純粋資本主義社会をめぐって
新 田 滋
本稿では,山口重克教授の近著『価値論・方法 同時にまた社会的再生産過程における分配過程の 論の諸問題』(御茶の水書房,1996)所収の二論 編成費用が資本主義社会ではどのようにあらわれ 文で,かつての拙稿に対する詳しい論評が与えら るかという,いわば経済体制論的な問題でもあっ れたのを契機として,純粋資本主義社会論の方法 た。流通費用がたんなる「空費」(冗費)でしか をめぐる種々の再検討を試みるものである。 ないという考え方には,資本主義社会は計画経済 社会に比べて分配過程に無駄なコストを費やして 第1節 山ロ重克教授からの指摘について いるという考え方を意味するからである。
1 問題の経緯 ところが,このような考え方はミーゼス,ハイ 段階論の方法について私は,「経済政策論の方 エク以降の計画経済批判において説得力を失って 法一経済学にとって段階論とはなにか」(東京 いることが1989年を境にして改めて思い起こされ 大学『経済学研究』33号,1990)以来考察してき た。むしろ市場経済社会の方が計画経済社会に比 たが,その成果は一応『経済政策論=発展段階論 べて分配過程にかかるコストは小さくなるという 研究』(博士論文,1993,未公刊)としてまとめ 主張に対して,今のところ有効な反論はなされて た。他方,それと並行して原理論の分野で流通費 いない。周知のようにハイエクの重要な論拠は,
用論,商業資本論,基準利潤率の均等化論(生産 現実世界の知識・情報の偏在や非規格性に対して 価格論)の研究も行っていたが,そうした方面か は,分権的な意思決定主体が自由に経済活動を行 らの考察の結果,従来のつまり宇野弘蔵以来の原 う市場こそが最も効率的となるというものである。
理論と段階論の境界設定に不十分なところのある つまり,そこでは情報の不完全性が前提されてい のを感ずるようになってきた。 るわけである。
もともと流通費用論は,マルクスにおいては価 翻って,山口教授の流通の不確定性の議論も,
値形成的か否かという観点から問題とされ,その いわば市場世界の情報の不完全性を前提としてい 後のマルクス経済学においてもそうした議論の枠 ると考えられる*2。このようなところから,ミー 組みが踏襲されてきたといえる。そしてそのよう ゼス,ハイエク以降の新オーストリア学派的な市 な論争の中から山口重克教授は「流通と価値」 場プロセスへの注目と山口教授の流通の不確定性
(1978,1987,『価値論の射程』東京大学出版会, 論とを突き合わせてみようという問題関心が私に 所収)において,流通労働と流通費用の不確定性 は出てきた。それが「市場プロセスと人間行為」
をもって価値非形成的とすることを主張されるに (『茨城大学教養部紀要』26号,1993)であった。
至ったのであった。流通費用が価値非形成的な そこでは,ミーゼスが人間行為はすべて主観的
「空費」(冗費零1)か否かを議論することの意味は, には効率的な功利性(効用)の最大化を求める合
直接には価値論の問題のようにみえるが,それは 理的選択(あくまでも主観的な)を行うものであ
り,商品経済的行動様式もその中の一つにすぎな だろうか。その際,三段階論はどのように再構成 いとしている考え方と,マルクス的な考え方との される必要があるであろうか。これが,「経済学 接点が探られた。すなわち,商品化して市場で取 における企業組織,公共機関,自生的秩序一市 り引きできる財・サービスについては商品経済を 場原理と現代経済学」(『茨城大学教養部紀要』27 扱う経済学原理論の対象となるが,「排除費用」 号,1994)で考えてみたことであった。
が大きすぎるなどの「市場の失敗」が存在する財・ そこでは,前半の部分でマルクス,ヒルファディ サービスは公共財・サービスや外部経済・不経済 ング,宇野弘蔵が企業組織,公共選択についてど となって,商品経済の原理論では扱えないという う考えてきたかを概観した上で,青木昌彦による ように考えてみたのである。つまり,ミーゼスと コース理論の解釈を批判的に検討したのちコース マルクスを媒介するに新古典派ミクロ理論の「市 理論の再解釈と検討を行っている。その上で後半 場の失敗」の考え方を導入してみたわけである。 の部分では,はたして経済学の理論や宇野的な原 そして,新古典派が公共経済学という分野として 理論においてそれらは論ぜられるのかを検討し,
いる理論次元こそは宇野弘蔵のいう経済政策論を それらの中にはすべてではないが原理的に説きう 基礎規定とする段階論次元への入り口に対応して るものがあることを明らかにしたのであった。そ いるものであるが,それは狭阻且つ非現実的な市 して,結論としては,市場経済的な対象のみを経 場モデルに制約されることなく,多種多様なコミュ 済学的な方法で扱う狭義の経済学(ミーゼスの言 ニケーション形態に媒介された領域として再設定 い方ではカタラクティクス)の純粋理論,いわゆ されるのでなければならないと考えてみたのであっ る「経済」以外の広範な人間行為の諸現象をも経 た。 済学的な方法で扱う広義の経済学(ミーゼスでは
そこでは,原理論は財・サービスの生産・分配 プラクシオロジー)の純粋理論,両者の中間領域 過程を商品・貨幣の取引による市場プロセスで編 として非市場的な企業組織・公共選択などの経済 成する世界を想定するものとし,段階論は「市場 的対象を経済学的な方法で扱う領域の純粋理論,
の失敗」する諸領域に対してどのようなコミュニ および市場経済・非経済・非市場的経済の諸対象 ケーション形態によって編成がなされているかを のそれぞれを非経済学的な方法で扱う諸分野(歴 分析するものというように,大枠では宇野三段階 史学・社会学・文化人類学…)の理念型的実証 論の枠組みに則っていたといってよい。 分析という分類を,従来の宇野三段階論に有機的 ところが,ミーゼスのようないわゆる「方法論 に繰り込まなくてはならないとして,その一つの
的個人主義」を徹底するときには,当然にも市場 試案を提示してみたのであった。
プロセス以外の人間行為の中にも経済学の理論と その試案とは,「原理論」は市場経済,非市場
同じように扱えるものがあるのではないかという 的経済,非経済それぞれにおいて理論的・原理的
疑問が生じてくる。一つは近年盛んになっている に扱える側面を経済学的方法によって扱う統合的
企業組織の経済学から比較制度分析への流れであ な分野とし,「類型論」とは市場経済,非市場的
り,二つは公共選択の経済学的分析である。これ 経済,非経済それぞれにおいて理論的・原理的に
を宇野理論に引き付けていうと,前者は金融資本 扱える部分も扱えない部分も含めて非経済学的な
の蓄積様式で扱われてきた株式会社・組織的独占 理念型論的・社会システム論的等々の方法(方法
体の問題であり,後者は経済政策の問題であり, 論的全体主義)によって分析する統合的な分野と
ともに段階論で歴史記述的に扱われるべきものと し,これら二つの理論を分析基準として複眼的に
されてきた。これらも単に歴史記述的な類型分析 「無限に多様な現実」に対する「現実分析」を行っ
におさまりきらないような理論的側面をもってい てゆくべきものとするものであった。(この場合
るということを,どのように受け止めたらよいの は,「類型論」と「現実分析」の違いは「現実」
の解像度が複眼的か否かというところにあると考 な資本主義的市場経済に抽象化ないし還元して提 える。宇野のように世界史的発展段階の典型国の 示してみても,現実の経済を十分に理解できるこ 分析が「段階論」で,典型分析を基準とした各国 とにはならないわけである。」(山口[1996]p169)
分析が「現状分析」であるとか,世界資本主義論 ここで言われていることは全般的には尤もに思 者のように第一次大戦までが「段階論」でそれ以 われるが,「たとえば政治体制や制度や慣習や宗 降が「現状分析」であるとか,あるいは山口教授 教や価値観など」が,商品・貨幣・資本主義的市 のように20〜50年の類型が「類型論」で10年以内 場経済の人間行動様式とどこまで独立的に生成し の類型が「現実分析」であるというのとは,また たものであるか,さらには「方法論的個人主義」
違っていることに留意されたい。) で扱えるような人間心理とどこまで無関係に生成 さて,以上のような試行錯誤的・問題提起的な したものであるかを,先入観で固定的にとらえる 拙稿に対して,山口教授から「純粋資本主義の方 ことはできないのではないかというのが,私の問 法と効用」(前掲『価値論・方法論の諸問題』所 題提起の意味であった。山口教授においては中間 収,初出,國士舘大學『政経論叢』97巻3号, 理論の中間理論たる所以は商品経済の原理的パター 1996,以下,山口[1996]とし頁数は単行本によ ンと非商品経済の合成にあるとされている。この る)でかなり詳細な検討を頂いた。それは拙稿で 非商品経済は従来はただ非原理的とみなされてい 山口教授の原理論の方法および理論的内容が宇野 ればよかったのであるが,コース以降のミクロ経 のそれと意味のある形で異なったものとして,宇 済学の成果を直視すれば必ずしもそうとばかりは 野三段階論と現代経済学の批判的媒介を行う際に, いっていられなくなっている。非商品経済の中に 並行して山口教授の方法についても検討した部分 も原理的なパターンを示すものが多かれ少なかれ
に対しての反論という形である。そこで本稿では, 存在するのである。
それへの再検証のようなものを試みたい。なお, だとすると,そのような非商品経済の原理論的 あらかじめ言っておくと山口教授自身,「新田の 研究はどこでなされるのかということが問題とな 論文の主要な関心が『扱いうるものがある』とい る。山口教授がいわれるように,商品経済の原理 う点にあるようにみえるのにたいして,私の関心 論は商品経済を対象とするのだから商品経済の原 は『扱えないもの』を排除することにある」(山 理論であるということ自体にはなんらの疑問も存 口[1996]p188)といわれているが,「規定は否 在しない。重要なことは,非商品経済の原理論は,
定である」とすれば二つの「関心」も,「関心」 商品経済の原理論と中間理論との問でどこに位置 そのものとしてはじつは同じことになるだろうと づけられるのかということなのである。たとえば いうことである。 「原理論」段階の中で商品経済に関する部分と非 商品経済に関する部分とを,有機的に関連づけな 2 山ロ重克教授からの指摘について がら展開する構成方法であるとか,「商品経済の
(1)山口重克教授は宇野弘蔵の経済学方法論を 原理論」段階と「中間理論」段階との中間に「非 大枠で踏襲されつつ,純粋資本主義的商品経済の 商品経済の原理論」が設定されるといった構成方 原理論と歴史・現状分析と両者の中間理論(段階 法が必要となるのではないだろうか。私が,「原 論・類型論)という,いわゆる三段階論を再確認 理論を…方法的個人主義に準拠するものだとす されつつ,次のように言われる。 るならば,対象を商品経済に限定することには積
「現実の経済は,それぞれの国や時代の特殊な 極的意義がみあたらない」といった趣旨のことを
条件一たとえば政治体制や制度や慣習や宗教や価 述べたのも,前者のような構成方法の方が思惟経
値観など一によってさまざまに特殊な資本主義的 済的ではないかという考え方に基づいてのことで
市場経済としてあるわけであるから,現実を純粋 あったのである。
次に,より下位レベルに属するかと思われる点 動への欲求という利己的な動機によって説明され について検討したい。 てきたのである。顕示法が「みたまま」の人間の
(2)自生的秩序のうち「方法論的個人主義」に 行動パターンの記述しかできないのに対して,内 もとつく「原理論」段階からは排除されるものの 観法は一見利他的とみえる行動の背後に利己的動 基準として私が挙げたものについて,山口教授は 機があり,利己的とみえる行動の背後に利他的動 三つの疑問を呈されている。第一は,「新田は個々 機がありさらにその背後に利己性があるというよ 人の動機が利己的でない点を排除基準にしている うな人間行為の複雑な重層性に,文学・心理学と わけであるが,ある集団の構成員が利己的動機に は異なる「方法論的個人主義」の角度から迫れる よってでなく,共同体的倫理的感情によって家族 という利点があるように思われる。
のためとか会社のために商品経済的利益の最大化 山口教授の第二の疑問は次のようなものである。
を追求する経済人的行動をとる場合は,原理論で 「逆に,最初の行動は利己的動機から出発した 扱うことができると考えてよいのではないか」 としても,その行動が繰り返されている内に,行
(同p179)というものである。 動のための費用の節約というような理由もあって,
これはそういっても差し支えないといえば差し その行動が慣習化し,やがて無意識的に規範化し 支えないが,厳密にいうと少し問題があるように てくるという場合もあるのではないかという問題 思える。まず,山口教授の「行動論的アプローチ」 である。その場合,この慣習ないし規範が何らか の具体的な中味がどのように考えられているのか の拘束力を持っていて,別の利己的行動の選択を という点である。個別経済主体の内面などわかろ 妨げる作用をするようなことがあれば,それは反 うはずもないから,ただ外面に顕れた選好と行動 利己的な慣習ないし規範に転じているのであり,
だけを記述するという顕示選好理論的方法をとる そのような自生的秩序は原理論から排除されるべ のであればここでいわれるとおりである。他方, きではないかと考えられるのである。このような ともかく想定された経済人というものは行動する 自生的秩序の具体例としては,貨幣が特定の使用 限りにおいて必ず利己的動機に基づくものと前提 価値の商品に慣習的に固定されて,市場経済の構 して,主体の内面を内観して行動パターンを演繹 成員の行動を多少とも拘束する場合のことを考え 的に記述していくという内観法をとるのであれば, てみるとよいであろう。」(山口[1996]pp179一 主体が非利己的動機によって行動するということ 180)
は前提と矛盾することとなるわけである。ここか ここで「行動のための費用の節約というような
らは,どうやら山口教授は顕示選好論的方法を採っ 理由もあって,その行動が慣習化」したものにつ
ておられるらしいことが伺える。(この場合,山 いては,生成過程は「方法論的個人主義」で扱え
口教授自身,「原理論が対象とする世界」を構成 るので排除できないが,確立した状態では主体の
する「経済人は…たとえば個人的な市場経済的 主観にとって利己的行動の制約として意識される
利益に反しても集団的利益を優先する心情とか, 場合には排除されねばならないであろうというこ
伝統や慣習に拘束される習性とか,相互扶助的な とは,私自身も述べていたところであり,その通
倫理観とか,平等主義的な理念とか,その他さま りではないだろうか。ただし,商品経済的利益と
ざまな非経済人的側面が捨象された,思考実験的 一致する慣習・規範(「損して得取れ」「情けは人
に想定された人間である」p171といわれている のためならず」等)が「別の利己的行動の選択を
ことと矛盾しているのではないかということなど 妨げる」場合は,「反利己的な慣習ないし規範に
は些末な揚げ足とりにすぎないであろうが)。 転じている」とはいえないであろう。これはある
これに対して,内観法を徹底する立場からは, 利己的行動の選択が「別の利己的行動の選択を妨
利己的でない動機もさらに突き詰めれば利他的行 げる」場合と実質的に変わらないからである。
ところで,山ロ教授が「反利己的な慣習ないし の行動パターンに差異をもたらしているといわれ 規範に転じている」具体例として,「貨幣が特定 るものであり,まさに「時代的・地域的」な制約 の使用価値の商品に慣習的に固定されて,市場経 条件の違いが経営者に「行動の期間として長期を 済の構成員の行動を多少とも拘束する場合のこと 考えた場合,短期を考えた場合」の違いをもたら を考えてみるとよいであろう」とされていること すものの例となる。それ以外の景気局面,産業部 は理解しにくい。というのは,自生的秩序の具体 門間の固定資本比率の相違,同一部門内の生産条 例として,国法なり独占的金融機関による貨幣供 件の優劣については,具体的にどのような多様な 給の管理や独占を想定されているのか,純粋資本 行動類型が考えられているのかがわからないので 主義社会の「慣習」をいわれているのか,どちら なんともいえないが,それらについては個別資本 でもないものを考えておられるのかがよくわから はどのような状況におかれても利益最大化行動を ないこともあるが,いずれにせよ私は貨幣が金の 求めているという「抽象的な論じ方ができるにす ような特定の使用価値に固定する「慣習」も,費 ぎない」のではないだろうか。逆に,それらの多 用論的アプローチから商品・貨幣経済的原理論で 様な相違に直面した産業資本がどのような行動類 も説きうる「慣性」の問題として十分に処理が可 型に促されるかは,「時代的・地域的」に異なる 能だと考えている。つまり,主体にとってのコス 制約条件の如何にかかっているように思われるの
トが慣性を越える破断界に達すれば,たちまちに である。
して金も貨幣の座から滑り落ちると考えているの
である。 第2節 商品経済と自由・公正・国家権力につい 山口教授の第三の疑問は次のようである。 て
「新田のもう一つの方の排除基準については行 1 純粋資本主義社会と国家権力
動原理(動機)は一元的であるが,制約条件の如 次に,山口教授の積極的な主張についての検討 何によって行動が多様化するという行動の中には, に移りたい。
必ずしも原理論から排除しなくてもよいのではな (1)山口教授は,中間理論の「課題が類型の抽 いかという問題があるように思われる。…利益 出であるということは,これらの要因がある国民 最大化行動はきわめて多様な現れ方をすると考え 経済なりある範囲の地域経済なりで,ある期間 られる。…これらは『時代的・地域的』な『実 (二〇〜五〇年ぐらいか)継続して作用し,影響 証研究の対象』とする前に,原理論の内部での考 を及ぼしている場合をとってそれらを類型として 察対象としてよいものではないかと考えられるの 確定する作業が行われなければならないというこ である。」(山口[1996]pp180−181) とである」(同p173)とされる。ここでの素朴な 私はまさに「制約条件の如何」の相違は「時代 疑問は,なぜ「ある期間」が20〜50年とされるの 的・地域的」な「実証研究の対象」にほかならな かということであろう。たとえばコンドラチェフ いと考えているが,それに対して山口教授は原理 循環のようなことや二世代一単位ということなの 的な次元でも産業資本の利益最大化行動に,長期・ であろうか。
短期,景気局面,産業部門間の固定資本比率の相 また,20〜50年程度の期間ということだと,宇
違,同一・部門内の生産条件の優劣などによって相 野における重商主義段階の始点である17世紀から
違する多様な類型があるのではないかとされるわ 第一次大戦に至るまででもざっと6〜15ほどの時
けである。このうち長期・短期の違いは米国型の 期区分が,さらに今日までだと8〜20ほどの時期
株式会社と日本型の株式会社の相違としてよく指 区分が行われるということになる。しかも,山口
摘されてきた事柄を連想させられる。その場合に 教授の場合は宇野や世界資本主義論者のように
は,株式をめぐる「制約条件」の相違が日米企業 「世界史的発展段階」というのではなく「ある国
民経済なりある範囲の地域経済」ごとに考えられ 近年の新制度学派は不完全情報のもと限定合理性 るようであるから,同時代でも空間的に複数の類 をもった個人の世界と考えるようになってきてい 型化がなされなければならないであろうし,さら るというように,さまざまな幅がありうることが に,「分析者の側も,現実に発生している問題一 問題となる。むろん,一貫して「流通の不確定性」
たとえば資源問題,環境問題,地域経済圏問題, を主張されてきた山口教授にあっても不完全情報・
宗教戦争の問題等々一にたいする個人的関心ない 限定合理性下での「方法論的個人主義」が考えら し価値判断に規定されて,分析対象とすべき諸要 れているといえよう。
因の選択・組み合わせは多かれ少なかれ主観的・ ところが,この問題は,少なからぬ意味をもっ 恣意的にならざるをえない」(p174)といわれる ている。というのは,完全1青報・無制限合理性の のであるから,同じような対象像に対しても,数 世界では,個々人が自由・勝手に動き回れば予定 十種類程度の視角による類型化の相違がありうる 調和となる世界であるが,不完全情報・限定合理 こととなろう。こうなると全部合わせると相当の 性の世界となると,ストレートにそうはいってい 数の類型が必要になるのではないだろうか。 られなくなる。だからこそ制度や組織の問題が新 宇野に限らず段階論や類型論的な思考法がもつ 制度学派においては(恐慌が原論では)クローズ 効用の一つは,「無限に多様で複雑な現実」をあ アップされてくるのである。「流通の不確定性」
る種ナタでばっさりと切ってみせるような大雑把 を強調されてきた山口教授が,原理論の登場人物 な思惟経済性にあったはずである。歴史的現実の は新制度学派的にしながら舞台設定は依然として 無限複雑性の前で一時期神経症に陥ったドイッ歴 新古典派ミクロのままでよいとされるのには,い 史学派時代の経済史家マックス・ウェーバーが, ささかの違和感を禁じえない。「国家」というの 苦心して編み出したのが「理念型」の方法であっ は曖昧な言葉であるが,それで含意されているこ た。そしてその「理念型」に対して独特の「唯物 とのすべてがただちに捨象されるべきだといって 論」理解から挑戦したのが宇野の過剰に客観主義 よいのかどうかである。そこで問題は,山口教授 的で経済中心主義的な「段階論」であったはずで が「国家」ということで何を表象されているかに あった。 なる。そして,真空状態に比喩される「方法論的
(2)次に,山口教授によると経済原論における 個人主義」の世界で展開される分化・発生論的な 純粋資本主義社会は,「落体運動の法則を純粋に 社会形成は,はたして市場経済だけに限定される 観察するために,観察者が真空状態の実験装置を のか否かという問題へと関連する。
作って落体にたいする重力以外の作用を除去する (3)そこで,「国家」について山口教授がどの 例」にたとえられるが,「私はこれを経済人のみ ように考えておられるのかをみてみよう。
で構成されている,あるいは同じことであるが, 「私的所有の侵害とか契約の不履行といった犯 人間の経済人的行動(市場経済的利益の最大化行 罪的行為にたいする警備・処罰を行うための暴力 動)のみで編成されている市場経済社会として考 的装置」による「市場経済の安全や秩序の確保と え,そこでは国家は捨象されなければならないと いうことであれば,必ずしも国家を必要としない 考えている」(山口[1996]pp 188−189)とされ であろう。市場経済としての経済人たちが私的に る。 費用をかけて処理しうる問題である。もちろん,
ここで真空状態に比喩されるのが経済人的行動 個々の当事者に代わってこのような警備・処罰の
様式のみで編成されている世界(「方法論的個人 行為を集中代行することに資本を投じて市場経済
主義」の世界)だとすると,たとえば,新古典派 的利益を追求する経済人がいれば,個々の当事者
ミクロ理論は完全情報のもと無制限合理性をもっ は費用の節約のためにそのような資本に警備・処
た個人の世界としてそれを考えてきたのに対して, 罰というサービスの代金を支払って,それらを委
託することはありうるであろう。」(p189) れた案件については民間の専門的司法サービス会 山口教授は信用論において債権債務関係が成立 社がやっても,どこも均質化された「判定」商品 する条件を厳密に考えられ,固定資本をもつ産業 をアウトプットするようにもなりうるのであろう 資本でなければ商業信用を受けにくいこと,発券 が,暴力的な執行過程の方を民間会社(つまり傭 銀行信用が確立する前に現金貨幣の預託一貨幣 兵)に委託するなどということは,「公正」な執 取扱資本,預金銀行一を説くことはできないこ 行をどこが担保するのかという,およそ法治国家 とを強調されてきた。それは,債務者が持ち逃げ の実質を自己否定する問題を伴っていることとな する目先の利益よりも契約関係を遵守する方が利 るのではないだろうか。
益が大きいという条件があって初めて債権債務関 しかも,山口教授はそのような「判定」機関は 係が成立するのだということをきわめて厳密に考 一般的に「国家」と呼ばれているものよりも限定 えられたからであろう。このような発想からすれ 的なものにすぎず,原理論から排除すべきなのは ば,「国家」だとか「共同体」だとか「お上」だ 「経済人としての当事者間の自由かつ公正な商品 から現金貨幣を安心して預けられるか,身体・生 交換・売買取引にたいして権力的に外的な力を加 命・財産・自由を安心して預けられるかという問 えて,それがない場合に比べて何らかの変容を与 題はつねに回避できないわけである。つまり, えるような国家」なのだといわれるわけである。
「暴力的装置」を他者に安心して委託するという しかし,そのような国家と暴力執行の民間会社と 関係が,安易に導入されてよいものであるかどう はどう違うのであろうかがわかりにくい。ともか かは疑問なのである。 くも,このように「国家」の意味を規定されたう
「不正の判定ないし処罰の正当性の判定の問題 えで,次のように結論される。
つまりいわゆる裁判ないし判決」の「執行そのも 「この理論モデル[原理論のこと一引用者]の のはそのような業務を専門とする資本に委託でき 最低限の要件は,経済人による商品取引の関係へ ると考えられるから,市場経済の安全と公正な秩 の自由な参入とそれからの自由な退出を阻害する 序を維持するために必要となる非市場経済的な機 ような人為的な力が加わっていない,あるいは当 関としては,非経済人としての判事によって構成 事者間に不均質な力関係を発生させるような人為 される裁判所がありさえすればよいわけである。・・ 的な力が加わっていないということであると考え
・しかし,一般的に国家と呼ばれているものはこ ている。この基礎類型の長所は自由という一元的 のような限定的なものではないし,…私が原理 原理で構成されていて,規定要因が単純なところ 論から排除すべきと考えているのは,経済人とし にある。…純粋型を基準にすることによって不 ての当事者間の自由かつ公正な商品交換・売買取 純な現実を独自的な現実たらしめている具体的要 引にたいして権力的に外的な力を加えて,それが 因が確定できることになるのである。これが人為 ない場合に比べて何らかの変容を与えるような国 的な力の代表としての国家を純粋資本主義論とし 家のことである。」(pp189−190) ての原理論から排除する理由であり,国家を排除 しかし,「不正」と判定することは別に国家で された純粋資本主義論という方法の効用であると なくともできる。勝手に「不正」と判定して勝手 考えているわけである。」(p191)
にゲバルトを行使しても一法治国家でないのな 「不特定多数の当事者が任意に参入・退出でき ら一お構いなしであろう。ただ果てしもなく, る自由」(p190)。
為したことは返ってくるという争闘の所業(カル 国家権力すなわち「人為的な力」は原理論から マ)の泥沼に陥る代償=コストを背負うことにな 除外されるべきだというわけである。無論,この るだけである。逆に高度に発達した法治国家で実 ような帰結自体は穏当なものであろう。しかし,
定法が前提とされていれば,比較的パターン化さ 「人為的な力」とは何であろうか。それは,個別
資本に委託しうるとされた「警備・処罰を行うた 2 私的所有と自由・公正について
めの暴力的装置」とどのような関係にあるのであ 「商品」とは交換される財・サービスであるが ろうか。あるいは,個別経済主体の自由な経済活 財・サービスが交換されるためにはそれに対する 動という「人為的な力」とはどのような関係にあ 私的所有が確立していなければならない。では,
るのであろうか。 私的所有とはなにか。周知のようにマルクスはこ また,そうした「人為的な力」の加わらない こで奇妙にも堂々巡りに陥ってしまっている。ブ
「自由という一元的原理で構成」された世界,「自 ルジョア的生産関係の反映が私的所有であり,ブ 由かつ公正な商品交換・売買取引」とはどのよう ルジョア的生産関係とは生産手段を私的所有する なものであろうか。そもそも「自由という一元的 ものだというのである。
原理」で構成される市場取引と,「自由かつ公正」 私的所有については,二つの系統の考え方があ という二元的原理をもった市場取引とが同一視さ る*3。第一はホッブスに代表されるもので,万人 れていることには問題があろう。「公正」とは単 が闘争し合う「自然状態」が克服される社会契約 に「自由」ということだけからは出てこない原理 によってはじめて私的所有権も社会的に承認され である。 るというものである。第二はロックによって代表 さらに,「自由という一元的原理」といっても, されるもので,人間は神・自然の恵みによって天 いわゆる内面的精神の自由から政治的言論・活動 賦の諸権利を有しており,身体への私的所有はそ の自由,そして経済的自由まで多様な内容がある の最も基礎にあるものである,そしてこの身体を わけだが,具体的には「自由かつ公正な商品交換・ 労して得たものには当然にして私的所有権がある 売買取引」,「不特定多数の当事者が任意に参入・ というものである。「自己労働の自己所有」とい 退出できる自由」すなわち経済的自由の世界とさ うのがこれである。
れている。つまり「人間の経済人的行動(市場経 みられるようにロック流の考え方は,人間に都 済的利益の最大化行動)のみで編成されている市 合のよい「神」への解釈以外には何の根拠も与え 場経済社会」である。だとすると,このような自 られてはいないので(ロック[p32]は動植物も 由な経済活動を維持するためにも,「人為的な力」 「神」が人間に与えた賜物だと身勝手な断定を平 が加わらねばならないわけである。いうまでもな 気でしている),全くの不信心者にも(多分)本 く,まったく自由に取引を行うならば当事者間に 当の信仰者にも理解不能のきわめて人間中心の手
「不均質な力関係」が発生することも自由であり, 前勝手なものにすぎないのだが,それがゆえに文 そのようになることを抑制しようとするならば 字どおり「近代西欧的理性」の中核を形成してき
「人為的な力」が必要だからである。 たものである。むろん,マルクスが原蓄論で批判 ●
アのようにみてくると,「人為的な力」が加わっ しようとしたのも,究極的にはロック流の「自己 ていない「真空状態」なり商品経済なりの意味す 労働の自己所有」のイデオロギー的な私的所有論 る所を明確にしておく必要があることになる。つ にほかならなかった。
まり「真空状態」に比喩される状態とはどのよう ロックでは,万人が狼のような状況下で身体の
な状態であるか,また「自由」かつ「公正」,「人 自由すらも自分の力能以外には保障してくれるも
為的な力」=権力,「商品経済」,個人の利己的行 のもなく「自己労働の他者所有」となったとして
動・功利的(効用的)行動・合理的選択,といっ も,そうした状況はただイデオロギー的に否定さ
たことどもが何を意味しているかということが問 れるだけなのである。私的所有について論理的根
われなければならないのである。次にそれらの問 拠を与えられるのは,社会契約によってはじめて
題について考察してみよう。 私的所有は確立するというホッブス的な考え方で
ある。それは,ホッブスがおかれた特殊な歴史状
況に対応した強権的独裁政府への容認論とは無関 りに自由という一元的原理だけで構成され,自由 係である(それにしても,「帝国主義列強に包囲 を制限するものが何もない状態だとすると,そこ された社会主義の祖国」の強権的独裁化を心の中 は万人が万人に対して闘争する弱肉強食的な仮想 ですら一度も容認したことのない進歩的知識人だ 世界となる。仮想的な自然状態においては一新 けがホッブスに石を投げられたのではなかったの 古典派ミクロ理論のように非現実的な経済主体と か)。 それを取り巻く非現実的な完全情報環境を想定す このような考え方においては,万人が闘争し合 るならば予定調和的になるだろうが一,各個体 う「自然状態」では財・サービスようするに財産 は絶対無制限の自由をもっているが故に,かえっ だけでなく身体・生命すら確実に安定しうるもの て自らの自由を保障してくれるものは自ら以外に ではなく,各人がその自己防衛のために膨大なコ は何もない状態におかれている。自然状態におけ ストを投入しなければならないという仮定的前提 る自己労働は確実に自己占有に結びつくとは限ら がおかれる。いわば身体・生命・財産を自分が排 ず,たえず強奪の危険性を帯びている。財貨を交 他的に享受するためには膨大な排除費用がかかる 換する取引も,両当事者間でスリリングな関係の のである。そして社会契約によって私的所有を相 中で行われ,少しでも隙を見せたら代価なしに奪 互承認することはそうした膨大な排除費用を著し い取られかねない。価値形態も,商品にとってだ く節減させる。もちろん,どのような「社会」を けでなく交換主体にとっても命懸けなのである。
契約するのかということはこの限りでは含まれて そのような中で価値形態から貨幣形態が形成され おらず,ただちに強権的独裁国家が要請されるこ たり,利害関係が固定的な諸個体の間で(固定資 とにもならない*4。また,現実の社会は「契約」 本をもったもの同士が一つの生産系列をなしてい によって作り出されたのではないといった類の批 る場合など)シンジケートが形成されうるのであ 判も,抽象力による発生史的推論に対しては筋違 るが,後者の場合にそのシンジケートの内部に いの批判でしかない*5。 「信用」取引が成立しうるのである。しかし.こ
安定した法治国家を前提すると,私的所有にじ のようにして成立しうる交換取引にも信用取引に つは膨大な排除費用が投入されているということ も膨大な取引費用を要するし,自己労働の自己占 はみえにくくなっている。それ故,「商品」概念 有のためには膨大な護衛費用を要するために野蛮 の基底にある私的所有のとらえ方がじつは排除費 な経済水準に押し止められるのが自然状態の特徴 用(加うるに混雑費用)を起点として,費用一効 とされるが,それはある面では国際交易や純粋資 用論的になされねばならないということが見失わ 本主義社会における経済活動の特徴を示すもので れてきた。ヘーゲルやマルクスの議論もそういう もある。
傾向が強い。むしろ,近代経済学やコースや「法 さて,自然状態では膨大な取引費用を要するた と経済学」において公共財・外部効果・社会的費 めに経済活動が萎縮しているとすると,取引費用 用などの議論を通じて私的所有の費用性の問題も を節約するためには自己労働の自己所有や交換取 逆照射されてきたきたといえるであろう。 引・信用取引に関わるさまざまなルールを「社会 商品とは私的所有される財・サービスである。 契約」によって確立し,ルールを破ったものに対 そして,私的所有とは,財・サービスに対する排 しては実力行使による制裁を科しうる執行機関を 除費用の投入によって個体的消費が実現されてい 設けることが有効な方策となる。このように,仮 る「自然状態」から法治国家状態への移行によっ 想的な自然状態から社会契約への分化・発生を原 てはじめて社会的に相互承認されたルールの中で 理的に考えることができるわけである。
の権利となるのである。 そして,社会契約によって確立した私的所有に
さて,山口教授のいわれる「真空状態」が,か 基づく商品交換が行われれば,そこではその社会
のルール体系に応じた公正の観念が成立すること ような市場経済は原理論の対象となりうるかとい になり,「制限された自由と制限する公正」とが う問題があるわけである。」(山口[1996]pp187一 並立することになるわけである。したがって, 188)
「公正」とは究極的には仮想的な社会契約に基づ 問題は,純粋資本主義社会を「自然状態」とし く「人為的な力」に担保された規範原理なのであ たとき,そこに商品・貨幣関係が展開されうるの る。(ただし注意すべきことは,ホッブスの例に と同じように,「社会契約」(国家と法的主体の同 もみられるとおり社会契約によって契約される社 時成立)が展開され得てしまうということである。
会の体制には多様な幅がありうるということであ そうなると,「自然状態」は「自然」ではなくなっ り,個人主義や自由主義や資本主義市場経済など て「国家状態・社会状態・法治状態」へと変成さ を基調とする社会がただちにそこから論理的に出 れることになり,「純粋資本主義社会」は「純粋」
てくるものではないということである。) ではなくなって「公共領域(公共機関一公民社会)
マルクス以来,「商品」や「私的所有」が原理 /私的領域(企業組織一市場経済)」へと変成さ の前提とされていたために,「公正」のルールも れることになってしまう。原理的な分化一発生に 曖昧なまま原理の背後に潜伏する形になることを よってこのような変成が生じると,原理論は自己 避けられなかったのである。むしろ,「私的所有」 崩壊することになる。この点をどのように考えた や「商品」そのものが「公正」ルールとともに分 らよいのか。山口教授が原理論から「人為的な力」
化・発生してくるような「真空状態=自然状態」 は排除しなくてはならないとされたのも,このよ をこそ出発点として措定すべきなのである。だが, うな文脈で理解されねばならないであろう。
そこには二つの問題が派生してくる。一つは,公 この問題に関する現段階での私自身の考えは,
正ルールや執行機関の確立した社会契約後の法治 変成までは原理的に説けるものとして説いておく 状態が分化・発生してしまったときには,純粋に というものであり,山口教授が指し示しておられ 自由な主体からなる原理論はそのままでは成立し る回答に同意である。すなわち,それは次のよう なくなるのではないかという問題であり,二つは, なものである。
「経済人」とは私的所有と商品経済の確立したと 「しかし,組織化が大規模化を意味し,市場に ころでの主体なのか,それとも「真空状態=自然 おける自由な取引活動にたいして競争制限的ない 状態」一般での主体なのかという問題である。そ し権力的な規制力をもつことがありうるとすれば,
れそれ,次項と第3節で考察していくことにする。 このような組織の行動は原理論の取引主体の行動 論からは排除されなければならない。この行動も 3 原理論と公正・権力 類型論としては論じることができるとしても,一
じつは,山口教授は筆者に対して次のような問 義的な関係を形成するものとして論じることがで 題提起を与えられていた。 きない問題であるから,原理論の方法的前提にな
「すなわち,利己的諸個体が一定の初期的条件 じまないのである。」(p185)
のもとで利己的に行動した結果として初期的条件
そのものが変化し,諸個人の行動様式も変容する 第3節 「商品経済」と「経済人」について
ということがありうるのではないかという点であ ここでは仮定される「経済人」とは,法治国家
る。それがたとえば組織的独占の形成とか強権的 的な私的所有の確立した所での商品経済の主体な
国家機関の成立といった事態であった場合,それ のか,それとも「真空状態=自然状態」一般での
らが必然的に分化・発生したものだとしても,そ 主体なのかという問題について考察してゆく。な
の結果として自由競争という初期的条件の変化と お以下では,商品経済・貨幣経済・市場経済は全
それに対応した諸個人の行動の変容が生じている く同一の意味内容をもった言葉として用いている。
その理由は,財・サービスは直接に他の財・サー に非常に特殊であろう。それは巨大な人口集団と ビスと交換されることが困難なので貨幣による商 高度な分業体制とを歴史的条件とするといえよう。
品の購買という形態を通じて間接交換が行われる そのような意味において,はじめて商品交換は ようになるために「商品経済」は同時に「貨幣経 「外来的」なのである。
済」でもあり,そして貨幣で商品を買う場所のこ また,たんに利益だけを目的とする「儲け主義1 とを市場というのだからそれらはまた同時に「市 は商品経済であろうと共同体であろうと各主体の 場経済」でもあるからである。 貧欲な性格と近視眼的な知性の程度の問題である。
さらに「商業主義」に対する非難は,芸術などの 1 「商品」の交換性向について ような本来自己の内面的要素が重視される領域で,
商品交換を問題とするとき,そもそも人間にとっ 他者からの利益を受ける交換目的のほうに重点が て交換性向はアダム・スミスがいうように本源的 いってしまうことに対する否定的な表現である。
なものなのか,それともマルクス,ポランニーが だが,そのようなことも何も商品経済だけの専売 いうように外来的なものなのかという問題がある。 特許ではない。どんな社会関係であっても他人の だが,マルクスやポランニーの言説は,財と財を 受けや権力者・富者からの寵愛を目的として何か 恒常的に交換する機会が特殊な場合にしか存在し を犠牲にせねばならないことはあるし,そのほう ないという程度の意味で外来的といっているので に比重をおく人々も常にいる。自分が生まれる以 なければ意味をなさないのではないだろうか。交 前の(だから実情を本当は知らない)「古き良き 換とは,財と財とではなく感情だとかサービス 時代」には,低俗な消費者におもねる必要はなかっ
(奉仕)だとかエネルギーだとかさまざまなもの たに違いない,という思いが「商業主義」に対す の交換に広げて考えれば,人間のみならず生命体 る憎悪を創り出しているにすぎないのである。だ のみならず物質界にまで一般的に存在する現象で が,その際には,権力者・富者というきわめて限 あることはいうまでもないことである。 られたパトロンしかいなかった時代には,たとえ もともと性分裂した生命体は,異性間の交換と ば芸術家だとか研究者だとかいった職業に就ける 世代間の一方的贈与の二つの軸をもつ基本的ユニッ チャンスさえどれだけ限られていたか,などとい
トによって生殖系列を構成している。人間社会の うことが看過されているようである。
最も基本的なユニットとなる核家族もそれであり, 一般的に言って交換とは,それが行われる以前 贈与原理と交換原理が組み込まれたものとしてユ よりも行われた後のほうがそれぞれの交換主体の ニットを形成している。その意味でも交換が「外 主観的な効用=功利性の効率性が高まるものであ 来的」というのは誤解の多い表現であるといえよ る。ここで効率性とは,目的や所与の条件が一定 う。 の場合には,その条件下で効用=功利性を最大化 少なくとも,サル以上の知的動物の交換に限れ し費用を最小化するような技術的・手段的合理1生 ば,(日本語的語呂合わせでいえば)交換は交歓 のことである。交換行為は一般的に効率性を最大 であり同感に基づいて可能となる。同感の原理に 化させるものである。ここでいう交換行為一般と
基づ ュ双方の合意が成立しなければ交換にはなら は,単に商品交換だけに限定されるものではない ないのである。その意味では,交換とは高等な知 ということが重要である。
性と感情の働きによるものであることは確かであ
る。人間はサルと違って社会環境をさまざまに変 2 「商品経済」と個人の利己的・効率的・功利 容させてきたから,さまざまな交換の機会という 的・合理的行動
ものを創り出してきた。恒常的に財と財とを交換 次に,「経済」といわゆる「経済人」とについ
するような社会というのは,その意味ではたしか て考察していこう。いうまでもなく「経済」には
二つの意味があり,一つは物質代謝であり,二つ には効率性原則が厳しく(増強的に)働き,余剰 は最小費用・最大効用二効率性である。この「経 部分にゆとりのある場合には効率性原則の増強性 済」の二つの意味が折り重なっていることはボラ が弛緩するという関係にあるといえよう。物質代 ンニー,宇野弘蔵,そして山口教授においても問 謝としての「経済」の主体は商品経済であろうと 題とされてきたように,複雑な問題を提起するも 非商品経済であろうと,最小費用・最大効用=効 のである*6。 率性を行動原則とすることにかわりはなく,必需
たとえば,山口教授は言う。 部分から解放されて余剰部分にゆとりができるほ
「経済人の行動原則というのは,…市場経済 ど効率性原則は加減され弛緩すると考えられるの 的利益の最大化であり,それはたとえば,できる である。
だけ安く買う,できるだけ高く売る,できるだけ
費用を節約し,できるだけ利益を大きくする… 3 効率性原則の強化と「資本主義経済」
といったもので,いわば一義的な,まぎれること 効率性原則とは,目的と所与の条件が一定の場 のない単純・明解な原則であるといってよい。し 合には,その条件の中で効用=功利性を最大化し たがってその限りで,経済人の行動によって編成 費用を最小化するような技術的・手段的合理性の される原理論の世界(=純粋な資本主義的市場経 ことであった。だが,商品交換一般は,一般的な 済社会)も一義的に決定可能な世界であるといっ 効率性の最大化をもたらすものと考えることはで てよい。」(山口[1996]p172) きるが,それ自体で自動的に効率性の増強をもた ここで山口教授が「経済人」的行動原則=「商 らすものとはいえない。効率性原則の増強が実際 品経済人」的行動原則と考えておられることは, に行われているとしたら,そこには目的と手段が
「人間の経済人的行動(市場経済的利益の最大化 転倒し,手段における効用最大化・費用最小化が 行動)」(p189)と明言されていることからも明 自己目的化した「効率性至上主義」が介在してい らかである。しかし,「経済」が「オイコス(家 るといわねばならないのである。ここで「効率性 政)」つまりは「生活のやりくり」といったこと 至上主義」とは,手段における最大効用・最小費 を語源としているのならば,当然そこには物質代 用を実現するために,元来の目的や所与の条件群 謝と節約・効率性の二重の意味が込められていた に改変を加えていこうとする動きのことである。
ことになる。しかし,商品経済の発展とともに節 それは具体的には,余剰部分の欠如感に由来し 約・効率性の面が前面にでてくると山口教授はす て消費を切り詰めることによって消費率を低め,
る*7。つまり,商品交換においてはできるだけ価 貯蓄率・投資率・蓄積率を高めていくというかた 格や費用の関係を有利にして効用を最大化しよう ちであらわれる。そしてそこにおいて,単なる
とするからであるというのである。 「商品経済」と区別された「資本主義経済」が重 だとすれば,人間は自然に対して重労働を行う 要な意味をもってくる。単なる商品交換に蓄積や ときには労力の節約や効率性を考え効用・功利の 競争へと駆り立てる要素が加わることによって,
最大化を考えないのであろうか。商品交換に関わ はじめて効率性の増強のために目的自体や条件群 る流通労働のときにだけ人間は効率性を考え,物 に改変の手が加えられていくのである*9。
質的自然に対する生産労働のときには効率性を考 「資本主義経済」あるいは「資本主義」的な商
えないのであろうか*8。牧歌的な南の国の楽園の 品経済・貨幣経済・市場経済とはどういうもので
住人と風土の厳しい北国の住人とを比べたほうが, あろうか。「資本」にも二つのニュアンスが分岐
非商品経済と商品経済を比べるよりも「経済」の している。もともとは「幹」を意味していわば
もつ二つの意味のニュアンスの差がはっきりとで 「増殖元本」ということであったから,生産財で
るはずである。つまり,必需部分ぎりぎりの場合 あろうと貯蓄貨幣であろうと「資本」たりえたわ
けである。そこで,農耕社会以降生産技術が少し 式が一方で技術を向上させたり迂回生産を深化さ でも発展して生産力が増殖すればそこには「資本 せたりし,他方で特産物交換のようなことが行わ 主義経済」が働いているという見方もできる。こ れることから次第に財・サービス・資産の市場1生・
れはボェーム・バベルク系の資本理論のとらえ方 流動性を高める方向に押し進めてゆくのだと考え である*1°。これに対して,貯蓄貨幣の増殖に力点 られることとなるであろう。このような考え方に をおけば,商人が商品売買を仲介して利鞘を取る 対して,あくまでも交換性向や流通形態は外来的 ことで貯蓄貨幣を投資して増殖させる循環運動が なものだと説得的に論駁できるのであろうか。
資本であり,この場合はいわば商人が活躍するよ まず,ボェーム流の「資本主義経済」概念を以 うになった商品経済・貨幣経済・市場経済が「資 下では混乱を避けるために「拡張再生産経済」と 本主義経済」だという見方もできる。宇野系の資 呼び,マルクス・宇野系の「資本主義」を「商業 本概念のとらえ方である。 主義」,「産業資本主義」を「産業主義」と呼ぶこ ただし,宇野の場合にもやや首尾一貫しておら とにする。これは行論の混乱を避iけるための一時 ず,「資本家的商品経済」というと流通過程が社 的措置である。
会的な労働・生産過程を包摂した産業資本主義的 農耕以前であれ農耕・家内手工業社会であれ広 な商品経済を指すことになっている。だがうるさ く拡張再生産は行われてきたが,そこには市場経 くはなるが,「商品経済・貨幣経済・市場経済」 済が介在していたとは限らない。つまり,商業主 のレベルと「(商人)資本主義的商品経済」と 義的市場経済や産業主義的市場経済だけが経済成
「産業資本主義的商品経済」とを区別するのが厳 長や資本蓄積を行うのではない。今期よりも来期 密であったであろう。そして,ここに至ってよう は豊かになりたいという願望が存在するところに やくボェーム系の「資本主義経済」との接点もで は拡張再生産への動力があるのである。そして,
てくるわけである。 このような拡張再生産へと動機づけられた経済で ボェーム系の資本概念は生産財に引きつけられ は,その目的のために生産・消費の活動を効率化 すぎているようにみえるが,自然経済での資本= しようとするであろう。拡張再生産経済において 生産財は流動性のまったくない資本=生産財であ は生産元本の増殖率が結局は消費のための所得の り,高度な証券市場の発展した経済での資本=生 増殖率を決定するから,そこでは増殖率の最大化 産財は流動性のある資本二生産財であるというよ が追求されて生産過程も消費過程も「締め上げら
うに,一貫してとらえられているとみることもで れる」であろう(労働強化と貯蓄率上昇)。それ きる。いわば,マルクス・宇野系では流通形態が は,拡張再生産経済の特徴なのであって,商品経 生産実体に外から覆い被さるかのようにとらえる 済の介在がある場合もない場合も共通に起こるこ のに対して,ボェーム系では生産実体の内部から とといえよう。
生産財をも含む資産の流動性が高まってゆくとと 逆に,商品経済・貨幣経済でさえあれば,そこ
らえられるのだといってよい。流動性とは市場1生・ にかならず蓄積衝動や拡張衝動が生ずることとな
交換性・流通性にほかならないから,流通形態は るのか,ということには明確な論証はない。アダ
生産実体の内部から滲み出てくるものだと考えて ム・スミスは拡張再生産のためには分業が有利で
いるのと同じことになる。 あり,そのためには市場経済を自由放任に委ねる
たんに商品交換だけでなく,物質代謝一般とし 方がよいとは考えたとしても,市場経済がかなら
ての「経済」にも節約・効率性は排除できないの ず拡張再生産への衝動を必然化すると考えたかど
であったが,物質代謝の生産力を高めようとして うか。マルクスの場合も,貨幣蓄蔵衝動を気の狂っ
ゆくこと一般が「資本主義経済」だと表現される た資本家と呼び蓄蔵貨幣が蓄積衝動を呼び醒ます
と,そこにおいては主体の節約・効率性の行動様 ことは指摘したものの,それとストレートに高利
貸資本や商人資本の蓄積衝動が結びついているの 市場における商品と貨幣の交換はなぜ行われるの か,さらには産業資本家の場合はどうかなどは明 かというと,ある財・サービスが自己の手許にあっ 示的ではない。 ても効用のない余剰・余分となっているというこ
たしかに,消費欲望であれ蓄積衝動であれビジ とによっているわけであろう。そのようなものを ネス志向(他人より忙しく動き回ることによる自 交換に出す場合,たしかに主体は「効用最大化」
己表現の欲求)であれ,何らかの社会条件が呼び 「費用最小化」の行動原則に基づくとしても,何 醒ますものであることはそうであろうが,商品経 をもって「効用最大化」「費用最大化」とみなす 済・貨幣経済・市場経済といった比較的単純かつ かということである。これも一概には言えない。
抽象形式的なシステムが呼び醒ます素なのであろ 「安く買って高く売る」といったことにエネルギー うか。消費欲望や蓄積衝動をそそる対象物が市場 を注ぐよりも,そこそこの交換条件で交換してお に商品や貨幣として存在するということが呼び醒 けばそれが「効用最大化」であり「費用最小化」
ます触媒となるということは言えるが,人間の欲 であるという場合も少なくはないのである。 ㌧
望にとって対象物としての富や使用価値が問題な つまり,市場経済だから締め上げるのが必然だ のであって抽象的形式としての市場が問題なので ということは出てこないのであって,非市場経済 はないだろう。つまり,市場経済のもつある種の の場合と同様,拡張再生産経済であることが市場 街示的効果・ショーウィンドー効果によって,さ 経済においても「締め上げ」を強化する最大の要 まざまな具体物や具体的関係への欲望が駆り立て 因なのではないかと考えられる。市場経済におい られるということまでしかいえないであろう。そ て「締め上げ」の緩い企業が競争に敗れて淘汰さ れは人間の側の趣味や感受性や修行のステージに れてしまうことになるのも,拡張再生産経済にお よっても異なるだろうし,また非常に物質的財貨 いて厳しい生産拡張競争が行われているためにシェ に満ちあふれた生活環境に馴れた人間にとっては アが奪われたり,不断の技術革新で費用価格条件 大きな意味をもたなくなってもきうるであろう。 のハードルがどんどん高くなったり,さらには新 市場経済が拡張再生産への衝動を呼び起こすとい 製品開発などのイノベーションによって産業構造 うのは,さまざまなケースの中の一つを取り出し そのもの消費嗜好構造そのものが変化して旧来の て言っているにすぎないのである。むしろ,市場 商品に携わる部門が急激に消滅を余儀なくされた 経済に触れる前から欠如感が強くあったところに, りするからである。
市場経済によるショーウィンドー効果が与えられ 拡張再生産経済となるかどうかは,生産・消費 ると拡張再生産衝動に火がつくというのが一般的 規模の拡張への欲求や富の蓄積への衝動によって な実状であろう。 投資率・貯蓄率が上昇するかどうかで決まる。そ
拡張再生産衝動や蓄積衝動というのは市場経済・ れら拡張欲求・蓄積衝動,投資率・貯蓄率への上 商品経済・貨幣経済とは独立的にあるのであって, 昇圧力は市場経済であるか非市場経済であるかに 後者は触媒となって促進することはあっても自ら 関わらず人間存在の内部に響屈していると考える が前者を生み出すわけではないのである。だから ほかはない粗。ただ市場経済はそうした欲望を実 こそ,商品経済とは無縁な自然経済であっても営々 現するための最も有効な手段の一つとなるにすぎ と拡張再生産のための努力が重ねられてきたとい ないのである。有効な手段であるからこそ,同時 えるのである。 にまた人間の内部に鯵積していた欲望を刺激する
また,商品経済・貨幣経済・市場経済でさえあ ことにもなるのである。「人間は解決可能な課題 れば労働・生産過程は締め上げられるといえるの だけを提起する」(マルクス)からである。
か。たとえば,はじめから何かを販売しなくては このように人間の,あるいは生命体の根源的欲 自己の再生産ができなくなった社会でない場合の 望としての蓄積衝動・拡張衝動が貯蓄率・投資率
一