• 検索結果がありません。

昭和初期における土肥一雄とバスケットボールとの関係 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "昭和初期における土肥一雄とバスケットボールとの関係 利用統計を見る"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

昭和初期における土肥一雄とバスケットボールとの関係

A Historical Study on the Relationship between Kazuo DOHI and Basketball in the Early Showa Era

及 川 佑 介 Yusuke OIKAWA

1.は じ め に

本稿では、昭和初期におけるバスケットボール の競技力向上過程に関する研究の一齣として土肥 一雄について考察する。

彼は昭和初期に関西と関東でバスケットボール を競技者として経験し、日本代表選手に選考され るほどの競技力を有していた。昭和初期のバスケ ットボール界では李想白が中心的な人物であり、

彼による『指導籠球の理論と実際』(昭和5年)

は昭和初期にバスケットボールのバイブル的存在 であったといわれている1)(写真1参照)。その作 成に土肥一雄は関わり、彼は李想白のバスケット ボールの教え子でもある2)(写真2参照)。そして、

土肥一雄は昭和初期の戦術の導入で重要であるシ ステムプレーについて執筆している。

資料としては、土肥一雄が寄稿していた『籠球 研究』(全 10 号、昭和9~11 年)、土肥一雄の長 男の土肥禎からの聴き取り調査、土肥一雄が所持 していた写真などを用いる。

国士舘大学大学院スポーツ・システム研究科(Graduate School of Sport System, Kokushikan University)

AND SPORT SCIENCE VOL.30, 119-124, 2011

報告書(体育研究所プロジェクト研究)

写真1 『指導籠球の理論と実際』(昭和 5 年) 写真2 土肥一雄と李想白(中央:土肥、右:李)

(土肥禎(土肥一雄の長男)より提供)

(2)

2. 土肥一雄とバスケットボールとのかか わり

土肥一雄は明治39年4月1日に生まれ3)、関西 学院高等商業部卒業後、早稲田大学へ昭和3年に 入学している(写真3参照)。土肥一雄は長男の禎 に早稲田大学にはバスケットボールのために進ん だと告げていたという4)。そして、土肥一雄が早 稲田大学在学中の3学年下には、戦後に日本代表 チームの監督を務めた牧山圭秀がいた。その牧山 圭秀は土肥一雄について次のように述べている。5)

土肥氏は、関学、早大の名プレイヤーであ っただけでなく、理論家としても第一人者で あり、卒業後も日本のバスケット技術に大き な貢献をされております。(中略)土肥さんは 李さんに私淑されており、李さんも土肥さん を東京に連れてきたかったに違いありません。

このことから土肥一雄が早稲田大学に進学した のは、李想白がいたことも関係していたと考えら れる。

土肥一雄と李想白は早稲田大学という枠組み以 外でも、共に活動している場面がみられる。例え ば、上記したように、李想白が昭和5年に著した

『指導籠球の理論と実際』では、土肥一雄らが技 術の実例を写真で表すために協力している6)(写 真4参照)。さらに、昭和6年にフィリピンから セントトーマス大学を招待して、東京、愛知、京 都、大阪、兵庫の順に大学チーム等と試合を行っ た時に、大日本バスケットボール協会から準備委 員を任されたのは、 李想白(主任)、 土肥一雄、

他3名であり、土肥一雄らは、セントトーマス大 学を出迎え、同行している7)

昭和4年から昭和7年まで、甲南高等学校のバ スケットボール部の夏季合宿とインターハイで指 導に携わっていた8)9)。土肥一雄は昭和5年の第 9回極東選手権競技・東京大会で選手として出場 し(写真5参照)、昭和9年の第 10回極東選手権 競技・ マニラ大会ではコーチとして参加してい る10)11)

土肥一雄は常磐生命保険会社を辞め12)、 昭和 10 年に関西に帰って来たことを、「本年の三月ま で東京に籍を有していたが家庭の事情のために、

満7ヶ年の東都の生活を清算して久方振りに関西 に帰って来ました」13)。そして、「もう自分もコ ーチする機会は絶無と云つてよい様な境遇にい

写真3 土肥一雄

(土肥禎より提供)

写真4 『指導籠球の理論と実際』392 頁で    掲載された写真(右:土肥一雄)

(土肥禎より提供)

(3)

る」14)と述べ、関西に帰って来て、バスケット ボールとあまり関わりを持たなくなっていたこと を指している。しかし、彼は戦後の昭和 27 年に は滋賀県バスケットボール協会の初代会長とな り、逝去する昭和46年まで務めることになる15)

土肥一雄が滋賀県バスケットボール協会と関わ ったのは、彼の職場と関係していたと考えられる。

彼は就職がなく兵庫県立第一神戸高等女学校でバ スケットボール部の指導をしていた松本幸雄に頼 んでいる。松本幸雄は父の速瀬に日本黒鉛工業株 式会社へ入れてもらえぬものかと願ったが、「そ んなにバスケットボールばかりして遊んでいる奴 に勤まるかい」16)と怒られたという。 しかし、

結局土肥一雄はそこに務めることになり、後に日 本黒鉛工業株式会社の社長、会長を歴任すること になった17)18)

日本黒鉛工業株式会社は、戦前の本社は神戸、

工場は滋賀県にあった。 本社も昭和 23 年に滋賀 県へ移したことで、土肥一雄は滋賀県バスケット ボール協会と関わりを持ったと考えられる。

3.土肥一雄と「バリーシステム」

土肥一雄がバスケットボールの競技者を経験 し、指導者として活躍した昭和初期は、日本のバ スケットボールの競技力向上過程において重要な 戦術の導入があった19)。その戦術がシステムプレ ーである。

大日本バスケットボール協会は、昭和 8年にア メリカからジャック・ガードナー(Jack Gardner)

とクレランス・アンダーソン(Clarence Anderson)

を招聘して、全国各地で約一カ月に渡り講習会を 開催している(写真6、7参照)。これが、ガー ドナー講習会といわれ、この講習会を開催したこ とで、バスケットボールの戦術をシステム的に考 写真5 第 9 回極東選手権競技・東京大会(昭和 5 年)

(土肥禎より提供)

写真7  ガードナー講習会(昭和 8 年)

(土肥禎より提供)

写真6 ガードナー講習会での土肥一雄(昭和 8 年)

(土肥禎より提供)

(4)

えることが一般化し、システムプレーという戦術 を取り入れることの必要性が全国的に広まった。

ガードナー講習会以降、システムプレーという 言葉は日本のバスケットボール関係の印刷物を賑 わせた。しかし、その内容について具体的に記述 されたものはほとんど見受けられない。それはシ ステムプレーを詳しく理解していた者が少なかっ たためと思われる20)21)。その中で、現在確認し ている限りでは、唯一システムプレーの内容を詳 しく紹介していたのが松本幸雄編集の『籠球研 究』(昭和9~11年、全10号)であった。松井聰 によれば昭和8年から4年の間に、日本は何らか のかたちで戦術をシステムとして定着するように なったという22)。つまり、昭和8年からの4年間 は指導者・競技者の戦術に対する認識は、システ ムプレーを深化させた時期であったと考えられ、

この時期に『籠球研究』は刊行されていた。また、

松本幸雄の『籠球研究』は全 10 号出版され、最 終号にシステムプレーをトップ記事として取り上 げていた。その記事を寄稿したのが土肥一雄であ った。

土肥一雄の執筆は、松本幸雄の『籠球研究』の みで確認出来る。この『籠球研究』に彼は5回執 筆し、内3回が外国文献の訳載で23)、それらの執 筆内容は、審判法、大会の報告、戦術の紹介であ った。

彼が『籠球研究』の最終号に寄稿した「バリー システム」は「ガードナーシステム」とも呼ばれ、

早稲田大学や立教大学が用いていた戦術であ る24)

「バリーシステム」とは、昭和8年のガードナ ー講習会で日本に伝わった戦術であり、「そのシ ステムを最も巧みに採入れた早大が我国に於ける 本家の如く取あつかはれ、一般からは驚異の目で 迎へられた」25)と、土肥一雄は述べている。当 時の早稲田大学は、全日本総合選手権大会で昭和 5年度準優勝、昭和6年度優勝、昭和7年度準優 勝、昭和8年度優勝、というような強豪チームで あったこと。そして、土肥一雄自身は早稲田大学

出身者であり、ガードナー講習会に参加し、さら に、彼はジャック・ガードナーに付き添ったこと で、講習会以外でも「バリーシステム」のことを 詳しく知り得たという26)(写真8参照)。

土肥一雄は『籠球研究』第 10号で、「バリーシ ステム」について3頁に渡って記している。彼曰 く「バリーシステム」は一つの基本プレーから派 生する数 10 種のヴァリエーションを持つ戦術で あるという27)。彼は『籠球研究』で「バリーシス テム」を図入りで 20通り説明している。ただし、

この 20 通りは、ほんの一例であるとし、競技者 や指導者の思考、または、個々の基礎技術の向上 により、幾通りもの展開を考えることが出来ると 述べている。

このように、土肥一雄は『籠球研究』で、当時、

紙上公開されるのは稀なシステムプレーを紹介 し、それを我が国に定着させるための課題として、

競技者や指導者の思考と個々の基礎技術の向上を 指摘したのであった。

写真8 土肥一雄とジャック・ガードナー(昭和 8 年)

(土肥禎より提供)

(5)

4.お わ り に

土肥一雄とバスケットボールとの関わりや彼が

『籠球研究』第 10 号に記した「バリーシステム」

などから、我が国では競技力を向上させようとし てシステムプレーという戦術の導入を模索してい たことがわかった。

大日本バスケットボール協会を設立した昭和5 年に李想白は、「基礎の抜術に練達すればティー ム・プレーの運用は殆んど之れを問題とするにも 足らぬ程容易なものと見ることが出来る」28)と いう考え方が一般的であり、バスケットボールの 専門書や練習で基礎技術が占める割合は多かった と指摘している。そこには当時、チームとしての 戦術を充実させるまで、我が国のバスケットボー ルの競技水準は達していなかったという問題があ った。

それから数年後、ガードナー講習会が開催され、

バスケットボールの戦術のシステム化は広まるが、

その時も、基礎技術の水準の低さが露呈した。し かし、ここでいう基礎技術の水準は、昭和5年に 李想白が指摘した段階よりも高まっていたことは 間違いなく、バスケットボールの戦術を充実させ ようと、受け入れる素地を整えていた段階にある と考えられる。

そして、土肥一雄が『籠球研究』でシステムプ レーの内容を公にした後(その年)には、我が国 バスケットボールの競技水準の高さを世界的に知 らせる結果になったオリンピック・ベルリン大会

(昭和11年)が控えていた。

本稿は、 平成 23 年度国士舘大学体育学部附属 体育研究所研究助成金を受けて行われたものであ る。記して感謝の意を表したい。

注及び引用文献

1) 牧山圭秀「バスケットボールの技術史」『スポーツ の技術史』所収、大修館書店、1972.6、p.379 2) 岩佐道雄「亡き先輩後輩を偲ぶ」『CRESCNT60』

所収、 関西学院大学体育会バスケットボール部 OB会、1987.9、p.44

3) 土肥禎からの聴き取り調査、2011.4.24 4) 土肥禎からの聴き取り調査、2012.1.25

5) 牧山圭秀「創部 60 周年おめでとうございます」

『CRESCNT60』所収、関西学院大学体育会バスケ ットボール部OB会、1987.9、p.21

6) 『指導籠球の理論と実際』の392頁で実際に使用さ れた写真を土肥一雄はアルバムで大切に保管して いた。(土肥禎からの聴き取り調査、2011.4.24)

7) 大日本バスケットボール協会編『籠球(第2号)』

1931.10、pp.134-135、pp.140-141

8) 旧制甲南高等学校バスケットボール部史編纂委員 会編『旧制甲南高等学校バスケットボール部史』

2002.11、p.51

9) 三橋誠「全国高等学校バスケットボール大会」『籠 球(第2号)』所収、大日本バスケットボール協会、

1931.10、p.77

10) 日本バスケットボール協会編『バスケットボール の歩み』1981.3、pp.543-544

11) 牧山圭秀は選手として出場している。

12) 土肥禎からの聴き取り調査、2011.4.24、2012.1.25 13) 土肥一雄「京都府女子中等学校籠球界展望」『籠球

展望(籠球研究:第6号)』所収、松本幸雄、1935.7、

p.18

14) 土肥一雄「バリー・ システム」『籠球研究(第 10 号)』所収、松本幸雄、1936.11、p.1

15) 日本バスケットボール協会編『バスケットボール の歩み』1981.3、p.260

16) 木戸乙男、道盛正、鬼塚喜八郎ほか「松本幸雄先 生を偲ぶ会」『兵庫籠球(第60号)』所収、兵庫県 バスケットボール協会、1973.3、p.6

17) 岩佐道雄「亡き先輩後輩を偲ぶ」『CRESCNT60』

所収、 関西学院大学体育会バスケットボール部 OB会、1987.9、p.44

18) 日本バスケットボール協会編『バスケットボール の歩み』1981.3、p.260

19) Yusuke OIKAWA, Implementation of “System Play”Over the History of Japanese Basketball Techniques, INTERNATIONAL JOURNAL OF EASTERN SPORT & PHYSICAL EDUCATION Vol.6 No.1, 2008.10, pp.61-75

20) 宮城一郎「根本を見よ」『籠球(第9号)』 所収、

大日本バスケットボール協会、1934.3、p.5 21) 土肥一雄「バリー・ システム」『籠球研究(第 10

号)』所収、松本幸雄、1936.10、p.1

22) 日本バスケットボール協会編『バスケットボール

(6)

の歩み』1981.3、p.599

23) 土肥一雄は英語が堪能であると、長男の禎は叔母 から聞いていたが、実際に話しているところを禎 は聞いた時がない。(土肥禎からの聴き取り調査、

2011.4.24)

24) 牧山圭秀「バスケットボールの技術史」『スポーツ の技術史』所収、大修館書店、1972.6、p.384

25) 土肥一雄「バリー・ システム」『籠球研究(第 10 号)』所収、松本幸雄、1936.10、p.1

26)同上 27)同上

28) 李想白『指導籠球の理論と実際』春陽堂、1930.10、

自序p.3

参照

関連したドキュメント

1 昭和初期の商家を利用した飲食業 飲食業 アメニティコンダクツ㈱ 37 2 休耕地を利用したジネンジョの栽培 農業 ㈱上田組 38.

A Historical Study of Playing Basketball on the Itabari Court“A Japanese Wooden Court for Playing Outdoors” (the Taisho Era to the Early Showa Era).. 及 川 佑 介 Yusuke

一方、Fig.4には、下腿部前面及び後面におけ る筋厚の変化を各年齢でプロットした。下腿部で は、前面及び後面ともに中学生期における変化が Fig.3  Longitudinal changes

 昭和大学病院(東京都品川区籏の台一丁目)の入院棟17

電気事業会計規則に基づき、当事業年度末において、「原子力損害賠償補償契約に関する法律(昭和36年6月 17日

関西学院中学部 2017年度 3年生 タッチフットボール部 主将 関西学院中学部 2017年度 3年生 吹奏楽部 部長. 巽 章太郎

関西学院大学社会学部は、1960 年にそれまでの文学部社会学科、社会事業学科が文学部 から独立して創設された。2009 年は創設 50

本指針の対象となる衛生事業者の範囲は、生活衛生関係営業の運営の適正化 及び振興に関する法律(昭和 32 年法律第 164 号)第2条第 1 項各号に掲げ