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価値形態論と物神性論

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(1)

第 1 節 資本形式と「価値」概念の自 立化

商品、貨幣が価値という対象性をもってい るということは、必ずしも自明のことではな い。そもそも、貨幣が価値の自立的姿態とさ れるためには、価値概念そのものが貨幣から 自立化していなければならない。また、その ような価値なるものが存在して、はじめて商 品に価値があるということもできるようにな る。

したがって、商品だけをいくらひねり回し ても、そこからは交換比率、価格としての価

値形態しかみえてこない。それらの背後に「共 通の第三者」があるはずだといっても、それ はたんに便宜的なものであり、思惟的抽象の 産物でしかない。また、貨幣だけをいくらひ ねり回しても、貨幣そのものが価値の自立的 姿態として商品に対峙する姿からは、貨幣=

価値であり、価値なるものの対象性は貨幣の 別名でしかないことになる。

このことが、ベイリーの価値相対主義から 近代経済学に至る考え方──「価値を何かし ら内在的・絶対的なものとみなす想念が生じ たのは、他の諸商品ないし貨幣との恒常的な 関連というこの事情からである。」*1──を

価値形態論と物神性論

─廣松渉、柄谷行人による解釈の批判的再構築

─廣松渉、柄谷行人による解釈の批判的再構築

─ ─

Theory of Value-form and Theory of Fetishism:

Criticisms and Reassemblies of Interpretations of the theories by Hiromatsu Wataru and Karatani Kojin

新 田   滋

抄録

本稿は、「価値」なるものが、形而上学的あるいは物神崇拝的に存立する商品物神、貨幣物神の 機構を解明することを主な課題とする。資本主義的な富は、資本循環における諸形態として貸借対 照表に表される。そこに資産価値なるものが現れる。このような抽象段階になってはじめて、商品 からも貨幣からも分離された価値なる対象性が社会的抽象の産物として実体化されるに至る。資産 価値の現象形態である商品の価値形態、貨幣形態、資本形式は、廣松渉がいうように「抽象的人間 労働−商品価値」という 物象化的に倒錯 された共同主観的な関係構造として存立している。

しかし、交換関係は非対称的なものであり商品は貨幣への「命がけの飛躍」につきまとわれている。

貨幣物神を括弧に入れられると考えるところに、古典派・新古典派理論、ひいてはロック的な「自 己労働の自己所有」というアングロサクソン的な私的所有観のイデオロギー的倒像が成立するので ある。

※本稿は、新田滋[2010年]「商品・貨幣・市場形式の生成」の続篇である。

*1 Bailey, Samuel[1825]p.8. サミュエルベイリー[1947年]32頁。ただし、訳文は廣松渉[1974年]、

88頁/99-100頁による。

(2)

もたらす所以ともなっているといえよう。

それにもかかわらず、現実の資本主義的市 場経済において、商品、貨幣が、商品、貨幣 そのものからはあたかも幽体離脱するかのご とき価値を有しているという観念が、いわば

「民衆的先入観 Volksvorurteil」(『資本論』第 一巻、原著頁数、S.74)をなしているのも事 実である。

このことは、商品、貨幣のレベルでだけみ ている限りでは解決のつかない問題である。

以下にみるように、価値概念の自立化は、資 本循環の形式においてのみ可能なのである。

「貨幣の資本への転化」と「価値」概念の自 立化

マルクスの価値形態論において明らかとさ れているのは、等価形態の具体的かつ抽象的 な使用価値という二重性格を、貨幣形態その ものが体現するようになったということで あった。また、マルクスのいう「貨幣として の貨幣」における蓄蔵貨幣、とりわけ「致富 手段」は、発生論的にだけみたときには、い まだたんなる貨幣そのものの蓄蔵を意味して いるにすぎない。この貨幣は「価値の自立的 姿態」であって、貨幣という現物形態と「価 値の自立的姿態」とはいまだ不即不離の状態 にある。

だが、資本形式においては、貨幣資本形態 そのものからも分離され自立化され、より抽 象化された貨幣資本価値なるものが成立する ようになる。マルクスはいう。

「[S.168]商品の価値が単純な流通におい てとる自立的形態──貨幣形態──は、商品 交換を媒介するのみであって、運動の最終の

結果においては消え失せる。これに反して、

流通GWGにおいては、商品と貨幣は ともに、価値そのものの異なる実存様式とし て──すなわち貨幣は価値の一般的な実存様 式として、商品は価値の特殊ないわばただ仮 装しただけの実存様式として──機能するに すぎない。[S.169]価値は、この運動のなか で失われることなく、絶えず一つの形態から 別の形態へ移っていき、こうして一つの自動 的な主体に転化する。自己を増殖しつつある 価値がその生活の循環のなかでかわるがわる とる特殊な現象形態を固定させてみれば、そ こで得られるのは、資本は貨幣である、資本 は商品である、という説明である。しかし、

実際には、価値はここでは過程の主体になる のであって、この過程のなかで貨幣と商品と に絶えず形態を変換しながらその大きさその ものを変え、原価値としての自己自身から剰 余価値としての自己を突き出して、自己を増 殖するのである。」(『資本論』第一巻第二篇第四 章「貨幣の資本への転化」)

同様のことは、宇野弘蔵[1950/52年]

『経済原論』においても明示的に指摘されて いる*2

「[51頁]……資本となると、それは明ら かに資本価値が商品、貨幣、さらにまた生産 要素という三種の形態に変態するものとな り、そのいずれの一つをとって資本ともいい 得ないことになるのであるが、商品の売買で は、一商品の連続する形態転換の過程とみる ことは出来るにしても、資本価値の場合と同 様な意味では変態とはいい得ない。……価値

*2 マルクスは『資本論』第一巻第二章において、「貨幣の資本への転化」を論じたが、しかし、このよう

な論理展開は、資本概念がいきなり産業資本概念とされてしまう欠陥をもつものであった。これに対 して、宇野は、貨幣通流WGW'から商人資本形式GWG'への転化を論理的に確定し、し かるのちに、商人資本形式から産業資本形式GW…P…W'G'への転化を位置づけている。

(3)

はまだ資本のように運動体としてあるとはい えないのである。むしろ貨幣において商品に 対して独立に存在し得るものとなるに過ぎな い。」(宇野弘蔵[195052年])

ここでマルクス、宇野が指摘しているのは、

「価値」は商品と貨幣の交換においてはまだ 自立的な運動体となってはおらず、資本にお いてはじめて自立的な運動体となるというこ とである。

資本循環の一般的形式GWG'にお いて、はじめて、貨幣資本─実物資産(生 産仕掛資本・商品在庫資本)─貨幣資本の循 環における自己同一性が抽出されるようにな る。そこではじめて、貨幣の現物形態からも 抽象化された貨幣資本価値、資産価値という 概念が発生してくる。

資本形式は循環運動としてとらえられるべ きものであり、それは元手=資本が自己増殖 するかたちで元手=資本へと繰り返し回帰す るものである。したがって、それは、拡大再 生産的な螺旋循環の運動体として図式化され なくてはならないものである。このような見 地からみたときに、そこでは、あるときは貨

G、あるときは商品Wとたえず姿を変え

ながら、自己拡大しているものということ になる。そこでは、たんに貨幣資本の形態G のときにだけではなく、商品資本の形態W のときにも、同一の何かが増殖的な循環運動 を続けているものとみなさざるをえなくなっ てくる。

ここに、はじめて、貨幣資本価値の自立化 が起こるのである。それは、その時々の貨幣 資本形態や商品資本形態からは自立化した、

それらからは抽象化された何かである。

資産価値の対象的性格

「価値」概念が、ブルジョア・資本家等の 経済主体の当事者的な意識におけるものなの か、それとも古典学派の学知的な意識におけ

るものなのかという点は、マルクスの商品の 二重性論や価値形態論の叙述においては曖昧 である。実際、それはそのような次元ではま だ明確にすることはできないであろう。資本 循環形式にいたって資産価値が自立化するこ とによって、はじめて完全に当事者的な意識 の対象となることができる。

商品交換から流通手段まででは、価格と区 別される価値なるものは、ベイリーや新古典 派のように、悟性的抽象、本質直観が転倒さ れたものにすぎないようにみえても仕方がな い。資本循環こそが、商品、貨幣の現物形態 からの資産価値概念の自立性を完成させるの である。

同様にして、価値形態や価値尺度、流通 手段のようなレベルでの貨幣機能を観察する かぎりでは、貨幣はたんなる交換手段であっ て、瞬間的な交換の便宜的な手段とされるに すぎない。そこでは瞬間的な価格だけが問題 となるので、価値形態と価値との区別は不明 確といわざるをえない。一時的な交換モデル だけを対象とする近代経済学においてはニュ メレール財1(=一般的等価形態)があれば よく、価値概念が不必要な余計ものとみなさ れるのも同様である。

たしかに、ニュメレール財としての貨幣を 1として、貨幣だけで測られる商品の価格の 相対的交換比率だけでよいと、あえてするこ とは可能である。だが、実は、それは決して 思惟節約的ではない。時間的に均衡体系が変 遷していくので、通時的に「価値増殖」を考 えることは、無用にテクニカルな煩雑さを増 幅させてしまうからである。

第 2 節 価値の現象諸形態──価値形 態・貨幣形態・資本形式──── われわれは前節において、資本循環の形式 においてはじめて「価値」概念が、たんなる

(4)

思惟的抽象の産物ではなく社会的抽象の産物 として自立化することをみてきた。そこで次 に、あらためて「価値」という対象性、すな わち「価値対象性」が現象する諸形態である、

価値形態、貨幣形態、資本形式についてみて いくことにしよう。

※新田[2010 年]で確認したように、貨幣の生成 は論理的発生論として明確化された交換過程論に位 置づけられ、価値形態論は交換が成立した事後的な 価値対象性についての静態的な構造分析として位置 づけられるべきであると考えられる。

廣松渉は、価値、価値形態、商品物神、貨 幣物神の存立機制について詳しく分析した

(廣松渉[1974年]『資本論の哲学』。以下、引用ペー ジ数は、現代評論社=初版/岩波書店=著作集版の 順に記すこととする)。廣松哲学の体系、そこに おける初期マルクスと後期マルクスのとらえ 方、独特の弁証法理解、それらと密接に関連 したユニークな価値形態論の理解のあり方な

どにおいては、肯定的に学び取るべき論点と、

批判されるべき論点とがきわめて複雑に──

ある面では乱雑といっていい程に──錯綜し ている。そのため、その全体的な評価は到底、

一、二の論稿をもってしては不可能であろう。

残念ながら従来の廣松による宇野批判、宇 野学派による廣松批判は相互的な無理解にと どまり、それぞれの重要な問題提起に辿り着 けないまま不毛な挙げ足の取り合いに終始し てきた観がある。しかし、本稿では、乱雑に 錯綜した相互の誤解や異見に立ち入ることは 控え、廣松の価値形態論理解のうち、とくに 肯定的に受け取るべきと考えられる成果の部 分を積極的に取り入れたうえで、その成果部 分の限界をも指摘していくことにする*3。そ の際、第4節でみるように、柄谷行人の観点 が有益な示唆を与えているといえる。柄谷に ついても、廣松と同様のことがいえるが、本 稿では、ごく限定的に積極的な成果を援用し

*3 よく知られているように、廣松渉は、初期マルクスの自己疎外論は後期マルクスの物象化論によって

止揚されたという図式を強調していた。マルクスは、1845-46年における『ドイツ・イデオロギー』

の執筆過程でエンゲルスに主導されるかたちで、マックスシュティルナーの唯名論からの衝撃を受け、

フォイエルバッハ的な自己疎外論から脱却し、唯名論的、関係主義的な立場に移行するに至ったとい う図式である。しかしながら、廣松によると、マルクス自身はシュティルナー的な唯名論に安住する ことなく、「価値」、「意味」等々のような、主観的意識にも属さず、さりとて客観的対象の世界にも属 さないような「第三世界」に属するものの存在性格を解明するに至った。その記念碑的労作こそが『資 本論』冒頭の商品の二要因論、労働の二重性論、価値形態論だというのである。しかし、四肢的構造 論については、廣松自身が示唆を与えられたということではあっても、それそのものをマルクスの叙 述にみいだすことには無理がある。廣松[1969年]のように、商品の二要因と労働の二重性の二肢的 二重性から四肢的構造論を読み取ったとする場合と、廣松渉[1974年]のように、相対的価値形態[a]

としての商品aが等価形態[b]としての商品bに値するという価値形態の等式において四肢的構造論 を読み取ろうとしている場合とがあるからである。そのためか、廣松渉編[1986年]以降の諸論稿に なると、価値形態論を四肢的構造論として解釈する論述はみられなくなっている。しかも、前者の場 合には、レアールなアルモノが使用価値というレアール=イデアールなものとなり、それがさらに価 値という特殊歴史的な形態を帯びたイデアールなものとなるというように多重化されていることが欠 落している。また、後者の場合にも同様の問題があると同時に、相対的価値形態と等価形態の双方に 生産者=占有者としての抽象的人間としての具体的人間をみる。すると、二つの商品のそれぞれに三 肢、二人の生産者=占有者のそれぞれに三肢、都合、十二肢的構造となってしまうであろう。つまり、

価値形態論は四肢的構造ではなく十二肢的構造としてとらえ返されなければならなくなるであろう。

(5)

たうえで、その限界への言及にとどめざるを えないことをお断りしておきたい。

価値形態

まず、最も単純な第一形態における一つの 商品Aと一つの商品Bの価値関係について 取り出してみよう。

(相対的価値形態) (等価形態)

A・x = B・y

相対的価値形態にある商品は等価形態に ある商品の現身によって自らの価値を表現す る。相対的価値形態にある商品は等価形態に ある商品に対して、一方的に等置を宣言する だけであるが、それによって、等価形態にあ る商品の側に直接的交換可能性が付与される ことになる。

しかしながら、このような関係は、すべて の商品と商品との間にも成り立つ。すべての 商品はすべての商品に対して一般的相対的価 値形態にも立ちうるし、一般的等価形態にも 立ちうる。しかし、すべての商品が一般的等 価形態に立ちうるということは、どの商品も 一般的等価形態とはなりえないということで ある。──『資本論』初版の価値形態論は、

貨幣が存在しないために、商品と商品との直 接的交換は不可能なまま、多対多の形態Ⅳで 終わるかたちとなっている。──

※初版の価値形態論において扱われているのは、

多対多の商品の交換関係であり、形態Ⅰの一対一、

形態Ⅱの一対多、形態Ⅲの多対一の交換関係は、形 態Ⅳの多対多の断層写真のようなものである。また、

それは、貨幣形態も一般的等価形態もないのだから、

諸商品だけが存在しているような状態である。

このことは、あらかじめ貨幣形態、一般的 等価形態が存在しない状態を仮定していたの だから当然のことである。初版の価値形態論 におけるような、商品だけからなる価値形態 の考察が逆説的な手法で示すのは、貨幣形態、

一般的等価形態の不在ということである。

さて、このような簡単な価値形態の存立構

造について、廣松は次のようにいっている。

Aにとって相手Bは没人称化されており、

Aにとっては、Bの現身が、人間労働主体と いう抽象的一般者、類の一具現として現前し ている。廣松は、Aからみたこの相での上衣 の生産・所有者を 人間労働主体としての具 体的労働主体という意味で、B as [B] と標記 する。

他方、上衣は、 B as [B]の労働生産物とし て、Aにとっては抽象的人間労働の体化物と して現前している。廣松は、この相での上衣 を b as[b]と標記する。

Aの側に立って für uns(=学知的立場とし ての我々にとって)みた事態は、Bの側と共軛 的である。すなわち、A自身がBに対して 対他的にはA as[A]として、彼のリンネル Bに対して対他的には a as[a]として映 現する。

このようにして、Aにとって対自的には、

B as[B]とその労働の対象化物たる b as[b]

が現前し、Aにとって対他(対B)的には、

自分が A as[A]として、また a が[a]と して存立する。この対自─対他関係において、

b as[b]が a と等置されることに媒介されて、

Aにとってもまた a が対自(対私)的にも a as[a]として措定されるのである。

──ここにおいて、a as[a]と b as[b]とは、

abとの相違性の契機と 、[a]と[b]と いう同一性の契機を内包しつつ、しかも、a as[a]と b as[b]とが等置されていること において、Aにとって対自的には[b]であ b が、[a]の等価物として価値[a]を相 対的に表現する現象形態となる。

このような連関の共時論的構造において、

Aの対自的な視座においては、自己の商品が 相対的価値形態となり、Bの商品が現物形態 のまま等価形態となる。(以上、廣松[1974年]

146頁/148頁)

要約すれば、「[149頁/152頁]価値形態 論の基幹的構制は、結局のところ、Aにとっ

(6)

て対自的に(B as[B]の生産物たる)b as[b]

が(対他的には A as [A]たる自己の生産物)

a as[a]と等置されているという……四肢的 な構造的事態に帰趨する」(同前)と、廣松 は結論づけている。

※本稿では、『資本論』のように、価値をあらか じめ社会的労働としての抽象的人間労働の凝固物と する前提をおくような考え方はとらない。しかしな がら、それは、宇野理論の場合におけるように、労 働生産実体なるものを後から無媒介的に持ち出すと いう考え方によるのではない。後に第 3 節において みてゆくように、価値形態・貨幣形態・資本形式を 論理的に展開した後に位置づけられる、商品の物神 崇拝への批判的解明こそが、抽象的人間の欲求と労 働の体系を社会的なものとして導出してゆく論理的 手続きとされるべきなのである。

価値形態と物々交換

ところで、簡単な価値形態は商品と商品と の価値関係を示すものとされていた。だが、

それは形態だけをみれば直接的な物々交換と 変わるところがない。

「[S.102]直接的な生産物交換は、一面で は簡単な価値表現の形態をもっているが、他 面ではまだそれをもっていない。あの形態は、

x量の商品Ay量の商品Bであった。直 接的な生産物交換の形態は、x量の使用対象 Ay量の使用対象Bである。ABとい う物は、ここでは、交換の前には商品ではな く、交換を通してはじめて商品となる。」(『資 本論』第一巻第一篇第二章「交換過程」)

すでにみてきたように、商品と商品との直 接的交換は不可能なので、貨幣がなければ商 品にもなりえない。商品と商品の直接的交換 は物々交換たらざるをえない。ところが、物々 交換が成立してしまえば、交換された物は商 品とならざるをえない。そこで、交換された それぞれの物は、相互に潜在的な商品であり 潜在的な貨幣であることになる。

相対的価値形態にある商品はじつは、物々

交換過程における潜在的な商品形態なのであ り、等価形態にある商品はじつは、物々交換 過程における潜在的な貨幣形態なのである。

このようにみると、初版の価値形態論にお いては、すべての商品が貨幣形態となろうと するがゆえに、結局は商品ともなることがで きず潜在的商品形態にとどまらざるをえない という関係が展開されているということにな る。

直接的な物々交換においては、潜在的商品 形態にある具体的な使用対象が、潜在的貨幣 形態にある具体的な使用対象に対して価値表 現を行っているにすぎない。しかし、交換が 実現すると、それは商品(相対的価値形態)

と商品(等価形態)との簡単な価値形態に転 化するのである。

貨幣形態

──資産価値の最も目につく現象形態──

他方、すでに貨幣形態の存在する状態にお いて、商品と貨幣の関係を図式化すると次の ようになる(=初版附録・現行版の価値形態 論における貨幣形態)。

(商品・数量)(貨幣・数量)

B・y C・z

D・a G・x

E・b ...

ここでは、貨幣Gは商品Bに対してだけ でなく、商品C、D、E……に対しても、同 じように等価形態となっている。したがっ て、貨幣形態とは一般的等価形態にほかなら ない。

ここから一つの等式だけを取り出してより 詳しく観察してみよう。

(相対的価値形態) (等価形態)

B・y = G・x

商品Bはみずからの資産価値を貨幣G

D・a G・x

(7)

物質的な数量で表している。この等式がマル クス価値形態論における簡単な価値形態と異 なるのは、等価形態にあるものが商品ではな く貨幣だということである。ここでは、商品 と貨幣という、物質的にはまったく異なる二 つのものが等号(=)によって結びつけられ ている。この等置は、なんらかの合理的な根 拠によって行われるのではなく、交換を要求 する側の主観的な欲望によって行われている ものである。貨幣に置かれる物質は──発生 論ではなくたんなる形態論である限りでは

──、さしあたりリンネルでも小麦でも金で もあるいは紙券でも電子的データでも何でも よい。

このような貨幣形態は、廣松のとらえ方を 多少修正したうえで、次のような存立構造と してみることができよう。一般的等価物の所 有者は、抽象的・脱人格的、不定人称的な第 三者的存在であり、これを廣松C as[C]

と標記するが、われわれとしてはむしろこれ G as[G]と標記すべきであろう。すなわち、

価値形態においてA、Bの二極関係で論じら れていた事態は、貨幣形態においては、貨幣 所有者を媒介とした三極関係、AG as[G]、

BG as[G]との関係として、さしあたり

存立することになるわけである(廣松[1974年]

236-237頁/230-231頁、参照)

資本形式と貸借対照表における資産価値 資本循環の一般的形式は、より特殊具体化 された商人資本形式としてとらえれば、貨幣 資本─商品資本─増殖貨幣資本という循環運 動体である(両者は形式的にはGWG' であるが抽象の次元が異なっている)。

また、産業資本形式GW…P…W'G' としてとらえれば、貨幣資本−生産資本(原 材料・建物・機械設備・「労働力」等)…生 産過程(生産仕掛資本)…商品資本(製品在 庫資本)─増殖貨幣資本という循環運動体で ある。なお、生産資本(原材料・建物・機械

設備・「労働力」等)…生産過程(生産仕掛 資本)…商品資本(製品在庫資本)の部分は、

簿記・会計用語でいえば実物資産に対応して いる。したがって、この循環形式は、貨幣資 本−実物資産−増殖貨幣資本というようにも とらえることができる。

このように、資本循環を通して現れる資産 価値=資本物神が確立してはじめて、貨幣=

価値の自立的姿態=貨幣物神、商品の貨幣価 値=商品物神も確立する。

ところが、『資本論』の体系構成上、第一 巻の第二篇に位置づけられている「貨幣の資 本への転化」と、第三巻の最終章に位置づけ られている「三位一体的公式」とは、あまり にもかけ離れた場所に置かれている。そのた め、商品価値、貨幣価値に続けて資本循環形 式において循環する運動実体としての「価値」

概念が自立化するということと、商品物神、

貨幣物神に続けて資本物神があるということ との関連がみえにくくなってしまっている。

しかしながら、『資本論』体系は、第一篇「商 品と貨幣」における商品物神、貨幣物神の批 判的解明の後に、『資本論』の本編たる全三 巻を通じて、資本物神の批判的解明にあてら れているのである。

そのことに改めて留意するならば、「資本 主義的生産の汎通したる社会の富は膨大な商 品の集成として現れる」という『資本論』冒 頭の一句は、資本循環形式において商品、貨 幣としてさまざまな姿をとってあらわれるも のとして反省的にとらえ返されなければな らない。すなわち、「資本主義的生産の汎通 したる社会の富」とは、いわば貸借対照表に おける資本金および資産の諸項目に表れる何 ものかである。資産の諸項目に表されている 何ものか、「共通の第三者」として、資産価 値なるものが現れる。そこにおいては、「資 産価値の現象形態」とは、価格・交換比率な のではなく、貸借対照表の資産項目に貨幣価 値によって表記される商品(商品資本形態)、

(8)

貨幣(貨幣資本形態)、生産過程にある生産 手段・「労働力」等(生産資本形態)の諸項 目そのものなのである。

簿記・会計における資産評価は貨幣評価 額(簿価、時価)であって「価値」概念は必 要ないという向きもあるかもしれないが、実 物資産の貨幣評価額こそは「価値」概念そ のものである。価値そのものとしての貨幣を

price (犠牲、代償、価格)とする商品の貨幣

評価額が商品価値にほかならない。英語には、

「good price for the value 価格の割に値打ち品 で」という表現があるように、貨幣価格=プ ライスとは貨幣=価値の自立的姿態による代 償である。この代償=プライスに相当する商 品の共通性こそが商品価値なのである。

商品価値・貨幣価値・資産価値とは、「共 通の第三者」という意味では同じ事柄である。

だが、商品価値の抽象段階では、「価値」概 念は、いまだアリストテレスが指摘したよう に、「実際上の必要のための応急手段」でし かありえず、便宜的な思惟的抽象の産物にす ぎない。また、「共通の第三者」なるものは、

貨幣価値の抽象段階に至ったとしても、貨幣 そのものが価値の自立的姿態となって現れる だけであり、いまだ貨幣と価値とが分離して いない。資産価値の抽象段階になってはじめ て、商品からも貨幣からも分離された価値な る対象性が、たんなる思惟的抽象ではなく社 会的抽象の産物として実体化されるに至るの である。

第 3 節 商品の物神崇拝への批判的解明

マルクスによると、商品物神、貨幣物神と は、それぞれ、「[S.835]社会的諸関係……

を、これらの物そのものの諸属性に転化させ る(商品)、またいっそうはっきりと生産関 係そのものを一つの物に転化させる(貨幣)、

神秘化的な性格」(『資本論』第三巻「三位一

体的公式」)ということだとされる。

つまり、商品が使用価値形態という感性的 な性格と同時に価値形態──交換価値、価格

──という超感性的な性格をもつということ が商品物神であり、等価形態にある商品があ たかも生まれながらにして価値形態をもって いるように現れることが貨幣物神である。

商品物神については本節で、貨幣物神につ いては第4節で考察していくこととしよう。

抽象的人間労働への「還元」と商品物神の批 判的解明

廣松渉の周到な読解によると、マルクスは、

第一節「商品の二要因」では、はじめから、

交換的等置における「共通の第三者」として の価値を蒸留してみせたのであったが、そこ では、「日々現実に遂行される抽象」の過程 的構造は明示されていなかった。しかし、当 の抽象は、決して悟性論理的な抽象ではなく、

日々現実に、つまり、社会的過程で遂行され る抽象なのであって、これの過程的構造を明 示する必要があることになる。

じつは、この課題は、価値形態論における

「廻り道」の論理構制の呈示によって、現実 的に応えられている。商品世界の原初的な現 象形態に立返って、当事主体たちのfür es な

(=それ自身にとっての)視座を扮技してみ ることによって、交換的等置の両極、リンネ ル(生産・所有者)と上衣(生産・所有者)

との対他−対自的な被媒介的存立構造におい て、「価値」および「抽象的人間的労働」へ の対他−対自=対自的−対他的な「還元」が 遂行されることになるのである。(以上、廣松

[1974年]、171頁/171頁、参照)

実際、マルクスは価値形態論において次の ようにいっている。

「[S.65]たとえば、上衣が、価値物として、

リンネルに等置されることによって、上衣に 潜んでいる労働がリンネルに潜んでいる労働

(9)

に等置される。ところで、確かに、上衣をつ くる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働 とは種類の異なる具体的労働である。しかし、

織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労 働のなかの現実に等しいものに、人間的労働 という両方に共通な性格に、実際に還元する。

この廻り道を通ったうえで、織布労働も、そ れが価値を織り出す限りにおいては、裁縫労 働から区別される特徴をもっていないこと、

すなわち抽象的人間労働であること、が語ら れるのである。相異なる種類の諸商品の等価 表現だけが、価値を形成する労働の特殊な性 格を表すのである。というのは、等価表現こ そが相異なる諸商品に潜んでいる、相異なる 種類の諸労働を、それらに共通なものに、つ まり、人間労働一般に還元するのだからであ る。」(「2 相対的価値形態」の「a 相対的価値形態の 内実」)

このように、マルクスは、第一節「商品の 二要因」と第三節「価値形態または交換価値」

において、二回、抽象的人間労働への還元を 行っていることを明らかにしたうえで、価値 形態論におけるこのような還元の論理手続き こそが、「日々現実に遂行される抽象」とし て妥当なものであることを明らかにしたこと は、廣松[1974年]による『資本論』読解 の積極面の一つといえよう*4

以上のような論理的手続きを踏まえて、マ ルクスは、「第四節 商品の物神崇拝的性格と その秘密」において、次のような周知の論理 を展開しているわけである。

すなわち、社会的諸関係の特殊歴史的な形 態としての資本主義的市場経済から、分業に

従事する原子化された諸個人の私的労働の社 会的関係が生産物の社会的諸関係として現れ る。そこにおいて、生産物の等置関係は価値 という同質性によって可能となる。この価値 という同質性は、原子化された抽象的人間と いう同質性によって可能となっている。しか し、人々の意識のうえでは、生産物を価値と して等置するだけであり、その背後で抽象的 人間労働として等置するということは意識さ れずに行われている。

「[S.88]したがって、人間が彼らの労働生 産物を価値として相互に関連させるのは、こ れらの物が彼らにとって一様な人間労働の単 なる物的外皮として通用するからではない。

逆である。彼らは、彼らの種類を異にする生 産物を交換において価値として相互に等置し 合うことによって、彼らのさまざまに異なる 労働を人間労働として相互に等置する。彼ら はそれを意識していないが、しかし彼らはか く行うのである。」(『資本論』第一巻第一篇第一 章第四節「商品の物神崇拝的性格とその秘密」)

つまり、人々は直接的な意識のうえでは、

相対的価値形態と等価形態にある使用価値の 交換関係しか意識していない。しかし、そこ にはあらかじめ、「共通の第三者」がなけれ ば、そのような無意識的な交換は不可能であ る。そこまでは古代ギリシアのアリストテレ スが洞察しえていたところである。しかしな がら、そこからさらに「共通の第三者」の背 後に、社会的関係行為、人間的諸活動の対象 化をみることは、古代ギリシアの奴隷制社会 を前提としたアリストテレスにはできなかっ

*4 抽象的人間労働は商品・貨幣、資本の物神崇拝への批判的解明をつうじて、資産価値の実体として炙

り出されるいまだ質的な規定性でしかない。それは、「社会的労働」──貨幣による商品の繰り返しの 購買、諸資本の競争による利潤率均等化をつうじて社会的に均衡編成された抽象的人間労働──とい う量的な規定性を累加された概念とは区別されなければならない。新田[2008年]第3節「抽象的人 間労働と社会的必要労働」、参照。

(10)

た。

それが古典学派によってはじめて可能と なったのは、「人間の平等の概念がすでに民 衆的先入観 Volksvorurteil 」(S.74)として定 着した時代になってからであった。それはま た、「[S.93]抽象的人間を礼拝するキリスト 教、ことにそのブルジョア的発展であるプロ テスタント、理神論などとしてのキリスト教」

「最も適合的な宗教形態」とするところの、

特殊歴史的な「民衆的先入観」の体系と対応 するものということができよう。

このようにマルクスが錯綜した叙述のうち に展開していた論理のなかには、たしかに、

廣松の読解の通り、共同主観的な社会的諸関 係が幾重にも屈折する機制への論究をみるこ とができるといってよいであろう。廣松はい う。

「[210頁/207頁]商品の価値性格──商 品体が『価値実体』『価値量』『価値形態』を 自体的に具えているかのように、そして、そ のようなものとして商品が相互関係を結びつ つ自己運動するかのように仮現する事態──

この物象化的な倒錯現象は、要言すれば、社 会的総労働の分業的協働の編制が即自的で あって、総労働への参与、総労働の諸個人へ の配分が私的生産物の商品としての交換……

によって媒介されているごとき生産関係の在 り方に淵源している。商品の物神的性格は、

決して単なる妄念ではなく、かかる現実に基 盤を有するものであって、商品世界の間主体

的・対自然的な編制の屈折した投影なのであ る。」(廣松[1974年])

このように、廣松によって、抽象的人間 労働とその対象化である商品価値は、 物象 化的に倒錯 された共同主観的な関係構造 として存立するということが、『資本論』の 叙述に即して明らかにされたのである。とり わけ重要なことは、価値形態、商品物神の批 判的解明を行うことをつうじてはじめて、「共 通の第三者」の実体を抽象的人間労働とする 規定を論理的に導出することが可能だという ことであろう*5

とはいえ、以上みてきたことから明らかな ように、『資本論』の叙述そのものは、第三 節と第四節で行きつ戻りつしており未整理の 感は否めない。われわれとしては、前節のよ うな価値形態論の展開のあとに、商品物神の 批判的解明をつうじて抽象的人間労働への還 元手続きを行うことによって、論理展開の整 序化が可能となるものと考えるものである。

<抽象的人間労働>と<欲求の体系>

だが、廣松が読解してみせたマルクス自身 による抽象的人間労働への還元方法に追随で きるのはここまでである。なぜならば、価値 形態論において「抽象的人間」への還元が行 われたからといって、それが直ちに「抽象的 人間労働」への還元を意味するわけではな かったはずだからである。(以下、新田滋[2008 年]第2節「交換価値と抽象的人間労働」、参照。)

*5 「抽象的人間労働」は、特殊資本主義的なものか、それとも歴史貫通的なものかについては古くからの

論争があるが、マルクス自身の叙述はどちらとも読めるようになっている。宇野は後者での一元化を 図ったが、しかし、人間平等の観念や機械制工業による単純労働化や資本主義的な競争機構のないと ころで、相異なる具体的有用労働がいずれも最終生産物に関与しているというだけで均質化されると いう論理はまったく説得的なものではない。冒頭商品が資本主義的商品から抽象されながらも、商品 一般の概念でもあるとされるのと同様に、抽象的人間労働もまた、資本主義的な社会的編成から抽象

(「人間の解剖」)されながら、先行するあらゆる社会の労働にも一般的に投影されうる概念(「猿の解 剖の鍵」)であるというように理解すべきであろう。

(11)

諸商品の「共通の第三者」について考えた ときに、役立ち=効用、使用価値に対する欲 求の強度に思い至るのは自然なことである。

しかし、そのような欲求を充足するためには 努力=労働が必要となる。欲求が大きければ 大きいほど、欲求の対象となるものが稀少で あればあるほど、欲求充足のための努力=労 働は大きなものとなる。このように、労働が 対象化されるためには、すでに対象への欲求 が前提されている。

商品の「価値」は使用価値一般であり、そ れは一方の側面からだけみれば、使用価値一 般は具体的有用労働一般であり、具体的有用 労働一般は抽象的人間労働であり、抽象的人 間労働の対象化は費用価値である。供給量の 豊富な水の使用価値一般は大きいが、その具 体的有用労働一般としての抽象的人間労働と 費用価値は少なくてすむであろう。

したがって、「価値の実体」は、抽象的人間 における欲求と労働の関係し合う体系として とらえられなくてはならなかったのである*6 それにもかかわらず、マルクスは、きわめて 一面的に、「価値の実体」は抽象的人間労働 だと断定してしまったのであった。

このように考えるならば、主観的効用の観 点からは、社会的、歴史的な分析は不可能で あるとする批判にも根拠がない。『ドイツ・

イデオロギー』[1845 46年]において、[7a

=12]充足された最初の欲求そのものが、す なわち充足の営為とひとたび獲得された用具 とが、新しい欲求へ導くということ、──そ してこの新しい欲求の創出とは第一の歴史的 行為」([7a=12]は原稿の用紙番号、いわゆるボー ゲン番号を示す)なのであると指摘されている ように、人間は欲望をも歴史的、社会的に生 産してきた存在であり、歴史的、社会的な人

間の欲望とその充足のための生産、労働を含 む人間的諸活動の絡まり合いの問題は唯物史 観にとっても無視することはできない問題 だったはずだからである。したがって、むし ろ、『資本論』においてマルクスが、欲望や 主観的効用の側面を捨象してしまったことの ほうが不可解であったといわなければならな いであろう。

すなわち、相対的価値形態にある商品は、

「自分にとっての犠牲・費用=具体的効用労 働の対象化」であると同時に、「他人のため の使用価値=具体的効用労働の対象化」であ る。また、等価形態にある商品(または貨幣 商品)は、「自分のための使用価値=具体的 効用労働の対象化」であると同時に、「他人 にとっての犠牲・費用=具体的効用労働の対 象化」である。このような相対的価値形態と 等価形態にある商品の等置関係のなかに、抽 象的人間労働であると同時に抽象的人間効用 一般でもあるような「価値」が、「共通の第 三者」としてみいだされることになるのであ る。

第 4 節 貨幣の物神崇拝への批判的解明

貨幣物神と貨幣形態の秘密

一般的価値形態、貨幣形態においては、潜 在的商品形態にある無数の具体的な使用対象 群が、潜在的貨幣形態にある単一の具体的な 使用対象に向かい合っている。

「[S.103]直接的な生産物交換においては、

どの商品もその占有者にとっては直接的に交 換手段であり、その非占有者にとっては等価 物である。もっとも、その商品がその非占有

*6 ヘーゲルは、「市民社会は三つの契機を含む」として、その第一の契機として、「個々人の労働によって、

また他のすべての人々の労働と欲求とによって、欲求を媒介し、個々人を満足させること──欲求の 体系」を挙げている。Hegel, G. W. F.[1821]§188. 邦訳、421頁。

(12)

者にとって使用価値である限りでのことであ るが。したがって、交換品は、それ自身の使 用価値、または交換者の個人的欲求から独立 した価値形態をまだ受け取っていない。この 形態の必然性は、交換過程に入り込む商品の 数と多様性の増大とともに発展する。」(『資本 論』第一巻第一篇第二章「交換過程」)

ここでは、潜在的貨幣形態にある具体的な 使用対象は、他人にとっての具体的な使用対 象であると同時に、その限りで一般的=潜在 的貨幣形態──これは論理的にはただちに一 般的等価形態であり貨幣形態であるが──に おかれたものとして抽象的な使用対象でもあ る。それはまた、具体的−抽象的使用対象と いう二重性格をもっている。

「[S.104]貨幣商品の使用価値は二重化す る。貨幣商品は、商品としてその特殊な使用 価値、たとえば金が虫歯の充填、奢侈財の 原材料などに役立つというような特殊な使用 価値のほかに、その独特な社会的機能から生 じる一つの形式的な使用価値 einen formalen Gebrauchsewert を受け取る。」(『資本論』第一 巻第一篇第二章「交換過程」)

このようにして、一般的=潜在的貨幣形態

──同時的に一般的等価形態であり貨幣形態 である──においては、具体的な使用価値群 と「一つの形式的な使用価値」──すなわち 具体的─抽象的使用価値との関係へと転化し ているのである。

それとともに、簡単な価値形態においては、

二つの商品の間の抽象的な思惟物としてしか 想定されることができず、悟性的抽象の宙空 に浮遊するにとどまっていた資産価値は、一 般的価値形態においては、一般的等価形態 にある具体的−抽象的使用価値そのものに憑 依することができるようになっているのであ る。

以上のような点に、「貨幣形態の秘密」が ある。一般的価値形態においては、一般的等 価形態にある具体的−抽象的使用価値は、謎 めいた二重性格をもっている。貨幣という完 成された姿をみただけでは、この謎を解くこ とは困難である。しかし、それは、簡単な価 値形態においてみれば、容易に理解すること ができる。そこでは、等価形態もまた具体的 な使用価値にすぎない。具体的な使用価値に すぎないものが、一般的等価形態において は具体的─抽象的使用価値という二重性格を もったものに複雑化しているのである*7

なお、廣松は、貨幣物神について次のよう に指摘している。(ここでも、廣松のC as[C]、

*7 『資本論』初版附録・現行版型の価値形態論は、商品と商品の価値形態───── 初版ではついに貨幣形態に

辿り着くことはなかった──── と、貨幣形態(一般的等価物)───── 交換過程論において論理発生論的に 展開されるべき直接的物々交換から間接的商品交換への転化の論理、および、貨幣(一般的等価物)

単一化の論理を前提としなければ出てこないはずのもの──── とが、「拡大された価値形態」から「一般 的等価形態」への「転倒の論理」によって直結されている。それは、本来、別種の論理過程であるべ きものを、論理の転倒によって跳躍的に無理矢理グロテスクな形で縫合させてしまったものである。

それらの論理過程は、①交換過程論的な物々交換から貨幣的交換への転化、②それと同時に進行する 貨幣(一般的等価物)単一化、③初版型の価値形態論による諸商品だけからなる価値形態の構造と、

初版附録現行版型の貨幣形態の構造との比較分析、の三者間の区別と関連として再構成されなければ、

論理的に筋道の通ったものとはなりえないであろう。①、②に関しては、新田[2010年]第2節「財 サービスの商品・貨幣形態への転化」、第3節「貨幣商品の単一化メカニズム」が、③に関しては本稿 本節が、論理的な整序化の試みである。

参照

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