戦後社会教育実践史研究(その1)
一農村文化協会長野県支部『農村青年通信講座』の成立過程一
笹 川 孝 一・
1.課題の設定
働く国民がおこなう学習は,生活の危機を克服しよりよい生活をつくってゆ くために国民ひとりひとりがおこなっている実践に,その成立の根拠がある。
このことは学習の主体であるひとりひとりの国民が,そのことをどれだけ自覚 しているか否かにはかかわらない。したがって,働く国民の学習においては,
そのような実践の当面の要がどこにあり,その解決のための具体的手だてがど んなものであるかを自らの現実にそくしてとらえることが,学習の中心にすわ
らなければならない。
そのことは,もちろん,学習のすべての局面が直接的に現状分析にむけられ るべきことを意味するのではない。当面する実践の要の所在と手だてをつかむ ためには,その実践の土台となっている問題の一般的性格,歴史的経緯をあき らかにしなけれぽならない。また,それと同種の実践の歴史的展開や,その理 論についても知らなけれぽならない。しかし,このことはあくまでも,当面す
る実践の要の所在や解決のための手だてを認識するためにこそ必要なことなの である。そして,もしそれが無視されるならば,学習活動は実践の力とならな い教養主義におちいる。
また,実践の要をあきらかにしようと努めながらも,結果として,それをあ きらかにしえない学習活動の組織化もある。いわゆる啓蒙主義と身近か主義で
ある。
実践の要を諸個人がはっきりとらえることは,諸個人が自己のかかえている
実践的課題を,その特殊的条件をふくんで法則的にとらえることによって,は
じめて可能となる。そのためには,その諸個人のかかえている問題の一般的性 格と解決のための一般的過程について,これまでの学問の蓄積から学ぶことは 必要条件である。しかし,それは十分条件ではない。学問の蓄積による一般的 性格の分析,みとおしの提示にみちびかれながら,諸個人の生活がもつ特殊性 を分析する,そのような認識過程が学習活動の一環として組織化されなけれぽ ならない。学習活動の組織化が後者の条件を欠くとき啓蒙主義となる。そして,
前者の条件を欠くとき,身近か主義となる。
国民がそれをつうじて,民主主義者として育ってゆく,民主主義的な学習活 動の組織的展開としての民主主義的学習運動の歴史は,これらの教養主義,啓 蒙主義,身近か主義の不断の生起と,その克服の過程であったといってよい。
そして,これらが,どのように展開されてきたのかをあきらかにすることが,
民主主義な学習活動の歴史を研究する中心的課題とならねぽならない。
このことを,いま戦後の展開について考えてみると,一・般には次のように言 われている。すなわち,1940年代後半の学習運動は,一方で教養主義的弱さを
もち,他方で啓蒙主義的弱さをもっていた。1950年前後の政治反動のなかで,
この二つの弱さのためにこの時代の多くの学習運動は断絶を強いられた。その 再生は1950年代はじめのことであった。そして,それは「生活記録」を基軸と
し,身近かな生活現実への具体的反省を特徴としていた。しかし,この1950年 代の学習活動の組織化も,問題の一般的性格を示す学問の批判的摂取を軽視し
ていたため,生活現実を法則的にとらえる点で大きな弱点をもっていた。
こうした50年代の運動の弱さが,その後の展開のなかでいつ克服されたのか。
それについての一つの有力な見解は,1960年にはじまる信濃生産大学の実践に おいてであった,というものである。そして同大学の運営に直接携っていた藤 岡貞彦によれば「信濃生産大学は,宮原の青年教育再編論と玉井実践の遭遇に
ょって生まれた」のである。
いま,一応この藤岡の見解にしたがうとすれば,理論的系譜としての宮原誠 一の論の展開と,実践的系譜としての「玉井実践」の由来を吟味することが,
戦後の民主主義的学習運動の歴史的展開を考えるうえで,きわめて重要な課題
となる。
そのことをたどってゆくと,「玉井実践」は,1948年以来農村文化協会長野 県支部が展開してきた『農村青年通信講座』,農事研究会連絡懇談会,県内講 師陣の編成を柱とする学習運動の,1950年代後半における発展だという事実に つきあたる。また,信濃生産大学の理論的支柱となった宮原の「学習必要とそ の自覚化」論や「学習組織の三重構造」論は,ほかならぬこの「玉井実践」の 理論的表現であるという事実につきあたる。
したがって,1948年にはじまる,農文協の新しい活動とは一体どのようなも のであるのか,それはどのような経過のうえにたって成立したのか,さらに,
それは歴史のなかでどのような意味をもつのか,をあきらかにすることが,戦 後の学習運動史研究にとって,さけることのできない重要な課題となるのであ
る。この課題にひとつのこたえを出すこころみが,この論文の課題である。
結論を先にいえば,r農村青年通信講座』の創刊,農事研究会連絡懇談会の 組織化,県内講師陣の編成を軸としておこなわれた活動は,次のような学習活 動組織化の方法意識につらぬかれていた。①青年の生活を(i)農業生産と農家 の経営(ii)衣食住などの消費生活と生命の生産と再生産の基礎としての恋愛・
結婚・家族(iii)前二者と対応する社会的諸関係としての国や県・村などの政治
・経済その他ととらえ,それにみあった学習領域を設定していた。②それぞれ の学習領域について,より人間らしい生産と消費,そのための政治の実現とい
う立場から,日本資本主義の現段階をふまえて,実践的な課題を提起していた。
③教材づくりにさいして,長野県下の村々での具体的現実,具体的とりくみを 素材とし,従来の学問の蓄積をふまえながら,その村々の特殊な現実を一般性 において法則的にとらえ,そのことによって具体的な現実や実践の具体的発展 の方向・手段を示唆することにつとめた。④さらに青年たちが,自らの生活現 実やそれを改善するためにおこなっている意識的な実践を自ら総括・報告し,
それに対して他の青年たちや専門家たちが批評することを(i)グループでの読 書会,(ii)ブロック別,あるいは全県的懇談会(iii)講師の現地入りによる指導
という組織方針とむすびつけてすすめた。
この特質が形成されたのは,1946〜47年の2年余りの実践とその反省のうえ
にたってのことであった。その大すじは次のとおりである。
①青年文化会議メンバーによる講演において時代をふまえた農業や政治の問 題についての提起がありながらも,結果としては,戦後の農村青年の学習必要
に的確にはこたえない文学作品中心の読書会が中心であった時期(1946.2〜11)。
②そのような文学作品中心の傾向が反省され,「日本が当面する変革期」にみ あった政治・経済・農業問題の学習を重視する時期(1947.1〜10)。③そのう えにたって,村の問題への切りこみを重視する時期(1947.11〜 48.3.4)。
こうした過程を経て,さきにのべた特質をつくりあげたことによって,1947
〜48年に多くの民主主義的学習運動が後退ないし中断を強いられたなかで,こ の農文協の新しいとりくみは,長野県の農村青年の学習運動を質量ともに飛躍 させ,その後の長野県の農村青年の学習運動の土台をきつくことができた。
1959年春,122号をもって『講座』が廃刊されるまで,この活動はいわゆる農 文協グループの青年たちの学習を組織しただけでなく,長野県連合青年団(以 下「県連青」とする)の学習へのとりくみ,1960年よりはじまる信濃生産大学
にきわめて強い影響を与えた。それだけではない。農文協一→日本青年団協議 会(以下「日青協」とする),農文協一→県連青一→日青協ルートで,また,
農文協一→信濃生産大学一→全国農民大学運動というルートで,この農文協の とりくみは,全国的民主主義的学習運動にも大きな影響を与えた。この意味で,
農文協の新しい活動は,戦後の民主主義的学習運動の自覚的再出発のきわめて 重要な起点となったのである。
《註》これまで,長野農文協の活動についてのべた論文として,次のものがある。
①中島正美「長野県の生活記録運動」(日本社会教育学会編r小集団学習一日本の 社会教育第3集一』国土社,1958年)
②島田修一「長野県における読書運動」(同上r日本の読書運動一日本の社会教 育第7集一』東洋館,1962年)
③小林元一「生産大学の構造一信濃生産大学を中心に一」(宮原誠一編r農業の 近代化と青年の教育』農山漁村文化協会,1964年)
④ 藤岡貞彦「昭和30年代社会教育学習理論の展開と帰結(上)」(r東京大学教育学部 紀要』第10巻,1968年)
⑤笹川孝一「戦後社会教育学習理論の出発とr主体性論争』」(教育科学研究会青年期 教育部会『青年期教育研究』第5号,1976年)
⑥大田尭「教育文化運動の芽ばえ」(大田編『戦後日本教育史』岩波書店,1978年,第
1章第1節の三)
⑦ 大串隆吉「青年の学習運動一1950年代の経験から一」(r講座日本の学力』第14 巻 日本標準,1979年第皿部第5章)
このうち,①②は長野県における生活記録運動,読書会運動の源流として,④はい わゆる共同学習運動の源流として,③は信濃生産大学の前史として,長野農文協の活 動を位置づけている。⑤は,1945〜48年の学習運動とそれについての論議の後継者と して『通信講座』を位置づけている。⑥は,青年文化会議が支i援した地域文化運動の 一つとして三島庶民大学とともの農…文協を位置づけるとともに,1946〜50年の長野農 文協の活動,r通信講座』についてのべている。⑦は,50年代の農文協の組織した学習 を「共同学習」運動との関係で論じている。現在までのところ,1940年代については ⑥が,50年代については④⑦が相対的にはもっとも詳しい叙述である。
なお,論文ではないが,下伊那青年運動史刊行会r下伊那青年運動史』(国土社,1960 年)には,下伊那青年運動と農文協との関係についての記述がある。また,青木恵一 郎『長野県社会運動史改訂増補版』(巌南堂,1964年)p.452〜p.454,r長野県政史』
第3巻(長野県,1973年)p.300〜302にも,農文協についての記述がある。
2. 敗戦直後の農村青年の生活の危機・人格の危機と学習要求 (1)青年たちにとっての生活の危機・人格の危機
1945年8月15日,戦争は多くの被害をもたらして終わった。長野県出身の戦 死者は約五万人といわれている。空襲は,それほど多くはなかったが,上田そ
の他の都市が空襲の被害にあっている。また長野県の耕地が狭いことと,信濃 教育会の影響とによって,満蒙開拓団や満蒙開拓少年義勇軍には多くの青少年 たちが参加した。彼らは,厳しい自然環境のなかで開拓した土地を手ぱなした ばかりでなく,食糧もほとんどなく,帰国するまでにかなりの人々が命をおと す結果となった。さらに勤労動員や,父兄の召集による農業労働不足のため過 重な労働を強いられ,健康をそこなった青年たちも多かった。
このように,戦争は青年たちに直接生命の危険にかかわる多くの被害をもた
らした。しかし,戦争による青年たちの被害はこれらのことにとどまるもので
はなかった。戦争は,青年たちにとっての生活の直接的基盤である農業に大き
な打撃を与え,しかも,その打撃は敗戦後も続いたのである。米の増産技術の
研究普及や水田排水施設の整備,米の地主売価格と生産者売価格との二重価格
制の導入など,戦争は,農業にとっての部分的には前進的な面をもたらした。
しかし,それは決して農業生産力と農民生活の全体的な向上を意味するもので はなかった。むしろ「労働力の不足……農業施設の著しい荒廃……農業用資材,
とくに……肥料の不足も大きな駐路となって,ついには耕作放棄の傾向がみら れるに至り,農業生産は縮少再生産の一途をたどった」1)のである。これが,
戦争が農業にもたらしたことがらの基本であった。*
*戦争によって16〜20才の青壮年男子が減少し,それを16〜35才の女子と60才以上の 老人とが補わざるをえない状態が進行した。労働力とともに,多肥集約農業の大きな 柱であった化学肥料の配給の減り方はいちじるしく,「農業生産にとって決定的打撃」
となった。1938年を100としたぽあいの45年の指数は,窒素13,リソ酸5,カリ0・5 であった。
また徐々に入りはじめていた農業用機械の1942年を100としたぽあいの45年の指数 は,電動機57,内燃機関72,動力籾摺機86など,やはり大きく減少している。
この結果,農業生産力は1941年以後きわめて大きく落ちこんでいった。反あたり収 量で比較したぽあい,1941年を100とすると,1945年の指数は,米77,大麦81,小麦 75,さつまいも62,じゃがいも95,大豆78,大根58,にんじん89,なす75,キャベツ 56,であった。主殻において20%強の減少,疏菜においては50%近くの減少である。
さらに,1941年の作付統制令によって食糧作物以来の農産物の作付がおさえられ・
商業的農業の停滞を強いられた。これは商業的農業がとくにすすんでいた長野県では・
反収減少とともに,農家経営にとって大きな打撃であった。作付面積の推移をみれぽ,
1940年を100としたぽあい,45年に100をこえているものたまねぎ174,りんご126,
く・らいで,そのほかは,大根72,にんじん88,なす86,キャベツ78,白菜53,漬菜51,
桑57,こうぞ35,ぶどう91,なし78,など軒なみ大きく減っている。
こうした一連のことがらの結果として,耕地の放棄,山林への転換がすすんだ。政 府の開墾奨励にもかかわらず,1944年には,拡張面積401町歩に対して潰廃面積822町 歩,45年には529町歩の拡張に対して,1,219町歩の潰廃となった。
このような戦争による農業の被害は,敗戦後もにわかに解決しなかった。戦 地や軍需工場からの大量の復員によって,労働力不足は解消された。しかし,
農業資材不足は解決しなかった。*
*肥料は,46年は45年より多少回復したが,38年を100として窒素26,リソ酸11,
カリ21であり,早くからなくなっていたカリを除けぽ,44年水準にくらべてさえその 半分にもならなかった。肥料工場は軍需施設として空襲の目標とされ,多くが破壊さ れていたのである。
だから,食糧確保のために政府がもっとも力を入れた米の生産量でさえ,
1940年の85%にしか達しなかった。そのうえ,戦時よりもさらにきびしい米の 供出が農民の負担となった。農村は多くの復員人口をかかえたうえで,大きな 供出に応じなければならなかった。したがって,かなり多くの農家がヤミをや らなけれぼやっていけないか,全くの赤字経営の状態を強いられていたのであ
る。
戦争はまた,農村の消費生活をも極端に悪化させた。農家では食糧を生産し ていたので都市ほどひどい食糧難にはおちいらなかったが,戦争のための物資 動員計画のすすむなかで,着るものは毛製品,木綿製品がほとんど全く手に入 らず,保温性,吸湿性の悪い人絹,スフがほとんどとなった。また食生活でも,
魚介類や砂糖などが極端に不足した2)。
以上のような農業経営の危機,消費生活の低下が,敗戦後の青年にとっての 生活の危機の大きな問題であった。しかし,敗戦後の彼らにとっての最大の危 機のひとつは生きる目的を見失ったことであった。
勝つと信じていた戦争に敗れ,正しいと信じていた戦争が侵略戦争であった ことを知らされたことによるショック,これからどうなるのだろうという不安 は,当時の9割以上の国民に共通することがらであった。だが,そのショック の程度は階層や年令によって相当異なるものであった。いま,年令のことだけ にしぼっていえぽ,敗戦の時,20代半ぽ以上の年令にあり,農業経営の中心に いた人々は,「ショックをうけなかったといえばウソになるが,やれやれこれ でほっとした,という面も強かった」3)ようである。それにたいして,敗戦時 に20才前後の青年たちのショックはきわめて大きなものであった。
彼らの多くは昭和1ケタ生まれであり,彼らは戦争の中で育ってきた。仮り に1925(大正14)年生まれの青年を設定したばあい,彼が小学校入学の1931年 は,いわゆる満州事変の年であった。高等小学校に入学する37年には,いわゆ
る日華事変がおきている。青年学校に入る39年の翌々年の41年には太平洋戦争 がはじまっている。彼らは青年学校では毎日ゲートルをまき軍事教練をうけた。
そして42年青年学校卒業入隊志願,そして軍隊で敗戦をむかえたのである。だ
から,彼らの青春は戦争とともに,軍隊とともにあったのである。疑うことな
く青春のすべてを戦争に注ぎこんでいた彼らにとって,敗戦と,しかもそれが
侵略戦争一不正義の戦争だったという事実は,たえがたいものであった。
かわじ
下伊那郡川路村(現飯田市)の牧内正秋のばあい,関東軍としてソ満国境に 配属され,連絡のために行っていた南朝鮮で8・15をむかえた。彼は釜山で復 員業務に携わり,10月ごろ帰国した。武装解除のさい,きのうまで「陛下から
の賜りもの」とされていた軍刀などが,乱雑に扱われるさまに耐えがたさを感 じたという。そして,帰国後,ほとんどその年いっぱい家にこもりっきりであ った。敗戦という事実をどのように考えていいのか見当がつかず,自分がどう にもみじめでやりきれなかったからだという。連日報道される「真相はこうだ」
といった新聞記事や,ラジオ放送も,目にしたくない,耳にしたくないという 状態だったという%
あさ
かゐみのお
また上水内郡朝陽村の村松武次郎のばあい15才で満蒙開拓少年義勇軍に志願 し,満州で8月15日をむかえた。曲折ののち10月ごろ帰国したが,それから翌 年の7月ごろまで,何をしたらいいのかわからないボンヤリした状態が続いた
という5)。
当時,村々に入って青年たちと話しあった知識人たちも,ほぼ一様に,戦争 に行った青年たちの「喪失の苦悶」を報告している6)。上のような状態は,け っして,牧内や村松のばあいの特例ではないといえよう。
(2)青年たちにとっての実践的必要,学習必要,学習要求
このような敗戦直後の農村にとっての実践的な必要は,まず彼らの生活の物
質的基盤である農業生産と農家経営を再建すること,そして消費生活を具体的
に向上させることにあった。そして,それを大きくすすめるためには,彼らの
生活を物質的にも精神的にも大きく傷つけた戦争そのものをひきおこした原因
を,徹底してとりのぞくことが不可欠であった。それは,たんに過去のことに
たいする復讐という意味だけでなく,戦争は終わったが,戦争をひきおこした
その原因はまだ残っており,それが農業生産や経営の再建,消費生活の向上を
はぽんでいたからであった。経済的には,農民たちを侵略戦争にかりたてた根
本原因である半封建的土地所有を解体し,農民からの収奪のうえに独占資本に
投資をする経済体制に終止符をうつこと。政治的には,国民主権をうちたて,
青年たちが自らの生きる権利を実現してゆく過程で行政機関を民主化し,村々 におけるボス支配をうちやぶること。また,法制度としての家族制度と,家父 長制的モラルを打破し,自由で平等な人間関係をうちたててゆくこと。これら の政治的経済的課題と,さきの農業生産,農家経営,消費生活の直接的向上の 課題とを統一的にすすめること。しかも,個別的な各自の家や村の課題へのと りくみを,郡,県,国のとりくみの中に位置づけておこなうこと。ここに,敗 戦直後の農村青年にとっての実践的な課題があった。
生きる目的の喪失という人格上の危機は,こうした客観的に必要な実践的課 題を自らにとっての必要として認識することができず,そのために,客観的に 必要な実践の自覚的主体になれないことの意識への反映であった。だから,こ
うした実践的課題の性格と,その解決の方向,手段を,自らの村や家,生活史 にそくして認識し,その認識にもとついて実践し,総括し,さらに実践を発展 させる,というサイクルのなかでのみ,彼らにとっての人格の危機の克服は可 能となるものであった。そして,彼らにとっての学習の必要とは,彼ら自身の 実践上の当面の要がどこにあり,それはどのようになりたっているかを,認識 しうる一連の認識の内容であった。それは,その課題についての世界と日本と 県,郡,村でのあらわれととりくみの現状と,彼ら自身の家や村でのあらわれ
ととりくみの現状とのつきあわせを,これまでの学問の蓄積をふまえておこな うことそのものであった。
敗戦後間もない時期に,こうした学習必要を自らの意識に自覚的に反映させ ま しま ようとしていた青年たちも,少数ながらいた。たとえぽ更級郡真島村(現長野市)
の小山英雄のばあい,戦争中東芝の川崎工場で働き,そこで,先輩からひそか に河上肇のr第二貧乏物語』を手わたされ,社会問題にめざめた。敗戦後まも なく,同工場にいた春日正一らの共産主義者グループと接し,45年11月に,共 産主義的な青年組織をつくろうという構想をもって故郷の真島村にかえり,そ
こでただちに「真島村民主化同盟」を組織,村政民主化の実践と学習とにとり くみはじめた。
しかし,小山のような青年たちは,ごくわずかであった。圧倒的多数の青年
は,放心状態かやけくそになっていて,学習したいなどとは思わなかったのが
実情のようである。しかし,そうしたなかからも,まじめなおとなたちの実践 や発言から示唆をうけ「自分は何も知らないのだ」ということを強く自覚し,
「とにかく学ばなければ」「学びたい」と思う青年たちが,だんだんとあらわ れてきた。
たとえば,先にふれた牧内正秋のぼあいは次のようであった。45年暮れに家 の遣いで近所の家へ行ったところ,たまたまその家に喬木村の小学校教師であ
り歴史学者でもあり,すでに45年10月21日の下伊那人民党結成に参加していた 平沢清人が来ていた。平沢から「天皇も大きな大きな地主なんだ」と聞かされ
て「脳天をガーンとやられた」ような気がし,「学ぽなけれぽ」と強く思った という。そして46年になると農民組合青年部に積極的に入って土地改革のため に活動しつつ,あちこちの講演会に行ったりしながら村で学習グループをつく
ったQ
しもみのち
また,下水内郡太田村(現飯山市)の水野良二のぼあいは次のようであった。
水野は応召し,九十九里に行っていたが,自分の属する隊に中隊長として臼井 吉見がいた。そして45年に入って間もないころ,臼井が「この戦争は終わる」
ということを訓示のなかで言った。そのときは,妙なことを言うぐらいに思っ ていたが,敗戦後そのことを思い出し,臼井が先を見とおせたは学問をしてい たからではないか,学ぽなければ,と46年春に,青年団に読書会をつくった7)。
同じ太田村の高橋勇士のばあいも軍隊内にいた大学卒の兵隊が「日本は負け る」と言っていたのを後に思いだして学ばなければ,と強く自覚したという8)。
いさ わふたみ
さらに,小県郡浦里村(現上田市)の井沢二三のぼあいは次のようであった。
戦争中,疎開工場に働きに来ていた東大の学生が「日本は負ける」と言ってい るのを聞いて,井沢は「非国民だ」と思った。しかし,水野や高橋のばあいと 同じように,敗戦後,そのことを思いだし,見とおしをもつためには学ばなけ ればと思い,青年団内の学習グループに積極的に参加したという9)。
1946年前半に,このような青年たちを中心とした学習グループが,長野県各 地にだんだんとつくられていったのである。
《註》
1)長野県農地改革史編纂委員会監修r長野県における農地改革』信濃毎日新聞社,
1949年,p.59〜p.60
2)藤原彰編『戦争と民衆』三省堂,1975年,p. 189〜p.193 くましろ
3)下伊那郡神稲村で,1944年より農事研究会,たにし会をつくっていた唐沢弥平から の聞きとりによる。唐沢は,敗戦時33才であった。
4)牧内正秋からの筆者のききとりによる。
5)村松武次郎からのききとりによる。
6)たとえぽ,石島泰下信州農村巡回記」は,「唯,動きの強弱,意欲の有無に拘らず,
そのすべてに認めざるを得ないのは喪失の苦悶である」と記している。(r大学新聞』
1946年4月11日)0
6)小山英雄からの筆者のききとりによる。
7)水野良二からの筆者のききとりによる。
8)高橋勇二からの筆者のききとりによる。
9)井沢二三からの筆者からのききとりによる。
3.初期農文協のとりくみ
(1) 八木林二の農文協入りと八木の考え (イ)八木林二の農文協入り
1946年2月,八木林二が農村文化協会長野県支部(以下,たんに「農…文協」
とする)の主事となった1)。戦後の農文協の農村青年にたいする本格的な働き かけはここからはじまる。この八木の農文協入りは,それまでの農文協がもっ ていた①農民的側面と②国策追随・戦争協力的側面の二つの側面のうちの前者 が地主制の解体を射程に入れ,資本主義的農業そのものの止揚をも視野に入れ て展開してゆく,そのきっかけとなるものであった。
*長野農文協は,社団法人農山漁村文化協会の長野県支部として,1940年4月に発 足した。その本部は,産業組合中央会のr家の光』普及係長であった古瀬伝蔵が農山 漁村に対する啓蒙宣伝を一・元化するための組織として,有馬頼寧,千石興太郎らの協 賛を得て,1940年3月に設立したものであった。
この戦時文協の組織した活動の性格は,全体として産業組合,農業会内のリベラル 派の性格と対応していた。それは,1944年7月に制定された「農村文化運動綱領」に
よくあらわれている。
農村文化運動綱領
一 土に働くものに課せられた貴い使命を自覚し,その誇りと喜びと希望に生きよ
う。
二消費的な享受を願はず,生産し創造し建設する逞しい意欲を持ちつづけよう。
三 働くことの中に味はひを見出すと共に,どうしたら楽しく効果的に働くことが できるかを絶えず考へ工夫しよう。
四 新しい科学的な方法を進んで取り入れると同時に古い経験を貴び生かし,篤農 家の知恵と実践とに学ぶことを怠るまい。
五 簡素明朗で正しく健かな生活を営むやう心がけよう。
六 絶えず澄潮とはずみを養ふために,心身に正しい糧を供結するやうに努あよう。
七一人でもこつこつ働くと共に,相i携へ力を合はせて働く心構へと組織とを持と う。
八逞しい意欲と大いなる夢をもって,理想の郷土としての皇国農村を建設して行
かう。
ここには,あきらかに,相対立する二つの側面を見ることができる。ひとつは,
「篤農家の智恵と実践に学」びつつ,「新しい科学的な方法を進んで取り入れ」,「ど うしたら楽しく効果的に働くことができるかを絶えず考え工夫し」,「力を合わせて働 く」,「生産し,創造し,建設する逞しい意欲を持」った農民像が,えがかれているこ とである。これは,生産についての積極的な工夫をすることなく,ただ惰性で農業を 続けている農民とは異なる像である。もうひとつは「皇国農村を建設」するために
「消費的な享受を願はず」「土に働くものに課せられた貴い使命……に生きる」とい う,自己の欲望をおさえて,国策にすすんで協力する農民像がえがかれていることで ある。そして,全体としていえぽ,後者の範囲のなかで最大限前老を追求するのが戦 中農文協のえがいた農民像の基本性格であった。
そのことは,記録されている具体的な活動にもあらわれている。一方で「土地改 良」「耕地の交換分合」「共同の力で防げ病虫害」や「速成堆肥」「肥料の施し方」な ど,農業生産力向上についての紙芝居やスライドが積極的につくられ普及されている。
その反面,「貯蓄責任体制」「欲しがりません勝つまでは」など,消費抑制や国家への 資金供出を促すもの,「村は土から」「国の幸」など「働きぬこう働いて」「さあさ働 け……鍬仕事」と労働強化を要求するものも多く,むしろ後者が主流だった。そして,
前者のぽあいも生産力のいっそうの解放のために地主制の解体までをめざすものでは,
けっしてなかった。
戦時中の長野県支部の組織や活動について,詳しいことはまだわかっていない。八 木が前任者からのインタビューにもとついて「演劇・映画・紙芝居などの芸能活動を 主とし,農家一般を対象に農村をくまなく巡回,終戦におよぶ」と書き残している。
また農文協本部の記録には,次のものが本部からの人の派遣によって長野県支部でひ らかれたとされている。
1942年4月……劇団移動公演10ヵ所
1943年7月……食糧増産感謝激励芸能指導者養成講習会
1943年10月……劇団移動公演
1943年12月……劇団移動公演6ヵ所
1943年(何月かは不明)……産業報国推進隊歌「土の戦土」農村婦人の歌「里の おみな」講習会
1944年10月……劇団移動公演25ヵ所 (何月かは不明)……草野薬草講習会 1945年……移動映写隊巡回16回
長野県の文化的風土と疎開文化人が数多くいた(農文協関係者だけでも,岸田国土,
阿木翁助らがいた)ことを考えると,長野県支部の独自のとりくみの可能性も予想さ れるが,以上の記録から考えるかぎり,本部の巡回班を招いての講習会,演劇公演が 主であり,その活動の性格も,本部のものと大差ないと考えてよいであろう(以上 の記述は,財団法人長野県農村文化協会『農文協25年抄史』,加藤敏一r農文協史前 史』,r社団法人農山漁村文化協会三十五年史』による)。
この八木の農文協入りのきっかけは,県農業会々長であり農文協支部長でも あった米倉龍也と八木との出会いにあった。
1915年生まれの八木は,東京帝国大学美術研究室出身で,中学の教師を経て,
三菱重工の社員となった。彼は二度目の召集で,陸軍中尉として姫路の師団指 令部に配属された。1945年春,大本営の松代移転計画実施のため長野に来,人 や物資の徴発係として県農業会との接渉にあたった。そして,そのときの接渉
の相手として,米倉と出会った。八木は米倉と「兵隊としてつきあっていて,
えらい人がいるもんだなあと思」い,敗戦後,米倉の誘いをうけて農文協入り をする。しかし,敗戦後,八木が農村文化運動をやろうと考えたのには,もう ひとつの要因があった。それは将校としての戦争体験と,敗戦とをくぐった彼 の内面のなかにあった。
彼は一度目の召集のさい,中国大陸へ派遣され,将校として戦闘の指揮をお こなった。そしてそこでたくさんの農村出身の兵士を殺した3)。彼は敗戦後そ のことに強く罪の意識を感じた。また日本を悲惨な状態としたことには,将校 として師団指令部にいた自分にも責住の一端があると感じた。そして,敗れた 国を再建するには,軍隊でその存在を知った,すぐれた農村青年を再建の担い 手として育ててゆく必要があると考えた。
「オレが長野ではじめたの,ひとつには贈罪的な意味があったんだな。も
う一回,新規まきなおしという形を,おれたちもつくりださなきゃいかんと
いう気もちが非常にあったからな。ひとりひとりがしっかりした人間をつく ってゆくことが大釘だろうと……。
軍隊にいたときに接触した農村出の兵隊は,きわめて優秀だった。大学も 出ない,中学も出ない人間で,こんな優秀な人間が農村にいるっていうこと を,まず実際に知ったわけだよ。……山崎なんていう新潟の兵隊なんてな,
オヤジがいなくてさ,妹とオフクロに,どこの田んぼにどうしろとか,みん な軍隊から指示したんだ。……大砲の射手としても,距離を修正して三発め にあてるんだ的確に。命令伝えるったってそういうやつの方が確実に伝わる んだ。知識もあるか知らんけど,記憶力からいったって,人間の誠実さから いったって,ほんとに能力のあるやつがいたよ。おれにはそれがいちばん大 きかったな。今度負けた国をなんとかするには,ああいう人間が再建の担い 手になるように育てていくのがいちぽんだと思ったよ。」4)
おそらく何かの折りに,八木はこの思いを「兵隊としてつきあっていて,え らい人がいるもんだと思った」米倉にたいして伝えたのであろう。そして,お そらく,本格的な農村文化運動をおこなう必要があると考えていた米倉が,農 文協に一定の資金があるからやらないか,と八木を誘ったのであろう。「米倉 さんが農文協の支部にそういうあれ(資金? 笹川)があるから,とりあえ ずそれを使ってやったらどうかということで,文化厚生課に机一つおかしても
らってはじめたわけだ」5)というのが,八木の回想である。
(ロ)八木の構想
米倉は,農文協の運営をまったく自由に八木にまかせていた。だから,戦後 の農文協の活動内容は,戦中のそれとは直接的なつながりなしに,八木の考え で出発したといってよい。はじめの段階で,八木は活動についてのどのような 具体的考えをもっていたのか。
「おれは長野知らなかったけれど,こっちへ来てみての感じと,ぼくが小 学校2年の時まで松本にいて,大阪へ行ったときの感じからして,とにかく 長野ってところは,非常に本を読むのが好きだという印象はあったな……。
だから,本を読むということをまずやればね,そのことが文化なんだ……な
んか栄養をつけるのに役立つだろうと。読書会みたいなものを通じていけば,
(村にいるすぐれた素質をもった青年たちが)だんだん育っていくんだろう と……o」6)
このように八木は回想している。しかし,この回想をもって,八木の考えが 全くの教養主義であった,生活と文化とのつながりを度外視していた,と断定 することはできない。というのは,八木が戦中から「生活」「実践」というも
のに強い関心をもっていたからである。
八木は,1934年,19才の時に書いた文章のなかで,次のようにのべている。
「人は自らが活動するときにのみ,全人間としての存在の姿を見,活動する時 にのみ,始めて『美』を侃帯し得る……。この積極性の状態からのみ,人は現 実性を把握し,自分をそこまで透徹せしめることが出来る。ここには……一っ の『実践』としての意味がある。」ここには「活動」「実践」の認識論上の意味 への注目がある。そして「意識は対象を志向し,対象は意識によって志向され
る」という「対象」への注目がある7)。また,1937年には,癌の宣告を受けた 母を抱えての一年の間について「生活の上でも勿論重圧であったが……,従来 よりは一層r生活』と現実に四つに組むで来たことが様々の新しい収穫を与へ てくれたのだと自信深く思ふ」と,「『生活』と現実に四つに組む」ことに強い 関心を示していた8)。
このことを考えるならば,出発点での八木は,生活と文化との関係に無関心
であったとは断定できない。むしろ「生活」と文化の関係に強い関心はもちな
がらも,その「生活」の内容が父を早くなくして苦労したとはいえ,高校教授
の子,帝大卒,陸軍大尉という経歴をもつ八木自身の生活の域を出ず,農民の
生活を具体的につかんではいなかったのであろう。そのために結果として教養
主義的色彩をもっていたのだろう。そのことは,八木が最初におこなった仕事
が,岩波図書と『農業朝日』のあっせんであったことにもあらわれている。岩
波茂雄が長野県出身であり,八木が朝日新聞社の政治部長と知りあいであった
ことなど,両者とも縁故関係による側面をもっていたが,同時に,良書=岩波
図書,農村の生活とむすびつく本=r農業朝日』という考えが八木の頭のなか
にうかんだと思われる。
(2) 農村青年文化講座一青年文化会議との出会い一
(イ)青年文化会議の発足
生活についての関心はもっているが,農村青年の生活を具体的にとらえてい ないために,結果として教養主義的色彩をもっていた八木にたいして,村の青 年たちにとっての生活上の必要と学習上の必要を的確に示したのは,青年文化 会議の人々であった。
当時の『大学新聞』編集部が組織者となって,東大の若手研究者を中心とす る「青年文化会議」が発足したのは,八木が農文協に入ったのと同じ1946年2 月のことであった。「宣言」は次のようにのべている。
t=fコ −IEI一