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価値の形態と実体
武 井・邦 夫
う。
はしがき こうみると,価値論は原理論の全体系をカパー
労働価値説がマルクス経済学の基本命題である していることになるが,・一体,価値の実体規定は ことはいうまでもない。しかし,マルクス経済学 その形態規定のいかなる箇所で行なわれるべきで に対する批判が昔からこの部分に集中してきたこ あろうか。これが価値論の最大の課題である。形 とも事実である。リカードとマルサスとのこれを 態が未発展のところでは実体は把握できないし・
めぐる対立はその先駆的形態であつたし,また19 逆にそれが過熟したところでは,実体は陰蔽され 世紀のオーストリー学派の饒将,べ一ム・バヴェ てしまうであろう。再生産過程の当事者は価値の ルクのマルクス批判の焦点もまさにここにあった 実体をその形態を媒介にしてのみ,始めて意識し のである。このように労働価値説はマルクス経済 うるのであり,また価値法則はそのような当事 学の外部からの批判にさらされてきたばかりでは 者の意識を媒介にしてのみ貫徹してゆくのであ ない。その内部においてもまた永続的な難問とし る。
て論究の対象になってきたのである。一大学説体
系の根本命題がこのように長期間・その学派の内 1 『資本論』における実体規定 外から未解決の難点を有するものとして問題にさ
れてきた例は,ほかにはないだろう。 『資本論』における価値の実体規定の問題点 この原因を考えてみるに,一口に価値と言づて は,価値の形態が実体を容れるには余りにも未発 も,その形態が実体とはなれてマルクス経済学の 展の箇所で,それを試みたことである。同書第1 体系的展開に伴なって発展してゆくからであろ 篇第1章「商品」で,マルクスはまず使用価値に
う。たとえば,商品の価値と貨幣の価値とではす ついて語った後,商品の使用価値は交換価値の でに形態的ちがいがあるし,まして資本価値とな 「素材的な担い手」であるとし,後者の分析に移 ると,もはやそれは単なる交換の基準や購買力と ってゆく。交換価値は「まず第一に・ある一種類 いった規定と異なって,増殖する運動体になって の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量 いる。さらに剰余価値についてみると,それは資 的関係,すなわち割合として現われる」(邦訳『マ 本価値とは全く異なった形態転化をとげてゆく。 ルクス・エンゲルス全集』〔大月版〕,23a,49頁)・
剰余価値から利潤へ,さらに平均利潤と超過利潤 それは「時と所とによって絶えず変動する関係で へ,また商業利潤・利子・地代へと派生してゆく ある。それゆえ,交換価値は偶然的なもの,純粋 につれて,実体との距離はますます遠くなってゆ に相対的なものであるように見え,したがって,
く。そして,ついに最後に資本還元の方式と共に 商品に内的な,内在的な交換価値というものは一 擬制資本が登場し,実体と形態との関係は全く逆 つの形容矛盾であるように見える」(同上,49頁,
転して現われる。こうなると,実体はガスに包ま 以下頁数のみ引用)。
れた金星の本体のように,完全に陰蔽されてしま ここでマルクスは商品と商品とが媒介物を通さ
ずに直接に交換される事態を想定し,交換価値を の鉄のなかにも存在するということである」(50 交換比率,しかも「時と所とによって絶えず変動 頁)。
する」「偶然的な」交換比率として規定している。 交換等式を数学的等式と混同した場合にのみ,
にもかかわらず,そこから「内在的な交換価値」 このような論理が成立する.しかし,交換等式は を見出そうとするのである。一体この「内在的な 数学的等式とは全く異なっている。それは何より 交換価値」とは何か。それは明らかに「時と所と も商品所有者としての人間の意識および行為を媒 によって絶えず変動」はするものの,決して「偶 介にしてのみ成立する等式である。二商品が直接 然的」に変動するのではない交換比率,すなわち 交換される場合に,両方の商品の価値量が等しい 長期・平均的に自己を貫徹するところの交換比率 ことは無媒介的に成立しない。むしろ,それは偶 瓢交換基準でなければならない。交換基準として 然だといってよいだろう。マルクスもだからこそ
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の「内在的な交換価値」,これがマルクスによる その偶然性を語ったのではなかったか。貨幣が出
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ソ値の本質規定であるといってよいだろう。しか 現した段階で,価格変動を通してのみ価値法則が
・ ● ● ● ● o ● o ● ●
オ,そのような意味での価値規定が,二商品が直 貫徹するのである・ここには明らかに二人のマル 接交換される段階で見出されるであろうか。貨幣 クスが存在している,というよりも「形容矛盾」
が出現して長期・平均的な価格変動を通して貫徹 的マルクスが存在しているというべきだろう。
するところの価値規定として,始めて「交換の基 マルクスはこの「共通の第三者」を商品の使用 準」という概念が交換当事者の意識に宿るのでは 価値の捨象を通して求めてゆく。使用価値を捨象
(1)
なかろうか。 すれば,「商品体に残るものは,もはやただ労働 マルクスのこのような論理の運びは古典派経済 生産物という属性だけである」(51頁)。労働は常 学以来の伝統に引きずられたものであることにま に具体的な生産的労働として存在しているが,使 ちがいはない。スミス,リカードは何れも物々交 用価値の捨象と共にその具体性を捨象され,「す 換を想定し,その交換比率を左右する要因を双方 べてことごとく同じ人間労働に,抽象的人間労働 の商品の生産に必要な投下労働量に求めたのであ に還元される」(52頁)。この使用価値捨象の論理 った。マルクスがこの素朴な方法に全く無批判的 は「共通の第三者」の論理から導き出されるが,後 であったとは思われない。だからこそ,「内在的 者が成り立たないのと同様に前者も成りたたな な交換価値」を見出そうとするのは「形容矛盾」 い。というのは・交換当事者にとってみれば,互に だと思えたのであろう。にもかかわらず,それを 相手の商品の使用価値に関心があるからこそ交換 単なる外見だとして捨て去ったのは何故であろう しようとするからである。ここにおいてもまた,
か。それは彼が交換等式を数学的等式と混同し, われわれは人間不在の経済学にぶつかる。それは 商品所有者を蒸発させてしまったからである。次 もはや,経済学というよりは数学である。マルク にその点をみてみよう。 スは『資本論』第1巻第2版の後記で,「第1章第
「さらに,二つの商品,たとえば小麦と鉄とを 1節では,それぞれの交換価値が表現される諸等 とってみよう。それらの交換関係がどうであろう 式の分析による価値の導出が,科学的にいっそう と,この関係はつねに与えられた量の小麦がどれ 厳密になされている」(13頁)と誇らしげに記し だけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で ているのであるが,残念ながら,その「科学」と 表わすことができる。たとえば,1クォーターの は「経済学」ではなく,「数学」ないし「自然科 小麦=aツェントナーの鉄というように。この等 学」であったのである。
式はなにを意味しているのか? 同じ大きさの一 このような方法で導出された価値の「実体」は つの共通物が,二つの違った物のうちに,すなわ 当然のことながら,きわめて自然科学的である。
ち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナー 「そこで今度はこれらの労働生産物に残ってい
〕、
武 井:価値の形態と実体 49 るものを考察してみよう。それらに残っているも 摘したのは,いうまでもなく宇野弘蔵氏であり,
のは,同じまぼろしのような対象性のほかには何 我々の見解はその殆んどを宇野理論におうもので もなく,無差別な人聞労働の,すなわちその支出 ある。しからば,その宇野理論において果して問 の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の, 題は解決されているだろうか。
ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物 ω「このようにして,価値量の規定に導いたものは商 が表わしているのは,もはやただ,その生産に人 品価格の分析にほかならなかったのであり,商品の 間労働力が支出され,人間労働が積みあげられて 価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣 いるということだけである。このようなそれらに 表現にほかならなかったのである」(同上102頁)。
共通な社会的実体の結晶として,これらのものは
@ 2 宇野理論における実体規定価値一商品価値なのである」(52頁)。
ここでは「抽象的入間労働」が価値の実体だと 原理論体系を流通論・生産論・分配論に分け,
されているが,このような意味での「抽象的人間 流通論では,商品・貨幣・資本の流通形態側面の 労働」ならば,それはいかなる社会,いかなる時 みを論じ,生産論で始めて価値実体論を扱うとい
代にも有用的具体的労働のネガチヴな規定として う宇野理論の方法の是非については,すでに他の (1)
カ在しているのであり,したがって価値を創造す 論文で論じたので,ここではくり返さない・ここ る第一原因としての実体ではありえない。明らか での課題は生産論冒頭における宇野氏の実体規定 に特定の社会的規定の下における「抽象的人間労 の検討にある。
働」こそが,価値の「社会的実体」なのである。 宇野氏の「価値形成過程論」の検討に入るに先 マルクスの実体概念は「社会的」というよりは「自 だち,第2篇第1章「労働=生産過程」B「生産 然的」であるといわねばならない。価値は「抽象 過程における労働の二重性」における設例につい 的人間労働の「対象化」または「物質化」したも ての検討が必要である。というのは,この設例が のであり,「凝固物」にほかならないという表現 無媒介的に「価値形成過程」における価値法則成 はきわめて「自然的実体」概念的表現であり,い 立の論証に援用され,その基礎とされているから わゆる「価値粒子」的理解に大きく道を開くもの である。
であった。 「例えば10斤の綿花と1台の紡績機械とをもっ このような「自然的実体」説的労働価値論がそ て6時間の労働によって10斤の綿糸が生産される の展開に困難を呈するのは、何故に商品の価値は とすると,10斤の綿糸は6時間の紡績労働の結果 労働時間で尺度されなくて,貨幣によって尺度さ に外ならない。綿花や機械がそれ自身で綿糸にな れるのかという点をめぐってであった。古典派に ったわけではない。いい換えれば労働は能動的役 おける価値形態論の欠如はそれを物語っている。 割を演じ,生産手段は単に受動的役割を演ずるに そこでは,貨幣は物々交換の不便を打破するため すぎない・しかしこの10斤の綿糸は単に人間の労 の交換の媒介物として規定されるにとどまってい 働6時間の生産物とはいえない。綿糸の生産に生 る。また同じ土壌の上に労働貨幣論が仇花を咲か 産手段として役立つ綿花,機械の生産にも労働を すことにもなる。マルクスの科学的貢献はこのよ 要している・仮に10斤の綿花に20時間の労働を要 うな労働価値説の古典派的限界を批判し,価値形 し,機械の生産にも幾時間かを要するものとして 態論を展開して,貨幣の必然性を論証したことに この紡績労働過程中に消耗される部分が4時間の あった。しかし,価値の実体規定を形態規定に先 労働生産物に相当するとすれば・生産手段自身に 立って与えたことは,価値形態論の展開自体にも すでに24時間の労働を必要としていることにな 大きな難点を残さざるをえなかった。 る。そこで綿糸10斤は,単に6時間の労働の生産
マルクスの労働価値説の以上のような難点を指 物ではなく,24時間の過去の労働に6時間の紡績
過程の労働を加えた30時間の労働の生産物であ 賃銀として3シリング得なければならないという る」(『宇野著作集』第1巻,88〜9頁)。 ことであろう。第二の無理は3シリング獲得する.
ここでは生産者は全ての生産関係を捨象され 為めに労働者は1日に何時間労働しなければなら て,単純に人間として規定され,さらに紡績労働 ないかという点に関することである。この例だと,
に従事する人間がどのようにして,機械や綿花を 6時間ということになるが,それは宇野氏が必要 入手したのかという問題は一切不問のまま,その 労働のみを計算し,剰余労働を捨象しているから 生産に必要な労働時間のみが無媒介的に提示され である。しかし,労働者は両方の労働をしてこそ,
ている,20時間+4時間+6時間・=30時間,という 始めて賃銀3シリングを支払われるのである。宇 足し算を行なう現実的主体は一体誰なのか,それ 野も勿論これを知らぬわけではない。しかし,こ は生産当事者ではなく,客観的な第三者としての こでは剰余労働を捨象して論証しているのであ 経済学者にほかならないであろう。かつて,『資本 る。それは「暴力的抽象」というぺきではないだ 論』冒頭における価値実体論について,その第三 ろうか。次に第三の無理は,綿花や機械が商品と 者的手法を批判した宇野氏が,ここでは経済原則 して購入された以上,それは価格表示は有してい 的分析の視点に立って,第三者的手法におちいっ ても,労働時間表示は有していないということで ているのである。しかもそれにとどまらず,この ある。従って10斤の綿糸の価格が15シリングだと 第三者的手法が「価値形成過程」論にそのまま持 いうことは判っていても,一体それが何時間の労 ちこまれるのである。次にそれを見てみよう。 働の生産物であるかということは,絶対に判って
「資本の生産過程においては,例えば前例の紡 はいないということである。ところがここでは「上 績労働で使用せられる綿花や機械が商品として購 例の30時問の労働の生産物たる10斤の綿糸」とい 入されるばかりでなく,労働力もまた1日幾シリ った表現が無神経に持ちだされているのである。
ングとか,幾円とかという賃銀を支払って購入せ 一般にここにおける宇野の論証の問題点として られるのである。今,かりにこの労働力の生産に は,上に引用した部分よりも,その後に続く文章 要する労働時間,いい換えれば労働者1日の生活 一生活資料生産部門の資本家と紡績資本家との 資料の生産に要する労働時間を6時間とすれば, 競争に関する説明一に焦点があてられている 纓痰フ30時間の労働の生産物たる10斤の綿糸のう 象,それは前半での設定条件から当然の結果とし ち,2斤の綿糸の代価は,資本家にとってはその て引きだされてくるものにすぎない。このように 労働者に支払つた賃銀を回収するのに役立つこと 宇野の論証は「生活資料の生産に必要な労働時間」
とになるであろう。1労働時間の生産物が0.5シリ を無媒介的に規定することに始まり,生産手段の ングに価するとすれば,労働者は賃銀として3シ 売買,労働力の売買にいたるまで等労働量交換が リツグを得ていることになり,資本家は2斤の綿 貫徹することを論証しようとするものであるばか 糸を3シリングに販売すればよいことになる」(同 りか,「B 価値増殖過程」では剰余価値部分に 上,94頁)。 ついても,同様の事態の成立が語られている。さ ここには3つの無理がある。まず第一に「労働 らに「C 価値法則の確立」では「全社会の総労 者1日の生活資料の生産に要する労働時間を6時 働の配分」が語られ,価値法則の定義が次のよう 間とする」ことから論理が展開されているが,一 に語られる。
体,資本家にしても労働者にしても,「労働者1 「一般に価値法則という言葉は,商品の等価交
日の生活資料の生産に要する労働時間」が6時間 換として理解されやすいが,価値法則の根本は種
であることをどうして知り,あるいは確めること 々なる使用価値の生産に要する労働によって商品
ができるのだろうか。判明しているのは「労働者 の価値が決定せられるということにある。等価交
1日の生活費」が3シリングであり,したがって 換は社会的総労働の各種使用価値の生産への配分
武 井:価値の形態と実体 、51 と共に,かかる価値法則の展開に外ならない」(同 能である以上,それは価値法則の解体ないし価値 上,101頁)。 概念の風化を生む結果に終らざるをえなかった。
宇野によれば,このような価値法則の貫徹は「あ 価値法則の解体作業は,まず等労働交換の追放か らゆる社会に共通なる物質的基礎をなす労働=生 ら始まったが,それは必然的に価値概念の風化に 産過程」が商品形態を通して実現される特殊の方 連ならざるをえない。なぜなら等労働交換という
式に外ならない。それと同時に「資本主義社会は, 中味を抜かれた価値概念は単に生産価格の抽象的 社会の存続の基礎をなす労働=生産過程を商品の 形態として措定されざるをえないからである・た 価値法則をもって規制することになるのである」 とえば,桜井毅氏は次のようにいう。
(同上,101頁)。「経済原則」の「価値法則」とし 「生産価格体系は資本主義社会が経済原則を具 ての貫徹,というのが宇野の価値論の根本命題で 体化していく唯一の様式なのであって,価値関係 あるが,以上のような価値法則論証の構造は正に はそれを解析してえた抽象的規定にすぎない」(桜 このような方法論からくるものであった。このた 井「価値と価格」,鈴木鴻一郎編著『セミナー経 めには,まず, 「経済原則」が「価値法則論」に 済学教室』1,189頁)。
先立って明らかにされなければならない。ところ ここでは生産価格は価値法則に代つて,資本主 が,一方では「商品形態に単純化され,あらゆる 義社会における経済原則の具体的現われでありラ 他の外被をはがれた資本主義社会において始めて 価値規定はその抽象的規定にすぎないものとされ かくの如き一般的な労働=生産過程が明らかにさ る。しかし,氏が価値規定から等労働交換を抜く れ得るのである」(同上,85頁)というのが宇 かぎり,その価値概念はもはや実体規定とはつな 野価値論の基本命題であった。これによれば,わ がらないであろう。そのような方法では利潤を剰 れわれは,価値形成・増殖過程論を展開した後, 余価値に還元することはできても,それをさらに そこからさかのぼっ一て始めて「経済原則」論を語 剰余労働にまで還元することはできないからであ
りうるということになる。かくして,ここには果 る。
しなき悪循環がある。それを破る唯一の手続きは 宇野学派の内部で,一方で価値法則から等労働 宇野による「今かりに……」という1日の生活資 交換の契機を抜く作業が進行していったのに対し 料生産に必要な労働量の仮定にすぎなかったので て・他方ではそれに反機する作業も現われてきた。
ある。 永谷清氏『科学としての資本論』,小林弥六氏『価 ω武井「流通形態と生産過程」(『マルクス経済学 値論と転形論争』,『経済原論』がそれである。
の現状と展望』東洋経済新報社刊,1978) しかし,その試みも,結局は宇野氏的論証をくり ω 「ところがまさにこの『資本の競争』の論点にこ かえしているだけで,成功しているとは思われな
れてきたといえる」(小林弥六『価値論と転形論 し,また。小林氏の『経済原論』では,宇野氏同 争』109頁)。 様に「労働者が必要労働だけをおこなうとする」
という想定から始まり,「労働者がおこなう労働3 価値の形態と実体 と賃金とのあいだに一定の比例関係が成立するこ
宇野による価値法則の論証における難点が意識 とを中軸にして結局はすべての商品の価格がその されるに応じて,宇野学派の内部に種々な新しい 生産に要する労働を基準にして定まるようにな 論証上の試みが生まれてきた。それらの諸説の内 る」(150頁)とされるが,そもそも,労働者が必 容に立ち到って検討するゆとりはここにはない 要労働だけをするという架空の事態の想定こそが ェ,資本の生産過程を前提にして等労働交換とい 問題であったのではなかろう6ミ
う意味での等価交換を論証することは絶対に不可 ω 「剰余労働の可能なかぎりの…搾取によって価値増
殖する資本の運動の根拠を規定する『資本の生産過 している」(桜井「価値と価格」『セミナー経済学 程』で・資本主義社会の基本法則とされる価値法則 教室1,187頁)。しかし,ここでとどまっていて が・価値増殖しない資本の生産過程による・剰余労 は,価値を価格に解消してしまうことになる。な
しかしまた,他方において,価値概念を実体と かくして,宇野学派は価値法則の論証をめぐっ 結びつけて,いわば粒子的に理解するのも問題で て,価値を生産価格に解消し,結局は労働価値説 ある。というのは,価格変動を通して始めて価値 を空洞化する多数派と,師の論証方法を教条主義 法則が貫徹することが物語るように,実体は形態 的に死守しようとする少数派とに分裂してしまっ に包摂された形でしか存在しないからである。
たかに見える。もちろん,このような努力は,百 このような価値概念の性格を理解するために 年一日の如く,マルクスの論証を解説している自 は・労働力商品の価値概念を取上げてみればよい。
称『正統派』の空しさに比べれば,まだましだと 労働力はもちろん労働の生産物ではない。にもか いうことはできる。少なくとも問題点だけは提出 かわらず,それが価値を持つとされるのは,それが されたからだ。しかし,それは必ずしも解答の正 くりかえし生活を通して生産されるからである。
しさを保証するものではないのである。 ここに生産過程を全く持たない商品,たとえば土 それでは,宇野は価値論に関する限り,すでに 地とのちがいがある・
「死せる犬」なのであろうか。ここで,宇野の問 さて・以上のような価値概念の確定をみた上で 題提起の原点に帰って考えてみる必要がある。本 「流通形態が実体を包摂する」という宇野の命題 来,宇野が資本の生産過程で実体規定をしたのは について考えてみよう。商品の価値規定が生産過 流通形態が実体を把握したのが資本主義社会であ 程と切りはなして存在しない以上,流通形態とし
o ■ ● ● ● ●
るという考えが基本にあったからである。この考 ての商品とは,生産過程を抜きにして商品を規定 o ・ ● ● ■ ● ■ ● ● ● o ■ 9 ● ● ● ● ● …えは基本的に正しい。問題は流通形態のとらえ方 することではなく,逆に生産過程を流通形態化し ● ・ . D ・ ● ● ■ ● ● ● ● ● ● o ● ● ● ・ o ●
にある。すでに別稿(武井「流通形態と生産過 た形でとらえることであらねばならぬ。いいかえ ● ● ● ● ● ● ・
程」)で考察したように・流通形態を生産過程か れば,流通形態化した生産過程を前提にして商品 ら全く切りはなして理解することはできない。価 を規定することである。
値概念は生産過程による実体的制約擬}こ確立す それでは,生産過程の流通形態化1まいかにして
ることはできない霧が貨幣の価値に関連して 行なわれるか藷蒲蛙謡画疹・舳紬齢「形式的価側と「頬的価値」との区別1こつい 証籟齢る三昂ま二嬬巻お孫湧毘て語り, また「価値と価格の質的轍」にっいて 1務動儲ぞあら,こ赫二媛蒲生産過程
語っ塒,宇野自身によってこのことが証明され の流通形態化を示す以外の何ものでもない.労賃 たといってよい・イ夢停塚倉姑≦?辱レ牢摩・沸導 は資本主義以前のギルドにおいて職人の労働に対 す蚤酉鼻宇?㍉、了て)う,肇乎す資のであり・それ する報酬として発生したものであるが,ここにお に至るまでの価値規定は過渡的性質のものにすぎ いては生産手段が部分的に職人によって所有され ないのである。価値を生産価格の抽象的規定に解 ており,その点で,生産手段を全く保有していない 消しようとする論者に欠けているのは,この点 資本主義社会の労働者と異なっている。前者が労 の認識である。たとえば,桜井毅氏はいう。「わ 働を売買し,後者が労働力を売買するとせられる れわれが商品の価値という場合,それは他の商品 のも,この点の区別に基づくものである。しかし,
との全面的交換を要請する商品の性質として把握 労働力の価値が労賃に転化するにつれて,資本主
武井:価値の形態と実体 53 義社会においても,労働力がではなく,労働が売 ある。これは,生産論で始めて形態が実体を包摂 買されるという現象が確立する。そして,それに するとされているために,その実体とは労働生産 伴なって剰余価値は利潤に転形する。この利潤の 過程一般に共通な抽象的人間労働に求められてい 世界こそ,『資本論』第3巻の世界であり,それ るからである。しかし,宇野には他方では再生産 は流通形態化した資本主義的再生産過程がいかに 表式論で価値法則の絶対的基礎が与えられるとい 運動するかを考察する世界である。これに対して, う理解がある。これは資本主義社会特有の社会的 生産論は労働力の商品化の世界であり,剰余価値 労働が価値の実体であるという考えだといってよ 率の世界である。ここでは,まだ生産過程は流通 い。生産論はこの社会的実体を明らかにする領域 形態化されていない。さらに,これに先立つ流通 だったのである。宇野価値論の混乱はこの価値の 論では,労働の商品化を通して生産過程の流通形 実体に対する二重の理解ないし混乱からくるもの 態化を説く部分である。 である。
原理論の構造を以上のように解する時,われわ 生産論における価値実体論についての二重の理 れは始めて,宇野によって提起された流通論・生 解に対応して,分配論における価値法則と利潤率 産論・分配論という原理論の篇別構成の根拠を理 均等化法則との結びつきに対する理解について 解することができるのではなかろうか。そしてま も,二重の対応がみられる。宇野は一方では商品 たそれと同時に価値論の謎も始めて解決するよう が価値通りに売買されるという想定から出発し,
に思える。われわれは流通論において,まず,労 次に利潤率の均等化をめぐる競争を説き・そこか 働の商品化を前提にして価値の実体規定。価値法 ら平均利潤率と生産価格の成立とを導いている。
則規定を行ない,次に生産論において,労働力の これは価値と生産価格を同次元的につかまえる 商品化を前提にして資本主義社会の価値実体を分 方法だといってもよい。他方において・宇野には 析し,最後に分配論において,流通形態が資本主 価値と生産価格の異次元的理解もある。生産論で 義的価値実体を包摂した形で運動する過程を分析 は資本家と労働者の問の関係を考察するから,そ しなければならない。 れに麗乱的な影響を及ぼす資本家の競争は捨象す 宇野理論においては,流通論で価値の実体規定 るが,分配論では逆に資本家間の個々の関係の分 が行なわれていないために,価値論の展開におい 析を主題にするという宇野の再三の言明はこれを
て種々の問題を残すにいたった。まず,流通論で 示すものだといってよいだろう。しかもそれは単 ・ 本来,実体規定を前提にしなければ説けない貨幣 なる主題のちがいというよりは,形態的な区別を
の価値尺度機能について,くり返しその規定可能 伴うものとされる。宇野によれば・資本主義的生 性に疑問が提出されてきた。生産過程の分析が前 産方法の発展は「また資本家と労働者との関係を 提されなければ,売買のくり返し自体が説けない 単なる商品売買の関係に塗りつぶす労働賃銀形態 からである。また,価値概念が確立しないにもか をも完成するのである。そしてこれによって資本 かわらず,事実上その確立を前提にして論理が進 は,その生産過程を,流通過程のうちに実現する められるという事態が生じている。たとえば,先 形態的根拠を与えられる」(著作集1・86頁)。こ
に指摘したように,価値と価格の質的乖離の問題, のように労働賃銀形態は生産論と分配論とをつな 貨幣の形式的価値と実質的価値の区別の問題,等 ぐ重要な役割を果すが,宇野はこれについて「労 価交換の想定がそれである。 働賃銀なる形態は労働に対する報酬として,むし 次に,宇野の生産論では価値の実体があらゆる ろ資本主義的生産方法以前からある形態が,商品 社会に共通な抽象的人間労働(生理学的エネルギ 化したる労働力の売買に援用されたものにすぎな
一に還元された労働)であるのか,それとも資本 い」(同上,133頁)という。
主義社会に特有の社会的労働なのか,あいまいで このように,資本の生産過程が流通過程の中に
包摂されるということは,労働力の価値が賃銀形
態をとることと同意語である。ところが宇野にあ 4 流通論における価値法則の論証 っては,このような正しい理解も,「元来,資本 流通論で労働が商品として登場するのは,価値 の生産過程は・一般にいかなる社会にも絶対的に 形態論の価格形態の部分であろう。それ以前には 欠くことのできない労働=生産過程を,資本とい その持っている本来の性格からいって,登場しえ う特殊の流通形態をもって実現するもの」(同上, ないであろう。というのは,労働商品の所有者は 134〜5頁)であるという理解とダブらせることに 全生活資料を賃銀によって購買しなければならな よって混乱させられてしまう。前者と後者とでは いから,貨幣以外の特定商品で自己の労働の価値 一見言葉は同じでも・内容は全くちがう・前者は労 を表現することはできないからである。この場合,
働力の売買が労働の売買化として現象することを 労働は当然時間ぎめで売買される。たとえば1時 意味するが・後者は全くのトートロギーである。 間の労働が1シリングであるとすれば,1日10時
というのは流通形態としての産業資本はすでに生 間の労働の価格は10シリングとなる。このように 産過程を包摂しているからであり,それが改めて 労賃形態を媒介にして労働時間と価値量とが,す 労働=生産過程を包摂することなどはありえない なわち実体と形態とが等価関係におかれる。労働 からである・ の購買者にとって,その労働の生産物を商品とし 宇野が何故このようなワナに落ちたかといえ て売りに出す時,その商品の生産費は生産手段の ば・すでに見たように・流通形態を生産過程自身 価値+労賃から成るものとして意識される。労働 が流通形態化されたものとしてつかまずに,生産 は労賃形態を通して価値量に転形されてはじあそ
̲懲雛難ξ鴬鴬書簾「忘倉言妻議講講疇轟総悉霜ろ資本蟻的生産方法以前からある形態」なので 倉旨である.この場合,その蠣の獺者がギ、レドあり・当然それは蛙過程の瀧形態化を示すも の繍または「襯方」のよう1こ自らも職と_
のとして・流通論の中で述ぺておかねばなら曙 し・に労鮒ること拷えられるが,その場合}このものであったのである・しかし,流彫態螢 は識人に女寸する簸謹準にして配の労働こ本蟻社会からの抽聯として齪する宇野1・は 賃銀を計上するであろう。もっとも,職人の労働
齬i能であつた(実際に鵬1こは別の犠霧響識婁織襲
ωこれは宇野が流通論で「資本の産業資本的形式」 固定化されているであろう。このようにして,全 を論ずる場合に・流通形態として産業資本形式を規 労働が賃金形態をとる時,逆に生産手段の価値部 定していないことにも通ずる・すなわち,そこでは 分は労働に還元されて意識されることになる。生
鍵轟藩ll難購1灘欝の韻から労働の韻が,また禰から剰余雌 た知ろうともしないであろう・また・儲体系をが観される場合に,始めて蛙論_移行できるの 異にする暢圏から買った場合}こは・そのようなである。 計算自体が無意味である。強いてやるとすれば,
自己の手元に現存する賃銀単位を援用して逆算す
るしかないのである。
武井:価値の形態と実体 55 この場合,資本は存在しないとしても,親方は おきたい。冒頭商品の性格については,単純商品 職人の労働から利潤一萌芽的利潤を引きだすご 説,資本主義的商品説,流通形態説の3説に分れ とができるかもしれない。人聞がフルに労働すれ るといってよいだろう。単純商品説の難点は単純 ば,生活費以上のものを生産しうるという原則は 商品生産社会を想定して価値法則の貫徹を論証で ここでも存在するとしなければならない。彼はそ きないという点,さらに産業資本への転化を説け こから蓄積元本,またはギルド的規制によってそ ないという点にあった。これに対し,資本主義的 れが不可能の場合には,蓄蔵資金を形成しうるで 商品説の難点は資本も貨幣も捨象しているのに資 あろう。しかし,彼が自らも労働する限り,萌芽 本主義的商品だといっても始まらないとか,労働 的利潤は利潤形態としては意識されず,賃金形態 力の商品化は矢張り歴史的に説くしかない以上,
一複雑労働に対する労賃として意識されるにと それを説くまでの商品は,あるいはその発達した どまるだろう。産業資本が登場し,明確に利潤形 形態の貨幣・資本は資本主義以前的なものという 態が登場しても,それは監督賃銀形態とは未分離 しかないという点にあった。最後に,流通形態説 の状態が続くのであるから,まして資本も利潤も は資本主義的商品よりの抽象物であり,また生産 登場しないこの段階では,萌芽的利潤は形態的に 過程からも捨象されている商品であるという内容 は完全に賃銀形態に覆われているといってよいだ であるが,すでにみたように生産過程から捨象さ ろう。 れた場合には,その価値規定は未確立に終らざる
資本主義以前の商品生産で価値法則の貫徹の範 をえないし,さらに労働力商品の歴史性の認識が 囲は局地的市場圏内部のギルド的または「小親 深まるに応じて,商品・貨幣・資本,特に資本の 方」的生産に限定される。それを取りまく他の小 非資本主義的歴史性が自覚されざるをえなかった 商品生産には多かれ少なかれ現物経済的面を残し のである。
ているから,その貫徹作用も阻害される。しかし, これに対し,流通形態としての商品を労働の だからといって,この段階での価値法則の作用を 商品化によって流通形態化された生産過程の産物 否定したり,またはその論証を断念したりする必 として規定するならば,そのような商品は明らか 要はない。商品生産は部分的生産であり,その点 に特定の歴史的規定性を帯びざるをえない。労働 では資本主義的生産といえどもその宿命を免かれ が労賃に対して売られる生産過程といえば,資本 ないのである。また,たとえ純粋資本主義を想定 主義以前のギルド的または「小親方」的商品のぞ したところで,剰余価値部分については,等価交 れしかないが,それはさらに限定される。なぜな 換の必然性はない。しかし,その場合でも剰余価 らば,そのような商品から出発した流通形態は歴 値の実体は剰余労働だという価値法則の根本命題 史必然的に労働力の商品化に到達しなければなら はゆるがない。価値法則は一定の条件の下でのみ ないからである。それは資本主義発生直前の16・
貫徹する。問題はその条件である・等価交換と不 17世紀のギルド的または「小親方」的商品だとい 等価交換の前提条件を明らかにし,その必然性を うしかないだろう。そのような商品であってこ 明らかにすることこそが,労働価値説の論証であ そ,価値規定も確立するし,価値法則の貫徹も説 ろう。そして,このことは資本主義以前と以内と けるし,また論理的断絶を含みつつも歴史飛躍的
を問わないのである・赫溝群騨9韓}ξ に燭力鏑品化濃開できるのである・よる生産過程の流通形態化を明らかにするといっ 5 生産論における資本主義的. ● ・ , ● ● ● ● ● ■ ● ・ ■ ● ● ● ● ■ ・ ● ● ●課題を帯びている以上,その点を明らかにしさえ
ロ接蔽まミ, 磁蜘餉睦商献臓 価値実体論
@る腰蔽 」 ° °°°°° @すでに見たように,宇野理論にお・・ては,備
三義}三蘭蓮こそ冒頭商品の性格について述べて の実体を全ゆる社会に共通な抽象的人間労働に求
める見解と,特殊歴史的,すなわち労働力の商品 資料は過不足なく販売されなければならないから 化に規定された資本主義的な抽象的人間労働に求 である。譲渡利潤が社会全体として否定されれば,
める見解とが交錯していた。前者の見解からは生 利潤総額は剰余価値,つまり生産過程から生まれ 産論の冒頭で剰余労働一剰余価値を抜きにした た果実に還元されなければならない。他方すでに 形で価値法則の論証が試みられ,後者の見解から 流通論において価値の実体は抽象的人間労働であ は生産論全体で価値実体措定の作業が試みられ り,また生産手段の価値は移転されるだけで不変 る。後者では,特に生産論の最後で再生産表式が であることが明らかにされているから,結局この 論じられ,それと共に価値法則の絶対的基礎が与 剰余価値は必要労働をこえる剰余労働がつくりだ えられ,それによって始めて全ゆる社会に共通な したものと見るほかはなく,それと共に商品化さ 経済原則が明らかにされることになる。このよう れたものは労働ではなく労働力であるという最終 な二重の実体規定から分配論における二重の対応 的判断が与えられる。
が生まれてくる。前者の見解を延長すれば,生産 われわれは生産論の冒頭において,まずこのよ 価格は価値法則の修正形態になるし,後者の見解 うな形で利潤を剰余価値に,ついで剰余労働に還 からすれば,生産価格は価値法則の具体的貫徹形 元すべきであろう。そしてその上で総資本の平均 態になる。もっとも宇野の場合,この二つの方法 見本である代表単数を設定し,それにそくして資 について明確な区別があるわけではない。明確な 本の生産過程を展開すべきであろうと思われる。
区別がないからこそ,二つの方法があるのである。 このように,代表単数的な個別資本に還元され このような混乱のよって来る根本原因については た場合には,当然労働者と資本家との間において 後にみよう。 はもちろんのこと,資本家相互間においても等価
ここでの問題は,流通論における価値実体論の 交換が貫徹するものと想定される。この場合には 展開を受けて生産論における価値論をどう展開す 宇野原論におけるように,労働者が必要労働のみ
るかである。分配論との対比で言えば,生産論は を行なうというナンセンスな想定は不要である。
資本主義的価値実体を明らかにする領域である。 第一,剰余価値が存在しない資本主義などが存在 これに対し,分配論では流通形態に包摂された価 する筈もないのである。また生産論の最後に展開 値実体の具体的運動形態が生産価格一利潤率均等 される再生産表式論では,宇野のいわゆる価値法 化法則の姿をとって現象する過程が考察されるの 則の「絶対的基礎」が明らかにされ,それを通じ である。それでは生産論で資本主義的価値実体は て始めて各社会に共通な経済原則が明らかにされ どのようなものとして規定されるぺきだろうか。 る(この点からいっても表式論は生産論のラスト まず第一に,それは何から抽象されるのかとい に位置づけられなければならない)。従来この箇 う問題がある。それはすでにふれたように,流通 所は宇野価値論の研究者によって余り注目されて 形態論の最後に登場する産業資本形式から抽象す こなかった。焦点は専ら生産論冒頭における実体
る以外はない。この産業資本形式では,労働が商 論に向けられていたのである。しかし,生産論と分 品化され,また果実部分は利潤形態をとって現わ 配論との接点であるここにこそ,宇野価値論の精 れる。個々の資本をとるかぎり,ここから剰余価 髄があり,したがってまた最大の遺産があるよう 値と労働力をみいだすのは容易ではない。しかし, に思われる。そこで,次に要点を検討してみよう。
全体としての資本を取上げてみれば,産業資本の 宇野『経済原論』第2篇第3章「資本の再生産 利潤は商人資本のそれとちがって価格差に基づく 過程」は,一「資本の再生産と蓄積」二「資本家
譲渡利潤に解消することはできない。というのは 的蓄積の現実的過程」三「社会的総資本の再生産 γ