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訴 因 と 公 訴 事 実 と の 関 係

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(1)−早稲田大学における最終講義ー. 教えるとは教えられること. 敏. 雄. 訴因と公訴事実との関係. 一. ノ. 訴因と公訴事実との関係︵横川︶. 九. 試行錯誤を重ねながらも︑どうせやるなら自分の天職として後に悔いの残らないように⁝⁝という気持ちで努力しま. かん 私は︑第一線の裁判官として主として東京で四〇年近く刑事裁判に全情熱を傾けてまいりました︒その間いろいろ. お話しすることにいたします︒. いま学部長から過分なおほめの言葉を賜わり︑いささか話がしにくくなりましたが︑やはり私流にざっくばらんに. 私の偽らぬ実感です︒. 早稲田大学のためもう少し何かやりたいと思っていたのですが︑思ったことの半分もできないうちに⁝⁝というのが. 只今︑法学部長からご紹介のあった横川です︒この五年間は︑私には︑全くあっという間に過ぎ去った感じです︒. 横.

(2) 早法五九巻 一 ・ 二 ・ 三 合 併 号 ︵ 一 九 八 四 ︶. 一〇. した︒したがって裁判すること自体はけっして嫌ではなく︑むしろ好きでしたけれど︑なんといっても︑人を処罰す. ることは気の重いものです︒これにくらべると︑人を育成するという仕事は︑ほんとうに楽しい︒実際早稲田大学に. おける五年間は︑私の人生でも︑最も充実した最も楽しい時期であったといえるでしょう︒この過程でまず感じたこ. とは︑若い人たちの中にはまだまだいろいろな良いものが隠されている︑特に大学院の研究生諸君の中には︑そうい. う可能性を秘めたものが多い︑それにもかかわらず十分それらを引ぎ出し得なかったということです︒. 次に感じたことは︑﹁教えるとはまさに教えられることである︒﹂ということであります︒もともと教育というもの. は︑決して一方通行的なもの︑つめこみ的なものであってはならないし︑またありえないと思います︒真理への道. は︑ほとんど無限といってよいほど遠く深く︑教える者も教えつつ自ら反省するところがなければなりません︒私の. 経験にょると︑若い教え子達の素朴な疑問によって啓発されることが多いといえるほどです︒言葉をかえていうと︑. 教育の本質は同じ道を志す先輩が︑その過程で後輩に与える感化以外にはないとも考えられる︑少なくとも大学教育. の理想は︑そこにあるというのが私の実感です︒﹃逆転の発想﹄という著書などで有名な︑航空力学の大家糸川英夫. 博士が︑こんなことを言っています︒﹁日本はこれまでは先進諸国として欧米諸国を師と仰ぎ︑学問その他の面でこ. れらの国に学び追いつこうとして努力してきたけれど︑すでに多くの分野で相当高度の水準に達した現在では︑欧米. に学ぶというよりもむしろ後進国に教えられることが多い︒﹂と︒かような観点から糸川博士は毎年︑インドに行き. インドの到るところに残っている原始的な文化に触れ︑そこからいろいろな示唆を得ているということであります︒. 私も早稲田大学で講義をしたリゼミを主宰したりしましたが︑その過程で若い人達に接するうち︑人間的にも学間的.

(3) にも種々の刺激や示唆を受け教えられることが多大でした︒ 自ら楽しみつつ︑このような勉強のでぎたことについて. マシュース判事の思い出. 皆様方にまずお礼を申しあげておきたいと思います︒. ニ. 約二〇年前︑私はオランダのハーグで開かれた国際刑法会議に裁判所の代表として出席したあと︑約八○日間︑皆 かん と別れて唯一人で欧米のニカ国二四の都市をまわって︑コート・プラクティスを視察してまいりました︒その間さ. まざまなことを見聞し︑大変勉強になりましたが︑その最後の段階でサンフランシスコに立ち寄リフェデラル・コー. トのトライアル︵事実審理︶を傍聴したときのことが特に強く印象に残っています︒そのときの裁判長は︑マシュー. ス︵毛︒ρヨ讐冨ω︶という私より二︑二歳年上の六一︑二歳の方でしたが︑その訴訟指揮ぶりは︑いかにも実務. で鍛えあげたベテランという感じでした︒口数の少ない地昧な方でしたが︑法廷には何ともいえない暖かな空気が流. れ︑何でもいえるような雰囲気でした︒それでいてそこには︑自然に秩序・品位が保たれており︑ピシッピシッと要. 所要所をきめてゆくその訴訟指揮ぶりは︑私がかねて秘かに心に描き努力しながら未だ達成でぎなかった境地のよう な気がして︑思わず﹁これだ﹂とつぶやいたほどです︒. 正直のところ私は︑三四︑五歳で単独係の裁判官をしていたとぎはもちろん︑四四︑五歳で裁判長になったとぎで. も挙措・動作の堂々とした被告人︵以下被告という︶や押出しのいい弁護人などに接すると︑高い段上にありなが. 一一. ら︑コンプレックス︵劣等感︶をおぼえること︑しばしばでした︒また翌日いわゆる公安事件があるようなときは︑ 訴因と公訴事実との関係︵横川︶.

(4) 早法五九巻一・二二一一合併号︵一九八四︶. 一二. どんな点に喰いつかれるか︑傍聴人と一緒になって騒がれたらどうするかなど︑いろいろなことが気になって︑容易. に寝つかれないこともありました︒最高裁の刑事局に約七年いて各方面の優れた人達に接する機会が多かった後も尚. こんな有様でした︒また被告の中には︑人間としての誇りを完全に失ったような︑おどおどした態度のものも見受け. られました︒こういう被告たちでも言いたいことを十分言えるような雰囲気を作るにはどうすればよいか︑など考え. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ることもありました︒こんな心境で悩んでいたとぎだったので︑一層深い感銘を受けたのかも知れません︒. 私は︑若いときから︑誰の前でも言うべきことははっきり言い︑そのために﹁下剋上﹂とか﹁生意気﹂だとか︑だ. 間違っていればいつでも訂正するつもりでしたが︑ーそうでな. いぶ睨まれたり︑陰口をたたかれたりしました︒私は裁判官になった以上自分がロヤルティ︵忠誠︶を尽すのは︑裁. 判・裁判所以外にないと信じていましたので︑. い限り会議の席などでも上の人をストレートにやりこめることがあり︑五〇歳をすぎてからは同じことでも多少やわ. らかく言うようになり︑先輩や知人から︑﹁近ごろはだいぶ円満になったね︒﹂などと冷やかされたものです︒ただ有. 難いことに︑裁判所というところは何が正しいかを常に判断する人達の集まりなので︑私のような若輩の言うことで. も筋の通ることはその場で通ることが多いのです︒今から振り返ると︑若気の至り︑もう少し言葉使いなど注意すれ. ばよかったと反省しておりますけれども︑他方︑どんな若輩のどんな乱暴な言い方でも︑正しいことは通るという裁. 判所︑こんな場所だったからこそ︑私のようなものでも最後まで気持よく勤めることができたと思うのです︒しか. し︑これが裁判所本来の姿ではないでしょうか︒裁判所も制度が整い組織が固まると︑実質的なことよりも形式的な. ことに気をつかう人が多くなりがちです︒この場合︑一番恐ろしいことは︑所長とか長官とか︑事務総局の局長とか.

(5) が現に裁判している裁判官たちより一段上のポストにあるような錯覚を起こすことです︒現在のようなプ・モーショ. ン・システムをとるかぎり︑裁判所の予算や裁判官の人事をにぎるもの︑つまり司法行政専従者が力をもつことは必. 至の勢いと思われます︒かような趨勢を是正・阻止するには︑現に第一線で活躍している裁判官が自己の職責に誇り. と自信をもって︑司法行政上の問題についても︑かつて私達がしたように︑常に言うべぎことをはっぎり言い裁判所. 全体の姿をただす努力をする必要があると考えます︒私が退官後﹃ジャスティス﹄とか﹃新しい法律家の条件﹄とか. を書いたのは︑まだ世俗の垢にまみれていない若い人達に司法の真の重要性を認識・理解してもらいたかったからで. す︒私の教え子の中から一人でも二人でも私達のあとをついで正しい方向への努力を惜しまない方が現われることを 期待してやみません︒. 話を先ほどのマシュース判事のことにもどしますが︑同判事は法廷がすんだあと裁判所内をあちこち案内してく. れ︑最後に若い・1・クラークの六︑七人いる部屋にゆき︑﹁これが日本からみえた東京地裁の横川判事だ︒﹂と私を. 皆に紹介し︑皆が起立して目礼しかしこまっていると︑それをやわらげるような何気ない口調で私にむかい︑﹁ジャッ. ジ・ヨコガワ︑理論的な難しいことは皆︑この若い人たちに教えてもらっているんですよ︒﹂と申されました︒外国. のお客さんの前でこんなことをさらりと言ってのける態度︑かようなことは当時の日本では想像もでぎないことで︑. 私はショックに近いような感動をおぼえました︒実際そのとき私は︑このマシュースという判事は︑人間的にもすぐ. れた人で︑あの見事な訴訟指揮ぶりも決して偶然でないと思いました︒そしてそういうことに関連して︑どんな被告. 二二. も法廷で真に平等に取り扱うこと︑たとえば食うや食わずのルンペンのようなみすぼらしい被告に対しても︑権勢を 訴因と公訴事実との関係︵横川︶.

(6) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 一四. きわめた前総理というような堂々たる被告に対しても︑何ら差別しないで平等・公正に取り扱うこと︑これが刑事裁. 判の真髄であると痛感いたしました︒そのさい私は︑かねて漢然と考えてきたことの正しさが実証されたような気が. するとともに︑いよいよ裁判の厳しさや自己の未熟さについて反省させられました︒裁判官の中にも︑上の人に対し. てはその御機嫌を損じないように言うべぎことも言わないくせに︑下の者に対しては威張り筋の通ることでも押さえ. つけるような方が絶無ではありません︒しかしこんな人にほんとうの訴訟指揮ができるかどうか頗る疑問です︒人間. というものはその場その場でそううまく使い分けできるものではない︑かりにできても︑こんな使いわけをする方. は︑結局真の信頼を得られない︑裁判官も平素の修練が大切だということをしみじみ感じました︒かようにして私. は︑その後は﹁誰にも威張らず︑誰にも卑下せず﹂をモヅトーに努力してまいりましたが︑プ・モーシ.ン.システ. ムのもとでは︑﹁言うは易く︑行なうは難し﹂というような面が多く︑なかなか思うようにはゆぎませんでした︒し. かし︑一歩でも半歩でも⁝⁝という気持で少なくもそれを目標に努力だけはしてきたつもりです︒. 三 本問をとりあげた理由. だいぶ話が横道にそれましたが︑これから本題にはいることにします︒私が﹁訴因と公訴事実との関係﹂というテ. ーマを選んだのは︑これが刑訴法二五六条と三一二条というたったニカ条に関係するだけで実務上それほど間題にな. らないのに︑理論的には最も難しい法律問題の一つと解されているからです︒率直にいうと︑これまでの学説は︑抽. 象的・観念的な原理を基礎に専ら論理︑特に形式論理の整合をめざし︑完壁な理論を構成しようとしたために︑実際.

(7) 的・具体的に考えればそれほど難しくない問題をことさら複雑難解なものにしている嫌いがあるような気がするので す︒. 今度二年近くかかって刑事訴訟法をやや体系的に解説した教科書を書きおろし︑近く出版する運びになりました. が︑その過程で﹁訴因と公訴事実との関係﹂に関する諸学説なども読み直してみました︒そして学説の中には実務で. は想像もできないようなことまで細かく理論的に分析・解明しているのがあるのを知って驚きました︒これらの理論. については︑実務に通暁し実務的思考にならされているために︑かえって理解できないようなことが少なくありませ. ん︒こんな点については︑マシュース判事ではありませんが︑私も内田一郎教授の直弟子の加藤君とか︑一昨年私の. 研究室で司法試験に合格し修士課程を終えたあと昨年司法研修所に入った井上君とか︑その他私のもとで勉強してい. る小出君とか中原君とかいう若い人達に︑いろいろ教えられるところがありました︒いわば︑﹁一流の学者がまさか ひ と. そんなことを⁝⁝﹂という一種の実務家的偏見をもって学説に対していたような点があったわけで︑裁判の面では. ﹁自分の尺度で他人をはかってはいけない﹂と絶えず自戒していたのに⁝⁝と思わず苦笑するようなこともありまし. た︒また私達実務家が当然としていることも︑学生諸君にはわからない部分が少なくないことに気づきました︒早稲. 田での五年間は︑何かにつけ﹁教えるとは教えられることである﹂と反省させられた期間でしたが︑こんど刑訴法の. 教科書を執筆するにあたって特にそのことを痛感したわけであります︒またこの過程で諸学説の説くところにも多大. の真理があることを知ることができ︑得るところがありました︒依然として賛成できない点が多いわけですが︑反論. 一五. するにしても︑前ほど短兵急でなく︑執筆の過程で学者と実務家相互の歩み寄りに多少とも役立てば⁝⁝という気持 訴因と公訴事実との関係︵横川︶.

(8) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 一六. ︵ρ詣●頃o一目Φω︶が﹁法の生命は論理︵一〇αQ8︶でなく︑経験︵①巷R一窪8︶で. 本問に対する私の態度. が働いたことは事実です︒. 四 アメリカの最高裁 判 事 ホ ー ム ズ. ある︒﹂と説いたことは有名な話ですが︑私は訴訟法については特に強くそのように感じます︒いかに訴訟法が体系. 的・論理的に解明されても︑実際にうまく使われなければあまり意味がない︑裏返していえば︑実際に起きた具体的. 事件を真に適正・迅速に処理できる訴訟法であって初めて価値があると考えるわけであります︒このように考えてく. ると︑法の客観性も︑単なる論理の整合によってではなく︑わが国の訴訟の実際の状況下で一つひとつ異なる具体的. ケースに即し︑どのように法を解釈・運用するのが最も公正妥当かと判断すること︑かような判断の積み重ねによっ. て初めて保たれると思われます︒これは︑わが国の多くの訴訟法学者の発想とは全く異なるものですが︑これこそ︑. ホームズ判事の強調したこと︑つまり﹁法の生命は論理でなく経験である︒﹂ということの真義といえるでしょう︒. かような理論を法の解釈に関連させてわかりやすく説くことは容易な業ではありません︒しかし適当な例など織りこ. みながら︑ある程度そういう説明に成功するならば︑まだ理論を修得せず実務を知らない学生諸君の興味をひくこ. と疑いなく︑理論的研究一途で進んでこられた諸学者に多少の示唆を与えることも︑必ずしも困難でないと思われま す︒.

(9) 五 本問をめぐる学説の対立. 本問に関する諸学説の対立︑細かい理論的分析などは︑もう皆さんのほうがよくご存知だと思います︒そこでここ. では私の考えを述べる前提として︑今どういう学説が対立し︑それぞれどういう特色をもち︑どういう系譜に連なっ. ているか︑その淵源はどこにあるかというようなことをざっとお話しして︑その後で私の考えを明らかにしてゆきた いと思います︒. ご承知のとおり︑訴因と公訴事実との関係については︑刑訴法二五六条一項で﹁公訴の提起は︑起訴状を提出して. これをしなければならない︒﹂と規定したうえ︑同条二項で起訴状に記載すべき事項として︑①﹁被告人の氏名その. 他被告人を特定するに足りる事項﹂︑②﹁公訴事実﹂︑③﹁罪名﹂をかかげ︑さらに同条三項で﹁公訴事実は︑訴因を. 明示してこれを記載しなければならない︒訴因を明示するには︑できる限り日時︑場所及び方法を以て罪となるべき. 事実を特定してこれをしなければならない︒﹂と規定しています︒なお五項で﹁数個の訴因︵及び罰条︶は︑予備的. に又は択一的にこれを記載することができる︒﹂︵関係条文で総て﹁及び罰条﹂となっているが︑以下︑その部分は全. 部省略する︶となっています︒訴因に関しては︑これ以外に刑訴法一三二条一項で﹁裁判所は︑検察官の請求がある. ときは︑公訴事実の同一性を害しない限度において︑起訴状に記載された訴因の追加︑撤回叉は変更を許さなければ. ならない︒﹂と規定し︑二項以下ではそれに関連し︑裁判所が訴因の変更等を命ずることができること及び変更等の. 一七. 場合の手続について規定しているにすぎません︒訴因に関する基本的な条文としてはただこれだけです︒で︑学者の 訴因と公訴事実との関係︵横川︶.

(10) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 一八. 中には︑﹁訴因﹂の存在だけを認め︑﹁公訴事実﹂とは︑訴因変更の限界を画する観念形象にすぎないとする方さえあ. ります︒ところが実際の起訴状をみると︑公訴事実という言葉は﹁見出し﹂として使われていますが訴因という独立 の見出しなどはなく︑訴因は公訴事実の記載方法の扁部として登場するだけです︒. 学説としては︑いろいろ細かく分けられますけれど︑大ざっばにいうと︑審判の対象はなにかという観点から︑. ﹁訴因対象説﹂︑﹁公訴事実対象説﹂という二群に大別されます︒また他の考え方としては︑訴因の同一性の存否︑つ. まり訴因の変更を要するのはどういう場合かという観点から︑﹁事実記載説﹂と﹁法律構成説﹂という二群に大別さ. れています︒そして﹁訴因対象説﹂と﹁事実記載説﹂︑﹁公訴事実対象説﹂と﹁法律構成説﹂とがそれぞれ結びつき︑. 前者の根底にあるのが﹁当事者主義﹂︑後者の基礎にあるのが﹁職権主義﹂と考えられているようです︒極めて大ざ. っぱにいうと︑これが今日のわが国の公訴事実・訴因に関する学説絵図といえるでしょう︒それぞれに論理的には一. 応筋が通っており︑にわかに優劣を決しがたいものがあります︒しかし私にいわせると︑どの説にも現実ばなれした. 私見の素描. 点があり︑形式的・分析的論理の尖鋭さに反比例して実質的・総合的考察の欠如が眼につくように思われます︒. 六. 実は私は︑約三〇年前に訴因と公訴事実との関係について詳細に説いたことがあります︵﹁審判の範囲と訴因及び. 公訴事実﹂という題で有斐閣発行の﹃法律実務講座﹄刑事篇第五巻におさめられている︶︒その後昭和三〇年にも有. 斐閣発行のポケヅト注釈全書で訴因関係の条文の解説をしたことがありますが︑私の関心は︑昭和三二︑三年ごろか.

(11) ら主として実務そのものの改善にむけられ︑この種の理論的問題の究明には熱意を失っていました︒そんな関係もあ. ってその後の学説の推移にほとんど注目せず︑あまり勉強しなかったせいか︑久しぶりに諸学説をみて私の真意が必. ずしも正確に理解されていないのを知って驚ぎました︒多くの学者は︑私の説が︑職権主義的で︑審判の範囲につい. ては公訴事実対象説をとり︑訴因は単に被告の防禦のための手段にすぎないとの立場をとると断じていますが︑これ は明らかに誤解で す ︒. 私は︑かねて新しい憲法・刑訴法のもとにおいては︑裁判所の最も重大な使命は︑被告人の基本的人権の保障にあ. り︑このために裁判所の絶対公正を前提とするデュー・プ・セス・ク・ーズ︵30嘆08器巳き器適正手続条項︶の. 遵守が法の運用の基本になるべきであると考えています︒このような立場にある裁判所の職権活動の主眼は︑両当事. 者︑つまり相対立する検察官と被告人・弁護人とが万全の準備のもとに衆人環視の法廷に臨み︑フェア・プレイの精. 神をもって活発に論争︵主張・立証︶できるようにする点にある︑そのさい特に裁判所としては︑種々の権力を与え. られ多数の手足を有する検察側と︑かよう力をもたないことが多い被告側との実質的な力の不均衡に留意し︑できる. だけ両者の間に実質的なバランス︵いわゆる﹁武器の対等﹂︶を保つようにする必要があると解するわけであります︒. 一言で申しますと︑新しい法のもとで職権主義と当事者主義とを二律背反的に考えること︑まして職権主義1←実体. 的真実発見主義←必罰主義という図式に対し︑当事者主義←適正手続の厳守←人権の保障というような図式を 対立させることはあまりに単純で非現実的なような気がするわけであります︒. 一九. またどの学説も審理と判決とをあわせて審判といっており︑法でもかような用語が使われていますが︑この点につ 訴因と公訴事実との関係︵横川︶.

(12) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 二〇. いて私は︑既に最初の論文で審理・判決の各性格・機能の相違を指摘し︑審判の対象を公訴事実とか訴因とか割り切 るのは適切でないと主張しているのであります︒. 私も現在の通説と同様に︑訴因を検察官の具体的事実の主張と解しますが︑これは︑公判手続を捜査手続から完全. に遮断すること︑捜査官の心証︵実体形成︶と裁判所のそれとは全く異質なもので前者の延長線上に後者があると考. えるのは誤りであること等を前提にしているのであります︒しかも検察官の具体的主張としての訴因は︑検察官がい. よいよ起訴する段階になって下した結論と考えるのです︒たとえばここに至るまでには︑詐欺のような証拠もあれば. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 恐喝のような証拠もあり︑検察官としては︑いずれの罪で起訴すべきか最後まで迷うことがあるわけです︒しかし︑. 詐欺と決断した以上は︑﹁罪となるべぎ事実﹂を日時・場所・方法等で特定して詐欺らしく記載するのであります︒. 学者の中には︑訴因としては日時・場所・方法で特定した具体的事実を書けばよく︑何罪にあたるかは罰条でわかる. ようにすればよいなどと主張する方がありますが︑これは明らかに実務に反する解釈です︒検察修習の第一歩は︑詐. 欺は詐欺らしく︑恐喝は恐喝らしく書く点にあるといってもいいすぎではありません︒裁判官は︑罰条と対照しない. と何罪かわからないような起訴に対しては︑訴因という概念がなかった旧刑訴時代︵この時代には︑﹁犯罪事実﹂と. ﹁罪名﹂さえ記載すればよく︑裁判所で自由にこれらと異なる認定をすることができた︶でも︑﹁一見何罪かとわかる. ように記載されていたのに⁝⁝﹂と慨嘆するでしょう︒それに起訴状には︑﹁訴因を明示するには﹂でぎる限り日時.. 場所・方法で﹁罪となるべき事実﹂を特定してすることが要求されています︒したがって︑訴因を検察官の具体的事. 実の主張と解するからといって︑何もそれを法律構成などに関係のない自然的事実と考える必要はなく︑むしろその.

(13) ように考えるのは無理なのです︒このように考えてくると︑訴因の同一性︑すなわち訴因の変更を要する場合につい. て﹁事実記載説﹂と﹁法律構成説﹂とを対立させ両者を全く異質のものと解するのは疑問です︒なぜなら両説の相違. は︑﹁訴因﹂にとってその自然的側面︑法律的側面のいずれを重視するかの相違にすぎないと思われるからです︒. 条文の文字どおり︑公訴事実は訴因を明示して記載されるとする点では総ての学説は一致します︒また訴因を検察. 官の具体的事実の主張と解するのが最近の通説的立場です︒ところが訴因と公訴事実との関係については︑なお三つ. の点で結論がわかれ︑あるいは結論は一致するが説明の仕方が異なっています︒その三点とは︑①公訴提起の効力. ︵﹁訴訟係属﹂︑コ一重起訴の禁止﹂︑﹁公訴時効の停止﹂︶・確定判決の効力︵いわゆる﹁既判力﹂︶の及ぶ範囲を判断する. 基準は訴因か公訴事実か︑②起訴状に記載されるのは訴因だけか︑それとも公訴事実も記載されることがあるか︑③. 審判の範囲は訴因か公訴事実かという点です︒なおかような問題を生ずるのは︑一つにはわが国には英米にない科刑. 上の一罪︵刑五四︶︑つまり観念的競合︵たとえば逮捕しようとした警察官に抵抗して傷害を負わせた場合には︑公. 務執行妨害と傷害の二罪が成立するが重い方の法定刑にしたがって処断する︶︑および牽連犯︵たとえば他人の住居. に侵入して窃盗あるいは強盗の罪を犯したように︑二つの行為の間に手段と結果の関係があるときは︑そのうちの重. い罪の刑にしたがって処断する︶という制度があって︑二以上の罪のうちの一罪だけを起訴する︵たとえば︑前の例. では傷害だけ︑後の例では窃盗あるいは強盗だけを起訴する︶ことが実務上珍しくないからです︒すなわち︑これら. の場合には︑訴因と公訴事実との間に特に大きなギャップを生じ︑問題が複雑化するというわけです︒. 一コ. どの説によっても︑公訴提起や確定判決の効力は︑公訴事実の全部に及ぶとされているようですが︑その説明の仕 訴因と公訴事実との関係︵横川︶.

(14) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 二二. 方は訴因だけが審判の対象になると考えるか︑それとも公訴事実も1潜在的にせよ1審判の対象となると考える. かによって異なっているようです︒私は︑公訴事実が潜在的に審判の対象になるという団藤博士の考え方は苦心の作. と考えます︒しかし︑いささか表現に明確さを欠く点があるうえ︑捜査における実体形成が公判に引ぎつがれるよう. な印象を与える点で旧法的な色合いを多少残しているように思われ︑賛成できません︒そうかといって平野博士によ. って代表される﹁公訴事実は訴因変更の限界を画する観念形象にすぎない﹂という趣旨の主張にも賛成できません︒. この考え方は︑論理的に筋を通そうとして︑わが国の現実を全く無視しているような点があり一層疑問に思われま. す︒この説は︑科刑上の一罪は︑本来の二罪を科刑上特に一罪として取り扱おうとするわが国独特の制度であるの. に︑訴訟法上は本来の一罪と全く同じように取り扱おうとします︒そしてその観点から常に一公訴事実・一訴因と解. します︒たとえば︑単なる強盗として起訴された事件が公判で住居侵入を手段とするものであることが判明し︑訴因. を住居侵入・強盗とする必要を生じた場合︑実務では住居侵入という訴因を追加するのが普通なのに︑住居侵入・強. 盗という訴因に変更すべきものと解します︵法三一二参照︶︒つまり︑一公訴事実・一訴因という考え方を固守して︑. 訴因の追加・撤回は予備的にしかでぎないと解するわけです︒条文の字旬に照らしてもわかりにくい︑いかにも不自. 然な解釈というべきです︒また先に一言したとおり︑どの説も審理と判決とをひっくるめて審判の対象とか範囲とか. 言っています︒しかし審理と判決とは明らかにその性格・機能を異にします︒くわしくいうと︑審理の対象となる範. 囲は︑ある程度流動的で漢然としている方がよいわけですが︑判決のそれは︑固定的で明確でなければなりません︒. それに公判審理の過程で取り調べる証拠はほとんど総て捜査の過程で収集された証拠です︒たとえば︑そこで作成さ.

(15) れた供述調書が﹁証拠とすることの同意﹂︵法三二六︶を得て取り調べられるのが普通で︑その場合︑訴因以外の部. 分が除かれるようなことはほとんどありません︒わが国の法曹は︑それほど神経質でないわけです︒同意が得られな. い場合は供述者が証人として取り調べられますが︑このときも調書に出ているようなことは︑自然の経過として総て. 尋問されることが多いのです︒さらに捜査の過程で収集された証拠物は︑関連性などに問題がない限り公判で提出さ. れるのが普通です︒ところが捜査の過程では︑詐欺か恐喝か︑窃盗か横領か︑遺失物横領か窃盗か︑どちらか紛らわ. しいような証拠が収集されることが多く︑最後の段階で検察官によっていずれかの結論が出され︑これが訴因として. 明示される例が珍しくないのです︒犯罪の日時・場所・被害額などについてもほぼ同様のことがいえます︒したがっ. て訴因が明示されるに至ったからといってこれにそう証拠だけを完全に精選して公判に提出するということは実際上. 不可能に近く︑証拠調の範囲は︑実務上公訴事実の全域に及ぶのが普通です︒かようにして私は︑訴因を中心にしつ. つも公訴事実の全領域にわたって審理することができると解するのが相当であると考えるのです︒しかしこれは︑審. 理することができるというだけで︑立証が結局訴因の成否に関するものである以上︑審理する義務まではないという. わけです︒たとえば︑住居侵入・窃盗という牽連犯について窃盗の点だけが訴因として明示されている場合には︑住. 居侵入の事実についての証拠も出るのが普通で︑これを取り調べることはできます︒しかし︑住居侵入の方法につい. て被告人の自白と被害者の供述とがくい違い︑どちらが本当か疑間に思われるときでも︑この点を審理する義務はな. 二三. いというわけです︒これに対し︑判決の対象については︑訴因として明示された部分については判決する権利ととも に︑その義務があるというわけです︒ 訴因と公訴事実との関係︵横川︶.

(16) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 二四. 訴因という言葉は︑英米法のカウント︵8=暮︶の訳語でありますが︑英米では陪審制をとり有罪・無罪の判断は. 素人である陪審員がすることになっているうえ︑刑の軽重が争点とされることはなく︑上訴審でも量刑不当を理由に. 争うことはできません︒しかも裁判官の言い渡す刑は︑幾つかの重罪を犯したときは︑五〇年︑一〇〇年というよう. に加重されることが珍しくなく︑軽い犯罪につき実刑を科さないでプ・ベーションに附するかどうかについてプロベ. ーション・オフィサーに︑本人の性格・経歴・生活環境などを調査報告させることがあるだけです︒いずれにして. も︑﹁事実認定の段階﹂と﹁刑の量定の段階﹂とは裁然と区別されています︒かような関係から英米では︑カウント. は︑何罪にあたるか︑またどこの裁判所の管轄に属するかが判明する程度に極く簡単に記載すれば足りるとされてい. るのです︒かようにして英米では︑陪審員が第一訴因有罪︑第二訴因無罪というように答申でぎるような記載方法が. 理想とされているのです︒しかも英米法には︑﹁公訴事実﹂という概念も︑﹁科刑上の一罪﹂というような制度もあり. ません︒したがって訴因という概念が英米法に由来するからといって︑わが国の実情を無視し︑それをできるだけ英. 米法的に解しようとするのは疑問です︒多くの学者は︑訴因もできる限り英米法的に⁝⁝と考えているようですが︑ 私は︑この発想に根本的疑問をいだいているのです︒. 要するに私は︑訴因の間題について英米法的な考え方を参考にするのは結構ですが︑英米と全く異なるわが国の実. 情を無視するのは疑問であると思うのです︒私としては︑むしろわが国の実情を直視し︑これに適応するように合理. 的な解釈をする必要があると考えるわけです︒時間の関係上あまり詳しくお話しすることはでぎませんので英米と異. なるわが国の実情を指摘したのち︑私が本日のテーマについてどう考えているか︑結論的なことを単刀直入に申し上.

(17) げるにとどめたいと思います︒まずわが国の実情として英米と著しく異なる点を指摘しますと︑さきに示唆したこと. の反面としてある程度御理解いただけたと存じますが︑①久しく陪審制が停止され︑事件は総て細かい判断のできる. 専門の裁判官︵職業裁判官︶によって審理・判決されること︑②訴訟事件全体の八割五分以上は犯罪事実そのものの. 成否には争いがなく︑争われるのはどういう刑を科すべぎかの問題︵すなわち量刑問題︶にすぎないこと︑③したが. って起訴状にも強盗・殺人などの重大な犯罪︑あるいは背任・収賄などの複雑な犯罪については︑刑の量定に関係の. ありそうな情状的事実︑たとえば犯行の動機・経過・態様︑犯行後の情況まで記載されるのが普通であること︑④執. 行猶予が附せられるかどうかはもちろん︑実刑でも二年か三年かというようなことが深刻な争点になり︑﹁量刑不当﹂. が正式の控訴理由とされ︵法三八一︶︑限られた範囲内で上告審における職権発動の理由とされていること︵法四一. 一︶︑⑤一審の審理でも﹁事実認定﹂の段階と﹁刑の量定﹂のそれとが裁然と区別されているわけでないこと︑⑥公. 務執行妨害・傷害という観念的競合あるいは住居侵入・強盗という牽連犯︵以上いずれも刑五四︶についても︑一罪. だけ︑たとえば前者については傷害︑後者については強盗という訴因だけが明示されて起訴される︵たとえば︑公務. の執行が適法かどうか疑わしいとか︑住居に入ってから強盗の犯意を生じた疑いがあるとかいう場合もありうる︶こ とが珍しくないこと等が考えられるでしょう︒. 以上の現実をふまえ私は︑訴因と公訴事実との関係について次のように考えます︒①起訴状に明示された訴因だけ. が審理と判決双方の対象になる︒②訴因と全く関係のないことが記載されている場合は︑余事記載として抹消される. 二五. べぎであるが︑これが裁判官に予断・偏見を与えるようなものであれば公訴の提起が無効になる︵法三三八4︶︒③ 訴因と公訴事実との関係︵横川︶.

(18) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 二六. しかし︑普通訴因として明示する必要がないような事実でも︑訴因と緊密な関係があるような事実が記載されると︑. その全体が訴因と認められる︒④普通の簡単な犯罪については︑公訴事実は全部訴因によって明示され両者の範囲は. ほぼ重なり合う︒⑤重大あるいは複雑な犯罪を訴因とする場合は︑刑の量定に関係のある事情︑つまり犯行の動機・. 程度の差こそあれー検察官の心証に映じた犯罪的事実が法律的・事実的. 経過などの﹁情状的事実﹂も訴因として明示されることが多い︒⑥いずれの場合も︑訴因は検察官が裁判所に対し審. 判を求める具体的事実の主張として︑. ヤ. ヤ. に整理・圧縮されたもので︑それ以前の事実が公訴事実と解される︒⑦このように考えてくると︑公訴事実は訴因と. ヤ. 表裏一体の関係にある事実として︑訴因として明示されるか︑されないときは訴因が主張されると事実上同時に主張. されることになる︒⑧科刑上の一罪については︑一部の罪だけが訴因として明示された場合でも︑訴因の背後にある. 科刑上の一罪全部︵公訴事実︶が主張されたことになり︑これについて裁判所は審理する権利をもつ等︒先に一言し. たとおり︑おおむね学者は︑ー説明の仕方はいろいろですが︑i公訴提起・確定判決の効力の及ぶ範囲は︑科刑. 上の一罪の一部だけが起訴された場合でも︑訴因ではなく公訴事実であると解しているようです︒私のように公訴事. 実が訴因と表裏一体の関係にあり︑訴因が主張されると公訴事実も主張されたことになると解し︑しかも公訴事実の. 全部について常に審理できると考えるならば︑多くの学者のとる結論は極めてスムーズに出せると思われます︒ただ. ﹁科刑上の一罪﹂というわが国独特の制度についてこれを理論的に刑訴法上どう考えるべきかという問題は残りま. す︒実務では科刑上の一罪は︑一公訴事実について二以上の訴因が成立し得る場合と解しこれを怪しむものはほとん. どないのですが︑学者の中では︑一公訴事実・一訴因という考え方に固執する方が少なくないようです︒私はこの間.

(19) 題は︑理論的にはつぎのように解するのが相当であると思っています︒. 刑法五四条の観念的競合および牽連犯は︑本来二以上の犯罪が成立する︵たとえば公文書偽造・行使・詐欺という. ような﹁牽連犯﹂は三つの罪から成り立つ︶が︑科刑上その中の最も重い罪の刑にしたがって処断するという特別の 配慮をしたものです︒. つまり実体法上︑本来二以上の罪が成立するのに︑これらに併合罪としての加重刑︵刑四五︑四七︶を科さないで︑. これらを法定刑の最も重い罪の刑にしたがって処断しようとするのです︒特定の事件について科刑上︑かような配慮. をするということは︑刑事裁判にとっては異例の︑決定的意義を有することで︑このことは手続の上にも反映される. のが当然です︒このように考えてくると︑科刑上の一罪とは︑刑訴法上︑二以上の訴因が一個の公訴事実を構成する. 場合で︑この公訴事実は︑一部の訴因によって明示されることもあるということになるでしょう︒これに法で﹁事. 件﹂というのがおおむね﹁公訴事実﹂をさしていること︑先に説いたとおり﹁公訴事実﹂の全部について審理でぎる. と解されること等の事情をあわせ考えると︑科刑上の一罪については︑たとい一部の訴因だけが明示されたときで. も︑公訴提起の効力や確定判決の効力は︑公訴事実全体について生ずると解するのが自然であり合理的であると思わ. れます︒したがって︑住居侵入を手段とする強盗事件について﹁強盗﹂という訴因だけが明示されて起訴されても︑. これを住居侵入・強盗と認定するためには︑住居侵入という訴因を追加すれば足りるので︵法三一二︶︑この手続をと. らなかったことは︑法三七九条の訴訟手続の法令違反︵相対的控訴理由︶になるだけで︑通説・判例のいうように. 二七. ﹁審判の請求を受けない事件について判決をしたこと﹂︵法三七八条三号の絶対的控訴理由︶にはならないはずです︒ 訴因と公訴事実との関係︵横川︶.

(20) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 二八. その他﹁訴因と公訴事実との関係﹂については︑訴因の変更命令などいろいろ問題がありますが︑予定の時問を超過 しましたので︑この程度でとどめることにします︒. まとまりのないことをあれこれ申し上げお聞ぎづらかったと存じますが︑私の話は︑この程度で打ち切ることにし. 本稿は︑昭和五九年一月九日に早稲田大学法学部三〇一教室で行なわれた私の﹁最終講義﹂を本誌のため再現したもの. ます︒御静聴を感謝します︵拍手︶︒ ︹追記︺. 事訴訟﹄二三一頁以下を参照していただければ幸いである︒. である︒当日は時間の制約もあり︑十分意を尽くした説明がでぎなかったように思われるので︑詳しくは私の教科書﹃刑.

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