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束われ三場  での

ドキュメント内 『宗教研究』231号(50巻4輯) (ページ 101-115)

三化 

ね  、  は  所  あ だ 

ピ福わ 

徒夫  が  6  6 

  

103  ( 弘 19) 

﹁東北福祉大学論叢 ヒ 第十一巻︑一二七 | 四二頁︒ 

︵㌍︶拙稿︑一九七二︑﹁左手の優越﹂﹁西日本宗教学 雑誌﹂第二号︑八 セ頁︑コ つの文化の中で︑一般的 には右手あるいは 皿 

右側優越でありながら︑特定の人物あるいは状況にお いて左手あるいは左側が優越するというものである︒ ここで優越 と   は文字通りのそれと共に︑その状況における左右の選 択が 文化的に決定されている 場ムロ も含める︒﹂と規定   

在の主眼は︑この文章の後段にある︒ 

︵㏄︶﹁転位﹂とほ私がⅡの セ餓 笹に与えた訳語である ︒儀礼の場面における﹁放縦﹂︵ 由 りの 口港 ︶︑﹁ 卑猿 な行 動 ﹂︵ 0 ヴ おの コ洋セ ︶ ︑ 

﹁異装﹂︵︵ 塁コのヰ のの ヱ の ヨ ︶︑﹁役割 @ 倒﹂︵ rO‑ のぺ の ヰ宵総 ‑ ︶ な どが具体的には考えられている︒転位状況の各々の 文 化における 

意味については︑拙稿︑一九七三︑﹁宗教現象と儀礼 的 逆転﹂﹁哲学年報 ヒ 第三二 輯 ︑一二五 | 一四九頁︑ 回 ︑一九七四︑ 

﹁儀礼的転位について﹂ 円 哲学年報 ヒ 第三三縄︑ 七セ |一 0 Ⅰ 貢 ︒ 回 ︑一九七五︑﹁儀礼的転位﹂概念につい て ﹂ 司 哲学年 

報ヒ 第三四 輯 ︑九三 | 一一三頁︑を参照していただき こ 十八︑ @o レ 

︵ 綴 ︶や奈 甘シトゆつ 2‑ もめⅠ〜 キ ・ セさ 驚こ ヒ 自え〜 蕊 卜さめ 恩っャめ ︒ ト 簗を セや 

薄鼠 

も ﹁〜 ミ 礎の津まま り執 〜 ぎ む 蕾 め : 執穏笘 

ら 二ド 帝 Q ︑︵も コ年 ヰ 目ず乱簗 oc 才づ由ヴ ‑ica 笘 o 二 %. やⅡⅠ︶ 

︵ % ︶Ⅰ ヴ @ 宙 ・ ︑戸 @. の つ 

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︵ 銘 ︶ⅡⅠ レぃハ Ⅰ・・ⅠⅠⅠ し ・ベト ㎏ 

︵ 鵠 ︶ ヴ 印 &.. づ ・ つめ 

︵㏄︶Ⅱ u り @ ハ出・Ⅱ し ・㏄の 

︵ 即 ︶Ⅰ ヴ卜卸 ・ ‑ ㌧ セ ・ ぺ丹 印 

︵ 典 ︶Ⅰ す @ 宙 ・ ︐づ ・〜の 

︵ 蛇 ︶いの @ ロの ‑ ︶ 臣 曲コ ・ 円 ・ : のの p., 刃 〜㏄ す ︵の コ由 わ円 Ⅰ ︵ す口口 イ のぃヨ 0 臣ゆ庄 ㏄ 木か四 Ⅱ ま @ 下之 0 汀 0 再の ヤヨ Ⅰ 臼ガ の寸のの @h@ Q 色 0 コ︐ ・ム玉 ド漱 Q. 

づ ゲ ㏄ P, 之 ︑の ‑ つつ ・ ゆ 包の1り べ ・ 隼 0., トつつ の・ 接沐が恒 ︶Ⅱ︵︶の せ ヨざ ‑ 田ぃの酎のの @fiCat@O 且 ︐ ぎ 安之 毎ぎヨ ︵ 色 ・︶・ 力鑓きミえ 鮭さ︑め のめさ セめ 

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もきか s0 も 寮っ幡 ︶ ︑ヰ 0‑. 燵 ・ つつ ・のま |ぃ 

儀礼的転位の  考察 

︵ 佃 ︶右と左の問題を扱うにあたっては︑ ドニー・ ニーダムの見解を吟味しなければならない︒拙稿︵ 印 刷十 ︶﹁象徴的 二  元 論に関する諸問題﹂﹁有明工業高等専門学校紀要﹂ 第十三号︒ 

︵ あ ︶㊦せ いコ の・㌧Ⅱ ぎりす Ⅱ &. ロ ・Ⅱ:︶ののの・ ︐ま 日のの 0‑‑ 円曲 ぺの ⅡⅩ㌧おお山 コ ︵ ヴ おの 口ぃ ︵ セぎ下 Ⅰ 岳 8,. ぎパ蕊 セミ 母 〜 も さ 軌 ィ末 っ やめさぎ ︶︶ 

㌔ふ き 〜〜〜 ミめり gn 〜 ぬ 〜〜 % め an ㌔ 〜 蕊 Ⅰ 芭 ㏄ さ めぎ め gn 〜 い 〜 ト注 キ ﹁ op もぎ際さ 之 e 毛ぺご q オ @ Ⅱ︵ 湘 ㌧ お ss. Ⅰ 口 ・ べ甲 トロ ト  円仁︵コキ ︐せ : ぢき ・ つ ぎ力毛 ま斗ヤ r99 壌夢 の 圧 8%0‑ 下田 ぎの Ⅰ 由サ ‑@ の ゴめコ 幅の 02 玉 コ ︶・ b.NOO 

105   (551) 

はじめに 

一九七五年度秋の英国哲学会大会は︑宗教研究の盛ん な ラン 

ヵ スター大学を会場にして︑二一日間にわたる議論が展 聞 された︒ 

この大会のために英国哲学会︵ 刃 ︒ ぜ住 ︵臣の︵ @ ︵㌍︵ noh ㌧ 三 ‑o の 0 づオせ ︶ 

は ﹁理性と宗教﹂をテーマに採択し︑宗教哲学の特殊 問題を扱 

ラ 五つのシソポジウムを計画した︒﹁現代における 我 々はもう 

宗教なしでやって ゆ げる﹂という世俗都市の自己過信 が もろく 

も 崩れ去って ︑ 再び宗教の復権が叫ばれている現今の 状況下︑ 

同学会は積極的に宗教再考の場を設定したわけである ︒大ム耳の 

シンポジウムには︑現代の宗教哲学における五つの 重 要 な課題 

が 定められた︒それは悪の間 題 ︑宗教言語と意味の問 

大会プログラムは次の通りである︒  題 ︑宗教 

的 信念のムロ理性の問題︑霊魂不死の問題︑そして世界 理解の可 

能 性の問題である︒ 

Ⅱ 宙 Ⅰけ耳 べ ・ トの円ナい こ㌧ 円 こワ目口 芭わ 

下 ︵㏄ やヨ ・づき 6%0 蓮 ぬき︒ R め sc 〜〜 

間瀬  替允 

| 現代英国の宗教哲学者会議をめぐって |  現代における宗教哲学の課題 

展 

望 

        

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106 ) 

望  1   宗教言語と意味の問題  現代英国の宗教哲学は︑宗教言語の意味によせる関心  が  著し 

     ︵ 由庇コヴ年 Ⅰ㎏ オ ︶ 

大会開催に先立つ 数ケ 月前に︑各課題のもとにある 双 力めシ  ンボジアントから小論文が寄せられ︑これが小冊子と して大会  出席者たちに配られた︒したがってこの小冊子により ︑双方の  論点の一致なり相違なりを︑事前にうかがい知ること ができた︒ 

私は︑残念ながら︑この大ム互には出席していない︒ 開 佳日を  前にして︑私の英国留学は満期を迎えてしまったから である︒ 

留学期間中︑私に分析的な宗教哲学の研究を指導して くれた ジ 

︐ン ・ヒック教授︵ハーミンガム大学︶は ︑ ﹁この 人 4 ムの開催  ほ ︑たしかに現代英国の宗教哲学の復興を物語るもの ではある  が ︑大会そのもの仁は私はあまり期待を寄せていない ︒えてし  て こ う い う 大会は︑お き まりの祭りごとで終わって し まう もの  だからだ︒﹂と熱のない調子で私に話してくれたこと を 思い出  す ︒はたして大会が成功 裡に 終わったのかどうか︑ 私 は 知らな  い ︒ただ私は︑この大会のために準備された小冊子を もとにし  て ︑現代における宗教哲学の課題をあれこれ思いめぐ らすばか  りである︒そういうわげで︑私はここでは大会のため に 定めら  れた五つの課題をめぐって︑私見を盛り込みながら︑ その内容 

を 批判的に吟味検討していくことにする︒  なるということに︑注意がくばられねばならない︒ か つ 十し古本数 

に 対する問いは︑﹁宗教的な主張表明は真理であるか ﹂であっ  たものが︑今日では﹁宗教的な主張表明は有意味であ るか﹂に  変わってしまった︒たとえば神の存在証明なり︑神の 属性の論  証 なりにおいて︑かつてはその証明の真理性︑その論 証の真理  性 が主張されたのに対して︑今日では﹁ 神 在り﹂とか ﹁ 几 神 Ⅱ い い  愛 なり﹂という言明によって何が意味されているか︑ それはど  のような意味基準にもとづいて有意味 ノ 無意味といわ れるもの  になるか︑という問いに変わってしまったのである︒ そ @ し咬ヒ 吉本  教 言語の意味についての問いは︑神学的な主張表明の 検証可能  性 なり︑反証可能性なりについての問いにかかわるこ とになる︒ 

宗教的信念の合理性の問題の場合もそうである︒この 問題もや  はり神学的な主張表明の検証可能性なり反証可能性な りに依存  したものになる︒そこで一般に︑問題は次のようなこ とになる︒ 

宗教言語の使用は︑使用される語の意味からみて︑ あ る 特定の  実存的主張表明に信仰者が コ︑︑︑ット することによって 行われる  と 解せられるが︑これらの主張表明はさきに神学にお いて定式  化されているのであるから︑もし神学が検証可能でな げれば︑ 

あるいは反証可能でほげれば︑信仰の大前提になって いる実存  的な主張表明はその正当性をいうことができなくなる ︒もしそ  ぅ であれ ば ︑信仰者の使用する言語は明確な意味を欠 くことに  なり︑その結果︑信念のほうもまたその合理性を失 う ことにな  る ︒ シソポジアントのピーター・ウインチ︵ ヰソドソ 大学 ︶は こ 

107  ( 鰯 ) 

なさない︑ナンセンスなのである︒けれども︑それに もかかわ 

らず神の存在が﹁必然的﹂だといわれるなら ぱ ︑この 場 ムロの 

﹁必然的﹂とはどういうことを意味しているのか︒﹁ 神 在り﹂ 

が 論理的に必然的な命題だといっているのではないは ずである︒ 

なぜなら必然的な命題とはトートロジ一のことであり ︑それは 

内容空虚な舌口明のことだからである︒それでは一体︑﹁ 神 在り﹂ 

の  重要問題を認知して︑宗教的信念とその実践に対し  て  神学が  積極的な補強の役目をにな  う  べ  き  ことを強調する︒  そ  して特に  ︑  神学によって定式化されていて︑しかも信仰者がそれ  にコ  ト  している実存的な主張表明は﹁  神  在り﹂という言明  であるこ  とを指摘し︑さてそれではこの言明はどのような意味  をもつ  @‑ ロ 

    

の  命題に対して使われる語であって︑これを必然者  と  して使用  することは︑﹁必然﹂という語の誤用になるからであ  る  ︒とく  に  ﹁必然とは論理的必然にかぎられる︒﹂というヴィ  トゲン  シ  ユ  タインの考え︵コ論考  L  六・三  セ  ︶に立つ者には︑﹁  必然的﹂  といわれる論理学の命題はト一トロジーのことであり  ︑  @1@  ロジーは何事を語っているものでもないのであるから︑  存在す     るものについてこれを﹁必然的﹂と語ることはまった  く  意味を    

  

もうひとりのシンポジアントのスチュアート・ブラウ ソ ︵ 放 ︶ 

フラウンのいうように︑ユダヤ・キリスト教的有神論  く ︑それ以上に重要な ︑ 何らかの宗教的意味があるは  文法の問題︑つまり言語使用の適用の問題に終わるも  黙約﹂の意味が事実の問題としてであったのか︑それ  送 大学︶は ︑ 神の存在は事実の問題だと断定し︑はじ  ていると︑鋭く批判している︒たしかに神の存在は ︑  の 問題としてであったのか︑この点があいまいなまま  ンチ が︑﹁神の存在はある意味で必然的だ﹂といった 

ずである︒  とも文法 ただ単に  その﹁ 必 

の場ムロで  のではな  めにゥ 4% 

に 終わっ 

あれば︑神の存在は事実の問題であり︑﹁ 神 在り﹂は 事実的 必 

然 だと主張されることになろ う ︒この﹁事実的必然﹂ というの 

は︑ H つ めロヨ おが人格的主体としての 汝 として事実 的に存在 

する︑﹁ 汝 ﹂として事実的にこの﹁ 我 ﹂と 出 ムロ ぅ︑と いうこと 

を ︑この特定の宗教的立場から主張しょうとするとき に 出てく 

る 用語である︒けれども﹁事実的﹂とか︑﹁ 出ムロぅ ﹂ というこ 

とがいわれる 場 ムロには︑我々の経験論者はきまって 検 証 の問題 

を 突きつけてくるだろう︒宗教言語と意味の問題に関 しては︑ 

この﹁検証の問題﹂における議論がもっとも紛糾した ものにな 

る ︒そしてこの議論の進む中で︑宗教 @= ロま胆の有意味 ノ 無意味の 

分水嶺が引かれることになっていくのである︒︵この 点 に関す 

る さらにすすんだ議論については︑私の論文﹁現代 英 国の宗教 

哲学﹂八八理想 ヒ 十二月号︑昭和五十一年︑理想 社 を 参照さ 

ドキュメント内 『宗教研究』231号(50巻4輯) (ページ 101-115)

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