• 検索結果がありません。

『宗教研究』231号(50巻4輯)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『宗教研究』231号(50巻4輯)"

Copied!
126
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

――目次――

論文

1,

出雲国造の祭事・葬送・禁忌, 平井直房, Rites, Funerals, and Taboos Connected with Izumo Kokusô,

Naofusa HIRAI, pp.1-27.

2,

智儼の仏身観:二種十仏説成立の経緯, 木村清孝, Zhi-yan’s Consideration of the Buddha, Kiyotaka

KIMURA, pp.29-57.

3,

不安の問題:キェルケゴールを通して, 川村永子, Das Problem der Angst: behandelt besonders nach

Kierkegaard, Eiko KAWAMURA, pp.59-81.

4,

儀礼的転位の考察, 安元正也, A Consideration on Ritual Reversal, Masaya YASUMOTO, pp.83-105.

展望

5,

現代における宗教哲学の課題:現代英国の宗教哲学者会議をめぐって, 間瀬啓允, Hiromasa MASE,

pp.106-117.

書評と紹介

6,

鎌田茂雄著『宗密教学の思想史的研究』, 柏木弘雄, Hiroo KASHIWAGI, pp.118-121.

Posted in 1977

(昭和52)年

(2)

(447)

一男

出雲国造の祭事・

葬送・禁忌

ぅ宮

、 か行のは神

いくれ

通史

移住以来 など 松江 造の の出 三種 倫 ら 事か 豪族 日本

斎 霊 神

旨 ら

群 神

の 一

社 債 大 約

ま し

窺 在 お の

のえ庭五

司ら(の

粁こ神ね

とるっていかげ

、 知らるで

、出

)楽音

2

田原 の大 ろで 道信

る 宝剣 られ も

いわ は 延 に 庭 ばあ 仰 諸 伏 る ま ゆ 雲 、 暦 は 附 っ の に と と た る の

達 士 出 遊 た 最 あ

し こ

津 田 稗

し に 回 っ は 中 こ 雲 あ 施 詰 侍 て 郡 が た

重要

置か領の今も 意

神祇

@

むま、

とは 明 大社の

。優

る 行 後に の占め

な低

国 " 兼任 れて 宇川 古く令の らか 神剣

展開 る位 は で を 元 さ

置 統

造 "

きないが

解た熊

大厄

" あ

勅弘

れかの

と か と 野 神 意 ろ (重 三 た ら 一

事 隠 、 ネ し る え

ヒ忌

つ づ

後は

る。

し 弛 か ら

l

一の

染 野

貫 美 妓 と い ら て 主 か 平 か 神 い と し 野 ろ 社 る し 田 部 も と

そ 出 れ 和

崇 拝

の さ る や た

他出国出し

雲に

限 れ 坦 夷

こ 源 た 雪 国 と

は 後 園 に は 出 社 、 の れ 雲 素 醸 造 お 黄 醐 0 げ ぃ

大社

雲底 の祭 奈良 あた る

鳴 天 神

る ま の 祀 時 り 出 で

異 境 白 雨

野 っ 神 国 、 出 か 行 な 多 そ

出雲国造の

祭事

葬送

朴示

己心

(3)

の神主 秋 上氏の場 ムロ も同様である。幸にして 秋 上 篆文書四八 0 通は門出雲意字六社文書﹂に一括 刊行されて。一昨年 以来学界の利用しうるところとなった。 ︵千家家の 祖 ︶ と弟貞孝 ︵北島家の祖︶は和与状 を 交換し・年間の祭事と所領を分掌した。それ は 後、大社の神事 は 、奇数月は千家方、偶数月は北島方が主宰す ることとなって幕末に至るのである。出雲大社は 明治四年五月、神社 制度の改革によって官幣大社に列せられ、翠玉 年には両国造家に よ る祭主交替 制 が廃止された。 一族は大社に奉仕す るかたわら・教派神道としての大社教︵千家︶ 出雲 教 ︵北島︶を創立したが、大社そのものの 宮司 職は 、明治五年 以降、代々千家家から出ている。 国造 家 以外の史料所蔵元としては、両家の配下 にあった上官のうち、千家方に所属した平岡家 と 九島方所属の佐 草 かもす 家が特に重要である。この両家は、ともに後述 の 火継ぎ神事や新嘗会に、大庭の神魂神社で国造 の 介添え役にあたる 家筋であったので、他の上官家に見られぬ秘儀 の 詳細を、門外不出の秘録として書き留めている 。この点は神魂神社 代 な に と して江戸初期の文献をもとに 跡 づ けよう とする ものである。 はじめに、使用する史料についてであるが、昭和 四十三年に刊行された北島国造家の﹁出雲国造 表み " 大ま 、︵ 3 由

︶ならび

L かもす ︵ 4 ︶ 同四十九年の神魂神社 秋 上家文書を中心とする ﹁出雲意字六社文書 ヒ 以外は、重要なものが殆ど まだ公開されてい い 。それら 未 公開史料の所蔵元として、第一に挙 げるべきは千家・北島の両国造家である。この 両家は、南北朝侍 の 興国四年︵ 一 三四三︶・第五十四代国造出雲 清孝の後継者争いをめぐって二間に分れたもので 、 翌 五年、兄考案 この小論は、出雲大社における宮司 職 をつとめて ぎた国造の、神事や葬送や日常生活を通じて 見 られた禁忌を 、主 ④ 命 をまっ る 熊野神社はやや衰退し、中世以降は 国造の支配を受げながらも、別の司祭者が代々 社 務 をとり行なって 、 幕末に至った。

(4)

で、北島方の上官仕草

清の養子となり、元禄

八年︵一六九五︶九月、八十歳で没した。その子

一人、宗

百千家内紀の養子となり、元禄十年、千家

直治の後を継いで第七十一代国造となった。

書は紙幅十八・

糎の

襟巻子本で上質

紙を用い、虫喰いの跡は殆

見られない。内容は国造の火継ぎ神事・新嘗

ムム

二万

旦の

" 天火の神

雛事

"

をはじめ、国造の日常の行儀や出雲

大社の造営時における秘伝など・一子相伝の秘事

記されていて、万治

3

﹁重山雲

秘砂

上﹂︵千家国造家所蔵︶

前者と同じ仕草日清の著作で、奥書に

れば

元年︵一六八入︶十一月、

十三歳のとぎ書い

ている

0

この書は

3 ( 何 9) 2 1 ところで、この小論に使用する主な大公開史料 を 年代順に紹介すると、お ょ そ左の通りである。 ﹁国造 尊 光代 始ヒ ︵千家国造家所蔵︶ これは万治三年︵一六一八 0 ︶ セ 月から九月までの 千家国造家の公的な日誌で、筆者は不明。七月 四日子 ノ 刻に行わ れた第六十八代国造 尊 光の火継ぎ神事を中心に 、 二三ヵ月間の関連行事を記録しているが、国光 迫家の経常的な記事 裏 一体のものである。 も夕くない。体裁は縦一二十二・八握、横二十四 江戸時代における大社第一の学者といわれる 佐 入りの奥書を含め百二十三枚。表紙は紺色で・ 表 た平岡蔵人孝昌の﹁国造殿御火継記録 ヒ ︵現在 ﹁ 媒 家伝 之 神書 ヒ ︵ 仕 草家所蔵︶ 糎の冊子本で、 枯 紙袋織、墨付百二十九枚、 う ち 草 宮内少輔日清の 、 。 作 。 自 清は千家方の第六十四代 は 千家家所有。﹁神道学﹂第八十号にその全文と 題は白い題額 に 記し左上に貼付してある。内容 本文は尊光の花押 解説がある︶と表 国造 慶 勝の曾孫 は 同じころ書かれ

(5)

ホ社 上官脚摩乳

手摩乳

後胤

元禄七年

餌 九月中旬

媒 宮内少輔出雲官情

セ 十九歳試

とある。この自筆本や古写本はまだ管見に入ら

ない。筆者が利用し得たのは平岡家所蔵の、大社

教本院用筆に筆写

されたものである。その末尾には 文化

年年三月性

草 式部出雲美晴

十セ歳写

とあり、

仕 草案本からの転写であることを示し

ている。内容は三部に分れ、第一部は杵築大社の

祭神と本社ならび

(4%) 4

(6)

"

己口 @ 林下

出雲大社の宮司

職は、

単に司祭者であるだ

でなく、神の依りましとして

" 御杖代

"

とも

解されていた。この語が

とあり、また同じ書の天穂日命の箇条には

国造秘記

--

、杵築無二

@

日食文鎮座

-

事、

為二

己貴

大神立御杖代

崇,

@ -

以来、至二千当国造

。 @ ,

-- - 、

徳日合一抹

@

足下

5 (451) に摂 末社に関すること。第二部は佐久 佐社 ・阿武 社 ・ 二 一十八社などと共に大社の御供儀式の解説 。第三部は三月令 儀式・大社年中行事・社家の員数・六所神社の , ﹂となどである。 5 ﹁国造直孝火継日記﹂︵北島国造家所蔵︶ これは、享保十五年︵ 一セ 一二 0 ︶九月十五日夜に 国造追孝の後をついだ六十九代国造直孝の 、火 継ぎ神事の詳細を 記した北島家の日誌である。筆者は一族の北島 内蔵助 孝京 が草稿を作り、これを北島掃部︵元 孝 7. ︶が再構成して 浄書している。掃部は道孝の喪に服し、また 北 島 縫殿勘考英の養子から復籍した十四歳の幾 Z 進 ︵直孝︶に、秘宝 の 火切りを渡すとぎの立合いもしているから、 一 族の最長老かと思われる。本書は縦三十三 糎 、 横 二十四糎の冊子 本 で、 堵 紙袋織・墨付四十六枚。内容は九月十 日から十月一日までの記録で、追孝の逝去から 直 孝の大庭出立、神 魂社 での神火相続と参籠、杵築での参籠・祝宴 をはじめ 前 国造の葬儀やお人所︵斎火 殿 ︶の清め など述べ、火継ぎ に 関連した往復文書を付載している。︵木室 日 につ いては、北島 邦 華氏の筆写をも併せて参照した。 ︶

(7)

水、 ホハ 是 悪文神木地、御神法世々億劫 不 。 怠 、 安寧 令二 守護 、。 - @@ 恐朴実 恐 札差 申得 再拝々々 跡 ト 体中 ス 祝言 也 是 @ 国造 殿ヲ 御蚕 べき祝詞は﹁ 媒 家伝 之 神書﹂に次のように見え ている。 壬フ 再拝々々謹言、広大 之御 威光之 御神 御忌、 以 二神 犬神水文徳 - 受継、森茂 御 押脚 垂 助奏 " 信奉。 仰 、

f

申 生 不滅 之 神道、故 ぬ竺 神祠 - 英、 と 出ている。さらに﹁出雲日清介随筆﹂の﹁ 社 家 員数﹂の条には 一国造天照大神第二等 子 ,、, 、天穂日命

,,

受 二天神勅 - 、 為 幸大弓 貴 大神・立御杖代 @ - 以来、 墳 キ 二神火 @ ,,テ - 鉄二神水 " - 天。 混 二流俗 - 夷、 とも述べている。この ょう な呼び名は 、 後に明 浩二年目十月、千家 尊澄 ・北島全 孝 両国造が神祇 官 あてに提出した ﹁御下問問答書﹂の中にも 一 御杖代兼国造両家社家職名文事 という一力 条 があるほか、提出者の肩書にも 天日限 宮 御杖代兼国造 とあって、江戸時代を通じこうした考え方が行 われてぎたことを示している。 " 御杖代 " の名は 単なる 自 清の思いつ きから使用されたものではない。その背後に 、か く 呼ばしめるにふさわしい信仰と習俗が存在し たからである。 例え ば ﹁出雲日清金随筆 ヒの ﹁杵築大社御供儀式﹂の 頃 には、三月余以外の祭礼における本殿向上段 の間での 献 瑛の図が ある。これに よ ると御神体を奉安する御内殿 と 貧 供された 神 餓の中間に国造の座が置かれ、御内 殿 と国造に向けて 献 撰 される形が取られている。また、後述する 新 嘗 会の神魂社の行事で・国造が大幣を手にして 祝 詞を申すとき、 仕 草 上官と秋上神主がそれぞれ幣を手にして同時に 祝詞を申すことが﹁重山雲 秘砂 上口に出ているが 、仕草上官の唱える ひ 52) 6

(8)

テ,礼

。 ・舞楽・相撲・御供なのものかと言われる @@

。。﹂,

@

秋 上

奉 。 信

英、米老足神慮

之 神水、火老足神明文神火

也 ・

御 神法

不 。 怠

、天地

安全会

二 守護

- 治 登

、 長夫

恐礼美恐礼美

中綬

とするのである。この事実は新嘗会と火継ぎ

神 事の類似性を示す証拠の一

つ であると共に、国造

が 神の

" 垂迩

" と仰

がれていたことを示すものであろう。

﹁重山雲

秘 砂上口によると、新嘗会の御釜の神事

に 、別火は正面に着座した国造と

︵上に米俵

を 載せ・御幣を立

篆文書のには

" 御欠

様 "

という語が数ヵ所見えるが、この史料を踏ま

えて作成したらしい

正保五年︵一六四八︶の﹁北島清孝神火相続

次 弟ミ め ﹂︵ 6 記

︶には同じ箇所を

" 国造

殿 "

と書き替えてい

る 0"

御欠

様 "

の 称

@ まし

に つぎ平岡

可 義民︵平岡家当主

松彦

氏の祖父。

幕 末

・明治の人︶の﹁古文書釈義﹂には、

忠国造

様ヲ称

シテ御吹

様ト云

ヘ リ ・其故ハ人

切板ョリシて

久ヱ

支ケ続

カセラ

かかニョリテナ

と 解説があるが・国造自身の宗教的権威の拠

りどころに神火神水の継承があったことが察せ

られる。

送 葬

神の

" 御杖代

" や

" 垂述

" とされた国造

には、神に仕えると同時に神を象徴する者にふさ

わしい厳しい禁忌が

、神

舞事や日常生活の間に要求されていた。出雲大

社の神事は現在でも年間

十二度といわれるが︵

7 ︶ セ

、江戸前期においてもほ

どの行事の数は、天正・慶長年間に廃絶され

たもの八件を除き

セ 十一に達している。しかし

出雲国造の禁忌の実態を

知るのに適当な祭は・必ずしも恒例の祭祀ばか

りとは限らない。それらを含め特に神秘な宗教性

が 窺える二三の儀礼

7 (453) ツキ 再拝々々謹言、広大左脚威光之 御神御恵 ・蛍手継 神火神水玄徳 - 両党

二除

父母 Z 忌服 - 英、 恭茂御神 御室 迩 豊春。 仰 そうして同じ史料によると、火継ぎ神事のとき の 祝詞は 、

(9)

で、それらを修正しっ っ 火継ぎ神事の内容を左に 略述しょう。 まず国造の病が危篤になると、杵築から神魂 社 へ 飛脚が送られ、神火相続式の準備がはじまる。 ついで死去が確認 されると再び飛脚を立てて新国造の出立時刻を報 じ 、 意 宇都八雲村の熊野神社から神魂に火切り を 届けてもら 5 手配 を 依頼する。やがて国造の後継者は潔斎して 新 し い 衣服を着け、広場で門出の盃をあげて出発す る 0 この 折 、家伝の 史料の所在さえ判然としなかった。筆者は幸に 両国造家ならびに平岡・ 佐 車両上官家所蔵史料の 若干を通覧する機会 ︵ 9 ︶ にめぐまれ、また前掲の﹁出雲国造篆文書目・﹁ 出雲意字一八社文書口をも利用しつつ一二の論 考を発表してきたの

他 は 万

匹 し 火 、 大 ) 出 し 用 の の

事 た 継 魂 橘

火継

( の 具 の もの 式 ぎ 神社 ヒ 談 ⑨ 体 は に に に ぎ

的 食 国 行

内 し 造 き 、 事 容 な 家 、 両 は い

伝 神 国 す

夫 人 造

と の

な 私 水

さ ど 宝 を 不

れ 述

継 生 欠

、 べ あ 承 小 袖

ら る し

減 水

事 れ 火 て で の

切 国 あ 継

以 い 臼 造 っ 承 外 る ・ と て 式 に 。 大 な 、 は

切 る 父 ら

こ の

使 が 造 か と わ 記 が ら が @ れ さ 亡 学 林示 、 れ く 者 じ そ て な た ら の い る ち れ 後 る と の て は 。 嗣 注 き

目 ナ, し 造 た は を の

0

本 服 集

で,

金 局 喪 め

膳 宣 す て

田坂 は

る き

常 の こ た れ @ ヒ 至 る

とな

「古 ま

で ・

調 伝

埋 』 に (

さに

れ よ 松

仁人

一 な 、 れ 帝 王 で, 火

あ 継

る ぎ

ネ中

サま そ の

と も 見 ら れ る年 の

ム 苫 第一

一 戸

か ら は じ ま

ナ - し ら し

九 一 の

の神

(4%) をとり上げて、関連する習俗を観察することに しょう。ここに引合いに出したいものの第一は 国 造の襲職 式 としての

(10)

出雲国造の祭事・

葬送・禁忌

と と 書 と と 努

次が出

にい 自あ

た で

こ あ

) を

永 吉

細末

孝 め 義

知 諸 孝 約

十 は

ま ( 書 八 八 で,

勿論

三年 Ⅰ @! ミ

( 知

出 幸吉 一 る 五 よ

亡 し

O

も 内 の ) な の い

る べ

号 秋

天 上

き り

の な

b

火 の 神人「 ど れ @ -

要窩藝

魂 庭

善 花 神

の わ 目

が 水

祝 側

詞 ( で ゆ 録 さ "" る 」 だ 未

案ピ近

国 「 」 世

劣襄阻

刀巨

ゆ頭。

(筆写

呑ま、

-

中 な

一己 口 - - に い 。

@

が ナ - し

ナ 。 し -

ナ、 Ⅰ

9 (455) 古い火切りを携行するのである。 大庭への道は約十一里あり、国造の行列は出雲 市から宍道湖の東岸を通って中宿りもせず、九時 聞 か十時間で急行 している。神魂に到着すると・ 社 前の手水鉢の

で修祓を受 け 参籠所に入る。神魂の社は日出雲 風土記

にも﹁延喜 式 ﹂にも見えず、出雲国造が大庭から杵築に移 勤 した後、恐らくは平安時代 中 ・末期ごろ国造 邸 の 邸内社またはお 火 所から展開したものと思われる。その古文献に 出現する最初のものは、承元二年︵一二 0 八︶の 鎌倉将軍家からの 下 もとより不明であるが、確実な現存史料に出現す る 最古のものは、 貞 治 四年︵

三一八五︶の﹁国造北島賢幸代待国中 伏葉﹂に

麦件 国造神主面職者、自主異相 宮 同宿傭人妹姑

-

二千賀 孝

-

三代・︵四十代

?

皆 正二亡父喪礼 之儀 ︵何 % 越 千 神魂

社軸

一十全 令 。相手続神火神水

-

之時 云々︵ 1

ノ、

(11)

に 近世初期、国造 家 自身は熊野大神奇 御気 軒合・ 大 己 貴命ならびに親しき皇神等を祭神と考えて いたことに注目した い 。﹁ 媒 家伝 之 神書﹂の﹁国造 殿 新嘗会 之 祝詞﹂ がそれであって、神魂神社で奏上される国造の 祝詞には 八雲支出雲国方青垣出方内、下浮石 根仁 宮柱 太 数立 氏 、高天原 仁 千木高知 生頃 、伊井諸方 日 真名 子 如実目佳熊野犬 神神魂万人前 仁 、今年霜月 乃 十卵 目乃 神官刀幣 早手捧持 氏 、良美崇奉 留奇御 気節分・同作生天 己 貴命 乎 始末・ 親幾 皇神等、状平平久安久新嘗間食世上申 頃 、︵ 下 略 - ︶ と 明記されている。﹁重山雲 秘砂 上﹂に ょ れば、 新嘗会のとき本殿内の献頷は御内殿前に二組な されているが、これ が 熊野大神と大己貴神にあてたものとすれば、 白 主神等に対するものは同じ記録に見える客座六組 と 二の間の下 膳 十二 組の神韻がそれであろう。 そこで問題を火継ぎ神事に戻そ う 。参籠所に入 った 国造後継者は、 湯 かかり︵潔斎︶して白衣・ 足袋 姿 で本殿に昇 り 、御房前の大床で装束を着用する。本殿の御房 前での着装というこの異様な習俗が、神魂 社と 杵築の国造 邸 のお 火 所 との連関を暗示することは、すでに﹁神道学 ヒ 八十号に述べておいた。続いて本殿奥の御内殿 前で、国造自身が家 宝の火切り 杵 ・臼によって鎮火する。いよいよ 発火すると・これを本殿二の間の﹁作りいろり﹂ に 移し、別火が一台 ほどの御飯を炊く。水は程近い茶白山︵神名樋山 ︶の真名井の滝からもたらされる。この御飯を 本殿二の間に海錨 ま たは鹿の皮︵八重畳ともい う ︶を敷いた席で頂戴 する。それは神と人との間の一般的な相嘗めの 形ではない。飯を盛 る 土器は一 つ だけで、国造はこれを神前に供え ることなく両手に捧げ持ち・ 種衣 祈念して一人で 戴くことは新嘗会も 同様である。このことは国造が司祭者であると 同時に 、 神の御杖代となるからであろうか。終っ て 新国造は御内殿の (4%) 注進﹂などによってわかる。この祭神はやがて 伊井冊立大明神を主祭神とする方向に傾いて行く 。しかしこれとは 別

や ︵

u

、正保五年︵一六四八︶

︶﹁北島

上夢国華

神火相続次第

﹂の

秘歌 @ Ⅹ︵

3 1 ︶

宝永二年︵一七

0

五︶の﹁神魂

由緒

(12)

じものであって、このときの国造の祝詞奏上の

作法は明かでないが、前述の佐卓上官や秋上神主

の 祝詞が新嘗会のそ

切送忌

襟の火切りによって

れと酷似している点から見て、祝詞奏上の状

鎖 られ、国造家伝来の人

そのもと本社と貴

布禧社

︵末社︶に対する

湯 女神楽の火は、熊野からの新しい火切りの人で

ある。この湯立て神楽

籍は

、寛永以前は第三日目であった。神魂の木が終ると国造用の食物の残りは、

打 砕かれた

小石を三度噛み、一夜酒を頂戴する。

歯固

めは長寿祈念であるとともに、祖霊を継承して

新 しい神聖な人格が神の奉

仕者として誕生したことの祝いとも解され、

産育

儀礼とのつながりを思わせる。第一日目の

儀式の際と同様、これら

11 ( 巧 7) もろ 第二日には御供米三石を餅などにして 奉 貸する 諸御供の行事がある。これは出雲大社における 正 式 の 献撰 行事と同 野 神社から新しい火切り 杵 ・臼が一組だ け 届 け られる。これは新国造の食物調理のためで、神魂 社 の本殿床下に榊で 囲った臨時のお入所を設け、調理のことに 肖 った 。この事実も神魂 社 本殿と杵築のお大所の親近 性を物語るものの 一 っ かと思われる。 供 ︶が 奉 貧され、国造の祝詞がある。以後、国 造は籠り所に参籠 し 、杵築に神火相続の飛脚を送 る 。なおこの日、熊 火継ぎ神事は神魂に三日 半 、大社に三日 半 、合 計セ 日間の参籠を伴 う 複合儀礼であり、その中に 大庭から杵築への 移動が含まれていた。第一日目には神火神水に よ る御飯頂戴のあと、御供米一石を供える 半 御供 ︵とりあえずの 街 ︵ 5 1 ︶ 前に進み、祖先伝来の口伝の祈 薦む黙蒔 形式で 行 な う 。こうして第一日に聖なる御飯を頂戴して 神前に祈請すること ︵ならびにその御飯の一部で造った一夜酒を翌日 の 儀式で頂戴すること︶が、いわかる神火神水 の 継承であり、神々 や 祖宗の霊威を受けうぐ方法であった。

(13)

に 百番の榊 舞 がある。琴板を叩いて神人の噺 す神 楽 歌の調べにムロ せ ・ って舞 う 。歯固め , 夜酒 頂戴・百番の榊 舞 とも・その所作は新嘗会 と 同様である。終って籠り所に参籠 し 、神事の 相撲などある。 第三日は終日、国造は参籠のままである。第四 日は未明に本社と貴 布禰社に 暇乞いの参拝をすま せ 、熊野からの 新 しい火切りを二分して、一方を大庭の国造別邸 のお人所に残す。次の新嘗会にこの火切りを使っ て一夜酒を作るため である。つづいて行列を組んで杵築に帰還する。 帰着後の国造の行動には両家間に若干の相違が あり、千家方は舞殿 ︵神楽殿︶で神拝をすませ 長庁 ︵庁の舎︶で二晩 参籠の後、第セ ロ 早朝にはじめて大社本殿に参 入し、お籠り成就の 神拝行事をして 御 継目の御供︵ 半 御供︶を 奉貧 する。これに対し北島方は杵築に着くと直ちに 庁 の 舎で潔斎して社入 神拝し、 翌 五日目には 半 御供の供進があって 、あ とは第七日まで参籠するのである。こうして 神 事 が完了すると土居 ︵国造 邸 ︶に入り、祝宴がある。神魂に社人して は来 精進仕立ての食事だった新国造と介添えの 上官は・土居でこの 日 はじめて魚味を食する。 これより先、前国造が死去してから新国造を迎 ぇ るまで・杵築の国造 邸 でも種々のことがある。 万治三年︵一六六 0 ︶の﹁国造 尊 光代 始 L によると、 一四日死去 之 国造 殿ハ 小門方面薄手 江 乗物工 面 、 供人数多幸。 供 参候、 一 御宿所二八不断 之於 二神事所 - 備 :食膳︵料理は 魚類なり、 如二 常々 - 偏 二 朝夕 - 也、国造 殿 不断 之 食事立所 ハ 、御大 所 神事と 云 、天穂日命以来 Z 旧例 也 、 一五日目 之刻 ・大庭 均 御神火脚相続 之 左右、飛脚 ヨ着中儀、 一 御神火相続 之 飛脚 当着申と 、 某儲 御欠 所 文火 悉 消申 、前国造殿御一代左脚道具、 一も不 。 残 音取 出 ・ 捨 中條、味 - 恰 @- ︶ 増酒 醤油なとハ不。 及 。 申 、 桶 鉢金物焼物なと 迄、 悉 下し 捨 中條、足首旧例 也 、 C4 品 0 12

(14)

如 用意されているが、神火相続の通知が入ると はじめて斎火 殿 に保存されていた古い火を消し 、 殿 内を清め、国造邸内 出 も祓冷 するのである。このことは北島方の享保 十五年︵ 一セ三 0 ︶の﹁国造直孝火継日記 ヒも同 じである。九月十六 13

。菩提寺が

西

窪寺︵天台宗︶・墓所が松林

︵真

@

ゐ示

︶であることは、両国造

とも同様

である。

﹁国造

光代

始口

に戻ると、前国造の遺

体は小門から菩提寺に送られる。土居ではまだ

のごとくお人所に食膳が

(4 め )

・葬送・禁忌

とある。

国造

能の逝去は七月三日成文

︵ 午

八時︶であり、次の国造

光の神火相続は四

日夜十二時のことで

あった。

こうした国造の葬法についてであるが、明治三十

年春ごろ千家豊福

帝室制度調査局に提出し

﹁出雲国造葬祭

二関スル

調書﹂に

れば、

上代出雲国造身

退

シ時八

土葬ナリシカ、英俊

何レノ頃

ニヤ本部菱根

︵ 今ハ無シ

二 黄牛二乗

シメ

水葬

、以上

ノ如

キハ死者

近親二

於テ

神葬的

自葬

センガ、何ツノ頃ョ

リカ

カナ

ラザレトモ

仏葬

ヲ 常ム二至レリ。

二車フルガ

クシ、

一セ

日間

シテ

喪ヲ発

セス、

シテ相続者ハ具

間ニ於テ

意字

神魂神社二歩

シテ神火相続

式ヲ

終り、

国造襲職

ノ式畢

レハ

始メテ喪ヲ発

常定ノ

葬祭式場三船

社家注連職神楽

ヲ奏シ

祭祀

後、僧侶

珪 -m

、純然タル神葬祭

二 復古

端緒

ヲ開テ

キ・社家

注連職工船

葬儀

ヲ掌レり、

となっている

0

この文中の菱根の他への水葬は

口碑によるものらしく、筆者の知る限りこれより

古い記録は見当らな

。また仏葬の導入後・天保三年︵一八三二︶

での葬儀が果して右に記される通り神仏の二重

構吐辿で

士のったかは

少し検討が必要であるが、

くも江戸初期の記

には社家注連職が神楽を奏して祭儀をしたらし

形跡は見られな

(15)

出雲大社の新嘗会は、もと杵築で行われるもの ではなかった。大庭の神魂神社と国造別邸で執行 される 賞金 が 、すなわち出雲大社の新嘗祭であり、 国 造 が病悩の時は杵築の国造 邸 でそれに代わる神事 が 行われ 雲 大社の拝殿で十一月二十三日夜に荒行される 古伝新嘗祭は明治五年以来のものであり、国家 神 道の制度 た 結果の新儀なのである。 この大庭での新嘗 ムム の古い姿は、火継ぎ神事より もなお世に知られていない。筆者の知る限り新 嘗会と 両国造の新 た。現在出 に編入され い う 名称で 四 日の条には、 一大庭石神火相続飛脚到来、即刻 西 薄幸 江 台所 方 ぬ 遥任・ 西 薄手儀式乞目、御大所石火を消し 一切御欠斯道具 政二破壊︵ 西 薄幸後志由江埋め 申候 、かりに御欠 新任 ひ 申供 縄竹 ふ き 卓筆、大破康二面 焼捨 中條 ︵下略︶ 一鍋 金輪又は遣道具、街着物 迄 、︵中略︶欠乏 気 人中 侯 道具は一切埋め又は焼仏宇 事 二 俣 、少 た る 物二而も寺 江遣 候例無 / 文ニ 付 、少たるものも此度は遣 不 " 中條、 一殿中衛大所道具一切、石山二面破壊又は埋め 申 侯 、一切立道具畳 鑓迄 新 敷調 中條、 是以 二脚大所 到来 左 上 - 也、 但 御欠 所 内、上 ぬり致候 、雪隠あらたに 持申候 、湯 殿は 有末 之 清め用中條、 是以 二 % 格 を - 中低 付而 如 / 此 ・ と 記されていて、記述が一層具体的である。 こ のとき・両国造追孝の逝去は九月十三日咳の 刻 ︵ 午後十時︶、神火相 続は十五目成の下刻︵午後九時ごろ︶であった が 、新国造の大社参籠中に社殿・参籠 所 ・国造 邸 が 清められ、特にお ︵ 6 ll ︶ 入所の清めは頗る厳重である。 (460) 14

(16)

さえ、現存する記録に出現するのは十六世紀後

のことである。国造の新嘗という行事は恐らく

古代から存在してき

たであろうが、年々の恒例行事であることが一人

記録に留められなかった原因の一つかと思われ

る 。

新嘗会の名が見える史料の比較的早いものとし

ては、天文十八年︵一五四九︶のものかと言われ

る 前述の﹁北島秀

孝 神火相続次第﹂があって

後す

一百番の御礼拝めされ

候時

、社人共御酒

給候

、万

儀式何れも新嘗会支持

ことく

也 、はやしも、

{

︵ 7 l Ⅰ ︶

などある。また、同じころのものと推定されて

いる﹁神火相続人物道具覚書﹂の末尾には、

一十一月新嘗会大神事

ぬと見える。つぎに天正二年︵一五七四︶十一

月 卯の日の﹁傘立

ぬ Ⅱ WM@

﹂︵ = 9 :口Ⅰがある。これは新嘗会 司, ︶

の国造別邸での行事に

こうした諸記録や新嘗会の実態についての論考は

の神事の克明な解

(17)

飯する。こうして用意された御飯は、この神事 ゆる " 竜太夫 " の悪態は後からのものらしく、 江 と 杵築の社人がこれを吟味して試みに鎮火し 、ラ 牙嘗 祭の行事は夜に入り、熊野から別火代の宮 の後半・国造の新嘗に供される。熊野の社人には 戸 初期には現れてこない。 大夫が両家に火切り板を三枚ずつ持参することか ち 一枚の火切りの火を別邸のお入所に移し、 真 饗応があるが 名 井の水を使 らはじまる 鎮火がすむと国造は社人する。式は諸御供の献 進からはじまる。かねて別火が用意した神韻を 、 国造が箸を むしろ 貧 供する。終ると国造は下殿し 、 恐らくは庁の杢 目 と思われるところに投げられた " 稜威 之席 " の 座は つき、 複 試行事がある。稜威芝浦とは﹁延喜式目の﹁田田 京国造神賀詞﹂にも見え、真菰または寿草を新藁 か 荒芋 で 編ん である。これに坐った国造は神殿の方を向き、 杵 築から随行した上官と神魂社の神主が左右に従 ぅ 。別火は先 に 目って祝詞を申し、終ると国造・上官・神主 が 一度に祝詞を申し、最後に別火がまた国造に祝 詞を唱える。 式は火継ぎ神事の場合にも見られたものの如く で、相違はただ後者がこれを本殿内で行なって い る 点だけの ょ る 。 大庭 って炊 いわ 取って 雑な 視 たもの ず国造 この方 ぅ であ 説 として最も重要なものは、仕草白滝 の ﹁重山幸 吉秘砂 上﹂と﹁ 媒 家伝 之 神書 ヒ である。以下、﹁ 重山雲 秘 砂上﹂を 中 心に略述してみよう。 両国造が大庭に向 け 出立するのは新嘗会の二見 M 、十一月中の丑の日で、この日から散斎に入る 。行列の往復を含 む 五日間に人夫をつとめる沿道の社領 民は、 延べ 四百人に達したという。寅の日、大庭に到着す るとそれぞれの別邸 に入り、卯の日の朝、両家は次々に社参して 神 楽を奏し下殿する。杵築出発から神事に至る まで、両家の間に先 番 ・ 次 番の順番が決められ、毎年交替する。 こ 0 日、熊野神社に飛脚を遣わし、旧例の通り火坑 り 板を差出す ょ 5 包 @O く Ⅰ 62) 16

(18)

つづいて祝詞行事と同じ場所で歯固め・一夜酒旗

戴 ・百番の榊

舞 がある。方式は全て火継ぎ神事

と 同様である。

で 鎮火し、少量の新米を炊き、杵築のお人所から

持参した麹を入れて作ったものである。そのと

き 、炊飯が終ると

ちに火を消し、灰も醸造後の糟も残らずお人前

の 偉力 に ある 皮お 下 @ どの︵国造の食物の残りや使用した W

器 物を捨てる場所︶に

出 用 、御酒大切は大庭に残して翌年の新嘗会に一

夜 酒を醸すためのものである。これに対し千家国

造は二枚の火切りに

17 (463)

(19)

が嘗会 御大切と書き、 う ち一枚を大庭に残す。 一 造が 杵築に移住する以前から大庭の国造 邸 で行 なっていたもので、これを通じ国造が神の御杖代 二枚目の、 白 飯を炊くため鎮火した分には何も書 かない。翌日これ としての神聖性を更 を 、国造が使用した膳具・器物ともども れ 砕き、 別館背後の山に埋めるのである。 卯の日の晩からはじまった新嘗会は、両国造に よってこもごも夜を徹して執行され、辰の日、日 の出のころ " 博之 神事 " がある。前夜から奉仕した上官・中宮・ 近 習 ・被官たちとの饗宴である 0 この朝の国造の 食膳は特に " 一汁 八 菜 " で、それまでタブーになっていたその年の 瓜 ・茄子・大豆・小豆・大角豆・干瓢・ 黍 ・粟を 、 始めて口にするこ とができた。 このあと、両国造の行列は辰の日午前中に大庭を 出、出雲郡の中宿で一泊して、巳の日杵築に帰 着する習わしであ つ ヰハ @ 。 新嘗会の複合的儀礼において・われわれは何故、 国造の歯固め・一夜酒頂戴・百番の榊舞などが 、神魂神社と国造 別邸の二箇所で 繰 返されねばならなかったかと い う 疑問を持つ。これにつぎ仮説を試みるなら、 新嘗会はもと出雲 国 新 する神事だった。そのころの行事は 、 恐らく 御釜の神事・ 黙禧 形式による国造の祝詞・歯固め 榊舞 ・一夜酒 と御 飯 頂戴などから成っていたのが、平安中期以後、 神魂社の成立とともに二元化し・そのあるもの は二 箇所で行われる ことになったかと思われる。 また、火継ぎ神事と新嘗会を比較すると、両者 の間に多くの類似があることに気づかされる。 例 えば聖なる火切り の 人 と真名井の水による御飯の頂戴である。勿論 火切りそのものは、一方は家伝の秘宝であり、 他方は熊野の宮大夫 がもたらす新しい火切りであるが、㍉ 媒 家伝 之 神書﹂に よ れば、 一天照大神より天穂日命 御 相伝 之 御大切、数百万 年何とてくちずして、金坂ても石二ても 相 つど き可 。 申哉 。まし (464) 18

(20)

中重 同辻 ハ廷 吉 禁 己 Ⅲ l 元日行事としての天火祭は、あまり古くか ものものとは思われない。筆者の知る限り、 そ 0 名称も行事も﹁ 媒 家伝 送 義之神書﹂や﹁重山雲 秘砂 上口に至って初めて 出現するものである。前者に ょ れば、 仕 草日清 はこの神事の秘密を 、国 一 道 北島 広 孝から正保二年︵二八四五︶正月 伝 捜 されたという。推測するにこの祭は 、 恐らく は十セ 世紀 初 ごろから 北 児島家にはじまったものではあるまいか。そう して﹁重山雲 秘砂 上ヒ によ れば、千家方もこれ を第セ 十代国造直治︵ 天 家の第六十七代国造義孝の 妹 ︶の代に至って 採 屈 しはじめたという。 ﹁出雲国造案文書﹂に見える元禄十一年の﹁仕草 知清 覚書写﹂は、その内容と付笠の文面からし て 、日清の嫡男 直清 19 (465)

ち 夜

目 と

摺 火 身 あ

神 。 頂 継 の る 々 き て の こ 戴 ぎ 潔 。 秘 本 木

八三百

御杖代 の点が ・百番 式 と新 斎と葉 両者は 密を以

。申供・

"

な る と に っ そ て

、 常

杓 立

大 け

の が の で あ し

ある。

目立つ霊威を

歯固め なを

継 の ス

%

承 で 一 は

伐 っ

(21)

がその子加清に書き送ったものであるが、文中

一箇条に

一天火

之祭

、禁中二市八四方拝

中條、天皇直二

被レ

通事ニ俣、是を学

候而

主事

とあるのが、起原を物語るものとして印象的であ

行事の次第は﹁

家伝

神書﹂に

れば、毎年

0

元旦

辰ノ

初刻︵午前

セ時

︶に国造が装束を

てお人所に出る。

冬の折にも拘らず、役人は鎮火の前から神事が

終了するまでの間、合計

度の水垢離をしつつ

奉仕する。まずお

入所の灰を捨てて

よく

清め、天の御大切

を採

んで発火する。薪は二年前の天の御大切と新嘗会

御大切を割ってく

の間、お入所の席で東から順次四方を拝し、神託

帥を唱える。次に役人の捧げる御飯を受け、東方

向い三ロ食べる。

役人はこの間

に両手を当てて伏拝するのは、

嘗会

のときと同様である。終るとお膳を下殿に

捨て、お入所の火を

消し、

灰も残らず下殿に捨てるのである。

お人前︵斎火

殿

︶は火の神聖さを守るため特に国

用に用意された建物で、方位は概ね母屋の東

にあたる。それ

今も茅

・荒壁・板敷で母屋とは廊下で接続さ

れている。内部は二部に区画され、一部は国造

0

座で、他の一部

飲食を調理する庖厨の土間であり、そこの炉に

聖火が焚かれる。火種の保存には乾した榎の木を

数十に切り、常に

中の灰に埋めておいたという。この庖厨に接し

味噌・

酒など造る

室と

炊事道具の置場がある

。御膳・御器などは

新嘗会と大晦日に新品と換える習慣であった。

用の物品は一切他人に使用または飲食せしめ

、残余の品は必ず

一定の場所に投棄することになっている。投棄す

下殿は・﹁重山雲

砂上ヒによればお入所の

一 裏手数立のところに

あり、下り物を犬

鳥に

喰わせることを忌んで

垣を結った。国造はこのお大所の聖火以外の火に

る食物を食べては

(466) 20

(22)

出雲国造の祭事・

葬送・禁忌

有 御 あ

一 国

正 二 忘 ハ に ノ及 い の し さ

ま れ い て る い

コ 石 - 、

置候

重日

ねい

て り L" 且

そ の 又

御 簾

ヲ Ⅰ 行

手ヲ

膳 之

ノ事

下 」

り殿

衣裳

-

一 K@ ヒ

敷 は

也 ス

21 (467) Ⅰ ならなかったので、大庭の新嘗会など旅行の折は 特製の唐櫃を携行した。この唐櫃は長さ一間ば が 教区に分れ、かまど・ 鍋 ・味噌・ 醤酒 ・ 火留 笛 ,煙草盆などが納められて、あたかも小火 斯 の 笛の火種は、江戸後期には明らかに炭団が用い られている。 お人所は今日といえども女人禁制で、国造とお 火 新番以外は男子の家族も入らない。国造とい は、 冬も袴・羽織・足袋を脱ぐことが守られてい 尼 を 見る女︵老女・少女は差支えなし︶は入らず、 セヵ 月以上の妊婦の夫もこれを 悼る 。仏経・ 今、 ロ , いまたは 微 展の人と会話して、沐浴せずして参入 することを 悼り ・国造と対談せずとあるのは、 て ぎたことであった。 かりのもので、内部 ︵ l ︶ よ う であった。人畜 えども参入するとき ・ 重 軽服の人・月水 珠を入れず、喪を弔 その後も長く守られ

(23)

﹁ 媒 家伝 之 神書﹂には、 一新嘗 之時 マテ 不 。巻物文事 ナスピ 大麦・小麦・ 米 ・大豆・小豆・ 稜 ・ 黍 ・ 粟 ・ 大 角豆 ・茄子等位、地外 瓜 ・蕎麦 ヲ モき こし @ ウカホ の 初参 ル也 、胡瓜 ハぎ こしめす 也 ・タ顔ハ不 " 参 となっている。 瓜 とはこの場合、白瓜・真桑瓜 の 類をい う らしいが、理由は不明。蕎麦につい れていて、﹁重山雲 秘 砂上﹂と一致しない。 ま た 、千家方は大麦・小麦とも年を越えて熟する め さす、 瓜 新嘗後 か 3 てはこの書では禁ぜら ものということで禁制 ということである。次に食物に関するタブー と しては、 ム 御食物禁忌、五辛、 他ノ 火気 入 タル鰹節・ 串海 鼠 ・ 串飽 ・ 打飽 ・乾鮭, ケノ鮎鰍 ア @ 蒸 椎茸・ 醐柿 ・ 飴 ・ カン

米麹

二テ シタル菓子 ノ類 ・ 嚢 ・ 鰻 頭位 @ 無 " 樺 ・ 索麺㎞ 駐 ヰ % ㍼ 朋 M 千娃割穣魏漱 ㍗ ぬ 斎殿 巨テ ム 御食用無。 悼物 、一切 薬靭轍 ・砂糖 撒ヰ氷 ・蕎麦 嫡 ム目 二 他所 - 微量贈物 魚 ・菓子・野菜等、 某微 主軸 釜 披露 - 物者、斎殿御料理 ぬ 悼、 "/ ︵ 3 2 ︶ とある。また﹁ 媒 家伝 Z 神書﹂には が、 例えば千家家ではこれを " お対屋 た

ゃと

" 舌ロい、 と 出ている。いずれも禁忌の論理の一 つを 示す 一千家 殿洗 二八蜜柑果 ナド 国造 澱 まいりたる後 ハ 此 沙汰なし、 是 八千家 殿法ょ きか、 ものであろう。因みに " 微量 " とは申すまでもな 戦前までは家族︵女中も含む︶の " お対屋ごも 八二本。 給間 、先人二絵像 而 のち、 き こしめし く 月経小屋である り " が 厳重に行われ 候也 、北嶋 殿 二八 ていた。 国造は更に、十一月の新嘗会まで、当年産の五 穀 その他を食することを忌んだ。両家の間に多少 の 相違はあるが、 C4 ㏄ ) 22

(24)

難 とするのであるが、その細注には 咄

ノ類 等 禁 " ニヨ 芝地 (469) に 入れず、新蕎麦も食する習わしであった。 つまむ き 0 条に 、

杵築大社七月五日八剣立御供、今年立稲穂 蝿ハ結飴 根芋 ヲ盛 、 瓢ヲ以テ玄酒ヲ 小花形 二 酌人、供二進 国造にはなお、七月五日の爪剥の祭がすむまで 二 酌人、高葉二畳・国造 把二椎ノ

手を触れてならぬものがあった。﹁重山雲 秘 砂上 割箸 - 供 二進 之 @ 客座 ハ 懸盤三穂 ノ貴ヲ 直二畳、 之 ︵牛飼 殿ハ稲管ヲ 小食二 教 、 瓜 ・茄子・天色

茄子・大角豆・根芋 ヲ置 、高桑 二 居、玄 酒ヲ二 9 一フ 7 ウ @ サネ 瓜 ・茄子・大角豆 一升 盛ノ 御器二人、 豆 ・根芋 ヲ盛 、 備 / ﹂の﹁国造斎戒﹂ ・根芋・タ顔・ 麻 之 、国造紘二新物松寿 - 目 二 今日 - 始 、至 二昨 四日 - 瓜ヲ 国造居座 之 中小。 入 。 之 、他人

陰辮

ナト 座 席二落タルヲ 取捨 テ、跡へ水ヲ % キ 洗フ也 ・ 且 衣裳 之 縫苧

∼ 鮎 " 樺 布 ・ 惟子 ・手巾 之類 、席上文草履 敷薦等 、以 - スフ 藁疵朋榔加縫 お主刑 沖礒魂旺 ㌃ 湘 鰹節 棚繭鮭臼醸蹉観一 M@ 満。 之 悼り 絵事者、 為 下前。 造 :天下 フ神 船数 慎 上世、至 , 干 十一月中卵目 -

と,

とあるのが、それである。文中の " 玄酒 " は 一夜酒のこと。 " 大花形 " とは﹁出雲白滝 公 随筆﹂に ょ れば直径四十 麸示 五分・高さ一寸五分の神事用の皿 、 " 小花形 " とは 同ゼく 直径三寸五分・高さ一寸四分のも のである。 送

葬お

大所の聖火は調理にのみ使用され、 灯 火や火鉢に使われてはならなかった。これにつき ﹁重山雲 秘 砂上ヒ は、 簿 御食事 之外 、一切忌火 ヲ不 。用地・ 他之九 菊二 相 変事・園林㌃ 之故 、炭・硫黄 鞄而珊報利 V 、 ・ 油 ・蝋燭井坂 松 蝋燭等

(25)

と 記されている。 食物その他、こうした種々の制約の中で暮さね 。はならなかったので、国造はあまり幼少では 勤ま らないとされてい た 。﹁ 媒 家伝 之 神書しに、 一国造 殿 行儀大事二俣 故 、一子たりといへとも、 十五歳より 内 二八神火 ヲ 5 け 給ハ ざる事、幼少 二て 八口中の行儀 永 二 て洗也 。 とあるのは、国造のはから出る唾が 他と 触れる, ﹂とを、国造の神聖性ゆえに忌んだためであろう 。単なる清潔の問題 だけではなかったと思われる。また同じ一節に 、 ケ ガ ンヤ 一清 微屋之 あたりへ 待 たま ハず 、勿論相言下。 被 。 戊侯也 、 というのは、 " お対屋ごもり " をしている家族に 対する国造の禁制と思われる。更にこれに続き、 御座 二 てもめす 也、 国造殿上局 ニ 畠を不 / 作ハこゑ をい、 、、て也 、座敷 二子供寝小便もい き候故 、不断上ぞ うり、 とある。同様の趣旨は﹁重山雲 秘砂 上ヒにも、 ノチカフ = 国造舘内エテ紡績・

磯禁之

・本尊・念珠 最林 ㌃ 之 ・ 且又 廓内、畠 禁 / 之 ・庭前花園 以二 糞土 - 培 。 之深禁 。 之 、 直 清の予知浩紀 宰 になるものかも知れない。 い ずれにしろ、硫黄・蝋燭・ 松 蝋燭の使用がお大所 は 、その臭気のゆえであろうか。 右のほか国造にはまだ、日常生活でのタフーが あった。﹁ 媒 家伝 之 神書﹂の﹁国造営 Z 行儀文事 ﹂ し、ナ @ 一 第一口中文荷 専︵ママ︶一二 義 俣 ・ 唾ヲ モム サト捨給ず 、紘二 5 げ、おり 殿 へすつる 也 、畳の上 二唾落 候ハ 、 拭 、英俊 ヲ となっていて、記述に若干の食違いが見られる。 細注のこの部分には元禄十年・十一年ごろの 記 事 があり、明らかに 24 元禄八年に没した目瘡のものではない。当時 自 清の嫡子左衛門 直清は故 あって北島村に蟄居中だ っ たから。あるいは

(26)

全体的な姿勢を示すものとしては、食物の禁忌 ほ つき﹁重山雲 秘 砂上しの頭 注に 記された、 忌 惣 シテ食物 ノ類 トイ ヘ ト キ 、 不 。 用 シテ 不 グ 吐物ハ票スル 事 ナシ 、 ︵中略︶古来 ヨり如 。 是禁 スル 物ハ 、勿論国造 タル

ぬ身ノ

美食 ヲ好 ム事 、ユノくブ ル ヘヵ ラス 、質朴・正直・清浄専一トスル 事也 、 是 今日、 穂田 ム叩ト立テ 、神徳 ヲタ

事ツ

トフ本地、 祭 翔 という言葉に尽きていたようである。 国 出雲 ︵㎡Ⅱ︶ で 元禄十年からお 大 所の火で国造専用のものを 焼 いたのに対し、北島方は無用の事としている点 などである。しかし 官舎まで新蕎麦を陣ったこと。素麺は油を入れ て 作るからとて、北島力も元禄十一年夏から禁じ たこと。炭は千家方 六ケ敷故 、十五歳 ヲ かぎりと 仕侯 先代 之譚拠 数度 在 。 之 、 然ル二 北嶋二八広 孝 九歳、千家二八専 能 十四歳二面 神 火相承、 是 より十五歳 之 仕法被中儀、 と 見えるのは、出雲大社の上官等の間で行われ ていた 別苦 の 式 と対応するもので、十五歳がいわ ば 元服の年だったか らであろう。 出雲国造にまつわるタブーには、① 血 と死の微 れに触れること、②汚物に触れること、③臭気の 強 い ものに接する こと、④仏教関係のものを近づけることなどのほ か ・特に⑤他人に触れて 微 れることの忌み、 換 冒 すれば聖火の神聖 さを守り、神の御杖代たる身の神聖性を保持す るための措置が 、 大きな特色をなしているよ う に 思われる。そうして これらの禁忌は一朝にして確立されたものではな く 、時代と共に付加され変容して行った部分も あったことが察せら れる。例えば食用油を北島 方は 使 い ・千家方は 使わなかったこと。蕎麦は千家方は自由だったの に 対し、北島 方は新

(27)

︵ 2 ︶北島国造家所蔵﹁出雲国造世系譜﹂二十六世 国 道 果実目の 条 ︵村田正志 編 ﹁出雲国造案文書 ヒ 六九八 頁 ︶による。但し︶ 472 平岡蔵人 孝 日日華﹁国造殿御火継記録 ヒ ㍉神道学 ヒ 第八 江戸初期の佐 草 白滝 の ョ出雲国造系譜 考ヒ 自筆 本 ︵ 千 十号、昭和四十九年。 家国造家所蔵︶には、このことが全く触れられていな ︵ 3 ︶村田正志 編 、昭和四十三年、清女童。 ︵ 4 ︶島根県教育委員会編ならびに発行。 ︵ 5 ︶﹁出雲意字六社文書ヒ三八 | 四七頁。 ︵ 6 ︶﹁前掲 書 ﹂ 三 0 ニ ー三一二頁。 ︵ 7 ︶ コ 出雲国造泰文書 L 四四五 | 四六 0 頁 。 ︵ 8 ︶平岡 可実 の ヨ 古文書釈義ヒ︵平岡家蔵︶﹁ 懐橘 談 の一件﹂に ょ れば、著者黒沢三右衛門私恵︵石蒜︶ は 、伊勢に生れ 松 江藤 に 仕えた儒学者という。 ︵ 9 ︶﹁いのちの継承11出雲国造の火継神事をめぐ

って﹂

円 中央学術研究所紀要ヒ第二号、昭和四十 セ年 。﹁万治三年 ︵㈹︶村田正志﹁出雲神魂神社に於ける吉住 銘と 古文 書 ﹂﹁古文書研究 L 第二号、二 0 頁 。昭和四十四年。 ︵Ⅱ︶日出雲国造 家 文書目 一 0 九頁。 ︵ ほ ︶﹁出雲意字六社文書 b 四二 0 頁 。 ︵は︶ ヨ鎧 重三三 0- ハ頁。 ︵, tr ︶ヨガ グガ L 四セ 0 頁 。 ︵ 巧 ︶この間の所作は秘儀のため明らかでないが 珂国 追 尊光代 始口 によった。 ︵ 比 ︶平岡蔵人 孝 日日華 ョ 国造殿御火継記録 ヒ にょれば 、国造邸の清めに湯立て神楽も行われた。 ︵ W ︶﹁出雲意字一八社文書ヒ四八 | 九頁。 ︵ 睡坤 ︶ コ @ Ⅶ 一佗伺一ヨ 一日ヒ九一一 | 一一二目 只 。 ︵㎎︶ 円グガ 々 ヒ 一一三 | 四頁。 ︵ 釦 ︶拙稿﹁新嘗会の一考察﹂神道学会編 コ 出雲 学論 敬ヒ ︵昭和五十二年、出雲大社︶所収。 注 ︵ 1 ︶藤井貞文﹁後醍醐天皇と出雲大社﹂ 円 千家時宜 先生還暦記念神道論文集 ヒ 昭和三十三年、神道学会。

(28)

出雲国造の祭事・

葬送・禁忌

︵ れ ︶千家群銃ロ大楽天人一家言け 口 六二ー三頁。 昭 和 三十二年、出雲大社々 務所 。 ︵ 戎 ︶ ルガガかコ 出雲大社ロ六頁、 二 0 八頁。昭和四 十三年、学生社。 ︵ 為 ︶﹁重山雲 秘 砂上口﹁斎殿方式 ヒ 0 条。 ︵ 舛 ︶口前掲喜三﹁斎殿方式﹂の 条 。 27 (473)

(29)

智 毒の仏身 観 二 中国仏教における仏身観の潮流 智 嚴の法を継ぎ、華厳教学を大成した法蔵︵ ムハ 四三 ? 七一二︶は、日華厳経問答 口 において・ 向 華厳 経ヒに 出る無

一序

﹁華厳経﹂は仏が説く経典ではない。 仏 そのもの を、仏 それを説く者は、常に仏の本願、仏の三昧に 支, ぇ られてい 免者の根本的な課題であることが知られるであ ろ う 。 では、初唐 代に 華厳教学の基礎を確立した 智嚴 ︵ エハ 0@@- 9 組んだのであろうか。本論文は、思想史的背 旦 ホに 注意し である。 0 世界を、そして 仏 となる道を説く経典である。 しか・も 、 る 。このことから、仏をどのように把捉するかが 華厳経 研 | 六八︶は、一人の華厳経研究者としてその 課 題 にど う取 つつ、 智 俺の仏身 観 をできる限り明確にしょう と するもの

木村清孝

俄の仏身

二種土仏説成立の経緯

(30)

、 初

お 期

そ 中 9 国 く ィム 『 教 埋 め

惑 素

十 者 木

に 著

るど

仏のさ

仏え 的所

「 引 の 仏

向 た ょ 」) 、

浬磐

一億短

小。

あ 毅 一 と が 一 の れ l L @

る学

。 のの照れ

つにか

法一は

」、

故巴

満 干

成 究

ら 自 の

を 全

正 極

鼻 熊 表 体

と 駒 て の 尺 わ と

此篇

して

ま現ぅ

もの

すと 十 観 に ず で 無 い ( は

擬自

かク

@

ま、

間遠 あっ

うと「

果 即 六 ら な い た 在 法 の も ら あ ろ 性 茂 一

ネ ハ

Ⅱ - 重 な る ぅ の は 」 要 い ま こ 表 こ せ な ・と い と 現 の 明

尺 窮乏 雑品・

( 間 す 。 は が 褐 か

(

ムし

顕 れ

、 十 文 す

康一

切 を と @ ま

口 伝 を

三 で 引 の る

ま ィム

のと

こっ分

螢贋

中 を こ て

中 が

に 主 こ い

国 弘

たあ と

仏 身

教 の

に 本

仏 前

お 質

げ な

根 は

@

論 朴

惑 " ム 。

@

本 仏

の仏 身

書 院

、 観

後 段

漢 階

の さ

大 経

に て

千 仏

が ; と 交 は

/ ャ 1 ( か

と 西 い 省 う

蒼 問

梧 題

現 め

在 て

0 本

広 播

面 的

憧 に

(476) 30

(31)

智 嚴の仏身 観 的 記述の中から適切なものを選び出し、それら を 巧みに綴り合わせ、ゴータマ・ブッダの神格性 を 鮮明に打ち出した 仰 功績は、やはり本書の著者に帰せられよ う 。 し かも、叙述の一部には、著者の創作ではないかと 思われるものも 在 す 31 る 。例えば、十九歳でゴータマ・ブッダが出家 する際に、鬼神がかれを扶 け 挙げて、飛んで宮殿 を 出たとすることな ば 、そこには、自浄主夫人が昼寝の夢に一八矛 の 白 象を見て妊娠したこと・ブッダは四月八日に生 まれ、直ちに セ歩あ るい て﹁天上天下、我を楡ゆる 者 あることなし﹂ と 言ったこと、そのと ぎ ﹁天地大動し、宮中 み な 明らか﹂であった こと、三十二相・八十種好をかれが具えていた @ ﹂と、六年の託 胎 ののちにその子が生まれたこと などがのべられてい る 。これらの描写は 、 確かにその根拠を﹁瑞応 本起 経ヒなどの漢訳仏典に有している。けれども 、仏伝の多くの神秘 のであるが、まず前者についてその特徴を考察し てみよう。 第一に、一見して気付かれることは、ゴータマ ・ブッダとしての仏が相当に神格化されている @ ﹂とである。 例え は 、﹁ 覚 ﹂そのものとしての仏である。のちに 触 れるよ う に、この二種の仏の間には、 れ ろん 意 床上の連関が存する さて、 コ 理惑論 ヒ には二種の仏が説かれている 0 一つは、歴史的なゴータマ,ブッダとしての 仏 であり、もう一つ じて、中国的仏身観の基本的様相を窺 う ことにし 十八Ⅰ こ 、。 の 仏身 親 は、三国 @ 割 宋 のころ、仏教が思想的に 探究され始めた時代のものということになる。 以下、その検討を通 え 、厳密な意味では本書の思想史的位置を明確 にすることはできない。けれども・本論に直接関 保 するその仏伝の記 ︵ 只 @ ︶ 述の成立が﹁瑞応水越 経ヒの 翻訳午時 c 一二二 | 八年の間︶を遡らないことはほ ば 確実である。 従って、﹁理惑論 ヒ 五 0 年もの 開 ぎがある。また、 い まの筆者に、 , ﹂の書の全体の成立に関する一定の確信があるわ げではない。それゆ ︵ 77 ︶ へ 6 ︶ 地 において撰述したものといわれる。しかしこの 伝承に関しては、従来多くの疑問が提起されて ぎた。とくにその 成 立年代については、後漢末の成立という伝統税 を 信用する立場から、 劉 宋代の成立と見る立場ま で、諸説の間に約二

(32)

とあるものが注意される程度であろう。ところ が ﹁理惑論 口は 、中国的な形而上学的観念である ﹁天道﹂﹁陰陽﹂を 持ち出すことによって、ゴータマ・ブッダに 男 の子ができたことを正当化するのである。こ うし た 解釈こそが中国的 世界においてゴータマ・ブッダの聖人性を守り、 中国人を満足させうるという判断が、ここには はたらいていたと 考 ︵ 2 l Ⅰ ︶ 即以二 左手 - 指二具 妃腹ィ時 耶輸陀羅、便覧二体異︵ 自知。 有 / 娠 。 と表現する。﹁理惑論 ヒは 、ゴータマ・ブッダ の 心が﹁道徳﹂に存することを・はるかな過去世 からの﹁道徳﹂ 践を背景として描き出すのである。 ところで上の一文には、妃に男子を懐胎させる という、非道徳的に見えなくもない事実をどう んロ 理化すれば ょ という点で、独得の工夫がなされている。すな わち﹁座を別にし・床を異にしながらも・天道は はなはだ明らか 陰陽が通じて男の子を懐胎した﹂というのがそ れである。そもそも古い諸漢訳仏伝では、このあ たりの描写はほ どない。やや下って、 劉末 の末那 域陀羅 ︵三九 四 @ 四一八八︶ 訳 ﹁過去現在因果経 ヒに、 の 実 で、 とん ︵ l l Ⅰ ︶ 修二億太子︵ 為 巽二宮 観づ 妓女主 玩 ・並列三船前 づ 太子本。 貴 二世業︵ 意存 二道徳 り すなわち﹁理惑論しは、﹁ 低 化の状﹂を説明し て、 ︵ 0 t ︶ 積 二男道徳︵数千億 載 。 不 。 可 二組 記り といい、また 十セ 歳の結婚から十九歳の出家に 至る間の様子を 、 年上セ、正偽 納 。 妃 。隣国女 也 。太子生別 遷 。 座 、 寝 別異。 床 。天道孔明、 陰陽 而通 、 遂慎 三男 ぺ 六年刀圭。文王 ︵ 9 ︶ どは、私見の及ぶ限りでは諸仏伝の中にその 記 述を見出しがたいのであるり本書の著者は、二種 類 以上の仏伝からの 抽出を基礎に、巧妙に神秘的ゴータマ・ブッダ 像を作り上げているようである。 第二には、ゴータマ・ブッダが﹁道徳﹂との 結 び つぎを軸にして、倫理的に超人化されているこ とが注目される。 柵

参照

関連したドキュメント

When one looks at non-algebraic complex surfaces, one still has a notion of stability for holomorphic vector bundles with respect to Gauduchon metrics on the surface and one gets

一九四 Geschäftsführer ohne schuldhaftes Zögern, spätestens aber drei Wochen nach Eintritt der Zahlungsunfähigkeit, die Eröffnung des Insolvenzverfahrens

Dies gilt nicht von Zahlungen, die auch 2 ) Die Geschäftsführer sind der Gesellschaft zum Ersatz von Zahlungen verpflichtet, die nach Eintritt der

Zeuner, Wolf-Rainer, Die Höhe des Schadensersatzes bei schuldhafter Nichtverzinsung der vom Mieter gezahlten Kaution, ZMR, 1((0,

), Die Vorlagen der Redaktoren für die erste commission zur Ausarbeitung des Entwurfs eines Bürgerlichen Gesetzbuches,

Bemmann, Die Umstimmung des Tatentschlossenen zu einer schwereren oder leichteren Begehungsweise, Festschrift für Gallas(((((),

Radtke, die Dogmatik der Brandstiftungsdelikte, ((((

Thoma, Die juristische Bedeutung der Grundrechtliche Sätze der deutschen Reichsverfussungs im Allgemeinem, in: Nipperdey(Hrsg.), Die Grundrechte und Grundpflichten