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安
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以上簡単に見たティリッヒの神学的︑哲学的立 場 において︑不安の問題はどのように解明されて いるのであろう
ィ リッヒはその性質を分析して次のよ う 庄一ちの 要素を挙げている︒第一の要素は最も徹底的な 非存在の発現にもか
かわらず現前する存在の力の経験である︒第二の 要素は非存在の経験が存在の経験に依存し・ 無 意味性の経験が意味
性の経験に依存している︑ということである︒ 第 三は ︑人間の存在は常にその存在に含まれてい る 非存在に脅かされ
ているにもかかわらず︑罪過や呪誼を受容され ているという︑﹁受容の 力 ﹂の経験という要素で ある︒
以上のような 三 要素を含んだ定義不可能な存在 への勇気の源である絶対的信仰が︑不安を克服す るのであるが︑ こ
の 絶対的信仰は︑従来のキリスト教の信仰︑特に 人格論的性格の強いプロテスタンティズム 空信 仰を越えている︒ テ
ヒ においては︑存在の存在論的基礎構造は 自己と世界の両極からなり︑自己は個別化の方 向 で︑世界は関与性
という仕方で︑人間の存在を存在の根拠へと近づ げさせる︒この両極が同等に受け容れられ超越 されるときに人間 存
在の存在自体への関係は絶対的信仰となるので ある︒もし個別化よりも関与性が優勢である 場ム 口 には・人間の存在の ︵ 外 ︶ Q 鼠口 ザの ︶と呼ばれるようなティ リ " ヒ 独特な 意 味 をもっ信仰である︒この絶対的信仰は定義でき ないのであるが︑ テ キ ェ ルケゴールにおいては不安は︑キリスト教 の神と透明な関係を ︑ 即ち ︑一 と 汝の関係を結ぶ
ことによって初めて克服されることを既に見た︒ 堕落した形態のキリスト教︵の オけ乙古 けず 曳円 ︶に ではなく︑イェス・
キリストの時代から 彼 までの一入 00 年の歴史 を 跳び越えてイェス・キリストと同時的に生きる ような真のキリスト
教 ︵い て 〜の神のコ日日︶に生きることによって︑不安 は 克服されるというのである︒
これに対してティリッヒでは︑存在の根拠である 存在自体の 力 が与えてくれる存在への勇気に ょ って不安が克服さ
れるのである 0 ところで︑この存在自体の 力 に よって捉えられている状態は︑ティリッヒにおい て ﹁信仰﹂と理解さ
れる︒しかし︑この﹁信仰﹂は︑伝統的なキリ スト教の信仰︑即ち︑ 賄 罪の死を遂げ三日目に復 括 した神のひとり 子
イェス・キリストへの信仰とは異なり︑特別な 内容とか特別の方向をもっていない﹁絶対的 信 仰 ﹂︵ & の R p ヴの 0 ︶ 目 ︵ の
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禾中 の 盟賄
体への関係は神秘主義的性格によって特徴づけ られ︑逆に関与性に比して個別化が勝っている 場 ムロには・人間の存在 2 件 在 自体への関係は主にプロテスタンティズム にみられるような人格論的性格によって特徴 づ けられることになる のである︒したがってティリッヒにおいては・ 中 世 までの神秘主義的な性格を内包していたキリ スト教に抗議して 出 現してぎた人格論的な プ ロテスタンティズ ム を も 超越し︑しかも東洋的な神秘主義をも超越した ような︑すべての 具 体 的内容を超絶した﹁ 神 以上の神﹂︵ 巨宵の ︒ 再 申すの rQo ︵ 廿 ︶が考えられているのである︒つまり ︑有神論の神はすべ て 超越されているのである︒そして︑このような 有神論の神以上の神が経験されて初めて︑全体 性 に部分として関与 する勇気と自己自身として個別化の方向へ生き る 勇気との緊張関係が統一にもたらされると同時 に 超越されるのであ る ︒ここに初めて人間は︑関与によって自己 自 身を喪失してしまうことをも︑また個別化によっ て 自己が世界を喪失 してしまうことをも免れることができるという のである︒従来の神をも含めたすべてが人間の存 在への勇気を与える 力 を失ったときに︑このような 神 以上の神が ︑人 間 に存在への勇気を与える︑すなわち不安を克 服する力を与える 唯
一の源泉なのである 0
次に︑ハイデッガーでは︑人間の実存の不安の 問題はどのように考えられているのであろうか︒
ハイデッガーにおいては・人間の実存をさらにそ
空
背後から支えたり・根拠 づ げたりしているよ う な絶対的第三者 とか︑存在の根拠は考えられていない︒人間の 存在の根拠をつぎ つ めてめげば︑ただ無があるの みなのである︒ハイ デッガーにおいては︑実存はどこか自分の知ら ないところから存在するものの只中である世界の なかに投げ出されて 一 いる︒そしてこのような 被投 性を背負った 実 存は ︑時間的なものとしての世界1円 | 存在と して特徴 づ げられる︒ と︵ 簗 ︶
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も一緒に含まれているような世界であが︒︵ 0 ︶
さて︑世界1円 | 存在 宙コ ︒ 宙ミ ・ ン壷 ・ おぎ ︶ と して規定される人間存在は︑存在するものから ﹁存在﹂ へ 存在論 的に超越することによって初めて自己自身とな る ︒ちなみに︑彼においても存在は真理と根源を 等しくしていると 考
となのである︒いる 0 ところで︒存在するものから﹁存在﹂への 存在論的超越とは︑ ︵ 卸 @ ︶ ヶ 大清存在の世界への超越は ︑ 最も根本的な個 体 化の可能と必然を含湖と︵ 2 ︶ 彼においては世界への超越である︒さるこ︑ 目| @ ば ︑不安は死への存在ということである︒そし 存在そのものである︒したがって不安は︑現存 として孤立化させ︑世界1円 | 存在をくつろげ 同時に︑存在するものの全体の理解を可能にす り︑ 彼における人間存在には世界 |内| 存在と いているのである︒自己開示と世界開示が本質的 0 人間存在の根底には︑既述の如く ︑無 あるいは さて︑人間存在の根底が無あるいは虚無に曝さ 在を世界における安易な日常性のなかから連れ戻 ないような無気味な宮ロ ア の ピ日 0 ず ︶ものとするの て ︑根底において虚無あるいは無に曝されている ることをも含むような次元 へ ︐人間存在が超越する︵ 3 ︶
してのあり方と︑世界への超越というあり方が本
虚無しかない︒そしてこのことが逆に︑人間 存
れているあり方が不安なのである︒つまり不安の に 一つに結びついているのである︒しかし︑ こ
世界1円 | 存在が不 質的に一つに結びつ 在 が存在するものの し ︑世界1円 | 存在 で七のる︒︵ 縫 ︶端的に三口︐ え のようなものとして ことである︒つま
対象は世界1円 |
安を克服できるのは︑現存在の深淵そのもので ある自由に徹し切ることによってのみである︒ ハ イデッガーにおける 自由とは︑人間存在の日常的くつろいだあり方 から無気味な不安という根本情態性にある世界 | 内| 存在へ超越する ことを意味するのであるが・この自由である世界 への超越は・存在するものの存在の根拠である ばかりでなく︑根拠 ︵仏り︶ 一般の根源である無に徹することである︒つまり ︑存在するものの存在の根拠の根源である無が 開示されて初めて 現
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問題を四で扱ったのは・これによって キエ ル ケ コールの不安の問題の解 碑
知明の高く評価されるべき点と批判されるべき 点 を明化するためであった︒ 77 不 ヰアイけッヒ を通して キエ ル斤 ノ ゴールに つ Ⅱ F て 舌口︐ えることは︑後者のように実存の問題を実存論的 に 探求することに 存在は・存在するものから存在へ超越し︑無の 泉 として克服されたものが︑逆に徹底されるこ 休め力 によって存在への カ が与えられ︑これに わ げである︒ 神も考えられていない︒それらに当たるものを 捉えられているのである︒︶これに対してハ イデ ときに︑不安は克服される︒ティリッヒでは︑ す に 従っておりながら︑存在するものから存在に至 は人間的自由を統御する有神論的な絶対的第三者 キェルケゴールでは︑実存が本来的なキリスト 不安の中で本来的な自己となるのである︒世界 |
強いて挙げれば︑それは無である︒現存在はこの とによって不安は克服されると考えられるのであ よって不安が克服される︒︵彼においては人間は
ッガ ーでは︑キェルケゴールやティリッヒでは 教の神に自己の根拠を透明にお き ︑いわば 神 1円 ることによって自由のうちにあり︑ここで不安
も︑ 死や無意味性や呪 誼 という非存在を克服す べての有神論の神以上の神と呼ばれる存在の根
不安を惹起させる 源 内| 存在という運命
神 1円 | 存在として 拠 ︑すなわち存在官
無 に徹し切り︑世界 る ︒ハイデッガーで の 克服が可能となる る 有神論の神以上の | 実存になりきる
1円 | 存在になり切って初めて真の自己となり︑ 自己の存在が深淵的な根拠への自由として開示 され︑不安がこの ょ う な自由の中で克服されると考えられるのであ る ︒
結 語