生成期国民教育論における
「学力・能力」と「人格」の位相
佐藤 隆
はじめに 国民教育論と戦後「学力」論争
戦後の教育史をふりかえるとき,多くの先行研究は1958年の学習指導要領の 改訂,および1961年の全国一斉学力テストの実施を画期として,能力主義的な 教育政策が展開されたと記述する。事実,1960年代初頭に相次いで出された政 府の政策文書は,日本の経済成長と人的能力開発の教育を直接に結びつけるこ
とになんのためらいもなく,その必要性と正当性をあからさまに表明してい た。たとえば,文部省は,第1回目の教育白書r日本の成長と教育一教育の 展開と経済の発達』(1962年11月)のなかで60年代教育政策の基本思想を次のよ
うに表明している。「教育によって個人のもついろいろな姿のすぐれた能力を 高度に開発し活用するとともに,能力に恵まれない者に対してもそれぞれの限 度において,あまねくこれを開発することは,教育投資の配分を考える際の基 本的な態度でなければならない」。
こうした政策動向に対して,日本教職員組合(日教組)や民間教育研究諸団 体は,「能力・適性に応じた教育」に名をかりた差別・選別の教育であるとし
てこれに対する批判を強めた。日教組などはこれと並行して「教育課程の自主 編成」をはじめとする教育内容研究を推進することを通じて国民の教育要求を 教育実践に反映させていこうとする努力をかさねた。50年代半ば以降の教育運 動を国民教育運動として総括する際に,こうした事実を抜きに考えることはで
きない。
しかし,同時に重要なのは「国民の教育要求に応える国民教育の創造を」め ざす実践と運動の論理は,能力主義的教育政策とのある種の「親和性」を有し
ていなかったか,ということである。言いかえれば,国民教育論内部において 主張された,多くの国民の支持と同意をとりつける上で最も有力であると判断 された学力論は,同時に体制側が主張し,準備した教育制度,教育政策に取り 込まれる危険性をはらまざるをえなかったのではないかω。
1950年代初頭から半ばにかけて主要には「教育の逆コース」〔2)を契機にして 生成されていった国民教育論において,その限りでは「平和・民主主義」とい
ったいわば政治的カテゴリーに属する課題を教育実践固有の課題に取り込もう とする努力と学力論とがどのように結合,あるいはかい離していたのかをあき らかにすることによって,当時の国民教育論の構造をあきらかにできると考え
る。
そのための手続きとして,1950年代前半の学力論争を国民教育論と関連づけ ながら再検討を行うというのが本稿の主題である。
具体的には,50年代初頭の学力低下論争に対して,のちの国民教育運動を実 質的に担う主体となった日教組をはじめとする民間教育研究運動の国民教育論 に大きな影響を与えたとみられる,マルクス主義教育学研究を代表する論者の ひとりである国分一太郎(3)の教育観をあきらかにしながら,その根底に流れる 学力観・人間観を探ることとする。またこれに関わる限りにおいてこの時期を 申心とした学力論争の主要な議論を紹介し,国民教育運動内部において学力に 関するイメージがどのように形成されつつあったのかという点にも言及するこ
ととする。
1 1950年代初頭の学力低下論争と国民教育論
学力問題が社会問題として登場したのは,「学力の問題が論議され出したの は,昭和24年頃からである。その発端は学力低下ということであった」(4)とい
う指摘に見られるとおり,子どもの基礎学力の低下問題としてはじまった。
「最近の子どもは集会をうまく運営し,さまざまな場で自分の意見を率直に 発表できるようになった反面,漢字の読み書きや計算の学力が落ち,県庁所在 地や歴史上の重要人物などという常識にかけるという批判」〔5〕が教育関係者の
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みならず,父母・国民から出されるようになった,というのがその実体であっ たとみてよかろう。
こうした「自然発生」的な学力低下に関する疑問や批判に対して,日本教育 学会,国立教育研究所,日教組などは各々独自の調査を行い(6},その原因の究
明にあたった。いずれの調査の結果も,「学力の低下」を認めていた。
この時期,教育研究の体制をようやく整えつつあった日教組は「程度の低い 問題解決さえできぬ程,基礎学力が低下していることは,体系を無視した従来 の学習指導にその原因がある」〔7}としてコア・カリキュラム論などの新教育批 判を行った。このような学力低下を「新教育」批判と結びつける教育をたえず 主導したのは矢川徳光や国分一太郎などをはじめとする日本民主主義教育協会
(民教協)やのちの『教師の友』に結集するマルクス主義を教育研究・実践・
運動の基礎にしようとした研究者・実践家の一群であった〔8)。
一方,日本教育学会は,学力調査の方法や学力をどうとらえるかについて,
慎重な検討を促したが(9),一連の調査結果に反省をもたらすほどの影響をもち 得なかったし,批判の矢面にたたされた新教育論者からの反論1°}にもかかわら ず,「読み書き算の学力の習得こそ学校に期待すべきだという父母の考えを改
めさせるほどの説得力をもった学力論の構築はむずかしかった」(i1)のである。
ともあれ民教協は,はやくから「新教育」の花形といわれた社会科にたいし て,その「心理主義的」な傾向と無国籍性を批判し,社会科を社会発展の法則 を認識させる教科として再出発させること,「真に実質的な民主主義的な社会 生活を建設し,実践していくところの正しい態度と能力を養うこと」(r社会科教 育に関する討論報告』48年4月)を目標とする教育実践のあり方を追求していた。
民教協事務局長でもあった国分一太郎も,社会科教科書(『村の子どもと町 の子ども』)の内容が現実の日本の農村を変えていくことにはならないと次の ように批判していた。
「農村社会の封建性をふまえてそこから解きはなたれることが日本農業の 進歩のための最大の仕事であるという社会認識は,ついには得られない」(12)。
こうした新教育批判の観点から,学力低下問題についても発言を行っていっ
た。 ,
いちばん心配したいと思うのはこれからは『文盲や半文盲の方向に近くなる』
子どもをつくるおそれはないだろうかということです。そして,わたしは,そ れが十分にあると心配するのです。(中略)つまり義務教育は国民の基礎教育で ありますからそのひとつの最低の条件として『読み・書き・計算』ぐらいの力 はどこでもつけていかなければ,ほんとうの教育普及にはならないということ であります。」(13)とのべ,新教育によっては義務教育の最低の条件さえ満たすこ
とはできないことを強調した。さらにその根本的な原因を「(1)その国の資本主 義(したがってその支配者)が,労働者農民に極度の肉体酷使・長時間労働を 反抗のないうちに強いるために,ほとんど非文化状態・文盲の状態のもとにお きたいとき(とくに軍拡生産に力をそそぐ場合)。(2)一つの極度に発達した帝 国主義的資本主義国(とくにその国の支配者)が,他の国の国民を植民地的隷 属のもとにおき,また従属国の国民として永続させたいのに,文盲の状態にお としいれたいとき。(3)(1)と②が結びついたとき」の場合を想定し,日本におけ る新教育は(3)の意図を実現きせるものであるとした(14)。
矢川もまた,同様の観点から,学力の低下はアメリカの植民地政策と日本の 反動的文教政策を基礎にしたコア・カリキュラムの教育実践によってもたらさ れたものであるとして,50年代初頭の著書『新教育の批判』のなかで,その推 進者である梅根悟・石山修平らをきびしく批判する論陣を張った㈲。
こうしたことからもあきらかなように,学力問題は,主として国分や矢川に 代表されるマルクス主義教育研究による新教育批判を通して,政治問題の様相 を呈したのである。
先行研究が,この期の学力論争を「学力についての平板な問題地平をまさぐ るだけにとどまらず,その地平を構成するさまぎまな地殻や脈絡をもあばきつ つ,ついには学力を構成している教育それ自体の基本的な枠組みの体制にまで くいこんで,それを根本から揺さぶるような方向へつきすすんでいった」⑯と 指摘しているように,単なる新教育批判と反論の応酬にとどまらず,学力の概 念,性格,構造をめぐる論争への架け橋となったことは,事実であり,さらに は学力の社会的性格を媒介にして国家と教育,階級と教育,民族と教育といっ
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た問題群を教育学研究の主題の位置に引き上げるものとなったことは銘記して おく必要があろう。
こうしたなか,基礎学力を「読・書・算」能力とみなし,「人類文化の宝庫 を開く鍵」(国分)であり,「科学的世界観を獲i得するための基本的武器」(矢 川)であるとする議論は国分や矢川の政治的な姿勢とは一応区別されて,多く
の教育関係者に共有され得るものとなった。これらは50年代初頭に相次いで結 成された民間教育研究諸団体の学力観や教育観の基本的な骨格作りに貢献した とみてよいであろう。それは歴史教育者協議会(歴教協),数学教育協議会(数 教協),などが,教育と科学を結合し,科学的認識を系統的に学習させるべき
ことを主張した事実にしめされている。これら諸団体は,その設立の主旨に は,必ず平和,民主主義,独立,生活の向上といった日本の課題を明記し,そ
うした課題を担うためにこそ,合理的な精神と批判的な態度を身につけた人格 の創造を唱っている。こうした課題を遂行するためには科学に裏付けられた系 統的な知識の教授が不可欠だという構造をとって主張されているのが特徴であ
る㈲。
この意味で,のちの国民教育運動,およびその原理論にあたる国民教育論は 日本におけるマルクス主義教育学がその母胎となった,と評価しても過言では
あるまい(18)。
2 マルクス主義教育理論による学力論の意義と問題点 :国分一太郎の所説を中心に
「義務教育は国民の基礎教育でありますからそのひとつの最低の条件として
『読み・書き・計算』ぐらいの力はどこでもつけていかなければ,ほんとうの 教育普及にはならないということであります」と,国分が述べたのは(「基礎学 力の防衛」)「教育における逆コース」の事態があきらかとなった1952年のこと であった。そこには,基礎学力を「防衛」することによって,日本における教 育の民主化がはかられるといった認識があきらかにはたらいている。しかしこ うした主張は,「社会主義革命」が「現在の民主主義革命」に引き続き行われ
るかもしれないという期待をもつことが可能であった40年代後半から一貫して いたことからすれば,国分にとって基礎学力論は情勢認識に左右されない普遍
的性格をもっていたと考えられる(19)。
この点に関わる基礎理論を最初に体系だてて展開した論文は1949年の「『生 産力の再生産』説について」および続稿である「唯物史観教育の概念」であ
る⑳。
このなかで,国分は,「生産の根底となる労働力のにない手である,人間み ずからを再生産するはたらきが,教育に課せられた社会的機能である」といい
きっている。このように国分は,「生産力の再生産」を「社会の根源的な要求」
ととらえ,「人類社会の維持と発展のための」社会的事象であるととらえてい る。教育は,抽象的な意味では社会の維持・発展を保障するという超階級的な 普遍性をもつものという主張である。そして,読み・書き・計算=基礎学力と いう国分の独自の主張は,ここから派生する。
「人間は生産資料の生産をするために社会関係をつくっている。社会から はなれては,いっさいの生産がなりたたない。その社会生活は,人間の意識 を媒介としてつづけられる。そのためには社会の根源的な意識形態である言 語(文字)についての能力を獲得させねばならない。労働の発達にもとつい て言語が,それにともなって脳と知性が発達し,物質的生産を基として精神 的生産(文化)が発達したことは,いまでは自明のこととなっている。はな し,きき,よみ,かき等の力が社会的生産のための,もっとも基礎的な意識 形態として,用具として獲得されねばならないわけである。(中略)それに物 の数え方,数量の扱い方が獲得されねばならない。」(p.12)
このように国分は一応,基礎学力を,社会の維持・発展(とりわけ生産力の 再生産)という側面からみることによって,教育の超階級性・普遍性を担保し ようとしたのである。だが同時に国分の主張のもう一つの重要な側面は,具体 的な階級社会の中でこうした普遍的な基礎教育の拡充をはかることの階級的意 味あいについて語っていることである。この点については次のように述べてい
る。
「生産力の再生産という(教育の:引用者)任務に変化はないにしても,支配
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階級による教育の目的は,『搾取しがいのある生産力』『搾取しやすい生産力』
をつくりだすということにあった」(p.13)のに対して「生産力の再生産という 教育の本来的な任務を確信し,それのゆたかな発展をねがっているものは,か れら(被圧迫者・被支配階級)である」(p.15)として,教育およびその成果で ある獲得された知識・技能をある種の用具に見立てて,中立的・普遍的なもの として観念する一方で,それを使いこなす主体の性質によって,全体としての 意味の文脈が決定されるというのである。
さらに,その主体の形成も基礎学力の獲得を通して行われる。先の引用部分 に続けて次のように述べている。
「社会における連帯的な観念を養成するためには,その社会の風俗・習慣・
法・道徳のようなものがそれぞれの成員によって理解されなければならな い。自然や社会に対する認識を深め,現実に対する肯定的,否定的な知的判 断,喜怒哀楽の感情や適応あるいは変革の行動の生起を容易にするために は,すでにうみだされている自然科学や芸術や社会科学についての知識の伝
マ マ
達も,あるいは,直接の享受のしごともみおとすわけにはいかない。このよ うなことが全うされることによって,人間は全人間的な発達をとげ,究極に おいて,社会のすぐれた生産労働力=社会的な人間となることができる。」
(P.12)
ここでは,読み・書き・計算と並列的なものとしてこれらの知識の伝達が述 べられているように見えるが,前述のr基礎教育の防衛」をはじめとして,ほ
ぼ同時期の諸論文懇隙明らかに,読み・書き・計算をそうした自然科学や社会 科学的知識の獲得と認識の形式の「土台」あるいは「はしわたし」として中心
に位置づけているel}。
このように,国分にとって基礎学力を充実させることは,当時のマルクス主 義をふくむ民主主義的教育研究・運動が課題としていた,平和・民主主義・民 族独立・生活の向上,さらにはそうした諸課題を担う主体の形成にとって最も 重要なものとして位置づけられていたのである幽。
以上みてきたように,国分の基礎学力論の特徴はまずes−一に,基礎学力を読 み・書き・計算に限定することによって,教育内容に付着するイデオロギー性
を極力おきえようとしたこと,いいかえれば,読み・書き・計算の中立的な道 具性に注目し,階級・階層にかかわりなく国民すべてが共通の要求として基礎 学力の拡充を求めているという観点を確立したことがあげられる。第二に,生 産関係の変革や,民主主義・平和の実現といった課題を担う人間像を,基礎学 力の充実を通しての社会認識の獲得という筋道で構想しようとした点にある。
これらの観点は,のちに,国民の学習・教育要求に直接に依拠しながら教育 固有の論理を展開し,国家権力の教育への不当な介入を阻止しようという国民 教育論のきわめて原初的な一形態とみてよいのではないだろうか。
さて,国分は読み・書き・計算を学力の中心にすえて,教育内容・方法を構 想していたことはいま述べてきたところであるが,具体的にはどのようなもの であったのかを知る手がかりは,1952年11月に発行された岩波講座r教育』第
5巻「日本の学校ロ……教科編(一う」所収の「国語科」にあるpm。
ここでの国分の主張は,第一に学習指導要領を中心とした新教育理論が民族 的観点を欠落させていること。第二に学習指導要領にしめされる言語道具観と は別の筋道で言語を道具・用具として確立するとともに,それをつかって「ゆ たかな正しい知識とものの見方・考え方・感じ方・行動のしかた」(p.23)を子 どもが獲得することの意義を強調したこと。そして第三に,そのための国語の 指導というのはどうあるべきか,それが他教科との関連でどう位置づけられる べきか,を積極的に展開したものである。
それらの主張は,国分の従来の主張の延長上にあるものであり,また,1950 年6月にrプラウダ』に発表されたスターリンの論文「言語におけるマルクス 主義について」図の教育学的適用を試みたという意味で,日本のマルクス主義 教育学にとってしたがってまた国民教育論の生成にとって,二重に重要な意味
をもつ。
これらの点について以下でやや詳しくみておく。同論文の主張の中心は,学 習指導要領=新教育を民族的観点の欠落と基礎・基本教育の軽視という問題に おいて批判を展開する場面である。基本的には,これまでの国分の主張の繰り 返しであるが,ここではそれにくわえて民族と言語についてのスターリンの理 解を通じて,学習指導要領の言語道具説を批判している。
生成期国民教育論における「学力・能力」と「人格」の位相 g3
国分はまず,戦後の国語教育が民族的観点を失ったのはなぜかと問い,以下 の四点をあげている。①「第一に,国語に対する見解(イデオロギー)と国語 そのものの本質を混同」したこと。②「第二にイデオロギーの一種ではない言 語をイデオロギーまたはそれに近いものと誤解」したこと。③「第三に,言語 は社会生活・交流の手段であることを強調するあまり,技術主義に陥り,こと ばを効果的に使う能力と技術をみがきさえすればよいという考えになってしま い,民族語としての日本語そのものの体系を子どもたちのものにする重要な仕 事を怠った」こと。④「第四に言語道具説によって,言語がイデオロギーであ
ると誤って考える考え方を消滅させたのはいいとしても(国語は国心のあらわ れであるを批判したごとき),特定の言語観・言語教育観はイデオロギーだと いうことを忘れて,正しい民族意識にまっこうから対立するコスモポリティズ
ムを言語観・言語教育観に導き入れた」こと。これらが,まさに学習指導要領 の言語観であるというのである。そして,このような言語観にたつ学習指導要 領を「単なる道具だから,民族意識には無関係だとしたり,またはただ単に,
しゃべれるようになったり,人の話が聞かれるように,作文が書けるように文 章が読めるようになればよいとして民族のことばのどういう語彙や語法を正し
く教えるかに注目しない言語教育観にくみすることはできない」(p.13)と批判
した。
国分のこの議論は,スターリンの以下のことばに照応する。①②に関しては
「言語は手段であり用具であ」(国分,「国語科」p.8,スターリン「言語学におけるマ
ルクス主義」より)る。③④については「民族とは言語,地域,経済生活,およ び文化の共通性にあらわれる心理状態,の共通性を基盤としたところの歴史的に構成された,人々の堅固な共同体であ」(同,p. 5,スターリン「マルクス主義と
民族問題」より)る。このように国分は,言語道具説を一方で正しいものと把握しつつ,一一方で国語教育における民族的観点を強調するという課題に取り組ま ぎるを得なくなる。ところがこれについて,十分な区別と統一をはかろうとし なかったという批判が,国分とともに『教師の友』の編集に携わっていた石田 宇三郎によってなされたのである。これがいわゆる国分・石田論争であるes。
石田は,『教師の友』1953年7月号で「国語教育の基本的方向L国分一太
郎氏の『国語科』を批判する」と題して,国分批判を展開した。ここで石田 は,国分の誤りを「道具観の立場で,スターリンの言語観を解釈」(p.23)して
しまったことにあるとし,それゆえ「主観的には民族的観点に立とうとしなが ら,また国語への愛情を語りながら,そしてスターリンを豊富に引用しながら どんなに誤った方向に,国語教育の基礎理論を導いてしまったか」ときびしく
非難する。
石田は,国分批判の前段として,まず文部省の言語道具観というものは,国 語は民族文化の一形式であるなどとは夢にも考えない個人主義と無国籍主義と を基調にしたものであることから批判を展開する。石田は,マルクスが「言語 は意識とその起源の時を同じうする。言語は実践的な,他の人間にとっても存 在し,従ってまた私自身にとっても存在するところの現実的な意識である」
(ドイッ・イデオロギー)と述べたそのままに,言語を思考と一致したものと
してとらえる。
この観点から,国分が「国語科」のなかで述べた次の箇所に誤りが端的にあ らわれていると指摘する。
「日本語の語彙や語法について,せまいものから広いものへ,かんたんな ものから複雑なものへ,どのようにして,その知識をたくわえさせ,また自 分のものにさせていくかということであろう。」(p.20)
語彙と語法を教えることが国語科の内容であることに限定し,またそれを強 調する国分理論は,「民族の言葉がどういう語彙や語法を正しく教えるかに注
目」(国分「国語科」P.13)するしないにかかわらず,結局,学習指導要領と同 じく「『他教科の学習に際し,要求される』ものとして存在するよりほかにな い」というのが石田の批判である。
これに対し,石田自身は,学習指導要領や国分にみられる言語道具観との対 比において,国語の教育においてこそ「民族の後継者をつくる」ことが可能で あるし,またそうしなければならないと説くのである。
「国語の中には全人民と彼の祖国とが息づいている。祖国に対する愛が声 高に語られている。人民の言語のこの明るく透き通った深淵には祖国の自然 が写されているだけではない。人民の精神生活の全歴史もまた写されている
生成期国民教育論における「学力・能力」と「人格」の位相 g5
のである。(ソビエトの教育学者ウシンスキーの言葉)。国語とはこのような ものである。だからこそ国語によって,民族の後継者をつくることができる のである。ところが,言語道具論者は,したがって指導要領は,そうは考え ない。彼らは子どもに,日本語と呼ばれる一種の言語を学習させ,学習した ものを『効果的に使う』技術を与えることができるとは考えるが,国語によ って民族の後継者をつくることは考えないのである」,「国語科独自の仕事,
他教科の用具としてではなく,それ自身としてもつ教育的意義は,まさにこ の,言語による精神の陶冶にあるのである」,「国語科では,客観的事物を介 さずに,国語それ自身がもつ機能(文学的機能)で子どもの精神を陶冶する のが仕事である。国語科では一語一語,一句一句,一文一文と読み進むにつ れて子どもの精神は陶冶され,この過程のなかで,子どもは,『物の見方・
考え方』を身につけ,思考力を訓練していく。またこの過程のなかで,語彙 と語法は思考を形づくる外被として,子どもの中に吸収されていくのであ
る」。
ここにいたって,いわゆる「ものの見方」や「考え方」,「感じ方」を豊かに するのは全教科とりわけ社会科や理科の仕事であり,とりたてての国語の仕事
を「語彙と語法」をきちんと身につけさせることであるとする国分とのちがい
は明白となる。
これに対する国分からの反論は,一年近く経過した1954年3月号「国語教育 の実践的課題一石田宇三郎氏への反批判」でようやくなされることとなる。
国分の反論は,主要には以下の二点に集約される。
ひとつは,スターリンの言語理論の教育への原則的な適用を再度提起したこ とである。国分は次のように,スターリンの言葉の取扱いを石田との対比で行 っている。長いが重要なので引用しておく。
rr言語は人間がそれによって互いに交通し,思想を交換し,相互の理解に 達するところの手段・用具である。言語は思惟と結びつくことによって,人 間の思惟活動の結果や認識活動の成果を語という形において,また文中にお ける語の組み合わせという形において記録し,定着させ,かくして人間社会 における思想の交換を可能ならしめる。思想の交換は恒常的で切実な必要で
ある。なぜならそれなくしては,自然との闘争において,必要な物質財の生 産のための闘争において人間の共同行動を調整することが不可能であり,社 会の生産活動において成果をあげることが不可能であり 社会的生産の存 在そのものが不可能だからである。したがって,社会にとって理解されうる 共通の言語がなければ,社会は生産をやめ,崩壊して,社会として存在する ことを停止する。この意味で(傍点,国分)言語は交通の用具であると同時 に社会の闘争と発展の用具でもある。』
『この意味で』というところに注意しよう。スターリンが,『社会の闘争と 発展の用具でもある』と,あの論文のこの部分でいったのは,石田氏のよう に『たしかに言語(国語)は階級的なものではない,しかし国語の教育は階 級的なものである。国語の教育も教育である以上,超階級的・超歴史的なも のではありえない。教育は何の教育であろうともつねに階級闘争の一つの形 態である』と,いとも直線的に,性急にいうことを便ならしめるためではあ るまい。ましてrどんな社会体制のもとでの教育だろうが,読み・書き・計 算の教育は大切だ』ということを,r超階級的・超歴史的・中立的国語教育 論だ』ときめつけるに便ならしめるためではあるまい。ほんとうは,言語 が,自然との闘争,必要な物質財の生産のための闘争(これにはもっとも大 きいものとして労働がふくまれよう)をふくむすべての人間的活動に奉仕し て,社会を存続させ,発展させる用具としての役割を果たすことをいったの
である。」(P.26〜27)
いまひとつは,その一方で,表題に示されるとおり国語教育の実践的課題と は何か,国民,そして教師達はどのような国語教育の理論と方法を欲している のかということを明らかにするのが,批判の対象となった「国語科」の課題で あることの強調であった。
「国語教育に即していえば,いま,いたるところで,正直な教師たちが告 白しているような『読解力が乏しい』『文章表現力がついていない』などと いう悩みをどうしたら解決できるだろうか,子どもたちにも国語の力がつ き,親たちも安心できるようにしてやるにはどうしたらよいであろうか,こ れを現場の人たちといっしょになり,気持ちになって考えるような勉強こ
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そ,私はしたいのだ。それを,小・中学校での教育という基礎的な作業に限 って考えたいと思っているのだ。それに必要な限りでの歴史の現段階に適用 して誤りのない理論的研究もしたいと思っているのだ。」
これは,石田への反論というよりは,マルクス主義的教育研究のあり方とし て,石田のようにマルクス主義における言語と階級を正面から問題にするので はなく,現実の教育実践を進めるうえでの観点を強調したものでなければなら ないことをあらためて宣言したものである。この論文がでた直後の『教師の 友』54年8月号の無署名論文「国民教育運動の前進のために」の趣旨と軌を一 にするものであった。この論文自体は短いものであり,内容も抽象的で,しか もその上無署名であることからみて,『教師の友』編集者たちの合意に基づい たものと考えられる。編集に携わっていた石田の意見も当然反映されていると 考えるのが自然ではある。この点で必ずしも石田の議論を排除するものではな い。しかし全体として,「階級と教育」あるいは「民族と教育」という観点が 国民教育論のなかにどのような位置を占めるのか,ということよりも,現実の 具体的な教育実践の諸課題にどのように取り組むのかという問題が前面にでて くるという効果をもった。国分の石田への回答はこの限りでは,初発の論争と は別の局面を設定したことになる。
この論争をふりかえってみて,重要なのは以下の点である。
第一に,国分,石田の両者がともに依拠したのはスターリンの言語理論であ ったが,どちらがより忠実であったかといえば,国分一太郎であったといえよ
う。ただし,それはスターリンが「言語」ということでもっぱら意味するのは
「語彙と語法の体系」であると述べ,しかもそれを道具として(ある場合には
「機械」に,なぞられて語ってきえいる)ということに関してであり,この意 味でのスターリンとマルクスの違いは問わないという限定つきのものである 力姻。事実,石田は言語と意識の問題に関しては,スターリンではなく,先に 引用で示したようにマルクスの『ドイツ・イデオロギー』を使っている。また・
批判論文の最後でスターリンの言葉を機械的に教育にもちこむことに対する批 判を国分に浴びせていることからも,スターリンの言語道具説に対する批判意 識がみてとれる。
しかし,スターリン批判がまったく公然化していない当時の時代状況を考慮 するならば,スターリンの原則的適用を強調した国分の議論は,すくなくとも
国分自身にとっては自負すべき内容であり,読み・書き・計算=基礎学力の道 具性・非階級性をよりいっそう強調する跳躍台となった。
第二は,上述の問題と関連するが,国民教育論の生成にあたり,読み・書 き・計算=基礎学力を国民大衆が要求しているという把握が確立されたことで ある。この点では,石田をはじめとするr教師の友』に結集していた研究者・
実践家のみならず,新教育の推進者を自負していたコア・カリキュラム連盟の 人々を含めて,民主主義教育をめざす統一戦線的な教育運動をつくりあげる上 での一致点とされた事情が大きく働いている鋤。しかし,基礎学力を国分のよ
うに道具的それゆえに非階級的に解釈するのか,石田のように,そこにも階級 性が反映されるとみるのかという違いは,依然解決されずに残る。本稿で検討 することはできないが,矢川一遠山論争はまさにこの論争の延長上にあるとみ てさしつかえないであろう。
3 まとめにかえて
:国民教育論の生成と「学力・能力」と「人格」の位相
いまみてきたように,国分の学力の把握の様式は,その後の国民教育運動の 現実をみればわかるとおり,国民教育(運動)論をどのようなかたちで構想す
るかという時に,重要な役割をはたしたといえよう。
のちに国民教育運動を推進する中核となる日教組は,50年代初頭の政府によ る戦後教育の見直し政策に対抗する勢力として活動し,平和と民主主義を守る 一大政治勢力として拾頭した。その一連の活動のなかで,民族の独立と平和・
民主主義をめざす教育実践のあり方を明らかにするものとして教育研究集会
(教研)が位置づけられたのである。その第三次教研(静岡)集会は,「従前強 調されながらも表面的にながれやすかった父母との結びつき」が具体化されて
きたと評価される集会であった力姻,国分は日教組教研の中央講師団の一員と してこの集会から参加することになる㈲。そしてこの出会いが国分の国民教育
生成期国民教育論における「学力・能力」と「人格」の位相 gg
論にとって,また日教組の国民教育運動論にとって,ある意味で決定的なもの
となった。
国分を含む『教師の友』関係者は,日教組教研に大きな期待をよせ,そのよ うな期待にもとついての批判的検討をたびたびr教師の友』誌上に登場させて いる圃。のちに,矢川らマルクス主義教育学研究者や実践家を巻き込む論争の当 事者の一方である遠山啓との出会いもこれを契機にしている。数教協代表,日 教組中央講師団のひとりである遠山は,国分のそれまでの主張をいっそうおし すすめた主張を携えて『教師の友』への本格的な登場をはたした。第二次日教
組教研の反省を行った座談会(r教師の友』1953年12月号)が,それである(31)。
遠山は,次のような発言を行っている。長いが,国分の主張を鮮明にするう えでも,矢川との違い(したがって矢川と国分との違いを含めて)を明らかに するうえでも,重要なので引用しておく。
「第七(分科会「言語ならびに数生活に必要な基礎的技能習得の実態とその対策」:
引用者注)の低調さに対する批判には全く同感だが,それを克服する道にっ いては少し意見がある。その道というのは技術的な問題を避けることではな く,それをつきぬけることだと思う。基礎学力の問題には単に政治的という 問題よりも,もっと以前の民族的な問題がある。基礎学力が低下して困るの は『進歩的な』人たちだけではない。ちょうど鉄道のレールが狭軌であるた めに困るのは一部の日本人だけではないのと同じである。レールの巾の問題 は,表面的には沢山の数字を交えた技術的なものだが,本当は一国民の生活 に対してはかりしれない重大な意義をもっている。
だから,第七分科会の低調さに失望してすぐ『社会を改造しなければ基礎 学力も向上しない。』という結論を出すことには反対する。この議論の裏に は『社会が改造されたら基礎学力もすぐに向上する』という甘い楽観主義が 潜みがちだからである。(中略)だから学力低下にたいするたたかいは『今す ぐ』始めなければならないし,このたたかいが,父兄をも含めた広い基礎の 上に立ち得る可能性も大きいと思う。」(p.21)
注意しておきないのは,この発言が矢川の「数の教育についても,人間観・
世界観一別のことばでいえば人間像というものと結びつけられなければなら
ない」(p.20)という発言の直後になされていることである。これはのちの遠山 との論争においても,主要な論点となったものであるが,二人の論争はこの時 点ですでに暗示されていたことがわかる。
また,国分の主張との関係でいえば基礎学力の非階級性を民族・国民すべて の利益を保障するものとして根拠づけるという手法において共通するものとみ てよい。しかし遠山のこの議論のなかで使われている民族という言葉は,きわ めて非政治的な概念として提起されており,マルクス主義教育学が,たとえば 先にみた国分・石田論争のように,階級と民族問題に対して慎重にその関係を 問おうとしていたこととは次元を異にする。この点では,国分の「基礎学力の 防衛」「基礎教育の防衛」に示されている階級・民族・国民の把握とは明らか に異なっている。しかしこの違いへの無自覚が,国分をして,のちには遠山と 同じ立場へ移行させる原因となったのではないか。国分は,のちのr教師の 友』誌上での座談会「われわれの教育研究運動」(1956年2月号)で,国分・
石田論争をふりかえりつつ次のように述べているB2}。
「ぼくの考え方としては,もちろん教育全体の問題,文化の問題を考える ときに,階級性というものをいつも頭において考えるけれども,全国の先 生,あらゆる思想・感情の持ち主である先生が,国語の指導をやる場合の仕 方・考え方になぜこうも階級性を求めてくるのか……」(p.51)
国分の言葉でいえば「教育全体の問題」と「国語の指導」などの具体的教育 実践は分離して考えるというのである。この意味は重大である。ここでは,教 育における階級と国民の関係を厳密に間うという姿勢はすでになく,矢川やか つての国分が,強調した「人間像」の問題をもあいまいなものにしてしまう危 険を内包していた。
たしかに国分は,国民という父母の教育要求を具体的な教育実践を通して学 力論の視野に取り込む観点を用意した。しかし同時にそれは父母の教育要求 を,さらに子どもの人格形成を基礎学力の充実に収敏させてしまう危険を合わ せもったのである。
この問題とかかわっても遠山は先の座談会で次のような重要な発言を行って
いる。
生成期国民教育論における「学力・能力」と「人格」の位相 101
「学力が低下したとか,しないとかいう問題は今度の大会でもう決着がっ いたと見ていい。次の課題は日教組の建設的な案を作り出すことだろう。こ うなると,言語と数という枠を広げてたとえば理科・社会・歴史・作文等ま で含めていかぬと建設的な案はできないだろう。」(p.28)
また国分も「第四次教研への展望」と題する座談会において次のように述べ
ている。
「講師団のなかでは,基礎学力の向上というテーマは来年度からなくそう という話になっているんですよ。」「親にわからせる意味では基礎学力は非常 に大事なんですが,基礎学力とはなんぞやということはやったんですが,算 数国語教育はどうあるべきかというところにゆくべきだ。」圏
これがのちに教研での教科別分科会を生み出し,1958年以降の日教組の自主 編成運動への伏線となったと考えられる。そのことはしばらく措くとして,こ
のように遠山や国分が考える学力問題研究を教科(教育内容・方法)研究へ推 移させる筋道は,次のような問題を惹起せずにはおかないであろう。
そのひとつは,先にも述べたようにどのような人間を育てるのかという関心 と教育実践の内容・方法への関心が分離されていくことである。そうした関心 の枠組みにおいては,より多くの知識(学力)を獲得したものがよりいっそう 人格的に優れているという評価に結びつきやすい。これは単にそのような傾向 があるといったものではなく,もともと国分の人格把握の様式に原因があった ことは行論から明らかである。たとえば,教育を生産力の「再生産」を担うも のとして把握し,そこでは能力を生産に対する有用性という見地から規定して いた事実に起因するような人格論を国分が構想していたことがこれにあたる。
なおこれについては,大熊信行によって,マルクスの全面発達論を生産主義に
一一ハ化して国分はとらえているのではないかという批判がすでになされていた ことを念のため記しておく図。しかし,遠山に触発されながら国分が,人間像 と教育内容・方法をよりいっそう分離してとらえようとしたことによって,そ の問題性が増幅されたといえるのではないだろうか。このことは人格を学力・
認識能力の総和という構図でとらえることとなり,国分や遠山の関心からいえ ば逆説的ともいえるほど「人格」と「学力・能力」の強固な結合論として登場
せざるをえない。
ふたつには,そのコロラリーとして科学の体系に沿っているということを根 拠にする教科論および教育内容・方法論は,具体的な教育実践場面において は,「科学」「真理」の伝達者として教師は位置づけられ,対極に教師を通して それを学ぶ生徒が存在するという構図が容易に浮かび上がる。そこに「科学」
「真理」への無謬性に対する無条件の承認が前提とされ,教育一学習過程にお ける主体的要素(学習意欲,学習における集団性など)が軽視されるという傾
向を生みだしたといえるのではないか(3S。
補 もうひとつの国民教育論の系譜と国民教育論研究の課題
これまで検討してきた国分に代表されるような,国民の教育要求を読み・書 き・計算を中心とした基礎学力の獲得ととらえ,そのような教育要求にこたえ る教育実践をつくりだすことを中核にした国民教育論をひとつの系譜とするな らば,それとは相対的に異なった国民教育論の系譜があったことを確認してお く必要があろう。それは,国民教育を新しい日本人の創造ととらえ,読み・書 き・計算の重要性をみとめつつも,それを単純に教育実践の柱とすることに反 省の契機を与えようとした上原専禄に代表されるような動向である。
ところでいま「相対的に異なった」と述べたわけは,おおよそ以下の事情に
よる。
上原は,戦後早くからとりわけ50年代の「教育における逆コース」現象が顕 著になる頃から,日教組との結びつきを強めながら教育への発言を行ってい
く。たとえば,日教組がサンフランシスコ講和条約後の文教政策に対抗して
「文教政策基本大綱」(草案)を決定し,日教組が構想する「『自主教育体制』
の輪郭を明らか」にしようとした努力の一環として企画した勝田守一との対談 などにおいて国民教育の思想の根幹にかかわる問題の所在を指摘している岡。
また,1957年に設立された国民教育研究所のもっとも中心的なメンバーのひと りとして活動したことは周知の事実である。上原自身は,マルクス主義者では なかったが,当時の知識人の多くがそうであったように日本のマルクス主義の
生成期国民教育論における「学力・能力」と「人格」の位相 zo3
エートスに対する共感をよせ,マルクス主義との共同をめぎしていた暁 その 点では,国分や矢川をはじめとするマルクス主義教育研究の到達点を念頭にお
きながら,いわば相互補完的な国民教育研究を行っていた。それは国民教育論 がマルクス主義教育学研究・運動を共有財産として生成されてきたという事情 からすれば当然のことといえよう。ここで上原の国民教育論の全体を検討する 余裕はないが,国分の学力論から派生した国民教育論との関係をあきらかにす
るために,若干の考察を試み,今後の国民教育論研究の課題をあきらかにして
おく。
上原は,国民教育の課題を「現代の歴史的問題状況のなかで日本民族の存続 と繁栄を頭におきながら日本民族という社会集団の構成員つくり出していく,
ただつくり出していくだけでなく拡大再生産していく」圏,まさに民族として の日本人の創造ととらえていた。しかしここでいう民族とは,遠山のように全 国民を包括するような,その意味で階級性を問わないようなものとはあきらか に異なっている。先の言葉の中の「拡大再生産」という言葉について次のよう に述べる行がある。「今日の時点にたって,烈しく動いている世界のなかで日 本民族の存続と繁栄をまじめに考えるなら,(中略)どのような日本人が増加し ていくのか」(p.34)が問題なのであって,それは「日本民族の存続と繁栄を可 能ならしめるような,しかしそれは人類全体の存続と繁栄に矛盾しないばかり か,そういうものに寄与していけるような日本人をどうしてつくり出していく のか」という問題意識に貫かれていた。ここには「高度資本主義であるところ の日本がその経済体制をまるがかえにして,アメリカへの政治的従属を余儀な くされている」B9)というサンフランシスコ講和条約以降に日本にもたらされた 事態の把握の上に,民族の独立を担いうる主体の形成と階級的課題を担いうる 主体の形成を統一的に把握する意図が込められていた暁
いずれにせよ上原の国民教育論の大きな特徴のひとつは,民族的・階級的課 題を担いうるような日本国民の姿をあきらかにした上で,そこで求められる
「政治的知性や主体的で能動的な政治意識」の獲得がいかにして行われるべき かというところから問題を出発させていることである。これは,国分らの発想
とは大きく異なっている。
くりかえしになるが,国分にあっては,科学の体系にそった教育内容が編成 され,教育方法によって真理へ到達することへの期待が強く表明され,系統的 な教授において獲得せられた科学的認識の総合において人格が構想されていた のであり,そのような人格は,当然のごとく平和と民主主義,独立をはじめと する当面する日本の諸課題を担う主体となることが予定調和的に論じられてい る。したがって,国分の関心は,いかにして科学の系統的な教授が,各々の教 科教育をはじめとする教育実践に貫かれていくのかという点に集中されること
となる。このような関心がはらんでいた問題性についてはすでに触れた。
これに対して上原は,個人の主体性にもとずく世界観の獲i得一上原自身の 言葉でいえば,「内面的な規範の意識」あるいは「強制せられない価値の感覚」
一を人格のもっとも根底部分として構想しており,科学の系統的教授を否定 するものではないが,必ずしもその世界観の獲得は科学的認識の獲得ののちに おこなわれることとは考えられてはいなかった。上原はこの点について次のよ
うに述べている。
「これからの新しい国民は,いままで述べたような新しい思考の仕方や認 識の仕方ができるだけではなく,そのような思考の方法においてとらえた人 類全体の問題,民族全体の問題,社会全体の問題それから自分自身の問題 を自分の問題として自覚する,自覚できなければならない。つまり,ただそ れについて考えてみるとかそれについて認識できるというだけではたりない のであって,そういう人類や民族や社会の問題もいわゆる自分自身の問題と 同じように自分の問題なのだという意識ができる必要があるとおもうので
す。」國
うけとりようによっては,ひどく倫理主義的なものであるが,ここで上原が 強調していることのひとつは,科学的(理性的)な認識の単純な積み重ねのう えに課題意識をもった人格ができあがるというのではなく,ある「強制されな い価値の感覚」に基づいて事実を自分の問題にひきつけて認識する主体の重要
性であった。
このような問題(課題)と自己意識の往復運動のなかで,課題が自覚される という上原の人格把握の特徴は,したがって学力把握,教育内容・方法の把握
生成期国民教育論における「学力・能力」と「人格」の位相 ro5
の仕方においても国分とは大きく違ったものとなっている。
上原は,学力とは何かという問題に対して国分のように明確な規定は行って はいない。しかし学力観ということでは,「現代の世界史的問題状況の中に立 った日本民族と全人類の,そういう歴史的課題を解決していける力,そういう
ものとかかわって学力の観念もみちびきだされるべき押であることをあらゆ る場面で強調している。この前提にもとつく教科教育に対するさらには教科研 究を行う教師の研究態度に関する発言は,遠山や国分の主張に主導された国民 教育運動の重要な構成部分であった教科研究の方法のあり方に対する反省の契 機となるべきものであった。
上原は,「教科教育というものを,単に教科への教育一かならずしも同じ ことではないのですが,人類と民族の到達した科学的知識水準や科学的認識能 力への誘導,人類と民族の創造した芸術的造形力や享受力への誘導など一と わりきってかんがえないで,人類と民族の歴史的・政治的課題を自分自身の課 題としてになうことのできる日本国民の形成をめぎした国民教育の有機的部分 として教科教育をとらえる立場」圏を重視する。これは,教科教育の存在理由 を否定するものでないことは明らかだが,教科研究を含む「教育研究の意味と 存在理由」を問うかたちで一石を投じている。
上原と国分に代表されるような各々の国民教育論は,さきに述べたようにそ れが敵対的なものとしてではなく意識され,各々の論者もまた互いに協力・共
同をめぎしていたいというのが事実ではある。しかしいま見てきたように,こ の二つの系譜に属する国民教育論は,国民(「国民の教育要求」を含めて)把 握や人格,学力,教育内容・方法などの諸側面において対立的契機を数多く有
していた。ここではまず第一にこのことを確認しておきたい。
小論の課題は,国分一太郎の人格把握,学力把握様式の形成過程の検討を通 して,国民教育論に付与された特徴および問題を抽出することであった。1960 年代にはいると,国分・遠山などが主張する文脈で国民教育運動が具体的に展 開される動きが趨勢となっていったことは歴史の示す事実である。それは,国 分をはじめとするマルクス主義教育学の一部に見られた国民の教育要求把握の 様式が国民教育運動を代表する理論として公認されていく過程でもあったとい
えよう。国民教育論はその限りで,国分的な人格把握や学力把握の影響を免れ えなかったのである。
しかし,ここで確認しておきたいことのふたつ目は,そうしたなかにあっ て,上原が日本人の主体形成問題に関わって論じた国民教育論の系譜は,完全 に姿を消した訳ではなく,伏流として存在していたことである。ここでは検討 できなかったが,周知のように60年代後半以降国民教育運動内部においても,
「科学と教育の結合」の一面的理解に対する一定の反省がなされるようになっ た事実が,そのことを示している94。そうだとすれば,上原が提起したような 国民教育論を,当時の社会意識の構造に照らし,あらためてどう位置づけるの かという問題が提起されたといえよう。これを,教育内容・方法論研究の課題 にひきつけるならば,上原が提起した個人の主体的契機を学習論・生活指導論 のなかに,国民教育運動はどのように定位させえたのか,ということである。
くりかえしていえば,国民教育運動が主たる批判の対象とした「能力主義教 育」との対立的契機は,国分・遠山の国民教育論からは容易には見いだし難い
からである。
(1)この点については,後藤道夫ほかr競争の教育から共同の教育へ』(青木書店,
1988年)が,重要な指摘を試みている。後藤らはこの集団的労作におV・て,発達 論能力論,教育権論などの国民教育運動の批判的継承を現代に提起している。
そこでの国民教育論批判の問題意識は,次の一語に集約される。
rr国民教育論』は,国家権力からの介入に対しては強固な力を見せたが,「国 民」内部からの,足もとからのr競争主義』の浸透に対してはそれほどの力を発 揮しえなかった。」(p.6)
このように,彼らは国民教育論が提唱され,運動化されたときの社会(意識)状 況に照らして問題を見るとき,「国民」内部の「競争主義」「教育の私事化」意識を はげます効果さえもったことに言及している。
筆者も基本的に,彼らの説を支持するが,より具体的に国民教育論がなぜそのよ
うなものとして立論されなければならなかったのかを,その発生当時にさかのぼっ
て検討するというのが本稿の課題である。そのことを通して,彼らがあきらかにで
きなかった運動のリアリティを確認しつつ,その意義と問題点を教育現実の文脈に
おいてあきらかにできると考えるからである。
生成期国民教育論における「学力・能力」と「人格」の位相 Io7
(2)「教育の逆コース」についての解釈をめぐっては,拙論「1950年代前半の公教育 における教育価値をめぐる諸問題」(r人文学報』No. 222,東京都立大学人文学部,
1991年)を参照されたV・。
㈲ 国分一太郎は,純粋な意味では研究者とはいい難いが,この時期マルクス主義教 育学研究運動の重要な組織者のひとりとして,精力的に活動した。また日本共産党 文化部員(46年,55年=非常勤)として共産党の教育・文化政策にかかわったこと
も知られている。本稿では取り上げられなかったが,国分の理論活動の全体像を評価するには,国
分の主要な活動舞台であった,生活綴方教育についての論究は欠くことができな い。他日を期したい。なお,1985年に国分の主要論文が収められた国分一太郎文集(全10巻)が,新評 論社から出版されているが,収録にあたって国分自身の手で訂正,加除されている 部分があるため,本稿では原本を引用文献としてあげている。
(4)矢口新「基礎学力をめぐって」(小川太郎ほかr戦後教育問題論争』誠信書房,
1958年)47ページ。
(5)大田尭編r戦後目本教育史』(岩波書店,1978年)231ページ。
(6)目教組,日本教育学会,国立教育研究所などの学力調査については多くの先行研
究が言及しているところである。さしあたり,須藤敏昭「文献解題・戦後の学力論」(国民教育研究所r季刊国民…教育』第15号,1970年,碓井峯夫(「戦後目本の学 力問題」(r講座日本の学力』第1巻,日本標準)など。
(7)r日教組新聞』1953年2月6目。
(8)目本民主主義教育協会(民教協)とr教師の友』との関係については,国分一太
郎のrr教師の友』創刊のころ」と題した文章によって,そのかかわりの深さを知ることができる(r教師のとも』再刊準備号1958年1月)。
また,城丸章夫の「〈解説〉雑誌r教師の友』とは何であったのか」(復刻版r教 師の友』手引,桐書房,1988年)。および大槻健r戦後民間教育運動史』(あゆみ出 版,1982年)に詳しい。
(9)調査の中心にあってなおかつ日本教育学会の学力問題をめぐるシンポジュウムの 提案者のひとりであった城戸幡太郎は,「もし学力評価の基準が妥当であったとす れば,学力は低下しているともいえるが,それでは学力を低下させた条件は何であ ったのかを追求していくと,それは直ちに新教育のためであると断定することはで きない。」と述べていた(城戸「義務教育終了時における学力の調査」r教育統計』
1951年11月号)。