湯浅与三と魚木忠一の新島襄伝
著者 井上 勝也
雑誌名 新島研究
号 100
ページ 39‑48
発行年 2009‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012966
井 上 勝 也
2008 年 8 月 2 日におこなわれる 1 日研究会では過去の新島伝を取り挙げ、
新島が没後約 120 年間にどのように描かれてきたかを検討しようというも のであった。そこで私は、湯浅与三著『新島襄伝』改造社 1936(S.11)年 刊と魚木忠一著『新島襄 人と思想』同志社大学出版部 1950(S.25)年刊の 2 冊を取り挙げ、内容の分析と特徴を述べることになった。
Ⅰ 湯浅与三著『新島襄伝』
略歴:湯浅与三(1902-1977)は 1902(明治 35)年、湯浅治郎、
初子の第十三子として京都で生まれ、1910(明治 43)年両親と共 に上京し、1919(大正 8)年霊南坂教会で小崎弘道牧師から洗礼 を受けた。彼は青山学院高等部を卒業後、オベリン大学神学部に 留学、1931(昭和 6)年帰国した。彼は信州佐久組合教会を牧し、
長野県や群馬県の教会で牧会している。湯浅の主著と思われるも のは『基督にある自由を求めて−日本組合基督教会史』で、1941(昭 和 16)年から 10 ヶ月間に日本組合基督教会歴史編修委員会の命 によりまとめたものを戦後 1958(昭和 33)年になって個人の著 書として、タイプ印刷で刊行したものである。他に 1967(昭和 42)年に『小崎弘道先生の生涯』、そして 1968 年に日本伝道につ いての論集『日本の教化』を刊行している。なお湯浅の所蔵して いた膨大な日本組合教会資料を中心とした総数 1066 点が本学の 人文研によって購入され、人文研のライブラリーに入っている。
上記の新島伝には諸論―本論の前置きとして総括的な内容の文章が 14 ページにわたって挙っており、湯浅の新島伝の特徴を説明する上で役に立 つので紹介したい。湯浅は彼の理解する新島の人物像の特徴を次のように 挙げる。⑴小崎弘道が新島の性格を「謹直、誠実、忍耐、献身、謙遜」の 5 つを挙げるが、それらが新島の性格を最もよく表現したものとし、こと に湯浅も新島の謙遜を強調している(p.5)。次に新島を熱情家と位置づけ、
誠実な性格の一方で彼が豪放磊落で、火山が噴火するような激しい情熱の 持主だという。次に新島の主義として第 1 に自由・自治を挙げ(p.7)、新 島は最も不自由な時代に生まれ最も自由を愛好した人物である(同上)と いう。また彼は徹底的に自由の子であった。しかし彼の自由主義は板垣退 助の政治的自由主義に対して、宗教的、個人的、人格的な自由主義であっ たという。第 2 に新島の主義は国際主義と国家主義の調和であるといい、
彼程すべてにおいて国家のためにという事を意識した者はなかった(p.8)、
彼程熱烈な愛国者は稀である、といい切る。同時に彼程国際主義を実地に 体験したものはいない、彼の面目は日本国民であるばかりでなく、世界市 民であった点にある(p.9)。彼は宗教とともに教育を重んずる米国ニュー イングランドの価値を新たに認識し、それを日本に移植しようと試みた、
ともいう(p.10)。第 3 に新島の特徴に伝道を挙げる(p.11)。新島は伝道 に対して忠実熱心であった。彼は病気療養中でも伝道することを怠らな かった。実に教育と伝道が彼の二大武器であったという(p.11)。第 4 とし て挙げるのは信仰である(同上)。新島の信仰は信仰の自由を求めて新世 界を開拓したピューリタンのもたらしたもので、厳格に神中心のカルヴァ ン主義である。新島はニューイングランド神学最後のA.パークの神学を無 条件で受け入れている。彼はピューリタン直系のカルヴァン神学を受け入 れたのにもまさって、ピューリタンの自由独立の精神と生活を喜んだので ある(p.13)。そして彼においては実に信仰が生活であり、生活が信仰であっ た。彼に大切なのは神学上の議論ではなく、実際生活が重要であったので ある。彼はしばしば「見えざる御手」という言葉を使った。見えざる御手 に導かれる生活、信仰と実生活の調和こそ彼の宗教であった(同上)という。
これは湯浅の伝道者としての解釈だと思う。最後に明治文化に対する新島
の貢献度は先ず第 1 に彼自身の人格である。第 2 に同志社を通じて幾多の 人材を社会の各方面に送り出したことである、といって宗教界、学界、経 済界、社会事業界等で新島の感化を受けて活躍している人々の名前を列挙 している(pp.13-14)。
さて、湯浅はA.S.ハーディーの編纂したLife and Letters of Joseph Hardy
Neesima,1891を文献に使っていないと書いている(p.2)。新島伝の著者と
しては珍しいケースである。彼はJ.D.デイヴィスの新島伝を多用した(同 上)というが、デイヴィスの伝記は新島が思想形成上もっとも大きな影響 を受けたアーモスト・カレッジの 3 年間の叙述にはたったの 7 行しか費し ていない驚くべき伝記である。そこで湯浅はアーモスト・カレッジを独自 にどのように描いたかを見ると、彼の努力がうかがえる。恩人A.ハーディー の生き方について詳しいし、シーリー教授についても詳しく調べている。
もっとも新島の 3 年間の在学中に学びとったキリスト教人格主義教育や
liberal arts educationの叙述は不十分といわねばならない。
湯浅の新島伝が発行された 1936(S.11)年には 2.26 事件が起こり、昭和 のファシズムの嵐が吹く真只中であるが、彼が新島を憂国の志士として強 調しているという印象は受けなかった。彼のリベラリズムのなせるわざで あろう。今回私は湯浅の著作を調べて、彼の牧師としての良心を示す文章 を見つけたので、最後にそれを紹介したい。
わたしは戦争犯罪人である−戦時中の反省
筆者は戦争犯罪人である。 −中略− 今日の戦争の実体を知らず政府の 宣伝に乗ってそういう著述をしたことは単に恥づべき無知であったばかり でなく大いなる社会悪に加担したものとしていかなる裁判を受けても止む を得ないところである。それがいかなる人々に読まれていかなる反響を得 たか知らない。ある朝鮮の学徒兵が応召に際し、筆者の手を堅く握りしめ、
「あの書物によって安心して出征します」と告げた。その青年はその後可 愛らしい妹と一緒に写した勇壮なる白襷姿の記念写真を送って来たが、は たして彼はどうなったであろうか。筆者は終戦後しばらくは戦争責任を感 じ、直接伝道に当たることが出来なかった。(1960.4) 湯浅与三著『日本 の教化』創文社 1968 p.253
上記の文章は湯浅の人柄、牧師としての良心をよく示している。私は戦 争中「あの時はやむをえなかった」と開き直り、戦後、総括や自己批判を しなかった宗教家や教育者を多く知っている。
Ⅱ 魚木忠一著『新島襄 人と思想』
略歴:魚木忠一(1892-1954)は愛媛県松山市に生まれ、松山夜学 校を経て 1917(大正 6)年、同志社大学神学部予科に入学、1922(大 正 11)年同神学部を卒業してまもなく渡米、シカゴ大学、ユニオ ン神学校、コロンビア大学で教会史、教理学を研究し、1926(大 正 15)年ドイツに留学、マールブルグ大学で半年研究を続けた後 帰国した。1927(昭和 2)年同志社大学文学部神学科講師、1930(昭 和 5)年同教授。1949(昭和 24)年『基督教精神史− カルヴァ ン神学の精神』と題する著書により文学博士の学位を受けた。
1952(昭和 27)年、大学宗教部長、1954(昭和 29)年、神学部長。
同年 12 月、脳出血により永眠した。主著:『近世ドイツ ・ プロテ スタント教神学思想』(1931)、『近世基督教会史概観』(1934)、『基 督教思想史』(有賀と共著、1934)、『日本基督教の精神的伝統』
(1941)、『基督教精神史研究−カルヴァン神学の精神』(1948)
上記の書は同志社創立 75 周年を記念して、大塚節治総長が神学部の魚 木忠一教授に新島伝の執筆を依頼し、1950(S.25)年 11 月に同志社大学出 版部から刊行されたもので、20 年後の 1970(S.45)年に第 5 版を刊行する 程戦後の新島伝として紙価を高めた書である。大塚総長は序で次のように 書かれている。
「新らしい時代の言葉と若き世代の感覚によって物せられた先生の伝が 長く待望されて居た。同志社はこの要求に応へんとして数年前「新島読本」
の執筆を教会史家魚木忠一博士に依嘱した。教授と研究の余暇を用ひての 博士の努力はその後多少の曲折を経たが、今日その実を結び本著となって 生れた。
新島先生直弟子の時代は漸く去って今や口伝の時代に入った。史実の検 討、史実の考証、人物、事業の評価、解釈は専門史家の素養と精神史的直 観を必要とする。これらの資格を備へた博士の労作は信頼を以て世に送る ことが出来る。先生は小使をも「さん」づけで呼んだ。先生は自治、自由、
良心を重んじた。誤った民主主義の横行する時代に先生の精神は正しき民 主主義のよき指針となるであろう。」
次に著者魚木の序を引用し、著者の本書を執筆する上での姿勢を読みと りたい。
序 魚木忠一
「學説は古くなることが多いが、パトスは古びない。高潔の士の精神と 熱情とは後の世代に新鮮な共鳴を呼び起して、新しいパトスの人間を作る。
自由、良心、愛、愛國、國際的精神、そうしたものに限りない熱情を感じ て生きた新島先生は、今日囘顧して明快な理想とパトスとを與えるように 思う。先生の如く人間として生きることを教えて呉れる教師は少く、先生 の如く、人生が愛神の現實性に基づくことを證した教師はない。しかも凡 てを愛國志士の情熱が色どつて居る。この意味で新島先生は新日本の先驅 者である。多分明治大正の時代よりも一層適切に昭和の今はそう言うこと が出來るであろう。―中 略―
此處に世に送るものは書名に明かなる如く、オーソドクスな傳記ではな い。寫眞に見る正確さを意図したものでないことは言うまでもない。先生 の一生に於ける幾つかのピークを辿り、精神の深みをさぐろうと試みたも のに過ぎない。写真でなくして性格印象記であり、精密の筆と色彩の美を こらした絵画でなくして、デッサンである。」
そこで私は著者のいう新島先生の一生における幾つかのピークと精神の 深みと性格印象を示す文章を下記の目次の順で紹介したい。
目 次
序、1 歴史と人生…p.1、2 自覚的生への衝動…p.21、3 勉学と教養…p.43、
4 理想と宗教…p.65、5 実現と困難…p.84、6 學生…p.110、7 旅行…p.133、
8教育…p.159、9宗教と文化…p.180、10知己…p.202
まず第 1 章の「歴史と人生」ではLife and Letters of Joseph Hardy Neesima から「私の若い時代の凡ての出来事は悉く私の主君の所有にかかるこの方 形の構内で起った」(p.13)を引用しているが、新島が幕藩体制崩壊寸前の 江戸で青年期を過ごしながら、なぜ当時密航という大罪を犯すに至ったか の社会科学的な分析と叙述に欠けるのが残念である。
第 2 章の「自覚的生への衝動」では新島が密航を企てる上でのためらい として、21 年間身につけてきた儒教倫理を否定しなくてはならなかったが、
この難題を神がわが天の父と認めるに至って父の家との強い絆が断ち切れ たというMy Younger Days(全集 10. p.38)の叙述を引用している。新島に 密航を決断させたもう 1 つの理由は、自分は忠孝の倫理を一旦無視するが、
将来国家の近代化に貢献することによって大罪をつぐなうことができると いう大義名分を構築するに至った点についての指摘がないのは半世紀前の 新島研究のレベルであるといわざるをえない。
第 3 章「勉学と教養」の内容は殆んどLife and Lettersに依存している。
New Englandのpuritanの社会で新島が如何にしてキリスト教の理解を深
めていくかといった点とアーモスト・カレッジでの人間的成長に焦点が当 てられ、「新島の教養は此處に於て確立され、学的思想的基礎も此處で 1867-70 年の間に築かれたのである」(p.49)と断定している。引き続いて
「アーモストは古典教育を大学精神とするといわれているが、それは古典 を専門学課として研究することではなくて、古典を媒介として基督教的教 養を与えるということであった。故にアーモストでは総長の基本的資格と して福音主義的正統信仰の持主であることが何時でも要求された」(pp.51- 52)と述べているのは、ポイントを押さえた指摘である。
第 4 章「理想と宗教」では新島の若き日の幻(vision)を自覚的理想に 発展させるものとして宗教を挙げ、とりわけ彼がヨハネ伝 3 章 16 節に出 会ったことが大きな意味をもつことを指摘する。
第 5 章「実現と困難」では、新島の畢生の事業を実現することのむつか しさを述べている。著者は同志社英学校の開校に至るまでの紆余曲折を述
べた後で「新島の理想の実現はあちらこちらで難関に逢着する性質のもの であり、新島の熱意と至誠なくして、この難関の突破は出来なかったと思 われる」(p.95)と述べ、「先生の無私と真実とは遂にこの難関を突破して 理想を実現せしめた」(p.105)という文言でしめくくっている。これらは 短いが、的を射た表現である。
第 6 章「学生」は新島に影響感化を受けた多くの学生を語り、著者は「新 島校長は学生を愛し、学生を信頼した。(中略)学生が先生の生命であっ たからである」(p.118)と述べる。
第 7 章「旅行」は時間の都合で省略する。第 8 章「教育」は、この新島 伝に一貫して流れる新島の思想と実践を総括的に述べた章である。著者は 次のように書いている。
「教育という理念は、新島襄が思いがけなくも人生の半に見出した宝で あつた。憂國志士としての靑年七五三太は、通商や海軍を以て日本の隆盛 を計ろうと考え、この信念を以て立志敢行した。その初一念は徐々展開的 立志によつて、自覺的に深くなるに從い、國家の眞の繁榮は教育と教化に 在るという確信に進んだ。それは書物から學んだ知識でなくして、自ら見 聞し、自ら悟つた体驗的智慧に外ならない。そして、單に教育するのでなく、
人材を陶冶して國に報いるという筋金入りのものである。人材を陶冶する とは、學問や技術を教授することとは異り、靑年に人間としての教養を與 えることであつた。」(p.161)
著者は、新島の教育は「人間としての教養教育であるから、自由、自発性、
良心を此上なく尊重した」(p.170)のだという。そしてこの章を次の文章 でしめくくっている。新島の目ざしていたものは「歴史に於て新しい潮流 を造り出す人間の教育であった」(p.179)。
第 9 章の「宗教と文化」は著者の得意とする章である。著者の強調した い文章を次に紹介したい。
「神學は正統主義として、顯著な點を持たなかつたが、基督教体得の深 さに於ては著しい点が早くから現われた。新島先生はかのヨハネ傳 3 章 16 節を常に愛誦し、之を以て基督教の中心精神を表わすものと信じ、一生こ の信仰を熱心を以て貫いた。それは基督教を福音的に把握したものであり、
謂わば宗教意識の本質的表象を得たものである。1 つの絶對的なるものに 出会い、それに捉えられたことである。」(p.184)
最終章の「知己」は省略する。最後に当時社史史料編集所の田中良一氏 が 1965(S.40)年の第 4 版の編集後記で次のように述べているのを紹介し たい。
「何はともあれ、新島先生を正しく理解しこれを紹介した著書としてこ れ以上の名著は今のところ見當らない。故教授が深い學殖と豊富な宗教的 社会的体驗をもって全力をこの著書に注がれたもので、B6200 餘頁の小著 であるが、その内容は極めて高い價値を有している。この書が今後益々版 を重ねることにより、身をもってした新島先生の眞正の自由の垂範が、同 志社關係者のみならず廣く次代を負う新日本の靑年諸君に浸透するよう 祈ってやまない。」
〔結論〕
〔結論〕 湯浅と魚木の新島伝の特徴は新島の生涯の叙述を精神史に重点を おき、社会史的な分析に欠けている点である。湯浅はオベリン大学に留学 し、帰国した後は主にキリスト教の伝道者であったのに対して、魚木は同 志社大学神学部の教授としてキリスト教精神史、歴史神学が専門の神学者 であった。この違いが新島の描き方にも出ている。湯浅は卒業生ではない が、両親の代から新島や同志社に深くかかわって生活してきた。魚木は卒 業生であり、2 人とも新島への敬慕の姿勢がうかがえ、同志社の若き生徒・
学生に人間・キリスト者・教育者・宣教師である新島の人と思想を理解さ せようとする努力が読みとれる。2 冊とも学生を触発するといった点で成 功しているが、どちらかというと湯浅の内容は伝道的であり、魚木の方は
academicである。そして 2 人のパーソナリティーがにじみ出ている。伝記
の執筆者は史料や先行研究をどう読みとるかを第 1 とし、自分の人間観・
世界観によって描くものであることを湯浅も魚木も示している。両者の新 島伝は、功績を明らかにし、ほめたたえる方の顕彰の範疇に属するもので はあるが、魚木の新島伝は、調べて証明するverification検証の要素が出て いるし、1936 年と 1950 年の時間の変化と役割を読者に感じさせる。
私は 1954(S.29)年に同志社大学に入学したが、まず森中章光氏の新島伝
から入り、大学紛争の余波の残る 1974(S.49)年に、和田洋一先生の新島伝 に出会い、2005(H.17)年には太田雄三氏の新島伝を読んで、筆者のパーソ ナリティーによってこんなに異なった新島伝が出来るのかに驚いた。私は人 物研究をする場合に何よりも人物に対する深い洞察力―即ちものの本質を見 抜く力が必要だと考える。これは困難であるが書き手だけでなく、読み手に も求められる力であろう。新島伝を批判的に読むこと、複数の新島伝を読む ことが重要だということを申し上げ、私の報告を終わりにしたい。
シンポジウムの総括
井上会員、北垣会員及び本井会員の順で報告した後、フロアーにいる多 くの会員から質問や意見が出された。私の報告に対して出された質問や意 見の主なものは次のようなものである。A会員:湯浅与三は、昭和 11 年 2 月に徳富蘇峰著『日本精神と新島精神』の中に「新島襄小伝」を載せたが、
柏木義円に内容を批判されて数カ月後に書き直して独立した『新島襄伝』
(昭和 11 年 9 月刊)を刊行したことを知っているか? 井上:知らない。
研究会終了後A会員より『日本精神と新島精神』を拝借した。安中教会牧 師柏木義円は自分が新島伝を執筆するつもりで史料の収集に精を出してい た。そこへ安中出身の根岸橘三郎が 1923(T.12)年に『新島襄』を刊行した。
柏木の言葉を用いれば「あの様な全く著述者の徳義を無視したる書」(「上 毛教界月報」449 号 昭和 11 年 3 月)と表現する程根岸の人物及び彼の書 を厳しく批判した柏木は、今回湯浅の「新島襄小伝」を読んで「唯其中に往々 根岸橘三郎氏著の『新島襄』中より借用する処があるのを深く遺憾とする ものである」(同上)と述べ、湯浅の「新島襄小伝」を厳しく批判した。
柏木を尊敬してやまない湯浅は極めて短期間に当初の「新島襄小伝」の内 容を書き換えて今回の『新島襄伝』を刊行したという経緯が判ってきた。
湯浅は根岸を「惜しい哉頭脳の空疎と人格の低劣の為に折角の材料迄も台 なしになって居る。記事の杜撰不正確虚偽は驚くべきで、到底之を真面目 な伝記と称する事は出来ない。其故安中教会名誉牧師柏木義円氏が極力排 斥して居られるのは当然である」(『新島襄伝』p.3)と述べる。湯浅が 1931(S.6)年アメリカ留学から帰国して『新島襄伝』の執筆及び刊行まで
の数年間にとりわけ先行文献として根岸の『新島襄』について柏木を始め 世間の評価を知らなかったことは考えられない。にもかかわらず湯浅が、
柏木にいわせれば「たびたび文章を借用」(「上毛教界月報」449 号)した のはなぜか?湯浅の最初の「新島襄小伝」と『新島襄伝』の内容の変化を 根岸本を座右に置きながら照合することは興味のあることではあるが、現 在の私はその時間的余裕がない。いずれ試みたいと思う。
次にメモに残っているのは露口卓也同志社社史資料センター長から、シ ンポジウムのテーマである「新島襄伝をめぐって」の趣旨を語れ、という 発言があった。8 月 2 日の研究会に先立って会員全員にシンポジウムの要 旨を配布したが、シンポジウムに先立って再度趣旨の説明をしておれば聴 き手もより焦点を明確にして報告を聴くことができたと考えられる。ちな みに「新島襄伝をめぐって」は露口所長からの提案を実行委員会が取り挙 げたものである。他にC会員から伝記に描かれている新島の思想の解釈、
特徴の分析が少ないのではないか、といった指摘があった。D会員からは「伝 記はパトスを与えてくれるもの」という発言があり、E会員から伝記と評 伝の違いを指摘された。私の担当した場合をいえば、湯浅の『新島襄伝』
は伝記であり、魚木の『新島襄 人と思想』は評伝の範疇に属するというこ とができる。他にF会員から新島は「企業家であった」という発言があっ たが、企業家の定義が必要であろう。全体として時間の制約もあるが、で きればあと数点の新島襄伝を取り挙げ、その報告をすべきであった。約 120 年間に刊行された伝記の内容の変遷及び特徴を総括するには、より多 くの新島伝と共に丸一日をかけてすべきであったと思う。少々中途半端に なったことは残念である。