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新島襄の第1の回心と2つの自伝

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(1)

著者 明楽 誠

雑誌名 新島研究

号 101

ページ 156‑169

発行年 2010‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013002

(2)

1 はじめに

 私が、『異教国の新島襄』(大学教育出版)を出版したのは2007年5月で あり、それから2年以上が経過している。いま、読んでみると、記述や論 理の乱れが目立つし、誤植や校正不備もある。特に問題だと思うのは、第 1章「新島襄の脱国について―創造主との出会いの意味―」と、第2章「新 島襄の回心(conversion)について」という論文である。副題として「五 つの回心」と記したこともいまでは気に入らないのだが、これら第1章と 第2章は、新島の第1の回心と第2の回心を扱っているのだから、もう少 し推敲すべきだった。これら2つの回心のうち、第2の回心に関しては、

現在も基本的見解に変更はない。しかし、第1の回心に関しては、大きな 修正が必要だと考えるようになった。そこで本稿では、これまでの新島研 究において大きな論点であり続けている、新島の1863年の「第1の回心」

に絞って、現在の私の見解を改めてお示ししてみたい。

2 新島の 1863 年の回心をめぐって

 これまでの新島研究においても、新島のキリスト教との出会いを論じた 研究も多く、また、密航論も間接的に新島の回心を扱っている場合があ る。しかし、新島の回心を正面から論じた研究は意外と少ない。本稿で は、論点を明確化するために、北野裕通氏と徳田幸雄氏の研究を取り上げ ることとする。

 まず、北野氏であるが、北野氏は、新島の回心を研究して、1863年(文

新島襄の第1の回心と2つの自伝

明 楽   誠

(3)

久3)が、新島の「第一次の(あるいは最初の)回心」であり、1866年(慶 応2)の受洗が「第二次の(決定的)回心」1)であったと見なしている。

 ところが、徳田氏は、1863年の新島には回心体験がなく、1865年(慶応 1)こそが宗教的回心と言えると論じている2)

 では、なぜ北野氏と徳田氏では、1863(文久3)における新島の回心に関 する見解が異なるのであろうか。

〔A〕北野氏が1863年の新島に回心があったと見なす理由  北野氏は、その理由を次のように述べている。

 「我々は残されている新島の手記類の中から、彼の宗教的経験に関して、

これ以上に劇的な出来事を見つけ出すことはむずかしい。キリスト教の書 物とのこの出会いは、マッキーン(Phebe F. McKeen)も述べているよう に、確かに新島にとって『革命』(Revolution)を意味した。このときから 彼の関心は、急速にキリスト教へと傾斜してゆくからである。新島が函館 で英学の師を求めたのは、英語で聖書やその他の新知識を読めるようにな るためであったと考えられるし、最後に脱国を敢行したのも『福音が自由 にのべ伝えられている土地』を訪ねてみたいと思ったからである。それゆ え我々は、新島におけるこの経験を単なる改心ではなく、宗教的したがっ て全人格的転換を意味する回心(conversion)と考えてもよいのではない だろうか。」3)

 北野氏は、新島が2つの自伝で記した創造者との出会いに関する印象深 い記述と、その後の新島のキリスト教への接近から、1863年の新島には、

宗教的な回心があったものと推定している。そして、北野氏は、この回心 体験後の新島には、「自己否定的行為」が目立つとし、その実例として、密 航計画、武士的自己の放棄、家族的自己の廃棄などを指摘している4)。  だが、北野氏は、この時期の新島に、なぜ、「革命」的とさえ見える宗教 的回心が生じたのか、その理由については言及していない。

(4)

 〔B〕徳田氏が1863年の新島に回心がなかったと見なす理由  徳田氏は、密航を決意する段階の新島の「天父」発見は、彼自身を「家 や藩といった儒教的あるいは封建的な絆を断ち切る」ための「理屈」であ り、キリスト教は、「祖国繁栄のいわば知的道具」5)だったと見なしてい る。徳田氏がこのように判断する背景には、徳田氏自身の宗教的回心に関 する明確な基準が存在しているからである。

 徳田氏は、宗教的回心を概念図6)を示しながら、次のように論じている。

 「『垂直軸』は、古き 自己の徹底した否定の 末に獲得・維持され、

新しき自己を秩序づけ る中心軸となるのであ る。この新しき自己の 誕 生、 つ ま り『 垂 直 軸』の獲得こそが『宗 教的回心』の中心点に 他ならない。ここで留意すべきことは、『垂直軸』を獲得するさいに人間が できることが、ただ『垂直軸』が据えられる方向に自己を開きつつ『持つ』

ことであり、その『原因』を作り出すのではなく『条件』を整えることで しかない、ということである。したがって『垂直軸』の獲得において、も し人間の能動性の意義を認めるとするなら、それはただその能動的な自己 を否定することにのみ存するのである。むろんそのような自己否定は、自 己の『内』からなされる場合と、自己をとりまく環境や状況といった『外』

からなされる場合とがあろう。しかし、いずれにしても『垂直軸』獲得の 主体は人間側にはないのである。このような『垂直軸』の逆説的性質を踏 まえれば、『宗教的回心』は、さしあたり『垂直軸の受動的獲得に伴う存在 構造の転換』と規定されよう。」7)

 このように、徳田氏は、「宗教的回心」とは「垂直軸の受動的獲得に伴う 存在構造の転換」だと規定し、そのような構造転換が、新島の場合、いつ

(5)

訪れたのかを検討している。そして、そのような宗教的回心が新島に訪れ たのは1865年であり、1863年の新島には、いまだ存在構造の転換を示すよ うな心の変化は検出できないと結論づけている。

 ところで、北野氏と徳田氏は、ともに西田幾多郎の回心論を手がかりと して、哲学的あるいは宗教学的アプローチから新島の回心を考察している のであるが、ここで、両氏の回心論とは少し離れ、回心とは、一般的には どのようなことを意味する言葉なのかを、確認しておきたい。たとえば、

ネットで検索すると、次のような説明がある。

 「回心は主にキリスト教で用いられる用語。神に背いている自らの罪を 認め、神に立ち返る個人的な信仰体験のこと。…(中略)…「改宗」「入 信」が外面的な宗教団体への加入手続きのニュアンスがあるのに対して、

回心は内面的な、真に信仰上の出来事というニュアンスが強い。8)

 このようなキリスト教の一般的な回心理解を基準にしてみると、新島も 1863年を振り返って、

 「私を創ったのは誰か? 私の両親か? そうではない、それは神だ。

私の机を作ったのは誰か? 大工か? そうではない、それも私の神だ。

神が地上に木をはえるようになさったのだ。神が大工に私の机を作らせら れたのだが、その机は実際どこかの木からできたものだ。そうであるなら 私は神に感謝し、神を信じ、神に対して心の正しい人にならなくてはなら ないのだ」(〔脱国の理由〕/全集第10巻・15〜16)

と、自伝「脱国の理由」(1865年)で回顧している。また、2つ目の自伝

「青春時代」(1885年)でも、1863年の創造主との出会いを次のように記し ている。

 「私はそれらを熟読した。いくらか懐疑を覚えたけれど、またいくらか

(6)

は畏怖の念にうたれた。以前に勉強したオランダの書物を通して、創造者 という言葉は知っていたが、中国語で書かれたこの短い聖書の歴史の中 で、神の宇宙創造に関する単純な物語を読んだ時ほど、創造者という言葉 が胸にひびいたことはなかった。私たちが生きているこの世界は、神の見 えない御手によって創造されたのであって、単なる偶然の産物ではないこ とを私は知った。同じ書物から私は神の別の名が『天父』であることを知 り、そのことは私の内部に神に対するさらに大きな尊崇の念をかきたて た。なぜなら私にとって神は単なる世界の創り主以上のものだったからで ある。これらの書物は、この世に生まれてから二十年間にわたって目隠し されたままだった私の心の目に、おぼろげながらも、一つの存在を見るこ とを得させてくれたのである。」(〔青春時代〕/全集第10巻・37〜38)

 「脱国の理由」と「青春時代」では、創造者との出会いの描写に違いがあ るように思われる。しかし、新島は、「青春時代」でも、押さえた表現とは いえ、やはり、創造者との出会いを印象深く表現している。そして、新島 は、これらの自伝で、創造者との出会いを契機にして、彼自身の世界観や 神観念が変化し始めたことを、生き生きと表現している。だから、1863年 の新島にとって、キリスト教はたんなる「理屈」や「手段」ではなく、す ぐれて個人的な新島自身の、「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち 返」ろうとする「個人的な信仰体験」(=回心)であったように見える。

3 1863 年の新島に、徳田氏がいう「宗教的回心」の検出は可能か ?

 では、なぜ徳田氏がいう「宗教的回心」が、1863年の新島には検出でき ないのであろうか。検出できない理由としては、次のようなことが考えら れる。

(1)新島自身は、2つの自伝でも1863年における創造者との出会いに至る 心理過程を、明示的に語っていない。

(2)内村鑑三も聞いたことがなく、「いつも心霊上の問題となると、先生

(7)

は沈黙を守られた。私の熱信をほめてくれたけれど、自分で深く味わわ れた心霊上の自証の境界を話されたことはない。一度もない。9)」と 語ったことは有名である。新島は、親しい友人に対しても、めったに

「心霊上の自証の境界」を口にしなかった。

(3)函館で密航幇助を求めたニコライ宛書簡(全集第3巻・16〜17)で も、新島の密航が国家救済、富国強兵化のためであることを強調してい る。

(4)新島自身も牧師になるとき(1874年)、彼の回心が1865年であったと 証言している(全集第10巻・183〜184)。

 しかし、これらの事実は、1863年の新島が、いまだ「宗教的回心」を体 験していなかったことを意味しているのであろうか。

 もしかすると、新島は、2つの自伝でも、密航幇助を求めたニコライ宛 書簡でも、1874年のアメリカン・ボード主事宛書簡でも、彼のキリスト教 信仰に至る肺肝を、余すところなく語っているわけではないのではない か。言い換えれば、新島は、彼自身の「心霊上の自証の境界」を親しい友 人にさえ、めったに語ることはなかったのではないだろうか。

 もし、そうだとすると、私たちが、新島のキリスト教信仰に至る主観的 意味(「心霊上の自証の境界」)を考察する場合には、新島が明示した記録 だけを頼りにするわけにはいかないのである。私たちは、限られた資料で はあっても、新島自身が明記することを憚ったことがらにも注目する必要 がある。

 じつは、私がこのような課題意識を抱くとき、徳田氏の「宗教的回心論」

は、むしろ示唆的であり、羅針盤の役割も果たしてくれる。

 私は、以下において徳田氏の「宗教的回心論」を手がかりにして、1863 年の新島には、徹底した「自己否定」に基づく「垂直軸の受動的獲得に伴 う存在構造の転換」の瞬間を検出することが、可能であることを論じてみ たい。

(8)

4 1863 年の新島が宗教的回心に至る過程

 まず、新島の自伝等を手がかりとして、幼少時から1863年までの新島の 思考や行動を振り返ってみよう。

・幸福な幼少時代、彼の周囲には健全な武士の倫理道徳が息づいていた

(「青春時代」)。

・10歳、1853年(嘉永6)子どもらしい功名心。塾で馬術や剣術をならう

(「青春時代」)。

・13歳、1856年(安政3)藩の海防論の不備を知り、武術訓練を止め、中 国の兵法の勉強を始める。儒教的な中華主義による攘夷感情が強い。

ちょうどそのころ、藩命により田島順輔の下でオランダ語を学び始める

(「青春時代」)。

・14歳、1857年(安政4)田島が長崎へ移ると、新島はオランダ語を中断 し、漢学(兵学?)に没頭する。このころ、新島は藩の学問所の「助教 師」になる。新島は、英文日記の中では、当時の心境を、「私は西洋の諸 国民を、それが外国人であるが故に憎んだし、はじめは西洋語を勉強す ることを嫌った。西洋語は私には大層へんな、奇妙なものに思われた。

殿様は私に非常に親切だった」(全集第10巻・51)と記しているが、「青 春時代」では、当時の彼の西洋嫌いには言及せず、藩主の「特別のはか らい」で漢学所の「助教師に昇進」したことで、「漢学研究に一層興味が わいてきた」と、自他共に認める向学心ある若者であったことを記述し ている(「青春時代」)。

・15歳、1858年(安政5)の新島は、アメリカは国土が広く、日本は国土が 狭いから、日本にとってアメリカとの交易は不利であるという、素朴な 日米貿易論を論じていた。安中藩は通商への関心が深いが、新島は、通 商にも洋学にも関心が低く、儒教道徳への関心が強かった(尾崎直紀宛 書簡、全集第3巻・4〜5)。

・新島が、洋学に目覚めたのは1859年(安政6)であった(「青春時代」)。

(9)

 新島が洋学に目覚めたのは1859年(安政6)で、日米修好通商条約締結 の翌年だったが、この洋学への目覚めは、新島自身にとっても大きなター ニング・ポイントのはずである。

 しかし、「青春時代」では一言も言及していない。また、「脱国の理由」

ではアメリカの「地図書」を読んで洋学に目覚めたと記しているが、これ はアメリカ上陸を果たすための、真実とは異なる戦術的表現であり、ハー ディーに対して、新島自身の「先進性」をアピールするものだったと考え られる10)。つまり新島は、2つの自伝では、みずからの向学心や先進性を 全面に出し、当時の彼の攘夷感情や洋学への無関心には言及せず、学問の 面から言えば重大なターニング・ポイントであったはずの、洋学への目覚 めに関しては、あえて言及を避けているようである。

 ところで、帰国後の新島が教会で行った「霊魂ノ病」という説教草稿を 読むと、そこで新島は、江戸の蘭法医嫌いを紹介している。その患者は、

名医の診察を受け、あらゆる治療と加持祈祷を行ったが直らなかった。し かし、蘭法医の評判を聞いて恐る恐る診察を受けて治療したら完治し、以 後は蘭法医でなければ病気は治らないと思うようになった、というエピ ソードである(全集第2巻・390)。このエピソードは、新島自身のエピ ソードであったのかも知れないし、あるいは、それを間近に見聞したのか もしれない。おそらく新島の場合は、こうした日常生活上の体験を通じ て、ようやく洋学へ目覚めたものと思われる。

 幼少期以来、新島の周囲には健全な儒教精神が息づいていて、そのため に武士の儒教道徳への関心が強く、なかなか洋学への関心が湧かなかっ た。かといって新島は、「学問の人」ではなく、漢学や兵学も学問として究 めたわけではないし、藩の通商政策への関与も薄かった。しかも、そもそ も安中藩の危機意識は、薩長には比べものにならないほどリアリティーが 弱く、海防論における安中藩と薩長との違いは歴然としている。つまり新 島は、幕末江戸の激動する社会状況の中で、まるでエヤーポケットのよう な所に位置していたのであり、そのために新島の洋学への関心は、二重、

三重の意味で遅れていた。

 もちろん新島にも、幼少期以来の健全な儒教をベースにした功名心があ

(10)

り、時代的雰囲気として、憂国の志士たらんとする願望も、ひときわ強 かったようである。だから、遅れて洋学に目覚めた新島は、急いで蘭学を 学ぼうと焦る。新島は、自伝でその意味を理解しない周囲(藩主、父親)

の反応も記しているが、「青春時代」では、やがて新藩主も新島の塾通いを 許可したことも明記している。

 ところが、急いで学ぼうとした蘭学も、うつ的症状や眼病で中断(「脱国 の理由」)を余儀なくされたし、1860年(万延元)のオランダ軍艦の目撃後 は、新たに航海術にも関心が湧き始め、藩主は、このときも、新島の軍艦 操練所への入学を許可している。しかし、新島は、ここでも、はしか・眼 病・頭痛・不眠などの病気に罹り、結局、退学してしまう(「青春時代」)。

 この頃の新島は、軍艦操練所休学中(1861年/文久1?)と退学後(1862 年/文久2)に、「男児生まれて志を遂げざるは死して黄泉の国に入るに如 かず」と、不本意な心情と不屈の思いを漢詩でノートに書き付けている

(全集第8巻・12)。また、玉島航海の途中には、湊川神社で楠木廟に参り 礼拝し感涙した(1862年/文久2)こともよく知られている(全集5巻・

5)。新島は楠木のように心から日本のために一身を捧げる忠臣義子にな りたいと思っているが、現実には、予期せぬ苦難・災いに遭遇して、志を 遂げることができないでいた。

 しかし、新島の学問成就を阻むものは、それらの災いや苦難だけではな かったようである。新島は、「霊魂ノ病」では、藩士時代の自分を振り返 り、次のように記している。

 「身体ノ病ハサテオキ私ノ霊魂ニ罪ト云大ナル病気カアツテ、何事ヲ不 論、事ニ臨ミサヘスレハ此病気カ発シタリ、去レトモ其時ニハ病気タルヲ モ不知、随分人ヨリハ正シキ者ナリト誤テ自評ヲ下シ居リマシタカ、唯今 回顧スレハ乃チ傲慢飾非11)偽善、嫉妬憎悪、放蕩淫乱実ニ慚愧ニ堪ヘサル 程ノ大患也」(全集第2巻・391)

 新島の学問が進まない理由は、周囲の環境や心身の病気以外にもあった のであり、それは一言でいえば、学問に集中できない俗人的気質である。

(11)

つまり、新島は「脱国の理由」と「青春時代」の中で、幼少期以来の自ら の先見性や向学心を強調しているけれども、それは事実とは異なる面もあ るのである。

 新島研究の中には、「脱国の理由」における新島の激しい将軍・藩主批判 を、新島のデモクラシーの表出と見なす向きもあるが、あの激しい将軍や 藩主への批判は、心理学的に言えば一種の適応機制で「攻撃」(他人や物を 傷つけたり規則をやぶったりして、欲求不満を解消しようとするメカニズ ム)や「投射」(自分の弱点や認めがたい感情を他人に見い出し、批難する 事で自己を防衛するメカニズム)と見なし得る。

 また新島は、「青春時代」の中では1863年頃には、尊皇と佐幕の板挟みに なりジレンマを抱えていていたと記しているが、それは、政治体制問題か らは距離のある幕末士族の一般的傾向であり、おそらく新島にも、そのよ うな思いが去来したのであろう。

 しかし、新島の場合は、彼の「学問指向」は、あの函館行きにしてもそ うであるが、学問修行のための突拍子の行動が、繰り返し藩許というかた ちで認められるのであり、彼の「学問指向」が幕藩体制批判へと向かう可 能性は低かったと思われる12)。すなわち、新島の本当の悩みは、2つの自 伝では明記されていないのである。

 新島には、人には語らない積もりゆくプライベイトな悩みがあり、その 新島には、あるとき、自分自身を振り返り、次々と我が身に降りかかる災 難と、学問に専念できない自分自身の不甲斐なさに苛立ち、本当に自分は ダメな人間だとつくづく思い、もはや志士たらんとする望みが絶たれてし まった思う瞬間(徳田氏がいう「自己否定」の極致)が訪れたであろうこ とは、充分推定できるのである。

 新島の場合、これこそが、徳田氏のいう「宗教的回心」のための「前提 条件」だったと見なし得るのではないだろうか。そして新島は、このよう な心境で、1863年(文久3)にロビンソン・クルーソーやキリスト教の書 物と出会う。

 新島は以前から創造者という名は知っていたが、このとき初めて、「神を 理解」し「神に感謝し、神を信じ、神に対して心の正しい人にならなくて

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はならない」(「脱国の理由」)と思い、また、「創造者という言葉が胸にひ び」き、「私たちが生きているこの世界は、神の見えざる御手によって創造 されたのであって、単なる偶然の産物ではない」と思い、神の別名が天父 であることを知って、彼の「内部に神に対するさらに大きな尊崇の念」が 起こったという(「青春時代」)。

 これが、新島の、「自己否定」に伴う「垂直軸の獲得」であり、徳田氏が いうところの、「垂直軸の受動的獲得に伴う存在構造の転換」であり、新島 の第1の「宗教的回心」であったと思われる。

5 2つの自伝

 以上のように、1863年の新島は、徳田氏の「宗教学的回心論」の視点か ら見ても、「自己否定」に伴う「垂直軸」の受容による存在構造の転換が あったと推定できるのである。

 したがって、新島の日本文明化や「勉学指向」に注目し過ぎると、新島 自身の語られざる個人的苦悩や信仰の深さを捉えることができないように 思われる。私たちが、新島の密航やキリスト教精神を研究する場合には、

彼が他人にはめったに語らなかった、きわめてプライベイトな彼自身が味 わった1863年の「心霊上の自証の境界」(第1の回心)に着目することが、

きわめて重要だと言えよう。

 しかし、新島は、なぜ、この「第1の回心」を語らないのか。それには、

(1)内村に限らず、新島の周囲には学術に秀でた人物が多かったから、新 島には、人に語るような内容ではないという思いがあったのかもしれな い。

(2)新島は、すぐれて個人的な第1の回心を通じて、独一真神の道を学ぶ ことが、同時に、日本の強国化の方法であると思い始めたのであるが、

ニコライ司教、ハーディー夫妻、家族、上司などには、憂国の志士とし ての「公的」立場を強調し続けた。

(3)アメリカン・ボードの宣教師たちには、アメリカのプロテスタントに

(13)

理解可能な、新島が新約聖書を読んだ後の「第2の回心」を語り、回心 体験の証言とした。

などの、聞き手や読み手に対する配慮という問題も関わっているのであろ う。しかし、理由は、それだけに留まらないように思われる。

 1865年に記述された「脱国の理由」における新島の記述は主観的表現が 強く、1885年に記述された「青春時代」は客観的表現が特徴的であるが、

この表現の違いの背景には、新島自身の英語力という問題も関わっている ようである。

 しかし、この英語力という問題の他にも、「脱国の理由」はハーディーの 庇護を受けるために執筆したのであるが、そこには、いまだ「霊魂ノ病」

を抱えたままの新島の心情(=「適応機制」)が吐露されている。「脱国の 理由」執筆時の新島には、まだ、「第1の回心」を冷静に振り返る精神的余 裕もなく、また、そのための方法論も身につけていなかった。

 ところが、それから約20年後に執筆した「青春時代」では、新島は、儒 教の健全性を限定的意味で再評価しつつ、彼のキリスト教との出会いを、

彼が長期の留学体験を経て獲得した、異教徒のプロテスタンティズム受容 プロセス論(知識→財産→自由→良心)で描こうとしている13)。そのため に、幕末維新期における士族層の開明性が太く描かれ、新島自身について も、彼の学問指向や「自由を得たいという強い欲望」(全集第10巻・36)

が、強調されている。

 「青春時代」において新島は、自伝を通じて、異教国日本が自助努力に よって文明化過程を歩んでおり、いまや日本にはキリスト教伝道の時が来 たことをハーディー夫人に伝え、同志社大学への募金に協力してもらおう としているのである。すなわち、新島は「青春時代」において、彼が西洋 体験を通じて獲得した一種の文明発展の公式主義で、彼自身のキリスト教 との出会いを「客観的」に描こうとした。そのために、すぐれて個人的な、

彼自身の独特な回心過程の描写は捨象されている14)

 つまり、2つの自伝には、新島自身がプライベイトな苦悩を表現するこ とを好まなかったというパーソナルな感性や、対外的顧慮の問題だけでは

(14)

処理できない問題が横たわっている。新島は、「脱国の理由」では彼自身の 向学心や先進性を強調し、「青春時代」では、日本武士層の進歩性を強調し ている。その結果として、「脱国の理由」と「青春時代」は、どちらも新島 自身が記述した自伝でありながら、生々しく個性的な新島の「第1の回 心」過程を覆うベールの役割を、今日まで果すことになったように思われ る。

 現在、私たちが入手できる資料では、新島が書き残した断片的な英文日 誌や、帰国後の教会で行った説教草稿を通して、創造者と出会う前の新島 の生の苦悩を垣間見ることができるだけである。しかし、新島は、1863年 の創造者との出会いと回心を通じて、ようやく自らを学問指向の志士、憂 国の志士へと改造する手がかりをつかみ始めたのである。

1) 北野裕通「新島襄における回心の問題」、『相愛大学研究論集』第7巻、1991年。

2) 徳田幸雄『宗教学的回心研究―新島所・清沢満之・内村鑑三・高山樗牛』、未來社、

2005年。

3) 北野、前掲書、47頁。

4) 北野、前掲書、48-49頁。

5) 徳田、前掲書。この捉え方は、太田雄三とも共通している。太田『新島襄』(ミネ ルヴァ書房、2005年)、参照。

6) 徳田、前掲書、207頁から引用。

7) 徳田、同書、219頁。 

8) http://ja.wikipedia.org/wiki/回心、より

9) 内村鑑三「新島先生の性格」『内村鑑三信仰著作集』23(教文館、1984年)、31頁。

10) 徳田氏は、新島の「脱国の理由」の記述に従い、1859年(安政6)に新島がアメリ カの「地理書」を読んだと解釈している。徳田前掲書、254頁、参照。

11) 拒諌飾非(きかんしょくひ)、いさめの言葉や忠告を受け入れないで、自分の過ち を取り繕うこと。

12) 新島が、幕藩体制やその背景思想としての儒教と決別を宣言するのは、1967(慶応 3)年以降である。明楽誠「新島襄の儒教論」(『新島研究』第94号、1999年2月)

(15)

を参照。

13) 明楽誠「新島襄のニューイングランド経験をめぐって―シーリー、パーク、新島の 福音主義の位相」『新島研究』第96号(2005年5月)を参照。

14) 新島には、彼自身の体験にも裏打ちされた異教徒である日本人一人ひとりのキリス ト教への回心という課題とともに、異教国日本の救済というナショナルな規模にお けるキリスト教化という課題が同時併存している。しかし、「青春時代」において 個人的な第1の回心に至るきわめてプライベイトな心理過程の描写が欠落してい るのは、この自伝を、新島が、アメリカン・ボードの異教伝道の視点から記述して いるためではないだろうか。さらに言えば、当時の新島は、いまだ、異教徒の回心 を、異教徒側の生の心理過程に即して記述する方法を獲得していなかったのかもし れない。当時はまだ、アメリカにおける社会科学的な回心研究も始まったばかりで あったことも考慮すべきであろう(詳しくは、徳田、前掲書を参照)。

参照

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