想】
わたくしの私的彫刻史 ― あっという間の五十年(一九六八年~二〇一八年)
瀬 辺 佳 子
[
聞き手・構成/森田義之
]ね る、 お ど る、 の び る、 と ぶ、 か が む、 は い つ く ば る、 さ か 立 つ、 お
つっぱる、 みがまえる、 ひらく、 とじる、 たわむれる、 にげる…。
と も 男 と も、 子 供 と も 大 人 と も、 デ ー モ ン と も 鬼 っ 子 と も 判 別 の つ か
様 な 風 体 の 生 き も の た ち が、 ア ク ロ バ テ ィ ッ ク な 様 態 で 跳 梁 し、 奇 妙
その大胆奔放で自由なフォルムからは、 ユー
ス で 飄 逸 な 息 づ か い が、 親 密 な く つ ろ ぎ や 強 度 の 緊 張 感 と な い ま ぜ に
ダ ン 以 来、 近 代 の 彫 刻 の メ イ ン・ ス ト リ ー ム は、 自 立( 自 律 ) し、 自
結 す る 求 心 的 な フ ォ ル ム と 絶 対 的 な ヴ ォ リ ュ ー ム = 空 間 の 美 を 追 求 し
「彫像」 (
statue) とは、 「立つ」 物体=量塊を肉づけ (モドゥレ) し、
辺 は、 芸 大 時 代 以 来 ほ ぼ 半 世 紀 に わ た っ て、 人 間 の 実 存 的 等 価 物 と し
こ の「 彫 像 」 の 意 味 を ぎ り ぎ り の 限 界 ま で 追 求 し 続 け た あ げ く、 五 十
機 を 直 観 し た 芸 術 家 が み ず か ら の 原 点 た る 自 然( 本 能 ) に 回 帰 す る の
必 然 で あ る と は い え、 誰 に で も で き る こ と で は な い。 モ ダ ニ ズ ム の 禁
造 形 か ら 解 放 さ れ た 瀬 辺 は、 い ま や 自 然 児 の よ う に、 静 止 し た ポ ー ズ
立 つ 」 こ と の 堅 苦 し さ か ら も、 装 飾 や 色 彩 を 排 除 し て き た 近 代 の 抽 象
こ だ わ り や モ ノ ク ロ ミ ー の 美 学 か ら も 自 由 に な り、 常 套 句 的 な 人 間 の
本然のままに生きることの歓びを、 怒りや苦渋、 迷いや曖昧さもふくめた生のエロスと全欲動を、全身であらわにする。 自 己 へ の 回 帰 と モ ダ ニ ズ ム か ら の 解 放 は、 ア ジ ア や 日 本 の 風 土 と 文 化 へ
の 回 帰 を う な が し、 ハ イ カ ル チ ャ ー と サ ブ カ ル チ ャ ー の、 モ ノ ク ロ ミ ー と
ポ リ ク ロ ミ ー の 境 界 を 無 意 味 化 し、 過 去 と 現 在 の 壁 を と り は ら う。 彼 女
が 生 み 出 す 異 形 の 生
クリーチャーき も の た ち の な か に、 自 己 解 体 の 危 機 を は ら む ジ ャ コ
メ ッ テ ィ や ア ー ル・ ブ リ ュ ッ ト 風 の ボ キ ャ ブ ラ リ ー と と も に、 日 本 の 昔 か
ら の 土 偶 や 天 倪 の よ う な 愛 す べ き か た ち が、 天 邪 鬼 の よ う な 怪 異 で し た た
か な 面 構 え が、 ク レ イ ア ニ メ も ど き の お ど け た イ メ ー ジ が マ グ マ の よ う に
自由自在に混融しているのは、そのためかもしれない。
放 胆 で 無 軌 道 な 衝 動 と 深 い 瞑 想 が 混 在 し、 軽 妙 に し て ず っ し り と 重 く、
激 越 に し て 生 真 面 目 な 戯 れ と も い う べ き 瀬 辺 の 彫 刻 的 パ フ ォ ー マ ン ス が、
今 後 ど の よ う な 転 成 を 遂 げ る の か
―そ れ は お そ ら く 作 家 自 身 も ふ く め、
誰も知らない。 (森田義之)
[二〇〇四年名古屋市のギャラリー
141
で開催された瀬辺佳子個展のパンフレットに寄稿
したテクスト(一部改稿) ]
「想い男」
2003年
29×
10×
10( 単位
cm H・
W・
D)
は
じ
め
に 瀬辺佳子氏︵一九四五年︑名古屋市生まれ︶は︑東京藝術大学彫刻 科 で 学 び︑ 一 九 七 〇 年 に 同 大 学 院 を 修 了 し た 後︑ ﹁ 新 制 作 展 ﹂ に 継 続
的に出品する一方︑個展やグループ展で作品を発表し続ける彫刻家で ある︒
賞を経て︑二〇〇三年に会員推挙により新制作協会会員となり︑会の ﹁ 新 制 作 展 ﹂ で は︑ 二 度 の 新 作 家 賞︵ 一 九 九 二 年︑ 二 〇 〇 二 年 ︶ 受
運営においても中心的な役割を担うようになっている︒
本稿は︑瀬辺氏が二〇一六年十月五日︑母校の愛知県立旭丘高等学
校美術科で行った講演会﹁あっという間の五十年〜私的彫刻史﹂のレ ジ ュ メ 原 稿 を 出 発 点 と し て︑ そ の 内 容 を イ ン タ ビ ュ ー 形 式 で 再 構 成
し︑ 瀬 辺 佳 子 氏 の 半 世 紀 に わ た る 制 作 活 動 と そ の 背 景 を た ど る 試 み である︒
瀬 辺 佳 子 氏 は︑ 東 京 藝 術 大 学 の 彫 刻 科 で︑ 菊 池 一 雄 氏 に 師 事 し︑ 一 九 七 〇 年 代 初 め か ら﹁ 新 制 作 展 ﹂ に お い て 人 体 を モ テ ィ ー フ と す
る 独 自 の 重 厚 な 実 存 感 に あ ふ れ る 作 品 を 発 表 し て き た が︑ 一 九 九 〇 年 代 中 頃 か ら し だ い に 自 由 奔 放 で ︑ あ る 種 ポ ッ プ で プ リ ミ テ ィ ヴ な
表 現 主 義 的 な ス タ イ ル に 大 き く 転 換 し︑ モ テ ィ ー フ も︑ 制 作 の テ ン ポも︑作品のコンセプト自体も飛躍的な変化を示すようになった︒
冒 頭 に 載 せ た 批 評 的 コ メ ン ト は︑ こ の 転 機 の 後︑ 二 〇 〇 四 年 に 名 古 屋 の ギ ャ ラ リ ー
141
で 開 催 さ れ た 個 展 の パ ン フ レ ッ ト に 私 が 書 い た
文 章︵ 一 部 改 稿 ︶ で あ る が︑ こ う し た﹁ コ ン ヴ ァ ー ジ ョ ン︵ 回 心 ︶﹂ と も ラ デ ィ カ ル な﹁ 脱 皮 ﹂ と も い え る 瀬 辺 氏 の 自 発 的 転 換 の 背 後 に はどのような意識や観念の変化があったのか︒ 創作コンセプトの変化や作風の大きな転換は︑ 外側から見れば︑ ﹁突
然変異﹂のように見られがちであるが︑実際には︑長い前史︑さまざ まな試行錯誤︑見えない内的な葛藤や苦闘の過程があり︑その中から
作家的な必然として生まれたものだと思われる︒
瀬 辺 氏 は 第 二 次 世 界 大 戦 の 終 戦 の 年 に 生 ま れ た プ レ 団 塊 世 代 の 彫
刻 家 で︑ し か も 典 型 的 な 男 社 会 で あ る 彫 刻 の 世 界 で は 数 少 な い 女 性 ア ー テ ィ ス ト ︒ 半 世 紀 以 上 に わ た る そ の 歩 み は 戦 後 日 本 の 彫 刻 ︱
一九六〇年代から二〇一〇年代にかけての美術 ︱ 大きな流れで見れ ば︑ モ ダ ニ ズ ム か ら ポ ス ト・ モ ダ ニ ズ ム︵ あ る い は ポ ス ト・ モ ダ ン ︶
の 美 術 へ の 大 き な 変 化 と 重 な り 合 っ て い る︒ そ う し た こ と も 含 め て︑
アトリエにて
アーティストとして大胆に変化しながら︑また女性彫刻家として社会 的 に 自 立 す る と い う︑ 困 難 な 道 を 独 自 に 切 り 開 い て き た 瀬 辺 さ ん の
パーソナル・ヒストリーを語ってもらうことは︑興味深く︑意義ある ことと言えるだろう︒
話 の 導 入 部 と し て、 こ の 二 十 年 ほ ど の 作 風 の 変 化 と 転 換 の 過
程、その背景を、いくつかポイントとなる作品を示しながらお話し下 さいますか。
そ れ で は︑ い く つ か の 作 品 を お 見 せ し な が ら︑ 大 学 卒 業 後 の
一九七〇年頃から二〇〇〇年頃までの彫刻制作の変化についてお話し たいと思います︒
これは︑東京藝大の大学院修了の翌年の一九七一年︵私が二五歳の とき︶に︑ ﹁新
制 作 展 ﹂ に 初 入 選 し た と き
の 作 品 で す︒ 遠 い 昔 に な る
の で ど ん な 気 持 ち で 作 っ た かはもう忘れてしまいましたが︑ようやく等身大の人体が作れるよう になり︑一所懸命さがにじみ出た︑初々しい作品だったと思います︒ 次 の 作 品﹁
TREEWOMAN﹂ は︑ そ の 二 十 年 後 の 一 九 九 二 年﹁ 新 制
作展﹂に出品した作品で︑新作家賞を受賞した作品です︒
卒業してからひたすらモデルを見て︑ひたすら余分と思われるもの
をそぎ落とし︑ ﹁人が立つ﹂ということ︑ ﹁立っている﹂ということの 意味を追求した作品です︒
三番目の作品﹁手を食む人﹂は︑二〇〇一年のセッション・ハウス
で の 個 展 に 出 品 し た も の で︑ 粗 野 で は あ り ま す が︑ 現 在 に 至 る 作 風 ︑ 創 作 コ ン セ プ ト の 転 換 を は っ き り 打 ち 出 し た 作 品 で す︒ こ の 個 展 は︑
私の彫刻作家としての再出発の第一歩となり︑これ以降︑新制作展へ の出品は続けながら︑画廊の個展やグループ展が発表のメインの場と
なりました︒制作のペースや作品の数も急速に拡大していきました︒
「新制作展」初入選作
1971年
「TREEWOMAN」
1992年
165×
53×
53私 も、 瀬 辺 さ ん の 制 作 史 の 転 換 点 と な っ た 二 〇 〇 一 年 の セ ッ ション・ハウスでの個展を拝見し、長年マグマを潜ませてきた休火山
がいきなり活火山となって激しい噴火を開始したような衝撃を覚えた ことを記憶しています。
そ れ か ら さ ら に 二 〇 年 近 く 経 っ た 現 在 で は、 そ の 驚 き に、 そ の 後 の、マニエリスム(マンネリズム)とは無縁な創作力のパワフルな持
続への驚きが加わっています。
前掲のパンフレットに書いたこととも重複しますが、瀬辺さんの新
しい作風の特徴を私なりにアト・ランダムに羅列してみますと、
(1)
作 品 の ス ケ ー ル が、 概 し て、 等 身 大 か ら 中 型 化・ 小 型 化 し、 作品の材質も、ブロンズから、様々なニュアンスで着彩され た樹脂石膏によるものが中心となる。
(2) 異形の全身像が、基本モティーフとなり、ポーズとアクショ
ンがますます自由奔放で躍動感を増す。 スタティックな 「ポー ズ 」 と い う よ り、 思 い が け な い「 ア テ ィ チ ュ ー ド
attitude」
=「様態」とでもいうべきものに変化し続ける。時にシュー ル で、 ア ク ロ バ テ ィ ッ ク な 動 き と、 私 的 な 物 語 性( ス ト ー
リー)を秘めたとめどなきヴァリエーション………
(3)
着彩が一般化し、多様化、全面化する。彩色の装飾性もさま
ざまに強度化する。
(4)
全身像に加えて、 「頭部」 「面」が主要な形式=モティーフと
して登場する。これらの厚みのある「面」は、古今東西のプ リミティヴな作品からさまざま刺激を受けて、独自に変形さ
れ、複雑な発語性を強める。
(5)
太古のプリミティヴィズム、エスニッックなエキゾティシズ
ム、猥雑なサーカス的・辺境的な感覚等の、時空を超えた不 思議な混融。
(6)
女性的な原初的生命力の発散、はじけとぶ能動的エロス、そ れらの自己発見の歓び。
(7)
陽性で飄逸なオプティミズムを孕みつつも、複雑で、重みの ある、不安な感覚をたたえる、生命のエネルギーの爆発と内
攻がせめぎ合う緊張感……
というように、次々と多弁な言葉を誘発する感覚と力に満ちていな
がら、どの言葉からも逃れてゆく謎とアニミスティクな多義性を含ん でいる。
「手を食む人」
2000年
150×
150×
60口の中に手をつっこむポーズにするとなぜか
落ち着いたのです。
「朱回廊」
2007年
20×
30×
37「振動する大男」
(注1)2006
年
37×
22×
16麿赤児のふるえているだけのダンス
から…
「篠 笛」
2017年
37×
14×
14「ミセスバイオレット」 2005 年
48×
10×
9「鶸乙女」(面) 2010 年
24×
30×
14「初めての降り立ち」 2008 年 85 ×
65×31初めて地面に降り立つようなおごそかなダンスでした。
しかし、大事なポイントは、瀬辺さんの強いエクスプレショニズム をはらんだ作品群が、本質的には、いわゆるフィギュアや様々な民芸
的な泥人形、土俗的なお面の造形などから出てきたのではなく、逆説 的な言い方かもしれませんが、藝大の彫刻科卒といういわば近代ヨー
ロッパ彫刻のアカデミズム=モダニズムの造形的伝統ないし高度な造 形主義の伝統の中から、そのアンチテーゼとして、あるいはその「否
定 の 否 定 」、 力 業 的 な「 脱 皮 」 と し て 生 ま れ 出 て き た こ と だ と 思 っ て います。
別の言い方をすれば、従来のモダニズムの「空間」という抽象的閉 域の中に閉じ込められていた造形思考から抜け出て、音楽や演劇、古
謡の朗唱といった「時間」的パフォーマンスを積極的に導入し、融合 し、そこに新しい時間的=造形的創造の可能性を見い出していこうと
する果敢な試みの成果であるように思います。
そ れ は 、 瀬 辺 さ ん の 個 人 的 ヒ ス ト リ ー の な か で 、 長 い 彫 刻 的 経 験 な り、 彫刻的思考や作家としての試行錯誤の中から生み出された 一見シンプルでも複雑な 彫刻的イメージであり、今も生成の途上
にある、 「開かれた」イメージであるように思います。
こ こ か ら は、 思 い 切 っ て 時 間 を さ か の ぼ っ て、 瀬 辺 さ ん が 美 術 の 世 界 に 足 を 踏 み 入 れ た 時 期 か ら、 藝 大 の 彫 刻 科 の 学 部 時 代 と 大 学 院
時 代、 そ し て 大 学 卒 業 後 の「 新 制 作 展 」 出 品 時 代 の 創 作 を 回 顧 し な が ら、 「 突 然 変 異 」 ま で の 作 家 と し て の 変 遷 を 語 っ て い た だ け ま す で
しょうか。 美術への道、愛知県立旭丘高校美術科時代
美術は子供の頃から好きでした︒母は私の絵をいろいろなコンクー ルに応募していました︒学級委員の常連のような子供でしたので︑越
境入学をして進学校の中学に行き︑ただ目的もなく東大進学率の高い 高校への入学を目指していました︒
しかし︑父が事業に失敗し︑母も働きに出なくてはならず︑中学二 年のとき私が三人の弟妹の母親がわりになりました︒弟の幼稚園の父
兄 会 に 行 っ た の を 覚 え て い ま す︒ そ の う ち︑ 成 績 は ガ タ 落 ち に な り︑ 志 望 校 は 無 理 だ と 言 わ れ ま し た︒ そ れ で 目 指 し て い た 旭 丘 高 校 の 普
通科から︑美術科に志望を切り替えて受験することにしました︒石膏 デッサンを二枚か三枚描いただけで︑受験をしました︒
入 学 し て わ か っ た の で す が︑ 同 級 生 は 皆︑ 前 か ら 石 膏 デ ッ サ ン を 習っていました︒それからは︑石膏室で毎日毎日デッサンをやり︑名
古屋に来る展覧会は残らず見てまわりました︒なにしろ本らしい本は ﹃ 太 閤 記 ﹄ し か な い 家 庭 に 育 ち ま し た の で︑ 見 る も の す べ て に 心 が 震
え ました︒こうした巡り合わせで︑ 美術の道へ一歩を踏み出しました︒
旭 丘 高 校 は︑ 愛 知 県 屈 指 の 進
学 校 で︑ 普 通 科 の 生 徒 は 東 大 や
京 大︑ 名 大 へ︑ 美 術 科 の 生 徒 は
「ねじり飴」 2012 年 164 ×
11×
143.11 で被災された方々にささげる。
東京藝大へといった感じでした︒四十人足らずの同級生のうち七人が 藝大に行きました︒
大変自由な校風で︑一週間に一回全校集会があり︑それぞれ自由に 発言したり︑討論したりしていました︒六〇年安保反対のデモにも出
かけました︒
高校では︑ 一年生と二年生は︑ 油絵︑ 日本画︑ 彫刻を一通り勉強し︑
三年生でその中から自分のやりたいものを選択します︒私は︑小さい 頃油絵を習っていて︑ 自分でも描いたりしていたのですが︑ 粘土に触っ
たのは初めてでした︒手でじかに作るその魅力は何にも替えがたいも のでした︒
ち ょ う ど そ の 頃 ︑﹁ 現 代 イ タ リ ア 彫 刻 展 ﹂ が 名 古 屋 で も 開 か れ ︑ 今 ま で 公 園 の 裸 婦 像 とか 肖 像 し か 見 て いなか っ た 私 に は ︑ マ ン ズ ー の ﹁ 枢
機 卿 ﹂ は 衝 撃 的 で し た ︒ そ れ 以 後 ︑ 彫 塑 室 は 私 の 遊 び 場 に な り ま し た ︒
月に何回か︑外部の偉い先生が来てくださって︑作品の講評会があ
りました︒なかでも徳川美術館館長の熊沢五六氏や︑日本画家の中村 正義氏は 興味がある先生でした︒担任は日展系の先生でしたが︑いつ
も よく褒められて︑旭美賞をいただきました︒東京藝大を彫刻で受験 することに決め︑三年生の夏には︑藝大の夏期講習を受けに東京にも
出かけました︒その折にも褒められましたので︑すっかりその気にな り︑パスするとばかり思っていましたが︑合格できず︑浪人すること
に決めました︒
そ の 時 は﹁ 女 が 大 学 に 行 っ て ど う す る の だ︒ ま し て や︑ 浪 人 な ん
て﹂と言う父の猛反対を押し切って︑上京しました︒三畳のアパート を借り︑母のへそくりと︑予備校の掃除のバイトで︑浪人生活を送り ました︒地方の高校でのやり方では何年たっても合格できないと︑痛 感しました︒やはり受験勉強のやり方のようなものがあるのです︒予 備校には大学側が何を求めているかの情報がたくさんあり︑その系列 の先生が教えてくれるのです︒ 彫 刻 の デ ッ サン は ︑ 明 暗 の 調 子 で は な く ︑ 量 塊 ︵ マ ッ ス ︶ を 力 強 く 表 現 す る こ と を 求 めら れ ま し た ︒ 石 膏 デ ッ サ ン は あ ま り 好 き で は あ り
ま せ ん で した が ︑ ヤ シ の 実 を 粘 土 で 作 っ た り ︑ 弥 勒 菩 薩の 顔 の 模 刻 な ど は 大 変 面 白 く ︑ 何 か に 触 れ た よ う に 感 じ ま し た ︒ 浪 人 生 活 の 中 で ︑
た く さ ん の 友 人 が で き ︑ 少 し ず つ 芸 術 の 話 も す る よ う に な り ま し た ︒ そ の 頃 の 私 は 芸 術 至 上 主 義 ︑ 芸 術 は 全 て に 優 先 す る と 思 っ て い ま し た ︒ 一 九 五 〇 年 に 新 設 さ れ た 旭 丘 高 校 の 美 術 科 は、 私 の 頭 に 浮 か
ぶだけでも、第三期生の荒川修作、赤瀬川原平、岩田信市以来、佐々 木 豊、 岸 本 清 子 な ど、 多 士 済 々 な ア ー テ ィ ス ト を 輩 出 し て い ま す が、
瀬辺さんの前後や同期に卒業したアーティストにはどんな人たちがい ましたか。
そ う で す ね︑ あ
ま り 詳 し く は な い の で す︒ 赤 瀬 川 原
平 が 旭 丘 の 同 窓 だ と 最 近 知 っ た く ら
い で す か ら︒ 二 年 先 輩 の 平 松 礼 二︑
「アジールの旗」
(注2)2009 年 230 ×
80×
70一年先輩の田村能理子︑同学年の真島直子くらいかな︒ 東京藝術大学彫刻科・大学院時代 次の年︵一九六四年︶に︑藝大の彫刻科に合格しました︒クラスは 二十名︑そのうち七人が女性で︑彫刻科始まって以来女性が多いクラ
スでした︒
こ こ で 私 は 初 め て︑ 自 分 と 同 じ よ う に 考 え て い る 人 た ち に 出 会 え︑
好 き な 彫 刻 家 の 話︑ 小 説 の 話︑ 漫 画 の 話︑ 映 画 の 話 な ど に 耳 を 傾 け︑ みんなの集まるストーブの周りは私の学校でした︒
一年次︑二年次では︑午前中モデルを見て塑像を作り︑午後は一般 教養の講義に出るといった生活でした︒記憶に残ってる授業はありま
せん︒三年次になると︑午前と午後︑モデルを見て制作をします︒
そ の 頃︑ 御 多 聞 に 漏 れ ず 学 生 運 動
に 関 わ り ま し た︒ そ の 頃 の 意 識 と し て は︑ 自 分 は 大 学 ま で や っ て も ら っ
て い る︑ 大 多 数 の 同 年 代 の 人 た ち は 働 い て い る の に︑ 社 会 に 対 し て 何 か
働 き か け な く て は ︱ そ う い っ た 自 負 心 が 根 底 に あ り︑ ベ ト ナ ム 戦 争 の
さ な か で し た し︑ 平 和 の 問 題 は 重 要 でした︒
で も︑ 社 会 の 問 題 と 芸 術 を 結 び つ け て 考 え て は い ま せ ん で し た ︒ な る べく美術と離れない運動に携わろうと思い︑美術系の大学の連合組織 である美学連︵全国美術系学生連絡会議︶の設立︵一九六六年︶にか かわり︑初代の委員長にもなりました︒その時︑大学の枠を超えてで きた友人は︑今も影響を与えあう一生の友人になりました︒ 学 生 運 動 が 激 化 す る な か で︑ 制 作 は お ろ そ か に な り が ち で し た が︑ モ デ ル を 見 て の 制 作 は と て も 難 し く て︑ そ の 分 面 白 く も あ り ま し た︒
ク ラ ス は︑ 学 生 運 動 を す る 人 た ち と︑ モ デ ル を 見 て の 制 作 を 拒 否 し︑ 前衛的な仕事を始める人たちにはっきりと分かれました︒クラスを教
授ごとに分けて教室制にすることにクラス全体で反対したり︑なにし ろ活気のあるクラスでした︒
そんなわけで︑本格的に彫刻に取り組み始めたのは︑大学院に入っ てからでした︒
午前と午後︑モデルを見て制作して︑その後有志でお金を出し合っ てモデルを雇い制作したり︑気に入った学生を見つけてモデルになっ
てもら って首を作ったり︑不勉強を取り戻すべく猛然と制作をしまし た ︒
あ の 期 間 が な け れ ば︑ 今 彫 刻 を や っ て い る か ど う か わ か り ま せ ん︒ 一日中制作する︑という習慣が身についた時期でした︒ 瀬 辺 さ ん が 学 部 と 大 学 院 に 在 籍 し て い た 頃 は、 菊 池 一 雄
( 一 九 〇 八 〜 一 九 八 五 )、 舟 越 保 武( 一 九 一 二 〜 二 〇 〇 二 )、 淀 井 敏 夫 ( 一 九 一 一 〜 二 〇 〇 五 ) 氏 ら が 教 授 と し て 教 え て い た 戦 後 の 藝 大 彫 刻
科の「黄金時代」だったような気がします。
瀬辺さんが師事していた菊池一雄先生は、彫刻家として優れていた
「記憶の井戸」
2005年
28×
45×
22だけでなく、知識人・批評家としても優れていた方で(東大美学美術 史学科卒、一高在学中に藤川勇造に師事)高村光太郎訳の岩波文庫版
『 ロ ダ ン の 言 葉 』 の 編 者 と し て 註 を 執 筆。 私 も 美 術 全 集 の 解 説 の ド ナ テ ッ ロ 論 や 名 著『 ロ ダ ン 』( 中 央 公 論 美 術 出 版 ) を 読 み、 そ の 芸 術 理
解の深さを学んだのを覚えています。菊池先生の作品や教室での言葉 から学んだことなど、もう少し話してくださいますか。
私は菊地一雄に師事していました︒デスピオの弟子だった人で︑知
性の勝った抑えた表現の作家でした︒
学生運動に対しても︑丁寧で誠実な態度を取っておられました︒先
生の言われた言葉で﹁野球の王選手が帽子を横にかぶるのと一本足で 打 つ の と は 全 く 違 う こ と だ ﹂ と い う 言 葉 は︑ 今 で も よ く 思 い 出 し ま
す︒単なるスタイルではなく︑自分自身の中から出てくる必然が作品 を作る︑ということでしょうか︒
ロダンの饒舌な表現はその当時あまり好きではなく︑ブールデルの 構築的な表現︑マイヨールの量感に惹かれており︑その頃の私は短絡 的に彫刻の中に﹁理性の輝き﹂を表現するのだと思っていました︒ 大 学 を 出 て か ら の 制 作 活 動 や 生 活 に つ い て、 お 話 し く だ さ い ますか。
大学院を終えて研究科に一年残りましたが︑大学に残ることはでき
ず︑仕事場のないまま︑少し広い板の間のある家を借りました︒彫刻 家と結婚しましたので︑おたがいにモデルになったり︑モデルさんを 雇ったり︑稼いでくるお金はほとんど制作につぎ込みました︒ 現代イタリア彫刻の︑特にマンズーとマリーニに惹かれ︑画集を見 たり︑美術館によく見に行きました︒シャープな線や量感に憧れてい ま し た が︑ 真 似 を す る の で は な く︑ あ く ま で 自 然 か ら︵ モ デ ル か ら ︶
自分の眼でつかみ取って表現しようとしていました︒そのなかでも女 性彫刻家のリシ
︵注3︶エや柳原義逹は自分に近いものを感じ︑彼らのような
表 現 が し た い な と 思 っ て い ま した︒ きっとマチエールに感じ
ていたのだと思います︒ ツルツ ル の 表 面 の 彫 刻 は 感 覚 的 に 好
きではありませんでした︒
卒 業 と 同 時 に 新 制 作 展 に 出 品し始めました︒ 尊敬できる作家がキラ星のごとくいる団体でした ︵菊 地一雄 佐藤 忠良 柳 原義達 舟越保武 加藤昭雄 掛井五郎など︶ ︒
当時の彫刻界を席巻していました︒二十四歳から毎年︑入選を目指し て出品していました︒モデルさんを雇い︑子供を保育園に入れ︑バイ
トの合間を縫って制作し続け︑新制作の会員になることをひたすら目 標にしていました︒何度も落選したりして︑五十歳すぎになってよう
やく会員になりました︒ 大 学 を 出 て か ら、 彫 刻 の 制 作 を 続 け な が ら、 家 庭 を 持 ち、 生 活してゆくことがいかに大変なことか、いろいろな先輩や同僚たちか
ら聞いて知っているつもりでいても、 やはり大変なことですね。特に、 瀬辺さんのように彫刻の制作一本で、まさに自力で、社会的公認と作
「潮見番」
2012年
114 ×
25×
11家的実力の両方を確立してゆくことは、並大抵のことではないと思い ます。
と芸術家としての「持続」は不可能でしょうから。力量のある作家た 「 持 続 は 力 」 と 言 い ま す が、 様 々 な 力 の バ ラ ン ス が う ま く 働 か な い
ちが群雄割拠する「新制作展」で、瀬辺さんの作品は、重厚で、強い 実存的な感覚を発散していたように記憶していますが……。
五十歳を過ぎた頃から︑モデルを使って制作し︑その中から永遠に
変わらない何か彫刻的なものを取り出してくる︑地軸に対してすっく と立つ︑ 余分なものをそぎ落とし︑ 何か大切なものだけを残す︑ といっ
た仕事に疑問を抱くようになった︑というより︑やっていて面白くな くなってきたのが事実でした︒毎日何時間もモデルを使って制作を続
け︑一年に一体ぐらいしか作品ができないのです︒モデルを写すこと ではなく︑自分の自我と突き合わせて再構成する︒しかしどうしても
柳原のような形にはならないのです︒自分の感覚をないがしろにして 柳原義達やマリーノ・マリーニの完成形を見て︑そこに彫刻があるか
ら近づこうと思っていたのです︒
自分の作品を表現するためには︑どの作家も自分の感覚を通して方
法論を見つけ出し︑制作しています︒自分の感覚をないがしろにして 私の作品は作れないわけです︒自分はマリーニでもなく︑柳原でもな
いことに︑や っと気がついたのです︒
感 覚が違うのに︑モデルを見ながらの完成形のイメージは尊敬する
作家たちのものでした︒どんなに稚拙でも︑彫刻的でなくても︑端的 に今の自分の感覚が拾うイメージを表現しなくては意味がない︑と心
「風媒」 1998 年 160 ×
55×
50人体制作最後の作品(ブロンズ)
「いきるもの」 2000 年
180
×
60×
40から思うようになりました︒
五十歳という年齢も関係あると思います︒これでは一生かかっても 自分の作品はできないことに気がつきました︒ 瀬 辺 さ ん の 作 品 に た だ な ら ぬ 変 化 が 起 こ っ て い る こ と は、 新 制作展の一九九〇年代末から二〇〇〇年前後の出品作品にも感じてい
ました。イメージが自発的に自己崩壊を起こしているような、強い危 機感をはらんだ作品……。自己の存在を懐疑し、崩れんばかりになり
ながら、ようやく立っている彫像。そんな印象を持ったのを覚えてい ます。
色 々 な こ と が 一 度 に
や っ て き ま し た︒ 家 も 出 ま し た︒ 自 分 が 考 え て き
た 目 標 が 目 標 で は な い と 思 っ て か ら︒ で は︑ 何 を
自 分 は 表 現 す れ ば い い の か︑ 自 分 と は 何 か︒ 今 ま
で や っ て き た こ と を 否 定 し た の で す が︑ で は 何 を
作 る の か︒ 自 分 の 感 覚 は 何 か ら で き て い る の か 探
り 始 め ま し た︒ 何 を 是 と し︑何を否とするのか︒ 私には好きなものがいっぱいありました︒それらを皆私は嗜好品と 捉えていて︑そうしたものから彫刻制作を切り離して︑純粋培養して いたのです︒自分のすべての感覚を開いて︑何ものにもとらわれるこ となく︑好きに作ってみようと︑恐る恐る作り始めました︒自分の感 覚が命じるままに︒ その頃︑口の中に手を入れる作品を作りました︒そうするとなぜか 安心したのです︵
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