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関西学院新制中学部誕生物語 : 資料に基づく回顧

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(1)

関西学院新制中学部誕生物語 : 資料に基づく回顧

著者 今田 寛

雑誌名 関西学院史紀要

号 21

ページ 7‑33

発行年 2015‑03‑15

URL http://hdl.handle.net/10236/13026

(2)

  関西学院は一八八九︵明治二十二︶年︑旧制中学部の前身の普通学部と神学部の二学部で神戸の地に誕生した︒従って旧制中学の発足の経緯は学院史の中には必ず登場する︒それに引き換え太平洋戦争終結の翌々年︑新学制に基づいて関西学院がまったく新しい思いで︑﹁学院の運命を背負って﹂発足した新制中学部については︑これまで詳しく取り上げられたことはない︒本論文は資料に基づいて︑出来る限り忠実に関西学院新制中学部の誕生の経緯を明らかにしようとするものである︒

一 時代背景

  一九四五︵昭和二十︶年八月一五日︑太平洋戦争は日本の敗戦によって終結した︒その後︑日本はアメリカを中心とする連合国軍の占領下に置かれ︑サンフランシスコ講話条約が発効するまでの六年八ヶ月の間︑国としての主権はなく︑多く自由が制限された︒連合国総司令部︵G

関西学院新制中学部誕生物語    〜資料に基づく回顧〜

今田

(3)

HQ︶が戦後いち早く行なおうとしたのは学制改革であった︒不幸な戦争に日本を導いたことの一つに︑戦前戦中を通しての軍国主義教育があったと判断したためであろう︒そこでGHQはアメリカに教育使節団の派遣を要請し︑二十七名からなる使節団は昭和二一年三月に報告書をまとめ︑その中に今日に至る六・三・三・四のアメリカ型学制の提案があった︒それを受けて同年八月︑教育刷新委員会︵委員長安倍能成︑副委員長南原茂︶が発足し︑学制改革等の審議が開始された︒

  図1は教育使節団によって提案され実行に移され︑今日にも続いている新学制と︑それまでの旧学制を対比したものである︒図の上は今日に続く六・三・三・四の単一路線の学制であるが︑戦前・戦中は図の下に見られるように︑教育には複数路線があった︒義務教育は小学校の六年間だけで︑それで学業を終える者︑二年の高等科に進む者がいるかと思え

6 3 3

新 制

6 5 3

旧 制

6 5

関学旧制 6 5 3

昭和21年 現在

商経学部 4

  理工専門部→ 短大

2 3

<単一路線>

<複数路線>

4

  文学専門部   高等商業学部 学校

法文学部

図 1 新旧学制の比較

(4)

ば︑他方には旧制中学五年︑旧制高校三年︑大学四年のエリートコースがあった︒そのような中︑関西学院はどのような路線をもっていたかと言えば︑一つは中学五年の後︑二年間の大学予科と︑それに続く三年間の大学のコースがあった︒大学は当時︑法文学部と商経学部の二学部のみであったが︑現在は十一学部へと発展している︒関西学院には今一つ︑旧制中学五年に引き続き三年間の専門学校があり︑それには文学専門部︑高等商業学部︑理工専門部の三つがあった︒それらは後に短期大学となり︑程なくその役目を終え一九五八年三月には廃止となった︒

二 関西学院新制中学部発足までの百四十三日 

  新学制についての教育刷新会議の審議過程が関西学院で記録に残る形で初めて報告されたのは昭和二一年一一月二一日の定例協議会においてであった︒翌年に新制中学部が入学式を挙げた日から逆算してわずか百四十三日前のことである︒この百四十三日間に起こったことを︑理事会記録︑常務理事会記録︑協議会︵スクールカウンシル︶記録︑及び︑初代新制中学部長・矢内正一先生の日記に基づいてたどることにする︒各種記録を骨とし︑矢内日記を肉としての展開となる︒

  昭和二一年一一月二一日︵百四十三日前︶定例協議会神崎院長報告 ﹁内閣直属の教育刷新委員会はアメリカ側よりの提案にもとづく所謂6︑

 

3︑

 

3教育体制につきては目下研究中にて︑6︑

 

3︑につきて大体委員会の決定をみたるも︑

 

6︑

 

3︑

 

3の後の3につきては未決定である︒6︑

 

3︑

 

3︑

 

4と云うアメリカ型も考慮されつつあり︑6︑

 

3︑

 

3の後の3を︑上級学校につけるか︑中学に属せしめるかについて目下検討中なり︒これが実施を来春に期待するは困難なりとの印象を

(5)

受く︒﹂   補足︵一︶協議会は全学の各部署の代表者による連絡調整の場であり︑ここには矢内先生は旧中学部の教頭として畑部長とともに出席していた︒︵二︶この記録の後半の意味は︑新制中学の発足は次年度から可能であろうが︑新制高校の発足は困難であろうということであり︑事実︑新制高校の発足は一年遅れの昭和二三年度からになった︒

  昭和二一年一二月一二日︵百二十二日前︶常務理事会 報告﹁日本の教育制度が6︑

 

3︑

 

3︑

 

4となるか それに更に変更が加はるか今後の趨勢によりて定まるものとし 当学院もこれに従って研究・変更の必要あることを注意し  各理事意見の交換をなす︒﹂

  昭和二一年一二月一四日︵百二十日前︶緊急協議会  院長報告﹁6︑

 

3︑

 

3︑

 

4学制改革の件来年度に於て実施をはじむる可能性あり︒﹂

  昭和二二年一月二三日︵八十日前︶定例協議会 院長報告﹁6︑

 

3︑

 

3︑

 

4の新制度につきては目下︑部科長会議にて審議中にて︑適当なる時期に於て報告し得るものと思惟せらる︒﹂ 

  同日 矢内日記 ﹁放課後本部で協議会があり︑夜は︑相談したいことがあるから来いとのことで神崎院長の宅を訪問した︒院長は6︑

 

3︑

 

3の新学制に伴う学院の計画と理想を話し︑今年四月からはじまる三年制中学は学院の最初の礎石として大切なものであるが︑これを私にやってもらいたいとの話があった︒然しこの年齢層の少年の教育には私は全然自信がない旨を話し︑再考してもらひたいと話して帰った︒﹂

  補足どうやら新学制の検討は年末から年始にかけて部科長会で始まったようであるが︑その記録は現存しない︒なお矢内先生宅と神崎院長宅は共に甲東園にあり︑徒歩数分の距離にあった︒

(6)

  昭和二二年二月二八日︵四十四日前︶常務理事会  報告初等中学部委員会の件﹁四月より男子のみの三年制中学を開始  原則として大学に直結すること  事務担当は増川主事  之に当たる受験料三〇円  授業料未定  人数一六〇名  現校舎以外の場所物色中﹂

  協議﹁来る四月より中学三年制︵男子のみ︶の﹁関西学院中学部﹂を開設することの提案あり 決定す︒﹂   補足︵一︶初等中学部委員会の報告も現存しない︒︵二︶発足の僅か一月半前に︑新制中学部の設置が学院で機関決定されたことになる︒今では考えられない︒︵三︶授業料は間もなく月額百円に決定される︒なお次年次には百五十円に値上っている︒︵四︶この段階で校舎すらまだ決まっていない︒

  昭和二十二年三月五日︵三十九日前︶ 矢内日記 ﹁院長から又新中学部長になれと云われて困った︒この間帰郷の汽車の中で﹃幸福論﹄をよんでゐるとエピクテータスの言葉で﹃もしおんみが己に適しない役割を引受けるなら︑そのためにおんみは實に恥辱を蒙るのみならず︑なほおんみが果たし得たであろう他の役目を閑却することになるのである︒﹄といふ言葉があった︒平凡なこの言葉が強く私の心に訴へるのは︑私が今右か左かの岐路に立つからである︒﹂     

  補足︵一︶三月七日にも院長に呼ばれ︑新部長は﹁関西学院精神を十分体得した人でなくてはならぬ﹂と院長は強調される︒︵二︶矢内先生の逡巡は続いている︒

  昭和二二年三月一三日︵三十一日前︶常務理事会  協議事項﹁中学部長銓衡の結果  矢内正一氏を推薦したしとの推薦あり  慎重協議の上  之を承認す︒﹂

  補足矢内先生の意に反し︑矢内新部長を常務理事会は決定してしまう︒

(7)

  昭和二十二年三月一五日︵二十九日前︶ 矢内日記 ﹁夜︑来いとのことで院長の宅へよばれ︑中学部長のことを頼まれた︒この間から何回も頼まれたが口頭で手紙でという風に度々断り・・・第一私は部長といふやうな地位に適せず興味も全然ない︒第二に私は下級中学といふ年齢層の取扱に自信がない︒この年齢層に対しては私は素質的に不適格ではないかといふことが私の最大の懸念である︒第三は私の家庭の事情である︒私は老い先の短い母の為にと暫くは余裕のある地位にゐたいと思う心が切実なのである︒然しこれは私事かも知れない︒学院のために︑学院の今の要請に應えて是非にと院長はいふ︒そしてこの前に會ったときにはせめて一年だけでもやってくれ︑一年たてば高校の方へまはしてもよいとまで云った︒これまで折れての頼みを私は断りかねたが︑それでも私はなお望みを持ってゐた︒十三日の常務理事會で他の理事の意見も出て他の解決が與えられることを期待した︒然し常務理事會は私の事情と私の心境に同情を持ちつゝ︑矢張り私に決定してしまったといふ︒私の希望は二十歳前後の学生を対象として教師として純粋の教育に打ち込んでみたいといふことである︒然しこの希望は許されないで︑望まない地位につかなければならない羽目に陥ってしまった︒・・・自分の都合のよいやうにのみ事ははこばない︒不測の運命にも従はねばならず︑義理もある︒最善の道を求めて努力したが︑それが叶えられないときは︑うらまず︑かこたず︑第二の道に最善の努力をかたむけてみるより他に道はない︒私の場合も︑第二の道であると人の智慧で考えたものが︑あとになってみれば神の目からは最善の道であったといふことになるのかもしれない︒私は今新しい運命の下に新しい地位に就て︑最善をつくす外に道を知らない︒﹂

  補足︵一︶学院のために不本意ながら苦渋の決断をされた姿が日記から強く伝わってくる︒

(8)

下級中学という年齢層の教育には不適格であるという思い込みが強い︒︵二︶断る理由の三番目に︑老い先短い母親のために時間を割きたいとあるが︑実は︑矢内先生は二月一六日に兵庫県佐用郡の地主であられた父上を亡くしておられるので︑一人残された母上のことを気にかけておられる︒実はこの年の秋にはこの母上も亡くなられたので︑矢内先生はこの年︑新制中学の誕生と引き換えに︑ご両親を失ったことになる︒

  昭和二二年三月二六︑二七︑二八日︵十七〜十九日前︶ 最初の入学試験 ﹁新制中学部一回生の入学試験は︑入試本部を大学図書館の地下室に設けて行われた︒監督者は各学部から集められ︵た︶・・・︒このように新制中学部の入学試験は︑中学・高商・大学予科・大学各学部すべての心からなる協力を得て行われたことをみても︑学院が新学制によって生まれ出る新制中学部に︑如何に大きな期待をかけていたかを伺うことができる︒﹂︵﹃関西学院高中部百年史﹄︵一九八九︶の上田静雄先生の思い出より︶  

 

  同日︵三月二六日︶矢内日記  ﹁・・・これから︑私の少年を相手の教師生活がはじまるのだが︑十三四才の少年は流石に小さい︒夕方おとづれてきた○○君が﹃人生にめざめる時期の高商の学生に英語の授業をして眞理に対する思慕と熱情とを與へることを最も得意とした先生が︑そんな小さな生徒を対象とすることは苦痛でせうし︑第一そんなめちゃなことはない﹄と云って同情してくれた︒﹂

  補足︵一︶まだ気持ちの整理がつきかねている姿が見て取れる︒この九日前の前掲の日記にあった︑﹁・・私に決定してしまった﹂︑﹁望まない地位につかなければならない羽目に陥ってしまった﹂︑

 

﹁義理もある﹂︑﹁第二の道・・他に道はない﹂などと考え合わせると︑何も知らない

(9)

で希望をもって入学しようとしているわれわれ一期生がやや可哀想になってくる︒︵二︶しかし一九五九年の﹃関西学院七十年史﹄の矢内先生の次の言葉によって救われる︒﹁・・教師の生活も苦しく︑生徒の生活も苦しく︑新設の中学部は何の設備もなかったけれど︑生徒にも教師にも夢があった︒教育としてあんな楽しい時代はなかった︒﹃何故世間の人は中学の教師にならないのだろう﹄と私はよく人に語った﹂︒悩み抜かれている先生の姿を日記で知った後にこれを読むと︑何か拍子抜けの感がしなくもない︒しかしこの喜ばしい結末は︑矢内先生の教育への全力投球と︑それにわれわれ一期生がよく応えたことによるものであろう︒

  昭和二二年三月二七日︵十五日前︶常務理事会  報告﹁二.入学試験・・・新制中学部廿六︑廿七︑廿八日執行︑三.新制中学部長に関する件  矢内正一氏推薦を受諾さる︑四.新制中学部教室 研究の結果  現中学部校舎特別教室を充当することに決す︒﹂

  昭和二二年四月一〇日︵四日前︶常務理事会 

 

報告事項﹁・・・新制中学部入学式に関する件︒四月一四日︵月︶午後九時より中学部講堂にて挙行  新部長矢内正一氏訓話  神崎院長の挨拶 進駐軍神戸情報教育課長フィリップス氏の講演あり  学院教育に適應︵ふさ︶はしい式を挙行す︒﹂   昭和二二年四月一二日︵二日前︶臨時理事会 報告事項﹁神崎院長は左の事項につき報告をなし承認さる︒新制中学に関する件︒  委員会を屡々開催熟議の上︑男子のみの中学を四月より開設さることを決す︒應募者七百六十︑百六十採用︒成績優秀者多く︑将来の学院生徒学生の中核体として︑多望である︒中学部校舎中特別教室使用︒教師は厳選中︒四月一四日入学式挙行︒二五日より授業開始︒新部長︑矢内正一氏を推薦︒宗教教育と英語学修に特色の要点をおく︒﹂

(10)

図2 旧中学部校舎(1929(昭和 4)年当時の写真と思われる)

図3 兵庫県知事に提出された設置認可申請書

(11)

  補足︵一︶図2の写真は︑いまは取り壊された旧中学部の建物であるが︑新制中学部の校舎にきまった﹁特別教室﹂は︑中央の本館の左︑渡り廊下を渡った南︵左端︶の棟である︒新制中学部はこの部分を専用し︑右端にある講堂を共用していた︒︵二︶図3は︑兵庫県知事に提出された新制中学の設置認可申請書に添付されている特別教室一︑二階部の平面図であるが︑傍線の六室が教室として用いられた︒職員室は二階の屋上庭園に通ずる部屋である︒この申請書で注目すべきは︑提出日が四月一九日になっている点である︒つまり入学式はすでにこの四日前に済んでいる︒いかに混乱の中のスタートであったかが伺える︒なお新学制を含む﹁教育基本法﹂﹁学校教育法﹂が公布されたのは昭和二二年三月三〇日のことであった︒

  昭和二二年四月一四日︵〇日︶矢内日記 ﹁新制中学入学式︒満開の桜花の下をお父さんやお母さんが子供をつれて登校されるのを見て﹃日はうら〜  花もうら〜  今日この日  新学舎︵にひまなびや︶に  吾子を伴ふ﹄といふ高田保馬さんの歌を思ひ出した︒とう〜私も入学式に訓示を述べる身分になってしまった︒キリスト教による人権教育の理想︑學問に對する熱情︑体育の大切さなどを述べた︒前にならんでゐる少年たち︑可憐にして賢さうな彼等の姿を見てゐると︑私のうちに強い熱情がかき起って来る︒﹂

  補足︵一︶このように新制中学は混乱の中でかなりの無理を伴って発足したが︑そこには日本の教育の民主化に向けて︑新制中学だけは何が何でも昭和二二年度から発足させるようにとの占領軍からの至上命令があった︒占領下にあった日本はそれに逆らうことができない状況にあった︒事実︑この﹁無理﹂は︑次に掲載の文章に生々しく見て取ることができる︒これを見るとわれわれなどは余程恵まれていたことになる︒  

(12)

  ﹁発足当初の新制中学校﹂︵文部科学省ホームページより︶﹁発足当初の新制中学校は︑予算や資材の不足から︑校舎︑設備︑教材︑教具のすべてにわたり︑また教員組織についてもきわめて不満足な状態であった︒ことに︑中学校はなんらの母体や下地をもたずに発足したため︑特に校舎や教室の不足は深刻をきわめた︒戦災をまぬがれた旧高等小学校などを転用して独立校舎をもちえたものは︑当初︑中学校の十五%にすぎず︑二四年四月当時︑二部・三部授業を実施するもの二千三百六十八教室︑講堂や屋内体育館を間仕切りしているもの三千三百四十二教室︑廊下・昇降口・物置きなどを代用しているもの三千九十教室というありさまで︑いわゆる青空教室や不正常授業はいたるところでみられた︒教員の約半数は国民学校からの転任により︑その他は青年学校や中等学校からの充足によってまかなわれたが︑それでも発足当初の教員充足率は約八十一%であり︑必要な免許状を持たないものの比率はきわめて高い状況であった︒﹂

三 初年度の教師陣

  われわれの新制中学一期生百六十二名は四クラスで始まったが︑入学式当日の写真を見ると︑もともと白亜の校舎もまだ黒く迷彩が施されたままだし︑教師は矢内︑高橋︑庄ノの三人しかいない︒また時代を反映して︑新入生は全員丸坊主である︒しかし貧しい中ではあったが兎に角われわれの中学生活は始まった︒ただ矢内部長の悩みは︑良い教師陣をそろえることであった︒矢内日記から︑その苦労をたどることにするが︑その前にまず表1を見てほしい︒

(13)

第2(1948)年度 就任専任教員

第3(1949)年度 就任専任教員 浜田 庄四郎

上田 静雄 甲斐 淳吉 坂東 邦夫 山川 学三郎

米田  要 広瀬  保

社会 理科 美術 数学 英語 英語 国語

北川  清 佐藤 和愛 馬  永康 寺脇 秀子 辻村 恵治 森下 和郎 山崎 治夫

理科体育 音楽 理科 国語 社会 理科 聖書 第4(1950)年度

就任専任教員 牧   馴  諸田  実  藤田 金伍 

国語 社会体育 国語

クラス担任

● 専任 ○ 非常勤 氏名

矢内 正一 高橋 信彦 庄ノ 昌士 眞田 淑子 井上 久治 カッブ 夫人 木村 知石 喜多 福治 三浦 大蔵 佐藤 和愛 日高 重市 蒲生 守義 浜田 庄四郎

役職 部長 教務 事務

教科 英語 理科 社会 国語 社会 英会話

書道 数学 数学 音楽 体育 数学 社会

4月

5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 入学式

社会科及事務を担当

4・25 矢内日記 院内講師

9・1 矢内日記 11・21

院内講師

病気退職 7・1 矢内日記 戦後復帰宣教師第1号J.B. Cobb氏夫人

4・14 矢内日記、S24/3 嘱託から専任へ 月360円 4・25 矢内日記

院内講師

初(1947)年度教員

表1 昭和 22 年度に就任した新制中学部教員(上段)(下線は専任)と、

   昭和 23、24 年度に就任の教員(下段・専任のみ)

われわれが入学当時の時計台

黒く迷彩が施されていた。(筆者撮影)

(14)

  表1の上段には︑常勤︑非常勤いずれかで初年度に就任した十三名の教師を︑就任月がわかる形でまとめたものである︒すでに述べたように入学式には三人の先生しかいなかったが︑四月中に四人増えている︒庄ノ先生は四月の理事会で初めて承認されているので●が入学式の時と二カ所についている︒眞田先生の月給が三百六十円とある点も注目してほしい︒新制中学の受験料が三十円︑授業料月額百円であったから︑これだけで三百六十円の三分の一以上が飛んでしまう額である︒以下矢内日記の中から教師の選考過程を見てみよう︑矢内先生が理想とする教員を︑わずかな給料で求めなければならなかった苦労がよくわかる︒

  昭和二二年四月五日 矢内日記 ﹁・・・ともかくよき教師とよき生徒を集めて砂漠の中のオアシスの如き真理に對する思慕と熱情に燃える學園を作り上げたいといふ理想が︑どの程度に実現出来るか︑私の責任は誠に重い︒﹂

  四月一一日 矢内日記 ﹁・・・国語にも実にいゝ先生が別にあるのだが待遇の問題などで自らの制約があり︑理想の中学をつくり上げることは必ずしも容易ではない︒﹂

  四月二五日 矢内日記 ﹁木村さんといふ書道の先生からきてやらうといふ返事を貰った︒これは素晴しい字をかく先生である︒眞田さんといふ女の先生の方は給料の問題もあり未決定であるが︑事を急ぐので夜純吉に手紙を持って行かす︒待遇の十分に出来ない関西学院では中々いゝ人を得ることが困難である︒然し既成の大家を集めることが出来なくとも︑學院の教育を愛する人や熱のある若い人を集めてそこに一種の力のある雰囲気を出す道もあらう︒高橋君や井上君のゐてくれることは實に心強い︒このやうな人を中心として必ず何とかしてみたいと思ってゐる︒﹂   四月二六日  矢内日記  ﹁・・・夜眞田さんが来訪︒結局承諾して来てくれることになったが︑

(15)

女の人には一種の長所がある反面︑又一種の面倒な心理の動き方のあることが感ぜられる︒大変いゝ働きをしてくれる期待があるが︑然し又長つゞきしないのではないかといふ心配もする︒今日學校へ甲陽の辰馬吉男君が来て甲陽のことをはなしてゐたが︑甲陽はすばらしい教師を集めたらしい︒我々の三倍もの金を生徒からとり︑あらゆる有利な条件を以ってよい教師をそろへた甲陽は一応よい學校を實現するだろう︒我々は甲陽のやうに住宅を提供することも出来ず今の住宅難に遠くから人を頼んで来ることは不可能であるし︑給料を以って誘ふ方法もない︒然し私は︑精神の上に立つ學院がこのキリスト教精神を中心に生命のあふれた甲陽以上の教育を実現し得る道があるといふ望みはすててない︒﹂

  補足︵一︶眞田先生の就任承諾によって専任が四人になり︑何とか四クラスの担任が次のように決まった︒一組高橋︑二組眞田︑三組庄ノ︑四組井上︒︵二︶眞田先生については︑当初は一抹の不安があったようである︒

  五月一四日 矢内日記 ﹁音楽の先生は・・・・今日になってやっと北口に住まわれる佐藤和愛さんといふ女の方に決定した︒午後訪問して色々話をしたが大変よい人のやうである︒人間的感化といふことを私は考える︒先生がすきだからその學科がすきになりその人のつまらぬ癖までがそのまゝ入ってしまふといふやうな感化を考えると︑たゞ教授法だけうまいといふやうな人をとらうとは思はない︒二三日前も珍しく男の音楽の先生をつれて来てくれた人があり會ってみたけれど︑卑しい感じの人だった︒佐藤さんは會ってゐて人としてのよさがはっきり感じられる人である︒人間の美といふことを考えずにはゐられない︒﹂ 

  補足︵一︶上に見るように︑佐藤先生は絶賛である︒ただ佐藤先生が専任になるのは昭和

(16)

二四年になってからである︒︵二︶上に〝卑しい〟という言葉が出てくるが︑矢内先生はその日記の中で人のことを悪く言うことはこれ以外にはない︒極めて珍しいことである︒

 

  五月三〇日 矢内日記

 

﹁新制中学の修学旅行で奈良に行った︒・・・一ヶ月前には学院とも何の関係もなく何の感興もなさゝうだった眞田さんも︑子供に愛着を抱いて来て︑子供を心から愛撫し︑子供たちもお母さんに對するやうに周囲によりたかってゐる︒﹂

  補足当初一抹の不安があった眞田先生についても︑これでホット一安心ということか︒

  七月一日 矢内日記 ﹁放課後︑職員会︒五時まで色々話をした︒職員会と云っても今日は井上さんが休みで︑高橋さん︑眞田さん︑庄ノさんの三人と私とで合計僅かに四人だけれど︑この四人は實に気持ちよく話し会える︒井上さんが最近のレントゲンと咳痰︵喀痰?︶の検査で︑結局やめなければならぬことになり︑この人を失ふのは惜しいけれど︑これはどうも仕方がない︒﹂

  

補足︵一︶井上先生が辞められ︑その結果四組のクラス担任は蒲生先生となる︒︵二︶井上先生の退職に伴い︑社会科の教員の補充が必要となる︒

  一〇月二一日 矢内日記 ﹁昨日訪問した北口の浜田庄四郎氏を再び訪問︒新制中学の教師になってもらひたいと長いこと話しこんだ︒中学部をやめて実業界に入ったが︑・・・中学部をやめるときも自らの組から多数の学生が厳罰をうけた責任を負ふといって無理にやめてしまったが︑この人が実業界などで生きて行ける筈はない︒欠点はあるが純情を買って︑この人をもう一度新制中学で働かせて見たいと思う︒・・・浜田君は実業界に教育家的精神を生かしてみやうなどゝいふドンキホーテ的な夢を持っている︒この人はいつまでも悲劇の主人公たらんとするのであらうか︒﹂

(17)

図4 昭和 23 年度現在の教員 木村知石、K.W. ジョンソン、広瀬保、

米田要、蒲生守義、眞田淑子、

庄ノ昌士、甲斐淳吉、山川学三郎、浜田庄四郎、

高橋信彦、矢内正一、坂東邦夫   補足︵一︶われわれが親しみを込めてシェイルンと読んでいた浜田先生の人となりがよく表れている︒︵二︶浜田先生は一一月二一日に教員に戻ることを決意されるが︑学院の財政的事情によるのであろう︑専任への就任は次年度からとなり︑それまでは講師として教壇に立たれた︒

  昭和二二年五月二二日  矢内日記﹁私の教育の大綱のやうなものを︑理事會への報告書の中に書いてみた︒﹃我が愛する一年生に︑︵一︶

 

少年たちよ 若き日に神を知り 常に信仰に生き 望みに生き 愛に生きる少年となれ︒︵二︶

 

少年たちよ 若き日に真実に学問を愛する精神を体得せよ︒朝に夕に刻苦 精進 学術 奉公の精神に生きる少年となれ︒︵三︶少年たちよ 青白き生気なき少年となるなかれ︒強き身体なくしては大成は期し難い︒日々身体を鍛へ強健溌溂たる少年となれ︒︵四︶

 

関西学院の運命は君たち若き少年の双肩にかゝってゐる︒常にわが関西学院を愛し日々夜々至誠と努力とを以てよき学院建設のために協力せよ︒﹄﹂

(18)

四 新制中学と旧制中学    関西学院に新制中学部が発足した時に取り得た形態としては︑図5のように二つのオプションがあった︒一つは図の左端のように︑旧制中学の最初の三年を新制中学とし︑上級の二年を旧制中学四︑五年度生に位置づける道だった︒事実お隣の神戸女学院はこの方式をとったため︑われわれの同学年の人たちは︑すでに上級生がいる新制中学に入学したことになる︒それに対して関西学院の場合には︑図の右半分のように新制中学を旧制中学と截然と分離し︑これまでとは異なるまったく新しい中学校としてスタートさせた︒事実校舎の中に壁をつくり旧制中学二〜五学年とは物理的に切り離された︒続く昭和二三年度からは新制高校がスタートしたので︑新制中学と旧制中学の関係は図のようになり︑更に翌二四年度には新制中学︑新制高校ともに完成した形となる︒︵注記一九九八年発行の関学同窓会名簿の﹁中学部昭和二三年︵一九四八︶〜﹂のセクションには︑あたかもわれわれ新制中学一期生が新制中学三期生のような記述になっている︒︶

昭和22年度 オプションとし てあり得た形

昭和22年度 昭和23年度 昭和24年度

旧制中学5年    〃   4年 新制中学3年    〃   2年    〃   1年

旧制中学5年    〃   4年    〃   3年    〃   2年 新制中学1年

新制高校3年    〃   2年    〃   1年 旧制中学3年 新制中学2年    〃   1年

新制高校3年    〃   2年    〃   1年 新制中学3年    〃   2年    〃   1年

図5 新制中学としてあり得た2つのタイプ

(19)

  ここで注目すべき点が三点ある︒第一は︑旧制中学の時代に比べて中等教育の就学年限が一年伸びたことである︒したがって図から見て取れるように︑旧制中学の卒業証書と︑新制高校の卒業証書を二年続きで受け取った学年があったはずである︒第二は︑われわれの一年上の学年は︑昭和二三年度には非常に中途半端な状態にあったことである︒つまり新制中学でも新制高校でもない︑一学年だけの旧制中学三年生という年があったことになる︒この旧制中学三年は新制高校の管理下に置かれたため︑この学年は時として〇学年と称せられた︒第三は︑昭和二三年度の旧制中学の先生方は︑将来新制高校がどうなるかまだ分からない中︑非常に行く先に不安を抱えておられたであろう︒事実そうであったことが︑次の矢内日記に見られる︒

  昭和二二年四月一八日 矢内日記 ﹁・・・夜十一時まで来客がつゞいたが其一人は上田君で旧中学部教員たちが前途の多分の不安を感じてゐるといふ話があった︒﹂

  昭和二二年五月一三日 矢内日記 ﹁・・・旧中学部の四五年生の為に補習をする︒これは私の旧中学に對するせめてもの心盡しであり︑これから毎週一回づゝつゞけるつもりである︒﹂

  補足新制中学に移った矢内先生は︑旧制中学に対する一種の罪の意識があったようで︑このような無償のボランティア補習を行っている︒秋には父兄会が見かねて謝金を用意するが︑矢内先生は頑として受け取らず︑最後には受け取られたものの︑新制中学の教材購入にそれを当てている︒いかにも清廉潔白な矢内先生らしい︒

  昭和二二年六月二〇日 矢内日記 

 

﹁午後︑畑さんの送別会があった︒畑さんはとうとう中学部をやめて松山外語専門学校へ行くといふ︒新制中学がもえるやうな希望の中に仕事をつゞけてゐるのにくらべて旧中学のすがたは誠にさびしい︒﹂

(20)

  補足畑先生は当時旧中学部の部長であった︒したがって旧中学部は二年続きで教頭と部長を失ったことになる︒

  昭和二二年七月八日 矢内日記 ﹁午後二時頃︑旧中学の岡島君が新制中学へ話に来て︑旧中学と新制中学との関係について学院の今春以来のやり方がよかたかどうかといふやうなことについて話しかけられ︑随分議論もして八時頃まで話し合ふ﹂︒

  補足︵一︶岡島先生が延々6時間にわたって矢内先生に食い下がられているところに︑問題の深刻さが伺える︒矢内先生も大変であったろう︒︵二︶このような旧制中学部の当時の状態とは対照的に︑新制中学には活気溢れていたことが︑次の矢内先生の﹁新制中学部開設当時の思い出﹂︵﹃関西学院七十年史﹄一九五九年︶から伺える︒﹁教師数人と生徒百六十人の中学部は実に家庭的な集団だった︒職員室は同時に事務室であり︑

 

生徒の読書室であり︑

 

父兄の応接室でもあった︒生徒のお母さんが来られると︑

 

職員室の火鉢のまわりに教師の総てが集り︑

 

お母さんと一しょに話をした︒私も全部の生徒をよく知っていた︒教師の全部が全校の生徒の個性特徴をよく知っていた︒だから教師の皆が集まってお母さんの相談にのった︒今思い出しても実に気持よい私塾的雰囲気であった︒﹂

  確かに新制中学発足時の雰囲気は懐かしい︒しかし三年経てば︑われわれもこのような私塾的雰囲気の楽園を卒業して高等部に進み︑新しい経験をすることになる︒外部の中学校からの入学者との出会い︑新しい先生方との出会い︑上級生との出会いなどがあったが︑これらの新しい経験は人間の成長の過程で必要なことであったろう︒しかしいささか強烈過ぎる出会いもあった︒例えば一年上の学年の者で進級できなかったかなりの数の者が︑われわれのクラスメートとなっ

(21)

たが︑その中には休み時間に教室の外の廊下で︑ドス︵大型ナイフ︶をもって上級生相手に立ち回りをするような者もいて度肝を抜かれたことがある︒また学制の変化によってかなりの数の大学予科の先生が新制高校の先生になられた︒レベルの高い立派な先生方であったが︑高等部で教諭と呼ばれることを良しとせず︑予科時代の教授・助教授といった職階制を要求し︑それが高等部に持ち込まれた︒生徒はそのようなことを知る由もないが︑職位にこだわる先生方と︑生徒と一緒にどろんこになって教育に当たる新制中学の先生方との間では︑その醸し出す雰囲気には︑肌で感じられる違いがあった︒このようなことに多少の失望感を抱いた者は私だけでなかったのではないだろうか︒

五 矢内先生とキリスト教

  入学時から礼拝でお話をされ︑祈祷もなさる矢内先生の姿を見て︑誰しも先生は最初から敬虔なクリスチャンだと信じていた︒ところが先生が洗礼を受けて正式のクリスチャンになられたのは︑われわれが一年生のクリスマス︑つまり昭和二二年一二月二一日のことである︒基督心宗大阪教会で川合信水師より受洗されている︒基督心宗というのは︑キリスト教の中では正統派とは言えない︒それでは矢内先生の信仰とはどのようなものであったのか︒先生の日記をたどってみる︒

  昭和二二年九月一一日  矢内日記  ﹁釘宮先生が午前〇時六分になくなられた︒・・・この二三年︑先生は私にも深い関心を持って下さって︑病苦をおして私の宅へ来て下さり︑病床から長い

(22)

手紙を下さったりした︒とうとう私は先生の手によって洗礼をうけるといふことはしないですんでしまったけれど︑結局先生の勝利であったと思ふ︒私は新制中学の礼拝でキリスト教に従ってお祈りをするやうになってゐる︒洗礼などはルナンも云ってゐる通り︑本質的な問題ではないと思ひ︑そういふことを無視して私は祈ってゐる︒人はそれを云々するかも知れない︒然し神はそれをそのまゝ受入れて下さると思ってゐる︒超越神だとか汎神論だとか云ふのは︑議論であって宗教ではない︒絶對の神はさういふ小さなものではない︒総てを包摂して海の如く深く広いであらうし︑富獄の如く高く雲の中に姿を没して︑千変万化神秘の姿を見せるのが神である︒超越神の概念を入れ︑汎神論の観念を包摂して私の神は存在する︒私はその前に時には仏教の如く祈り︑時にはキリスト教の如く祈る︒そして私は矛盾を感じない︒﹂   昭和二二年一二月一六日  矢内日記  ﹁鮫島さんから受洗をすゝめられた︒﹃釘宮先生が矢内さんと石本さんとのことをよろしく頼むと云い残されて︑たえず心にかゝってゐました・・・﹄︒   今更のやうに釘宮さんの私に對する御好意に對し感謝の思ひがわく︒釘宮さんが私の為に祈って下さったその祈りは私に對して決して無駄ではなかった︒情的には釘宮先生︑思想的には私は奈良の原田先生に導かれた︒神はあらゆる国土︑あらゆる時代に様々の形をとって示顕する︒その総てを研究して大きな神をつかまなければ小さなけちな神になってしまふと原田さんは云はれる︒仏教をも十分に抱擁し﹃贖罪﹄の問題にも必ずとらはれる必要なく︑﹃洗礼﹄にもとらはれないでよいと説く原田さんのキリスト教は︑私には真實共鳴の出来るキリスト教である︒私はまだ洗礼はうけてゐないが生徒に向かって熱情をこめて話したりした後で︑祈りたくなるとそのまゝキリスト教的な祈祷をするやうになってゐる︒夜など寝床に座って祈ることもある︒洗礼な

(23)

ど本質的なものでないから無視してもよいけれど︑然しうけることをたつて拒むべき理由もないといふ気持になってゐることを鮫島さんにも話した︒﹂   昭和二二年一二月二一日 矢内日記 ﹁川合先生が・・・服部の教会で・・・説教をされるので・・・聞きに行った︒奈良の原田先生が来てゐられて︑川合先生も八十一才︑いつなくなられるか分からないのだし︑これが最後の機會かもしれないから︑この際に受洗入門をしておいてはとの話があったので︑突然だったけれど川合先生の手によって他の十人ばかりの人々と共に洗礼をうけた︒仏教とキリスト教は二者選一的なものではないと原田さんは云はれる︒川合先生の師であった押川先生もキリスト教徒が神社の礼拝を拒むべき理由はなく︑先祖の位牌をすてるべき理由もないと云ってゐられる︒私が長い間受洗を躊躇したのは︑こんな浅い信仰でクリスチャンであると云ふのはおもはゆいといふ心であり︑又私のキリスト教が純粋な所謂正統的なキリスト教とちがってゐるからであったが︑前の理由に對しては世間の人のおもはくなどどうでもよく︑小さな潔癖がおひおひうすれて﹃間違ひの多い信仰のうすいクリスチャン﹄と云はれても︑それを甘受してお祈りをしやうといふ気持になったこと︑そしてそこから新しい出発をしてみやうといふ心になった為であり︑後の理由に對しては︑川合信水氏のキリスト心宗が私のやうな宗教的立場を認めてくれることを原田先生を通じて知ったことの為である︒﹂

  補足︵一︶鮫島さんとは︑当時の礼拝主事の鮫島盛隆氏のことで︑釘宮先生とは関西学院教会の牧師であると同時に学院の理事︑日本メソジスト教会第五代監督も勤められた釘宮辰生氏のことである︒︵二︶奈良の原田先生のもとへは︑近くにお住いの職員の前島氏と共によく通っておられたようである︒︵三︶矢内先生の古い日記を見ると︑先生のこのようなキリスト教に対す

(24)

る考えは︑既に昭和一四年頃からのものであることがわかる︒しかし先生のこのような特殊なお考えが生徒の指導に表れることはなかったと思う︒

六 結語と余話

  結語  関西学院新制中学部は︑以上に述べたように戦後の混乱の中︑優れた指導者・矢内正一先生の教育に対する熱い思いのもとで発足した︒今年創立一二五周年を迎えている関西学院の歴史の半分以上になる六十七年も前のことになり︑その一期生は八十歳を迎えている︒当時のことがそのまま今日に当てはまるとは思わないが︑矢内先生と初期の先生方が抱いておられた教育者としての愛情・誠意・熱情は今日の関西学院中学部においても引き継がれていると信じたい︒その再確認のためにも新制中学の出発の原点に関心をもってほしい︒

  われわれの時代は社会全体が誠に貧しく︑学校が砂漠の中のオアシスのような存在であった︒つまり子供の生活全体に占める中学部生活の重みが大きかったように思う︒シンプルライフだったからこそスポンジのように先生方の教育愛を受け入れた︒今日は世の中が豊かになり︑価値が多様化し︑情報過多になり︑目移りするものだらけである︒昔と同じことをしても生徒に届かない時代かもしれない︒しかし豊かで複雑化した時代であるからこそ若者には指針が必要ではないだろうか︒矢内先生が昭和二二年五月二二日の理事会への報告書に書かれた﹁少年たちよ・・﹂の四ケ条は︑今日でも人生の基礎として立派な指針として役立つのではないだろうか︒そして今も昔も教育には欠かすことのできない愛情・誠意・熱情をもって︑関西学院中学部ならではの人

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生の基礎をつくる教育に当たっていただきたいと願っている︒

  余話 最後に矢内先生の知られざる一面に触れて稿を置きたい︒本稿でも大幅に引用したが︑矢内先生は一九一四年九月一日︵姫路中学二年生二学期︶から一九八〇年一一月三〇日まで丹念に日記をつけておられる︒それが図6のように学院史編纂室に大切に保管されている︒

図6 矢内正一先生の日記(1914 〜 1980)

図7 矢内日記の最初の1頁 図8 矢内日記の扉の絵

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  図7は一九一四年の日記の最初の一頁である︒毛筆で丹念に書かれている︒図8は第一頁に先立つ扉に描かれた鉛筆画である︒とても優しい︑後の教育者矢内先生を彷彿とさせる手抜きのない筆致である︒

  実は矢内先生は一九三九︵昭和一四︶年七月三日から八月三〇日の間︑関西学院から国策に従って派遣された興亜学生勤労報国隊の一隊の隊長として五名の学生を引率して満州にわたっておられるが︑その間は小ぶりの日記帳を持参され絵日記をつけておられる︒それを見ると先生の絵心に驚かされる︒新発見であった︒ここにユーモラスなものも含め︑情景描写を中心に数枚を選んで紹介し稿を閉じる︒優しい水彩色が伝わらないのが残念である︒

水汲む少女

昂々渓の教会堂

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「野天につくられた我等の大便所(すんで立上がった人、あいてゐるかど うかを上からのぞいて見る人)」       8月8日、9日の絵日記

「やせた先生 飯と汁とをはこぶ」 「妻を乗せて帰る」

(28)

「我等の野天風呂

 (上半身だけ日にやけた学生)」

「ひげを土産に」

︻参考文献︼中学部年史編纂委員会︵編︶  一九九七   ﹃関西学院新制中学部の五〇年﹄関西学院中学部  関西学院高等部百年史編纂委員会  一九八九  ﹃関西学院高中部百年史﹄関西学院高中部上田静雄 一九八九  ﹁終戦前後の旧制中学部から︑夢多き新制中学部へ﹂﹃関西学院高中部百年史﹄一三八〜一四三頁矢内正一  一九五九   ﹁新制中学部開設当時の思い出﹂﹃関西学院七十年史﹄五三〇〜五三五頁矢内正一  一九三九〜一九八〇  ﹁矢内日記﹂学院史編纂室所蔵の﹁関西学院理事会記録﹂︑﹁常務理事会記録﹂︑﹁協議会記録﹂

参照

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