• 検索結果がありません。

価値形態と価値尺度

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "価値形態と価値尺度"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1

価値形態と価値尺度

武  井  邦  夫

ド・スターリングであるならば,

1価値形態論の構成      亜麻布20エレ=2ポンドである」(同上,128

『資本論』第2版における価値形態論は,「単純  〜9ページ)と述べている。

な,個別的な,または偶然的な価値形態」,「総体   しかし,金の重量名での表現から鋳貨名での表 的または拡大された価値形態」,「一般的価値形  現への発展は単なる名目的なものではない。マル 態」,「貨幣形態」の四形態より成っているが,マ  クスも第3章の価値尺度論でこれを考察し,「ボン ルクスはこれら四形態間の移行について,「第一形  ド,ターレル,フラン,ドゥカート等の貨幣名に 態から第二形態へ,第二形態から第三形態への移  おいて,価値関係のあらゆる痕跡は消えている」

行にさいしては,本質的な変化が生じている。こ  (同上,179ページ)と述べている。その結果,「価 れに反して第四形態は,ただ亜麻布のかわりにい  格が一般に価値表現たることをやめることにもな まや金が一般的等価形態をもつに至ったというこ  る」(同上,128ページ)。いわゆる「価値の大きさ と以外には,第三形態と少しも異なるところはな  と価格との質的矛盾」,つまり,非労働生産物が価 い。金は第四形態で亜麻布が第三形態であったと  格形態をとるという現象が発生したりもする。ま おりのもの,すなわち一般的等価にとどまるので  た,インフレーションにおける鋳貨の財質という ある。進歩があるのは次のことだけである。すな  現象も生ずる。マルクスは『経済学批判』で「貨 わち,直接的な一般的な交換可能性の形態,また  幣の度量単位についての諸学説」という項を設 は一般的な等価形態が,いまや社会的習慣によっ  け,金の重量名と貨幣名との分離に伴う理論的混 て,終局的に商品金の特殊な自然形態と合成して  乱を詳しく分析している。

しまったということである」(『資本論』向坂訳,   一般的価値形態において等価形態にたつ商品は 岩波文庫,←う128ページ)と述べている。ここで  商品としての自然的使用価値のほかに一般的等価 は,貨幣形態は明らかに一般的価値形態と同類項  物としての「形式的使用価値」を受けとるが,金

を成すものとして位置づけられている。     の鋳貨価格(金1オンス=3ポンド17シリング10 マルクスはこの貨幣形態を価彫態ともよんで ペンス圭)はこのような分裂の完成を示すものと いる。したがって金の重量名での表現と鋳貨名で  いえる。その点で,一般的価値形態と貨幣形態・

の表現との間には単なる名目的差異があるにす  価格形態は大項目の中における小項目的発展とし ぎぬものとして扱っているように見える。たとえ  て扱わるべきであると同時に貨幣形態と価格形態 ば・      も明らかに発展的区別があるものとして位置づけ

「すでに貨幣商品として機能する商品,例えば  られるべきであると考える。

金における,一商品例えば亜麻布の単純な相対的   私の著書『経済学原理』においては,以上のよ 価値表現は,価格形態である。亜麻布の『価格形  うな観点から価値形態を「1 簡単な価値形態,

態』はしたがって,       2 拡大された価値形態,3 一般的価値形態の

亜麻布20エレ=金2オンス         展開」の三項目に分け,3をさらに「(1)一般的価

または,もし2オンスの金の鋳貨名が,2ボン  値形態,(2)貨幣形態,(3)価格形態」の3小項目に

(2)

2       茨:城大学政経学会雑誌  第45号

区分し,(2)と(3)の区別を金の重量名での表現と貨  う「形式的使用価値」と一般商品としての「実質 幣名(鋳貨名)での表現の区別に求めたのであっ  的使用価値」とは未分離のままであるとみなすの

?H      が素直である。従って,商品1単位ごとの金での       (2)

ところで,宇野『経済原論』では商品論の構成  価値表現もここで完成するとはいえない。工業用 が (1腰因論,(2)価値形態論,(3)貨幣形態=価格  原料として金を欲する商品所有者は,金の一定量

となっている。ここでは貨幣形態が価値形態論か  に対して自己の商品の価値を表現するであろう。

ら排除され,事実上,要因論と価値形態論と同格  永谷氏の強調する「欲望の否定」は金の貨幣名で の位置に置かれている。さらに貨幣形態と価格形  の登場をまって始めて完成するものといわなけれ 態の区別には別段の注意が払われていない。この  ばならない。というのは,ここでは「金1オンス

よう蠣成,特に貨幣形態の価値形態からの拶ト除 一3ポンド17シリング1・ペンス去」という「雛 の理由について,宇野は特に語っていない。しか  価格」が示すように,金が貨幣名によって価値表 し,推測するに,価値実体論を商品論から排除す  現されているからである。貨幣名は重量名から発 るという方法をとる宇野が,へ一ゲルにならって, する場合でも,すでに両者は量的に分離している 三分法で構成を考えてゆくと,どうしても価値形  場合が多いし,また前者は後者の名残りを全く留 態論の中に貨幣形態論が入らないという破目に陥  めぬ場合も多い(たとえば「円」は貨幣の形から

る,そこで窮余の一策として考えだしたのが,貨  きたという)。鋳貨や紙幣が完全に金の裏づけを 幣形態論を価値形態論の外へ括りだすという構成  絶たれている今日のような国際通貨制度の下で,

だったとみられぬこともない。それによって三分  この「欲望の否定」は極限に達しているといえる 法という形式はどうやら守られたが,逆に商品論  が,もちろん原論ではそこまで説く必要性はない。

全体の構成に無理を感じさせる結果になってし  ただし,その可能1生の指摘は重要なことである。

まったのである・      永谷理論の問題点はむしろ次の点にある。

ところで,このような宇野の方法を積極的に擁i  「……一般的価値形態から貨幣形態への発展は,

護したのが永谷清氏である・著書『資本主義の基  価値形態論と同次元の発展とはいえないのであ 礎形態』1,第3章「価値形態と価格形態」で,  る。それは欲望の消極化が進展し,そのことに 氏は一般的価値形態と貨幣形態の区別を強調し  よって一般的価値形態が成立し,さらに『等価商 て,次のようにいう。      品』の一般化が進展しても,究極的に欲望から脱

「価値形態論の特徴は,『等価商品』の使用価値  しえないのが,価値形態論の本質をなしているか に対する欲望を前提とする価値表現であることで  らである。欲望否定化の発展傾向はあっても,そ あった。これに対して貨幣形態(価格における価  の発展自身からは欲望の捨象(完全な否定)は達 値表現=価格形態)の特徴は,価値表現にさいし  せられない」(同上,116ページ)。

て等価商品の使用価値に対する欲望が,完全に否   ここで氏は「欲望否定化の発展傾向」からは 定されている点にある」(同書,115ページ)。   「欲望の完全否定」はひきだせないという。ここ

ここでは貨幣の重量名から貨幣名への発展の区  で我々は「資本主義の純化傾向」の延長線上に 別については注目されないままに,欲望の捨象が  「純粋資本主義」を設定するという方法を頑強に 強調されているが,金の登場だけでこのような発  固守されている点では人後に落ちない同氏が,こ 展が生ずるかどうかについては多分に疑問であ  ごでは一転して同じ方法の適用を断固否定してい

る。金が貨幣にえらばれるのは,いうまでもなく, る図を発見して驚く。しかも,この驚きは二重の

その使用価値が貨幣にふさわしいからであるが,  ものである。第一に,なぜ,一方の「傾向」は「完

同じ使用価値は同時に金を工業用原料にもする。  全否定」に通じ,他方の「傾向」はそうはならな

従って金が重量名で現われる限り,貨幣材料とい  いのか,少なくとも氏はこれを解明すべきだった。

(3)

武井:価値形態と価値尺度       3

第二に,我々は「傾向」には「完全否定」に到る  師の説になず撃ことではなく,その精神になず亨 ものと,「部分否定」に終るものと二種類あるこ  ことだと思っている・要因論と価値形態論とを とを認める点で,氏と同一意見であり,むしろ,  「統一」するというからには両者の弁証法的「対 このような氏の考えを歓迎するものである。しか  立」関係を説かねばならないが・両者はいかに

し,我々は「純化傾向」は一方では古い不純物を  「対立」し・「統一」されるのか・氏の説明を気永      ■  ■  ●  ●  ●解体しても新しい不純物を産みだすが故に,r純  に期待することにしよう。

●  ●  ●  o  ●  ●

粋資本主義」はひきだせないと考える。しかし・   ω 大島清編著『経済学』(東大出版会)では,価値

「欲望の捨象」にはそのような反作用はどこにも見   形態を「簡単な価値形態」,「拡大された価値形態」,

出せない。したがって,そこからは「欲望の完全    「一般的価値形態」の三つに分け,「一般的価値形 否定」が導きだせると考えている。この点では氏   態」に貨幣形態(価格)を入れている。

と全く逆である。氏は価値形態論(単純・拡大・一   (2)この点で・拙著『経済学原理』の叙述は訂正を要 般)における「欲望否定化の発展傾向」には「連続   する・

性」はあるが,「単なる量ではなくて質的な変化」

@      2価値形態と価値尺度となる,という。たしかにそれは質的変化である。

しかしそれは「量的変化」による「質的変化」で   マルクスは貨幣である金の第一の機能として価 ある。そうでなかったら「連続性」自体が失われ  値尺度機能をあげ,次のように定義している。

てしまう。たとえば10から1ずつ引いていった場   「金の第一の機能は,商品世界にたいして,そ 合,答えは9→8→7…………3→2→1→0と  の価値表現の材料を提供し,または商品価値を同 なる。これを連続的な量の変化だといわない人は  分母をもつ大いさ,すなわち質的に等一で・量的 絶無であろう。こうして一方では氏は論理的に  に比較のできる大いさとして,表示することにあ

「価値形態の発展の,つまり一般的価値形態の展  る。こうして,金は価値の一般的尺度として機能 開の,いわば極限値をなすものが,貨幣形態(=  し,この機能によってはじめて金という特殊的な 価格形態)なのである」(同上,116ページ)とか, 等価商品力1,まず貨幣となる」(『資本論』向坂言凡 連続的変化であるとかいうが,他方ではこれを否  岩波文庫e168ページ)。「商品世界にたいしてそ 定する。それはゼロを数でないというのと同じで  の価値表現の材料を提供」するのが「価値尺度」

ある。こうして,氏は結論する。        機能だというマルクスの規定に対し,宇野氏は

「したがってマルクスのように,貨幣形態を価  「表現しただけでは尺度したとはいえない。購買 値形態論のなかに包括し,単純,拡大,一般と同  手段として価値を実現し,しかもそれをくり返し 次元に,ABCDという形で展開することはでき  てはじめて価値を尺度できる」と批判した・しか ない。……貨幣形態は,価値形態の展開を基礎に  し,マルクスの場合はすでに価値尺度論の前提と しながらも,要因論と価値形態論とを統一した第  して価値実体論が存在しているが・宇野氏の場合 三のより高い地位にあるとしなければならない。  には価値実体は資本の生産過程において説かれる

…… アのように商品論を再構成したのは,宇野教  というちがいがある。このような前提のちがいを 授であった。この構成が,商品論の内容に充分生  無視して両者の価値尺度論を比較しても無駄であ かされているかに問題はあるが,この構成自体は,  る。そこでマルクス式の価値実体論・価値尺度論 もはや何人も否定できないすぐれた成果であっ  を否定し・宇野式の価値実体論をとる論者の中か た」(同書,116〜7ペー一ジ)。      ら,逆に貨幣1勾価値尺度機能を否定する声がでる

@「何人も否定できない成果」をほかならぬ宇野  ようになった。たしかに・貨幣によって実現され 氏の面授直説に与った私が否定するのは大いに気  た価格が一定の価格水準に傾向的に落ち着くの

  ●   ●  ●   ●

ェひけるところであるが,私は師を尊敬する道は  は,需要に対して供給が変動し,両者の間に法則

(4)

4       茨城大学政経学会雑誌  第45号

的関連があるからにほかならない。その点で,価  「第二に,価値の大いさの規定の基礎にあるもの 値実体論の先行しない価値尺度論が存在しうるの  は,……労働の量であるが,……どんな状態にお か・という疑問は当然であり,宇野理論の内在的  いても,生活手段の生産に用いられる労働時間は,

問題点を指摘するものといえよう。もっとも,だ  発展段階の異なるにしたがって均等であるとはい からといってこれらの宇野批判者が全面的に正し  えないが,人間の関心をもたざるをえないもので いというわけではない。彼らは価値尺度機能は否  ある」といって,註で古代ゲルマンでは1モルゲ 定しても価値実体論は宇野式であり・従って結局  ンの土地の大いさは1日の労働にしたがってはか は資本の生産過程で価値法則論を展開するという  られたと述べている。第三に「人間がなんらかの 不可能事を企てるという点では,同一であるから  仕方でお互いのために労働するようになると,そ である。      の労働は,また社会的形態をもうるのである」(同

かくして問題の根本は価値実体論をどのように  上,130ページ)といっている。これは明らかに歴

展開するかにかかってくるわけだが,これについ  史的論理である。彼はこの点をさらにふえんし      (2)ての私の考え方はすでに他で述べたから,ここで  て,ロビンソンの生活や,ヨーロッパ中世,自家

はくり返さない。ただこれに関連して,少し論点  消費的な農業,社会主義社会をとり,それぞれに をふえんしておきたい。       おける労働の社会的性格と労働配分の特色を述

第一に,マルクスの価値実体論であるが,普通  べ,それとの対比の上で商品の物神性が価値形態,

それは『資本論』第1章「商品」の第1・2節で  特にその完成形態である貨幣形態から生ずる点を 述べられているものに限定されている。一・見それ  力説した。そして,その観点から古典派経済学が は正しく見えるが,商品論全体の構成を検討して  「価値を交換価値たらしめる形態を発見しなかっ みると,単純にそうはいえない。マルクスは第1  た」ことをその「根本欠陥の一つ」だといってい 節で商品の二要因を論じ,第2節で「商品に表わ  る。

された労働の二重性」を論じ・第3節で価値形態   価値概念についてもマルクスは注目すべき展開        ● ,第4節で「商品の物神的性格とその秘密」を  を試みる。「このようにして,価値の大いさの規 論じているが,第1・2節での労働価値説と第4  定に導いたのは,商品価格(向坂訳では価値)の 節でのそれとでは微妙な性格のちがいがあるから  分析にほかならず,その価値性格の確定に導いた である。たとえば,第1節では,「1クォーターの  のは,商品が共同してなす貨幣表現にほかならな 小麦=aツェントネルの鉄」という「方程式」か  かったのである」(137ページ)。これは商品の「価

ら数学的論理で「第三の共通者」である「抽象的  値性格」が固定的なものでなく,価値形態の発展 人間労働」が導きだされる。これに対し,第4節  と共に完成してゆくものであることを示してい では価値形態論を前提にして,したがってそれの  る。貨幣形態の展開と共に価値の量的規定とその 有する物神性を前提にして価値実体を論じている  貫徹の仕方も規定されてくる。

ために,第1・2節で見られたような数学的論理   「事実,労働生産物の価値性格は,価値の大い は影をひそめ,代って歴史的論理とでもいうべき  さとしてのその働きによってはじめて固定する。

論理が登場してきている。たとえば,「商品の神  この価値の大いさは,つねに交換者の意志,予見,

秘的性質はその使用価値から出てくるものではな  行為から独立して変化する。彼ら自身の社会的運 い。それは,同じように価値規定の内容からでて  動は,彼らにとっては,物の運動の形態をとり,

くるものではない」(同上,130ページ)といって, 交換者はこの運動を規制するのではなくして,そ

次の三点をあげる。「第一に,有用な労働が……  の運動に規制される。相互に独立して営まれる

人間の脳髄と神経と筋肉と感覚器官等の支出であ  が,社会的分業の自然発生的構成分子として,あ

るということは,生理学的真理である」こと,  らゆる面において相互に依存している私的労働

(5)

武井:価値形態と価値尺度       5

が,継続的にその社会的に一定の割合をなしてい  第7号,1981.3)と題する論文で,氏はいう,

る量に整約されるのは,私的労働の生産物の偶然    「ここで冒頭商品を『十六・七世紀のギルド的 的で,つねに動揺せる交換諸関係においてその  または小親方的商品』と解し,このような商品に 生産に社会的に必要なる労働時間が,規制的な自  かんして価格が抽象的人間労働量によって規定さ 然法則として強力的に貫かれること,あたかも家  れることを明らかにし,『流通論において,まず,

が人の頭上に崩れかかるばあいにおける重力の法  労働の商品化を前提にして価値の実体規定・価値 則のようなものである」(136ページ)。      法則規定』をおこなう(「価値の形態と実体」『茨

ここでは,価値法則が価格変動を通じて傾向的  城大学政経学会雑誌』第40号,53ページ)という に作用することが事態適合的に述べられており,  独特の価値論の理論を主張しておられる武井邦夫 第1・2節での「共通の第三者」的把握とは全く  氏の所説について触れておこう。職人の労働にた 異なっているといえる。要するにマルクスの労働  いして支払われる賃金が商品生産にあたってのコ 価値説といっても,二種類あるわけで,その一方  ストとして計算されることをとおして,労働と商 のみを取りだして俗流性を批判しても,批判しつ  品価格との関係がつくということが重視されて くしたことにはならない。我々としてはむしろそ  いるようである。このような関連が労働価値論に の科学的な面をとり,発展さすべきであろう。   とって予想外に重要な役割を演じるものであるこ

私が『経済学原理』で,商品論の構城を「一   とには筆者も前から注目しているのであるが,氏 商品の二要因」,「二 価値形態」,「三 価値の  のばあいには労働にたいして価格水準がどのよう 実体」としたのは,そのような試みの一つであっ  に規制されるかについては十分にたちいった説明

たが,その後この基本線の延長線上に問題点をふ  がおこなわれていないようである。それだけでな      (3)えんして二つの論文を書いた。そこで主張したこ  く,冒頭の商品が『十六・七世紀のギルド的また

とは次の二点である。第一は価値法則の論証は二  は小親方的商品』であるとされる論定の適切な根 面的,すなわち等価交換という積極的な面と不等  拠がはたしてどこにあるのか判断に苦しむほかな 価交換という消極的な面とに分けておこなわなけ  い。……冒頭商品の抽象性からしても,さらに流 ればならないということである。不等価交換がな  通論の論理展開の射程の中に生産過程の構造分析 ぜ価値法則の消極的論証になるかといえば,不等  がはいってこないという事情のためにも,冒頭の 価交換の必然性を明らかにすることは消極的に等  商品論では労働価値論の定立ができないという事 価交換の必然性を明らかにすることになるからで  態は,そのまま受け容れるほかないというのが無 ある。第二は等価交換の必然性は労賃に対して売  理のない判断ではないであろうか」(同上,8〜9 られる労働によって生産され,かつ100%商品化  ページ)。

される商品,具体的にはギルドや小親方によって   ここでまず「労働にたいして価格水準がどのよ 生産される商品,特に奢修品にそくして論証され  うに規制されるか」という点であるが,この価格 なければならないし,またなしうるということで  水準というのが,賃銀なのか,それとも商品のぞ ある。これは実体と形態との等置関係がそれ以外  れなのかという点がはっきりしない。前者ならば の商品生産では措定不可能だからであるという見  生活水準,後者ならば生産費というしかないが,

地によるものである。以上の二点は『経済学原理』  前者の意味だとすれば,ここで職人の賃銀につい 執筆時にはまだ明瞭にされていなかったものであ  てこれを構成する生活費と修業費について述べれ

焉@       ばよいということになるであろう.たしかにあの

ところで,最近小林弥六氏よりこの点に関する  論文では賃銀の内容に立ち入って検討することを 批判を受けたので,この機会に反論しておきたい。  しなかったし,また『経済学原理』でも同様であ

「労働価値説の論証問題」(『筑波大学経済学論集』  る。この点は同書改訂の時期の一課題であろう。

(6)

、  回1

6       茨城大学政経学会雑誌  第45号

後者の意味なら(どうもそのようだが),前掲論  「流通論」または「流通形態論」という言葉をさ 文での説明は『原理』の場合より一歩進めてある  け,第一篇を「商品・貨幣・資本」とし,1資本主

(例えば監督賃金の導入)が,これは氏の批判に  義的生産の前提」という副題を与えたのである。

一歩先廻りして答えたつもりである。もちろんあ  この点が「16〜17世紀のギルド的または小親方的 れで充分だとは思っていない。しかし,同氏の批  商品のみ」を扱うというふうに理解されたとすれ

●  ■

判は後半,すなわち,どうして冒頭商品が16〜17  ば,それは私の説明の仕方が不充分だったのであ 世紀のギルド的または小親方的商品と規定できる  る。私の真意は価値法則の積極的論証をやるとす かということに力点がおかれているようである。  ればそのような商品のみを取上げるしかない,と 私は『経済学原理』で「原理論冒頭の商品は資本  いうことである。もし全体としてそのような商品 主義的生産への歴史的必然性を内包している単純  だけを取上げるとしたら商人資本の運動も説けな 商品であるといわなければならない」(同書,14ぺ  いであろう。

一ジ)といっている・この場合,念頭こあったの ω瀧昭「価値膿としての貨幣」(r繍理論』69 は復元力の問題であった。単純商品説にとって致   号,1962)etc

命的なのは資本主義的生産に上向してゆく復元力   なお,これについては,『資本論を学ぶ』1.「価値 が存在しない点であるといわれてきた。ところが   尺度一商品の価値を尺度するとはどういうことか」

他方では資本主義的商品であっても,労働力の商    桜井毅執筆,を参照せよ。

品化の論理は流通論の理論的展開からはでてこな  (2)「流通形態と生産過程」(『マルクス経済学の現状 いといわれている。この二つの論理を結合するの   と展望』東洋経済新報社)

は資本主義発生期の単純商品,したがって歴史的    「価値の形態と実体」(『茨城大学政経学会雑誌』第        ●  ●  ●

恁ウ力を内包しているものとみられる16〜17世紀   40号,53ぺ一ジ)●  ●  ●の単純商品説しかありえないということになる。  (3)上掲の二論文・

その上で,流通形態としての商品とは生産過程か   {4}同書29ぺ桝ジ・註(11で「生活必需品生産部門では・

      剰余生産物のみが商品化されるため,不等価交換がらきりはなされた商品ではなく,生産過程まで流

      多かれ少なかれ,永続的におこなわれうる。しかし通形態化された商品であるという理解にたてば,      このばあいでも価値法則はまったく作用しないわけそれは労賃に対して売られる労働によって生産さ      ではない」と述べて,第一点については不充分なが

れるギルド的または小親方的商品でなければなら      らふれている。これに対し,第二点の労賃形態の出

ないと考えたのである・歴史上・資本蟻へ発展  現の必難については,全くふれて、・な、㌔

してゆく可能性を有した商品はこのような意味で の流通形態としての商品であった。このような商

品に限って価値法則が貫徹していたのである。    3 価値尺度と価値実体←)

しかし・流通論での商品をそのような商品にだ   貨幣の価値尺度機能は商品の価値表現の材料を け限定するのはまちがいであろう。というのは,  提供することであるというマルクスの理論に対 そのような流通形態的商品の他に,これと並んで  し,購買手段としての機能こそが価値尺度機能で 雑多な生産源から生じた商品が世界市場には存在  あるという宇野理論が現れた。ところが,宇野理

していたからである。それらは多かれ少なかれ不  論においても,価格変動を通じて貫徹する価値法

等価交換される可能1生を有する商品である。不等  則こそが価値の尺度機構の根拠であることが確認

価交換の必然性を明らかにすることが価値法則の  された。するとここに残されている問題は,第一

消極的論証になるという我々の観点からすれば,  に価値の実体規定をいかにおこなうか,第二に貨

そのような商品をさける理由は一つもないのであ  幣にどのような意味で価値尺度機能があるか,と

る。このような点から,私は『経済学原理』では  いうことである。

(7)

武 井:価値形態と価値尺度       7

第一の問題については,すでにある程度論じた  それは資本家が必要労働・剰余労働の区別を知っ が,ここで整理しておけば,四通りの答が見出さ  ているという氏の想定である。剰余労働のペース れる。第一にはマルクスのように二商品の等置関  に必要労働があるから,必要労働だけというケー 係から共通の第三者として価値実体を見出す伝統  スを考察してみようという氏の論理は正にそのよ 的方法であるが,これの妥当性についてはすでに  うな資本家を想定してこそ成りたつ。しかし,そ 述べた。価値表現の材料を提供する機能を価値尺  のような資本家は氏の観念の世界にのみ住んでい 度機能だとみるのはこのような実体論の延長線上  る架空の存在にすぎない。氏の論証方法はこのよ

に出てくる考えであろう。第二の答は価値形態論  うな架空の資本家を操っての段階的演出法による の直後に実体論を説く方法で,これは事実上マル  奇術であるというしかない。

クスの第二の方法である。第三は資本の生産過程   氏によれば,「剰余労働」がおこなわれるとい でこれを説く方法で,宇野理論とよばれるものが  うのは「資本主義的にはむしろ自然なケース」(同

これである。第四はややはっきりしないが,価値  上,23ページ)だというが,「唯一のケース」のま

●  ●   ●

尺度機構を生産価格体系の下で説くことを主張す  ちがいであろう。いまや必要労働しかおこなわれ

(1)

るものである。これは価値の実体規定をどこでど  ないという「資本主義的にはまったく不自然なケ のように説くのかはっきりしない点で,問題をの  一ス」で労働価値説を学んだ資本家が登場し,「労 こしている。      働者に必要労働をこえる剰余労働をおこなわせ

この中,第三の方法について,最近注目すべき  る。するとこれまでとはちがい資本を回収してな 試みが現れてきた。その一つが小林弥六氏の前掲  お剰余を生む価格で商品が販売される可能性がで 論文である。       てくる」(同上,24ページ)。

氏は「資本の生産過程」で価値法則論を説くべ   資本家にとって労働者に剰余労働をおこなわせ きだという見地に立つが、その場合,剰余労働を  ることが剰余価値をえる根拠にされているが,も 労働者におこなわせる場合が「通常」で,「剰余労  ともと資本家には必要労働・剰余労働の区別はな 働ゼロ,必要労働だけがおこなわれるばあいは特  い。したがって剰余価値が生まれても,それは剰 殊なケースといってよいが,価値増殖過程として  余労働にではなく,資本家の労働または資本その の資本の生産過程のベースにこれがある」(同上,  ものの物神性に源泉を持つものとして意識される 17ページ)といって,まず剰余労働ゼロのケース  であろう。つまり,剰余価値は最初から利潤とし をとりあげ,価値法則の成立を確認する。しかし, て意識されるのが現実である。したがって,それ 剰余労働がおこなわれるケースが「通常」で,ゼ  をめぐる競争も利潤率をめぐる競争となり,その

ロのケースが「特殊」といった分類が果して可能  落ちつくところは利潤率の均等化である。

であろうか。前者は現実であり,後者は架空であ   次に気になるのは,次のような想定である。         ●  ●      o  ●

って,決して「通常一特殊」の関係に対比でき   「生産の拡張のために充てられる生産手段や労 ない。これは論点のすりかえというしかない・  働者用の消費財がプラスの価格で売れなければ,

「ベースにこれがある」というが,そのばあい,氏  資本家としてはこれを生産しつづける理由がな は単純再生産と拡大再生産の関係を念頭におき,  い。資本を産金部門に移して金を採掘すれば貨幣 ここで「特殊一一般」の関係が「基盤一派生」 商品を獲得することができるからである」(同上,

の関係に転化する論理とのアナロジーを考えてい  24ページ)。

るのかもしれない。しかし再生産の場合,単純・  一般商品が押しなべて赤字でしか売れないとい 拡大のケースは何れも現実に存在するケースであ  う場合には,生産手段・労働力の価格が上って利潤 り,この点で全く異質である。         率がゼロかマイナスになった場合か,一般的に過

それにここではより根本的な疑問にぶつかる。  剰生産になった場合かの何れかであろう。前者の

(8)

8       茨城大学政経学会雑誌  第45号

場合には金生産部門でも利潤率はマイナスになっ  価値説を展開しているのが,伊藤誠氏である。『値 ている筈であるから,資本の移動は起りようがな  価と資本の理論』(岩波書店,1981年)第3章「資 い・また後者の場合には,移動しようとしても,  本の生産過程と価値法則」第1・2節(これは1977 有限な土地資源を生産手段にしているという金生  年に発表された論文「労働価値説の論証」『経済学 産部門の特色からいって・移動しようとしても移  批判』第2号である)で,氏はこれを考察して 動できないというのが実状であろう・氏はことさ  いる。第1節「経済原則としての労働生産過程」

らに金生産部門を愛好し,何時いかなる場合でも  で,氏はまずマルクスと宇野の労働生産過程論を ここでは利益が生じ,しかもそれは投下労働に比  検討する。そして各労働過程の成果としての生産 例して生ずるように説かれているが,実はここで  物の中,生産手段からの移転労働と必要労働とを

も利潤の源泉は資本家の労働か,資本の物神性か  含む部分は,同量の労働を含む生産手段と生活手 に求められているのである。資本家が労賃=労働  段の形で労働者に取得されなければならないが,

の価格として,生産過程を流通形態化している限  剰余労働時間の体現部分は「それと同量の労働時 り・それ以外の現実は生じようもない。小林氏は  間をふくむ生産手段や生活手段」と交換(もちろ

「等しい剰余労働にたいし等しい利益が獲得され  ん商品交換ではない)されるという必然性を有し る」 (25ページ)ように競争がおこなわれるとい  ないという。このような「剰余労働の配分取得に

うが,労働価値説と無縁の資本家は,「等しい資本  おける原則的自由度」が一方では階級社会の基礎      、

に等しい利益がえられる」ように競争はしても,  条件となり,他方では部分的な商品経済導入の根 そのような競争とは無縁であろう。そもそも氏は  拠となるという(167〜8ページ)。われわれはこ このような競争を考察するにさいして,資本構成  こで生産手段の補填と生活手段の取得に関しては や資本の回転数などをどのように処理しようとし  等労働交換が支配するが,剰余労働の体現部分に ているのだろうか。氏の考えるような事態は個別  関しては不等(労働)交換が支配するという論理 資本間のm や資本構成,回転数などが全く同じ  に注目しよう。ここでは具体的生産関係は捨象さ

と仮定した場合におきる現象にすぎない。その場  れてはいるが,単なる自家消費ではなく,生産者 合でも資本家の競争は盲目的である。ところが小  が生産物を全面的に交換しあう関係が想定されて 林氏の設例では労働価値説や剰余価値説に通暁す  いる。そもそも,そのような仮定が資本主義的生 る資本家が競争条件の如何にかかわらず,必要労  産以外に可能なのかどうかという疑問が生ぜざる 働だけの競争をやったり・「等剰余労働一等収  をえない。小生産者が商品を全面的に交換しあう 益」といった競争をやったりするのである。その  という市民社会論を想定することの空想性を否定 場合・彼らのコンパスとなるのは金生産部門であ  するという点では人後に落ちない氏が,「一般的労 る・それは常に収益があがり,また他の部門から  働生産過程」の名の下に想定したのは商品形態に の移動は自由であると仮定されている。これでは  よらない生産物の全面的交換という架空の事態の 恐慌が起っても・金生産部門に資本が移動すれ  設定である。「市民社会」の設定が「暴力的抽象」

ば・自動的に好況になるであろう。       によるものならば,この「現物全面交換社会」の 以上要するに,必要労働時間だけ働くという架  設定は「自殺的抽象」というほかはないだろう。

空の事態を設定して労働価値説を論証し,次にこ  この生産物の所有者が誰であり.交換の当事者が れを前提にして剰余価値論へ進むという氏の方法  誰であるかによって,それを支配する原則は全く 論がこのような結果を生んだのである。     異なってくる。もし生産物が生産者により所有さ

       れ,全面的に交換される場合には等労働量交換が4 価値尺度と価値実体口       成立するが(たとえば奢修品生産者の場合),生

これに対し,小林氏と全く反対の角度から労働  活手段のように自家消費分以外の剰余生産物のみ

(9)

武 井:価値形態と価値尺度       9

が交換される場合には不等労働交換になる可能性  観であるといわざるをえない。氏は労賃について が強い。またその場合,生産者により交換される  その「歴史的文化的要素」にたいする依存性を強 か,それ以外のたとえば地主により交換されるか  調しているが(同書203ページ,註48),労賃につ によってもちがいがでてくる。         いていえることは必要生産物についてはさらにい

要するに,交換といっても交換の仕方と交換の  える。氏の悲劇はこの点についての配慮を無視し 対象とによって千差万別であり,氏のいうように  たところにあろう。あえて「自殺的抽象」という 二分法が成立することなどはありえないといわな  ゆえんである。

ければならない。たとえばここに無階級社会があ   氏の論点にそくしていえば,ある社会がその社 り,現物消費の社会があるとしよう(古代氏族共  会の維持に必要な最底限の生産物(生活手段と生 同体のような)。その場合には社会の成員の労働  産手段)以外の剰余生産物を自由に処理しうるか は共同体規制(これは習慣により確立されている)  という問題になるが,宇野氏もいい,伊藤氏もい に従い,各部面に配分され,ついで生産物の分配  うように,「剰余生産物を生産する剰余労働時間 がおこなわれる。その場合には各人の労働に応じ  が如何様に処理されるかは,それぞれの社会にお て分配がおこなわれるかといえば,答はノーであ  いて生産自身が如何様にして行われるかに対応し る。ここでは「能力に応じて働き,欲望に応じて  て決定され,歴史的に社会形態を区別することに 取る」という原始的共産主義の分配の原則が働く  なる」(同上,165ページ)。これをマルクスの言葉

から,各人の支出する必要労働に応じて生産物は  でいえば「分配関係は生産関係によって決定さ     一 配分されない。さらにこういう社会では剰余生産  れる」(『経済学批判』序説)ということである。

物があるかどうかも疑問である。たしかに備蓄の  従って,生産関係によって必要生産物が等労働交 ための食料などは必要かもしれないが,それは現  換されなければならないとすれば・剰余生産物も 在直接的には消費されなくとも,将来,不時のさ  同じ原理に服さねばならない。逆に必要生産物が いには消費されるのだから(生活を支える不可欠  不等労働交換されれば,剰余生産物も不等労働交 の物として!),単に消費がひきのばされただけ  換される。等労働交換と不等労働量交換の区別は であり,その意味では必要労働である。さらにそ  必要生産物,剰余生産物について生ずるのではな れ以外の剰余労働時間が存在するかどうかはきわ  く,全面的に交換されるか,部分的に交換される めて疑わしい。昼寝をしたり,歌舞をしたり,宗  か,または労賃原理に従うか,利潤原理に従うか 教的情熱のための余暇時間はあっても,剰余労働  によって決定される。

時間はないというのが真実ではあるまいか。それ   同書の第3章第2節「労働価値説の論証の内 に加えて,必要労働時間と余暇時問の区別さへ不  容」について,以上の点を追跡してみよう。伊藤 明確だというのが現実であろう。たとえば,狩り  氏は「労働価値説の論証にさいしても,剰余労働 による獲物や農産物は神の恵みだと信じこんでい  による価値増殖がおこなわれないものとして,資 る社会では神への宗教的行事(究術)は当然生産  本による価値形成過程を価値増殖過程から分離し 過程の一部にくりこまれており,その意味で必要  て考察することは,機械的で無理な抽象」(同上,

労働化しているのであるから(下部構造と上部構  183ページ)だと正当に指摘し,さらに「資本の

造の未分離の一例),伊藤氏の考えるような二分  構成と回転期間に差異がないという想定が現実的

法などは絶対に成立しそうもない。この点は今日  妥当性をもつものでない」(同上,185ページ)と

でも熱帯における原始未開の部族についても充分  いい, 「そこで,各生産部面のあいだに資本の構

に見られるところであろう。要するに氏の想定は  成や回転速度の差異が現実に存在していることを

資本主義的ホモ・エコノミックスを全歴史的に延  みとめ,具体的には生産価格が商品生産物の売買

長したものであり,新種のブルジョア社会絶対史  の基準となる資本主義経済の基底に,生産過程の

(10)

10      茨城大学政経学会雑誌  第45号

原則的な労働量の関係が,商品経済的に充足され  ジ)。

てゆくことにともなう価値関係の法則的規制がど   ここでは労働者が購入する必要生活手段には必 のように確定されうるか,という方向でさらに検  要労働部分のみが対象化されているという規定 討をすすめてみよう」(同上,185ページ)という。  と,労働力商品は必要労働時間によって再生産さ この場合,「資本の構成と回転速度に差がない」と  れるという理論が展開されている。労働者の購入 いう想定も考えられないことはないが,それでは  する生活手段もc+v+mから成立つことは,経 価値法則が擬制的なものになってしまう,といっ  済学のイロハであるが,そのイロハがわが伊藤氏 てこれをしりぞける。また鈴木『原理論』に見ら  によって否定されるばかりでなく,あたかも労働 れるように「労働力の価値と剰余価値が,全体と  者がロボットのように労働によって生産されると

しての必要労働時間と剰余労働時間をそれぞれの  いうわけである。氏はこのような基礎の上で,こ 社会的実体としている関係に,価値法則の論証の  の交換を通じて「等労働量の交換がそこに法則的 主要な内容がおかれる反面で,商品生産物間の価  に維持されている」(同上,192ページ)というが,

値関係の労働量による規制関係は,抽象的包括的  これは「各商品生産物における労働実体と基準価 にもっぱら質的規定を与えられるにとどまる」(同  格との間に,もはや正比例関係は保証されえな 上,189ページ)ような方法は,「流通形態論から  い」という氏自身の言葉とどう関係するのだろう の価値概念の展開の一貫性を維持するうえでも,  か。

価値法則の論証の内容は,使用価値の異なる商品   次に氏は「剰余生産物の価値の形態としての貨 生産物の間の価値の形態としての価格が,生産物  幣価格は,個別的にも全体としても,その生産に に対象化される労働量によって規制され・そこに  要する労働時間との比率を,たとえば必要生活手 商品生産物の交換の基準が必然的に形成される基  段における価値の形態と実体の比率と均等なもの 礎があるという側面の解明をかならずふくんでい  とする保証は一般にはない」(同上,192ページ)

なければならない」(同上・189ページ)から,誤  という。ここで氏が必要労働の対象化されている りであるという。以上の諸点での氏の論理はきわ  必要生産物と剰余労働の対象化されている剰余生 めて筋が通っている。       産物とを対比させずに,必要生活手段と剰余生産

それでは,氏はいかにして労働価値説の妥当性  物とを対比させていることに注目する必要があ を首尾よく論証しようとするのか。資本の回転速  る。氏によれば必要生活手段には必要労働のみが 度と構成が不均等の場合,「各商品生産物におけ  対象化されているのであるから,こうなるのは論

る労働実体と基準価格との間に,もはや正比例関  理必然的であり,我々はむしろ誤謬の方向への論 係は保証されえない」(同上,191ページ)と,冒  理一貫性に驚嘆すべきなのかもしれない。

頭で述べる。しかし,その場合でも「全社会的に   この点を氏の設例についてさらに検討してみよ みれば,労働者はみずからの支出する労働時間の  う。 「6労働時間で生産される必要生活資料の代

うち,必要労働時間の対象化されている各種の必  価が3シリングである場合,紡績労働者の必要労 要生活資料を,それらの基準価格において購入す  働時間の対象化されている1.2吻の綿糸が3シリ

るに足る貨幣額の合計として,労働力の代価を支  ングで販売されるならば,この綿糸生産物と必要

払われる関係になければならない。労働力商品の  生活資料とは,3シリングの貨幣価格を介し,6

価値の形態として労働者に支払われるこの貨幣額  時間の等労働量の交換を実現してゆくものとなる

は,労働力の再生産に必要な労働時聞を必要生活  が,………6労働時間の体化されている必要生活

資料の形で入手するために用いられるのであり,  資料が3.6シリングの代価を与えられるものとな

労働力商品の価値の実体をなす必要労働時間の貨  れば,綿糸と必要生活手段との間にも等労働量交

幣表現とみなすことができる「(同上,191ペー  換は成立しないこととなり,紡績資本家は,紡績

(11)

武井:価値形態と価値尺度       11

労働者の必要労働6時間の対象化されている1・2  う学説史的事実がこのような方法の正当性を物語 勾の綿糸の代価3シリングに1・2時間の剰余労働  る。「公正価格」は一方では実在価格であり,他 の対象化にあたる0.24勾の代価0.6シリングを加  方では理念価格である。「公正」という文字がそ えて,労働力の価値を支払わなければならず,……  の二面性を物語っている。「市民社会」とは「公 こうした場合,紡績労働者からみて綿糸に対象化  正価格」の支配する「理念社会」である。この点 する6時間の必要労働を,生活手段の形で取戻す  はロックの市民社会論をみれば明らかである。原 ために要する3・6シリングは,それを支払う紡績  理論の流通論はこのように市民社会の経済理論に 資本家にとっては6時間の対象化にあたる1,2吻  ほかならない。

の綿糸の販売によってのみ回収すべきものとはな

らないのである」(同上,194〜5ぺ_ジ)。     5貨幣の価値尺度機能

この設例で奇妙なのは,労賃の上昇後も必要労   元来,古典派経済学においては価値の実体論と 働時間が6時間に固定されていることである。こ  価値尺度論とが未分離のまま労働価値説が探究さ の場合,労賃上昇時に,あるいはそれ以降,必要  れてきた。古典派における投下労働価値説と支配

労働時間は6時間から7・2時間に変化し,その分  労働価値説の併存はこの点を明白に物語ってい      (1)だけ剰余労働時間は減少したものとみるべきであ  る。実体である投下労働によっては価値は尺度さ

る・したがって・ここでは必要労働7・2時間と6  れないから,その商品と交換される商品の使用価 時間の労働の体化されている必要生活資料とが不  値,または究極的には支配労働量(等価形態にた 等価交換されたことになり・氏の前述の想定は氏  っ商品の生産に要する労働量は尺度できないか 自身によって崩されたことになる。こうして結  ら,結局は支配しうる労働量ということになる)

局,伊藤氏においても労働価値説の証明は失敗に  によって相対的価値形態にたつ商品の価値を表わ 終っているといわざるをえないのである。氏の主  そうとしたのである。これはいいかえれば,生け 旨は剰余労働時間一剰余生産物の弾力的処理可能  る労働が商品化され,それに対して支払われる労 性を基礎に剰余価値の自由処理性を強調し,むし  賃によって生産費が(生産手段の価格をプラスし

うそのことの中に労働価値説貫徹をみようという  て)定まるということである。労働価値説におけ 野心的なものであったが,それによって個々の商  る最大の問題は投下労働が商品価格の幾何をつく 品交換を規制する基準としての価値概念は逆に見  りだすかという対応関係の確定にあるが,それは 失われざるをえなかった・結局・氏の結論が氏の  支配労働価値説的にしか解明できないのである。

否定する鈴木原理論的価値論の亜流的表現に終っ  資本主義社会において投下労働と支配労働(力の

      .  ●  ●  .  6  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ■  ●    ●  ●

スのも,同様の方法論的出発点に立っ理論の宿命  価値)との間にずれが生ずる契機はすでにこのよ

●  .  ■  ●  ●  ●  .  ●  ●  ●  ●  ●  ■  o  ●  ●  o  ●  ●  ●  ●  ●

というべきであろう。      うな実体と形態との流通を通じての等置関係の中

●  ●  .  ●  ●  .  ●  ●  o  ●  ●  ●  ●  ●  ●  o  ●  ■  ●  ●  ●  ● 小林氏と伊藤氏の一見対極的な労働価値説の検  に内在している。労働力商品の登場と共に不等価       o  o  ●  ●  ●  ●  ●     ●  ●  ■  ●  ●  ●  ■  ●  ●  ●  ●  ●  ●  o

討によって,えられる結論は,価値法則を実在的  交換が必然的になるのも価値法則自身に基づくも

●  ●  ●  ●  o  ・  ■  ■  o  ●  ●  ■  ●  ●  ●  ■  ●  ■  ●  ●  ●  ● な個々の商品の交換を規制する法則として論証し  のであった。      ●  ●  o   ●  ●

ようとすれば,剰余価値が利潤として現われずに   貨幣が価値尺度として,しかも単なる名目的尺 労賃として現れる場,いいかえれば監督賃金形態  度として古典派にえらばれたのも,このような労

をとって現われる場を想定しなければならぬとい  働価値説探究のプロセスにおいてであった。価値 うことである。私がその場として資本主義発生期  の実体と形態との区別が混乱していた古典派は価

(16〜17C)のギルド又は小親方をえらんだのもそ  値の実体を外在的尺度によって度量されねばなら

こからきている。労働価値説が元来ギルドにおけ  ぬものとし,その一つとして,名目的な尺度とし

る「公正価格」(fair price)論として始まったとい  て貨幣を指名したのであった。投下労働を貨幣に

(12)

12      茨城大学政経学会雑誌  第45号

よって計るのは名目的であり,支配労働によって  の必要条件であり,単に受動的か積極的かという 計るのが実質的だというわけである。この場合,  区別があるのみである。生産過程による制約がな 両者は外在的尺度としては同格であるとされてい  ければ,購買手段としての出動も無に等しい。両 たから・支配労働が内在的労働と同一視され,「不  者は価値尺度機構の一必要条件である貨幣の価値 変の価値尺度」とされるのに対し,貨幣は「可変  尺度機能の受動的・積極的二面として処理さるべ の価値尺度」として一段格下げされる運命にあっ  きであろう。いな,むしろ価値尺度という言葉が たのである。      実体と形態を混同した古典派伝来の語である以

しかしながら,貨幣の価値尺度機能は投下労働  上,貨幣論からは追放し,前者は計算貨幣機能と 時間による内在的価値尺度と異なって,本来の意  し,後者(購買手段)は流通手段論の中に位置さ 味での尺度機能を有していない・価値法則を商品  すべきかもしれない。この点検討を要するものと 価格の変動のプロセスを通して出現する基準価格  したい。問題は本稿で検討したように,価値の実 の大いさを支配する法則とすれば・そのような作  体規定をいかにおこなうかにかかっている。

用を果すのは生産過程で投下された労働量であ      (1981.9.30)

る。この場合,貨幣は価値尺度機構の必要条件で       (1)古典派経済学における労働価値説,特に支配労働

はあっても充分条件ではない。その点からすれ   価値説については,再検討.再評価の余地が多い。

ば,貨幣の価値尺度機能は単なる計算貨幣として    これについては,別稿「古典派経済学の労働価値説」

の機能か・または購買手段機能かということは殆   (茨城大学人文学部紀要〔社会科学〕15号に発表予

んど問題にはならない。両者は共に価値尺度機構   定)を参照されたい。

参照

関連したドキュメント

めに,ある価格(例えば 10 円)の商品 Y の交換価値がどれだけの量の金に等しいかを知る

価値形態論の上着は30万円 望月 清司 序 「1 着の上着」ってどんな上着?

プロセス以外の人間行為の中にも経済学の理論と   その試案とは,「原理論」は市場経済,非市場

であった。       「例えば10斤の綿花と1台の紡績機械とをもっ

目 次 価値形態の秘密とは何か はしがきI問題の所在 一 価値形態の謎

 リンネル0)価値が上着によって表現される価値形態において,リンネル

 ところで,この「買戻す」過程は労働力の再生産に絶対に必要なもので

は, 「労働との関連でそれが『どのように生産されるか』」という「実体規定」に