――目次――
論文
1,
出雲国造の祭事・葬送・禁忌, 平井直房, Rites, Funerals, and Taboos Connected with Izumo Kokusô,
Naofusa HIRAI, pp.1-27.
2,
智儼の仏身観:二種十仏説成立の経緯, 木村清孝, Zhi-yan’s Consideration of the Buddha, Kiyotaka
KIMURA, pp.29-57.
3,
不安の問題:キェルケゴールを通して, 川村永子, Das Problem der Angst: behandelt besonders nach
Kierkegaard, Eiko KAWAMURA, pp.59-81.
4,
儀礼的転位の考察, 安元正也, A Consideration on Ritual Reversal, Masaya YASUMOTO, pp.83-105.
展望
5,
現代における宗教哲学の課題:現代英国の宗教哲学者会議をめぐって, 間瀬啓允, Hiromasa MASE,
pp.106-117.
書評と紹介
6,
鎌田茂雄著『宗密教学の思想史的研究』, 柏木弘雄, Hiroo KASHIWAGI, pp.118-121.
Posted in 1977
(昭和52)年
(447)
平
井
一男
出雲国造の祭事・
葬送・禁忌
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いくれ
通史
移住以来 など 松江 造の の出 三種 倫 ら 事か 豪族 日本出
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大社
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鳴 天 神
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,
異 境 白 雨
野 っ 神 国 、 出 か 行 な 多 そ出雲国造の
祭事
葬送
朴示
己心
の神主 秋 上氏の場 ムロ も同様である。幸にして 秋 上 篆文書四八 0 通は門出雲意字六社文書﹂に一括 刊行されて。一昨年 以来学界の利用しうるところとなった。 ︵千家家の 祖 ︶ と弟貞孝 ︵北島家の祖︶は和与状 を 交換し・年間の祭事と所領を分掌した。それ は 後、大社の神事 は 、奇数月は千家方、偶数月は北島方が主宰す ることとなって幕末に至るのである。出雲大社は 明治四年五月、神社 制度の改革によって官幣大社に列せられ、翠玉 年には両国造家に よ る祭主交替 制 が廃止された。 一族は大社に奉仕す るかたわら・教派神道としての大社教︵千家︶ 出雲 教 ︵北島︶を創立したが、大社そのものの 宮司 職は 、明治五年 以降、代々千家家から出ている。 国造 家 以外の史料所蔵元としては、両家の配下 にあった上官のうち、千家方に所属した平岡家 と 九島方所属の佐 草 かもす 家が特に重要である。この両家は、ともに後述 の 火継ぎ神事や新嘗会に、大庭の神魂神社で国造 の 介添え役にあたる 家筋であったので、他の上官家に見られぬ秘儀 の 詳細を、門外不出の秘録として書き留めている 。この点は神魂神社 代 な に と して江戸初期の文献をもとに 跡 づ けよう とする ものである。 はじめに、使用する史料についてであるが、昭和 四十三年に刊行された北島国造家の﹁出雲国造 表み " 大ま 、︵ 3 由
︶ならび
L かもす ︵ 4 ︶ 同四十九年の神魂神社 秋 上家文書を中心とする ﹁出雲意字六社文書 ヒ 以外は、重要なものが殆ど まだ公開されてい い 。それら 未 公開史料の所蔵元として、第一に挙 げるべきは千家・北島の両国造家である。この 両家は、南北朝侍 の 興国四年︵ 一 三四三︶・第五十四代国造出雲 清孝の後継者争いをめぐって二間に分れたもので 、 翌 五年、兄考案 この小論は、出雲大社における宮司 職 をつとめて ぎた国造の、神事や葬送や日常生活を通じて 見 られた禁忌を 、主 ④ 命 をまっ る 熊野神社はやや衰退し、中世以降は 国造の支配を受げながらも、別の司祭者が代々 社 務 をとり行なって 、 幕末に至った。で、北島方の上官仕草
利
清の養子となり、元禄
八年︵一六九五︶九月、八十歳で没した。その子
の
一人、宗
敬
は
上
忌
百千家内紀の養子となり、元禄十年、千家
直治の後を継いで第七十一代国造となった。
こ
の
書は紙幅十八・
セ
糎の
襟巻子本で上質
堵
紙を用い、虫喰いの跡は殆
ど
見られない。内容は国造の火継ぎ神事・新嘗
ムム
二万
旦の
" 天火の神
雛事
"
をはじめ、国造の日常の行儀や出雲
大社の造営時における秘伝など・一子相伝の秘事
が
記されていて、万治
三
祭
鄭
3
﹁重山雲
秘砂
上﹂︵千家国造家所蔵︶
出
前者と同じ仕草日清の著作で、奥書に
ょ
れば
元
禄
元年︵一六八入︶十一月、
セ
十三歳のとぎ書い
ている
0
この書は
3 ( 何 9) 2 1 ところで、この小論に使用する主な大公開史料 を 年代順に紹介すると、お ょ そ左の通りである。 ﹁国造 尊 光代 始ヒ ︵千家国造家所蔵︶ これは万治三年︵一六一八 0 ︶ セ 月から九月までの 千家国造家の公的な日誌で、筆者は不明。七月 四日子 ノ 刻に行わ れた第六十八代国造 尊 光の火継ぎ神事を中心に 、 二三ヵ月間の関連行事を記録しているが、国光 迫家の経常的な記事 裏 一体のものである。 も夕くない。体裁は縦一二十二・八握、横二十四 江戸時代における大社第一の学者といわれる 佐 入りの奥書を含め百二十三枚。表紙は紺色で・ 表 た平岡蔵人孝昌の﹁国造殿御火継記録 ヒ ︵現在 ﹁ 媒 家伝 之 神書 ヒ ︵ 仕 草家所蔵︶ 糎の冊子本で、 枯 紙袋織、墨付百二十九枚、 う ち 草 宮内少輔日清の 、 。 作 。 自 清は千家方の第六十四代 は 千家家所有。﹁神道学﹂第八十号にその全文と 題は白い題額 に 記し左上に貼付してある。内容 本文は尊光の花押 解説がある︶と表 国造 慶 勝の曾孫 は 同じころ書かれホ社 上官脚摩乳
手摩乳
後胤
元禄七年
餌 九月中旬
媒 宮内少輔出雲官情
セ 十九歳試
とある。この自筆本や古写本はまだ管見に入ら
ない。筆者が利用し得たのは平岡家所蔵の、大社
教本院用筆に筆写
されたものである。その末尾には 文化
セ
年年三月性
草 式部出雲美晴
十セ歳写
とあり、
仕 草案本からの転写であることを示し
ている。内容は三部に分れ、第一部は杵築大社の
祭神と本社ならび
(4%) 4一
"
己口 @ 林下
送
葬
出雲大社の宮司
職は、
単に司祭者であるだ
げ
でなく、神の依りましとして
" 御杖代
"
とも
解されていた。この語が
離
とあり、また同じ書の天穂日命の箇条には
出
国造秘記
--
日
。
、杵築無二
@
。
穂
日食文鎮座
-
事、
為二
大
己貴
大神立御杖代
崇,
@ -
以来、至二千当国造
。 @ ,
-- - 、
尊
Ⅰ
徳日合一抹
@
足下
5 (451) に摂 末社に関すること。第二部は佐久 佐社 ・阿武 社 ・ 二 一十八社などと共に大社の御供儀式の解説 。第三部は三月令 儀式・大社年中行事・社家の員数・六所神社の , ﹂となどである。 5 ﹁国造直孝火継日記﹂︵北島国造家所蔵︶ これは、享保十五年︵ 一セ 一二 0 ︶九月十五日夜に 国造追孝の後をついだ六十九代国造直孝の 、火 継ぎ神事の詳細を 記した北島家の日誌である。筆者は一族の北島 内蔵助 孝京 が草稿を作り、これを北島掃部︵元 孝 7. ︶が再構成して 浄書している。掃部は道孝の喪に服し、また 北 島 縫殿勘考英の養子から復籍した十四歳の幾 Z 進 ︵直孝︶に、秘宝 の 火切りを渡すとぎの立合いもしているから、 一 族の最長老かと思われる。本書は縦三十三 糎 、 横 二十四糎の冊子 本 で、 堵 紙袋織・墨付四十六枚。内容は九月十 日から十月一日までの記録で、追孝の逝去から 直 孝の大庭出立、神 魂社 での神火相続と参籠、杵築での参籠・祝宴 をはじめ 前 国造の葬儀やお人所︵斎火 殿 ︶の清め など述べ、火継ぎ に 関連した往復文書を付載している。︵木室 日 につ いては、北島 邦 華氏の筆写をも併せて参照した。 ︶水、 ホハ 是 悪文神木地、御神法世々億劫 不 。 怠 、 安寧 令二 守護 、。 - @@ 恐朴実 恐 札差 申得 再拝々々 跡 ト 体中 ス 祝言 也 是 @ 国造 殿ヲ 御蚕 べき祝詞は﹁ 媒 家伝 之 神書﹂に次のように見え ている。 壬フ 再拝々々謹言、広大 之御 威光之 御神 御忌、 以 二神 犬神水文徳 - 受継、森茂 御 押脚 垂 助奏 " 信奉。 仰 、
水
者
是
神
慮
之
f
申 生 不滅 之 神道、故 ぬ竺 神祠 - 英、 と 出ている。さらに﹁出雲日清介随筆﹂の﹁ 社 家 員数﹂の条には 一国造天照大神第二等 子 ,、, 、天穂日命,,
受 二天神勅 - 、 為 幸大弓 貴 大神・立御杖代 @ - 以来、 墳 キ 二神火 @ ,,テ - 鉄二神水 " - 天。 混 二流俗 - 夷、 とも述べている。この ょう な呼び名は 、 後に明 浩二年目十月、千家 尊澄 ・北島全 孝 両国造が神祇 官 あてに提出した ﹁御下問問答書﹂の中にも 一 御杖代兼国造両家社家職名文事 という一力 条 があるほか、提出者の肩書にも 天日限 宮 御杖代兼国造 とあって、江戸時代を通じこうした考え方が行 われてぎたことを示している。 " 御杖代 " の名は 単なる 自 清の思いつ きから使用されたものではない。その背後に 、か く 呼ばしめるにふさわしい信仰と習俗が存在し たからである。 例え ば ﹁出雲日清金随筆 ヒの ﹁杵築大社御供儀式﹂の 頃 には、三月余以外の祭礼における本殿向上段 の間での 献 瑛の図が ある。これに よ ると御神体を奉安する御内殿 と 貧 供された 神 餓の中間に国造の座が置かれ、御内 殿 と国造に向けて 献 撰 される形が取られている。また、後述する 新 嘗 会の神魂社の行事で・国造が大幣を手にして 祝 詞を申すとき、 仕 草 上官と秋上神主がそれぞれ幣を手にして同時に 祝詞を申すことが﹁重山雲 秘砂 上口に出ているが 、仕草上官の唱える ひ 52) 6
テ,礼
。 ・舞楽・相撲・御供なのものかと言われる @@
。。﹂,
@
秋 上
奉 。 信
英、米老足神慮
之 神水、火老足神明文神火
也 ・
御 神法
不 。 怠
、天地
共
安全会
二 守護
- 治 登
、 長夫
恐礼美恐礼美
中綬
とするのである。この事実は新嘗会と火継ぎ
神 事の類似性を示す証拠の一
つ であると共に、国造
が 神の
" 垂迩
" と仰
がれていたことを示すものであろう。
﹁重山雲
秘 砂上口によると、新嘗会の御釜の神事
に 、別火は正面に着座した国造と
釜
︵上に米俵
を 載せ・御幣を立
篆文書のには
" 御欠
様 "
という語が数ヵ所見えるが、この史料を踏ま
えて作成したらしい
正保五年︵一六四八︶の﹁北島清孝神火相続
次 弟ミ め ﹂︵ 6 記
︶には同じ箇所を
" 国造
殿 "
と書き替えてい
る 0"
御欠
様 "
の 称
@ まし
に つぎ平岡
可 義民︵平岡家当主
松彦
氏の祖父。
幕 末
・明治の人︶の﹁古文書釈義﹂には、
忠国造
様ヲ称
シテ御吹
様ト云
ヘ リ ・其故ハ人
切板ョリシて
久ヱ
支ケ続
カセラ
かかニョリテナ
と 解説があるが・国造自身の宗教的権威の拠
りどころに神火神水の継承があったことが察せ
られる。
送 葬
神の
" 御杖代
" や
" 垂述
" とされた国造
には、神に仕えると同時に神を象徴する者にふさ
わしい厳しい禁忌が
、神
舞事や日常生活の間に要求されていた。出雲大
社の神事は現在でも年間
十二度といわれるが︵
7 ︶ セ
、江戸前期においてもほ
の
難
どの行事の数は、天正・慶長年間に廃絶され
たもの八件を除き
セ 十一に達している。しかし
出雲国造の禁忌の実態を
出
知るのに適当な祭は・必ずしも恒例の祭祀ばか
りとは限らない。それらを含め特に神秘な宗教性
が 窺える二三の儀礼
7 (453) ツキ 再拝々々謹言、広大左脚威光之 御神御恵 ・蛍手継 神火神水玄徳 - 両党二除
父母 Z 忌服 - 英、 恭茂御神 御室 迩 豊春。 仰 そうして同じ史料によると、火継ぎ神事のとき の 祝詞は 、で、それらを修正しっ っ 火継ぎ神事の内容を左に 略述しょう。 まず国造の病が危篤になると、杵築から神魂 社 へ 飛脚が送られ、神火相続式の準備がはじまる。 ついで死去が確認 されると再び飛脚を立てて新国造の出立時刻を報 じ 、 意 宇都八雲村の熊野神社から神魂に火切り を 届けてもら 5 手配 を 依頼する。やがて国造の後継者は潔斎して 新 し い 衣服を着け、広場で門出の盃をあげて出発す る 0 この 折 、家伝の 史料の所在さえ判然としなかった。筆者は幸に 両国造家ならびに平岡・ 佐 車両上官家所蔵史料の 若干を通覧する機会 ︵ 9 ︶ にめぐまれ、また前掲の﹁出雲国造篆文書目・﹁ 出雲意字一八社文書口をも利用しつつ一二の論 考を発表してきたの
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(4%) をとり上げて、関連する習俗を観察することに しょう。ここに引合いに出したいものの第一は 国 造の襲職 式 としての出雲国造の祭事・
葬送・禁忌
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文
9 (455) 古い火切りを携行するのである。 大庭への道は約十一里あり、国造の行列は出雲 市から宍道湖の東岸を通って中宿りもせず、九時 聞 か十時間で急行 している。神魂に到着すると・ 社 前の手水鉢の一
刊 で修祓を受 け 参籠所に入る。神魂の社は日出雲 風土記ヒ
にも﹁延喜 式 ﹂にも見えず、出雲国造が大庭から杵築に移 勤 した後、恐らくは平安時代 中 ・末期ごろ国造 邸 の 邸内社またはお 火 所から展開したものと思われる。その古文献に 出現する最初のものは、承元二年︵一二 0 八︶の 鎌倉将軍家からの 下 もとより不明であるが、確実な現存史料に出現す る 最古のものは、 貞 治 四年︵一
三一八五︶の﹁国造北島賢幸代待国中 伏葉﹂に、
麦件 国造神主面職者、自主異相 宮 同宿傭人妹姑-
至 二千賀 孝-
升三代・︵四十代
?も
皆 正二亡父喪礼 之儀 ︵何 % 越 千 神魂社軸
一十全 令 。相手続神火神水-
之時 云々︵ 1Ⅰ
ノ、
に 近世初期、国造 家 自身は熊野大神奇 御気 軒合・ 大 己 貴命ならびに親しき皇神等を祭神と考えて いたことに注目した い 。﹁ 媒 家伝 之 神書﹂の﹁国造 殿 新嘗会 之 祝詞﹂ がそれであって、神魂神社で奏上される国造の 祝詞には 八雲支出雲国方青垣出方内、下浮石 根仁 宮柱 太 数立 氏 、高天原 仁 千木高知 生頃 、伊井諸方 日 真名 子 如実目佳熊野犬 神神魂万人前 仁 、今年霜月 乃 十卵 目乃 神官刀幣 早手捧持 氏 、良美崇奉 留奇御 気節分・同作生天 己 貴命 乎 始末・ 親幾 皇神等、状平平久安久新嘗間食世上申 頃 、︵ 下 略 - ︶ と 明記されている。﹁重山雲 秘砂 上﹂に ょ れば、 新嘗会のとき本殿内の献頷は御内殿前に二組な されているが、これ が 熊野大神と大己貴神にあてたものとすれば、 白 主神等に対するものは同じ記録に見える客座六組 と 二の間の下 膳 十二 組の神韻がそれであろう。 そこで問題を火継ぎ神事に戻そ う 。参籠所に入 った 国造後継者は、 湯 かかり︵潔斎︶して白衣・ 足袋 姿 で本殿に昇 り 、御房前の大床で装束を着用する。本殿の御房 前での着装というこの異様な習俗が、神魂 社と 杵築の国造 邸 のお 火 所 との連関を暗示することは、すでに﹁神道学 ヒ 八十号に述べておいた。続いて本殿奥の御内殿 前で、国造自身が家 宝の火切り 杵 ・臼によって鎮火する。いよいよ 発火すると・これを本殿二の間の﹁作りいろり﹂ に 移し、別火が一台 ほどの御飯を炊く。水は程近い茶白山︵神名樋山 ︶の真名井の滝からもたらされる。この御飯を 本殿二の間に海錨 ま たは鹿の皮︵八重畳ともい う ︶を敷いた席で頂戴 する。それは神と人との間の一般的な相嘗めの 形ではない。飯を盛 る 土器は一 つ だけで、国造はこれを神前に供え ることなく両手に捧げ持ち・ 種衣 祈念して一人で 戴くことは新嘗会も 同様である。このことは国造が司祭者であると 同時に 、 神の御杖代となるからであろうか。終っ て 新国造は御内殿の (4%) 注進﹂などによってわかる。この祭神はやがて 伊井冊立大明神を主祭神とする方向に傾いて行く 。しかしこれとは 別
や ︵
u
、正保五年︵一六四八︶
︶﹁北島
秋
上夢国華
の
晴
孝
神火相続次第
記
﹂の
秘歌 @ Ⅹ︵
3 1 ︶
宝永二年︵一七
0
五︶の﹁神魂
社
由緒
じものであって、このときの国造の祝詞奏上の
作法は明かでないが、前述の佐卓上官や秋上神主
の 祝詞が新嘗会のそ
切送忌
襟の火切りによって
れと酷似している点から見て、祝詞奏上の状
鎖 られ、国造家伝来の人
葬
そのもと本社と貴
布禧社
︵末社︶に対する
湯 女神楽の火は、熊野からの新しい火切りの人で
ある。この湯立て神楽
籍は
、寛永以前は第三日目であった。神魂の木が終ると国造用の食物の残りは、
打 砕かれた
迦
小石を三度噛み、一夜酒を頂戴する。
歯固
めは長寿祈念であるとともに、祖霊を継承して
新 しい神聖な人格が神の奉
郵
仕者として誕生したことの祝いとも解され、
産育
儀礼とのつながりを思わせる。第一日目の
儀式の際と同様、これら
出
11 ( 巧 7) もろ 第二日には御供米三石を餅などにして 奉 貸する 諸御供の行事がある。これは出雲大社における 正 式 の 献撰 行事と同 野 神社から新しい火切り 杵 ・臼が一組だ け 届 け られる。これは新国造の食物調理のためで、神魂 社 の本殿床下に榊で 囲った臨時のお入所を設け、調理のことに 肖 った 。この事実も神魂 社 本殿と杵築のお大所の親近 性を物語るものの 一 っ かと思われる。 供 ︶が 奉 貧され、国造の祝詞がある。以後、国 造は籠り所に参籠 し 、杵築に神火相続の飛脚を送 る 。なおこの日、熊 火継ぎ神事は神魂に三日 半 、大社に三日 半 、合 計セ 日間の参籠を伴 う 複合儀礼であり、その中に 大庭から杵築への 移動が含まれていた。第一日目には神火神水に よ る御飯頂戴のあと、御供米一石を供える 半 御供 ︵とりあえずの 街 ︵ 5 1 ︶ 前に進み、祖先伝来の口伝の祈 薦む黙蒔 形式で 行 な う 。こうして第一日に聖なる御飯を頂戴して 神前に祈請すること ︵ならびにその御飯の一部で造った一夜酒を翌日 の 儀式で頂戴すること︶が、いわかる神火神水 の 継承であり、神々 や 祖宗の霊威を受けうぐ方法であった。に 百番の榊 舞 がある。琴板を叩いて神人の噺 す神 楽 歌の調べにムロ せ ・ って舞 う 。歯固め , 夜酒 頂戴・百番の榊 舞 とも・その所作は新嘗会 と 同様である。終って籠り所に参籠 し 、神事の 相撲などある。 第三日は終日、国造は参籠のままである。第四 日は未明に本社と貴 布禰社に 暇乞いの参拝をすま せ 、熊野からの 新 しい火切りを二分して、一方を大庭の国造別邸 のお人所に残す。次の新嘗会にこの火切りを使っ て一夜酒を作るため である。つづいて行列を組んで杵築に帰還する。 帰着後の国造の行動には両家間に若干の相違が あり、千家方は舞殿 ︵神楽殿︶で神拝をすませ 長庁 ︵庁の舎︶で二晩 参籠の後、第セ ロ 早朝にはじめて大社本殿に参 入し、お籠り成就の 神拝行事をして 御 継目の御供︵ 半 御供︶を 奉貧 する。これに対し北島方は杵築に着くと直ちに 庁 の 舎で潔斎して社入 神拝し、 翌 五日目には 半 御供の供進があって 、あ とは第七日まで参籠するのである。こうして 神 事 が完了すると土居 ︵国造 邸 ︶に入り、祝宴がある。神魂に社人して は来 精進仕立ての食事だった新国造と介添えの 上官は・土居でこの 日 はじめて魚味を食する。 これより先、前国造が死去してから新国造を迎 ぇ るまで・杵築の国造 邸 でも種々のことがある。 万治三年︵一六六 0 ︶の﹁国造 尊 光代 始 L によると、 一四日死去 之 国造 殿ハ 小門方面薄手 江 乗物工 面 、 供人数多幸。 供 参候、 一 御宿所二八不断 之於 二神事所 - 備 :食膳︵料理は 魚類なり、 如二 常々 - 偏 二 朝夕 - 也、国造 殿 不断 之 食事立所 ハ 、御大 所 神事と 云 、天穂日命以来 Z 旧例 也 、 一五日目 之刻 ・大庭 均 御神火脚相続 之 左右、飛脚 ヨ着中儀、 一 御神火相続 之 飛脚 当着申と 、 某儲 御欠 所 文火 悉 消申 、前国造殿御一代左脚道具、 一も不 。 残 音取 出 ・ 捨 中條、味 - 恰 @- ︶ 増酒 醤油なとハ不。 及 。 申 、 桶 鉢金物焼物なと 迄、 悉 下し 捨 中條、足首旧例 也 、 C4 品 0 12
如 用意されているが、神火相続の通知が入ると はじめて斎火 殿 に保存されていた古い火を消し 、 殿 内を清め、国造邸内 出 も祓冷 するのである。このことは北島方の享保 十五年︵ 一セ三 0 ︶の﹁国造直孝火継日記 ヒも同 じである。九月十六 13
舞
い
。菩提寺が
西
窪寺︵天台宗︶・墓所が松林
寺
︵真
@
ゐ示
︶であることは、両国造
家
とも同様
である。
め
﹁国造
尊
光代
始口
に戻ると、前国造の遺
体は小門から菩提寺に送られる。土居ではまだ
常
のごとくお人所に食膳が
(4 め )・葬送・禁忌
とある。
前
国造
尊
能の逝去は七月三日成文
刻
︵ 午
後
八時︶であり、次の国造
尊
光の神火相続は四
日夜十二時のことで
あった。
こうした国造の葬法についてであるが、明治三十
セ
年春ごろ千家豊福
が
帝室制度調査局に提出し
た
﹁出雲国造葬祭
二関スル
取
調書﹂に
ょ
れば、
上代出雲国造身
退
り
シ時八
土葬ナリシカ、英俊
何レノ頃
ニヤ本部菱根
池
︵ 今ハ無シ
︶
二 黄牛二乗
ラ
シメ
テ
水葬
セ
リ
、以上
ノ如
キハ死者
ノ
近親二
於テ
神葬的
自葬
センガ、何ツノ頃ョ
リカ
審
カナ
ラザレトモ
仏葬
ヲ 常ム二至レリ。
然
二車フルガ
如
クシ、
一セ
日間
秘
シテ
喪ヲ発
セス、
而
シテ相続者ハ具
間ニ於テ
意字
郡
神魂神社二歩
向
シテ神火相続
ノ
式ヲ
終り、
即
国造襲職
ノ式畢
レハ
始メテ喪ヲ発
シ
、
常定ノ
葬祭式場三船
テ
社家注連職神楽
ヲ奏シ
祭祀
ノ
後、僧侶
珪 -m
メ
、純然タル神葬祭
二 復古
ノ
端緒
ヲ開テ
キ・社家
注連職工船
テ
葬儀
ヲ掌レり、
となっている
0
この文中の菱根の他への水葬は
口碑によるものらしく、筆者の知る限りこれより
古い記録は見当らな
い
。また仏葬の導入後・天保三年︵一八三二︶
ま
での葬儀が果して右に記される通り神仏の二重
構吐辿で
士のったかは
今
少し検討が必要であるが、
少
くも江戸初期の記
録
には社家注連職が神楽を奏して祭儀をしたらし
い
形跡は見られな
出雲大社の新嘗会は、もと杵築で行われるもの ではなかった。大庭の神魂神社と国造別邸で執行 される 賞金 が 、すなわち出雲大社の新嘗祭であり、 国 造 が病悩の時は杵築の国造 邸 でそれに代わる神事 が 行われ 雲 大社の拝殿で十一月二十三日夜に荒行される 古伝新嘗祭は明治五年以来のものであり、国家 神 道の制度 た 結果の新儀なのである。 この大庭での新嘗 ムム の古い姿は、火継ぎ神事より もなお世に知られていない。筆者の知る限り新 嘗会と 両国造の新 た。現在出 に編入され い う 名称で 四 日の条には、 一大庭石神火相続飛脚到来、即刻 西 薄幸 江 台所 方 ぬ 遥任・ 西 薄手儀式乞目、御大所石火を消し 一切御欠斯道具 政二破壊︵ 西 薄幸後志由江埋め 申候 、かりに御欠 新任 ひ 申供 縄竹 ふ き 卓筆、大破康二面 焼捨 中條 ︵下略︶ 一鍋 金輪又は遣道具、街着物 迄 、︵中略︶欠乏 気 人中 侯 道具は一切埋め又は焼仏宇 事 二 俣 、少 た る 物二而も寺 江遣 候例無 / 文ニ 付 、少たるものも此度は遣 不 " 中條、 一殿中衛大所道具一切、石山二面破壊又は埋め 申 侯 、一切立道具畳 鑓迄 新 敷調 中條、 是以 二脚大所 到来 左 上 - 也、 但 御欠 所 内、上 ぬり致候 、雪隠あらたに 持申候 、湯 殿は 有末 之 清め用中條、 是以 二 % 格 を - 中低 付而 如 / 此 ・ と 記されていて、記述が一層具体的である。 こ のとき・両国造追孝の逝去は九月十三日咳の 刻 ︵ 午後十時︶、神火相 続は十五目成の下刻︵午後九時ごろ︶であった が 、新国造の大社参籠中に社殿・参籠 所 ・国造 邸 が 清められ、特にお ︵ 6 ll ︶ 入所の清めは頗る厳重である。 (460) 14
さえ、現存する記録に出現するのは十六世紀後
半
のことである。国造の新嘗という行事は恐らく
古代から存在してき
たであろうが、年々の恒例行事であることが一人
記録に留められなかった原因の一つかと思われ
る 。
新嘗会の名が見える史料の比較的早いものとし
ては、天文十八年︵一五四九︶のものかと言われ
る 前述の﹁北島秀
孝 神火相続次第﹂があって
、
後す
へ
一百番の御礼拝めされ
候時
、社人共御酒
給候
、万
儀式何れも新嘗会支持
之
ことく
也 、はやしも、
{
︵ 7 l Ⅰ ︶
などある。また、同じころのものと推定されて
いる﹁神火相続人物道具覚書﹂の末尾には、
籍
一十一月新嘗会大神事
ぬと見える。つぎに天正二年︵一五七四︶十一
月 卯の日の﹁傘立
ぬ Ⅱ WM@
﹂︵ = 9 :口Ⅰがある。これは新嘗会 司, ︶
の国造別邸での行事に
、
⑥
国
出
こうした諸記録や新嘗会の実態についての論考は
の神事の克明な解
飯する。こうして用意された御飯は、この神事 ゆる " 竜太夫 " の悪態は後からのものらしく、 江 と 杵築の社人がこれを吟味して試みに鎮火し 、ラ 牙嘗 祭の行事は夜に入り、熊野から別火代の宮 の後半・国造の新嘗に供される。熊野の社人には 戸 初期には現れてこない。 大夫が両家に火切り板を三枚ずつ持参することか ち 一枚の火切りの火を別邸のお入所に移し、 真 饗応があるが 名 井の水を使 らはじまる 鎮火がすむと国造は社人する。式は諸御供の献 進からはじまる。かねて別火が用意した神韻を 、 国造が箸を むしろ 貧 供する。終ると国造は下殿し 、 恐らくは庁の杢 目 と思われるところに投げられた " 稜威 之席 " の 座は つき、 複 試行事がある。稜威芝浦とは﹁延喜式目の﹁田田 京国造神賀詞﹂にも見え、真菰または寿草を新藁 か 荒芋 で 編ん である。これに坐った国造は神殿の方を向き、 杵 築から随行した上官と神魂社の神主が左右に従 ぅ 。別火は先 に 目って祝詞を申し、終ると国造・上官・神主 が 一度に祝詞を申し、最後に別火がまた国造に祝 詞を唱える。 式は火継ぎ神事の場合にも見られたものの如く で、相違はただ後者がこれを本殿内で行なって い る 点だけの ょ る 。 大庭 って炊 いわ 取って 雑な 視 たもの ず国造 この方 ぅ であ 説 として最も重要なものは、仕草白滝 の ﹁重山幸 吉秘砂 上﹂と﹁ 媒 家伝 之 神書 ヒ である。以下、﹁ 重山雲 秘 砂上﹂を 中 心に略述してみよう。 両国造が大庭に向 け 出立するのは新嘗会の二見 M 、十一月中の丑の日で、この日から散斎に入る 。行列の往復を含 む 五日間に人夫をつとめる沿道の社領 民は、 延べ 四百人に達したという。寅の日、大庭に到着す るとそれぞれの別邸 に入り、卯の日の朝、両家は次々に社参して 神 楽を奏し下殿する。杵築出発から神事に至る まで、両家の間に先 番 ・ 次 番の順番が決められ、毎年交替する。 こ 0 日、熊野神社に飛脚を遣わし、旧例の通り火坑 り 板を差出す ょ 5 包 @O く Ⅰ 62) 16
つづいて祝詞行事と同じ場所で歯固め・一夜酒旗
戴 ・百番の榊
舞 がある。方式は全て火継ぎ神事
と 同様である。
た
で 鎮火し、少量の新米を炊き、杵築のお人所から
持参した麹を入れて作ったものである。そのと
き 、炊飯が終ると
直
ちに火を消し、灰も醸造後の糟も残らずお人前
の 偉力 に ある 皮お 下 @ どの︵国造の食物の残りや使用した W
器 物を捨てる場所︶に
出 用 、御酒大切は大庭に残して翌年の新嘗会に一
夜 酒を醸すためのものである。これに対し千家国
造は二枚の火切りに
17 (463)が嘗会 御大切と書き、 う ち一枚を大庭に残す。 一 造が 杵築に移住する以前から大庭の国造 邸 で行 なっていたもので、これを通じ国造が神の御杖代 二枚目の、 白 飯を炊くため鎮火した分には何も書 かない。翌日これ としての神聖性を更 を 、国造が使用した膳具・器物ともども れ 砕き、 別館背後の山に埋めるのである。 卯の日の晩からはじまった新嘗会は、両国造に よってこもごも夜を徹して執行され、辰の日、日 の出のころ " 博之 神事 " がある。前夜から奉仕した上官・中宮・ 近 習 ・被官たちとの饗宴である 0 この朝の国造の 食膳は特に " 一汁 八 菜 " で、それまでタブーになっていたその年の 瓜 ・茄子・大豆・小豆・大角豆・干瓢・ 黍 ・粟を 、 始めて口にするこ とができた。 このあと、両国造の行列は辰の日午前中に大庭を 出、出雲郡の中宿で一泊して、巳の日杵築に帰 着する習わしであ つ ヰハ @ 。 新嘗会の複合的儀礼において・われわれは何故、 国造の歯固め・一夜酒頂戴・百番の榊舞などが 、神魂神社と国造 別邸の二箇所で 繰 返されねばならなかったかと い う 疑問を持つ。これにつぎ仮説を試みるなら、 新嘗会はもと出雲 国 新 する神事だった。そのころの行事は 、 恐らく 御釜の神事・ 黙禧 形式による国造の祝詞・歯固め 榊舞 ・一夜酒 と御 飯 頂戴などから成っていたのが、平安中期以後、 神魂社の成立とともに二元化し・そのあるもの は二 箇所で行われる ことになったかと思われる。 また、火継ぎ神事と新嘗会を比較すると、両者 の間に多くの類似があることに気づかされる。 例 えば聖なる火切り の 人 と真名井の水による御飯の頂戴である。勿論 火切りそのものは、一方は家伝の秘宝であり、 他方は熊野の宮大夫 がもたらす新しい火切りであるが、㍉ 媒 家伝 之 神書﹂に よ れば、 一天照大神より天穂日命 御 相伝 之 御大切、数百万 年何とてくちずして、金坂ても石二ても 相 つど き可 。 申哉 。まし (464) 18
中重 同辻 ハ廷 吉 禁 己 Ⅲ l 元日行事としての天火祭は、あまり古くか ものものとは思われない。筆者の知る限り、 そ 0 名称も行事も﹁ 媒 家伝 送 義之神書﹂や﹁重山雲 秘砂 上口に至って初めて 出現するものである。前者に ょ れば、 仕 草日清 はこの神事の秘密を 、国 一 道 北島 広 孝から正保二年︵二八四五︶正月 伝 捜 されたという。推測するにこの祭は 、 恐らく は十セ 世紀 初 ごろから 北 児島家にはじまったものではあるまいか。そう して﹁重山雲 秘砂 上ヒ によ れば、千家方もこれ を第セ 十代国造直治︵ 天 家の第六十七代国造義孝の 妹 ︶の代に至って 採 屈 しはじめたという。 ﹁出雲国造案文書﹂に見える元禄十一年の﹁仕草 知清 覚書写﹂は、その内容と付笠の文面からし て 、日清の嫡男 直清 19 (465)
し
ち 夜
目 と、
る摺 火 身 あ
神 。 頂 継 の る 々 き て の こ 戴 ぎ 潔 。 秘 本 木五
八三百
御杖代 の点が ・百番 式 と新 斎と葉 両者は 密を以。申供・
百蛆
"
し間
し
侯
な る と に っ そ て、 常
杓 立
大 け
る
の が の で あ しへ
、
ある。
目立つ霊威を国
。
歯固め なをも
し歩
継 の ス%
火
承 で 一 は伐 っ
がその子加清に書き送ったものであるが、文中
の
一箇条に
一天火
之祭
、禁中二市八四方拝
と
中條、天皇直二
被レ
通事ニ俣、是を学
候而
主事
候
、
とあるのが、起原を物語るものとして印象的であ
る
。
行事の次第は﹁
媒
家伝
之
神書﹂に
ょ
れば、毎年
0
元旦
辰ノ
初刻︵午前
セ時
︶に国造が装束を
つ
げ
てお人所に出る。
冬の折にも拘らず、役人は鎮火の前から神事が
終了するまでの間、合計
セ
度の水垢離をしつつ
裸
で
奉仕する。まずお
入所の灰を捨てて
よく
清め、天の御大切
板
を採
んで発火する。薪は二年前の天の御大切と新嘗会
の
御大切を割ってく
の間、お入所の席で東から順次四方を拝し、神託
帥を唱える。次に役人の捧げる御飯を受け、東方
に
向い三ロ食べる。
役人はこの間
額
に両手を当てて伏拝するのは、
新
嘗会
のときと同様である。終るとお膳を下殿に
捨て、お入所の火を
消し、
薪
灰も残らず下殿に捨てるのである。
お人前︵斎火
殿
︶は火の神聖さを守るため特に国
造
用に用意された建物で、方位は概ね母屋の東
此
にあたる。それ
は
今も茅
葺
・荒壁・板敷で母屋とは廊下で接続さ
れている。内部は二部に区画され、一部は国造
0
座で、他の一部
は
飲食を調理する庖厨の土間であり、そこの炉に
聖火が焚かれる。火種の保存には乾した榎の木を
数十に切り、常に
炉
中の灰に埋めておいたという。この庖厨に接し
て
味噌・
醤
酒など造る
室と
炊事道具の置場がある
。御膳・御器などは
新嘗会と大晦日に新品と換える習慣であった。
国
造
用の物品は一切他人に使用または飲食せしめ
ず
、残余の品は必ず
一定の場所に投棄することになっている。投棄す
る
下殿は・﹁重山雲
秘
砂上ヒによればお入所の
一 裏手数立のところに
あり、下り物を犬
鳥に
喰わせることを忌んで
井
垣を結った。国造はこのお大所の聖火以外の火に
よ
る食物を食べては
(466) 20出雲国造の祭事・
葬送・禁忌
と有 御 あ
一 国の
方之
と正 二 忘 ハ に ノ及 い の し さ
ま れ い て る い
コ 石 - 、
也
置候重日
力ねい
て り L" 且そ の 又
食
後
参
御 簾
ヲ Ⅰ 行手ヲ
膳 之
ノ事
下 」り殿
衣裳へ
-
一 K@ ヒ敷 は
也 ス皮
21 (467) Ⅰ ならなかったので、大庭の新嘗会など旅行の折は 特製の唐櫃を携行した。この唐櫃は長さ一間ば が 教区に分れ、かまど・ 鍋 ・味噌・ 醤酒 ・ 火留 笛 ,煙草盆などが納められて、あたかも小火 斯 の 笛の火種は、江戸後期には明らかに炭団が用い られている。 お人所は今日といえども女人禁制で、国造とお 火 新番以外は男子の家族も入らない。国造とい は、 冬も袴・羽織・足袋を脱ぐことが守られてい 尼 を 見る女︵老女・少女は差支えなし︶は入らず、 セヵ 月以上の妊婦の夫もこれを 悼る 。仏経・ 今、 ロ , いまたは 微 展の人と会話して、沐浴せずして参入 することを 悼り ・国造と対談せずとあるのは、 て ぎたことであった。 かりのもので、内部 ︵ l ︶ よ う であった。人畜 えども参入するとき ・ 重 軽服の人・月水 珠を入れず、喪を弔 その後も長く守られ
﹁ 媒 家伝 之 神書﹂には、 一新嘗 之時 マテ 不 。巻物文事 ナスピ 大麦・小麦・ 米 ・大豆・小豆・ 稜 ・ 黍 ・ 粟 ・ 大 角豆 ・茄子等位、地外 瓜 ・蕎麦 ヲ モき こし @ ウカホ の 初参 ル也 、胡瓜 ハぎ こしめす 也 ・タ顔ハ不 " 参 となっている。 瓜 とはこの場合、白瓜・真桑瓜 の 類をい う らしいが、理由は不明。蕎麦につい れていて、﹁重山雲 秘 砂上﹂と一致しない。 ま た 、千家方は大麦・小麦とも年を越えて熟する め さす、 瓜 新嘗後 か 3 てはこの書では禁ぜら ものということで禁制 ということである。次に食物に関するタブー と しては、 ム 御食物禁忌、五辛、 他ノ 火気 入 タル鰹節・ 串海 鼠 ・ 串飽 ・ 打飽 ・乾鮭, ケノ鮎鰍 ア @ 蒸 椎茸・ 醐柿 ・ 飴 ・ カン
米麹
二テ シタル菓子 ノ類 ・ 嚢 ・ 鰻 頭位 @ 無 " 樺 ・ 索麺㎞ 駐 ヰ % ㍼ 朋 M 千娃割穣魏漱 ㍗ ぬ 斎殿 巨テ ム 御食用無。 悼物 、一切 薬靭轍 ・砂糖 撒ヰ氷 ・蕎麦 嫡 ム目 二 他所 - 微量贈物 魚 ・菓子・野菜等、 某微 主軸 釜 披露 - 物者、斎殿御料理 ぬ 悼、 "/ ︵ 3 2 ︶ とある。また﹁ 媒 家伝 Z 神書﹂には が、 例えば千家家ではこれを " お対屋 たゃと
" 舌ロい、 と 出ている。いずれも禁忌の論理の一 つを 示す 一千家 殿洗 二八蜜柑果 ナド 国造 澱 まいりたる後 ハ 此 沙汰なし、 是 八千家 殿法ょ きか、 ものであろう。因みに " 微量 " とは申すまでもな 戦前までは家族︵女中も含む︶の " お対屋ごも 八二本。 給間 、先人二絵像 而 のち、 き こしめし く 月経小屋である り " が 厳重に行われ 候也 、北嶋 殿 二八 ていた。 国造は更に、十一月の新嘗会まで、当年産の五 穀 その他を食することを忌んだ。両家の間に多少 の 相違はあるが、 C4 ㏄ ) 22難 とするのであるが、その細注には 咄
ノ類 等 禁 " ニヨ 芝地 (469) に 入れず、新蕎麦も食する習わしであった。 つまむ き 0 条に 、
杵築大社七月五日八剣立御供、今年立稲穂 蝿ハ結飴 根芋 ヲ盛 、 瓢ヲ以テ玄酒ヲ 小花形 二 酌人、供二進 国造にはなお、七月五日の爪剥の祭がすむまで 二 酌人、高葉二畳・国造 把二椎ノ
手を触れてならぬものがあった。﹁重山雲 秘 砂上 割箸 - 供 二進 之 @ 客座 ハ 懸盤三穂 ノ貴ヲ 直二畳、 之 ︵牛飼 殿ハ稲管ヲ 小食二 教 、 瓜 ・茄子・天色
茄子・大角豆・根芋 ヲ置 、高桑 二 居、玄 酒ヲ二 9 一フ 7 ウ @ サネ 瓜 ・茄子・大角豆 一升 盛ノ 御器二人、 豆 ・根芋 ヲ盛 、 備 / ﹂の﹁国造斎戒﹂ ・根芋・タ顔・ 麻 之 、国造紘二新物松寿 - 目 二 今日 - 始 、至 二昨 四日 - 瓜ヲ 国造居座 之 中小。 入 。 之 、他人
陰辮
ナト 座 席二落タルヲ 取捨 テ、跡へ水ヲ % キ 洗フ也 ・ 且 衣裳 之 縫苧卸
∼ 鮎 " 樺 布 ・ 惟子 ・手巾 之類 、席上文草履 敷薦等 、以 - スフ 藁疵朋榔加縫 お主刑 沖礒魂旺 ㌃ 湘 鰹節 棚繭鮭臼醸蹉観一 M@ 満。 之 悼り 絵事者、 為 下前。 造 :天下 フ神 船数 慎 上世、至 , 干 十一月中卵目 -忌
と,
とあるのが、それである。文中の " 玄酒 " は 一夜酒のこと。 " 大花形 " とは﹁出雲白滝 公 随筆﹂に ょ れば直径四十 麸示 五分・高さ一寸五分の神事用の皿 、 " 小花形 " とは 同ゼく 直径三寸五分・高さ一寸四分のも のである。 送葬お
大所の聖火は調理にのみ使用され、 灯 火や火鉢に使われてはならなかった。これにつき ﹁重山雲 秘 砂上ヒ は、 簿 御食事 之外 、一切忌火 ヲ不 。用地・ 他之九 菊二 相 変事・園林㌃ 之故 、炭・硫黄 鞄而珊報利 V 、 ・ 油 ・蝋燭井坂 松 蝋燭等と 記されている。 食物その他、こうした種々の制約の中で暮さね 。はならなかったので、国造はあまり幼少では 勤ま らないとされてい た 。﹁ 媒 家伝 之 神書しに、 一国造 殿 行儀大事二俣 故 、一子たりといへとも、 十五歳より 内 二八神火 ヲ 5 け 給ハ ざる事、幼少 二て 八口中の行儀 永 二 て洗也 。 とあるのは、国造のはから出る唾が 他と 触れる, ﹂とを、国造の神聖性ゆえに忌んだためであろう 。単なる清潔の問題 だけではなかったと思われる。また同じ一節に 、 ケ ガ ンヤ 一清 微屋之 あたりへ 待 たま ハず 、勿論相言下。 被 。 戊侯也 、 というのは、 " お対屋ごもり " をしている家族に 対する国造の禁制と思われる。更にこれに続き、 御座 二 てもめす 也、 国造殿上局 ニ 畠を不 / 作ハこゑ をい、 、、て也 、座敷 二子供寝小便もい き候故 、不断上ぞ うり、 とある。同様の趣旨は﹁重山雲 秘砂 上ヒにも、 ノチカフ = 国造舘内エテ紡績・
磯禁之
・本尊・念珠 最林 ㌃ 之 ・ 且又 廓内、畠 禁 / 之 ・庭前花園 以二 糞土 - 培 。 之深禁 。 之 、 直 清の予知浩紀 宰 になるものかも知れない。 い ずれにしろ、硫黄・蝋燭・ 松 蝋燭の使用がお大所 は 、その臭気のゆえであろうか。 右のほか国造にはまだ、日常生活でのタフーが あった。﹁ 媒 家伝 之 神書﹂の﹁国造営 Z 行儀文事 ﹂ し、ナ @ 一 第一口中文荷 専︵ママ︶一二 義 俣 ・ 唾ヲ モム サト捨給ず 、紘二 5 げ、おり 殿 へすつる 也 、畳の上 二唾落 候ハ 、 拭 、英俊 ヲ となっていて、記述に若干の食違いが見られる。 細注のこの部分には元禄十年・十一年ごろの 記 事 があり、明らかに 24 元禄八年に没した目瘡のものではない。当時 自 清の嫡子左衛門 直清は故 あって北島村に蟄居中だ っ たから。あるいは全体的な姿勢を示すものとしては、食物の禁忌 ほ つき﹁重山雲 秘 砂上しの頭 注に 記された、 忌 惣 シテ食物 ノ類 トイ ヘ ト キ 、 不 。 用 シテ 不 グ 吐物ハ票スル 事 ナシ 、 ︵中略︶古来 ヨり如 。 是禁 スル 物ハ 、勿論国造 タル
ぬ身ノ
美食 ヲ好 ム事 、ユノくブ ル ヘヵ ラス 、質朴・正直・清浄専一トスル 事也 、 是 今日、 穂田 ム叩ト立テ 、神徳 ヲタ事ツ
トフ本地、 祭 翔 という言葉に尽きていたようである。 国 出雲 ︵㎡Ⅱ︶ で 元禄十年からお 大 所の火で国造専用のものを 焼 いたのに対し、北島方は無用の事としている点 などである。しかし 官舎まで新蕎麦を陣ったこと。素麺は油を入れ て 作るからとて、北島力も元禄十一年夏から禁じ たこと。炭は千家方 六ケ敷故 、十五歳 ヲ かぎりと 仕侯 先代 之譚拠 数度 在 。 之 、 然ル二 北嶋二八広 孝 九歳、千家二八専 能 十四歳二面 神 火相承、 是 より十五歳 之 仕法被中儀、 と 見えるのは、出雲大社の上官等の間で行われ ていた 別苦 の 式 と対応するもので、十五歳がいわ ば 元服の年だったか らであろう。 出雲国造にまつわるタブーには、① 血 と死の微 れに触れること、②汚物に触れること、③臭気の 強 い ものに接する こと、④仏教関係のものを近づけることなどのほ か ・特に⑤他人に触れて 微 れることの忌み、 換 冒 すれば聖火の神聖 さを守り、神の御杖代たる身の神聖性を保持す るための措置が 、 大きな特色をなしているよ う に 思われる。そうして これらの禁忌は一朝にして確立されたものではな く 、時代と共に付加され変容して行った部分も あったことが察せら れる。例えば食用油を北島 方は 使 い ・千家方は 使わなかったこと。蕎麦は千家方は自由だったの に 対し、北島 方は新︵ 2 ︶北島国造家所蔵﹁出雲国造世系譜﹂二十六世 国 道 果実目の 条 ︵村田正志 編 ﹁出雲国造案文書 ヒ 六九八 頁 ︶による。但し︶ 472 平岡蔵人 孝 日日華﹁国造殿御火継記録 ヒ ㍉神道学 ヒ 第八 江戸初期の佐 草 白滝 の ョ出雲国造系譜 考ヒ 自筆 本 ︵ 千 十号、昭和四十九年。 家国造家所蔵︶には、このことが全く触れられていな ︵ 3 ︶村田正志 編 、昭和四十三年、清女童。 ︵ 4 ︶島根県教育委員会編ならびに発行。 ︵ 5 ︶﹁出雲意字六社文書ヒ三八 | 四七頁。 ︵ 6 ︶﹁前掲 書 ﹂ 三 0 ニ ー三一二頁。 ︵ 7 ︶ コ 出雲国造泰文書 L 四四五 | 四六 0 頁 。 ︵ 8 ︶平岡 可実 の ヨ 古文書釈義ヒ︵平岡家蔵︶﹁ 懐橘 談 の一件﹂に ょ れば、著者黒沢三右衛門私恵︵石蒜︶ は 、伊勢に生れ 松 江藤 に 仕えた儒学者という。 ︵ 9 ︶﹁いのちの継承11出雲国造の火継神事をめぐ
って﹂
円 中央学術研究所紀要ヒ第二号、昭和四十 セ年 。﹁万治三年 ︵㈹︶村田正志﹁出雲神魂神社に於ける吉住 銘と 古文 書 ﹂﹁古文書研究 L 第二号、二 0 頁 。昭和四十四年。 ︵Ⅱ︶日出雲国造 家 文書目 一 0 九頁。 ︵ ほ ︶﹁出雲意字六社文書 b 四二 0 頁 。 ︵は︶ ヨ鎧 重三三 0- ハ頁。 ︵, tr ︶ヨガ グガ L 四セ 0 頁 。 ︵ 巧 ︶この間の所作は秘儀のため明らかでないが 珂国 追 尊光代 始口 によった。 ︵ 比 ︶平岡蔵人 孝 日日華 ョ 国造殿御火継記録 ヒ にょれば 、国造邸の清めに湯立て神楽も行われた。 ︵ W ︶﹁出雲意字一八社文書ヒ四八 | 九頁。 ︵ 睡坤 ︶ コ @ Ⅶ 一佗伺一ヨ 一日ヒ九一一 | 一一二目 只 。 ︵㎎︶ 円グガ 々 ヒ 一一三 | 四頁。 ︵ 釦 ︶拙稿﹁新嘗会の一考察﹂神道学会編 コ 出雲 学論 敬ヒ ︵昭和五十二年、出雲大社︶所収。 注 ︵ 1 ︶藤井貞文﹁後醍醐天皇と出雲大社﹂ 円 千家時宜 先生還暦記念神道論文集 ヒ 昭和三十三年、神道学会。出雲国造の祭事・
葬送・禁忌
︵ れ ︶千家群銃ロ大楽天人一家言け 口 六二ー三頁。 昭 和 三十二年、出雲大社々 務所 。 ︵ 戎 ︶ ルガガかコ 出雲大社ロ六頁、 二 0 八頁。昭和四 十三年、学生社。 ︵ 為 ︶﹁重山雲 秘 砂上口﹁斎殿方式 ヒ 0 条。 ︵ 舛 ︶口前掲喜三﹁斎殿方式﹂の 条 。 27 (473)智 毒の仏身 観 二 中国仏教における仏身観の潮流 智 嚴の法を継ぎ、華厳教学を大成した法蔵︵ ムハ 四三 ? 七一二︶は、日華厳経問答 口 において・ 向 華厳 経ヒに 出る無
一序
﹁華厳経﹂は仏が説く経典ではない。 仏 そのもの を、仏 それを説く者は、常に仏の本願、仏の三昧に 支, ぇ られてい 免者の根本的な課題であることが知られるであ ろ う 。 では、初唐 代に 華厳教学の基礎を確立した 智嚴 ︵ エハ 0@@- 9 組んだのであろうか。本論文は、思想史的背 旦 ホに 注意し である。 0 世界を、そして 仏 となる道を説く経典である。 しか・も 、 る 。このことから、仏をどのように把捉するかが 華厳経 研 | 六八︶は、一人の華厳経研究者としてその 課 題 にど う取 つつ、 智 俺の仏身 観 をできる限り明確にしょう と するもの木村清孝
俄の仏身
観
二種土仏説成立の経緯
は
、 初
お 期
そ 中 9 国 く ィム 『 教 埋 め惑 素
け
十 者 木
に 著るど
仏のさ
仏え 的所
「 引 の 仏報
仏
向 た ょ 」) 、 不持
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法
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一億短
小。
知。
仏
あ 毅 一 と が 一 の れ l L @る学
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法一は
身」、
故巴
満 干
仏
成 究
ら 自 のを 全
正 極
し鼻 熊 表 体
。
義
一
一
と 駒 て の 尺 わ と
此篇
昧
いして
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(476) 30智 嚴の仏身 観 的 記述の中から適切なものを選び出し、それら を 巧みに綴り合わせ、ゴータマ・ブッダの神格性 を 鮮明に打ち出した 仰 功績は、やはり本書の著者に帰せられよ う 。 し かも、叙述の一部には、著者の創作ではないかと 思われるものも 在 す 31 る 。例えば、十九歳でゴータマ・ブッダが出家 する際に、鬼神がかれを扶 け 挙げて、飛んで宮殿 を 出たとすることな ば 、そこには、自浄主夫人が昼寝の夢に一八矛 の 白 象を見て妊娠したこと・ブッダは四月八日に生 まれ、直ちに セ歩あ るい て﹁天上天下、我を楡ゆる 者 あることなし﹂ と 言ったこと、そのと ぎ ﹁天地大動し、宮中 み な 明らか﹂であった こと、三十二相・八十種好をかれが具えていた @ ﹂と、六年の託 胎 ののちにその子が生まれたこと などがのべられてい る 。これらの描写は 、 確かにその根拠を﹁瑞応 本起 経ヒなどの漢訳仏典に有している。けれども 、仏伝の多くの神秘 のであるが、まず前者についてその特徴を考察し てみよう。 第一に、一見して気付かれることは、ゴータマ ・ブッダとしての仏が相当に神格化されている @ ﹂とである。 例え は 、﹁ 覚 ﹂そのものとしての仏である。のちに 触 れるよ う に、この二種の仏の間には、 れ ろん 意 床上の連関が存する さて、 コ 理惑論 ヒ には二種の仏が説かれている 0 一つは、歴史的なゴータマ,ブッダとしての 仏 であり、もう一つ じて、中国的仏身観の基本的様相を窺 う ことにし 十八Ⅰ こ 、。 の 仏身 親 は、三国 @ 割 宋 のころ、仏教が思想的に 探究され始めた時代のものということになる。 以下、その検討を通 え 、厳密な意味では本書の思想史的位置を明確 にすることはできない。けれども・本論に直接関 保 するその仏伝の記 ︵ 只 @ ︶ 述の成立が﹁瑞応水越 経ヒの 翻訳午時 c 一二二 | 八年の間︶を遡らないことはほ ば 確実である。 従って、﹁理惑論 ヒ 五 0 年もの 開 ぎがある。また、 い まの筆者に、 , ﹂の書の全体の成立に関する一定の確信があるわ げではない。それゆ ︵ 77 ︶ へ 6 ︶ 地 において撰述したものといわれる。しかしこの 伝承に関しては、従来多くの疑問が提起されて ぎた。とくにその 成 立年代については、後漢末の成立という伝統税 を 信用する立場から、 劉 宋代の成立と見る立場ま で、諸説の間に約二
とあるものが注意される程度であろう。ところ が ﹁理惑論 口は 、中国的な形而上学的観念である ﹁天道﹂﹁陰陽﹂を 持ち出すことによって、ゴータマ・ブッダに 男 の子ができたことを正当化するのである。こ うし た 解釈こそが中国的 世界においてゴータマ・ブッダの聖人性を守り、 中国人を満足させうるという判断が、ここには はたらいていたと 考 ︵ 2 l Ⅰ ︶ 即以二 左手 - 指二具 妃腹ィ時 耶輸陀羅、便覧二体異︵ 自知。 有 / 娠 。 と表現する。﹁理惑論 ヒは 、ゴータマ・ブッダ の 心が﹁道徳﹂に存することを・はるかな過去世 からの﹁道徳﹂ 践を背景として描き出すのである。 ところで上の一文には、妃に男子を懐胎させる という、非道徳的に見えなくもない事実をどう んロ 理化すれば ょ という点で、独得の工夫がなされている。すな わち﹁座を別にし・床を異にしながらも・天道は はなはだ明らか 陰陽が通じて男の子を懐胎した﹂というのがそ れである。そもそも古い諸漢訳仏伝では、このあ たりの描写はほ どない。やや下って、 劉末 の末那 域陀羅 ︵三九 四 @ 四一八八︶ 訳 ﹁過去現在因果経 ヒに、 の 実 で、 とん ︵ l l Ⅰ ︶ 修二億太子︵ 為 巽二宮 観づ 妓女主 玩 ・並列三船前 づ 太子本。 貴 二世業︵ 意存 二道徳 り すなわち﹁理惑論しは、﹁ 低 化の状﹂を説明し て、 ︵ 0 t ︶ 積 二男道徳︵数千億 載 。 不 。 可 二組 記り といい、また 十セ 歳の結婚から十九歳の出家に 至る間の様子を 、 年上セ、正偽 納 。 妃 。隣国女 也 。太子生別 遷 。 座 、 寝 別異。 床 。天道孔明、 陰陽 而通 、 遂慎 三男 ぺ 六年刀圭。文王 ︵ 9 ︶ どは、私見の及ぶ限りでは諸仏伝の中にその 記 述を見出しがたいのであるり本書の著者は、二種 類 以上の仏伝からの 抽出を基礎に、巧妙に神秘的ゴータマ・ブッダ 像を作り上げているようである。 第二には、ゴータマ・ブッダが﹁道徳﹂との 結 び つぎを軸にして、倫理的に超人化されているこ とが注目される。 柵