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帳簿に登録された15-16世紀ロシアの身売り状につ いて

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

帳簿に登録された15‑16世紀ロシアの身売り状につ いて

著者 石戸谷 重郎

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

16

1

ページ 29‑52

発行年 1968‑02‑29

その他のタイトル Регистрированные в книги полные грамоты XY‑XVI веков URL http://hdl.handle.net/10105/3274

(2)

29

帳簿に登録された15‑16世紀ロシアの身売り状について

石 戸 谷  重  郎 (歴史学教室)

ま え が き

ポールナヤ‑グヲ‑モタ

「身売り状」 (FlojiHa只rpaMOTa)の名で呼ばれたのは、少数の例外もあるが、自由人がホロ‑

o

プに身売りするときに、ソビェト史学のいう「自己売却」 (caMonpo且aa<a)の際に、作成された 文書であるO 自由人が自らの自由を売ってホロープになる、という意味で、身売り状はロシアの ホロープ制研究には貴重な史料たるべきものである。身売りについての規定は簡略ながらもほぼ

し11

11世紀ごろの「ル‑スカヤ・プラーゲダ」 (PyccKa兄npaBaa)の1条項として入っており、身

し31

売り状そのものに関しては15‑17世紀の諸典・法令がこれに言及している。 「ポールナヤ・ゲラ

{牀

‑モタ」なる術語の史料初見は15位紀初頭に属するが、おそくとも14世紀末葉には、自由人のホ

し:l 、

ロープへの身売りの際にこの種の文書がつくられはじめたと思われる0

このような事情であるにかかわらず、 19世紀以来今日にいたるまで、ロシア・ソビェト史学は

、t;I

身売り状の鹿本にして今日に伝わるものなし、とくりかえしているのである。然らば、ロシア史

し71

における身売りの実態を追究できないか、というと、実は少なからざる数の身売り状が原本のま までもなく、またその完全な写しでもないにせよ、その内容を、しかもかなり詳細に今日に伝え ているのである。それは、身亮り状がホロ‑プ所有の法的根拠を示す証文の1種として16世紀末

しi・

に帳簿に登録され、そのときの帳簿が一部現在までに発見されていることによってである。 「ホ ロープの名とかれらに対する古い証文」 (HMeHa xojione員H Ha HHX KpenOCTH CTapbie)を1年 以内に(原則として)届け出て登録を受くべし、という指示は、 1597年2月法令によって出され

たが、各種の古い証文の登録は1598年1月末日までにいちおう完了している。この法令、その実

(9)

施、登録された証文の概略等については、すでに別稿において考察したところである。本稿は、

15‑16世紀ロシアにおける身売りの実態の把握を直接の目的とするものではないo まず現在にそ の内容を伝えられる身売り状のすべてにわたって現状のわが国において許される限りでの整備を 試み、ついで16世紀末の登録帳簿が今日には全く伝えられていない原本身売り状をいかに扱い、

どの程度の忠実さ、正確きをもって記録にとどめたかを検討せんとするものであるO

身売り状の研究については、さきにバルクの論文「身売り状」 (1922年)があり、近くはコル

ドクラードナヤ       (10)

イチェワの「15‑16世紀の身売り状と報告状」 (1962年)と題する論文が公にされている。しか し、登録帳簿そのものを読まずしてはわれわれは身売り状について論ずることができない。発見 されている帳簿のうち、 19世紀刊行のものをわれわれはマイクロフィルムによって閲読できた が、幸なことにソビエト史学は昨年度の史料刊行でさらに2つの帳簿を恵接に利用することをわ れわれに可能とし、なお末公刊の2つの帳樽のうちから若干の身売り状を他の史料刊行に収録し た。合計6種に達する「古い証文」の登録帳簿の本稿における略称と、それぞれにいちおう登

(3)

30

帳簿に登録された15‑16世紀ロシアの身売り状について(石戸谷) 録されている身売り状の延べ数(その意味は後述)を示しておこう。

3mぢ

(1) 「ラキエルの帳簿」 (KHHra JIaKHepa) (1855年刊) (3) BAHの帳簿‥(1966年刊)

(5) UrAZJA. kh 7の帳簿(末公刊)

7通 51通 17通 1通 8通

ヨiI芳g

UyAAA. kh. 8の帳簿(末公刊、 5通はAC:m.r.雅に収録刊行) ‑・18通

つまり、延べ数102通のうち21通をわれわれは現状でも直接に検討できないが、上掲コルイチ ュワ論文はそれらについてもある程度までは要点を紹介しているのでそれによりたい。

1 身売り状登録の実例および登録身売り状総目録

論述の便宣上はじめに102通の身売り状(写し)の個々について重要な項目に注目して総目録を かかげておこうと思う。しかし、重要な項目とは向と何か、をまず考えばならないし、また身売

り状登録の事例を完全な形では筆者も紹介したことがないので、若干の事例を示しておこう。

(下に、例えば身売り状8というときは、後にかかげる総目録の番号によっているO登録され ている帳簿名も総目録によって知られるので、本稿では身売り状をあげるときこの番号を用い、

注においていちいち帳簿名を示すことを省略する。ただし、成立年代については身完り状番号の ほかに付記することもある。

事例 その1、身売り状8 (バルク分類の第1型)C17)

ロ‑スピシ′

「同日(1598年1月19日を指さす、引用者)フョードル・レドロフ目録を出し、鉛の印ある身 売り状(nOJIHaH 3a CBHHHaTOK) IleneTbio) 〔1通〕を登録のため提出せり。しこうして身売り 状に〔次のごとく〕書かれあり:

オナこヤの妻なるナスターシャは、おのれの娘タチヤニーツァとともに、おのれの意志によ

プリースタフ       Jヤ‑ク

り(no cBoe員bojih)執行官〔の立会〕なしに、ワシ‑リー・ボT)ソ‑ヴィッチの書記オス

オJエ‑i,ニ(18)

タンカ、かれの妻およびかれの子らに、完全ホロ‑プとして完全に身亮りせり(npo^a^acb oAepeHb B nojiHHuy)c しかるに自己の代金として2ノヴゴロドニルーブリをノヴゴロドめ

か一ね      ポスル」レ

金にて受領せり。しかうして証人記されありQ 」

し1!11

事例 その2、身売り状34 (バルク分類の第2型)

「同H (1598年1月22日を指さす、引用者)イワン・セキーリン目録を出し、身完り状2通を 登録のため提出せり。しかうして身売り状に次のごとく書かれたり:

トレ‑トニク

身売り状。ベレヤの代官ミパイル・クリヤノヴィッチに報告して(Aojio>Ka)ワシ‑リーの 息子なるミパイル・セキ‑リンは、エリーの息子なるペトルーシカをかれの妻オレンカとと

もに、おのれおよびおのれの子らに(co6e h cbohm且eTeM)完全ホロープとして買ひたり (KynHJi b iiojih叫y)しかるにかれらの代金1.5ルーブリを与へたりO しかるに〔かれらは〕

おのれの意志によりて執行官「の立会〕なしにかれに身売りせり(npoAaJI班cb eMy no CBoe蕗 BOjie 6e3 np汀CTaBa) しかうして証人記されありO身売り状を書記ザハル作成せりO身売

ぺチヤーチ       タムガー

り状に印章あり.'四隅に円(npyr)ありて、その中にベレヤ侯の印(TaMra)あり、また同 じ円の中に鳥(nTtma)あり. 」

事例 その3、身売り状1 (バルク分類の第2型、伝えられるうちでは最も古い。)

(4)

帳簿に登録された15‑16世紀ロシアの身売り状について(石戸谷)

31

チ̲T∴蝣>L:'‑し ト\'

「同日(1598年1月30日を指さす、引用者)イワン・ロドゥイギン、ワシーリーの息子、申請書を 出し、身売り状3通および報告状〔1通〕を登録のため提出せり。しかうして身売り状および 報告状に〔次のごとく〕書かれあり:

身売り状。ユリー・ハトリケ‑ヴィッチ侯に報告して(AOJIO)Ka)マトフェイの息子ヤコフ はクロウォブスクなるイワシカを妻アニュ‑シカとともに、おのれおよびおのれのすべての 子らに完全ホロープとして員ひたり(kviihji b nojiHHuy)c しかるにかれらの代金2ルーブ リを与えたり。しかるに〔かれらは〕おのれの意志によりて執行官〔の立会〕なしに身売り せり(npoAaAHC兄)税吏らは税を徴取せり(TaMOサCHHUbi TaMry h BOCMHiwee b3hjih)、し

ピナ‑〟

かうして証人記されあり。身売り状を書記オニケイ作成せり。身売り状に円の中の3つの杖 の印章(ne^HTb)あり。

事例 その4、身売り状102 (バルク分類の第3型、伝えられるうちでは最も後のもの)

「同日(1598年1月15日)ヴォイン・ノヴォクシェノフ申請書を出し、分配状〔1〕、身売り状 11通、報告状3通およびカバラア12通を登録のため提出せり。 ‑・

ゴスダーリ(20)

身売り状。パシコフの息子オレールは、おのれの主人オフォナ‑シャ・ノヴォクシェノフ、

イワンの息子に、イグナチェイ・リトゲィノフの子らなるグリーシァ・ビヤロイとフロルカ とを、かれ(オレールの主人オフォナ‑シャを指さす、引用者)およびかれの子らに完全ホ

!蝣"‑  、

ロ‑プとして買ひたりo しかるにかれらの代金3ルーブリを与へたり。貴族にしてノヴゴロ

こi ‑一蝣'

ドの代官なるドミ‑トリー・フヨ‑ドログィッチ・バレーツキーのもとより執行官ルカ・テ

ブリ*v>‑ル(20      タモーL>ニツイ

ザコフ到来せり。皇帝にして全ロシアの大侯なるイワン・ワシ‑リエヴィッチの税吏ら税を

し∴、

徴取せり。身売り状をイワンの息子なるヤムスコィ、オラブイシ・ペレペテン、7062年(西

ぺチヤ‑チ

暦1554年、引用者) 6月4日に作成せり。身売り状に大ノヴゴロドの印章あり。 」

上の諸事例から、すべての身売り状登録に共通していないにしても、原則的には次の諸項目が ユ6世紀末の登録にあたって個々の原本身売り状について注目されたことが知られる:代官への報 告の有無、ホロ‑プ所有者となる買主の名(用人が買ったときはその主人の名も) 、身売り人と その家族の名、身売りの事実、金額、執行官の立会、徴税の事実、証人、身完り状作成者の名、

同作成の年月日、印章。これら各項目の有無、あるいは内容は、時代と地域によって差異があ り、バルクの分類も主にそれによっているのであるOいま, 102通(延べ数)の身売り状の絵目録 作成に当っては、できるだけ人物の固有名をさけ、身売りの事実もほとんど共通した慣用句が使 われており、これなしには身売り状が成立しないのであるから、目録からは省略する。

帳簿に登録された身売り状総目録

1)帳簿名は既掲の略称による。

.9)買主名は,主人が自己の用人に買わせたときでも,その主人名を示す0

3) 執行官 の項について「なし」とあるは「執行官なしに」身売りしたことの記載を示し, ×はこの項について何ら記載ないこ とを示す。

4)成立年代のうち, ( )は推定を示すO 〔 〕あるときは,はじめピザンツ紀元をかかげ, 〔 〕のうちに西暦‑の換算,もしく はビザンツ紀元の誤写訂正の上西暦を示す。

5)すべて, ×印は帳等にそれぞれの項目(徴税,証人,成立年代などについて)記載ないことを示すO それが原本にないことによ るか,登録‑筆写の際の省略または脱落かについては後に論ずる0

6)空白になっている項目は, ×印とちがって帳簿に記載ないことを示すもZ)でなく,帳簿未仝刊のため筆者が直接にそれぞれを確 認できず,コルイチエワ論文によっても知り得ない部分である。

7) (作成区)は,明確に知られる場合も推定される場合もあるが,原本身売り状にも帳簿にも必蛋項目として入っているのではな

い。推定の場合にはコルイチエワ論文によっているQ

(5)

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BAH.n.77      X lイワン‑ヤコブレフ

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[夫婦,子6[8人8p. 0 I 0 t o Fレ鑓㌔コイ)(1462‑1480) cnn 巨モスクワ)

│(Aca瓶等).398)回プシテ‑=シーリェ舟ども(男)(1人中p・ I o I o l o 】アレ スコイ)(1462̲1480)!(2

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6 I PHB.XW.No.549つ。ト・,‑‑アレクセ尋母と子1人(2人1.5p.なし巨

中冒孟2誠9謡‑96

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8 PHB.XVLNo.409 × l書記オスタンカ 9 PHB.IVK No.348 ×

フョードル‑ ノヴォクシチェノフ

10 PHB.XVB. No.291回アファナシ,‑;ルヰ ll PHB.XW. No.35中× Iイワヲ

12 i JIaKHep. No.4

母と子1人

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13 PHB.XW. No.315 × フョードル‑ . スコベルツイン

14 PHB.17.N。.346 ×巨てと〒

ノヴォクシチェノフ

PHB.17. No.351回イヲ完クシテェノフ 16 PHB.17. No.353 回イフ完クシテェノフ

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フョードル‑

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(6)

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26 PHB.17二五349

27 〜 UrAflA.KH・8 28 PUB.17. No.302

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33 PHB.17. No.527 回ワシ リ言;̲ツト

34 PIイB.17. No.514  0

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36 I BAH.ji. 80‑80 06.

37 PHB.17. No.145 38 PHB.17. No.411

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(ノヴゴロド)

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52 Jlai川ep. No.1  × lセメン‑セスラ 53 PHB.17. No.102  ×

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(1人 2P. O i O i x

(1人 4p.

・恒ン‑‑レ‑ツキーl夫禁はノヴm(豊)巨p・

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三言=モク吾1511年3可 enHトゲゴロド) スコイ1511語月13。 crm 音x*高

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2r月2日I I(モスクワ) 苦言芸吉呂‑=*11512

A*3‑f)等月12。cnHl

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(モスクワ)

這月27日L   】(ノヴゴロド)

(ノヴゴロド)

(8)

65 PHB.17. No.538

ppィB.17. No.512

67 JlaKHep. No.2 68 PHB.17. No.537 69 PHB.17. No.536 70 urA月A. KH.8

× tワシーリ‑‑シュミフ

ミトコフ イワンニ

スコベルツイン

× Lワシーリ‑=シュミフ

× Lワシ‑';‑‑シュミフ

F夫婦、子2人(4人)

I (丸よノヴゴロド人)

5p.01oIoEカラ競コイ1515ip 1月2。

0 I 0 1 0 iトピコフ

× i O I 0 1ウオロサトイ

I買ノヴゴ言語2p. 。

(2人 2p. 0

0 I 0 コラチェフ (ヤムスコイ)

1515年

‑旦且旦月 1515年

10月17日 1516年

3月12日

大ノゲ.の印l(ノヴゴロド) as匁.の印kjヴゴロド)

I l・川I  '

大ノヴ.のEP(ノヴゴロド)

エレノイ‑トルソフ

71 BAH.jui.21‑21 06.回アントレイ;シリェ

閂(ノヴゴ。(lA) KA)2p

讃ノヴゴ(1A)│1n

'pA)Ilp"○!。巨恒ロサトイ 72 urAflA.KH.7  × rグーバ‑シマンスキー:男

73 urAZIA.KH.8  × Llワン

ムイシェツキー

74 urAJIA.KH.7 75 urAnA.KH.7

76 WARA. kh.7

ピョ‑トル

エレメエフ

× げ‑バ‑シマンスキー

し   ト'L‑‑

エレメエフ

77 BAH. ji.64‑64 06.

78 urAflA. kh.7 79 BAH.^iAH..71.83

AH. ji.82‑83 pxu膚

× lイワン‑エレ‑ツキー

× lグーバ‑シマンスキ‑

×Pセメン=トウイルトフ

×1ガマ‑トウイルトフ 81 BAH.ji.83‑8306. × lガマ‑トウイル 82 PHB.17. No.227 I x 「ネクリュード

8中3HB.17. No.228 可ネク1)ユラド;ル.)ン

84 BAH.ji.59‑5906. × lネチャイ‑ゲラザトイ UFAflA‑ kh.8

イワン= ゲイシェスラフツェフ

(1人)

(スタロドゥープ人)

2p. × I X I O

(1人)〜 2p

(2人 2p. × 1 × I O

母、子7人

(8人)l8pつ × I x i O (1人)】2pつ × I x 1 O [男(モスク(1A)

5A)巨O。loよ孟t'>3SOl'ィ書記) 夫婦、(夫は ,莞仝(7A

7A臣op・】×巨I。

男2人 (2人)

(i立にノヴゴ FA) 4p. × 〜 O A x けオロサトイ

1517年 6月12日 1517年

7月14日 1517年

12月24日

ノダゴロド)

(ブスコフ) (モスクワ)

1520等月1.。1 1(ノヴゴロド)

152誓月12。L   恒スクワ)

1520等月29。J  巨ブスコフ) l〔1521^0

12^13。T1(モスクワ)

第㌔.の印t(/ヴゴロド

(ブスコフ) 1524年

3月24日

(1人)巨pつo r可o fチモ宗㌔コイ1524等月2。

O Iチモフェイ

1525年 2月7日

cI川 I (ブスコフ)

捕(^exi'y) L(モスクワ)

書記1525語月11。l大ノグ・の印恒ヴゴロド) 書記1525*p

12月17日

コイ1526雪月1。。

・ k/ウゴロド)

eIm I (モスクワ)

粛 討 ' ,   ' ̲ x < i i i I こ 1 ^ : 1 5 ‑ 1 6 1 1 ! ; 詣 v > r c / j f j ‑ 削 < > { ) 二 1 0 ∵ ‑ c ^ コ Z j )

子1人(夫 ゴロド人) 子1人(6人)

1526年

3月26日 (ノヴゴロド)

(9)

JIafはen. No.3 87 UTAflA. kh.8 PHB.17. No.226

アンドレイ‑

プストシキン

× Lイワン=エレツキー クネリュードニ

プトゥルリ JIOHH. Ji.i o6‑5 ×

90 PHB.17. No.230 91 urAAA. KH.7 92 i PHB.17. No.232 93 i PHB.17. No.329 PHB.17. No.224 95 UFAflA. kh.8

̲聖上聖A月A. KH.8

〔97〕厄rA月A. KH.8

グリゴリー‑

エプレエ ダリゴリー‑

ブトゥルリ キフォロフ‑

ヴイシェスラツェ ネクリュドニ

L胃Jy‑3。(1A)│

KA)I3.5dj

i夫票はノグゴD(豊6p.

ンl男  E晶金3pつo i o

フL男(ル千ヤ(1A)3p. O I o

ンl男 (1人3pつolo

× [ ×

坑ウルリン ウゴ。1炭)ノ13p. O i O兄弟  (2人) ヤコフ‑レフシンl男 (1人)恒p・l o i 。

ネクリュード‑

ブトウルリ

× lイワン‑エレ‑ツキー

× rイワン‑エレ‑ツキー

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0 1ウォロサトイ

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(ブスコフ) 1526‑1527年I i(ノヴゴEjド)

× [(ノヴゴロド)

o Iクレハエ7 1527等月1。日f大ノヴ・の可(ノヴゴロド)

・ lミトp‑?7y孟)11527等月29。i cnはI(モスクワ)

0    15警月29。

○ ]ネ'Ja書,㌔̲ ,、1529管

(ヤムスコイ) (ヤムスコイ)

3月1Fl o lクロ737 ̲,、l1531管

2月28ト1

ネクリュドフ

(ヤムスコイ書記)

(ノヴゴロド)

ニ上空竺聖

t(モスクワ)

1531年

9月13日

1532年 8H9U

(ノヴゴロド)

(ブスコフ) (ブスコフ)

× iイワン

父,子1人

⊂帳簿に欠損多し⊃

33箸月28。cnnbo IICK。Be

BAH. ji.83      ×

urA月A. KH.7 100 BAH. a.20‑21.

101 IifAZIA. K!丁.7

102 PHB.17. No.356

ガプリラ‑トイルトフ

グーバ‑シマンスキー

イワン‑

ミロスラフスキー

× Fアラブ‑アミネフ

アフアナシー‑

ノヴォクシテョ

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夫臥子2[4人3pつ○ ! ○ (1人 5pつ × A x

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)K

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ルイコジ

宗法イ15

1536年

6f]9n

(ブスコフ)

(モスクワ)

○ 豊3‑f蒙B)誓月17。t i(ノヴゴロド)

1547年 10月14日

・ lペレ㌫コイ)1554年6月4日

(モスクワ)

大ノヴ・。印恒ヴゴロド)

Wflfz151670b{tofiT(Jj)

(10)

帳簿に登録された15‑16世紀ロシアの身売り状について(石戸谷) 37

2 文書分類の混同

「身完状」と「報告状」とは、ともに自由人がホロープになるときに作成されたものであり

(zォ

(ともに稀な例外はある)、とくに身売り状のうちバルク分類第2型(さきの事例その2およびそ の3)はすべて国家権力当事者に「報告して」身売りが行なわれたことを記しているので、両者

t.ごJl

の異同については、ロシア・ソビエト史学でもこれまでしばしば論ぜられてきた。最近コルイチ ェワは、報告状の必須条件として「報告」のみならず、 「クリュ‑チによってまたホロ‑プに」

(no iくjhohv 】H B X0月OI】bl)なる項目をあげ、つまりクリュ‑チニク‑ホロ‑プになるときに作成

しごt;,

されたのが報告状である、という見解を強く主張している。これで問題が解決されたわけではな いが、身完り状か報告状かの区別の困難なときには「報告」の有無にこだわらず、内容を吟味す

る必要があろう。

ところで、この問題はわれわれを混迷せしめるばかりでなく、実は16世紀末「古い証文」の登 録にあたって、証文を受理・審査し登録した事務担当者(以下登録書記と呼称する)においても 同じであり、かれらでさえも身売り状と報告状とを混同することが稀でなかったのである。

混同されたケースは次のごとくである.

1)身売り状6

1598年1月23Hにイワン・クラスノスレポフは計7通の証文を登録のため提出した PHB.17 の帳簿はそれらの証文について「報告状〔1通〕、身売り状〔1通〕・‑」と数えた上、さらに両者の 内要を写しとっている。ここにいう身売り状は、さきの総目録の43にあたるのであるが(42との 重複については後述) 、問題は報告状にある。登録書記はさらに「報告状」という見出しをつけ て、この証文の要旨ならびに当初(1470年代と考えらる)身売りしたホロープの子孫(1598年1 月現在における)の名を記しているが、問題になる点は次のごとくである:

「報告状:スーズダリの代官セメン・イワノヴィッチ侯に報告して、ユリーは、 H‑を貫いた り。 ‑しかうして身売り状に証人記されあり。セメン・マノソフ報告状を作成せり。報告状 に磯田あり、しかるにその中には(印をいう、引用者)人物立像ありo Lかうして(かれ証文 証出者を指さす、引用者)の曽祖父エリーのこの身完り状により(no ro蕗Ae IIOJIHO蕗) H‑

はかれのもとに奉公す‑」 (圏点、引用者)

すなわち、登録書記はこの証文をときに報告状、ときに身売り状といって、混同しているので ある0 19世紀末にPHB.17の帳簿刊行者は、上の見出し「報告状」をそのままに受けとり、巻

(27)

末付録の分類で報告状に数えたが、その内容も考慮して、われわれはいまコルイチエワとともに これを身売り状と判定する。

2)身売り状7

、̲二ざ'

この証文はホロープ売買を示す稀な例の1つに属するが、報告状でないことは、上述のケ‑ス よりもいっそう明白である BAHの帳簿によれば1598年ユ月31日にイワン・クワーシンが「身 売り状〔1通〕を報告状〔1通〕 」を提出したことをまず記し、ついで「報告状」の見出しで前 者(身売り状)の内容を記載しているが、そのおわりの部分で「身売り状に証人記されあり、身 売り状をレウォンチェイ・ボロトこコフ作成せり、身売り状にフョードル・ホワンスキ‑侯(ウ ォロックの代官にして報告を受けた人物、引用者)の印章あり」と記されている故、登録書記が その見出しにおいて誤って「報告状」としたことは疑をはさむ余地はない。

(11)

38

帳簿に登録されf;15‑16位紀ロシアの身売り状について(石戸谷) 3)身完り状44

上の身売り状7と同時に提出され「報告状」として登録され、内容記載の末尾でも「報告状に 人物の噛印あり」とまで帳簿には記されている。これを身売り状とするか報告状とするかは、現 代のソビェト学界でも見解の対立があり、 BAHの帳簿をはじbZ)て学界に紹介したバネセフとこ

し1Lり1

の帳簿を刊行したコバネフは、 16世紀の登録書記による分類のまま「報告状」に数え上げた。こ

、洲、

れに対して、コルイチェワはこれを明白に「身売り状」と見なしているO この証文は「ユリエフ の代官に報告して」ワシ‑リー・クロピヴィンが「仕立尾の妻」 (>KeHa nopTOBo MacTepa)と

その3人の娘とを買ったときのもので、勿論クリユーチニク・ホロ‑プとしてではなく、内容的 にはバルク分類の第2型の身売り状に属するO 史料築AC3H. t.班にこの証文を収録したチェ

胃蔓ilg

レープニンも、巻末解説において、この証を「身売り状」の1つに見なしている。われわれは、

証文の内容からしてコルイチェワやチェレ‑プニンの所説に与したい0 4)報告状が身完り状ときれている場合

上の3つのケースは登録書記によって見出しにおいて「報告状」と記されて登録されたものを 身完り状と訂正したのであるが、その逆の場合もある1597年12月27日にイワン・ムラビョフの 提出した証文について、 PHB. 17の帳簿は「身売り状1通、報告状1通」を含む計7通の証文 が提出された、と記しながら登録では「身完状」という見出しで2通を写しとっている。そのう ち1通の内容には、 「代官への報告」は勿論、さらに「クリュ‑チによってまたホロープ」とい う報告状特有の項目があげられ、加えて末尾では「イラブルコ報告状を作成せり」 「報告状に蟻 印あり」という記載の確認さえ帳簿にのせられている。したがって、この証文については当時の 登録書記が見出しを「身売り状」と誤記したこと明らかである PHB.17の帳簿の刊行者は、巻 末集計でこの誤記に注目せずにこの証文を身売り状に数えている。にもかかわらず、われわれが 身売り状総目録からこの証文を省いた理由は上のごとくである。

3 証文の真備鑑定

・;},'、l

ホロープ証文の真偽鑑定はホロープ裁判でも行なわれた事例があるが、 16世紀末の証文登録に 当って登録書記は当然偽作の証文を摘発する義務を負わされていた筈である。帳簿には、当時の 登録書記によってすでに偽作ときれた身売り状1適があるO このほか、登録書記が見のがし、コ ルイチエワによって偽作と判定されるにいたった身売り状がPHB. 17の帳簿に1通ある。

1)身売り状51

登録書記はいちおう帳簿にこの身売り状(の要旨)を写し取った上で、次のようにそれが偽作

、l̲1l、

なることを付記している:

「しこうして、この身売り状(nojiHaH KaSajia)は、真正のものならず、新たに書かれ、破ら 叫、もみくちゃにされあり(He npHMan, imcaHa hobo,月paneHHHa h MHTa)。しかるに、他

̲ 1̲‑・蝣一蝣v一蝣.こI L

の小貴族らは同じブルガーク‑ウォクシェリン、ワシーリーの息子の手になる身売り状および 報告状を提出せるも、この〔身売り状〕の筆蹟(nHCMO)はそれらと筆蹟および印章において‑

致せず(nHCbMOM h nenaTbio He co蕗且ema)c 」 (圏点、引用者)

つまり、 16世紀末当時、登録書記がこの身売り状を「真正のものならず」と断定したのは、同 じウォクシェリン作成の他の証文との比較によってである。筆蹟については、かれが直接に検討 し比較したそれらの原本がすべて失なわれているので、かれの言に従うとして、印章について

(12)

帳簿に董録された15‑16世紀ロシアの身売り状について(石戸谷) 39

考えてみよう。この身売り状は1508年2月11日の目付をつけられているが、ノヴゴロド代官の「蟻 印あり」と登録書記によって確認されているO身売り状総目録からも知られるように15‑16世紀

ノヴゴロドの多数の身売り状は、代官の増印でなく、 「大ノヴゴロドの印」 (TaMra BejiHKoro

(35)

HoBropo且a)を押されていたのである.他方、この身売り状51を偽作とした登録書記は、同じウ ォクシェリン作成の他の「身売り状および報告状」と比較したと述べているが、 1508年前後にこ のウォクシェリンが作成した身売り状は現存登録帳簿には兄いだきれない。身売り状45、 46、 47 (1500年‑1503年)はルグベネフ、身売り状53、 58 (1510‑1511年)はプチロフが、それぞれ作 成者となっている。その代り、報告状では1494‑1509年にわたる計11通が、まさに問題のブルガ

l:朴

‑ク・ウォクシェリンによって作成されたものである。ところが、これらの報告状では「大ノヴ ゴロドの印」でなく、蟻印が確認されている(1通のみ印章についての記載を帳簿に伝えず)。ノ ヴゴロドでは、身売り状には「大ノヴゴロドの印」、報告状には代官の「蛸印」、という区別が行 なわれていたと考うべきであろう。それにもかかわらず、問題の身売り状51に代官の「噛E田が あったことに、登録書記が気づいて、 「印章において‑致せず」と判定したのではあるまいか。

何れにせよ、この身売り状は16世紀末の登録書記の判定のように偽物と見なきるべきであろう。

2)身売り状59

この場合には、登録書記は偽作の身売り状といっていない。コルイチェワによる判定である。

コルイチェワの判定は勿論原本を見てのことでなく、登録書記が原本について「身売り状に印章

ピサーナ    m,

押さる: CnH」と記している点および身売り状作成者を問題にしているのである。われわれが 刊行登録帳簿によって確認できる限りではノヴゴロドで作成された身売り状にして"cnH"の印

をおされているものはなく、未刊のurAnAの帳簿についてもコルイチェワは同じ報告をしてい る。たしかにこの点で身売り状59は異例であるo またこの身売り状は作成者をチェルネ‑ツ・パ ユソフとしている。パユソフの名は、年代が明記されている限りのものでも、身売り状18、 19、

24、 25、 28の5通あり、 1490年から1496年にかけてであり、 16世紀に属するノヴゴロドの身毒り 状には既掲のルグネフ、プチロフなどが作成者となっているが、同世紀10年代のものでもパユソ フの名は兄いだされないのである。問題の身売り状59は「7019年3月」すなわち西暦1511年3月 という成立年代になっているが、コルイチェワのいうように、果たしてそのころにパユソフがノ ヴゴロドで身売り状作成に従事していたかはきわめて疑問である。後述するように、 「7019」は 文字で表わされていたので、かりに登録書記が原本から年代を写しまちがえた場合を想定するに しても、印章のttCnH"の謎はとけないのである。また、コルイチェワによって言及されてい ないが、この身売り状については、登録書記によって、執行官立会の有無も徴税のことも、また 証人のことも帳簿記載の際に確認されていない。原本にあっても記載されない項目もあるにせよ (後述) 、この3項目のすべてを帳簿に確認事項として記載していない等列はきわめて稀であ り、このほかには15世紀の地方小都市での2通のみである。 16世紀のノヴゴロドでパユソフによ って作成されたという身売り状原本に、上の3項目が全く欠けていたとすれば、その原本は偽物 であった疑いはいっそう深まるであろう。 AC:M T. の監修者はこの身売り状をも収録してコ ルイチェワの偽作説を紹介しているが、賛否を明白にしていない。われわれの立場としてはいち おう偽作説をとろうと思う。

(13)

40

帳簿に登録された15‑16世紀ロシアの身売り状について(石戸谷)

4 重 複 登 録

原本1通の身売り状が重複して登録されていることがある。これをもって登録書記の事務上の 誤りとすべきではあるまい。 1597年2月のホロープ法令は、 「古い証文」そのものの登録ととも に、法令発布の時点における「ホロープの名」の登録をも指示している1597‑1598年現在での ホロープの名を届け出ずに、たんに「古い証文」の提出におわっている場合に、登録書記がこれ

し;LJ、

を不審としているのもこの故にである。つまり、同一の証文によって異なる主人が異なるホロー プを所有し隷属させている場合、とくにそれが日を異にして届け出られたとき、その証文は重複 して登録されることになるのである。ただ、われわれが身売り状あるいはその内容を集計的に利 用せんとするまうとき、この重複を明らかにしておく必要がある(PHB. 17の刊行者は重複を見 落していた) 。また、重複の場合その原本は同一のもの故、登録・筆写きれたものの相互比は、

原本からの省略の程度を認証し誤写を兄いだすのに都合がよい筈である。

1)身売り状35

1598年1月22日にイワン・セキーリン(ダリゴ.)‑の息子)は、 14通の証文(身売り状4、判 決書1、スルジ‑ラヤ‑カバラア9)を握出し、刊行本PHB. 17の帳簿ではその身売り状の1 つにNo.513の番号を付したo この身売り状について登録書記は「サーフカ(CaBiくa)およびその 妻マリーツァ」が買われたことなどかなり詳しいことを写し取っている。ところが同じ日、ミキ フォル・セキ‑リンの息子ら2人フ。‑ドルとオファナシ‑の兄弟も5通の証文を出し、登録書 記はその中に身売り状があることを認め、これを単数形で記録している。 PHB. 17の帳簿の刊

lリ:ll

行者は、この記事についてとくに欄外に註をはどこして、 「1通ではない」としている。そして 刊行本で、いうところの2通めの身売り状にNo.528の番号を付したのである。しかし、帳簿には 兄弟のもとに「グリゴリーの息子なるイワシ・セキ‑リンと共同で身売り状あり(nojiFia只BOIIHH C MBaHOM)」と明記され、かつNo.528の身売り状の内容については「サワ書かれあり」(HanHcaH CaBa」と一言するにとどまり、つづいて「この共同の身売り状によって」 (no to員ae Bonne員 nojiHOfを)かれら兄弟のもとに現に奉公しているホロ‑プの名を列挙しているのであるOつまり

兄弟が提出したのは、まさに1通の身完り状にすぎなかったのである.このケースは勿論、純粋 な意味での重複登録ではないO しかし、異った主人(一万でイワン、他方で兄弟)が1通の原本 身売り状でそれぞれ異ったホロープを隷属させていたのである.

2)身売り状30と身売り状31

ラッポ・ダニレ‑フスキーの報告によれば、 PHB.17の帳簿原本には異った5人の筆蹟が認め

しJU・

られるo ここで問題にする身売状30と同31とは、それぞれ帳簿原本においてJiJi. 12806.‑12906.

と.zM. 66‑67に写しとられていて、相異なった書記によって登録されたことが知れる。両者の 内容を比較してみると、買主の名(ミパイルの息子なるドミートリー・オポリャニン) 、身売り

した本人ではなくてその妻子の名(妻はグリジンの娘オリートカ、子はフェドシーツ7とルキヤ ンコ)、金額(1.5ルーブリ)、徴税の事実の確認、作成者の名(イワン・ルグベネフ)などは一 致している。ところが、最も重要な身売りした本人の名をはじめ、両者にはいろいろな差異があ る。すなわち表にしてみると次のようになる。

(14)

帳簿に登録された15‑16世紀ロシアの身売り状について(石戸谷)

身売 り 状30 1.身売り状の提出日 1598年1月15日

身売 り 状31 1598年1月7日

511

2・身完。状の酎者匝霊?息子なるステパン‑Fi盃芦禦穿景鵠昔

「ダニールの息子なるイワシコ」

身売り状の内容

M)執行官立会の確認はき霜言冒蒜宗野オンドレイよ鹿訂ロドの代官オンドレイよ。

ei)作成年月日 血印章の確認 4. 1598年現在でのホロ

ープ名の示し万

「証人記されあり」    転入の項を欠く

Ul)

「7007年3月24日」 「7007年3月26日」

fr大ノウゴロドの妄ムガ‑(印)」 1「大ノウゴロドの妄ムガ‑(SOJ

嘗芝。状の内を 活して登凱たあl身完。状の内容の中間に

身売り状30と同31の異同については、コルイチェワも上表の(T)(ウ)Wをあげて、登録の際の誤写

、蝣i:>

や不正確さの事例とする一万で、それにもかかわらず同一原本によっているとしている。ただ、

コルイチェワは重複登録なることの論拠を明確にしていないので、若干の考察を試みておこう。

上表のうち(4)については、身売り状31のようなケースが他にも稀でなく兄いだされる(*)証人 の項を欠く事例は他にも多い。 Wi TeMraは些細な誤記、その他の点もとくに問題とするに足らな いであろう。それにしても誤写の多いのは注目に価するが、とくに日付のちがいがある意味では 大きい。たんなる「日」であるから許きれようが(30と31のうち何れかが誤りとわれわれは考え

an

る)、これが年の誤記とすれば問塩となろう(後述)。当時は、数字が文字で表わされていたこと だけでこのような誤写は説明きれない。

ところで、身売り状として最も重要な項目の1つである(ア)本人の名のちがいにかかわらず、両 者が同一原本からの写しと主張するにはそれなりの根拠が必要である.提出者がともにオポリヤ こン家一族の者であり、当初の買主なるドミ‑トリー‑オポリャニンが、かれらの共同の祖先で あったことを推定させ得るにしても、極端な場合には、同一買主ドミートr)‑が1499年3月の異 った日に、異った人物を買い、たまたまその家族(妻子)の名が一致していたにすぎない、身売 り状30と身売り状31とは全く別々の2通である、という推論が成り立つかもしれないのである。

とくに、妻子の名が一致するといっても、人名はロシアには余り多くないからである。

そこで登録帳簿をさらに読み直してみると、身売り状30については、 1598年現在でのステパン

‑オポリャニン(証文提出者)に属するホロープを列挙したのち、当初のホロープとその子孫の 系譜にふれて、次のように記載きれている: 「しかるに、身売り状にはイワンコ‑ダニ一口フな らびにかれの息子ルキヤンコ記されあり。しかるにルキヤンコに‑息子ボリスコありたり。 ‑・」

つまり重要なことは、ここでは1499年当初に身売りした人物として「イワシコの息子なるダ二一 ルカ」ではなく「イワンコ‑ダニーロフ」、すななら「ダニール(ダニールカ)の息子なるイワ ンコ(イワシカ) 」となっており、最も重要な点において身売り状31と一致するのである。結論

(15)

42

帳簿に登録された15‑16世紀ロシアの身売り状について(石戸谷)

的にいえば、身売りした本人の名に関する限り、身売り状30は誤写であり、同31が正しく、かつ 2つの身売り状は異った日に親族同志の間で重複して提出された同一原本であった、ということ になるのである。

3)身売り状42と身売り状43

これらも異った筆虞で登録されているので、登録書記は勿論別人である。上に見たような多く の差異、重畢なちがいはなく、買主も身売りした本人とその家族の名も完全に一致し、作成者の 名はいうに及ばず、印章まで一致している。同一原本なることは疑を容れないであろうO身売り 状42は、 1598年1月15日にセメンの子らなるイワン‑カルトマゾフとレウォンチェイ‑カルトマ ゾフとが、亡父セメンの遺言状(1593年)その他のホロープ証文とともに提出したものであり、

身売り状43は同年1月23日にイワン‑クラスノスレポフが提出したものである。当初15世紀の買 手はともに「アブラムの息子なるワシ‑リ‑」としか写されていないので、この人物がカルトマ ゾフ家の祖先か、それともクラスノスレポフ家の祖先なのか、それとも両家の何れにも属さなか ったのかは、これを断定できない。ただ、当初のホロ‑プの子孫の系譜については、クラスノス レポフが提出したときにのみ詳しく記載きれている。ワシーリ‑なる当初の買手がクラスノスレ ポフ家の祖先であった可能性が強いように思われる。

身売り状42と同43とが同一原本によったという判定はコルイチェワによっても下されている

(1rll

が、われわれも同じ見解をとるとはいえ、原本からの筆写・登録がそのときの書記によって差あ ることは、この場合についても見られるO上の身売り状30と同31ほど多くの点、また根本的な点 での差異、誤写、脱落がないにしても、果たして原本が同一の身完り状であったかと疑いたくな る‑ようなちがいもある。すなわち.'

身売り状42 「・・・しかるに、何を与えたるやを知らず(htoノIan, Toro He 3HaTb)自己の意志 によって身売りせりo しかるに、モスクワのブラゴヴェシチエンスキー〔教会〕の 司祭らより税を徴取されたり(A TaMry it BOCMH^ee B3月n ot nonoB BjiaroBe‑

meHCKHX MoCKOBCfくガX) 」

身売り状43「‑しかるに、かれらの代金4ルーブリを与えたり。 〔かれらは〕自己の意志によ って執行官なしに身売りせりO オンドレイ・ミハイログィッチ・センカ(ペレヤス ラグT)の代官、引用者)のもとより執行官、報告をもって到来せり(npHXOAM3

EO IくJiaAOM) 」

42において身売りの代金不明としているのは、全く例外中の例外で、もし原本にそれが記され ていなかったとしたら、このような原本を身売り状として登録した書記の怠慢ないし手落ちとい わざるを得ない。他方、 43では徴税のことに全くふれていない。そのときの登録書記はこれを見

ォ7)      (48)

落したのであろうか。 2つをつき合わせると、原本の姿が出てくるように思われるが、 16世紀未 の身売り状の筆写・登録が必ずしもつねに原本に忠実でなかったことをいい得るであろう。

5 登録書記による省略の程度

身売り状原本を帳簿に登録した16世紀末の書記が、原本からの筆写に当って省略を行ない、と きには誤写さえもあったことは、重複登録の考察に際しておのずから明るみに出てきた。そこ で、この間題をやや綜合的に検討してみよう。

身売り状総目録からも知られるように、執行官立会の有無、徴税の確認、および証人について

参照

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 17〜18

35; Contagious Diseases Act,1869, 32and

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