16世紀ロシアの土地記載文書
著者 石戸谷 重郎
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 27
号 1
ページ 75‑95
発行年 1978‑11‑25
その他のタイトル Писцовая документация в России XVI века
URL http://hdl.handle.net/10105/2656
奈良教育大学紀要 第27巻 第1号(人文・社会)昭和53年 Bull. Nara Univ. Educ., Vol.27, No.1 (cult. &soc), 1978
16世紀ロシアの土地記載文書
石戸谷 重 郎
(歴史学教室) (昭和53年5月1日受理)
in^K^^Ejβ E3
ここ数年、われわれは15‑17世紀ロシアにおける農奴制の形成に関心を寄せてきた(1)ロシア 農奴制の立法化は、 1649年の「会議法典」でいちおう完成されるが、同法典第11章「農民につい ての裁判」には、 「土地台帳」 (nHCUOBaa KHHra)、 「(住民)登録台帳」 (nepenHCHa只KHHra)の はかに、なお若干の文書が農民緊縛の法的根拠としてあげられている(z)。土地売買状に農民の名 が記されているとき、それが農民を緊縛することは容易に理解されるし、農民そのものについて の「譲り状」 (nocTyrma月rpaMOTa)も特に問題になることはない̀3)。ところが、 <oTAejibHa月 KHHra≫あるいは≪oTIくa3Han KHHra≫などは、その内容を実例によって、それもある程度豊 富な実例によって確認しない限り、農民緊縛との関係を明らかにできず、そのテクストを求めつ づけていたu)。他方、 16世紀、なかんずく当時における土地台帳の作成がロシア農奴制の形威に 重要な意味をもつことについては、今日では再検討の余地が出てきているとはいえ、リャシチェ ンコらの所説が飯田貫‑氏によって紹介されている(5)。この問題は、 16世紀末葉のかの「禁止 年」とも結びつけられて、ソビェト学界で新たな論争をひき起こしており、論争の中心になって いるコレツキーは、特に16世紀80‑90年代における土地台帳作成事業を再検討して、グレコフ所 説を批判している(6)。あたかもこのような時に、鳥山成人氏は16世紀末に焦点をすえて、ロシア
・ソビエト史学の研究史を鮮かに整理してわれわれに示してくれた(71。鳥山論文は「禁止年」に ついても多くを論じているが、これを受けてわがロシア中世史学をさらに前進させるためには
「禁止年」についての史料の主なものを収めているサモクワソフの「アルヒーフの資料」 (81(仝2 巻、 1905‑1909年刊、以下「資料」と略記)をひもとく必要があり、われわれの作業もこれに着手し た。ところが、本書のほう大な内容を読んでいくうちに、前記の≪OT^eJibHa兄KHHra≫ などの 豊富な用例もここに収められていることを知り、この際、土地記載文書全般について基礎的な考 察を試みるのが先決と考えるにいたった。
本稿が「土地記載文書」 (nHcuoBan AOKyMeHTauHH)というとき、それは広義の土地台帳を いうO この語をわれわれは直接にはペトゥホフ論文から借りているが(9)、最近のソビェト史学で は、アンピロゴフ、キセレフなども「土地台帳」に広・狭両義あることを指摘している(糊。わ れわれの手もとには「土地台帳」の名で刊行された「モスクワ国家の土地台帳」くin(仝2巻、 1877‑
1895年刊、以下nKMrと略記)および「ノヴゴロドの土地台帳」 (12) /全6巻、 1859‑1910年刊、以下 HnKと略記)などがあるが、前者は16世紀70年代から90年代にわたる「土地台帳」を収めている。
ところが、実際にnlくMrを読んでみると、農民の名がほとんど記されていないのである。とき には欄外注で農民の名が刊行の際に省略されたことを知り得ても、全体としては農民の名を欠い
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ている、といわざるを得ない。それは、80‑90年代の「土地台帳」についても例外でないO農民 の名を欠く「土地台帳」によってどうして農民を緊縛できるのか。それは本来の土地台帳とは別 個のものではないのか。ソビェト史学も沈黙しているこの問いに対する答えの手かかりを求めよ うとしたことも、本稿起草の契機の一つである。
1「101年の台帳」
1597年11月24日法令は、逃亡農民に対する追求権を5年にしているが̀1㌧逃亡農民連れ戻しの 根拠たるべき土地台帳が5年前の1592年に作成された、という考え方に導きやすく(同法令のテク ペレピーシ
ストには土地台帳への言及は全くない)、リャシチェンコは1592年を「登録の年」と見なし̀2'、わが 飯田貰‑氏もこの見解を受け継いでいる1592年ないし1593年の土地台帳に関しては、もう一 つの法令が、もっと明白な形で述べ、あるいは規定しているOそのテクストの信悪性をめぐって 議論されたこともある1607年3月法令がこれであって、同法令は前文で、「皇帝フョードル‑イヴ ァノヴィチは‑農民に移転を禁止し(BblXOノiKpecTbHHOM3aKa3aji)、‑台帳を作成した(KHHrH yMHHJl)」と述べているのみならず、本文冒頭では「ある農民が本日より15年前に、101年の台帳 に登載されているとき(bKHHraxlOトroroaynojio>KeHbi)」その台帳に記されている主人の
もとにあるべし、と規定している(テクストには「主人」という語はない、しかしその土地に緊縛される、
という用語法ではなく、「その者」つまり主人に隷属する、という用語法をとっている¥(4) )。ここに「101年」
というのは、ビザンツ紀年法の7101年の略で、西暦に換算すれば1592年(9月)‑1593年(8月 末日)になる̀5)。また「台帳」というのは、必ずしも狭義の土地台帳に限る必要もないであろう が、「101年の台帳」が1607年3月9日法令に明示されているために、上の1597年11月24日法令の
「5年」前とも結びつけられて、1592‑93年が土地台帳作成の上でどのような意味をもっている かが検討されてきている。ここでは代表的な見解を紹介するにとどめるが、上述のリャシチェン コのように1592年のみを土地台帳作成の年とする見方は、ソビェト学界では一般にとられていな い。グレコフは、「1580年から全国土の組織的記載が行われている」として、1581‑82年のノヴ ゴロド市の記載をあげ、欄外注で1582‑83年に行われたノヴゴロド地方の三つの州の土地記載を 具体的に示しながら、ノヴゴロド市と同時に周辺の各州でも記載が行われた、と述べている(6)。
これにつづいて、「イヴァン4世の後継者」つまり皇帝フョードルの時にも記載が継続された、と して問題の1592‑93年に言及し、この年に「モスクワ国家の‑せい土地記載」が実施され、この 仕事は「第一級のもの」であった、と強調している(7)。しかし、グレコフは、1592‑93年に作成 された土地台帳を具体的にあげておらず、どうして「‑せい土地記載」なのか、何故「第一級 の」大規模な土地記載であったのか、これについてわれわれを納得させるにいたらなかった。こ れに対して、チャエフは、土地台帳作成史をもっと広い年代の枠から見ようとしている。まず16 世紀後半について、50年代、70年代、そして80年代と、三つの時期に土地台帳が作成されたと し(8)、その最後のものについては、あるいは「1581‑1592年の土地台帳」といういい方をした り(9)、あるいは1592‑93年には「モスクワ国家の大部分の郡の記載が終った」とも述べている'10)0 1607年3月9日法令にいう「101年の台帳」つまり「1592‑93年の台帳」については、チャエフ
は、大部分の郡の記載が完了した年を基準にしたと見なし、他方、1597年11月24日法令が追求権 を5年にしたのも「80年代に行われた土地記載の最後の年代(KpaiiH月月aaTa)に由来する」と 説明している(ll)。つまり、グレコフが80年代初めの土地記載を指摘しながらも、結論的には
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1592‑93年の「‑せい土地記載」を強調しているのに対して、チェエフは1592‑93年を、 1581年 にはじまる土地記載の完了の年(ただし、大部分の郡での)と見ているのである。これら両説に対 して、 16世紀最後の20年に限ってではあるが、具体的に郡の名、検地人の名、土地記載の年をい ちいち列挙して、グレコフ説にもチャエフ説にも反対し、 1592‑93年は土地台帳作成の歴史のな かで、全国一せい記載の年でもなければ、また1581年に始まった記載の最後の年でもない、つま
り土地台帳作成という現実的な事業の立場からみれば特別な意義をもつものでない、と主張し、
1592‑93年は皇帝フョードルの農民緊縛についての重要な法令が制定・公布された年である故に 意義が大きい、と説くのが、コレツキーであり、これがソビエト史学に新たな禁止年論争をひき 起こしたのであるu2'。当面、われわれは、この1592‑93年法令(そのテクストは伝わっていない、
もしくは発見されていない)、あるいは禁止年論争に深入りするつもりはない。しかし、土地台帳に ついてのコレツキー所説を検討するためには、かれがこの法令の内容をどのように推定している かについて、予めふれておくことが必要と思われる。ごく簡単にいえば、 1.全国にわたって農民 の移転を禁止した、 2.農民緊縛の法的根拠を政府の台帳‑の登録と宣した、 3.農民の政府文書‑
の登録を義務づけた、などである(13)。これらの中でとくにわれわれの関心をひくのは2.である が、 「政府の台帳」の具体的内容をかっこの中で説明して「土地台帳」の他に、 ≪oTIくa3Hue≫、
≪OT;ie.nbHbie≫、さらに≪BB03Hbie rpavioTbi≫をあげ、かつ、台帳の中では「80年代‑90年代初 めの記載の土地台帳が主要なものと見なされた」と述べている。ここでコレツキーは、 「土地台 帳」を「検地帳」 (AO3opHafl KHHra)などを含む広義のそれに使っていること、その作成の主な 時期を1581‑92年と見なしていることに注目しておきたい。検地帳や≪OTKa3Hbie (KHHHl)≫な どについては、後に改めて考察したい。
さて、コレツキーの土地台帳作成史についての所説であるが、チャエフとはぼ同様に16世紀後 半のそれについては50年代と60年代後半‑70年代の土地記載を指摘した上で<U)、 80年代以後の それの考察に移っている。その際、コレツキーは個々の土地記載について「現在知られているす べての史料」に基づいた80‑90年代の「土地台帳の一覧表」 (表そのものには「土地台帳と検地帳の 表」という題がつけられている¥ (15)を作成し、これをもとに考察を進めている。ここでかれが「す べての史料」といっているのは、土地台帳そのもの(断片を含む)だけでなく、土地台帳につい ての情報をもたらす一切の史料を指さしている。この一覧表は、 16世紀80‑90年代に、記載され た土地に大小の差はあれ、少なくとも156の土地台帳が作成されたことを示している(16)。この一 覧表とコレツキー自身の発言とに注目しながら、まず、問題の「101年」つまり1592‑93年の土 地台帳作成を考えてみよう。既述のように、この年は.、グレコフが「土地の‑せい記載」が大規 模に実施されたと見なした年である。コレツキーの一覧表によれば、 「7101年」 (1592‑93年)に 作成された土地台帳は、ソリガリッキー郡以下7郡で、 「7101年」にはじまり翌年に終っている (つまり1592‑94年にわたって調査・記載された)のは、ロマノフスキー郡以下5郡である(17)。また
「7102年」 (1593‑94年)では、 19郡である118)。一覧表は、 16世紀最後の20年間について、延 べ156郡(重複=再調査を含む)の土地記載を確認していて、年平均約8郡になるので、 7101年 も7102年も、けっして少ないとはいえないように思われる。しかしながら、その内容に注目して みると、 「7101年」では、 7郡の土地台帳すべてが、トロイツ‑セルギエフ修道院債についてのみ の記載であり、われわれは、そのすべてをnKMrの刊行によって検討できるu91。また、 「7101 年」にはじまり、 「7102年」に終っている5郡のうち、 4郡までが同修道院債のみの記載に限ら れている。さらに「7102年」の土地台帳19のうち15までが、同修道院億に限っての土地記載であ
る。
このように見てくると、グレコフが1592‑93年に「‑せい記載」が行われたとして、それを
「101年の台帳」に結びつけたことは、全く根拠のない空論であるといわざるを得ないのである。
1592‑1594年にトロイツ‑セルギェフ修道院債が、このように集中的に土地調査を受けたのは、
皇帝フョードルのもとでポ1)スーーゴドゥノフが修道院領の一部を没収を企てたことに関係がある と思われるが(20)、 「7100年」の土地記載はわずか1郡についてのみであり(21)、これをも考慮に入 れてコレツキーは、 1591‑93年に土地記載は「ほとんどなかった」、記載の「中断」があった、
と述べ、代りにトロイツ‑セルギェフ修道院債の記載のような「部分的な」なそれが行われたこ とを強調しているのである(22)。コレツキーは、 16世紀末20年間の土地台帳作成について、グレ コフの1592‑93年‑せい記載説を批判するに際して、記載が「20年間続いている」とも述べてい るO この点で想起さるべきは、既述のチャエフ説であって、かれはグレコフと異なって、 1592‑
93年を大部分の郡の記載が終った年と見なし、ために1607年3月9日法令が「101年の台帳」の 名をもって当時の土地台帳全体を示した、と考えたのである。コレツキー説は、これに近づいて いるが、必ずしも同じではない。これについて検討してみよう。
まず、コレツキー自身は端的にいっていないが、大部分の郡の記載が終った年として「101年」
(1592‑93年)を強調することが妥当であろうか、一つの時期を画するとすれば、むしろ「7099 年」つまり1590‑91年をあげるべきではなかろうか。コレツキーの一覧表によれば、この年には 6郡の記載が行われたのに対し、翌年には1郡のみ、翌々年にはトロイツ‑セルギェフ修道院領 のみの記載が実施されているからである(23)。この意味で、チャエフ説はわれわれを納得させな い.次に、 1590‑91年までにせよ、 1592‑92年までにせよ. 1581年に始まった土地記載が90年代 初めまでに大部分の郡の記載をおえたことについては、コレツキーの方がより豊富な資料を提供 しているというちがいがあるが、基本的には大きく隔ってはいないO コレツキーによれば、 16世 紀末の記載は国土荒廃に対する施策の一つとして行われたもので(24) rこれについてはチャエフ も指摘(25))、まず1581‑85年に荒廃の最も甚しかったノヴゴロド地方の5州が記載され、これに つづく1585‑90年に「モスクワ国家の主な諸郡」の記載が実現した(26)。この6年間は「記載が最 も強力に進められた」時期であって(27)、コレツキーがいちいち郡の名を示しているのをかれの 一覧表と対照してみても、これを確認できるのである(28)。問題はその後である。チャエフは、
90年代の土地記載については沈黙しているが、コレツキ‑は、上述の1591‑93年の中断の後のこ とについて、微妙な説明をしている。すなわち、 1594年に再開された記載が基本的には1599年ま で続いたことを指摘するとともに、またこの時期の記載が「しばしば検地U030p)の性格をも っていた」ことも強調している(29)。また、 「80年代にロシア国家の大多数の郡の新しい土地台帳 が作成された」と述べつつも、なおつづけて「しかしながら、国土の記載は完了せず、 16世紀90 年代に継続された」とつけ加えている(30)。そして、 「101年の台帳」というよりは、 「101年の法 令」についての自説(既述)を提起するに当って、上の問題についての見解を次のようにまとめ ているのである。「1592‑93年の‑せい記載がなかったのであれば(グレコフ説批判一石戸谷)、また 1581年に始まった記載が1592‑93年に終らなかったのであれば(チャエフ説批判一石戸谷)、 1607年 3月9日法令の≪101年の台帳≫引用をいかに理解すべきであろうか」131)。つまり、コレツキ ー自身も究極的にはチェエフ説をとっていないのである。コレツキーの「1592‑‑93年法令」説は、
土地台帳作成の歴史の上で1592‑93年が特別な意味をもつことの否定のLにのみ成り立つのでは ない。しかし、かりにこの年にコレツキーが推定するような内容(既掲)の法令が公布されたに
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しても、それを「101年の台帳」と結びつける必要はないであろう。 1597年から5年前が1592年 であると同様に、 1607年から15年前を念頭において、その時点までに作成されていた土地台帳を 念頭において「101年の台帳」といい表わした、と見なすのが最も妥当なのではあるまいか。こ こで「台帳」とは、広義の土地台帳と解されるべきであり、狭義の土地台帳は不断の土地移動や 臨時の検地などによって、つねに修正されていたのである。その意味でも、 「検地帳」(A030pHa只 KH打ra)に注目してみよう.
2 検地の動機と方法
ティホミロフは、 「土地台帳の補足資料」として検地帳と「参考台帳」 (npHnpaBOHHa月KHHra) とをあげているが、ひとしく「補足」といっても、それぞれが土地台帳に対してもつ意味は異な っていて、ティホミロフによれば、検地帳は「ある時間的経過の間におこった変化」を記載し、
参考台帳は「新たな台帳作成の指針」として以前の台帳から写し取ったものである(1)。つまり、
参考台帳が原本の土地台帳が紛失したときの代りをするのに対し(2'、検地帳は、土地台帳そのも のを訂正し、前の土地台帳を無効ならしめるのである。検地帳が「変化」を記載する、というの は誤解を生みやすい表現であって、 「変化」のみを記載したのではなく、 「変化」のためにある地 域(範囲は大小さまざま)全体を記載し直したものである。それ故、土地記載文書としての検地帳 の価値は、土地台帳に劣るものではなく、アンピロゴフのことばを借りていえば、その「作成が 臨時の策」 (3'であったにすぎない。土地台帳の歴史の上で1626年のモスクワ大火は、中央に保存
されていた台帳がすべて消失したため新たな台帳作成を余儀なくさせた、という意味をもってい るが叫、当時、政府は取りあえずの策として各地に保存されている台帳の原稿を集収することを 指示した。このときの法令は、 「土地台帳と検地帳」とつねに両者を併記していて、検地帳が土 地台帳に等しい価値をもっていたことを確認させるのである(5)。事実、検地帳はその記載の内容 において、土地台帳と大差なく(6㌧ ときに土地台帳と混同されることもあった。一つの例を示そ
う。
さきにあげたコレツキー作成の「16世紀 ‑90年代の土地台帳と検地帳の一覧表」には、大別 して2種類の台帳が見られる(7)。すなわち、第1には「記載と測量の台帳」 (KHHra nHCbMa h Mepw)で、これはまさに土地台帳そのものであり、キセレフもこれを「狭義の土地台帳」として いる(8'。第2は「記載と検地の台帳」 (KHHra IIHCbMa H ^030pa)または「検地帳」 (且030pHa兄 KHHra)と呼ばれたものである 1587‑88年のニジェゴロドの検地帳については、コレツキ‑も これを見落していないが̀9㌧ この検地帳は「1621‑1629年のニジェゴロド土地台帳」 (1896年刊) にも引用されていて、そこでは「ワシーリーーーポリソフと書記補トレチヤクニオブラモフの、 96年
(西暦1587‑88年一石戸谷)の新しい土地台帳」という名称になっていて(10)、これだけでは土地 台帳そのものと変りがない。念のためにアンピロゴフ刊行の「16世紀ニジェゴロドの文書」をひ もといてみると、ここでは同じ台帳が「ワシーリー‑ポリソフと書記補トリチャフ。オプラモフの、
7096年の記載と検地のニジェゴロド検地帳」などと明記されていて(ll)、それがけっして土地台 帳でないことが知られるのである。 「土地台帳」という総称で刊行されたHnK のなかに本来の 土地台帳でないものが多く混入していることについては、サモクワソフも指摘しており、かれは その一つにシェロンスカヤ州1576年の検地帳をあげるとともに、土地記載文書の諸類型を16世紀 の人々は混同しなかったが、 18世紀に混同され、 HnK の刊行者も同じ誤ちを踏襲した、と述べ
ている̀12'。すでに17世紀前半でもこの種の混同があったことは、上のニジェゴロド土地台帳作 成者が検地帳を「土地台帳」と呼んで引用していることからも知られるのである。
ところで、一口に検地帳と呼ばれていても、上の「7096年」すなわち1588年のニジェゴトド検 地帳(13)、 HnK所収の1576年シェロンスカヤ検地帳̀川のように、土地台帳に匹敵する量をもつ 土地記載もあれば、他方、サモクワソフの「資料」所収の4通のように、わずか1葉ないし数葉 のものもある(15)。このことをも念頭におきながら、まず、検地がどのような動機によって、ま た、どのような手続と方法によって行われたか、これについて考えてみよう。われわれは、幸い に16世紀末に属する検地についての興味ある一連の文書を読むことができる。これをやや詳しく 検討して、手がかりとしよう。これらの文書は、それぞれが相互につながりをもってはいるが、
いずれも独立した文書で、内容で示せば、 ①1584年12月29日付のイヴァン4世の勅書、ルーザ郡 内のヨシフ修道院領4か村の検地を指示(16)、 ④この検地の参考に送付された1571‑72年のトル ブジンら2人の検地帳による課税台帳からの抜革(17)、 ③現地で住民に事情を聴取したときの聞 取り̀18) (検地帳そのものではない)、以上3通である。
①の勅書は、はじめにヨシフ修道院長から訴願があったことを述べるとともに、訴願の大要を 伝えていて、それによれば、ルーザ郡内の修道院債4か村ではトルプジンらの「記載の後」 (文 書②の検地を指さしている)、荒廃がさらに甚だしくなったので、 4か村を「検地し記載する」
(A030pHTH H OnHCaTH)ことを命じてほしい、と願い出ている。ある郡の全体でなくて、そのな かの特定の村の検地が領主の要請によってなされたことを示す一つの事例である。ついで勅書は、
「検地し記載し直せ」 (」030pHTH h nepenHcaTH)と指示しているが(宛先のズポフなる人物の身分 は不明、サモクワソフによれば、検地は現地官憲によってなされるのが一般であった(19))、この「記載し直 す」ことによって、それ以前の土地記載は無効となり、新しい課税の基礎がつくられるのである。
さらに、勅書は、課税台帳の抜草を勅書とともに送ったことにふれた上で、勅書が着いたら4か 村の土地の状況と農民の名を調べて「記載し直す」ように指示している。その際、勅書は検地の し方について具体的に2点をあげて指示している。一つは、 「オブイスク」 (06bICK)すなわち現 地住民に対する尋問によって調査するように命じていて、尋問に呼ばれた現地住民の名およびそ の陳述を記録し(これが上の文書⑨、詳しくは後述)、この記録はかれらに署名させて(読み書きできな い者については、司祭が代理)作成される検地帳とともにモスクワに送れ、と指示している。もう 一つは、オブイスクで調査すべき項目のなかに、 「何によって、いつごろから、何年に修道院儀 が荒廃したか」 (ot nero iイCKOJIb AaBHO, B KaTOpaM rO^y Ta HX MOHaCTbipCKOH BOTHHHa 3anycTejia)を明示していることであって(20)、荒廃した耕地が確認されるときは、免税ないし減 税につながる故、とくに慎重な調査を命じている。アンピロゴフは、検地帳がロシアの土地記載 の一つとして登場するのは、 16世紀70年代以降、としている(21)。それは、 16世紀後半、とくに 70年代以降の国土荒廃と無縁ではあるまい(22)。いま、ルーザ郡内ヨシフ修道院領の1584年の検 地も、まさに荒廃を契機としていたのであるが、文書①から知られる修道院長の訴願および文書
④に示されている現地住民の陳述は、 1584年当時の荒廃が何によってもたらされたかを物語って いる。すなわち、訴願は、荒廃の原因として、中央からの「使者」 (nocnaHHHK,かれらの専横・
私欲をいっている)、 「通行人の暴虐」および「クリム人の来襲」をあげ、最後の項については、 「村 と部落は焼かれ、農民は捕虜にされた」と述べている(23)。他方、現地住民は、尋問に答えて、
荒廃の原因にまず「悪疫」と「タタール戦争」 (TOTapcKa月BO員Ha)をあげ、この戦争について は、修道院長の訴願と同様に、村が焼かれたことを述べるとともに、もっと具体的に、 「多くの
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農民がタタールのために殺され、他の者は妻子とともに捕虜にされた」とつけ加えている(2̀'。
さらに「穀物の不作」 「ひでり」 「有力人と戦士の通過」などを荒廃の因由として指摘した上で、
現地住民は、重税についても次のように述べている「だんな方、残りの農民たちは、君主のさま ざまな税のために(ot bchkhx rocyAapeBbix no^atefi)、渡れ果てています。というのは、生 きている〔耕地〕から荒廃地の分まで支払っているからです(notaMy into njiatHT 3 >KHByme‑
ro ll 3a nycTa) <25)」。現地住民の陳述は、その最後に現在納めている税の額にふれている。検 地を修道院が要請したのは、荒廃を理由として免税ないしは減税を願ってであったことは、いう までもない。ただ、この1584年の検地の結果は残されていない(実際には、翌1585年に実施され たであろう、文書⑨は日付を欠いている)0
ところで、文書①②に言及されている1571‑72年のトルブジンらの検地帳およびそれに基づい て作成された「課税台帳」 (iuiaTOKHan KHHra) ‑その抜草が文書⑨一について考えてみなけれ ばならない。トルプジンらの検地帳は、文書①ではたんに「記載」と呼ばれているが、文書④で は、当時検地帳を示した正式の呼称に従って「80年の(7080年、西暦に換算すれば1571‑72年一石戸 谷)レウォンチー‑トルプジンとオボロンニトボリンの記載と検地の台帳」と名づけられてい る(26)この1571‑72年のトルプジンらの検地について、勅書は修道院長の訴願の内容を伝える に当って、 「疫病と飢餓とタタールの来襲の後、 ‑・トルプジンと・‑トポリンがルーザ郡に来て、
記載した。 ・・・しかるに、いま、村と部落は〔またもや〕荒廃した(27)。」と述べている。すなわち、
1571‑72年の検地も、 1584年の4か村の検地と同様に、荒廃を契機としていることが知られるの である.この1571‑72年の検地は、 「記載と検地の台帳」という名称からしても、また次に考察 する「ルーザ郡の課税台帳」の基礎になっていることからしても、ル‑ザ郡内のヨシフ修道院億 のみについてでなく、郡全体が中央のイニシ・アティヴのもとに実施された、と考えられるo この 検地帳に基づいてのルーザ郡の課税台帳の抜革が、文書④であるが、そこには例えば次のように 記されている。
「部落レザノワ、生きている耕地20チェ‑チ(地積の単位一石戸谷)、荒廃10チェーチ。しかるに、
いま、生きている〔耕地〕 1ヴィチ(課税の単位一石戸谷)、荒廃2ヴィチ(28)。」
ここに、 「いま」というのは、 1571‑72年当時のことであり、それ以前の荒廃が1571‑72年の 検地の結果、さらに深刻になってきていて、荒廃の比率が3分の1から3分の2になっているこ
とも知られる。もう一つ、この課税台帳では農民個人の耕地とそれに対する課税が明示されてい ないことに注目しておく必要があろう。これが一般に課税台帳の特色なのであって、いま、ルー ザ郡内ヨシフ修道院債について土地台帳または検地帳の土地記載と、課税台帳の記載とを比較す るには、史料が欠亡しているが、時を異にしているとはいえ両者を比較することもできる。とも に「土地台帳」の名で刊行されている台帳のなかに、 15世紀末シェロンスカヤ州シチェペツキー 村に付属する一つの部落について、次のように異る記載を兄いだすのである。
A. 「ドミトIJ‑‑コゾンスキーの郷(旧主の名によって呼んでいる一石戸谷)、ソハー12‑を(ソハー は課税の単位、本来は翠の憲一石戸谷)」 (29)
B.「ドミトリ‑‑コゾンスキーの郷、プレムナ部落:戸、ロジオン(農民の名一石戸谷)、かれ の兄弟マラシ、耕地6コロビヤ(地積の単位一石戸谷)、干草20山、 1オブジャー(課税の単位 一石戸谷)、 ‑ 〔郷の総計〕部落18、戸21、そこに45人、 35+オブジャー、ソノ、‑12÷(30)J これらのうち、 B.が「マトゲェエフの土地台帳」であるのに対し、 A.は「マトゲェエフのス ピーソクによって記載された(31)j ものであって、サモクワソフが指摘しているように、これは
土地台帳ではなくて、それに基いてつくられた課税台帳である(32> HnK‑Vには他にも課税台 帳が含まれていて、 「1551年の台帳」と刊行者によって呼ばれているものは、上のA・のように、
課税のみを記していて、 「7059年のベレウ〜トフの土地台帳よりの写し(ciihckh)」(33)と冒頭に記 されているが、これを信ずることはできないのである。 「北西農業史Ⅱ」は、この1551年の台帳 について、 「参考台帳」 (npilnpaBOHHaa KHHra)としているが(34)、参考台帳は、一般に課税のみ でなく、個々の農民とその戸について記載しているので、妥当な見解とは思われない。ただし、
いま、 1584年の検地に当って、土地台帳または検地帳よりの写しでなくて、課税台帳よりの写し が参考のために送付されていることをいかに理解すべきであろうか。しばらく問題として残して おきたい。
3 検地帳の事例
上に考察した1584年ルーザ郡内4カ村の検地に関する文書①④⑨は、その結果としての検地帳 そのものを残していないので、他の事例から、検地帳の内容を見ておきたい。
サモクワソフの「資料」所収の検地帳4通(4部または4冊とはいい難い)は、先にふれたよう に、最も少量の検地帳の事例に属し、何れもノヴゴロド地方の一つの「ポゴスト」 (norocr,村) の中の封地または修道院領に関するものである̀1)。それは、わずか1葉の短いものでも、本文の 末尾で自らを「検地帳」と称している(2)。く≪KHHra≫ (帳、帳簿、台帳)が当時いかなる意味で 使われたかを考えさせる一例である。この1葉の検地帳についてもう少し詳しく見れば、これは エゴリエフスキー村内のE.ネプリエフの封地に関するもので、戸は計20、しかも ≪jiioAe員B HHX TpH HeJIOBeK≫とあるように、住民は戸主で数えて3人に過ぎず、大部分の戸は「空家」で
ある。かれの封地全体を合わせてこの村では「生きている耕地は半オブジャー、しかるに7オブ ジャーは荒廃」と記されている。ネプリエフの封地が検地されるにいたった事情は、検地帳に記 されていないが、このような甚だしい荒廃のために領主ネプリエフ自身が検地を要請し、特別臨 時の検地になったことが十分に予想される。なお、検地の方法は、他の3通と同様に、一般に適 用されたオブイクであって、ネプリエフの封地については、かれに隷属する農民3人でなく、近 隣の「郷民」 7名が尋問に呼ばれている。また、この検地を実施した「検地人」 (且030pmHK)は、
2人の「郡長老」 (ryoHbift cTapocTa)であって(他の3通は、検地人の身分不記)、サモクワソフ が、検地は現地官憲によって行われた、と論じていることも理解できる(3)。
われわれの「帳簿」 「台帳」の概念にふさわしい量をもつ検地帳として、 HnK 所収の1576年 シェロンスカヤ州のそれをあげることができるU)。 「北西虚業史II」で、この州を担当したマス レンニコフは、この台帳を「土地台帳」としている(5)。マスレンニコフは同じ州の1595‑96年の 台帳(未刊)を「検地帳」と呼んでいるので(6)、 1576年の台帳を「土地台帳」というとき、それ は広義でなくて、狭義に使われていることは明らかである。これに対して、サモクワソフはこの 台帳を検地帳の例にあげている(7)両者ともそれぞれの根拠をあげていないが、結論的には検地 帳と見るべきであるまいか。この点について少し考えてみたい。
HnK刊行者の注記によれば、この台帳は「ウォロジーメル‑ベゾブラゾフのシェロンスカヤ州 台帳」と名づけられているが、 17世紀の筆蹟で表紙に、 18世紀の筆境で第1葉に、書かれていて、
たんに「台帳」とあるのみでは、きめ手にならない(8)。他方、この台帳は、しばしばその作成者 の名を記している。しばしばというのは、それぞれの村の土地記載のあとに、例えば「しかるに、
16世紀ロシアの土地記載文書
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ヴィソツキー村のニコルの書役(HHKOJIbFくOH 」HaK)ペテ7)ヤニスイソキフ、台帳を作成せり (KHHrH IIHCaJl)」(9)というように記されているからである。これは、中央から土地台帳作成のた め派遣された人物が記載の責任をとるのと異なっている。さきにあげた1585年のネプリエフの封 地についての検地帳は、いま問題の1571年シェロンスカヤ州台帳と同様に、 「しかるに、ネポロ
ッカヤ郷のエゴルの書役トレチャチコ‑セルギキ7、検地帳を作成せり(10)1とあるO 「ニコル」
「ェゴル」はともに教会の略称であり、検地の際現地住民とともに司祭もオブイスクに立会した ことを想起すれば、検地帳作成における教全書役の役割も容易に理解されよう。ただし、ときに は自治体の苦役が作成していることもある(ll)。 1571年の台帳は2カ所において台帳作成にいた った事情、さらには作成の手続・方法について述べている。 2カ所ともテクストの一部が欠損し ているが、二つをつなぎあわせると、ある程度まで復元できる。その要点を示せば、次の通りで
ある。
「‑・ベゾブラゾフならびにムショリン、および書記補イワノフは‑ポルホフに到り、その地の また第三者の修道院長、司祭、苦役、長老、宣誓者への尋問によって記載し、また自ら換地せ り(H CaMH AO3HpajIH) ‑村・部落・・・について誰が何を陳述したかについては、司祭、書役お よび読み書きできる者の署名ある調書取られたり(HMaHbl CIIHClくH) 。」̀12)
すなわち「検地せり」とあるのみならず、さきに検討した1584年イヴァン4世のルーザ郡検地 指示の勅書にも類似しており(上には略したが、欠損部分に「侯イヴァン‑ワシリエヴィチ」つまりイヴ
ァン4世の名を確認できる) 、この台帳がまさに検地帳であることは、疑をいれないであろう。
1571年シェロンスカヤ州検地帳は、ポルホフ郡の13村のみの記載をのこすのみで、州全体に検 地が及ぼされたかどうかを確認できないO ご料地、聖職者領、封地などが一様に検地の対象にな っていることを考えると、中央のイニシアティヴで検地が実施された、と見るべきであろう。中 央がこのような処置をとった動機は、検地帳そのものには明示されていない。しかし、一読して その甚だしい荒廃に驚かされる。マスレンニコフの作成した表によれば、世俗債主のもとで15
%、聖職者領主のもとで66.2^の耕地が荒廃に帰していた(13)。ここでも荒廃が検地の動機であ った、といい得るであろう。
シェロンスカヤ州の土地記載は、 15世紀末から16世紀末にわたってさまざまな時期のものが伝 えられていて、 1582年の土地台帳と1595‑96年の検地帳とは未刊であるが(14)、その他の記載は、
HnK に収められ、刊行者の年代設定に従えば、 1498年、 1499年、 1501年、 1505年、 1524年、 15 39年、 1551年、 1552‑53年、 1571年、 1576年と、実に頻繁に調査と記載が行なわれている(IS)。
これらを綜合すれば土地記載の歴史が解明される筈であるが、実際には1498年の記載のはかは (未刊の2つを別として)記載されている村が一部にとどまり、もしくは史料が散逸していて、覗 存の土地記載をこの課題の解明に役立たせるのは容易でない。上に列挙したそれぞれの年代の記 載が、どのような種類のものであるのか、全国的な記載とどのようにつながっているのか、など は、 15世紀末の場合を除けば(これはノヴゴロドの合併と結びついている)、将来の課題として残さぜ るを得ない。ただ、一般に「土地台帳」とされている1571年の記載についていえば、このように きめてよいかどうか、若干の疑義がある。現存の台帳は約240葉から成り、初めの部分は欠損し ていて、第25‑27葉に土地記載にいたった契機や記載の方法についてかなり詳細な記事がのせら れている(16)。これによれば、記載は勅命によって行われており、また現地住民に尋問すべきこ と、荒廃した土地についてはその年代・原因などを明らかにすべきことが指示されていて、ここ でもさきの1584年のルーザ郡検地の際の勅書の指示と同じ内容が確認されるのである。のみなら
ず、ここでは尋問調査の作成について「しかるに、検地と尋問の調書(且030pHO員H OnpOCHO員 ciihcok)をポストニチコニコスチャンティノフ作成せり」 (17)と記されているO このように考え ると、 1571年の台帳も、土地台帳(狭義の)でなくて、検地帳と見らるべきであろう。記載の内 容においても荒廃の顕著なこと、 1576年の検地帳に劣らないように思われる(18)。
検地帳の考察の最後に、ニジェゴロドのそれについて言及しよう。アンピロゴフが最近刊行し た史料のなかには1593‑95年の「封地賜与状」 (OTTtejibHa只KHHra)が多数含まれている(19)。と ころが、封地を賜与するに当って、それぞれの土地の状況を先行する土地記載の抜革によって確 認し、これを添付しているのである1593‑95年より前にどのような記載があったかが知られる のである。年代順にならべると、次の通りである。
(1) 1570‑71年、 「7079年の、セメン‑ジジェムスキーと同僚の記載と検地のニジェゴロドの台 帳」(20)
(2) 1571‑72年、 「7080年の、セメン‑ジジェムスキーと同僚の記載と検地のニジェゴロドの台
帳」(21)
(3) 1573‑74年、 「7082年の、セメン‑ジジェムスキーと同僚の記載と検地のニジェゴロドの台
帳」(22)
(4) 1575‑76年、 「7084年の、ピャト7‑トゥモコフと書記補セメイカニパンクラチエフの記載 と検地のニジェゴロドの台帳」 (23)
(5) 1587‑88年、 「7096年の、ワシーリー‑ポリソフと書記補トレチヤク=オプラモフの記載と 検地のニジェゴロドの台帳」 (24)
見らるる通り、 (1)(2)(3)は同一人による検地である。ニジェゴロド郡全域にわたって3度行われ たのか、 3度にわたる検地で同郷全体の検地をおわったのか、推測の域を出ない。 (5)1587‑88年 のポリソフの検地帳は、既述のように17世紀前半のニジェゴロド土地台帳にも引用されているが、
その一部はアンピロゴフの刊行に含まれている。 「一部」というのは、封地賜与に当って、例え ば「ザクゼミンスキー村はポリソフの検地帳に次のごとく記載さる」といっていても(25)、アン ピロゴフ刊行のものにはこの村がついに兄いだされないからである。この刊行の分について(モ ルドヴァ人村落を除けば、原本で83葉)二・三述べておこう。
まず眼につくのは、ここでも荒廃である。例えば、 「1戸空家、 〔もと〕戸のあった場所6、し かるに、戸はチェルミス人に焼かれた(26)」 (ZI,BOp nycT, Aa 6 MecT 月[BOpOBblX, a ABOpbl nowrjia nepeiwHca)などの記載が頻出する。アンピロゴフは、農民が住んでいる戸1044、空家
または戸のあった場所616、と集計している(27)。 70年代末から80年代初めにかけてのチェルミス 戦争による荒廃がポリソフによる検地を必要にさせたのである。残っている戸も、ほとんどが3
‑4年の免税を受けている。次に注目されるのは、この1587‑88年の検地に先行する記載、 1577
‑78年のブルノフの台帳がしばしば引用されていることである。 1例を示せば、 「チェルミス戦 争の前には、 86年(酉桝1577‑78年一石戸谷)のピョートルニブルノフの古い台帳によれば、ポポ
フスコエ村では・・・生きている〔耕地〕で89ヴィチ(課税の単位‑石戸谷)0‑いま、同村では74ヴィ チが免税(Ha jibroTe)(28)Jなどのどとくである。ここで「古い台帳」と呼ばれているものは、
ときに「ピョ〜トルニブルノフの古い参考台帳(cTapue npHnpaBOHHwe KHHra)129)J とも呼ば れているように、 1587‑88年の検地に際して参考のために検地人に与えられたもので、さきの 1584年ルーザ郡検地のときに中央から送付された課税台帳と、この点では同じ役割を果たしたの
16位紀ロシアの土地記載文書
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である。プルノフの台帳がどのような種類の土地記載かは、にわかに断定できないが、狭義の土 地台帳と見てよいのではなかろうか。上のポポフスコ村についての総括の最後に「土地台帳によ れば」といっているのも、この台帳を指している、と思われるからである(30)。しかも、それは、
どれだけの面積が1課税単位のヴィチを形成するかを、良・中・悪の3段階に分けて基準を示す ときに引用されているのであり、 1577‑78年のブルノフの台帳が正規の土地台帳として作成され たことを推定させるのである。 1587‑88年のポリソフの検地帳は、稀にではあるが、 「耕地は、
かれらの陳述によれば(no hx CKacKe) ヴィチ、しかるに検地によれば(no A030py)‑・ヴィ チ」として、両者のくいちがいを記していることがある(31'。これが稀であることは、一般には 両者が一致したと考えさせるし、既述のように、検地がオブイスク、つまり住民尋問を主な手段 にしていたことが、別の形で再確認されるであろう。
4 封地の没収、賜与および諌渡の文書
16世紀後半ロシアの土地移動を特徴づけるのは、土地の売買や寄進よりは、皇帝による封地の 没収と腸与であり、その際行われた土地記載は、土地台帳や検地帳にひとしい内容と効力をもっ たのである。サモクワソフは、没収の前にまず現地調査が「オブイスク」 (既述)によって行わ れた、としているが̀1㌧ この種の「住民尋問帳」 (06bicKHan KHHra)の現存するものは、必ずし
も多くはない(調査‑記載のみにおわり、没収のことが明記されていないものは多いが̀2'。まず、その 事例を示そう。
1571年2月19日の日付をもち、自ら「住民尋問帳」と称するこの文書は、皇帝の書記官の命に ょって書記補ピョ‑トル‑ダリゴリエフがウォトスカヤ州トルドジスキー村でオブイスクを実施 したとき作成されたときのもので、士族ダリゴリー‑コリャ〜ギンの封地に関するものである(3)。
尋問に参加し陳述した現地住民(司祭、宣誓者、百人長、五十人長、十人長、一般の郷民)の名がいち いち記されているのは、オブイスク一般の形式にそったものであるが、尋問の項目のなかには、
領主コリャ‑ギンがいつ「死亡したか」 (B )拭HBOTe He cTajio)、この村でのかれの「封地は何 オブジャー(課税の単位一石戸谷)であったか」などのほかに、コリャーギンの死後「誰がその封 地を所有し、農民から貢租Uoxoノl)を取っていたか」、 「二誰か〕士族が農民を連れ去ったのか、
誰のもとでかれらに移縛の手続をさせたか(yKorohx OTKa3biBa^H)<4)、それらの農民は誰のも とに去ったのか」など、農民についてのものも含まれていて注目に価する。陳述によれば領主コ リャ〜ギンのあとを継いだ長男も死亡し、次男の名もあげられているが、所領管理人(npHKa‑
mHK)が立ち去っており、農民のほとんどが「ユー1)の日」の移転権を行使して立ち去ったことが 所領荒廃の原因と思われる。この住民尋問帳とは別に、ただしこれにつづいて土地没収の文書が あり、そこでは「コリヤーギンの封地は君主なる皇帝‑大侯のもとに没収さる(OTIIHCaHO)」の 書出しでその土地および残留農民のことが詳細に記されている。ただし、この文書には作成者の 名も日付もない(5)。とくに、一般の「封地没収帳」(omHCHa只KHHra)に共通している没収後の封 地管理のことが見られない。ところが、この同じ封地の没収についての正式の文書が、サモクワ ソフによって刊行されている̀6)。それは、まさに「封地没収帳」と文末に明記され、作成者(敬 会の書役)の名も記されている。ただ、日付が1571年2月13日、つまり上のオブイスクの日付(2 月19日)より前になっているので、サモクワソフのいう順序がここでは例外的に逆になっている、
と解すべきであろう。ここでも土地の記載は詳細をきわめ、農民の現物と貨幣での貢租を具体的
に示し、また土地が「中級」に属することを記し、直営地と農民保有地とをまず面積で示してそ れぞれ7チェトベルチと25チェトベルチとし、さらに課税単位でそれぞれ1÷オブジャー、 4+
オブジャー、計5.5オブジャーとしている。このような土地記載は、当時の土地台帳または検地 帳に共通するものである。没収帳は、その末尾の部分で土地の管理について「その封地を君主な る皇帝‑大侯のために管理し維持することを命ぜらる(npHKa3aH0‑‑‑BeAaTH h SepenH)」として、
宣誓者6人、百人長3人および郷民6人の名を列記している̀7)。没収された土地はど料地になっ たわけであるが、その管理をこのような形で現地住民に委ねたことは、そこに共同体の存在を類 推させる̀8'。土地が没収された理由は、コリャ‑ギンの封地については農民移転などによる荒廃 のためのみではあるまい。なお10戸に農民がいたし、かれの次男の死亡のこともいわれていな いからである。ときに没収の理由が明記されていることもあって、 1591年2月18日付の没収帳に は、 「(領主オチニコフが)ルゴディヴォ近くの君主の勤務につかず、逃亡して行方不明のため」
(3a to, hto Ha rocy^apeBe cny>K6e noÅ PyroAHBOM He 6bui, h 36e)Kaji 6e3BecTHo) 19)と明 示されており、また1573年7月28日付の没収帳には、オブイスクで現地住民が領主について「兄 弟とともに立ち去って行方不明(C・texanu 6e3BecTHO)と陳述した」ことが付記されている(10)0 封地没収帳は、上述のように、土地台帳にひとしい土地記載をもっているが、サモクワソフは 18世紀にそれが土地台帳と混同され、そのまま HnK でも土地台帳として刊行された場合を指 摘している̀11)。それをテクストについて見れば、 1547年1月6日の文書で、三つの部落の記載 の前に、書記補ドミトリエフが「君主なる大侯のもとに没収した」旨を記している(12)。
量的に封地没収帳よりも多くのこっているのが「封地魁与帳」 (OT^ejibHa只KHHra)であって、
17世紀中葉には土地台帳、住民登録台帳とともに、農民緊縛の法的根拠の一つとして明示されるよ うになる113)。土地についても農民についても、この文書が土地台帳と同じ力をもっていたことの しるLでもある。没収された土地が同時に封地として与えられていることを示す稀な場合もある。
それは、 1570年10月9日付の文書で、前述のようにオブイスクも伴ったので、その末尾で自らを
「住民尋問の、没収の、封地魁与の帳簿」 (06t>icKHbie h OTnHCHbie h otAenhuue KHHra)と名 づけている(14)。現地住民の陳述は、オブイスクに加わった者が長老や百人長以下50名を越えてい るのに対し、簡略に記されていて、もとの領主については前年に「モスクワに去り、対地を君主‑
皇帝に返えした(OTKa3aji,この語については後述一石戸谷)」「妻子は村にいなかった」ことのは か、封地の面積353チェトベルチを示すのに「土地台帳によれば」としていることが眼につく程度 である。いかなる理由によってか、この領主アファナシ‑‑オガリョフは自分の意志で封地を放棄 しているのである。 「オブイスクによって没収された」土地はミハイル‑エラーギンの5人の子に
「君主の恵みによって封地として賜与」 (oTjxemiJi b noiwecTbe ‑‑‑no rocyノjapeBy 〉KajiOBaHbio) されたが(かれらはすでに前から封地をもっていた)、その脱与状に当る部分では、個々の農民の耕 地についても、全体の集計でも、しきりに「古い記載によれば」という断りを繰り返えしており、
ときにその土地台帳を「侯ピョ〜トル‑シチェピンとイワニス‑ズジンの記載」とも呼んでいる(15)。
多くの封地腸与帳には土地台帳への言及が欠けているが、そのような場合でも耕地や農民につい て先行の土地台帳によって記載したことは、理論的にも十分考えられることである。サモクワソ フもこのことに注目していて、封地没収の際に「土地台帳にあげられている農民とボブイリ」が その土地にいないときは、没収に当った役人がかれらを探し出して連れ戻す義務があった、と述 べている̀16)。例えば、 1572年1月26日付の封地没収帳は、ユーリ‑ネレデンスキーがオプリチニ
16世紀ロシアの土地記載文書
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ナに取られた後、かれの封地の農民が「移転の手続なしに転出した(BblXOAHJIHBOH)」ので、「転 出者‑農民を連れ戻した(BbIBe3011HTbHa3a;i)」ことを記している(17)。しかし、逃亡農民につ いてのオブイスクは、封地没収に伴ってのみとは勿論限らないのであって、「禁止年に逃亡した」
農民についてのオブイスク(1588年4月13日)は、イヴァン‑ネペツインの訴えによって行われ ており(18)、自分の農民をミ‑イル‑クロボトキンに連れ去られ、さらにクロボトキンの婿ボリ スエペレウートフのもとに移されていることについて、ティモフェイ=ペトリコフは、皇帝に訴え て、それらの農民がクロボトキンのものとも、ベレウ‑トフのものとも「土地台帳には記載され ていない」と述べ、オブイスク(1589年11月25日)が実施されている(19)。土地台帳が16世紀のい つごろから農民緊縛‑逃亡農民連れ戻しの根拠に利用されはじめたかは、追究さるべき一つのテ ーマであるが、これら二・三の事例は、少なくとも1592‑93年より前であったことを推定させる のである(zO)。
封地賜与帳の二・三の事例を追加しておこう。その一つは、1585年7月12日の日付をもつ文書 で、勅書によって2人の「郡長老」(一般には書記補)が「ポリスエソモフに封地として賜与し た」旨を記しているが、与えられたジェレフスカヤ州ホロフスキー村の部落モシニについての土 地記載は、まず、部落の位置が「モスクワ街道」にそい、ホロフ河とモシニ河に臨んでいること を記した上で「3オブジャー」と課税単位を明記し、かつ従来国に納めていた税の種類と金額を 具体的に列挙している(賜与される前はご料地であった1(21)
)。そして、そのあとに住民について
の記載がつづく。例えば、「戸、そこに住人フェトコ‑ロトコフ」のどとくであって、住人は計 14人、他に空家3、ボブイリ1人があげられ、さらに空家になっている戸から立ち去った者につ いて、「禁止年に立ち去った」(pO3OLLUIHCbB3anOBHAHblflJIHTa)として、その年を「90年、
91年、92年、93年」とし(西暦に換算すれば、1581‑1585年)、立ち去り先を個々に明記して(半数は 修道院債)8人の名を列挙している(22)。この賜与状では、上の14人の住人‑農民の名をあげる のみで、かれの耕地のことなどが略されているが、これはむしろ例外的であって、例えば、1585 年9月9日の封地場与状(12人に賜与している12通から成る)は、マトフェイ‑メシチェルスキー杖 への賜与について「ドゥベンスキー(家)のオルフェルコとイワンコ、耕地2.5チェーチ、関田 (nepejior)17.5チェーチ、・‑計20チェ‑チ、一軍60aJ(Korma)‑2オブジャー」のように記 載し、さらにこの部落ドゥボコの近くの漁場(toh只)についても「古い土地台帳によれば」と して記載している̀23)0<≪oTAejibHanKHHra≫は、封地の腸与を本来の目的とし、これに伴って 農民も飯主に隷属するのであるが、きわめて稀なケ‑スではあるが、農民そのものが勅命によっ て領主に与えられていることもある。すなわち、1600年2月14日の賜与状がそれで、領主ボリス
‑エラーギンと3人の改宗したタタールに農民が与えられている(24)それらの農民をェラ‑ギ ンらは以前から自分の所領で「所有していた」(BJiaノWJl)もので、エラーギンの農民についてい えば、文書には「ポリス‑エラーギンにかれボリスの古い農民を賜与せり」と述べられ、オブイ スクで現地住民が「エラーギンはこれまで16年間それらの農民を所有していた」と陳述したこと も書きそえられている。封地賜与状が、その土地に住む農民の領主‑の服従を特に指示している こともある。例えば、1569年4月6日の賜与状は、フョードル‑ゴロヴィンに封地として4つの 部落を与えているが、そこに住む農民は1人で、2戸は空家なることを記した上で、「それらの 部落にフヨ‑ドルのもとに〔今後〕住む農民は、フョードルおよびかれの所領管理人に服従し、
かれの耕地を耕やしオブロークを納むべし」と述べている(25)。この服従を中心にした文書もの こっている(26)。
ところで、上のフョードルへの封地賜与状には、それらの部落がもとプーシキン家兄弟の封地 であったことが記され、かれらが皇帝に願い出て「分離と遠隔の故に自分の封地を拒否した」
(cBoe noMecTbe.zyia po3Hi… AaJieKa OTKa3a;iH)とある。ここでは、 ≪OTKa3ajiH≫は「拒否 した」で意味が通ずるが、全く別の意味で同じ語が使われていることがある。それが、 1649年法 典にも農民緊縛の根拠とされている≪OTKa3HaH KHHra≫である(27)。サモクワソフはこの文書 について≪OT^eJibHa月≫とほぼ同じ意味に解し(28)、 npn第7巻では所債確認書の意味にとって いるく29'。この種の文書のテクストを読むと、例えば、 1595年2月2日のそれでは、ヤコフ=フ ィンキンなる者の訴願によって、皇帝がかれに「封地としてOTKa3aTbする」ことを現地の軍 令に命じている̀20)。これで考えると、 <OTKa3Hafl KHHra≫は封地賜与帳と同じようであるが、
1666年5月6日の文書(自らを≪OTKa3Haa KHHra≫と呼んでいる)では、ナウム‑マリエンコ フなる士族が自分の孫に封地を≪oTIくa3aji≫したことを伝えている(31)。この場合には、皇帝が 封地を腸与したのではなくて、皇帝の命による封地の譲与である。スレズネフスキーによれば、
≪OTKa3aTb≫には「指示する」意味もある(32)。上のヤコフエフインキンの場合も、封地として
「指示する」 「譲与する」の意味にとり得る。何れの場合でも「台帳に記載する」ことを命じてい る。く≪oTAcnbHa只KHHra≫が封地の「賜与」のために作成されたとすれば、 ≪OTKa3Haa KHHra>
は、すでに賜与されている封地を一族の者または他人に「譲渡」するとき作成された、と見なし てよいであろう。グレコフの「ロシア農民」の独訳者が、 ≪oTIくa3Ha只KHHra≫をHUbergebungs‑
buch"と訳出しているのは、妥当であろう(33)。
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以上の考察を要約してむすびにかえたい。 「101年の台帳」には各種の土地記載文書が含まれる が、それが「101年」を特に指さしているのは、この年、つまり1592‑93年に土地台帳作成がい っせいに実施されたからではない。また、この年に前からの台帳作成が完了したからでもない。
といって、この年の法令発布(かりに発布されたとしても)に結びつけるのも不自然で、 1597年 法令から5年前、 1607年法令から15年前、ということで、 「101年」を示したにすぎない、と思わ れる。というのは、全国にわたる土地台帳(狭義)は、長い年月をその作成に要し、しかも作成 後でも不断の修正を、特に検地帳によって受けていたからである。検地帳は土地台帳にひとしい 内容と効力をもっていた。なかんずく、 16世紀70年代以降の荒廃が度重なる検地の動機となった。
1649年法典で農民緊縛の法的根拠にあげられている「封地賜与帳」 「封地譲与状」もまた、土地 記載をもっており、これによっても以前の土地台帳や検地帳が修正されたのである。
土地記載文書については、 16世紀のみならず、 17世紀についても考究さるべき問題が多い。そ の刊行されたものについての批判、あるいは史料としての信悪性への批判は、革命前からあった が、最近のソビエト学界では、いっそう盛んになってきているtl)。これについては、別の機会に ゆずりたい。
まえが書の注
(1)拙稿「15世紀ロシアにおける農民移転をめぐる諸問題」 (『史学雑誌』 82の12、 1973年)、 「1649年法典と 逃亡農民」 (『史学雑誌』 86の1 、 1977年)、同「17世紀ロシア逃亡農民の社会経済史」(『奈良教育大学紀 要、人文・社会科学』 25の1 、 1976年)、間「1550年法典第88条と16世紀後半ロシアの農民移転」 (『奈