られて身動きならな い長男であって見れば,たとえそれが我青春をみじめに泥に埋める生活であると知っ でも,そこにはかなりあきらめをもつ以外仕方がない。唯因襲的に僕の土地を耕し 「借金」どころではない食う事にのみ追いつめられた生活を余儀なくされている私は むしろ転々とした稼ぎの道を動いている次男三男の人達をうらやましく思うのだ。
しかし,それは長男として農村に縛りつけられた私がいだく利己的な考えである事 はたしかだ。生活のために転々,土方,日雇稼,山仕事等と所をかえ場をかえて働き 廻り,うるおいのない村を追い立てられて去って行く次男,三男の人達は,またこう して縛られている私の運命を,かえってうらやむかも知れない。して見れば,いずれ も若い私達にとって充される事あない現実なのだ。
◇
昔は,中流以上の農家の次男三男は,一定の年齢のくるまで自家で養蚕や百姓を手
伝い,そして三十歳近い年になれば,いくらかの土地と財産を分譲してもらって分家 を出すのが通例だった。
又貧農の子弟も農村にあって充分働くだけの余地もあった。だが,次弟に深まって 来た農業恐慌の嵐の中で,いまは中農自身も,其の中農としての残骸を大きな建物や 土地所有と言う形で持続しているにしろ,実質的には,其の土地も,ほとんどが借金 のカタに落ちた空手形であり一度び整理して見れば反って貧農の現実以上に転落する 様な有様である。
その中農の子弟に,いまは分家と言う様な事はほとんど夢でしかない。それ故にこ の次男三男の人達もいまはもう安々と自家に止まっている事は出来ないのだ。それ は,親も兄も自分も共倒れの結末に運ぶだけである事を,彼等もはっきり知っている
から。
◆
かくして彼等はもう自分らを消化する力のない農村を見捨てて去らねばならない。
すべてが封鎖され拒否された社会ではないか,しかも農村はこれらの人々を食わせる 力さえない,義務教育のおえるのを待って,裸一貫でたたき出すのだ。
「さあ今まで育ててやったからどこへどもいって生活しろ」と,だがそれはまだ良 い方で,「いままで育ててやったから,今度は恩返しをしろ」とでも言う様に,もう 彼等の稼ぎは其の親の生活の糧にならなければならないのだ。彼等の親は兄はそれら 次男三男の稼ぎを得てかろうじて生活が立って行く有様なのだ。
◆
では一体彼等次男三男の生活はどうなるのであろうか。
彼等が自分自身のことを考えた時,ほとんど気の狂う様な,焦燥あがき煩悶がある のは当然だった。
彼等はいつれかに自己の生き行く道を求めねばならなかった。そして私の友人の幾 人かも,海員に鉄道員に巡査に志望した者もあった。だがそれも無条件にかなえられ るものではなかった。勉強するには時間もいる,金もいる。だが彼等に与えられてい るのは唯働き得る体のみである。働く職をほしいのだ。それだけだ。
彼等が「今日」を働かねばならない。でなければ彼も,彼の親も二F乾しになってし まう。彼等は簡単にありつける仕事を求めて,土方に日雇稼ぎに人夫に山仕事に村を 去って行くのである。一中略一私は,去って行く友人の一人一入を見送りながら,一 人ほんとうに孤独に取り残される自分の姿を意識し,かくも残酷に我々をさいなむ何 者にか言い様のない憤葱を感じているめである。
結婚問題では,家族のために働かなければならないため晩婚になることを指 摘した石川正夫「結婚季節」,それを女子青年から書いた岩水京子「村娘の願
ひ」 (1936年10月8日付),結婚の封建性をついた谷川守生「聞きあわせ」
(1936年12月24日付)があった。岩水京子「村娘の願ひ」,谷川守生「聞きあ わせ」をのせておく。(注)
(注)
岩水京子「村娘の願い」
問題の退職金支給「労働婦人に凱歌」と云う三段抜きの大見出しの記事を読んだの は僅か十分余り許されるお昼休みの時でした。女子労働者に凱歌が上ったのは当然同 性として喜ぶべきことであります。だのに私の目頭は熱いものにおおわれるのでし た。何故?
小学校を卒業してもう七年余り,父母に許に田を作り蚕を飼い,どうまみれになっ て働いている私達は労働者ではないでしょうか,二重も三重もの抵当に入っている畑 と家と老いて行く父と母とを残して働きに出られないばかりに,青春もなく働き続け ているのです。年に一回は飼う蚕の売上げ金の大部分は借金の利息と肥料代とになり (払えるうちは好い方なのですだから)父のふところはいつもすっからかんなので
す。
このお蚕が上ったら晴着を一一着買って貰う一秘かに願っては見るものの,売tで 差引された父の手の金を見るときとても云い出せなく,唯黙って唾を呑み込むだけで
す。
×
十二月工場から帰って来る人達のモダンぶり,イキな柄の着物をシャンと着て「オ ィあの娘はとてもあかぬけたぞ,どことなくいいなあ」村の青年のささやきをもきか ないふりをして働くどすっくろい私達なんです。
積立金によって貰える嫁入り退職金ではありませうが全く羨ましい限りです。
やり散かしの貧農の娘と生れた私達は工場へも行けず,鼻紙一枚買うのにやっと位 のお小使を貰い,父のはらわたでも貰った程に思わねばならないのです。
×
五年十年「あの娘もトウが立ったと云うもんだ」と寄らばさわらば云い合わされる 迄働いてもお嫁に行くからとてどこに五円のお金が貰えましょう。一銭も取ることを 知らない者がと云われたらそれ迄です。寄食虫だと云われてもだまっているでしょ う。ボー縞の野良着に雪袴,汗だくになって働いています。殊に今年の秋蚕と云った ら,平でりの為に肥料はきかず,やけきった赤渋だらけのぐみの葉のやうに小さい桑 を朝から晩迄摘み続けどうにかしていい蚕を飼ひ上げやうと努力しいている私達貧農 の娘も,いつかは嫁になるのだと云ふことを考へてくれる人はないでせうか。
聞き合せ 谷川守生
昼飯に帰って来ると老母は見押れない中年の男としきりに何か話していた。妹のお
清が漬物小屋からそっと漬大根を握ったまま俺に耳打ちした。 「兼代さんの聞き合せ
の人だよ。兼代さんもじきに嫁殿になるずらよ」お清はさう言って羨望の眼で俺の顔
を伺った。兼代さんとお清とは同じ歳だ,従って兼代さんの縁談の話や聞き合せの話 などがお清にはたまらなく羨ましく感じるらしかった。
×
聞き合せと言ふ事は所謂結婚調査の事で,媒介者から適当な娘が何処々々にあると 言ふ話があると,娘を貰ふ家ではこの聞き合せに家内の者か或は近親者が数回に亘っ て行ふのである。勿論娘の家の方でも相手方の聞き合せは詳細に行はれる。
然し此の聞き合せは必ずしも正当に行はれるかと言うとさう決まらない事が多いの である。なぜかと言ふと,村に住む人々は長い間の内には金銭の貸借関係だとか境界 争い名誉職などに於ける怨恨など必ず有り勝ちである。聞き合せに来た人が運悪くこ の怨恨のある家に訊いたが最後,二代も三代もの昔の欠陥を並べ立てて攻撃するので ある。殊にそれが同じ年頃の娘や息子を持った者同志だったら尚更の事であろう。切 角の良縁もかうした事に依って不成立に終る事は農村に於いては珍らしいでは無い。
だから聞き合せに行く人も決して一軒ばかりでは安心出来ないので数軒乃至は十軒以 上も訊ねるのが普通だ。そして十軒訊ねて六七軒以上の家で賞める家なら良い方で,
悪く言ふ家が半分以上だったら駄目と言ふ事になるのだ。
×
俺は昼飯を食べ乍ら,お袋がたの兼代さんの聞き合せに来た人にどんな事を言って 帰したのか心配でならなかった。お清の言ふには,決してお母さまはその男に悪く言 って兼代さんの申傷などしないとの事だが,もし兼代さんの悪口でも言って兼さんの 家にでも知られたらそれこそどんなに憤慨するかも知れないと思った。そしてやがて お清の縁談の際の聞き合せや又俺の縁談にも必ず復讐される時が来る恐れがあると案
じた。
「なあ俺ア決して兼さんとこの家の事なんか悪く言やしねえだよ」と老母はその男 は帰してお勝手へ上って来た。
「その男はお仲人する人から兼さんの事を聞いて来た婿になる方の叔父とか言ふ事 だよ。なんでも俺ア家へ聞き合せにくる迄に六軒ばかり聞いて来たんだが,どこの家 でも娘の兼さんは悪く言はないがあの家の先祖の事でなア何処の家でも良く言はんだ よ,折角娘はいいのだけれど家の先代が良くないからと思案顔していたから,俺ア決 して先祖だって悪い病気や悪い血統がねえならお貰ひなしと言ったが,その叔父と言 ふ人は案外判らぬ人の様だったよ」とお袋は昼飯を始めながら言った。
「お母アさま,その男の人が何処の家でも兼代さんの先祖をけなした(悪口)と言 ふ事はどんな事だよ」と訊いた。
「その話は誰れでも言ひたがる事だが兼さんの先祖は元他国から来たんだ。多分三 河か遠州か越後だが,この土地ぢゃ直ぐれれ来り者だと言って嫌ふのだが何も悪い事
したちゃねえだよ,兼さんも俺ア清子も廿四だが早く縁談がまとまり度いものだ」と
老母はかう言って味噌汁を一口すすった。
農業恐慌は小地主の生活を動揺させたが,それを封建的小作慣行の強化での りきろうとしている姿をえがいた∴谷二郎「開墾地の一家」 (1935年12月16日 付),山形徹郎「野良上りの会話」(同年11月25,26日付)があり,また逆に小 地主の没落により村の中での小作と地主の関係が変ってきたことを指摘した作
品もあった。
以上のような,現実をえがきながらそれを批判的にみようとする姿勢のもの 以外に,日々の労働や生活を身辺雑記的に描いたものが少なからずあった。し かし,そのようなものを含めて当時の農村生活をうきぼりにするものになって いた。また,日中戦争の影響があらわれてきており,銃後活動出征兵士の家族 の援助活動等のとりくみもあらわれてきていた。例えば,美奈美生「銃後奉 仕」 (1938年1月22日付)は,出征兵士を出しながらも人手のある家にも援農 して,その家では援農の手前日庸取り稼ぎにいけなくなったという悩みを紹介 しながらも,みんなで協力したことに胸をあつくしたことを書いた作品であっ た。このような作品は次期で目立つようになる。
この時期,選評はおこなわれなかった。そのかわり,農村雑記にあらわれた テーマを評論がとりあげ,その問題点を為政者にむかって指摘している。例え ば,1936年1月14日付「評論・農村の生活改善」,「同年11月24日付「評論,農 村労働者の生活低下」がそれである。前者は,生活改善運動が,祭や正月に御 馳走をしないことにしたり,粗食をすすめたり,祝宴を遠慮したりようにして
いるが,それでは「農村の潤いは消され,干からびた砂漠めような味気ない 所」となってしまう。「生活改善の履き違いか6来る無用の苦楽的生活と,そ れから来る栄養不良と能率の低下を厳戒しなければならない」と指摘した。後 者は,小作農の賃労働者化と強制物納制度が復活していることを指摘し,自力 更生運動によって農村は改善されているという意見を批判した。また,1937年 7月14日付「評論,農村更生の一転換・満州分村の意義」,同年11月4fEI付
「評論,国策・満州農業移民」では,満州移民は農村の土地問題の解決の要求
に応えて生まれたかのようであるが,実際は「国防上」と「日本農村をそのま
ま満州へと社会的引越しを行なうという」政治的配慮が優先しており,早晩継
続不可能になるだろうと述べ,暗に満州分村よりも日本農村の土地問窺の解決
がおこなわれるべきと批判したものであった。このように,評論の幾つかが,
農村雑記に出された問題に示唆を与えようとしたことは,ここでとりあげた評 論がいずれも農村雑記に材料をとっていることから言える。当時,評論を主に 担当していたのは,農村雑記をはじめた坂本令太郎だったことが,そうしたこ とを可能にした要因だったとおもえる。これらの評論と戸坂等の反ファショの 主張をのせたこと,青年に現実をとらえ,その矛盾について考えることを期待
したことを考えれば,農村雑記の主催者は反ファショの抵抗の意図を持ってい たと言える。
この時期にあらたな試みがはじまった。それは,投稿者のグループが小県地 方や飯山地方にできたことである。このグループは,記者の今井博人が組織し はじめたもので,投稿者の多い地域にできていった。今井,佐藤は会合に参加 した。彼等は,このグループでひとつの傾向をつくることや政治上の議論はざ
け,作品について批評し合い,おたがいの見方を学ぶ場とした(10)。グル・・…プが
できたことは,新聞をつうじての交流が持っていた文章上だけでは理解できな いものや,長さの制限によって充分表現されえなかった事実や感情,思考を知 る機会をもったことを意味した。このグループは,第三期にうけつがれてい
く。