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ホ ー ム ス パ ン エ 芸 へ の 及 川 全 三 の 取 り 組 み

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(1)

研 究 報 告

B u l I c t i l l o 「 M o r i o k a ・ I L I 1 1 i o 1 ° C 《 ) l I e g e l w a t e P l . e 他 c t u r 3 1 U n i v e I ・ s i t y ぅ N o . 1 5

45−50,March2013

ホ ー ム ス パ ン エ 芸 へ の 及 川 全 三 の 取 り 組 み

OikawaZenzo,sWorkonHomespunHandicraft

菊池直子*

NaokoKIKUCHI

wOノ・応:O/ waZe'mzo,Hb加alpz"7,f〃ノ7的cノ・城,姥騨α雄の eノノ7g 及川全三,ホームスパン,手工芸,植物染め

1°はじめに

ホームスパンの原産地は、英国スコットランドやアイル ランド地方といわれている 1−31.本場の英国のホームスパ ンが消滅していく中、岩手では、大正期に農家の副業と して拡がり、昭和期に入って戦後の復興とともに地場産 業にまで発展した.現在も継承されているホームスパン であるが、その素地を築いた人物のひとりが、及川全三

(1892〜1985年)である。国が、農家に緬羊飼育と羊毛 加工のホームスパンを奨励していた時代、及川全三は、

ホームスパンで美を表現することに努めた。単なるホー ムスパンではなくザ優れた工芸品を製作したことが、今

日のホームスパンの魅力に繋がっていると考えられる。

及川全三は、58歳の頃に雑誌『民芸」に寄稿した中で、

日本のホームスパンについて次のように述べている。

「ホームスパンという毛の手織の仕事は、日本では新し い"仕事なのである。それがまた正しく西洋のホームスパ ンの伝統を受け継いだというのでもないものであって、

ここで新しく伝統を開いて、それがR本の民芸になるか どうか、全く今後のことといっていい、そういうもので あ る 。! ) 」

美しいホームスパンをつくり、それが岩.手の民芸として あり続けることを期待していたことが窺える。

本研究では、収集資料や聞き取り証言をもとに、美しさ を 表 現 す る た め に 取 り 組 ん だ 工 芸 の 要 素 の 中 か ら 、 植 物 性染料による染色、ホームスパンの手本、テキスタイル デザインと図案化の3点に注目し検証した。

2.調査方法

及川全三に関する文章資料を調査するとともに、姪にあ たる及川恵美子氏、当時の内弟子であった野呂(旧姓糸 賀)淑子氏、高橋(旧姓鎌田)マサ子氏への聞き取り調 査、および資料・所蔵品等の写真記録を行った。3名への 調査日は、次のとおりである。

(1)2011年6月9日、16日:及川恵美子氏(及川全三の兄

の娘)

*生活科学科雪生活科学専攻

(2)2011年10月2211:野呂淑子氏(1957(昭和32)〜1975

(昭和50)年の18年間住み込み)

(3)2012年6月I2Fl、19日:高橋マサ子氏(1954(昭和

29)〜1957(昭和32)年の3年間住み込み)

また、東和ふるさと歴史資料館の協力を得て、サンプル

布片と組織図等がスクラップされた資料を2011年6月に 写真記録した。岩手県立・博物館の協力を得て、及川全三 が着用した衣服類や商品として製作されたショールやネ

クタイ等を2012年3月に写真記録した。

3 植 物 性 染 料 に よ る 染 色 3.1羊毛本染実験覚書5)

図lは、岩手県産の染草や染色方法等について解説した及川 全三の著書である。発行が1936(昭和11)年4月であり、帰郷 後2年半程で羊毛の植物染色をまとめたことになる。表紙(左 図)は、黒味の地色に薄茶色の葉が図案化されているが、及川 全三のデザインによるものかどうかは判明しなかった。

右図は、本著書に加えられている唯一のカラー写真であり、

イタドリ(根)の発色,例を示している。及川全三は、資料lに 示したように二種の染法を解説しており、図Ll‑1のヨコの列が染 法の違い、タテの列が媒染剤によって発色が異なることを示し

ている。

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図 1 羊 毛 本 染 実 験 賢 書 ( 盛 岡 大 学 図 書 館 所 蔵 )

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− 4 5 −

(2)

菊 池 直 子

及川全三とホームスパンヘの取り組み

本著書には、岩手県産の染草やホームスパンに適する染草の 条件等が詳しく説明されている。県産の染草には50数種もある というが、ホームスパンにとって、染草の数の多さがそれほど 重要でないことが、資料・2のように説明されている。ホームス パンは、カーデイングのときに複数の色の羊毛を混ぜ合わせ色 合いを調節できるため、染草の種類が少なくても様々な色調表 現が可能であることが理由と考えられる。また、資料2では、

地方の特色を出すために地元産を主とすることや、やむを得な いものだけを他から補うという民芸品をつくる上でのアドバイ スが示されている。

及川全三は、本著書の中で、従来から伝わる染草が、絹や綿 同一の原理に基づくものであるが、三つの方法が責際の場 合にある。第一は染浴から始める方法で、先づ染浴に入れて 染めつけてそれを媒染浴に通じて護色させるのである。第二 はこの順序を逆に行ふもので、最初に媒染を施してそれを染 浴に入れて染めるのである。第三は染浴に媒染剤を入れ、一 浴を以て染める方法である,

資料1三種の染法(38〜39頁より抜粋)

染草の薮は多いが、ホームスパンを作るにこれら多数の染 草を取揃へる必要はない。僅々数種、多くも十数種、その土 地の産を主として、止むを得ざるものだけを他から補填して 恐らくそれで事足るであらう。少数の色を多趣に生力rすこと の方、徒に多彩を集めるよりも望ましく、制限された中で仕 事をする方却って地方的の特色が出るのではないかと思星

資料2騨産のものを主として(31頁より抜粋)

民間に厚はる在来の多くの染草は、いふまでもなく毛染の 用に蕊見せられたものではない。絹織、木綿織の模様を作る がための色であって、恐らくは木灰力鍾紫による護色を以っ て、色料として採用せられたものが、その中の多分に居るこ と〉想像される。木灰乃至石灰を媒染剤として使用すること は、毛に於ては著しく毛質を傷害するがため不可能のことで あって、毛はクロームを主とする。即ち毛染用の染草は、ク ローム其の他毛に適した媒染によってよき護色を得るもので なくてはならない。毛と絹とはその質を異にし、製品はその 趣を異にする。木綿及び絹の模様中にあって趣味深き色が毛 に於て同様に生きるとも限らず、反封に絹に債値無き色が毛 で美しいこともあるであらうから、従来絹染の用から顧みら れなかった草根木皮中に毛染に用ひて重要な草染が今後護見 せられないとも限らないだらう。私の使用してゐる羊蹄草・

酸模・樺の如き曾って文献にも見ない染草であるが、毛染に 用ひて甚だ愛すべき色料たることを失はない。

資料3木灰、石灰以外の媒染によってよき護色あるもの

(26〜28頁より抜粋)

を対象としたものであり、羊毛と異なることを説明している。

資料3は、その説明の一部である。

羊毛の表面はスケールで覆われ水をはじくが、絹は吸水 性に 優れる。羊毛のスケールは絡まりやすくフェルト化しやすいが、

絹の表面は滑らかである。また、羊毛のケラチンたんぱく質と、

絹のフイブロインたんぱく質では、アミノ酸組成が異なる.繊 維の形態や性質が異なるため、同じたんぱく質繊維であっても 絹の染色技法をそのまま羊毛に適用できないのである。そもそ も羊毛が、日本において衣服素材として用いられるようになっ たのは、洋服が着用されるようになった明治以降である。綿や 絹に比べて歴史が浅く、大正〜昭和初期の日本において、植物 による羊毛染色の教本類は、ほとんど無かったと考えられる。

及川全三は、独学で実験を積み重ね、植物性染料による羊毛の 染色方法を完成させたことが理解できる。

及川全三は、1973(昭和48)年12月11日に開催された

『及川全三を囲む会』でも、羊毛の性質が、絹と異なるゆえ の苦労を次のように語っていた。

「藍は藍建てでは染まらない。毛は煮なければ染まらない。

毛はアルカリを嫌うので藍建ては出来ない。他の色は木の皮を 煎じ茶だけ、植物染を書いた本がないので何年も何年も七輪で 鍋で試験した。五年もかかり貧乏もしました。山漆の乾燥した ものやほとんど自分で開発して色を出したわけです6藍の発酵、

山桃(しぶき)は東北にないので京都から。一番調法したのは 山漆発酵化学を見ると蛋白質で植物によって発酵の仕方が違 う。そうしてホームスパンの染料を作り今では不自由ないよう になった。植物染料の色素は一種類でなく、二、三種類入って いるのです。毛を染めるのは、一辺で濃くしなければならない ので苦労でした。」6)

ここで「毛を染めるのは、一辺で濃くしなければならないの で苦労でした。」と述べているが、一辺で濃く染めるために行っ た方法が、羊毛のスケールをなくする塩素処理(クロリネーシ ョン)刀である。高橋氏は、微温湯でクロリネーションを行って いたと話し、当時のノートには、塩素処理済みの羊毛を用いた 記録が多い。野呂氏は、羊毛を濃く染めるときに特にクロリネ ーションを行ったと話している。染色に不可欠な工程であった ことが理解できるが、本著書にはその記載がない。クロリネー ションは、本著書の発行以降に行われた技法と考えられる。

3.2植物染について8)

及川全三が、1951(昭和26)年に寄稿した『植物染について』

は、植物性染料の種類や由来、合成染料との違い、染色の仕組 み等を解説したものである。

「むらさき」について述べた箇所の一部を資料4に示すも及 川全三は『羊毛本染実醗畳書』の中で、「紫草による高雅な紫 の毛への応用はまず困難と見るより外はない」と説明したよう に、紫根染をホームスパンに用いることはなかった。しかし、

1946(昭和21)年と1948(昭和23)年に、柳宗悦に同行し岩 泉の八重樫家で紫根染の調査を行い、1956(昭和31)年に『紫 根染』9)、1957(昭和32)年に『「むらさき」の染旧南部領に

−46−

(3)

残る紫根染』'0)を執筆するなど、紫根染を研究したことが理解

できる。

資料5は、植物│生染料による色の美しさについての解説の一 部である。これに続き、合成染料の色素I刈測勿染料の色素と根 本的には違わないが、合成染料の色素が単純に一種であるのに 対し、植物性染料は複数の色素を含むと説明している。加えて、

植物性染料には、色素以外のもので発嵐色や固着の働きをするも のがあるのではないかと述べ、このような植物性染料の複雑さ は、自然が処方してくれたものであると説明している。

一方、合成染料については、科学的に処理することで美しさ を犠牲にしてはならないと忠告している。また、合成染料につ いて次のようにも述べている。

「科学の業績には驚嘆すべきものがあるが、人間の業績のに│」

でのことである。自然の創造に対して力を誇り得るものではな いのである。」

とは言え、本文中で合成染料を否定するような記述はみられ ない。大量生産に適する合成染料、自然の色が美しい植物性染 料、それぞれに用途があると述べている。及川全三は、合成染 料の使用にあたり、美しさを軽視あるいは無視するような物づ くりを批判したと考えられる。拡大解釈するならば、美しい色 彩の表現が最も重要なのであり、合成染料を使用したか否かで はないと読み取ることもできる。

4ホームスパンの手本

高橋氏は、及川全三がエセル・メレの部屋着を手本にしてい たと言い、それゆえ製作する部屋着の形が、同様なのだと言う。

野呂氏は、柳宗悦がエセル・メレのホームスパンで洋服を仕立

てたときの小さい端布をもらい、それを解いて調べ復元してい たと言う。内弟子のH鋼lがずれており、手本の物が違うようで あるが、いずれにしても及川全三が手本にしたものは、エ セル・メレのホームスパンであったことが確認できる。ホ

ームスパンで度々受賞した及川全三であったが、野呂氏が内弟 子に入ったときの及川全三は65歳であり、晩年に至って尚も、

エセル・メレのホームスパンを手本にしていたことが理解でき

る。手本を側におき、討嘘な姿勢でホームスパンに取り組んで

いたことが認められる。

図2は、和紙で装順された手製のスクラップブックである。

経年劣化しているが、表紙の『裂見本』が意匠的な文字で描か れ、和紙が全体的に用いられ、サンプルを丁重に扱っているこ

とが認められる。『裂見本』lの各貞の写真を野呂氏に見てもらっ たところ、「ああ、これがそうですbこれには、メレーからもら ったのも貼り付けてあったはずですbこの小つちやく、ちょっ ぴりっていうのは、きっとメレーのものだと思う。それを見て 先生は復元していらしてました。柳先牛なんかが洋服を仕立て

日本の「むらさき」は漢名「紫草」が当てられているが、

支那の「紫草jについての「群芳譜」の記載『苗似蘭香華赤

節青二月開花紫白結実亦白紫根色紫可以染紫」などからみて

も、日本の紫は支那の紫草ではないらしく、支那には別に紫

を染める蕊、紫戻紫丹、紫芙、地血、鴨街草などという名を 持つ草本があるのであろう。その色素がF│本のむらさきと同 じシコニンなのかどうか。古代の「紫」は今I」われわれのい

う紫とは違うともいわれるから、支那の紫草は古代の紫の、

いわゆる朱を奪うその色なのか。それら一切今明かにするよ しもないが、何れにしても紫の色素は植物界で稀なもの、日 本では「むらさき|以前に見什'せないものとされる。

資料4『植物染について』33頁より抜粋

植物染料の何よりの特色はその色相であろう。色の 美しさである。なぜその色が美しい力も自然な色だか

らではないのか。自然の色だから自ずと人間の 性に契

うのだと解いては間違いなのか。自然の中では虹の色 もけばけばしくは映らない。自然物の色はいづれも微 妙な影を伴い、何かしら含みを持つ。植物染色の色は、

色素が自然界にある時とは同じ状態ではないのである が、やはりそれと似通っていて、穂かで職い°どこか

らそれが来るか、色が複雑で単純でないからである。

(サンプル例)

図2裂見本(東和ふるさと歴史資料館所蔵)

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蝉胤篭謹蕊騨溌溌騨一鋤…

.

資料5『植物染について』34頁より抜粋

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− 4 7 −

粥 礁 鍵

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(表紙)

(4)

蝋 蕊 M 紬

菊池直子

及川全三とホームスパンヘの取り組み

鶴鶴鯛鍵繍駕畷鵬鱗

られたときの端布をもらって来られたんだと思いますね。(サン フRルを指して)ここら辺りは、イギリスのものですね。ちょっ と大きいものは、ご自分のもので、ここに置いておこうかなっ ていうものを貼られたと思いますね。」と述べた。「裂見本』は、

手本が確認された資料であり、及川全三のホームスパンヘの取 り組みを裏付ける貴重な資料といえる。『裂見本』は、野呂氏が 内弟子に入ったときに既に存在していたとのことで、いつ頃作 られたかは判明しなかった。

な い か と 思 う ん で す け ど ね 。 」

野呂氏の話から、柔らか い織物をつくるため、経糸 と緯糸の交差する組織点を 減らし、糸の浮きを長くす るように綜統枚数を増やし たことが認められる。綜統 枚数が増えることで完全組.

識のサイズが大きくなり、

様々な織り文様が可能とな り、次第に複雑な織り組織 になったと考えられる。

野呂氏に及川全三の最も

5.テキスタイルデザインと図案化

及川全三は、機で織る作業はしなかったが、織り組織はす蔦べ てデザインしていた。高橋氏は、「先生に言われたものを織っ た。」と述べ、野呂氏は「先生は染めの方が専門でしたね。あと は、織り組織なんかはご存知でデザインをされましたね。」と述 べた。及川全三というと、植物性染料による染色家という見方 もあるが、実際のところ染色のみではなく、紡ぎや織りを指示 しており、やはりホームムスパン作家であることが理解できる。

東和ふるさと歴史資料館には、複数のスクラップブックが所 蔵されているが、1957(昭和32)年以前のものは図2の『裂見 本』のみである。その他は、1957(昭和32)年以降であること が、野呂氏の証言により確認された。ちなみに、1957(昭和32)

年以降のスクラップ月例を図3に示すも市販のスクラップブック を用い、色違いのサンプルをまとめてセロハンテープで頁一面 に貼り付けている。図2にみられた貼り付け方との違いが明瞭 である。

図3に示したサンプルの多さは、当時の製作品が多かったこ とを表‑ウも及川喜美子氏は、及川全三が1955(昭和30)年前後 の頃から1974(昭和49)年まで、毎年のように日本僑三越展を 行っていたと話している。ここで当時のホームスパン業界の生 産状況を補足する。岩手県工業試験場(現在の岩手県工業技術 センター)で記録したホームスパン服地仕上げ量をみると、1960

(昭和35)年から1966(昭和41)年まで急増し、それ以降は 横ばい傾向であるが、1976(昭和51)年にピークを示している。

昭和40年代は、全国的な需要の高まりがあったことが理解でき る。及川全三の工房でも、三越展等の展示販売によりホームス パンの製作が活発になっていったと推察できる。

スクラップブックは、図4に示したように『しようるまふら あ』、『服地』、『ねくたい」という品目や、四枚綜眺、ブマ枚綜統、

八枚綜i光のように綜統枚数で蕊錘されていた。八枕際統は、1969

(昭和坐)年以降のもので、複雑な織り組織が数多く貼り付け られていた。これについて、野呂氏は次のように話した。

「最後は、八枚綜統になられたんですよ。綜統が重たいから 上がらないでしよ、それを一本ずつ吊って、両足で踏むとか工 夫したら案外上がったり下がったりができましたけどね。先生 は織らないから、私が工夫してね。」、「普通の方は、糸で風合い を出す工夫をされたりしますけど、先生は、糸じゃなくて、織 りで風合いを出そうとされたのかしら。ショール、マフラーの ような場合、柔らかい風合いの織りがないかと探されたんじや

図3サンプルのスクラップ

(東和ふるさと歴史資料館所蔵)

気に入っていたテキスタイルは何かを尋ねたところ、「先生は服 地に命をかけていらしたと患うし、また素晴らしいと思いま すb」と話した。服地は、比較的シンプルな織り組織である。及 川全三は、八枚綜統の複雑な織り組織を次々とデザインする一 方で、服地のシンプルな織り組織を基盤にしていたことが認め られる。

1969(昭和44)年以降のスクラップブックには、サンプルが なく、組織図のみの頁が多数みられた。野呂氏に、布を織るま でに至らなかったかを質問したところ、サンフツレは貼付されて いないが、スクラップブックの組織図は、すべて製 作したとい う回答であった。サンプル貼付を省略するほど製作数が増え、

多忙であったと推察される。

図5に、八枚線i光と四枚綜統のサンプノレ例を示すもどちらも 美しい織り文様であるが、線i光枚数が増えることでより複雑な 文様が表現されている。野呂氏は、「先生は、国画会の 作品であ ることを誇りにしてらっしやいました。特にはじめの頃の作品

芝 製 遮

−4.8−

細AlIij蝿

( 八 枚 綜 統 ) ( 四 枚 綜 統 ) 図5サンプル例(東和ふるさと歴史資料館所蔵)

図4スクラップ表紙(東和ふるさと歴史資料館所蔵)

雲:M鯉M鰯挫製靴=弓

;罰

(5)

6.結び

本研究では、及川全三のホームスパンに関する資料・や聞 き取り証言等をもとに、植物性染料による染色、ホーム スパンの手本、テキスタイルデザインと図案化の3点に 注目し、工芸への取り組みを検証した。その結果、次の ことが確認された。

及川全三は、柳宗悦からの「植物染でないとホームスパンで はない」という教えを守り、植物性染料による羊毛の染色座方法 を研究し実践した。1936(昭和11)年に発行した「羊毛本染

実験兇書』は、その成果の一つで、掛手県産の植物性染料を紹 介し、ホームスパンに適する植物の条件等が説明されていた。

1951(昭和26)年に帯稿した『│徹吻染について』は、植物性染 料の種類や由来、合成染料との違い、染色の仕組み等を解説し たものであった。植物性染料の色の美しさを説明した上で、植 物性染料と合成染料のそれぞれに長所と短所があり、色の美し

さを損なわないことが最も大切であることを説いた。

及川全三が手本としたものは、エセル・メレのホームスパン であった。和紙で装'│'貞された『裂見本』には、柳宗悦がエセル・

メレのホームスパンで洋服を仕立てたときの端布が貼付されて

いた。『裂見本jは、手本の裏付けとなる貴重な資料といえる。

及川全三というと、植物性染料による染色家という見方もあ るが、実際のところ染色のみではなく、紡ぎや織りを指示して おり、やはりホームムスパン作家であることが確認された。及 川全三は、織り組織で柔らかさを発現するために八枚綜眺の複

雑な織り組織を次々とデザインしたことが認められた。しかし、

最もノ]を入れたテキスタイルは服地であり、服地のシンプルな

織り組織をホームスパンの基盤にしていたことが確認された。

テキスタイルデザインについて、及川全三の発想を知るため の糸口になるような図案集は、今回の調査ではみあたらない。

しかし、スクラップブックの一冊の中に、古い字体をヒントに

した文字の図案化と、将、糸巻き、総の絵からの図案化が貼付

されていた。及川全三は、菱形をモチーフにしたテキスタイル

を多数デザインしていたが、それらは拝や糸巻き、紹からの発

想ではないかと考えられた。

今後の課題は、写真記録したホームスパンのサンプルや 衣服類の整理、検討・である。なお、本報告では、資料か

らの抜粋部分において本来縦,I捲であったものを、紙而

の都合上横書きにした。

図案(東和ふるさと歴史資料館所蔵)

ナ表記にしないことに加え、台紙の四隅に飾りをつけ、おしゃ れな印象を表現しているように見受けられる。表紙の意匠に対 する及川全三のこだわりの一面がみえる。

叩■や

引用・参考文献

1)全111繊維工業技術協会編: 1本織物風‑上記全国繊維工 業技術協会,pp,10〜14,1995年

2)佐々木陽:岩手県におけるホームスパン産業の現状と

未来第28回被服材料学夏期セミナーテキスト,

にはいいものがたくさんあるんですb先生の美のセンス、美に

対する日の確かさは素晴らしいと思います6」と話している。

国画会I')は、絵画、版画、彫刻、‐L芸、写真の5部門で牌成 され、工芸部は1927(昭和2)年に発足した。及川全三が会員 になった時期は、柳宗悦らが工芸部を再建した1947(昭和22)

年である。及川全三にとって同展への出品は、ライフワークの 1つであったと考えられる。

ホームスパンの色遣いやテキスタイノレデザインについて、及 川全三の発想を知るための糸口になるような図案集は、みあた

らない。しかし、スクラップブックの−冊のrllに、図6に示す 図案が貼付されていた。

左図をみると、『到の絵や古い字体から『判が図案化され ている。同様に『工」や『塾』の文字についても古い字体から 図案化されている。及川全三は、TlTい字体の美しさをヒントに デザインしていたことが認められる。「手工蕊』は、及川全一畠の 仕事そのものである。デザインする文字は、及川全三にとって 深い意味があったと考えられるが、この図案化した文字をどの

ようなところに使用したかは、現在のところ不明である。

右図には、『拝」や『糸巻き』、『紹』の絵から│xl案化している

ことが認められる。例えば、4枚の『認』の絵では、実際の形 の絵から、糸の流れの方向を変えたり、糸束の太さを不均・に したり、所々にアレンジが認められる。単調な図柄に意外なア

レンジを加え、おもしろさを表現していたと考えられる。織物 は経糸と緯糸の直交で成り立つため、右図の中央にあるような 複雑で繊細な曲線は、細い糸の綴れ織りのような特殊な技法が 必要と考えられるが、右下にあるような菱形の幾何学的文様は、

ホームスパンにおいて表現可能である。及川全三は、菱形をモ チーフにしたテキスタイルを多数デザインしているが、それら

は、右図に示されたような『拝」、『糸巻き』、『総」からの発想

であったのではないかと考えられる。

また、図2や図4に示したスクラップブックの表紙において

も、文字が図案化されていた。図4の『しようるまふらあ』は、

ひらがなの流れるような描き方で柔らかさを表現し、「服地』は、

正六角形の中央部分に表題を配if制‑ることにより、堅実さを表

現しているように見受けられる。『ねくたい」lは、通常のカタカ

'

− 4 9 −

(6)

菊 池 直 子

及川全三とホームスパンヘの取り組み

pp、74〜80,1996年

3)森由美子:ホームスパンテクニック,pp、14〜16,染織 と生活社,2002年

4)及川全三:岩手のホームスパン,民芸第六十八号八月 号,日本民芸協会,pp,38〜39,1958年

5)及川全三:羊毛本染実験畳書,岩手懸教育曾出版部,

1936年

6)東京民芸協会:及川全三を囲む会,民芸手帖49.2月号,

189号,pp,44‑45,1974年

7)福田ハレ子:岩手の羊毛染め,染織と生活No.19,pp、17〜

24,1977年

8)及川全三:植物染について,日本民雲第4号,pp,32〜36, pp,45,1951年

9)及川全三:紫根染,岩手の文化財,岩手県教育委員会,pp,88

〜91,1956年

10)及川全三:「むらさき」の染旧南部領に残る紫根染,民 芸六月号,54号,pp7〜9,1957年

11)国画会:国画会80年の軌跡,2006年

謝 辞

本研究を進めるにあたり、ご協力いただきました及川恵 美 子 氏 、 野 呂 淑 子 氏 、 高 橋 マ サ 子 氏 に 厚 く 御 礼 申 し 上 げ ます。資料収集では、東和ふるさと歴史資料館の橋本征 也氏、盛岡市先人記念館の田崎農巳氏にご高配をいただ きました。厚く御礼申し上げます。また、意匠図の解釈 で は 、 盛 岡 短 期 大 学 部 生 活 科 学 科 の 佐 藤 恭 子 先 生 に ご 指 導をいただきました。深く感謝いたします。

−50−

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